表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界賢者の平穏な復讐  作者: かぶんす


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/26

四話 引き継がれる種火と、新たな器

 乳児院の冬は、どこまでも無機質で、かつ厳格だった。

 規則正しく並んだベビーベッド。定期的に聞こえる他の乳幼児たちの泣き声と、それをあやす保育士たちの忙しない足音。

 蓮――かつての賢者レン・ヴァルハイトは、冷えた空気のなかでじっと天井を見つめていた。


(私は今、ただの無力な赤児だ。この厳然たる事実を、まずは受け入れなければならない)


 日々、蓮のなかで激しい葛藤が渦巻いていた。

 脳を占めるのは、数百年におよぶ異世界での魔導の深淵、そして日本で雫と過ごした極めて理性的で大人な思考である。しかし、この脆弱極まりない肉体の「ハードウェア」は、彼の高潔な精神を容赦なく引きずり下ろす。


 少しでも栄養補給が遅れれば、胃壁が収縮して激痛が走り、脳は「泣け」という生命維持の本能命令を強制的に下す。

 オムツが少しでも濡れて不快感を覚えれば、自律神経が暴走し、勝手に涙腺が緩んで声を上げてしまう。

 思考では「耐えろ、毅然としていろ」と念じているのに、身体が勝手に「ふぎゃあ!」と泣き出すのだ。


(情けない……。世界を統べた賢者ともあろう者が、排泄物の不快感ごときに涙を流し、温かい乳を求めて手足をバタつかせるとは。肉体とは、これほどまでに精神を束縛する檻だったか)


 そのたびに、蓮は深い自己嫌悪と、もどかしさに歯噛みした。

 だが同時に、彼は冷徹な「賢者」として、自身の置かれた状況を冷静に観察し続けていた。

 ヘーゼルの澄んだ瞳を動かし、やってくる人間たちを値踏みする。

 乳児院の職員たちはみな悪人ではないが、彼らにとって自分は「大勢いる被保護児の一人」に過ぎない。義務的で、マニュアルに沿っただけの抱き方。温もりはあるが、魂の底からの慈愛はない。


(ここに長居するわけにはいかが。私は最短で成長し、魔力を練り、雫を救い出さねばならないのだ。そのためには、私を特別に世話し、守ってくれる『傘』が必要だ)


 そんなある日の午後、乳児院の面会室に「彼ら」がやってきた。

 事前に保育士たちが、そわそわとした様子で「高梨さんご夫妻が、いよいよ蓮くんに会いに来るわよ」と話していたのを、蓮の鋭い聴覚は聞き逃さなかった。


 部屋に入ってきたのは、三十代半ばほどの、身なりの整った男女だった。

 男の名は、高梨弦たかなし げん。少し不器用そうだが、芯の強そうな、穏やかで理知的な目をした男。

 女の名は、高梨恭子たかなし きょうこ。優しげな顔立ちの中に、どこか芯の通った「母性」の強さを感じさせる、温和な雰囲気の女性。


 保育士に抱かれ、彼らの前に差し出された蓮は、そのヘーゼルの瞳を細めて二人をじっと見つめた。


(さあ……見極めさせてもらおう。お前たちが、この私の『育ての親』としてふさわしい器を持っているかどうかをな)


 賢者としての鋭い視線が二人を射抜く。

 普通の赤児なら、見知らぬ大人を前にして泣き出すか、目をそらす。だが、蓮は微動だにせず、ただ静かに、冷徹に二人の表情や挙動、発する「気」を観察した。


「……まぁ、なんて綺麗な目。弦さん、見て。この子、私たちをじっと見つめているわ」


 恭子が、息を呑むようにして呟いた。その声には、単なる「可愛い赤ん坊を見た」という感嘆以上の、深い魂の震えが混じっていた。

 弦が隣から覗き込む。


「本当だ。外国の血が入っているのかな……くぐもった金髪に、ヘーゼルの瞳。それに、なんだか、凄く大人びた目をしている。まるで、僕たちのことを見定めているみたいだ」


(ほう……察しが良いな。ただの凡夫ではないらしい)


