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異世界賢者の平穏な復讐  作者: かぶんす


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九話 芽生える悪意と、重なる影

 小学校という学び舎は、保育園に比べてはるかに規模が大きく、それゆえに発生する人間関係の摩擦もまた、複雑さと陰湿さを増していく場所だった。


 蓮が地元の公立小学校に入学してから、四年の歳月が流れた。十歳、小学五年生となった高梨蓮の周囲では、彼自身の意志とは無関係に、静かな「分断」が始まろうとしていた。


 この頃の蓮の成長ぶりは、まさに「異質な神童」そのものだった。

 くぐもった美しい金髪と、吸い込まれそうなヘーゼルの瞳。手足が長くスラリとしたその体躯は、十歳にしてすでに圧倒的な存在感を放っており、学問においても運動においても、彼は常に他の追随を許さなかった。テストは常に満点、体育の時間に走れば誰よりも速く、それでいて授業中は静かに本を読んでいる。非の打ち所がない完璧な少年。

 だが、その完璧さこそが、周囲の「平均的」な子供たちのプライドを無意識に逆撫でし、歪んだ感情を育てる苗床となっていた。


「おい、高梨。また一人でスカした顔して本読んでんのかよ」


 休み時間。静まり返った図書室から教室に戻った蓮の前に、いくつかの影が立ちはだかった。

 その中心にいるのは、ツンツンとした黒髪を揺らす堂島大輝だった。

 小学校に入り、大輝の「俺様」的な気質は、腕力と体格の向上に伴ってますます肥大化していた。クラスの男子グループのリーダー格となった彼は、ことあるごとに蓮を目の敵にし、周囲を巻き込んで言葉の端々に棘を混ぜるようになっていた。


「堂島くん。何か私に用ですか。次の授業の準備があるのですが」


 蓮は、教科書を机に並べながら、極めて丁寧で、それゆえにどこか突き放したような口調で応じた。

 その慇懃無礼とも取れる態度が、大輝のプライドをさらに苛立たせる。


「用がなきゃ話しかけちゃいけねぇのかよ? お前、ハーフのくせに日本語ばっかペラペラ喋りやがって。本当は英語とか喋れねぇんだろ? 嘘つきのスカし野郎が」


 大輝の取り巻きの男子たちが、くすくすと下品な笑い声を上げる。

 蓮は、大輝の鋭い一重まぶたの奥に渦巻く、醜悪な「嫉妬」の感情を正確に読み取っていた。

 大輝は、蓮に勝てない。どれだけ徒競走で本気を出しても、どれだけテストで良い点数を取ろうと努力しても、蓮が少し手を抜いて走る姿にすら追いつけない。その埋めようのない格差が、彼の中で「いじめ」という形で蓮を貶め、自らの優位性を誇示したいという歪んだ欲求へと変貌していたのだ。


(矮小な男だ。他者を踏みにじることでしか、自らの価値を測れぬとは。かつてヴァルハイトの宮廷で、無能さを妬み、優秀な部下を陥れようとして自滅していった三流の貴族どもと全く変わらん)


 蓮は心の中で冷たく嘲笑したが、決してその感情を表には出さなかった。

 ここで大輝を力でねじ伏せることは容易い。魔力を使わずとも、再構築したこの肉体の身体操作技術があれば、十歳の児童数人など一瞬で無力化できる。だが、それでは「普通の子供」としての仮面が剥がれ落ち、養親である高梨夫妻に多大な迷惑をかけることになる。

