第5巻 第1章 平和な日常と新たな住民(3)
毒の霧が消えていく音は、風が草を撫でる音に似ている。
死の森は、アレスの結界の下で深く沈黙した。薄青のガラス膜が夜空にきめ細かな曲線を描き、星をひとつずつ嵌め込んでゆく。先ほどまで猛毒の奔流に汚されていたことが嘘のような、寸分の狂いもない庭園の天蓋。葉の表に残ったわずかな黒い染みさえも、透明な雫に変わって土へ還っていく。
ゲルドの残滓は、結界の粒子に砕かれ、黒い泡となって草葉の裏で弾けた。
アレスは白い手袋の指先で、結界の面に走る微細な歪みを探した。指先から透明な糸が伸びる。囲いこみ、示し、修正する。冷たい空気に、張り詰めた弦を弾いたような清冽な音が満ちた。
「……これで、戻った」
短く呟いた声音の背に、熱を帯びた視線が寄り添う。青黒い夜に溶ける銀の髪。蛇のように絡まる尾。竜姫エララが、肩越しに残光を眺めていた。
「お見事。あの厄介な毒まで、ぜんぶ飲み込んでしまうのね」
唇は赤く、瞳は獲物の未来を先取りするように輝いている。彼女の吐息が、アレスの首筋に甘い熱を落とした。
「ねえ、アレス。これほどきれいな夜なのに――こんな夜を踏み荒らしに来る者がいるの、わたし、許せるかしら?」
言葉の終わりで、エララはくすりと笑う。微笑みのまま、結界の縁に薄氷の文様がひとひら、咲いて消えた。
「……エララ」
名を呼びながら、アレスは奇妙な遅延を感じる。呼び慣れたはずの音が、口蓋の奥で一瞬だけ定まらない。何かを置き忘れた旅人のような心もとなさが胸を掠めて、彼は気づかないふりをしたのだ。
白砂の庭に視線を戻す。石灯籠の影が昼間と同じ角度に落ちるよう、月の位置をわずかに直す。砂上に描かれた波紋が、銀の光を吸って静かに息づいた。
エララが彼の手首に指を絡め、囁く。
「ねえ、疲れているでしょう? あなたの指先、いつもは弦を弾くように正確なのに、ほんの少し、震えているの」
「……震えている?」
問い返しながらアレスは、自分の掌を見た。確かに、極微の震えがある。しかし震えの所在は、霧のように掴みどころがなかった。
「気のせいだよ。毒気が体に残っているだけさ」
「毒なんて、もうないわ。あなたの夜には、落ちないし、落とさせない」
その言葉には、甘さと刃が絡みついている。エララは首を傾げ、香り立つ髪を彼の頬に触れさせた。夜の星が、髪に絡まり、捕らえられた鳥のように震える。彼女の存在は、強固な盾であり、同時に危うい刃でもあった。
結界の外、死の森の深部では、まだいくつかの木々が怯えたように枝を鳴らす。アレスはそれに遠く思いを馳せる。森に、安らぎの形を示すこと。それが自分の仕事であり、祈りであり、贖いだ。かつて守れなかったものへの償いが、今もこの手を動かしている。
しかし――遠く、もっと遠くで熱が動く音がする。土を踏み鳴らす音、鉄が擦れる音。ゲルドの消失が、夜の縁に裂け目を生み、波紋を走らせていた。
*
魔王城の最も高い塔。黒曜石の尖塔は、星光を拒み、雲の影さえ食らうように黒い。
最上階の窓辺に、幻影のシオンが腰掛けていた。輪郭に砂糖をまぶしたように甘く、視線を定めれば定めるほど指の間から零れ落ちる。床に転がるのは、割れた毒瓶ではなく、ゲルドの仮面の欠片だ。
「毒の道化は幕を引いたね」
シオンは欠片をつまみ上げ、目の下に当ててみせる。
「あれほど自信満々に毒を撒いておいて、結局、彼の庭に飲まれて終わり。ねえ、バルガス、笑える話だと思わない?」
背後で、重い椅子が軋んだ。
武闘のバルガスが、巨大な地図を睨みつけたまま、無骨な腕を組んでいる。苔むした岩を積み上げたような体躯。燃える煤のような髭。彼の周囲の空気は、いつでも少し乾く。
「笑ってはいない。あれは無機の秩序だ。笑いも怒りもしない。だが切っ先は無数にある。ゲルドは刺された、それだけだ」
「表現が粗いねえ。けれど、君らしい」
シオンは仮面の欠片を空中に弾き上げた。欠片は回転しながら影に飲まれて消える。
「で、どうする? 復讐を叫ぶだけなら猿でもできるけれど」
「次をする。陣形を組み直す。毒で見えた隙間を、斧で割る」
「斧で、というのは比喩よね?」
「比喩でも現実でもいい」
