七話 保育園の邂逅と、小さな三つ巴
桜の蕾が今にも弾けそうな、うららかな四月の朝。
三歳になった高梨蓮は、恭子に手を引かれ、のちに数年間を過ごすことになる「ひまわり保育園」の門をくぐった。
カラフルな遊具、園庭を走り回る園児たちの甲高い叫び声、もちろんそこかしこに飾られたちぎり絵の動物たち。
蓮にとってその場所は、かつて異世界で見てきた厳格な大魔導図書院や、重厚な王立アカデミーとはあまりにかけ離れた、未知の領域――「幼児の統制機関」に他ならなかった。
(この世界の『普通』を模倣し、自らの異質さを隠すための仮面。それを構築するには、格好の実験場だな)
蓮は、少しくすんだ、しかし陽の光を吸い込んで淡く輝く金髪を揺らし、新入園児のバッジを胸につけた。
ヘーゼルの澄んだ瞳は、周囲の騒がしい子供たちや、忙しなく立ち働く保育士たちの挙動を静かに、冷徹にトレースしていた。その彫りの深い、異国情緒あふれる美しい顔立ちは、すれ違う保護者たちの目を否応なしに引きつけている。
「蓮, 大丈夫? 怖かったら、すぐ先生に言うのよ?」
恭子が、心配そうに屈み込んで蓮の顔を覗き込んだ。
前世の記憶を持つことを明かして以来、彼女は蓮を一人の自立した魂として扱いながらも、その肉体がまだ頼りない幼児であることを常に案じて、深い愛情を注ぎ続けてくれている。
「心配いりません、母さん。私はこの世界の集団行動のシステムを学びに来ただけですから。適当に同年代の振る舞いを模倣して、つつがなく過ごします」
「ふふ、頼もしいわね。でも、あまり無理をしてお兄さんぶらなくてもいいのよ? お友達と楽しく遊ぶことも、大事なことなんだから」
恭子はそう言って、蓮の頭を優しく撫、保育士の元へと彼を送り出した。
教室に入ると、蓮は窓際の目立たない席を選んで腰掛けた。
周囲の子供たちは、親と離れた寂しさから大声で泣き喚いているか、おもちゃを奪い合って小競り合いを始めている。蓮はそれをただの「未発達な防衛本能の発露」と見なし、本棚から適当な絵本を引っ張り出して、静かに文字を目で追うことで時間を潰すことにした。
だが、その不気味なほどの静けさと、絵になるような美しい佇まいは、周囲にとって「ただ事ではない存在」として映っていた。
「……な、なぁ。それ、なんて書いてあるん?」
ふいに、すぐ横から人懐っこい、しかし少し緊張で震える声が聞こえた。
蓮が視線を絵本から上げると、そこには一人の少女が立っていた。
艶やかな黒髪に、少し茶色がかった色素の薄い、大きな瞳。左側の髪を小さな可愛いヘアピンで留めている。年齢にしてはよく通る声と、丸みを帯びた愛嬌のある顔立ち。
綾は、お気に入りのクマのぬいぐるみを両手で抱きしめながら、蓮のヘーゼルの瞳を不思議そうに見つめていた。その純真な眼差しには、蓮に対する恐怖や警戒はなく、ただ純粋な「興味」と、少しばかりの憧れのような光が宿っていた。
「……これは『にんぎょひめ』という絵本です。泡になって消えてしまう、悲しい物語ですね」
蓮は、極めて丁寧な、しかし幼児らしからぬ落ち着いた口調で答えた。
「にん、ぎょ……ひめ? あわあわになっちゃうのん? うわぁ、蓮くん、もうそんな難しい本読めるんや。うち、まだ自分の名前しか読めへんわ。すごいやなぁ……」
綾はそう言うと、ぱぁっと花が咲いたような笑顔を見せた。
少しだけ混じる関西訛りの言葉が、やけに蓮の耳に新鮮に響く。
「ただの慣れです。あなたが文字に興味を持てば、すぐに読めるようになりますよ、森本さん」
「うちのこと、森本さんって呼ぶのん? なんか, かっこええな! でも、うちは『綾』やから、綾って呼んでや! うちも、蓮くんって呼ぶから!」
ぐいぐいと距離を詰めてくる綾に、蓮はわずかに眉をひそめた。
かつて異世界で「賢者」として生きていた頃、近づいてくる人間はすべて何らかの打算や権力欲、あるいは呪いを秘めていた。ゆえに、この少女の「一点の曇りもない無償の好意」というものが、蓮にとっては最も対処に困る、不慣れな魔導術式のようなものだった。
