第5巻 第1章 平和な日常と新たな住民⑴
微細な星片が雪のように舞い、苔むした石や水面へと静かに沈んでゆく。結界に覆われた死の森の天蓋は、夜の細工師が磨き上げたように滑らかだ。アレスの箱庭は、死の森という名とは裏腹に、完璧な秩序を保ちつづけていた。枝の曲線は等角にたわみ、樹皮のひび割れは数列に沿って並び、風の通り道ですら、計測可能な美の規則に従っている。
ただひとつ、従わぬものがあった。紫黒に滲む毒の痕だ。
それは、戦いが終わったのちにも残滓として箱庭の奥、星花が群れて咲く窪地に溜まっていた。つい先ほど、四天王の一角「猛毒のゲルド」は討ち果たされた。エララが喉奥で咆哮を縫い、翼に紅の火帯を巻いて突き破った最後の突進は、確かにやつの体腔を焼き、肋骨ごと粉砕し、毒の主の命を摘み取った。だが、ゲルドは死に際にささやかな仕事を残した。呪毒の胞子が爆ぜ、空気の層に潜り込み、触れたものの血を通して、体の内側から世界を汚す。
エララは、その毒に触れた。彼女の銀の鱗が、いまは人の姿に収められているけれど、喉元、鎖骨にかけて浮かぶ月虹のような輝きは黒ずみ、皮膚の下で細い黒い蔓が網のように広がっていた。吐息すらわずかに甘く腐った香を含み、ドラゴンの強靭な肉体が、毒に絡め取られるような鈍い重さで呼吸する。
「近寄るな」
彼女の声は低く、潰えた薔薇の棘のように鋭く刺さる。すでに何人もの結界師の徒弟たちが、彼女とアレスに歩み寄ろうとしては、エララのむき出しの殺気と吐息に宿る毒気に押し返されていた。彼女の背後には、半ば燃え尽きた翼の影。膝の下で折り曲がった尾の名残。わずかな仕草ひとつに、獰猛な愛が露骨に滲む。
「彼に触れるのは、わたしだけ」
鋭い視線が周囲を払う。闇の向こう、樹々の間には白い蛾のようなものがひらひらと舞った。幻影のシオンが残した観測用の幻体だ。薄膜の鏡に映し込まれた偽の目が、こちらを覗いている。エララは唇の端を持ち上げ、牙を少しだけ覗かせた。吐息にのせた火花が、幻体の周囲の空気を歪ませ、白い蛾は無声のうちに破裂して霧になった。
カシ、と小枝の折れる音。甕のような胸郭から短い嘆息が漏れた。アレスだ。彼は星に濡れる石の縁に片膝をついている。指先を水に浸し、表面の紋様のズレを見ている。星片が連続する光の線を描いて流れる。その流れが、不自然にねじれている箇所があった。
毒だ、と彼は思った。だが、その思考は言葉になる前に、形だけの輪郭で消える。いつもなら、この程度の乱れなど瞬時に修正できる。そう、いつもなら——いつも?