バルガスは地図から目を離さない。
「俺の拳は石塔を砕く。だがあの結界は岩じゃない、編み目だ。筋を知る必要がある」
「ならば、編み目を読むのはぼくの仕事だ」
シオンの指先から、半透明の蝶が生まれた。翅には砂時計の模様が揺れる。
「彼の世界は、星の降る庭園。整えたものをただの飾りだとは思わない男。飾りには意味がある。意味には――」
「弱点という言葉を軽々しく言うな」
「慎重だね、君は。よし、お望みなら言い換えよう。鍵穴。彼の鍵穴を探す」
窓の外が、黒い海のように波打つ。蝶は窓から外へ、外から更に外へと滑っていった。観賞されるために設計された結界ならば、幻はそこを滑れる。見ることが機能の柱であるなら、その柱に沿って忍び込めばいい。
「ゲルドの敗北で、奴らの士気は上がる。前に出る兵が増える」
バルガスが事実を置く。
「士気は甘い毒だよ。酔った頭に光を見せる」
シオンは肩を揺らして笑った。
「今度はぼくが舞台を整える。君には、その舞台で暴れてほしい」
「踊るのは嫌いだ。戦うのは好きだ」
「同じじゃない?」
「違う」
短いやり取りの間に、シオンの蝶は三度形を変えた。蝶、雪片、星の欠片。役割は、見られて初めて意味を持つ。
*
結界の内では、エララがアレスの背に頬を寄せ、夜の匂いを深く吸い込んでいた。
「あなたに触れる風は、ぜんぶ私の息だったらいいのに。あなたを照らす光は、ぜんぶ私の目だったらいいのに」
囁きの語尾に、舌先で触れるような甘さがある。
「ねえ、アレス。あなたの夜に、他人が立つ場所っているのかしら?」
「他人?」
また、だ。言葉の意味がわずかに遠のく。
アレスは首を振り、庭の灯籠を数えようとした。左右対称に置いたはずの灯火が、数としてだけ、一瞬合わない。左に七、右に七。合わせて十四。だが目は十三を示す。瞬きの間に数を忘れて、鼻の奥に冷たい痛みが走った。
「アレス?」
「ごめん、少し……」
額からこめかみへ、掌を滑らせる。視界の左端に薄い靄がかかった。靄の中、白い点がいくつも浮かび、そのうちのひとつが震えている。星だ。彼の星。天蓋に嵌めたはずの星のひとつが、定位置から半歩ずれていた。
「……いけない」
空に糸を投げる。糸は見えない梯子となって、座標に触れた。数値が、頭の中に、いつもより遅れて現れる。他人にではなく、自分の遅延に向けて、苛立ちが滲んだ。
「直して」
エララの声は、命令に似た甘さを持っている。アレスは頷き、修正した。星が滑り戻る。夜は再び、あるべき姿を取り戻した。
空の端が、柔らかな波紋を描き始めたのは、そのときだ。冷たい風にさらされた鈴のような音が、星の光に混じる。エララの瞳が細くなった。
「……誰?」
「風だろう」
「ううん」
エララは静かに首を振った。
「これは、視線の音」
光幕の外周で、かすかな翅音が響いた。白いものが、ふっと現れ、ふっと消える。蝶だ。だが、あまりに軽い。あまりに無臭だ。
アレスは口元に淡い笑みを浮かべた。
「ようこそ。君は、幻だね」
蝶が一瞬ためらい、翅の動きが遅くなる。次の瞬間、蝶の影が地面に落ちた。影の認識を許したということは、幻が自ら現実に寄ってきたということ。アレスは封じに糸を差し込み、表面に細い柱を一本だけ浮かせた。蝶はその柱に吸い寄せられる。
「……アレス」
エララの声が低くなった。半身を前に出し、爪を伸ばす。指先が金色に光った。
「待って」
アレスは手を上げて制したのだ。
「無害だよ、今は。向こう側は、無害じゃないけど」
「無害なものなんて、この世界にあるのかしら」
エララは小さく笑った。笑いながら、爪先で空をひとつ、撫でる。撫でた跡に、薄い霜が落ちて、すぐに消えた。
「あなたに視線を向けるもの、ぜんぶ、私の前を通ってからにしてほしいの」
アレスは答えず、空を見上げたのだ。
「――見てるかい、シオン」
返事は、すぐには来ない。だが、蝶がわずかに震え、翅の模様が砂時計から月へと一瞬だけ変わった。
「挨拶にしては、不躾ね」
エララの目が細く笑う。笑みは冷たい刃だ。蝶がそれを見て、さらに薄くなっている。
「ここはぼくの庭だ。ぼくの秩序に従ってもらう」
アレスが囁くと、蝶は首を垂れる仕草を見せた。
*