 それに何より、この程度の手遊びに自らの貴重な脳の容量を割くこと自体が、極めて非効率的だった。


「……そうですか。ご指摘ありがとうございます」


 蓮は静かに一礼し、自らの席に着いた。

 暖簾に腕押しのようなその対応に、大輝はチッと大きく舌打ちをし、拳を握りしめた。


「何だよ、つまんねぇ奴。おい、行くぞ」


 大輝が去り、教室に不穏な空気が残る中、蓮のすぐ隣の席から、一人の少女が心配そうにこちらを覗き込んできた。


「……蓮くん、大丈夫? また大輝くん、意地悪なこと言って……」


 黒髪に、少し色素の薄い大きな瞳。左側の髪を留めたお気に入りのヘアピン。

 森本綾だった。

 彼女もまた、蓮と同じクラスに在籍していた。年齢に対して少し発育が良く、母親譲りの豊かな胸元が、十歳にして早くもクラスの男子たちの無邪気な関心を集め始めていた。だが、彼女の心にあるのは、保育園の頃から変わらず、ただ一人――目の前にいる、どこか孤独な影を背負った高梨蓮だけだった。


「問題ありません、綾。いつものことです。彼の精神年齢は実年齢よりかなり幼いようですから、いちいち相手にするだけ時間の無駄ですよ」


蓮が少しだけ声を和らげて言うと、綾はほっとしたように、しかしどこか照れたように微笑んだ。


「蓮くんは、本当に大人やなぁ……。でもな、うち、大輝くんが蓮くんの悪口言うの、めっちゃ嫌やねん。……うち、いつだって蓮くんの味方やからな?」


そう言って、綾は蓮のヘーゼルの瞳を真っ直ぐに見つめた。

その純真な、そしてかすかに熱を帯びた眼差しに、蓮の冷徹な理性がわずかに揺らぐ。


この頃から、綾の蓮に対する感情は、単なる「幼馴染への親愛」から、より深い「恋心」へと明確に変化しつつあった。彼女は蓮に嫌われないよう、いつも絶妙な距離感を保ちながら、彼が少しでも笑ってくれることを願って接していたのだ。

それと同時に、もう一つの「歪んだ変化」もまた、水面下で確実に進行していた。


(……森本綾。彼女の、私に向ける視線。そして、大輝の、彼女に向ける執着)


蓮の鋭い観察眼は、すべてを見抜いていた。

大輝が蓮を目の敵にする最大の理由は、単なる「神童への嫉妬」だけではない。大輝は、自らの思い通りにならない活発で愛らしい綾に、本能的に惹かれていた。しかし、その彼女が、いつも自分を無視して蓮の隣に寄り添い、彼だけに特別な笑顔を向けている。

その事実が、大輝の歪んだ独占欲と劣等感を、極限まで刺激していたのだ。


「高梨……お前さえいなければ。お前さえ、いなくなれば、綾は俺のものになるのに……」


放課後、夕日に染まる廊下。

一人で下校の準備をする蓮の背後から、教室のドアの隙間を通して、大輝の低く、濁った呟きが聞こえてきた。その言葉には、十歳の子供が発するものとは思えないほどの、暗く、重苦しい執念が満ちていた。


(なるほど。嫉妬と独占欲、そして無力感が混ざり合い、ついに本格的な『牙』を剥く準備を始めたか)


蓮は、その悪意の兆候を、自らの胸の奥に深く、冷たく刻み込んだ。

実母である雫を捜し出すための調査は、未だにこれといった手がかりを得られず、焦燥だけが日々募っている。そんな中、学校という檻の中で、羽虫のような凡夫の悪意が自分を蝕もうとしている。


(いいだろう、堂島大輝。お前がその矮小な悪意を、私や、私の周囲に直接向けようとするならば――その時は、私が培ってきた『賢者』の力の万分の一をもって、お前の世界を根底から叩き潰してやろう)


十歳の高梨蓮は、ランドセルを背負い、静かに沈みゆく夕日に向かって歩み出した。

その隣には、「蓮くん、一緒に帰ろう!」と、元気よく駆け寄ってくる綾の笑顔があった。


二人の影が、オレンジ色の地面に長く伸び、その後ろを、大輝の歪んだ、暗い影が執拗に追いかけていく。

平穏だった小学校生活の裏側で、いじめという名の悪意の嵐が、いよいよ牙を剥こうとしていた。


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