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異世界賢者の平穏な復讐  作者: かぶんす


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二話 胎動の闇と、届かざる絶望

 意識の糸は、完全に途切れたはずだった。

 数百年におよぶ「賢者」としての歩みは終わり、魂は無に還るか、あるいは輪廻の濁流へと押し流されるものと確信していた。

 だが、どれほどの時間が経ったのだろうか。

 レン・ヴァルハイトは、奇妙な感覚と共に再び「自己」を認識した。


(私は……まだ、消えていないのか?)


 そこは、果てしなく深い闇の中だった。

 上下も左右もなく、重力すら曖昧な、温かく湿った揺り籠。

 自らの肉体を探ろうとするが、手足の感覚がひどく頼りない。指を動かそうとしても、自分の意思が神経を通って末端に届くまでに、途方もない微弱なズレが生じる。かつて世界最強と謳われた自らの肉体性能、そして空間そのものを支配していたあの広大な魔力は、どこを見渡しても存在しなかった。

 代わりにあったのは、ドクンドクンと、一定の周期で刻まれる巨大な鼓動。

 そして、自らの小さな胸の奥で、それに呼応するように健気に脈打つ、もう一つの小さな鼓動だった。


(この温もり、そしてこの音は――)


 レンは理解した。

 自身に刻まれていた最古の「転生」の深層秘術が、死の間際に彼の意志とは無関係に発動したのだ。いや、それは術式によるものだけではない。最期に雫の腹に手を当て、その中に宿る命を「守りたい」と強く願った、彼の魂の強烈な執着が引き起こした奇跡。

 レンは今、最愛の女性、穂積雫のお腹の中にいる。

 彼女の血を吸い、彼女の体温に守られながら、いつか産まれてくる「我が子」そのものとして生きているのだ。


(私は、彼女の子どもとして生まれ変わるのか)


 かつて愛した女性の息子になる。

 それは世の倫理から見れば、いささか歪で、複雑な関係性かもしれない。だが、今のレンにとって、それはこの上ない救いだった。夫として彼女の隣を歩むことはもう叶わなくても、息子として、最も近い場所から彼女を支え、守り抜くことができる。

 レン――いや、この新たな命の魂は、深い感謝と安らぎの中で、再び眠りにつこうとした。


 しかし、世界の現実は、彼に穏やかな眠りを許さなかった。


 羊水を通じて、外界の「声」が伝わってくる。

 骨を伝い、水に遮られ、ひどくくぐもった音。だが、かつて賢者としてあらゆる言語と波動を解読したレンの聴覚は、その不穏な響きを正確に拾い上げてしまった。


「――だから、雫ちゃん。お父様が亡くなった今、この家を維持していくなんて無理に決まっているだろう?」


 聞き覚えのある声だった。いや、不快な記憶の底にある声だ。

 雫の親族。たしか、彼女の伯父にあたる男の声。

 その言葉には、かつて異世界の宮廷闘争で腐るほど耳にしてきた、強欲と欺瞞、そして他者を食い物にしようとする冷酷な「悪意」が凝縮されていた。


「でも、叔父様……。レンが遺してくれたこの家は、私と、これから産まれてくるこの子のための場所なんです。レンが、私たちが一生困らないようにって、すべて整えてくれたから……」


 雫の声が聞こえる。

 お腹の壁が、彼女の呼吸の乱れと、激しい動揺を伴って小さく震える。その恐怖と悲しみが、へその緒を通じて、レンの小さな心臓へと容赦なく伝わってきた。

 レンの魂は、激しい怒りに燃え上がった。


(よくも……よくも、私の雫を脅かそうとするな!)


 かつての彼なら、指先をわずかに動かすだけで、これら不敬極まりない凡俗どもを魂ごと灰に帰すことができた。だが、今の彼は、暗闇の中で浮遊する、体長わずか数十センチメートルの未熟な胎児に過ぎない。

 発声器官すら完成していない肉体では、怒りの声を上げることもできない。


「雫ちゃん、君は世間を知らなさすぎる。レンとかいう素性の知れない男が遺した金が、本当に安全なものだと思っているのかい? 税務署や警察が動けば、一発で没収されるような怪しい資金だ。我々穂積家が、君の代わりに『管理』してあげると言っているんだ。彼が遺した複数の口座も、今の君の名義では動かせなくなる。すべてこちらに一度移しなさい。それが、君とお腹の子のためだ」


「そんな……そんなはずありません! レンは完璧に手続きをしてくれたって……」


「あいつはただの詐欺師だ! 君を騙して、不法な手段で手に入れた金を押し付けただけに決まっている! いいから、この書類にサインをしろ!」


 罵声。

 そして、紙が擦れる音。

 雫が、恐怖で息を呑む音が、お腹の中にいるレンに痛いほど響く。


(違う! 私の遺した財産は、この世界の最高峰の法学者と魔術的な精神操作をもって、完全に合法かつ安全に処理したものだ! 詐欺などではない! その男こそ、お前を騙し、すべてを奪おうとしているのだ!)


 必死に叫ぼうとするが、口から漏れるのは、ただの泡のような羊水の揺らぎだけ。

 レンは暗闇の中で、もがくように手足を動かそうとした。

 だが、その微弱な胎動は、外界の親族たちには届かない。

 

「お腹の子のためにも、賢い選択をすることだね。さもなければ、君は未婚の母として、一銭の蓄えもないまま、この家から叩き出されることになる。親族一同、君の非行を許すわけにはいかないからね」


「……あ、う……」


 雫が、すすり泣く。

 その絶望、裏切りへの恐怖、そしてお腹の我が子を守らねばならないという極限のプレッシャーが、レンの意識を容赦なく締め付ける。

 

 そして――何かが、雫の指によって決定的に引き裂かれた気配がした。

 彼女は、親族たちの甘言と脅迫に屈し、署名してしまったのだ。

 レンが、彼女の生涯の安全を保障するために構築した「完璧な防御」が、彼女自身の心を踏みにじる親族たちの手によって、内側から瓦解させられた瞬間だった。


(ああ……何ということだ。私が、もっと早くに彼らを排除しておくべきだった。この世界は、あまりに平穏だと、私が油断していたのだ……!)


 己の甘さを、何もできない今の肉体の無力さを、レンは心の底から呪った。

 愛する者を守るために遺した財産を、彼女を陥れる害虫どもに根こそぎ奪われていく。

 お腹の雫は、ただ悲痛に泣き崩れている。その涙が、レンの魂を凍てつかせる。


(許さない。決して、許しはしない)


 暗闇の中で、レンの心は冷徹な復讐の炎で満たされていった。

 

 今、この小さな身体では何もできない。彼らの悪事を止めることも、雫の涙を拭うことも。

 だが、この魂に刻まれた賢者の知識と、復讐の炎は消え去ってはいない。

 産まれるその日まで、力を蓄えるのだ。

 この脆弱な肉体を極限まで鍛え、魔力を練り上げ、いつか、雫を地獄へ突き落としたすべての者たちに、等しい、いやそれ以上の絶望を与えてやる。


(待っていなさい、害虫ども。我が最愛の雫を泣かせた代償は、お前たちの血と、地位と、人生そのもので支払わせてやる)


 胎児としての小さな拳を、レンは暗闇の中で強く、強く握りしめた。

 最愛の母となる雫の悲しい泣き声を、その全身で受け止めながら、賢者の魂は静かに、牙を研ぎ始めたのだった。

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