五話 無言の鍛錬と、揺らぎだす仮面
高梨家に引き取られてから、早くも一年半が経過しようとしていた。
ハイハイからつかまり立ち、そして今や危なっかしいながらも自らの足で二足歩行ができるまでに、蓮の新しい肉体は急速な成長を遂げていた。
一般の乳幼児であれば、世界に対する認識は極めて断片的であり、ただ感情の命ずるままに動き回る時期だ。しかし、レンの脳内では、常に理知的かつ高度な「自己改革プログラム」が実行されていた。
(まずは、この世界の希慢な魔力に適応するよう、己の微細な魔術回路を調整せねばならん。そして何より、肉体の基本スペック――神経伝達速度と筋繊維の柔軟性を極限まで高めるのだ)
レンは、高梨夫妻が寝静まった夜や、昼下がりのお昼寝の時間を利用して、音もなく奇妙な「運動」を行っていた。
ベビーサークルの中で、関節に負担をかけない特殊な呼吸法を用い、血流を制御する。ゆっくりと指を一本ずつ動かし、脳からの電気信号と末端神経の同期をミリ秒単位で修正していく。それは、かつて異世界で「剣聖」とすら渡り合った賢者レンの身体制御技術だった。
さらに、レンは情報収集も怠らなかった。
リビングで高梨夫妻が見ているテレビのニュース。茂が広げる新聞の文字。あるいは、夫妻がスマートフォンの画面をスクロールする手元の挙動。蓮はそれらを完璧に凝視し、日本の時事、経済、そして親族「穂積家」に関連するワードがないかをくまなく脳内データベースに蓄積していた。
しかし、どれほど気配を殺し、通常の「おとなしい赤ん坊」を演じようとも、中身が最高位の賢者である以上、どうしてもその言動の端々に「異質さ」が滲み出てしまう。
「……弦さん。最近の蓮、なんだか、凄すぎると思わない?」
ある日の夕食後。
リビングのベビーサークル内で、積み木を完璧に等間隔かつ垂直に、自身の身長を超える高さまで積み上げていたレンは、キッチンから聞こえてきた恭子の囁き声に、ピクリと手を止めた。
「あぁ、僕も思っていた。……蓮は、絵本を読み聞かせると、次のページに書いてある文字を、まだ習ってもいないのに目で追っているんだ。それに、この間なんか、僕が仕事の書類を失くして困っていたら、彼がトコトコと歩いてきて、本棚の隙間を無言で指さしたんだよ。行ってみたら、本当にそこに挟まっていてね……」
弦の声には、驚嘆と、そしてかすかな「困惑」が混じっていた。
親馬鹿として単純に「うちの子は天才だ」と喜ぶには、レンの行動はあまりに静かで、理知的で、時として冷徹ですらあった。
何より、その澄んだヘーゼルの瞳。
時折見せる、すべてを見透かしたような大人の視線に、鋭い感覚を持つ高梨夫妻は、本能的な「違和感」を覚え始めていたのだ。
(不覚……! 少し、目立ちすぎたか)
レンは心の中で舌を巻いた。
無意識のうちに効率的な行動を取りすぎた。普通の一歳児であれば、積み木は崩して遊ぶものであり、親の書類を的確に見つけ出して静かに提示するなどあり得ない。
高梨夫妻は、本当に心優しく、自分を実の子以上に愛してくれている。だが、それゆえに「この子は普通ではない」「何か別の意志が宿っているのではないか」という不気味さを感じさせ、彼らの心を不安にさせてしまうことは、レンの本意ではなかった。
(ずっと、レン・ヴァルハイトの記憶と魂であることを隠し通せるだろうか。いや、いずれ限界が来る。だが、本当のことをすべて話せば、彼らは私を恐れ、怪物の子供として排斥するのではないか?)