頭の奥で、白い空白がひとひら、雪みたいに落ちた。彼はこめかみを指で押さえ、掴み損ねた何かを追いかけるように目を細める。
眼前には、ひとりの女が倒れている。銀白の髪、熱に潤んだ眼、唇の端に滲む赤。肌に走る黒の蔦が、不恰好で、彼の箱庭の秩序から外れた線を描いていてたまらなく目障りだ。
「なぜ、だ……」
彼は呟いた。両手はいつのまにか動き始めだ。石の上に敷き直された苔のラインに沿って、小さな星片を集め、結界の骨格を改めて築いてゆく。水面には幾何学の模様が柔らかく浮かび上がり、光が糸になって、彼の指の間で束ねられる。
「なぜ俺は、この女を助けたいと思うのか」
問いは自分に向けられたものなのに、他人の口から聞いたような感覚があった。記憶のふちが滑る。彼女の名が舌の上から零れ落ちる。代わりに残るのは、彼女の輪郭、色彩、声の手触り。熱を持った視線。自分の名前を呼ぶときの音の高さ。夜明けの霧の匂い。細部ばかりが鮮明で、肝心の中心が空いている。
だが身体は、迷いを知らないかのように正確だった。彼は左手を彼女の喉にかざし、右手は土に触れた。指の腹で、土の中の鉱物の方位を読み取る。そこに余計な鉄の匂い。毒の重さ。その重さに対抗するため、彼は星の軽さを織り込む。
「動くな、触れるなって言っているのに」
エララが、囁きと唸りの間の声を出した。近づこうとした徒弟たちがまた退く。彼女は目を伏せてアレスだけを見た。指先が震えて、その震えすら彼女自身の怒りと執着に馴染んでいる。
「アレス——」
その名を呼ぶ。彼は顔を上げた。胸で何かが反応する。名前に紐づくはずの顔が、自分の中で二重にぶれている。自分自身の輪郭が、揺らぐ。なぜだ、なぜこんなに簡単なことが思い出せない。自分の名。目の前の女の名。彼女のやわらかさ、硬さ、熱。すべて覚えている。なのに。
星片が指の間から溢れ、彼の足元でまるで砂時計の砂のように積もった。彼は掌を返してその砂を空へと投げる。砂は空中で一瞬止まり、極小の星の篩へと変わる。篩は目に見えなぬほど微細に震え、空気の層をふるいにかける。毒の粒子は重い旋律のように沈み、星の軽やかさは上へと逃げる。
彼の結界は、彼が命じぬうちに動いのだ。箱庭の奥から、封じられた井戸の水が自動でこぼれ出し、渦となって毒を巻き取る。樹々の葉はわずかに角度を変え、毒の霧の流れを逸らして、指定された溝へと導いた。光苔がひかり、毒素と触れて緑から青へと色を変え、その色の変化が新たな結界の矢印となって機能する。
無意識に、結界が彼を——そして彼女を守っている。彼はそのことを自覚していない。自覚せずにいるほど、結界は彼の骨と血に馴染んでいた。
「美しくない」
彼は、毒の走る線を見てそう言った。言葉は独り言だったのに、エララの肩がぴくりと動いた。彼が美に関して口にする言葉は、ときにどんな脅しよりも強い力を持つ。彼の世界では、美と正しさは一致する。醜いということは、間違っているということ。間違っているものは、排される。
星の篩の下で、毒の粒は振るわれるたびに鈍く光った。ゲルドの遺言のような呪毒は、生物の中の高温に引き寄せられる性質を持っる。体温、脈、呼吸、それらが毒の道を拓いてしまう。エララはその最適な標的だ。彼女は火の竜。血は熱い。心臓は強く、絶えず高みに燃えている。そのままでは、毒に身体の中心から焼かれてしまう。
アレスは彼女の手首をそっと持ち上げた。鱗と皮膚の境の柔らかな場所。そこに指を押し当てる。目に見えない扉が開く感覚。彼の指先から、星の微粒がにじみ出る。青白い雫になって滴り、黒い蔓のなかへ滲む。
「離れろ」
エララの声が掠れる。だが、もう彼女は彼を拒めない。彼が触れるたび、痛みは引いていく。背骨に沿って走っていた熱が和らぎ、胸のうねりがゆっくり静かになる。彼女は息を呑み、伏せた睫毛の陰から彼を見た。薄い涙の膜が光を散らす。
「他の誰でもない、あなたに触れられるなら——」
