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異世界賢者の平穏な復讐  作者: かぶんす


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六話 神童の自覚と、失われた足跡

 さらに時は流れ、蓮が三歳を迎える頃。

 高梨家での生活は驚くほど平穏であり、同時に、蓮にとっての「力の蓄積期間」として極めて順調だった。

 

 この頃の蓮の外見は、周囲の誰もが思わず足を止めるほどに特徴的だった。

 少しくすんだ、しかし光を浴びると絹糸のように輝く金髪。彫りの深い美しい二重まぶたに、知性と冷徹さを宿した神秘的なヘーゼルの瞳。東洋と西洋の美を極限まで調和させたようなその容姿は、高梨夫妻がどこへ連れて行っても「まぁ、なんて可愛いハーフのお子さんかしら」と、ため息混じりの称賛を浴びるのが常だった。さらに、年齢に対して手足が驚くほど長く、腰の位置が高いその体躯は、将来の卓越した身体能力を早くも予感させていた。


 そして、保育園への入園を目前に控えた蓮は、すでに高梨夫妻を驚かせるどころか、ある種の畏怖すら抱かせるほどの「神童」として完成しつつあった。

 

 ひらがなやカタカナ、簡単な漢字の読み書きは一歳半の時点で完全に習得し、今や書斎にある歴史書や、弦が仕事で使う専門的な技術書、さらには複雑な法律の解説書までをも、大人顔負けの速度で読破していた。

 精神の成熟を認めてくれた弦と恭子は、蓮を無理に「赤ちゃん扱い」することをやめ、一人の対等な家族として、彼の知的好奇心にどこまでも付き合ってくれた。蓮が知りたいと願う本は、弦が惜しみなく買い与え、恭子は蓮の大人びた発言をいつも温かく、真剣に聞いてくれた。

 

(この二人の深い理解があるからこそ、私はこうして順調に知識と力を蓄えられる。本当に、得難い義父母だ)

 

 蓮は心の中で、二人に深く感謝していた。

 だが、蓮の胸の奥深くには、どんなに温かい家庭に身を置いていても、一瞬たりとも消えることのない冷たい「執念」が脈打っていた。

 実の母親――穂積雫。

 あのアパートの薄暗い一室で、自分を生かすために泣きながら手放した、あの優しく気高い女性を救い出すこと。そして、彼女からすべてを毟り取った「穂積家」の親族たちを、奈落の底へ突き落とすこと。

 その目的を果たすため、蓮はいよいよ動き出すことを決意した。

 

 ある日曜日の夜。

 夕食を終え、リビングで温かいお茶を飲んでいた弦と恭子の前に、蓮は静かに歩み寄った。

 その小さな手には、一枚の白紙が握られていた。

 

「父さん、母さん。少し、真剣な相談があります」

 

 三歳児の愛らしい声。しかし、その口調には大人の交渉人さながらの厳然たる響きがあった。

 弦はカップを置き、居住まいを正した。

 

「どうしたんだい、蓮。改まって。また読みたい本でも見つかったか?」

 

「いえ。本ではありません」

 

 蓮は紙をテーブルの上に広げた。そこには、幼い子供が書いたとは思えない、美しく整った筆跡でいくつかの文字と地図の概略が書かれていた。

 

「ここに書いたのは、私の『前世』――いえ、この世界に産まれる直前、最期まで一緒に暮らしていた女性に関する情報です。名前は、穂積雫ほづみ しずく。……彼女は、私の実の母親です。そして、レン・ヴァルハイトの魂ではなく、この体本来の魂が自我を持ち始めました」

 

 弦と恭子は、一瞬だけ息を呑み、互いに顔を見合わせた。

 蓮が「別の場所で長くいきていた記憶」を持っていることは聞いていたが、その具体的な中身や、この日本の現代社会に直接繋がる人物の存在について、詳細に語ったのはこれが初めてだった。

 

「実の、お母さん……」

 

 恭子が、そっと胸元に手を当てる。寂しそうな、しかしすぐに蓮を気遣うような優しい目を向けた。

 蓮は言葉を続ける。

 

「誤解しないでください。私は、お二人の子供であることを誇りに思っていますし、ここから去るつもりもありません。ですが……彼女は、私をこの手で育てることを、強く望んでいました。しかし、私が産まれる前後に、彼女の親族にすべてを奪われ、経済的にも精神的にも完全に追い詰められた。私を生かすための、やむにやまれぬ選択として、私を手放したのです」

 

 ヘーゼルの瞳に、冷徹な青い光が宿る。

 

「私は、彼女を救いたい。そして、彼女を陥れた親族たちに、相応の報いを与えたい。……ですが、今の私のこの幼児の肉体では、戸籍を調べることも、長距離を移動して彼女を捜し出すことも不可能です。ですから――お二人の手を、お借りしたいのです」

 

 蓮は、深々と頭を下げた。そして顔をあげ話を続けた。


「本来の魂と言いましたが、二重人格となるわけではないようです。長く生きたレン・ヴァルハイトとしては言葉にするのは恥ずかしいですが、交じり合った片割れの心が二人を求めています。私の記憶や感情を通して、雫を産みの親と認識しながらも、二人を親と感じている」


 三歳の子供が、自らの出生の秘密を語り、その復讐と救出のために大人の協力を仰ぐ。そして、交じり合う魂の感情を言葉ばにする。常軌を逸した光景だった。

 しかし、弦は微塵も蓮を突き放さなかった。彼はゆっくりと、蓮の小さな肩に手を置いた。

 