血の繋がらない、しかし自分を温かく包んでくれた養親たちを失いたくない。
一方で、実の母である雫への復讐の誓いと、彼女を救い出すための修行は一刻も早く進めねばならない。
ふたつの家族、ふたつの目的の間で、レンの小さな胸は、これまでにない激しい葛藤に引き裂かれていた。
――そして、数日後の夜。
レンが寝室のベビーベッドで、仰向けになって天井を見つめていた時のことだった。
ドアが静かに開き、恭子が入ってきた。
彼女はレンの枕元に腰掛け、眠った振りをしている蓮のくぐもった金髪を、優しく、何度も撫でた。その手のひらは、少し震えていた。
「蓮……」
恭子の声は、涙を含んだように湿っていた。
「お母さんね、蓮がとっても愛おしいの。でもね……時々、蓮がどこか遠くの、私の手が届かないくらい遠い場所を見つめているようで、怖くなるの。……蓮は、お母さんたちのところにいて、幸せかな? 何か、言いたいことを我慢しているの?」
彼女の絞り出すような言葉が、レンの魂に突き刺さった。
彼女を不安にさせているのは、他ならぬ自分の「秘密」だ。自分を守り、無償の愛を注いでくれる母親を、こんなにも孤独にさせ、怯えさせている。
かつて孤独な賢者として生きていた自分なら、ここで適当な幼児の振りをして誤魔化しただろう。だが、日本で雫と暮らし、そして高梨夫妻に育てられた今のレンには、その「欺瞞」が、最も醜悪な裏切りに思えた。
(……隠し通すことは、彼らの愛に対する冒涜だ。すべてを信じてもらうことは無理でも、私の『一部』を、誠実さをもって差し出さねばならない)
レンは、ゆっくりと瞼を開けた。
暗闇の中で、彼のヘーゼルの瞳が、月光を受けて冷たく、しかしどこまでも真っ直ぐに恭子を見つめた。
彼は上体を起こし、小さな、幼児の頼りない声で、しかし極めて明瞭な発音で、初めて「言葉」を紡いだ。
「……きょう、こ」
恭子が、あっと息を呑んで目を見開いた。
一歳半の子供が、母親を「ママ」ではなく、その本名で呼んだのだ。
「蓮……? いま、お名前、呼んでくれたの……?」
「うん。……ごめん、なさい。怖がらせて」
レンは、たどたどしい幼児の舌を必死に操りながら、自身の小さな手のひらで、恭子の濡れた頬をそっと拭った。
「ぼくには……むかしの、きおくが、あります。とおくの、べつの場所で……おじいさんになるまで、いきていた、きおく。……だから、すこし、へんな子ども、なんだ」
それは、この世界においては狂気の沙汰とも言える告白だった。
だが、レンは嘘を交えず、自分の魂の真実を、最も分かりやすい形で琴葉に提示した。もし彼女がここで自分を拒絶するなら、それもまた運命。しかし、彼は彼女を信じることを選んだのだ。
静寂が、寝室を支配する。
恭子は、信じられないものを見るかのようにレンを見つめ、固まっていた。
レンは、じっとその拒絶の言葉を待った。
だが――
レンの目から溢れ出たのは、恐怖の涙ではなく、深い、深い安堵の涙だった。
「そう……だったのね」
恭子は、壊れ物を扱うかのように優しく、しかし力強く、蓮の小さな身体をその胸に抱きしめた。
「蓮が、時々悲しそうな目で遠くを見ていたのは……その『むかしの記憶』のせいだったのね。お母さん、蓮が、私たちのことを嫌いなんじゃないかって、そればかり心配だったの。……おじいさんの記憶があっても、へんな子どもでも、いい。蓮は、私たちの、大切な、可愛い息子よ」
彼女の温かい涙が、レンの首元にこぼれ落ちる。
その抱擁には、一点の曇りもない「無条件の愛」が宿っていた。
(ああ……)
レンの胸の奥で、張り詰めていた緊張が、温かな奔流となって溶け去っていった。
この世界で、自分の「中身」を受け入れてくれる存在ができた。その事実が、賢者レン・ヴァルハイトの、頑なだった復讐の心を、これほどまでに救い、温めるとは思ってもみなかった。
「ありがとう……ことは。ぼくは、ここにいて、とても、しあわせです」
レンは恭子の肩に小さな顔を埋め、赤児の肉体を得てから初めて、本物の「子供」のように、穏やかな笑みを浮かべた。
翌朝、恭子から話を聞いた弦もまた、最初は驚愕したものの、レンを真っ直ぐに見つめ、「そうか。なら、僕たちも蓮に負けないくらい、格好いい親にならなきゃな」と、その小さな肩を叩いて笑ってくれた。
こうして、高梨蓮は、自らの異質な記憶を養親たちと共有し、より強固な信頼の絆で結ばれることとなった。
彼の復讐の炎は消えてはいない。だが、その炎の傍らには、彼をどこまでも温かく照らす、もうひとつの「家族の灯火」が、静かに、しかし力強く灯り始めたのだった。
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