言いかけて、言葉が喉でからまる。彼女は自分の嫉妬を、愛を、所有の衝動を隠そうとしない。むしろ誇示する。彼に近寄ってきた徒弟のひとりが、恐る恐る声をかける。
「殿下、解毒の儀を補助いたします。我らの方が手順は——」
「黙れ」
エララは首をわずかに振っただけなのに、その一語に込められた温度が周囲の空気を冷やす。徒弟は顔色を変え、足をすくませる。アレスは彼女の横顔を、なぜだか懐かしい彫刻を見るように見つめた。怒りの線も、涙の光も、彼の美の規範のなかに収まり、彼の内側を満たす。彼にはそれが何よりも重要なのだ。彼の箱庭は、彼女のために調えられるのではない。けれど——彼女がそこにいることは、結界の内側の均衡に奥行きを与える。彼女がいない彼の世界は、正しいのに、ひどく薄っぺらだ。
その認識だけは、忘れていない。
結界の骨組みが完成する。星の篩の下にもうひとつ、小さな回廊のような障壁が重ねられた。対毒同調の逆相。ゲルドが用いた毒の波形を、彼の設計された空間から拾い上げ、逆相の波で打ち消していく。アレスは指先を軽く弾く。水面の模様に微細な泡が立ち、それが彼と彼女の間をゆっくり往復する。泡は彼女の肌に触れるたび、小さな音もなく弾け、毒の黒い蔓がすこしずつ色を薄めていく。
「痛くない?」
「……気持ちいいくらい。あなたの指、熱くも冷たくもなくて……ずるい」
エララは言うと、喉の奥で小さく笑った。その笑い方を、アレスは、好きだと感じる。感じるのに、その理由が思い出せない。彼女との夜。火照った体の重なり。彼女が髪を解く仕草。その全部が、まるで遠い絵のなかの出来事のように霞んでいる。
「シオンの幻影が、また覗いている」
彼はふと呟いた。視線の端で、木立のあいだから覗く白い蛾の羽音がした。封じは即座に反応して、蛾が近づく軌道に合わせて草の穂先の角度を変え、風の流れをねじる。蛾は姿勢を崩し、エララの吐息が届く圏内へと滑り込んで、そのまま灰になった。
「幻影に、あなたの記憶を触らせない」
エララの声は甘やかに響く。しかしその甘さの底には、刃が落ちている。「あなたの世界は、あなたとわたしで満たされるべき。余計なものは、消す」
ヤンデレの検閲。アレスは、その言葉の意味をぼんやりと理解し、しかし実感の手触りを掴み損ねた。記憶の森に、白い空白がまたひとひら、落ちた。
彼の名は、アレス。そのことは揺るがない。だが、彼がいつこのこの庭を完成させたか、どの星片をどこから拾ってきたか、彼の手は覚えているのに、頭は知らない。目を閉じれば、星々の位置と、風の角度と、水の手触りは逆算できる。それなのに、最初の一滴の音が思い出せない。
毒の色は薄れ、蔓の線は解けていった。エララの皮膚は、本来の熱とつやを取り戻しつつある。彼女の指が、彼の手首に覚束なく絡む。爪の先が彼の皮膚に軽く食い込み、彼女は彼を逃がさぬように結び留める。彼が離れようとしないことはわかっているのに、彼女はいつも、彼を縛りたい。彼が離れる可能性を現実から削ぎ落として、あり得る世界の枝を、刈り込んでしまいたいのだ。
「ねえ、アレス。この毒、あなたのおかげで消えていく。でも、ゲルドの残したものは、毒だけじゃない。呪いは、噛みつく。忘れさせる」
「忘れさせる?」
彼は聞き返す。己の舌からこぼれる音が遠く聞こえる。
「戦場で見た。あの男の毒、飲み込んだ兵士は、名前も、帰る道も、最初に食べたパンの味も、全部、溶けてなくなっていった。毒が身体に食いついたところから、内側の文字を舐め取っていくように」
エララは自分の胸に手を当てる。爪が肌に白い跡を残す。
「わたしは竜だから、簡単には喰われない。でも——あなたは?」
アレスは、笑おうとして、笑い方を忘れていたことに気づいた。口角がぎこちなく引き上がり、その不格好さに自分で驚く。星の篩は淡く震え、彼の心臓の鼓動に合わせて光の強さを変える。障壁が彼の内側を覗き込んでいる。彼自身の忘却に、結界が指を当てている。