 レンは心の中で小さく評価を下した。

 弦は姿勢を正し、蓮の前にゆっくりと屈み込んだ。その動作には、赤児を怖がらせまいとする、極めて細やかな配慮と、命に対する強い敬意が感じられた。


「蓮くん、っていうんだね。……こんにちは、高梨だよ」


 弦が、ゆっくりと右手を差し伸べてきた。

 大きく、働く男の、しかしひどく優しい温もりを持った手。

 レンは、その手をじっと見つめた。

 かつて自分が雫に遺そうとした財産は、あの醜悪な親族どもにことごとく強奪された。だからこそ、今度の「親」となる存在には、金銭的な豊かさだけでなく、魂の気高さ、そして自分という不気味なほどの非凡さを見せるであろう赤児を、偏見なく包み込める「器」が必要だった。


 レンは、自身の小さな手を伸ばし、弦の無骨な人差し指をぎゅっと握りしめた。


「おっ……握ってくれた」


 弦の顔が、一瞬にしてくしゃりと綻んだ。

 それは、打算も嘘もない、純粋な歓喜の表情だった。その瞳の奥には、これからこの小さな命を、何があっても自分の手で守り抜くのだという、強固な、そして男としての覚悟が、静かに、しかし確かに宿っていた。


「弦さん……」


 恭子が、愛おしそうに夫とレンを見つめ、そっとレンの小さな頭を撫でた。

 その手のひらは、かつて最期に雫が自分を愛おしんでくれた、あの温もりに酷似していた。


「蓮くん。私たち、子どもに恵まれなくてね。ずっと、あなたのような可愛い子を待っていたの。私たちのところへ、来てくれるかな?」


 恭子の声の端々から、深い慈愛と、この子を大切に育てるのだという揺るぎない祈りが伝わってくる。


(なるほど……。お前たちの魂には、濁りがない。この魔力の薄い退屈な世界において、これほど澄んだ、美しい精神を持った人間に巡り会えるとは、私は幸運だな)


 レンの緊張が、ゆっくりと解けていく。

 彼らなら、自分がこれから成長していく過程で見せるであろう、常識外れの才能や行動も、恐れることなく「愛」をもって受け止めてくれるかもしれない。いや、彼らなら、自分の「第二の親」としての器に十分すぎるほど足りている。


そう確信した瞬間――

レンの身体に、ふたたび「赤児の限界」が訪れた。

あまりに深く思考を巡らせ、彼らの魂を見定めようと神経を尖らせすぎたため、この幼児の未発達な脳の容量が、一気に限界を迎えたのだ。


(しまっ……た。睡魔が……。抗え、ない……)


瞼が、どうしようもなく重くなる。

大人のプライドとしては、最後まで理性を保って彼らを迎え入れたかったが、肉体の本能は容赦なく彼の意識をシャットダウンしにかかる。

レンの小さな身体が、ふにゃりと力を失い、弦の指を握っていた手が離れた。


「...。あ、寝ちゃったわ。よっぽど緊張していたのかしら。可愛いね、本当に……」


恭子の優しい笑い声が、遠のいていく意識のなかで心地よく響いた。

弦が、蓮を抱き上げる。その腕は、驚くほど安定しており、蓮をそっと、しかし絶対に落とさないという強い意志を伴って包み込んでいた。


(高梨、弦……。そして、恭子……。お前たちを、私の新しい父母として認めよう。この私が産まれてきたことに、絶対に後悔はさせない。お前たちの愛に、いつか、賢者としての最高の恩恵をもって応えてみせる)


眠りに落ちる刹那。

蓮は、新たな両親の温もりをその肌に感じながら、確かな、そして穏やかな安らぎのなかで、静かに目を閉じた。


こうして、異世界の賢者レン・ヴァルハイトは、「高梨 蓮」としての新しい人生の第一歩を、温かな、守られたゆりかごのなかで、力強く踏み出したのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