十話 静まり返る嵐と、譲らぬ境界
地元の公立中学校への進学。それは、高梨蓮、森本綾、堂島大輝の関係性を、より逃げ場のない「閉鎖的な地獄」へと変貌させる引き金に過ぎなかった。
十四歳、中学二年生。
思春期特有の残酷な牙を剥き始めた堂島大輝の主導によるいじめは、もはや小学校の頃のような口頭のからかいなどという生易しいレベルをとうに超えていた。
「おい、高梨。ちょっと面貸せよ」
放課後の部室棟の裏。人気のないコンクリートの壁に、蓮は数人の男子生徒によって押し付けられていた。
中心に立つ大輝の目は、以前にも増して濁り、歪んだ優越感に濡れている。
「何ですか、堂島くん。私はこれから、自習室に行く予定があるのですが」
「うるせぇんだよ、その偉そうな口の利き方が気に入らねぇんだ!お前、1年生に暴力振るったらしいな、やってないとか言い訳して、結局信じてもらえないとか笑える」
大輝の取り巻きの一人が、蓮の胸ぐらを乱暴に掴み、壁に叩きつけた。鈍い音が響き、蓮のくぐもった金髪が乱れる。だが、蓮のヘーゼルの瞳は、恐れや怒りといった感情の波を一切立てず、鏡のようにただ大輝たちを映し出していた。
「あなたたちが今してるようなことは一切してませんが」
実際、蓮の肉体に痛みはほとんどなかった。
彼は「賢者レン」の精神力と、極限まで再構築された細胞の驚異的な「自己修復機能」を有している。衝撃の瞬間に魔術回路を微細に稼働させ、体内の圧力を逃がす術を心得ていた。彼らに殴られ、蹴られたとしても、蓮にとってはただの「微振動」に等しい。
(浅はかな打撃だ。拳の角度、体重の乗せ方、どれをとっても三流以下。肉体の痛みよりも、このような無価値な時間につきあわされていることの方が、私の魂にとってはるかに苦痛だな)
蓮は心の中で冷酷なスコアシートを書き換えるように、大輝たちの「罪状」を淡々と積み上げていた。
いじめに耐えているのではない。彼は、来るべき日のために「牙」を研ぎ、彼らを法的に、社会的に、言い逃れのできない深淵へと叩き落とすための「確実な証拠」を、自らの肉体と記憶に克明に収集しているのだ。
しかし、その「耐える姿」は、何も知らない大人たち、そして何より蓮を愛する養親の心を引き裂いていた。
「蓮……! その制服の汚れは、どうしたの?」
その日の夜、リビング。
擦り切れた制服と、わずかに赤くなった頬(※これすら、不自然さを消すためにあえて蓮が治療を遅らせたものだった)を見た琴葉が、悲鳴のような声を上げた。
弦もまた、仕事帰りの疲れた顔を驚愕に変え、蓮の前に膝をついた。
「学校で……また大輝くんたちに何かされたのか? 蓮、隠さずに言ってくれ。お父さんは、お前がそんな傷を作ってくるのを見て見ぬふりなんてできない!」
「大いたことではありません、父さん。階段で少し、足を踏み外しただけです」
「嘘をつくな!」
弦が、珍しく激しい声を荒らげた。その目には、涙がたまっていた。
「学校には何度も連絡した! だが、担任も学年も『生徒同士のよくあるトラブル』だとか『高梨くん自身にも協調性に欠ける部分がある』などと言って、まともに調査すらしてくれない! ……蓮、もうあんな学校に行かなくていい。すぐに転校の手続きを取ろう。隣町の、もっとまともな私立中学校へ移るんだ。僕たちはお前を守りたいんだ!」
恭子もまた、蓮を後ろから抱きしめ、声を震わせた。
「そうよ、蓮……。お願いだから、自分を犠牲にしないで。お母さん、あなたが毎日傷ついて帰ってくるのを見るのが、何よりも辛いの……。実のお母さんを捜すのだって、私たちが代わりにいくらでも続けるから、蓮は安全な場所にいてほしいの」
養親たちの、命を削るような無償の愛。
その温かさが、蓮の胸を締め付ける。彼らの言う通り、転校すればこの矮小ないじめからは一瞬で解放されるだろう。