「俺は、大丈夫だ」
そう言った。言葉は、星のように冷たく美しく、しかし空虚だった。エララは眦を下げ、彼の頬に手を伸ばす。彼女の手のひらは熱い。毒が引き始めて、いつもの竜の熱が戻ってくる。
「大丈夫じゃなくても、わたしが大丈夫にする。あなたの中の余計なもの、あなたを痛くするもの、あなたを私から遠ざけるものは、全部、わたしが噛み砕いて飲み込む。吐き出す隙も与えない」
彼女の声は、誓いのようでもあり、脅しのようでもあった。彼は、頷いた。頷いた理由は——彼女の言葉が、領域の均衡と妙に調和したからだ。彼の世界は、余計なものを排し、必要なものだけを残す。美にそぐわぬ線は、削り落とされる。彼女の言う「検閲」は、彼の美学に似ている。だから、彼は彼女を拒めない。拒む理由を、今は思い出せない。
低い響きが地の底から上がってきた。遠く、死の森の南縁で、太鼓の音。武闘のバルガスの軍勢が動いているのだ。地面の振動を、彼の光幕は嫌う。波紋が乱れる。彼は眉間に指を当て、目を閉じた。幻影のシオンの視線はすでに退けた。猛毒のゲルドは、毒を残して死んだ。残るは二人。だが、彼はそこに恐怖を感じるより先に、煩わしさを感じる。音は音で美しい。しかしリズムが乱れている。聖域の拍子を狂わせる音は、許せない。
「アレス、聞いて。バルガスは力で押してくる。でもわたしがいる。あなたは、あなたの美しい世界を守って。わたしは、あなたがわたしのものだって、世界に証明してみせる」
「……それは、どういう——」
「言葉通り。彼女は自分の髪を掻き上げ、耳元にかかった銀の房をさらりと振る。「あなたの結界の中心は、ここ。わたしの心臓と重なるの。だから、あなたが戸惑っても、あなたの障壁はわたしを守る。いま、そうしてる」
アレスは自分の手を見た。星の砂が消える。泡が静まり、彼女の喉にかざした手のひらに温かい血流が感じられる。毒の蔓は、完全に色を失って白い筋だけになり、その白すら徐々に肌色に溶けていく。彼は仕事を終えた。終えたのに、胸のなかの空白は埋まらない。
「……なぜ俺は、この女を助けたいと思うのか」
再び口から零れた問いは、もう嘆きではなかった。確認だった。彼が思考の階段を一段一段降りていき、最後に見つけた小さな丸石を、指で回しているような感覚。丸石は、光を反射する。彼女の眼の色と同じ光。彼は丸石を、捨てられない。
「忘れそうになっているの?」
エララが問う。彼女は優しくない。けれど、彼の欠落の周囲に、刺の輪を編んで囲もうとする。誰もここに触れさせないように。
「わからない。戦いのことは覚えている。毒の波形も。ゲルドの顎の形も、シオンの幻の薄さも。なのに、俺は——」
「わたしの名前、言って」
唐突に彼女が言った。彼は口を開いた。喉の奥が乾く。唇が、ある音形を作ろうとして、震えた。エ——うまく出ない。星の位置の計算はできるのに。この簡単な音の並びが、なぜ。
エララは、短く息を呑み、それから笑った。笑いは柔らかいが、目は笑っていない。彼に寄り、彼の耳元に唇を寄せる。
「いい。覚えられないなら、また覚えさせてあげる。何度でも。わたしの名はエララ。あなたが拾った星の、最初の名前。あなたが最初に好きだと言った曲線。あなたがあなたでいられるように、わたしが教える」
彼は目を閉じた。エララ。口のなかで転がす。音は、ぴたりと彼の舌に収まった。幾度も繰り返す。エララ。エララ。エララ。繰り返すたび、防壁の光彩がひとつずつ灯るように、彼の中の空白が青く満たされる。
「エララ」
「そう。よくできました」
彼女は嬉しそうに笑い、その笑いを、アレスはまた好きだと感じる。彼が彼を少し取り戻す。だが、ゲルドの呪いは、完全に去ったわけではない。彼の足元、苔の間に黒い点がひとつ残って、ゆっくり地の底へと沈んでいく。障壁はそれを追い、網目を細かくして、深層からも毒の根を引き抜こうとする。
