三話 産声のち、断絶の祈り
その瞬間は、凄まじい圧迫と、引き裂かれるような世界の崩壊から始まった。
温かく、淀みなく自身を満たしていた揺り籠が、容赦のない収縮をもってレンの小さな肉体を押し潰しにかかる。
外から聞こえるのは、雫の悲痛な絶叫。
そして、張り詰めた空気の中で飛び交う、見知らぬ他者たちの緊迫した怒号。
「お母さん、頑張って! 息を吸って、吐いて――!」
「頭が見えてきました! もう一息です!」
冷たい空気が、未知の重力が、押し寄せる光の奔流が、レンの未熟な感覚を一気に貫いた。
肺が。
かつて異世界の極限の冷気すら物ともしなかった魂が宿る、この頼りない肉体の肺が、生まれて初めて「大気」という異物を無理やり吸い込まされる。
その劇的な痛みに、レンの意志とは無関係に、喉の肉が震えた。
「――おぎゃぁっ、あ、あぁぁぁ……っ!」
産声だった。
何という無様。何という、原始的な叫び。
最高位の賢者であった誇りも、洗練された魔術の詠唱もそこにはない。ただ生を維持するために空気を求め、絶叫する肉体の奴隷となった己がそこにいた。
だが、その不格好な叫びを聞いた瞬間、寝台の上から、弱々しくも、この世で最も温かい声が響いた。
「……あ、あぁ……。産まれた……。私の、赤ちゃん……」
視界は涙と、胎脂と、強烈な産院の照明でひどくぼやけている。
しかし、かすむ色彩の向こう側で、ぼろぼろになりながらも、慈愛に満ちた瞳で自分を見つめる雫の顔が、確かに見えた。
助産師の手によって、レンの小さな身体が温かい布に包まれ、雫の胸元へと運ばれる。
肌と肌が触れ合う。
異世界で一度命を失い、お腹の中でその絶望を共有し、ようやくこの世界で再会できた。
レンは、自身の短い腕を伸ばし、雫の胸元を小さく掴んだ。
「よくがんばったね……。私の、可愛い子。レンが……あの人が還ってきてくれたみたい。あなたの名前は……『蓮』。蓮の花のように、泥の中でも、美しく、強く咲いてね……」
蓮。
かつての自分の名を、この国の言葉で、より深い願いを込めて紡いでくれた。
蓮は、その言葉を、己の新しい魂の真芯へと深く刻み込んだ。
しかし、幸せな時間は、驚くほど短かった。
雫の身体は、出産という激労働に耐え抜いたものの、その精神と生活は、すでに限界をとうに超えて擦り切れていたのだ。
産院の窓の外は、凍てつくような冬の気配が漂っていた。
親族にすべてを奪われ、住み慣れた洋館から叩き出された雫が、どれほどの苦難を経てこの出産に漕ぎ着けたのか。蓮は彼女の胸の、かつてのような力強さを失った、不規則でか細い鼓動からすべてを察していた。
一週間後。
産院を退院した雫が身を寄せたのは、うらぶれた安アパートの一室だった。
隙間風が吹き込み、壁は薄く、隣室の騒音が容赦なく響く。
夜。雫は暖房器具すら十分に回せない部屋で、蓮を抱きしめながら、ただ、静かに泣いていた。
「ごめんね……蓮。ごめんね……。私のせいで、こんな、寒い思いをさせて……」
ミルクを買うお金すら、底を突きかけている。
あの強欲な親族どもは、雫が「未婚で子を産んだ」という事実を盾に、地域社会での孤立を深めるよう裏で手を回していたのだ。仕事を探そうにも、乳児を抱えた身で雇ってくれる場所などなく、親族からの容赦のない監視と嫌がらせが、彼女の精神をじわじわとすり潰していく。
蓮は、その様子を横たわりながら見つめるしかなかった。
(雫……泣かないでくれ。私が、私がいる。私が必ずお前を救う)
必死で手を伸ばし、彼女を抱きしめ返そうとする。
だが、赤児の腕は虚空を泳ぐだけで、雫の肩にすら届かない。
お腹が空けば、本能が脳を支配し、ただ「ぎゃあぎゃあ」と情けない泣き声を上げることしかできない。
オムツが濡れれば、不快感に耐えかねて涙を流すことしかできない。
かつて因果を統べた賢者が、ただの生理的欲求の塊として、己の意思とは無関係に泣き喚く。
そして、その泣き声を聞いて、雫は「私のせいで、この子にお腹いっぱい食べさせてあげることもできない」と、さらに自分を責めて涙を流す。
最悪の悪循環だった。
(違うんだ! 雫! 泣かないでくれ! 私は大丈夫だ、空腹などいくらでも耐えられる! だから、そんな悲しそうな顔をしないでくれ!)
