【挿絵付】第5話 静かに暮らす予定だった
空き家の中に入った瞬間、床板がぎし、と鳴った。
私は足を止める。
ピヨも止まる。
村長も止まる。
そして、外からのぞいていた子どもたちまで、なぜか息を止めた。
「……壊れませんよね?」
「大丈夫ですぞ。たぶん」
「たぶんを家の説明に使わないでほしいです」
村長はにこにこしている。
この人は、悪い人ではない。
悪い人ではないのだけれど、山奥の村で長く生きてきた人特有の、少々の不便なら不便に数えない強さがある。
私にはまだ、その境地は遠い。
部屋は二つ。小さな台所と、寝床を置けそうな奥の部屋。
屋根はある。壁もある。窓もある。寝られる。
転生直後に空を飛んでいた私からすれば、かなりの進歩である。
「完璧では?」
「基準が低いぞ、ミリィ」
「ついさっきまで家なしだったからね」
ピヨは短い足で部屋の中央へ進もうとして、床板の隙間に足を取られた。
「ぬっ」
「空の王、床に負ける」
「これは床が我を試しているのだ」
「床に試される王」
外の子どもたちが笑った。
ピヨは胸を張ろうとしたが、まだ足が抜けていない。
私はしゃがんで、そっと助けた。
「まずは掃除ですね」
「ええ。ほうきと布くらいなら用意できますぞ」
「ありがとうございます。でも、あまり手間をかけるのは」
「遠慮はいりません。困ったら何でも相談してください」
出た。
危険な言葉である。
何でも相談。
言っている側は親切だ。受け取る側もありがたい。
けれど、その言葉は、小さな相談が大きな荷物へ育つ入口でもある。
「なるべく自分で何とかします」
「しっかりしておられる」
「逃げ道を確保しているだけです」
「お若いのに」
「二十一です」
「おや」
村長は本気で驚いた。
そこまで驚かれると、こちらも少し傷つく。
女神さま。
童顔設定、思ったより効いています。
******
村長が帰ってから、私は家の中を見回した。
古い机。椅子。空っぽの棚。奥の部屋には、板を組んだだけの寝台。
かまどには煤が残っている。扉は傾いていて、閉めると最後に少し引っかかる。窓の留め具はゆるい。壁の隙間から、細い風が入ってくる。
不便の見本市だった。
でも、住めないわけではない。
そこが厄介である。
魔法で直すほどではない。けれど、放っておくとじわじわ気になる。
私は自分の指先を見た。
意識すれば、すぐ魔力が集まる。
床板を整える。扉の歪みを直す。煙突の煤を消す。壁の隙間をふさぐ。
たぶん、一息でできる。
たぶん、ものすごく楽だ。
「魔法でやればよかろう」
ピヨが当然のように言った。
「やらない」
「なぜだ」
「見られたら終わるから」
「誰に」
私は窓のほうを見た。
外に、子どもの顔が三つ並んでいた。
目が合う。
「わっ」
「見つかった!」
「鳥、まだしゃべる?」
「今の状況で気にするのそこ?」
子どもたちは逃げるどころか、窓の外でさらに前のめりになった。
この村の警戒心は、山に置いてきたのだろうか。
「ねえ、ミリィさん、何してるの?」
「掃除」
「魔法?」
「掃除」
「魔法の掃除?」
「普通の掃除」
私はきっぱり言った。
危なかった。
いま指先を光らせていたら、明日には村中に広まっていた。
いや、明日どころか夕飯前には広まっていたかもしれない。
そして次の日には、壊れた桶、傾いた扉、詰まった煙突が列を作る。
村の修繕担当魔女。
絶対に嫌だ。
「手でやる」
「面倒ではないか」
「面倒で済むなら安い」
私は袖をまくった。
まずは窓を開ける。埃が舞う。ピヨがくしゃみをする。
「ぶえっ」
「神聖なくしゃみ?」
「うむ」
「便利な言葉」
外の子どもたちがまた笑った。
見物されながらの掃除。
静かな暮らしとは。
******
掃除道具は、すぐに集まった。
私が頼んだわけではない。
村の情報網が勝手に働いたのである。
「ほうき、いるだろうと思ってね」
最初に来たおばさんは、ほうきと布を持っていた。
「ありがとうございます」
「あと、桶。古いけど水は入るよ」
「助かります」
「それと毛布。洗ってあるから」
「本当に助かります」
そこで終わると思った。
終わらなかった。
「鍋はあるか?」
畑のおじさんが、へこんだ鍋を持ってきた。
「ないです」
「なら使え。へこんでるが、煮れば同じだ」
「料理への信頼が強い」
「水桶もいるな」
「さっきもらいました」
「なら二つあっても困らん」
「困らないけど増える」
干し肉。
塩。
古い皿。
薪。
針と糸。
なぜか小さな花瓶。
気づけば、空っぽだった家は生活感で満ち始めていた。
ありがたい。
ありがたいのに、断る隙がない。
「民の献上である」
ピヨは毛布の上に座り、偉そうにうなずいた。
「民じゃないし、献上でもない」
「では何だ」
「善意」
「善意とは、食えるのか」
「君は本当に食べ物基準だね」
そこへ、さっきの子どもたちが戻ってきた。
手には、小さな籠。
「お母さんが、これもって」
中には黒パンとチーズ、それから木の実が入っていた。
「ありがとう。あとでお礼を言いに行くね」
「鳥、木の実食べる?」
「我は上質な肉を」
「食べるよ」
私はピヨの言葉を上からかぶせた。
ピヨが私を見上げる。
「ミリィ」
「何」