(人懐っこい個体だな。……だが、毒気がない。私の傍にいても、私の冷徹な思考を阻害しない程度の心地よさはあるか)
「わかりました。では……綾。よろしく」
「...うん! よろしうな、蓮くん!」
二人がそんな言葉を交わしていた、その時だった。
「おい, お前! 何格好つけてんだよ!」
乱暴な足音と共に、二人の間に割り込んでくる影があった。
ツンツンと尖った黒髪に、鋭い一重まぶたの、目つきの悪い男児。
大輝は、蓮とほとんど変わらない身長でありながら、どこか尊大で高圧的な「俺様」のオーラを全身から放っていた。彼は、蓮の端麗な金髪と、静かな佇まいが気に入らないと言わんばかりに、蓮の机をバンと叩いた。
「お前、ハーフか? 目が変な色だし、女の子みたいにスカしやがって! この教室で一番強いのは俺なんだぞ! 俺の言うことを聞け!」
(……やれやれ。どこにでも湧く、未熟な幼児期の支配欲だな)
蓮は、心底退屈そうにため息をついた。
大輝の放つ、浅はかで稚拙な敵対心など、かつて戦場で対峙した魔王や帝国の将軍たちの殺気に比べれば、羽虫の羽ばたきよりも軽い。
蓮は絵本を静かに閉じると、冷たく、射抜くようなヘーゼルの瞳で大輝を見据えた。
「私を誰の言うことを聞くかは、私が決めます。あなたがこのコミュニティでどのような立場を望もうと自由ですが、私の平穏を乱すことは推奨しません。非常に、無駄なエネルギーを消費することになりますから」
慇懃無礼で、極めて理路整然とした反論。
三歳児の語彙力としては完全に逸脱していたが、大輝にはその「言葉の意味」こそ正確に理解できずとも、蓮から放たれた、底知れない、圧倒的な「格の違い」だけは本能的に察知してしまった。
「な、なんだよお前……! わけわかんねぇこと言って逃げるなよ!」
大輝の顔が、悔しさと恐怖で一瞬にして赤く染まる。彼は拳を握りしめ、蓮に掴みかかろうとした。
「やめーや、大輝くん!」
その間に、綾が立ち塞がった。
彼女は小さな体を張って、大輝を強い目で見つめた。
「蓮くんは何も悪いことしてへん! 本読んでただけやん! いじわるするなら、先生に言ってしまうからな!」
「う、うるせぇなぁ! 綾は黙ってろよ! 俺は、こいつが気に入らないだけだ!」
大輝は、気になる綾が対面の蓮をあからさまに庇ったことに、さらなる激しい嫉妬を覚えたようだった。彼の鋭い一重まぶたの奥に、蓮に対する暗い、執拗な敵意が決定的に刻み込まれた。
「ふん、覚えてろよ! お前なんか、絶対にやっつけてやるからな!」
捨て台詞を吐き捨て、大輝は教室の奥へと走り去っていった。
静けさが戻った窓際で、綾はホッと息をつき、蓮向き直った。
「ごめんな、蓮くん。あの子、いっつも自分が一番じゃないと気が済まへんの。……蓮くん、怖くなかった?」
彼女は心配そうに、蓮の腕をそっと掴んだ。
蓮は、去りゆく大輝の背中を冷たく見つめながら、心の中で分析を終えていた。
(堂島大輝……。器が小さく、他者との比較でしか自己を確立できない。典型的な、嫉妬から破滅するタイプの凡夫だ。今はただの不愉快な幼児だが、成長すれば雫を陥れた親族どものような、害悪な存在になり得るな)
だが、今の自分はただの三歳の子供。
隣にいるこの少女は、そんな自分を純粋に心配し、庇ってくれた。
「……いえ。恐れるに足りません。それよりも、私を庇ってくれてありがとうございました、綾」
蓮は、ほんの少しだけ、その端正な顔立ちを和らげて微笑んだ。
その、初めて見せた「子供らしい」柔らかな笑みに、綾の耳の裏が、ほんのりと赤く染まる。
「……う、うん! うち、蓮くんの味方やから! これから、ずーっと一緒に遊ぼうな!」
綾は照れくさそうに笑いながら、蓮の手をぎゅっと握った。
その手のひらの温もりは、アパートで別れた実の母・雫の温もりを、蓮にかすかに思い出させた。
実の母・雫を救い、穂積家への冷たい復讐を果たすための長い道のりの傍らで、蓮の周りの運命の歯車が、この瞬間から、激しく交錯しながら回り始めたのだった。




