第30話 魔女、ドラゴンを治す
ドラゴンと目が合った。人間なら、その時点でだいたい腰を抜かす。私は抜かさなかった。理由は、私が強い魔女だからではない。腰を抜かすと、あとで立つのが面倒だからだ。トマは横で固まっていた。ピヨは私の外套の裾をくちばしでつかんだまま、なぜか偉そうな顔を作っている。
「小さき者ども」
低い声が、山の底から響くように聞こえた。耳だけではなく、胸の中まで震える声だった。
「ここは、我の眠る場所ではない。去れ」
「倒れてるのに強気だ」
つい口に出た。ドラゴンの黄色い瞳が、ぎろりとこちらを見る。トマが小さく「ミリィ」と言った。分かっている。でも、倒れている相手に倒れてますよと言えない空気のほうが怖い。
「傷、ひどいですよ」
「かすり傷だ」
ドラゴンの脇腹から、黒い煙のようなものが漏れていた。鱗が大きく割れ、肉が見えている。血は赤黒く、地面に染みて、周りの草を枯らしていた。かすり傷ではない。寝違えました、くらいの気軽さで言うには、山がひとつ暗くなる規模だった。
「かすり傷の基準が大雑把すぎる」
「我は竜だ」
「竜でも怪我は怪我」
「人の娘が、我に説教をするか」
「説教じゃなくて確認です。治療、必要ですか?」
ドラゴンは黙った。山風が吹く。折れた木の葉が揺れ、黒い煙が細く流れた。ピヨが一歩前に出た。
「ふむ。竜よ。我は空の王である」
「ピヨ」
「ここで我と出会ったのも運命。今なら我の配下に」
ドラゴンが、まばたきをした。ただそれだけだった。ただそれだけなのに、風圧が起こり、ピヨの羽がばさっと後ろへ流れた。ピヨは静かに三歩下がった。
「……交渉はミリィに任せる」
「判断が早い」
「我は大局を見る」
「見たのはまばたきでしょ」
トマが真剣な顔のまま、少しだけ口元を押さえた。今笑うと、たぶん緊張がほどけすぎる。
******
私はドラゴンの傷に近づいた。熱い。傷そのものから、魔力が噴き出している。ただの刃物や牙で負った傷ではない。何か、魔法に近い力で裂かれている。でも、この世界のメイジが普段使う魔法とは違った。もっと古い。もっと荒い。乱暴に世界の布を引っかいたような感じ。
「何にやられたんです?」
「空の裂け目だ」
「空?」
「遠き山脈の上で、魔力がねじれた。愚かな術式が、空を裂いた。我はそれを閉じた」
「それで落ちたんですか」
「落ちたのではない。降りた」
「言い方」
意地が高い。トマが低い声で聞いた。
「治せるのか?」
「治せる」
答えはすぐに出た。治せる。私の魔力なら、たぶん。でも私は、魔法をあまり使わない。便利だから使わない。使えば、便利さが人を呼ぶ。人が呼ばれれば、相談が来る。相談が来れば、私の昼寝が消える。この世界で一番守るべきものは平穏だ。私の平穏も含む。だけど。目の前の傷は、放っておいたら死ぬ傷だった。
それに、ドラゴンがこのまま山で息絶えたらどうなるか。山の魔力が荒れる。獣が逃げる。川が濁るかもしれない。ルカの町にも影響が出る。何より、倒れている相手を見て、面倒だから知らないふりをするのは、さすがに寝覚めが悪い。
「一回だけです」
私は言った。ドラゴンの瞳が細くなる。
「何を」
「治します。でも、これを言いふらさないでください。魔女が何でも治してくれる、みたいな話になると困るので」
「小さき娘よ。我に口止めを命じるか」
「命じてません。お願いです。命令したら面倒が増えます」
ドラゴンはしばらく黙ったあと、低く笑った。山が鳴るような笑いだった。
「妙な娘だ」
「よく言われます」
「我は竜。借りは忘れぬ」
「借りもできれば軽めで」
私は息を吸った。手を傷口に向ける。トマが一歩下がる。ピヨは、私の後ろから首だけ出していた。
「ピヨ、もう少し下がって」
「我は見届ける」
「焦げるかも」
「下がる」
本当に判断が早い。
******
魔力を流す。強くではなく、細く。荒れた傷に、糸を通すように。割れた鱗の縁をなぞり、裂けた肉を寄せ、漏れている魔力を包む。大きな術式はいらない。派手な光もいらない。必要なのは、傷が元に戻る道筋を作ること。私の手の先から、淡い光が広がった。白くも金色でもない。朝の霧に日が差したような、やわらかい光。ドラゴンの体が震えた。大地が揺れる。トマが私の背中を支えようとして、でも触れていいか迷って、結局すぐ後ろに立った。