夜の深みから、風がひとつ吹いた。スターリリーの花弁が揺れ、星片がふわりと舞い上がる。構築された空間は整い、透明な静けさが戻る。徒弟たちは、遠巻きに息を詰めて見ていた。彼らの胸にある羨望と畏れと、ほんの少しの恐怖。エララが彼らに視線を投げると、彼らは一斉に目を逸らした。
「助かった」
アレスは、ようやくそれだけを言った。自分の言葉が、彼女の胸のなかでどんな響きを持つかはわからない。ただ、言うべきだと思った。ありがとう、ではない。助かった。彼は彼女を助け、彼女に助けられた。
「助けられたのは、わたしの方」
エララは即座に首を振る。熱の波が髪を揺らす。彼女は彼の膝に体を寄せる。彼女の手が彼の腰に回り、指が服の布を掴む。爪の先が布地を裂きそうになるのを、彼女はぎりぎりで止める。彼の体を傷つけることは、彼女の美学に反する。彼女の暴力は、彼女以外のすべてに向けられるべき。
「アレス、彼らを帰して」
低く甘い声。彼女が顎で徒弟の方を示す。彼らの息遣いが揺れる気配がある。
「でも、封じの維持には——」
「帰して。いらない」
彼女の言葉はきっぱりしている。アレスは彼女を見た。彼の障壁は彼女の意志を媒介にして、微妙に曲がることを知っている。この彼の領域の中心に、彼女がいる限り。彼は一瞬迷った。必要ないものは、削ぎ落とす。それは彼の原則でもある。だが、人は道具ではない——その発想が、彼の中に淡い線として現れ、すぐに消えた。
「今夜は、下がってくれ」
アレスは徒弟たちに言った。彼らは一様に頭を垂れ、木立の間へと消えていく。その背に、幻影のシオンが残した気配がうっすらと尾を引く。注意しすぎるべきだ。彼はそう思う。思うのに、どこかで逸れていく。バルガスの太鼓が、またひとつ鳴る。遠い。遠いのに、耳障りなほど大きい。
静けさが落ちた。エララは彼の肩に額を預ける。彼は無意識に彼女の後頭部に手を置く。彼女の髪の感触を、彼の指は正確に記憶している。火をはらんだ絹。指を通す角度と圧の加減。彼女がとろりとした鳴き声を喉の奥で転がす。
「あなた、少しずつ忘れている。わたしの目は、世界を読み取る目。毒の筋が、あなたの中に入り込んでいるのが見える。ほんの少し。まだ、細い。けれど、賢い蛇のように頭がいい」
「見える?」
「ええ。だから、わたしは蛇の頭を潰す」
言葉の終わりに、彼女の指が彼の胸骨の下を軽く叩いた。ここ。彼女は示す。アレスは自分の胸に触れる。鼓動。鼓動のひとつひとつに、星の光が反応する。彼の障壁が、内側の音に同調している。彼は息を整え、意識を深いところへと沈める。そこには、無数の糸がある。彼の結界内と、彼の身体と、彼の記憶とを繋いでいる糸。いくつかは強く、いくつかは弱い。いくつかは、すでに細っている。
彼は、細っている糸の一本を摘んだ。手触りが、冷たい。毒。彼は指先で、糸に沿って光幕を流す。星の砂が、また指先から零れ、糸の上を滑って、その冷たさを剥がしていく。エララが自分の爪先で、別の端を押さえる。二人で一本の糸を支える。それは、奇妙に親密な作業だった。呼吸を合わせ、力の入れ方を合わせる。手を離すタイミングも、目で合図して決める。
「ほらね。わたしたち、相性がいい」
「そうだな」
答えるとき、彼はどこか恥ずかしかった。この恥ずかしさは、古い。彼はこの感情だけは、なぜだか鮮明に覚えている。最初に彼女に触れた夜の、火と星が混じった匂い。彼女が笑うときの、牙が頬の内側に当たって生む微かな引っかき音。彼女の呼吸が彼ののど仏に当たったときの、熱の伝わり方。記憶は、形を変えながら彼の内側を流れている。
やがて、毒の糸は細って見えなくなった。彼は大きく息を吐いた。吐いた息が白い霧を作る。星片が、混じってひとすじの光の煙になった。封じは満ち、この空間は揺るぎない静けさで包まれる。エララが彼の胸に顔を押し当てる。そのまま長い時間、ふたりは動かなかった。