「我の威厳が」
「木の実食べる?」
「食べる」
威厳は木の実に負けた。
子どもたちは大喜びで、ピヨが木の実をつつくところを見物した。
こうして、私は村に住み始めた初日から、家の前に小さな見物席を作ってしまった。
作った覚えはない。
でも、できてしまった。
******
夕方になるころ、ようやく人の出入りが落ち着いた。
私はかまどの前にしゃがみ、古い煤をかき出していた。
火を入れる前に見ておかないと、煙が部屋に戻ってくるかもしれない。
そんなことを思いながら灰をすくっていると、外から声がした。
「ミリィさん、煙突は大丈夫かい?」
さっきのおばさんだった。
「今、見てます」
「この家、前に使ったときは煙が戻ったんだよ」
「先に言ってほしかった情報です」
「忘れてた」
「大事なところを忘れないでください」
私は細い棒を借りて、煙突の中を軽くつついた。
ぱらぱらと煤が落ちる。
ピヨが後ろへ跳ねた。
「黒い雪だ!」
「煤」
「敵か?」
「汚れ」
「ならば倒せ」
「掃除って言うの」
おばさんが笑い、子どもたちも笑った。
私は少しだけ火をつけて、煙の流れを見る。
火を強くするのではなく、煙の逃げ道を見るだけ。
すぐに細い煙がかまどの口から戻ってきた。
「うわ」
「戻っておるぞ」
「見れば分かる」
私は慌てて火を消した。
魔法を使えば、一瞬で煙を外へ押し出せる。
でも、それをしたら負けだ。
何に負けるのかは分からない。
たぶん、未来の私に負ける。
「上が詰まってるか、風の道が悪いのかな」
「風の道?」
「煙も、外へ出る道がないと戻ってくるんです。人が出入り口をふさがれたら困るのと同じです」
「なるほどなあ」
おばさんは素直にうなずいた。
子どもたちも、なぜか真剣にうなずいた。
ピヨだけが胸を張る。
「つまり、煙にも臣下の道が必要なのだ」
「違うけど、今はそれでいい」
おばさんが、長い棒の先に布を巻いたものを貸してくれた。
私はそれで煙突の内側を何度かこすった。
煤が落ちる。
また落ちる。
思ったより落ちる。
「この家、よく燃えなかったですね」
「山奥だからねえ」
「その言葉、万能じゃないです」
しばらくして、もう一度小さく火を入れる。
今度は煙が上へ吸い込まれていった。
私は息をつく。
「よし。これなら使えそう」
「おお」
外から小さな拍手が起こった。
なぜ拍手。
私はただ煙突を掃除しただけである。
「ミリィさん、うちのかまどもたまに煙が戻るんだけど」
「今日は見ません」
「ちょっとだけ」
「今日は見ません」
「明日は?」
「明日も見ません」
即答した。
おばさんは残念そうにしたが、すぐに笑った。
「まあ、疲れただろうしね。落ち着いたら頼むよ」
「頼まないでください」
「頼まれたな」
ピヨが偉そうに言う。
「頼まれてない。聞かなかった」
「聞こえておったぞ」
「聞こえなかった」
私は耳をふさいだ。
静かな暮らしは、煙突の煤より手ごわい。
******
夜。
私はもらった毛布を寝台に敷き、ようやく横になった。
かまどには小さな火。
今度は煙が戻らない。
外からは虫の声。壁の隙間から入る風は少し冷たいけれど、毛布があれば我慢できる。
悪くない。
むしろ、かなりいい。
静かだ。
「ミリィ」
「何」
「我の寝床が狭い」
ピヨは毛布の端で丸くなっていた。
十分広い。
「ひよこ一羽なら広いでしょ」
「我は空の王である」
「今は毛布の王で我慢して」
「むう」
ピヨは不満そうに羽毛をふくらませた。
その姿が少しだけかわいくて、私は笑ってしまった。
静かに暮らす予定だった。
今日一日で、予定はだいぶ怪しくなった。
でも、寝床は手に入った。
火もついた。
ごはんもある。
今日はそれで十分だ。
そう思ったところで、扉が叩かれた。
「ミリィさん、起きておられますかな」
村長の声だった。
私は毛布を頭までかぶった。
「寝てます」
「返事をしておられますぞ」
「寝言です」
「器用ですな」
ピヨが毛布の端から顔を出す。
「ミリィ、客である」
「客じゃなくて予感」
私はしぶしぶ起き上がり、扉を開けた。
村長は申し訳なさそうに笑っていた。
「夜分にすみません。明日の朝、少しギルドへ顔を出していただけませんかな」
「ギルド」
「村に滞在するなら、顔を通しておくと安心です」
安心。
また便利な言葉が来た。
「顔を出すだけですか」
「ええ、顔を出すだけです」
村長はそう言った。
にこにこと。
とても自然に。
私は今日一日の村人たちを思い出した。
ほうきが来る。
鍋が来る。
毛布が来る。
子どもが来る。
煙突の相談が来る。
この村で「だけ」は信用してはいけない。
「……考えておきます」
「助かります」
「まだ行くとは言ってません」
「では、明日の朝に迎えに来ますな」
「言ってない」
村長は満足そうに帰っていった。
扉を閉めると、ピヨがふんぞり返った。
「ギルドとは、我の武勲を記録する場所か」
「まだ何もしてないでしょ」
「存在が武勲」
「雑に強い言葉を使わない」
私は寝台に戻り、毛布をかぶった。
静かに暮らす予定だった。
その予定は、初日の夜にして、もうギルドの扉の前まで運ばれようとしている。
顔を出すだけ。
たぶん、それだけでは済まない。