「大丈夫か」
「私より、あっち」
ドラゴンの傷口から黒い煙が消えていく。枯れた草の上に、新しい緑が少しだけ戻った。鱗がゆっくり閉じる。大きな体に流れていた魔力が、暴れるのをやめていく。私は魔力を絞り、最後に傷の奥に残っていたねじれをほどいた。ぷつん、と小さな感触。術式が切れた。山の空気が、ふっと軽くなった。
「……終わり」
私は手を下ろした。思ったより疲れた。魔力が足りないわけではない。力を使うことより、力を使ったあとに起こることを想像して疲れた。トマがほっと息をつく。
「すごいな」
「言わない」
「何を?」
「その顔で言わない」
「すごいと思ったから」
「だから困る」
ピヨが胸を張った。
「我が見届けたおかげである」
「見てただけ」
「見届ける者がいてこそ偉業は偉業となる」
「セドさんみたいなこと言い出した」
そのとき、ドラゴンがゆっくり体を起こした。山が立ち上がるようだった。私は思わず一歩下がった。治した相手とはいえ、近くで起き上がるドラゴンは迫力が違う。小屋が動いた、なんてものではない。山肌が起き上がり、こちらを見ている。トマが私の前に出ようとした。
「トマ」
「分かってる。でも、体が動いた」
「その気持ちはありがたいけど、ドラゴン相手に前に出るのは効率が悪い」
「効率の問題か?」
「生存率の問題」
トマは少し悔しそうに、でも素直に下がった。ピヨは私の後ろから首を出し、低い声を作る。
「竜よ、礼を述べるがよい」
「あなたが治したみたいに言わない」
ドラゴンの瞳がピヨを見た。ピヨはすぐに首を引っ込めた。
「礼はミリィに」
「判断が早い」
ドラゴンはしばらく私たちを見下ろし、それから周囲の折れた木々へ視線を向けた。
「この山は、魔力の流れが深い」
「そうなんですか」
「古き石が眠る。人は知らぬようだがな」
私は黙った。ミスリルや魔力石のことを言っているのだろう。山が険しすぎて、誰もまともに調べていない場所。そこにドラゴンが座る。守られるのか、見張られるのか。どちらにしても、人が勝手に掘り返すよりは安全かもしれない。
「あまり人が近づかないようにします」
「賢明だ」
「近づく人、増えそうだけど」
トマがぽつりと言った。私は聞こえないふりをしたかった。でも、聞こえた。ドラゴンも聞こえたらしい。
「人は、見上げるものに近づきたがる」
「分かってるなら、あまり目立たないでください」
「この身でそれは難しい」
「ですよね」
巨大な翼、巨大な角、巨大な爪。どこをどう隠しても、山より目立つ。ピヨが胸を張った。
「目立つ者の苦労は我にも分かる」
「あなたは自分から目立ちに行くでしょ」
「才能を隠すのは罪である」
「隠して」
ドラゴンの喉が低く鳴った。笑った、のかもしれない。竜に笑われる鳥。なかなか珍しい光景だった。そして珍しい光景は、だいたい人に見せてはいけない。翼が開き、折れた木々の上に影が落ちる。傷は完全にふさがっていた。ドラゴンは私を見下ろした。
「小さき魔女よ」
「小さいは余計です」
「借りは返す」
「本当に軽めでお願いします」
「我はこの山に留まる」
「はい?」
「この地を見守ろう。空の裂け目が再び開くなら、我が閉じる。山に害が及ぶなら、我が払う」
「いや、ちょっと待って」
待たなかった。ドラゴンは堂々と首を上げた。まるで最初からそう決めていたように。
「これが返礼だ」
「返礼が大きい」
「竜の返礼は大きいものだ」
「大きければ良いってものじゃない」
ピヨが私の隣に並び、急に胸を張った。
「ならば我もこの地を見守る」
「あなたはまず小屋の屋根を壊さないように見守って」
トマが山を見て、ぽつりと言った。
「ルカ、また大きくなるな」
「言わないで」
私の願いもむなしく、ドラゴンは山の上へ向かって歩き出した。その一歩ごとに地面が揺れる。倒れた木々が道のように開く。そして、山の中腹にある岩場で、ドラゴンは翼をたたみ、静かに座った。まるで、そこが昔から玉座だったみたいに。私は頭を抱えた。治療は一回だけ。そう思っていた。でも一回の魔法で、山にドラゴンが居ついた。面倒は、だいたい一回では終わらない。
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