遠くの太鼓が、また鳴る。武闘のバルガスが一歩近い。幻影のシオンは、きっと別の白い蛾をどこかに飛ばしている。だが、この瞬間、彼らは二人だった。星の降る彼の庭の中心で、世界がふたりだけであるかのように濃く、閉じている。
「アレス」
「なんだ」
「わたしがいないとき、誰もあなたの名前を呼ばせないで」
「……どういう意味だ」
「意味そのまま。あなたの記憶の隙間に、他人の声を入れたくない。あなたの空白は、わたしで埋める」
彼女の言葉は、彼の光幕に、見えない境界を増やした。柵。柵が増え、外の音は遠のき、内側の音は濃くなる。彼は、その圧を心地よいと感じる。危うい。けれど、心地よい。彼の美は、こういう圧で出来ている。外界から形を守る、強さと硬さ。
「わかった」
彼は答えた。エララは満足するように、目を眇めた。
「あなたがわたしを助ける理由、教えてあげようか」
「教えてくれ」
「わたしがあなたの閉ざされた世界の色だから。あなたが空を磨けば、わたしは星を降らせる。あなたが水を敷けば、わたしはその上を渡る。あなたが石を置けば、わたしは座る。あなたの世界は、わたしがいると完成する。あなたはそれを知ってる。だから体が、先に動く」
詩のような言葉。彼女は嘘をついているのかもしれない。だが、彼の身体は、その言葉に頷いた。指先の温度が、心臓の拍動と合致する。彼は、彼女の頬に手を当てた。彼女は目を閉じる。睫毛が微かに震える。
「今度、バルガスが来たら、わたしが前に出る。あなたはわたしの背中に、星の道を敷いて」
「ああ」
「シオンは——彼女はあなたの記憶を盗みたがる。幻で触れて、形を変える。彼女にも、検閲を」
「する」
「やさしい検閲じゃ、足りない」
「なら、厳しく」
「いい子」
彼女は笑う。夜はさらに、星はなおも降る。秩序の空間の水面は、毒の残滓をもう映さない。代わりに、星だけを映している。アレスは、水面に映る自分の顔を見た。見覚えのある顔。だが、何かが抜け落ちている。頬骨の角度か、額の皺か、目尻の影か。彼はわからない。わからないまま、顔を撫でた。
「俺は……」
言いかけて、やめた。言葉はまだ、形にならない。彼は起き上がり、彼女に手を差し伸べる。エララはその手を取り、立ち上がる。体を支える彼の手は、確かだ。確かさが、彼のなかの消えていく文字に対する唯一の反抗であるかのように。
「寝よう」
エララが言う。彼は頷く。彼の結界の奥、彼らのためだけに整えられた小さな庵に向かって歩く。足元の苔は柔らかく、露は星の香りがする。木々の間には、誰もいない。誰も入れない。エララの検閲は完璧だ。彼の障壁は、その検閲を美に整えている。
今夜もまた、彼は夢を見るだろう。星がふるいのように降り、彼のこの領域の隅々にまで光が入り込む夢。彼女の髪が流れ、彼女の牙が頬に触れ、彼が名前を何度でもやり直し言う夢。その夢のなかで、彼はたぶん、問い続ける。
「なぜ俺は、この女を助けたいと思うのか」
答えは、夢の中でかすかに見える。彼女が笑っている。手を伸ばすと、指の間から星の砂が零れる。彼は砂の手触りを誇らしく思う。現の朝が来て、記憶がひとつ抜け落ちても、彼の指はまだ動く。無意識に、障壁で彼女を守る。忘却の兆しは、確かにある。だが、いまはそれでよい。いまは、彼女の熱と、星の光だけが確かだ。
庵の戸が音もなく閉じる。封じがわずかに厚みを増し、外界の音は完全に消える。彼と彼女の世界が、またひとつ深くなる。外で、太鼓が最後にひとつ、低く鳴る。その音は、星の庭の縁で割れて消える。星だけが、降り続ける。彼の世界に、音もなく。彼は目を閉じた。彼女は彼の胸に顔を埋める。彼は彼女の髪に指を通し、そのまま眠りに滑り込む。
忘却は、波のように寄せては返す。だが、彼の無意識は、礁のようにそこにある。星の砂が積もるように、彼女の名が、その礁の上に薄く、しかし確かに残っていく。エララ。エララ。エララ。彼が眠りの底で繰り返すたび、彼の聖域の光は、もう一段、深くなる。




