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異世界賢者の平穏な復讐  作者: かぶんす


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一話 レン・ヴァルハイトの終焉

 呼吸が、ひどく冷たかった。

 吸い込む空気は肺を凍てつかせるガラスの破片のようで、吐き出す息には、かつて世界を震撼させた魔力の残滓すら混じってはいない。

 シーツの擦れる微かな音さえ、今の耳には遠い地鳴りのように響く。


「……レン。レン、聞こえる?」


 枕元から、震える声が聞こえた。

 その声の主を、忘れるはずがない。レン・ヴァルハイトにとって、この退屈で、平穏で、どこまでも優しい世界――「日本」という異郷において、唯一の光であった女性。穂積雫。

 ゆっくりと、鉛のように重い瞼を持ち上げる。

 視界はひどくかすんでいたが、彼女の美しい黒髪と、涙に濡れた瞳だけははっきりと捉えることができた。

 

 レンは、若返りの秘術を使っていた。

 異世界の最高峰に君臨した「賢者」としての知識を総動員し、この魔力の希薄な世界でも機能する術式を編み上げ、自らの肉体を二十代の全盛期の姿に保ち続けていたのだ。すべては、雫の隣にふさわしい男であり続けるため。彼女と同じ時間を、同じ若さで歩むため。

 しかし、肉体は偽れても、魂の寿命だけは欺けなかった。

 器をいくら新しく繕おうとも、中身である「魂」そのものが、数百年という歳月の果てに磨耗し、ひび割れ、今まさに霧散しようとしていた。


(ああ、ついにこの時が来たか……)


 死に対する恐怖はなかった。異世界ヴァルハイトにおいて、レンは数多の生と死を見届けてきた。己の手で奪った命も、救えなかった命も、数え切れないほどある。死とはただの自然現象であり、因果の終着点に過ぎない。

 だが、脳裏に去来する記憶が、彼の冷徹な理性を狂わせる。


 ――混濁する。

 目の前にいる雫の泣き顔と、かつて異世界で繰り広げた泥沼の戦争の光景が、重なり合って脳を苛む。

 天を衝く炎。崩れ落ちる城壁。絶叫する兵士たち。

「賢者レン! 我が一族の復讐を!」と呪詛を吐き散らしながら死んでいった、かつての敵たちの憎悪に満ちた目が、寝室の闇のあちこちから彼を見つめている。

 それと同時に、この日本の静かな洋館で過ごした、雫との暖かな記憶が割り込んでくる。

 ふたりで食べた不格好な手作りケーキの味。

 縁側で並んで眺めた、日本の四季の美しさ。

 「レン、私ね、あなたと出会えて本当に幸せよ」と、はにかみながら微笑む雫の、柔らかい手のぬくもり。


(静かにしてくれ……。私の最期を、血の記憶で汚さないでくれ。私は今、ただの男として、彼女だけを見て逝きたいのだ)


 だが、異世界の記憶は容赦なくレンの精神を侵食する。

 かつて彼が犯した冷酷な決断、切り捨てた命、その冷たい復讐の連鎖が、彼の死の間際になって押し寄せてくる。神にすら並ぶと言われた賢者としての己の業が、この期に及んで、ただ一人の女性を愛する「普通の男」としての死を阻もうとするのだ。

 レンの呼吸が不規則に乱れる。額に脂汗が浮かび、身体が硬直する。


「レン! 嘘でしょう、逝かないで……! 私を一人にしないで……!」


 雫がレンの、若く、しかし急速に体温を失いつつある右手を両手で包み込んだ。

 その温もりが、レンの精神を辛うじて現代へと繋ぎ止める。

 彼女を一人にして逝く。その申し訳なさと、遺していく生活に困らないだけの莫大な財産のことが頭をよぎる。自分が死んでも、この家と、自分が用意した複数の口座にある資金があれば、雫は一生不自由なく暮らせるはずだ。親族たちにその存在を嗅ぎつけられないよう、術式と法的な防御は完璧に施してある。

 だから、大丈夫だ。心配はいらない。

 そう自分に言い聞かせようとした、その時だった。


 雫が、彼の冷たい手を、自らの下腹部へと導いたのだ。


「レン……お願い、聞いて。ここにね、いるの」


 雫の、涙に濡れた、しかしこれまでで最も強い光を宿した瞳がレンを見つめた。


「あなたと、私の……赤ちゃん。私たちの、子どもがいるの。だから……だから、目を開けて。まだ、お別れなんて言わないで……!」


 ドクン。


 レンの指先を通じて、微かな、しかし生命力に満ちあふれた「鼓動」が伝わってきた。

 それは魔術的な感知ではない。単なる肉体の接触を通じた、生への、そして未来への明確なシグナルだった。

 

 その瞬間、レンの脳内を支配していた異世界の血生臭い幻影が、跡形もなく消し飛んだ。

 深い闇の底に、一筋の、極彩色の光が差し込んだかのような衝撃。


(私と、雫の……子ども?)


 何ということだ。

 賢者としてのあまりに長い生の中で、子を成すことなど、一度として考えたこともなかった。血脈とは、権力闘争の道具であり、呪いの依り代に過ぎないとすら思っていた。

 だが、今、この手から伝わる小さな震えは、これまでに彼が紡いできたどの高位魔術よりも神秘的で、どの精霊の囁きよりも尊かった。


 自分と、愛する雫の、生きた証。

 それは、彼がこの世から消え去っても、彼女を孤独から救うための最後の「盾」であり、ふたりの愛が結んだ唯一無二の「奇跡」だ。


(ああ……神など信じてはいなかったが。これほどまでに完璧な終焉を、私に用意してくれていたというのか)


 死への恐怖や、精神の葛藤は、瞬時にして歓喜と、深い安らぎへと昇華された。

 自分が死んでも、自分の一部は彼女と共に生き続ける。

 そして、この愛しい我が子が、残される雫を支える光となるだろう。


「雫……」


 声にはならなかった。だが、レンは最後の魔力を指先に集め、雫の頬をそっと撫でた。

 彼女の涙を拭うように。

 そして、その手のひらをもう一度、彼女の優しいお腹の上へと戻した。


(私は死ぬ。だが、終わりではない。雫、そして我が子よ……どうか、幸せに)


 たとえ、どのような運命がふたりを待ち受けていようとも。

 自分の魂がどこへ行こうとも。

 このふたりを、必ず守り抜く。もし生まれ変わることが許されるなら、今度は彼らの盾となり、剣となって、あらゆる敵からその笑顔を守るために生きよう。

 

 冷たい霧が、レン・ヴァルハイトの意識を包み込んでいく。

 しかし、その心は不思議なほどに暖かかった。

 最愛の女性の泣き顔と、そのお腹に宿る小さな、しかし温かい命の種火を、そのヘーゼルの瞳の奥深くに焼き付けながら――。


 異世界の賢者は、静かに、そして満ち足りた微笑みを浮かべて、その長い生涯に幕を閉じた。

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