「蓮。頭を上げてくれ」

 

 蓮が顔を上げると、弦は穏やかに微笑んでいた。

 

「君が僕たちを信頼して、その大切な話を打ち明けてくれたことが、何よりも嬉しい。……僕たちは、君の親だ。君の苦しみを、そのままにしておけるはずがないだろう。穂積雫さん……だね。わかった、僕にできる限りの方法で、彼女の行方を調べてみよう」

 

「弦さん……」

 

 恭子もまた、蓮の小さな手を両手で包み込み、力強く頷いた。

 

「そうよ、蓮。あなたは一人で抱え込みすぎだわ。私たちは家族なんだから、どんなことだって一緒に背負うわ。その『穂積雫』さんというお母さんも、きっと今も、あなたのことを想って泣いているかもしれない。一刻も早く、見つけてあげましょう」

 

「……感謝します、父さん、母さん」

 

 その日から、高梨弦による懸命の調査が始まった。

 弦は自らの人脈や、休日を利用して、蓮が示した「穂積家」の情報、そしてかつて彼らが暮らしていたという洋館のあった地域を徹底的に調べ回った。

 

 だが――

 二ヶ月後、書斎でパソコンの画面を見つめていた弦の表情は、ひどく暗かった。

 蓮が静かに部屋に入ってくると、弦は深くため息をつき、画面を蓮に見せた。

 

「……蓮。調べがついたよ。だが、あまり良いニュースではないんだ」

 

「話してください。覚悟はできています」

 

 弦は、プリントアウトしたいくつかの資料をテーブルに置いた。

 

「君が言っていた、穂積雫さんが住んでいたという洋館……。あそこは、君が生まれた直後、親族の手によって法的に差し押さえられ、すでに売却されていた。現在は、全く別の会社の所有地になって、取り壊されて更地になっている」

 

 蓮の喉が、引き締まるように動いた。

 あの、雫と二人で暮らし、日本の美しい四季を眺めた、思い出の詰まった温かな洋館。それが、強欲な親族どもの手によって無残にも破壊され、跡形もなくなっている。

 

「そして……雫さんの行方だが」

 

 弦は、痛ましそうに目を細めて続けた。

 

「洋館を追い出された後、彼女は一度、地方の簡易宿泊所や、安アパートを転々としていた形跡があった。だが……約一年半前、親族から執拗な債務の取り立てと、事実無根の嫌がらせを社会的に受け続け、精神的に追い詰められた末に……そこも引き払い、行方をくらませている。警察に捜索願いも出されていない。完全に、消息不明だ」

 

 静寂が、書斎を包み込む。

 

「すまない、蓮。僕の力では、現時点ではこれ以上の足跡を追うことができなかった……」

 

 弦は悔しそうに拳を握りしめた。

 蓮は、ただ黙って、更地になった洋館の写真を凝視していた。

 

(消息不明……。あの優しく、脆い彼女が、あの冷酷な親族どもに追われ、たった一人で暗闇の中を彷徨っているというのか)

 

 脳裏に、雫の泣き顔が、そして自分を抱きしめて「ごめんね」と謝り続けたあの夜の温もりが、鮮烈に蘇る。

 今すぐ、この世界中のすべての魔力を集めてでも、彼女を捜し出したい。

 だが、今の自分はまだ三歳。肉体の魔術回路は、薄い反応しか示さない。

 

 怒りと、憎悪と、そしてどうしようもない無力感が、再び蓮の胸を焼き尽くそうとした。

 

 だが、その時。

 背後から、恭子が蓮を優しく、包み込むように抱きしめた。

 

「蓮……大丈夫よ。見つからなかったのは、今、お母さんが元気で、どこかで静かに隠れて暮らしている証拠かもしれないわ。だから、諦めないで。私たちは、これからもずっと、彼女を捜し続けるから」

 

「……あぁ。僕の知り合いの調査員にも、引き続き個人的に網を広げてもらうように頼んでおく。蓮、焦ることはない。君が大きくなるまでに、必ず、僕たちが彼女の手がかりを見つけてみせる」

 

 弦が、力強く蓮の頭を撫でた。

 

 その温もりに触れ、蓮は深く、深く息を吐き出した。

 昂ぶりかけた感情が、冷徹な理性の氷によって、再び静かにコントロールされていく。

 

(そうだ。焦ってはならない。私は今、牙を研ぎ、力を蓄える時期なのだ。父さん、母さんという強力な味方を得た今、雫の捜索は彼らに委ね、私は自らの肉体と能力を極限まで高めることに集中すべきだ)

 

 蓮はゆっくりと目を閉じ、自らの心臓の奥深くで燃える、あの漆黒の復讐の炎をさらに純化させた。

 

(穂積家……。お前たちが雫から奪ったもの、そして彼女に与えたすべての絶望を、私は何一つ忘れてはいない。私がその足で歩み出すその時まで、精々、その安穏とした破滅の砂上の楼閣を楽しんでいるがいい)

 

 目を開けた高梨蓮のヘーゼルの瞳には、もはや三歳の子供の揺らぎは一切なかった。

 

 来月からは、保育園への入園が始まる。

 そこは、彼にとって「この世界の普通」を学び、自らの非凡さを隠すための新たなる仮面を被る舞台。

 そこで出会うであろう新たな人々、そして幼馴染たちとの運命の歯車が、今、静かに回り始めようとしていた。


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