八話 仮面の下の焦燥と、届かざる便り
保育園での日々は、蓮にとって「普通」を過剰に演じ、周囲に溶け込むための高度な情報収集と擬態の場であり続けた。
三歳から六歳にかけての幼児の成長は著しい。しかし、蓮の精神的、魔術的な「成長」はそれを遥かに超越していた。
彼は昼間の保育園では、適当に他の子供たちと折り紙を折り、お絵描きをこなし、綾が砂場で作る不格好な泥だんごを「素晴らしい造形ですね」と微笑みながら手伝う。その徹底された大人びた「おとなしいハーフの男の子」という仮面は、保育士たちから「とても手がかからず、心優しい神童」という絶賛の的となっていた。
だが、その仮面の下で、蓮は一歩ずつ着実に、来るべき復讐のための基盤を築き上げていた。
夜、彼が自室で極秘裏に行っていた運動と呼吸法により、未熟だった肉体の神経回路は完璧に制御され、魔術回路は日本の魔力の希慢な環境に合わせて「高効率・極小消費型」へと再構築されていた。物理的な戦闘技術や自衛能力も、幼児の身体能力をフルに活用できる形で研ぎ澄まされていた。
しかし、蓮自身の自己強化が完璧であればあるほど、その心に影を落とす「焦燥」は日に日に色濃くなっていった。
「母さんの行方が、まだ見つからない……」
保育園の年長、すなわち六歳を迎えようとする秋の夜、蓮は自室で小さな拳を握りしめ、天井を見つめていた。
養父である高梨弦は、約束通り、休日や私的なネットワーク、探偵事務所のつてなどを総動員して、実母である「穂積雫」の行方を全力で追ってくれていた。
しかし、その調査結果は、常に冷酷な壁に突き当たっていた。
雫を追い詰めた「穂積家」の親族どもは、彼女から財産を奪うだけでは飽き足らず、社会的に徹底的な孤立を強いるための策を講じていたようだった。彼らが雫に押し付けた不当な債務や、身に覚えのない悪評のせいで、雫は住民票や社会的な履歴を意図的に隠し、夜逃げに近い形で潜伏せざるを得なかったのだ。
日本という巨大な国家、その複雑な情報網の狭間に、彼女の足跡は完全に埋もれてしまっていた。
「……入っていいかい、蓮」
ドアが静かにノックされ、弦が入ってきた。
その手には、やはり何らかの調査報告書らしきものが握られていたが、弦の目は重く、すまないという色に満ちていた。
「父さん。……今日も、進展はなかったのですね」
蓮はベッドから起き上がり、静かに声をかけた。
「あぁ……。本当にすまない、蓮。僕の知り合いの調査員が、彼女が一時的に身を寄せていたという隣県のパン工場の寮まで辿り着いたんだ。だが、彼女はそこに数ヶ月間勤務した後、去年の冬に『これ以上ここにいると周囲に迷惑がかかる』と言って、突然辞めてしまったらしい。給与も現金で受け取り、次の行き先も一切告げずに……」
弦は机に手をつき、悔しそうに顔を歪めた。
「僕に、もっと力があれば。警察や公的な機関を動かすだけの大きな権力があれば、彼女を保護してあげることもできたのに。……ただの会社員の僕では、ここまでの追跡が限界だ。本当に情けないよ、蓮」
弦の言葉には、自らの無力さに対する心からの憤りと、何より「息子」である蓮の願いを叶えてやれないことへの深い苦悩が滲み出ていた。
蓮はその様子を見て、心の中に冷たく燃え上がろうとした焦りの火を、自らの強い理性で即座に抑え込んだ。
これ以上、この心優しい養父に負担をかけるわけにはいかない。彼は血の繋がらない自分のために、本来なら踏み込む必要のない「他人のドロドロとした家庭事情」に、自らの身銭と時間を削ってまで尽くしてくれているのだ。
「父さん、頭を下げないでください」
蓮は歩み寄り、弦の大きく、温かい手を両手でしっかりと握りしめた。
「父さんは、私のために最善を尽くしてくださっています。その努力と、私を想ってくれる心が、何よりも嬉しいのです。……実母の雫が社会的に身を隠しているのは、穂積家の邪悪な親族どもから自らの身と、何より私に彼らの魔の手が伸びないようにするための防衛策でもあります。彼女が生き延びてくれているだけで、今は十分です」
蓮の、六歳児とは思えない理知的で力強い眼差し。
弦はその目に救われるように、ゆっくりと息を吐き出し、蓮の頭を撫でた。
「本当に、君は強い子だな……。分かった。僕も諦めない。保育園を卒業して、小学校に行っても、僕ができる範囲での調査は絶対に止めない。いつか君が大きくなって、自分の力で彼女を迎えに行けるようになるまで、僕たちが君の足場を支え続けるよ」
「はい。ありがとうございます、父さん」
弦が部屋を去った後、蓮は暗闇の中で自らの両手を見つめた。
(今の私の力では、まだ直接社会を動かすことはできない。しかし、あと数年もすれば、私の肉体は全盛期の性能を段階的に取り戻せる。外部への出力はできないが、魔力回路は微弱ながら反応を始めている。何ができる?)
保育園を卒業し、小学校に入学すれば、行動範囲も広がり、手に入る情報の精度も格段に上がるはずだ。
何より――。
(あの森本綾、そこで堂島大輝。彼らとも、同じ小学校に進むことになる)
自分を何かと気にかけて慕ってくれる、人懐っこい綾。
自分に対して異常なまでのライバル心と、歪んだ劣等感を募らせている大輝。
大輝は、保育園の後半になっても、蓮が何をしても「一番」であり続けることが気に入らず、事あるごとに突っかかってきていた。その執拗な敵意は、年齢とともに少しずつ、陰湿な形へと変化しつつあったのだ。
(小学校という新たな環境は、大輝のような凡夫の悪意が、より具体性を帯びて具現化する場所でもある。私の平穏を脅かす害虫となるなら、いつでも排除する準備はできているが……)
蓮は、静かに窓を開け、冷たい秋の夜風を吸い込んだ。
空に見える月は、かつて異世界ヴァルハイトで眺めたものと同じように、冷たく地上を照らしている。
実母・雫への届かぬ便りと、行方知れずの面影。
自らの前に立ちはだかるであろう、新たなる「義務教育」という名の檻。
高梨蓮は、仮面をより深く被り直し、静かに近づく小学校入学の足音を、その鋭いヘーゼルの瞳で凝視するのだった。




