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第4巻 第5章 独立宣言(5)

紫黒の飛沫がじゅうと鳴り、腐葉土が泡立つ。鼻腔を刺す酸の匂い。湿った風に紛れて、金属を舐めたような苦い味が舌に残る。踏み荒らされた林床の模様が、染みのように歪む。


「よい顔だ、竜姫」


 裂けた口の端が持ち上がる。ゲルドの甲殻は毒膿を内側から押し上げ、隙間から紫黒の蒸気が細く噴く。濃い霧が足もとから這い、落ち葉はどろりと溶け、露出した根が黒に変わって崩れた。


「怒りと恐怖が混じった顔は、よい。毒は肉だけでなく、心にも回る」


 エララは一歩、彼の足の向きを見て小さく首を振る。足裏で土を感じ、肌にまとわりつく霧の温度を測る。視界の端で、手入れされた苔が紫に沈むのがわかる。


「そこ、踏まないで。……そこは、彼が並べた苔の列」


 微笑んだ。唇だけが上がり、瞳は冷たい。彼女の背で、半透明の翼がひときわ静かに開く。空気が凍みるように澄み、音が一拍遅れる。


「虫けらが、庭の縁を汚すな」


「黙れ」


 ゲルドの足がさらに進む。エララは低く言い切り、喉の奥で熱が唸る。だがそれは火の熱ではない。乾いた光が、胸の奥で脈打つのを自覚する。


「来い」


 地を蹴った瞬間、彼女の姿が掻き消えた。人の形のまま、脚に深紅の鱗が走り、翼が現象と現象の間でたわむ。右拳に圧縮した光を纏い、ゲルドの胸へ突き出す。


「遅い!」


 ゲルドは巨体をひねって外す。そのまま左の爪が横に払われ、軌跡に沿って紫の尾が引かれた。風そのものが腐る音。エララは翼を打って後方へ跳ぶ。薄い霧が左肩に触れ、皮膚の下で、何かが滑り込んだ。


「っ……」


 焼けるのではない。柔らかなところから色が抜け落ちていく感覚。鱗の境目に紫が滲み、そこから冷たい痺れが神経の奥へと入る。視界が、紫の縁取りを帯びた。


「よく効く」


 ゲルドが笑う。


「竜の鱗でも、時間をかければ崩れる。二百年前、谷を埋めた瘴気も同じ色だったか?」


 景色が別の景色に重なる。


 白銀の鱗が紫に染まっていく。幼い体が背で震え、心臓の鼓動が弱くなる。霧の向こうに、落ちていく小さな影。


『この子は私が守る。必ず空を見せる』


 あの日、誓った。毒沼の瘴気が谷に充満し、炎で焼こうとして爆ぜた。リーシェの体は滑り落ち、指の先で空を掴む。間に合わない。喉の奥で、呼ぶ声が切れた。


『……ねえ、さま』


 最後の一音が、いつもより遠くから戻ってくる。


「どうした、竜姫。怯んだか?」


 嘲りの声が近い。エララは息を一つ、短く吐いた。口角は上がったまま、瞳から温度が消える。


「それ以上」


「ん?」


「今の言葉。そこで止めるの」


 地面の色が彼女の足元から変わりはじめた。湿りと腐臭に満ちた土に、乾いた土の香りが混じる。光が集まり、彼女の頬に当たる角度がわずかに変わる。白が強くなる。


「ブレスを、炎だけだと思っているの?」


 ゲルドの笑みが、わずかに強張った。


「熱に頼らない息吹もあるの」


 エララは喉の奥で光を圧縮する。噛むように言葉を閉じ、次の瞬間、白銀の奔流を吐いた。熱の波ではない。音がなく、ただまっすぐに紫を切り裂く。触れた場所から色そのものが剝がれ落ち、紫は輪郭ごと消える。


「な……!」


 ゲルドは左腕を前に突き出し、毒液を膜に変えて盾を張る。白銀はそれを容易く貫いた。一瞬の抵抗。その次の瞬間、肘から先が、輪郭を残さず消える。


「ぐおおおおお!」


 濃い毒が断面から噴く。霧が槍に、刃に、雨のように密度を増してエララに押し寄せる。


「来なさい」


 エララは退かない。左肩の痺れを、呼吸のリズムで押し返す。白銀を纏った右掌で毒槍を掴み、握りつぶす。焼かない。消す。


「私は、もう二度と」


 一歩。


「言い訳をしない」


 さらに一歩。足裏に伝わる感触が変わる。ぐずりと沈んだ泥が、踏み返すたびに締まり、湿った冷たさの代わりに、日向に干した布のような乾いたあたたかさが戻る。周囲の葉脈に通う水音が、再び細く澄む。