魔王城の塔で、シオンは頬杖をついて笑っていた。
「うん、彼はやはり、秩序を言葉にする子だ。ふふ、面白いね。秩序は反復、反復は記憶――そして記憶が、少し、ほどけている」
「見えたのか?」
「見えたというより、嗅いだ。記憶の香りが、薄くなる。彼は星の位置を一瞬、忘れた。数も。数えることは、彼にとって呼吸と同じはずなのに」
「それを突くと?」
「彼の庭は、彼の頭の中と地続きだ。ならば、穴は内部にある。外から殴れば反発する。中から撫でれば、解れる」
バルガスが鼻を鳴らす。
「薄気味悪い。だが、有効だろう。俺は外から殴る。奴に内外を同時に相手させる。拳は真正面から。幻は背中から。人は前を選ぶ。後ろを落とす」
「見事な連携だね。ほら、やっぱり君とぼくは踊れる」
「踊ってはいない」
*
光幕の内では、アレスが頭の中で星図を描き直していた。
「エララ」
「なに?」
「君は……」
言いかけて、言葉が抜け落ちた。彼女の名の次に置くべき単語が、舌の上で根を失う。質問だったか、感謝だったか、頼みだったか。眉を寄せ、すぐにそれを解いた。
「……いや、何でもない」
「ううん、あるでしょう?」
エララは首を傾げた。
「私の目は、あなたの中に空白を見たの。空白は、穴。穴は、私が塞ぐもの」
「塞げない穴もあるよ」
「あら」
彼女は微笑んだ。瞳の奥に、ほんのひと粒、紅が走る。
「それなら、そのぶん、世界のほうに穴を空けるだけ」
火花のように短く、危険な愛。
アレスは夜空を見上げた。幾千の星が、彼の鼓動に同期して微かに瞬く。今、その同期が、ほんの少し遅れる。遅れを取り戻そうと、彼は息を吸った。
光幕の縁で、幻の蝶が数を増やしていく。二、三、五、八。フィボナッチの数列を真似るように増え、増えるほど薄くなる。見てほしい形ではなく、気づいてほしい気配。
「幻は、心を舐めるわね」
エララが立ち上がった。指先から、微細な火花が散る。本気で爪を振れば、蝶たちは一度の軌跡で塵になる。
「待て」
アレスは再び制した。彼は蝶たちの配列を見ていた。並び、間隔、重なり。そこに意図がある。単なる偵察ではない、観測だ。観測させることで、彼の手癖を読む気だ。
「いいだろう。見るがいい」
白砂に指を滑らせる。砂紋が生まれ、紋に蝶を落とし、筋に沿って走らせた。蝶は喜ぶ――居場所を与えられた幻は、それだけで快楽を覚える。だが居場所を固定することは、捕縛だ。
*
塔の上で、シオンが舌を鳴らした。
「捕まえるつもり? 危ないね、きみ。危険を遊びに変えるなんて。けれど、その遊びは面白い。さあ、どこまで付き合ってくれる?」
バルガスが席を蹴って立ち上がる。
「俺は動く。夜明け前、三方向から圧をかける。囮は西。本命は南。北は見せるだけだ」
「君が庭の秩序を語る日が来るなんて。今夜の月は欠けているかもね」
「月は関係ない」
皮肉のない返答に、シオンは笑い転げた。
*
光幕の空気が、少しずつ重くなっていく。
エララの尾が、彼女の腰から胸へと強く巻き直された。彼女は彼を自分の心臓の近くに引き寄せる。音を聴かせるために。
「聞いて。私の鼓動。これ、覚えていてね」
「覚えるよ」
言葉はすぐに出た。その速さに、アレスはわずかに安堵する。だが、言葉の意味の輪郭は、少しずつ曇っていく。覚える、何を? 彼女の鼓動か、自分の名か、星の並びか。目を閉じ、鼓動に呼吸を合わせた。呼吸が合えば、指先は震えない。
「……来る。三つの方向から」
「見えるの?」
「考え方が見えた。幻と拳。押しと撫で」
「潰すわ」
エララの声は、飢えの匂いを帯びていた。
「待って。潰すのは最後。まずは、見抜く」
砂紋に指を走らせ、三本の波線を描く。西からの太い線。南からの細く鋭い線。北からのぼんやりした線。風がどこから抜けるか、光がどこに集まるか。彼の直感は風景の感覚に近い。直感が、腑に落ちる。
*
星が薄明に溶け、結界の縁が白み始める。鳥が囀ろうと喉を震わせ、それでも鳴けずにいた。鳴けば、防壁が音の位置を定めてしまう。それが怖いのだ。
「アレス。朝が来るわ」
「知っている」
立ち上がり、衣の裾を払う。白砂がさらさらと落ちた。ふと、足元の苔の色を見る。ほんの少し、青が深い。昨日は、もう少し浅かったはずだ。