どれほど強固な精神力を持っていようとも、赤児の「ハードウェア」が肉体を縛る。
意思を伝える術がない。
言葉を紡ぐことも、魔力を練って彼女に温もりを与えることもできない。この魔力の薄い世界で、赤児の未発達な魔術回路を無理に動かせば、最悪の場合、自身の脳が焼き切れてしまう。
何もできない。ただ、彼女の絶望を特等席で見せつけられるだけ。
それは、異世界で体験したどの拷問よりも、遥かに残酷な苦痛だった。
そして、運命の夜が訪れる。
アパートの狭い部屋で、雫は蓮をじっと見つめていた。
その目は、何か重大な、そして悲痛な決意に満ちていた。
「蓮……。お母さんね、決めなきゃいけないの」
彼女の声は、静かに震えていた。
「このまま私のところにいたら……あなたを、死なせてしまう。私には、あなたに温かいご飯を食べさせることも、冷たい風から守ることも、もうできない……」
雫の涙が、蓮の頬にぽつりと落ちた。
冷たいアパートの空気の中で、その一滴だけが、痛いほど熱かった。
「あなたを……手放すわ。私なんかより、ずっと優しくて、ちゃんとしたお父さんとお母さんのところへ、あなたを届けてもらうの。その方が、あなたは絶対に、幸せになれるから……」
(何を……何を言っているんだ、雫!)
蓮は目を見開き、必死に声を上げようとした。
「あ、う……あ、あぁーっ!」
しかし、言葉にならない。ただの幼児の、意味をなさない喃語が部屋に虚しく響くだけだ。
嫌だ。離れたくない。
どれほど貧しくても、どれほど寒くてもいい。あなたの隣にいることこそが、私の唯一の望みなのだ。
だが、雫はそれを「お腹を空かせた赤児の泣き声」としか受け取れない。彼女は蓮をより強く抱きしめ、声を殺して号泣した。
「ごめんね……ごめんね、蓮……! お母さんを、許して……!」
彼女の決意が、愛情ゆえの「絶望的な決断」であることを、蓮は誰よりも深く理解してしまった。
自分が彼女にとって「重荷」になっているのではない。彼女は、自分の命を守るために、己の引き裂かれるような痛みを耐えて、蓮を未来へ託そうとしているのだ。
赤児には、泣いて意思表示をすることしかできない。
そのどうしようもない無力感と、冷たい現実が、蓮の胸を締め付ける。
(雫……分かった。お前の祈りを受け入れよう。お前が私の生を願うなら、私はどんな泥をすすってでも生き延びる)
蓮は泣くのをやめ、その澄んだヘーゼルの瞳で、雫の顔をじっと見つめた。
これが、しばしの別れだ。
だが、これは終わりではない。
(必ず、迎えに行く。私が、この手で、お前を地獄から引きずり上げ、あの奪われた洋館と、お前の笑顔をすべて取り戻してやる。それまで、どうか生きていてくれ――)
翌日、冷たい冬の朝。
蓮は乳児院のベビーベッドに横たえられていた。
去りゆく雫の、消え入るような背中と、遠ざかる足音を耳にしながら、
小さな赤児は、声なき誓いを、その小さな胸の中で何度も、何度も繰り返すのだった。