「馬鹿な……毒が……」


 ゲルドが後ずさる。紫の霧に濃淡が生まれ、空気の流れが風に戻る。


「消えているのは毒だけじゃない」


 エララの声は静かだ。


「ここに触れた穢れを、残さない」


 背の翼が大きく開く。深紅の線が銀の中で脈打ち、人型の輪郭が竜の相に寄っていく。喉に集めた最後の奔流が、音のない震えを生む。


 リーシェの瞳。落ちていく最後の一瞬。指先の冷たさ。あの谷風の匂い。


 そして、今ここにあるひとりの男。彼が並べた苔、角度まで考えられた石の配列、朝露が落ちる場所。触れた瞬間に手触りでわかる、彼の気配。


「もう、触らせない」


 第二射。白が扇状に広がる。ゲルドの産んだ紫が、音を失ってほどけていく。四天王は残る腕を振りかぶり、全身の毒を盾に変えようとする。遅い。


「やめろ、やめろォ! 我は四天王――」


「だから?」


 白い線が巨体を縫い、胸の中心から紫の光が噴く。すぐに亀裂が全身に走る。肉の代わりに毒で満たされた体は、耐えられない。


「そんなはずは……我が毒は、万物を――」


「万物じゃない」


 エララの瞳に、揺れはない。


「私が守ると決めたものには、届かない」


 言葉ののち、ゲルドは白銀の粒になって崩れた。紫が霧散し、腐臭が引いていく。風が、森の香りを運ぶ。


 なる。枝葉が擦れる小さな音だけが耳に入る。エララは片膝をつき、左肩に手を当てて息を整える。毒は自分の魔力で薄まり、皮膚の下でじりじりとした痛みが引いていく。視線の先で、黒く沈んだはずの地面に緑が戻る。葉の縁に小さな光が踊る。


「……リーシェ」


 名をひとつ、夜に置く。過去は消えない。消さない。内側でに棘のまま残す。


「今、ここは守れたの」


 誰に向けたともなく呟く。白銀の残滓が空気に混じり、肌に落ちる。冷たいのに、心は温かい。彼女は立ち上がる。ふらつきはない。


「エララ!」


 木立の向こうから、駆ける音。乾いた枝が二本ほど折れる軽い音で、足が止まる。アレスが現れる。額に汗、息は速い。だが視線は、まっすぐエララの肩へ落ちた。


「肩……」


「平気。ほら、もう色が戻ってきてる」


 エララは服の裂け目を指で押さえ、笑って見せる。指先に伝わる熱は自分のもの。紫の痺れは薄い。アレスの手が伸びる。触れる前に、彼は周囲の空気を一度吸い込んだ。


「臭いが変わった。酸が抜けつつある。……結界の縁も、波形が平常に戻りかけている。間に合ったか」


「間に合ったの。あなたの結界が守ってくれた。私も、守った」


 言いながら、エララは彼の指をそっと取る。温かい。脈が早い。


「来る途中、痕跡は見えた。木の皮の膨潤、腐食の筋、全部あいつの歩幅に一致してた。……四天王、ゲルド、か」


「ええ。あなたの庭に紫を撒いた、無粋なやつ」


 にっこりと笑う。声は穏やか。背では、薄い白い霧が一瞬だけ揺れた。


— — —


 エララは彼の掌をもう一度確かめる。指を絡め、体を寄せ、目を閉じる。月の光が二人の影を重ねる。風が、今夜は優しい。


 白銀の光の残り香が薄れた後も、森の空気は澄んでいる。ゲルドという災厄は風の中に散った。遠くで小さな虫の羽音。どこかで葉が一枚、遅れて落ちる。


「……リーシェ」


 エララはもう一度だけ、名を口にした。今度の声は、揺らがない。


「見てる?」


 応える声はない。ただ、彼女の肩に置かれたアレスの手が優しく強く、そこにある。


「行こうか」


「うん。帰ろう」


 二人は並んで歩き出す。苔の上を踏む音は小さく、土はその音をすぐに飲み込む。星の光が葉の隙間から斑に落ち、足もとを飾る。


「次は、何が来ると思う?」


「理詰めで来るか、感情で押してくるか。どちらにせよ、読みやすい方に倒す」


「どちらでもいい。あなたといる」


「ああ」


 エララは肩を寄せた。彼女の瞳には、強い光が宿る。二百年前の谷の色ではない光。今ここにある、確かなもの。


 愛する者の世界を守る。そのために、息を合わせ、歩幅を合わせる。森は、二人を祝福するみたいに、静かに息をした。

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