「……苔の色が、違う」
「昨日と?」
「昨日を、確かめられない」
吐き出した言葉の重さに、彼は酔った。前触れもなく霧が立ち上がるとき、人は酔う。エララはすぐに彼の頬に手を当てた。冷たい掌が、熱を吸う。
「大丈夫。私が覚えているわ。苔も、石も、あなたの呼吸も。あなたが忘れても、私が、ぜんぶ覚えていてあげる」
囁く声は、母のように柔らかい。だが彼女は母ではない。竜だ。
「埋めすぎるなよ」
軽口のつもりだった。だが、言葉は針のように細くなって、彼女の指の隙間から滑り落ちた。エララはしばらく彼を凝視し、それから、ゆっくり微笑んだ。
「ふふ。考えておくわ」
微笑みの奥で、何かが、鍵をかけた音がした。
*
その朝、封じの北の空に、黒い線が一本引かれた。遠く、影の軍勢が行進する。だが、影はやがて薄れ、何も来ない。西では、太く重い足音のように大地がうねった。確かな重みがある。だが、進軍が遅い。南は静かだ。静かなのに、熱い。熱が空気を持ち上げ、星の粒に密度差を生む。
「南だ」
アレスは断じた。本命は南。西は囮。北は視線。
「焼く」
「焼くな。まだだ」
封じの脚部、見えない杭が地に深く打ち込まれた。土が鳴く。鳴き声は悲鳴ではなく、歓喜だ。戦の前に、土は躍る。
「バルガス。お前は真っ直ぐ来る。なら、真っ直ぐを曲げる」
独り言は、向こうには届かない。だが、伝えるためではなく、意思を定めるための言葉だ。
「真っ直ぐを砕くほうが簡単よ」
エララが口の端を上げる。
「砕けないものは、曲げれば折れるんだ」
「それなら、折りましょう」
二人の会話はずれている。けれど、ずれの中に共通の中心があった。アレスを守ること。アレスの夜を守ること。
*
南方から、最初の拳の影が、封じに触れた。
触れただけだ。手応えを確かめるように、軽く。アレスはその触れ方に、バルガスの癖を見た。重いが、慎重。押し切る前に、素材を確かめる。その癖が、勝機を与える。
「素材は砂糖じゃないよ、バルガス」
糸を引く。庭の隅で目に見えない車輪が回転を始め、空間の摩擦が消えた。物を押すには摩擦がいる。摩擦がなければ、力は空を切る。
拳が、滑った。バルガスが拳をすぐに引く。
「面白い」
彼の口から、一言だけ漏れた。それは、彼にとって最大の褒め言葉だった。
「来るなら来い」
アレスは静かに告げる。宣戦布告ではない。舞台への迎え入れだ。
エララの手が、彼の心臓の上に重なった。指先に伝わる鼓動は、まだ一定だ。彼女は安心しなかった。安心は、油断と同義だ。唇を噛み、血の味を覚える。
「アレス。約束、ひとつ」
「何を?」
「誰も、私の見えないところに連れていかないでね」
彼は答えようとして、喉が一瞬乾いた。記憶の底から誰かの声が浮き上がり、次の瞬間、姿勢を変えて沈む。約束、という言葉は、彼の中に多すぎる重みを持つ。息を吸い、吐く。
「約束する」
言葉は、彼自身を縛った。縛りは苦しい。けれど、いまの彼には、縛ってくれる誰かが必要だった。
*
魔王軍が、動く。
幻影のシオンは、薄い蝶を千に増やし、結界の隙目に滑り込ませる。バルガスは、再び拳を振り上げ、今度は摩擦を無視して力で空間を抉った。一撃が大地を揺るがし、障壁に細い亀裂が走る。
「させない」
アレスの指が空を撫で、糸が亀裂を縫い直した。
しかし――星が、また、ずれる。手がそれを追い、追いが、ほんの少し遅れた。遅れに、遠い塔の上でシオンが微笑む。バルガスが足を、一歩、前に出す。
ゲルドの敗北は、確かにひとつの勝利だった。だが、終わりではない。始まりだ。
残る二人の四天王は、衝撃を受け、瞬時に再構築する。幻はより深く、拳はより重く。アレスは、震える指を自分で握りしめ、夜の残滓と朝の気配の境で、ただひとつの願いを心の底に沈めた。
――自分を、見失わないように。
その願いが誰のためにあるのか。エララのためか、森のためか、世界のためか、自分自身のためか。それを思い出せなくなる日が近づいていることを、彼だけが、まだ知らない。
「エララ」
「ええ」
「行くよ」
「どこまでも」
二人の声が重なり、透明な幕が鳴った。
戦いの幕が、再び上がる。