だが――。
(ここで退くわけにはいかない)
蓮は、静かに、しかし断固とした意志を宿したヘーゼルの瞳で弦と恭子を見つめた。
「父さん、母さん。お気持ちは、本当に、痛いほど伝わっています。ですが……転校はできません」
「なぜだ、蓮! あそこにしがみつく理由なんて、何一つないはずだ!」
「あります」
蓮は、弦の手を強く握り返した。
「この町には、私の実の母――穂積雫の、最後の足跡があります。そして、私をいじめている堂島大輝の背後には、かつて実母から家も、財産も、尊厳もすべてを騙し取った『穂積家』の親族たちの影が、複雑に絡み合っているのです。……私は、あの大輝たちの『悪意の構造』を近くで観察し、彼らが自滅するための決定的な証拠を手に入れなければならない。今ここで逃げれば、母への手がかりは完全に潰え、私たちは一生、あの悪党どもに怯えて暮らすことになります」
蓮の言葉は、中学生のそれではなく、完全に「復讐を誓う賢者」の宣告だった。
「私は耐えているのではありません。彼らを見定めているのです。ですから、どうか……私を、あの場所にいさせてください。私には、決して壊れない心と、彼らに屈しない盾があります」
その静かで圧倒的な覚悟に、弦と恭子は沈黙せざるを得なかった。
彼らは蓮の中に、自分たちの想像を絶する「巨大な意志」が眠っていることを知っている。だからこそ、その意志を尊重し、信じることしかできなかった。
「……分かった。だが、絶対に、無理はしないでくれ。僕たちはいつでも、お前の盾になるからな」
弦は絞り出すようにそう言い、蓮の頭を強く抱きしめ。
翌朝。
冷たい風が吹き抜ける通学路。蓮は、いつものように一人で歩いていた。
すると、背後から小走りに近づいてくる気配があった。
「蓮くん……! 待って!」
乱れた黒髪を揺らし、左側のヘアピンを光らせた森本綾が、息を切らせて蓮の隣に並んだ。
彼女の大きな瞳は、蓮の頬の微かな赤みを見逃さなかった。その瞬間に、彼女の顔が悲しみと、大輝たちへの怒りで歪む。
「大輝くんたち、また……。ごめんな、蓮くん。うち、昨日も大輝くんに『いい加減にしぃや!』って言ったのに、あいつ、全然聞いてくれへんで……。うちが蓮くんを庇うと、もっと怒るんよ。……うちのせいで、蓮くんが余計に痛い目に遭ってるんちゃうかって、夜も眠れへんくて……」
綾の声が、今にも泣き出しそうに震える。
蓮は立ち止まり、彼女を真っ直ぐに見つめた。
彼女の、自分を想う純粋な感情。それが、大輝の嫉妬を買い、いじめを過激化させているのは紛れもない事実だった。だが、蓮はそれを彼女の責任だとは微塵も思っていなかった。
「綾。あなたのせいではありません。これは、堂島くん自身の精神の歪みが引き起こしている問題です。あなたが私を心配してくれることは、私にとって……決して無意味なことではありません」
「蓮くん……」
「ですから、泣かないでください。私は大丈夫です。あどのような者たちに、私の心が屈することはありません。……あなたには、今まで通り、私の傍で笑っていてほしい」
蓮が静かに微笑むと、綾はこぼれ落ちそうだった涙を必死に堪え、胸元をぎゅっと掴んだ。
その胸の奥で、蓮への恋心が、さらに深く、決定的なものとして刻まれていく。
「うん……! うち、絶対に泣かへん。蓮くんが耐えてるなら、うちも、ずっと隣で蓮くんを支える!」
朝日が、二人の行く先を冷たく、しかし確かに照らし出す。
高梨蓮の中学校生活は、いじめの嵐のただ中にあった。
だが、彼の心は、どれほどの風雨にさらされようとも、一ミリたりとも揺らぐことはない。
嵐の後に訪れる、完璧な「冷たい復讐」の収穫期を、彼は静かに、虎視眈々と狙い続けていたのだった。




