第29話 山の空気が変わった
朝になっても、山は変だった。昨日の夕方、低い音が響いたあと、ルカの町はいつもどおり眠った。いや、正確には、いつもどおり眠ろうとした。でも、朝になって広場へ出てみると、いつもどおりではなかった。空が妙に静かだった。鳥の声が少ない。山のほうから降りてくるはずの小さな獣の足跡も、今朝はやけに多い。まるで山から逃げるように、畑の端や納屋の裏を横切っている。平和な山奥の町で、こういう変化はだいたい面倒の前触れだ。
「ミリィさん」
トマが鍛冶場のほうから走ってきた。手には、なぜか火ばさみを持っている。
「それで戦う気?」
「いや、持ったまま来た」
「置いてきなさい」
「はい」
トマは素直に鍛冶場へ戻り、火ばさみを置いてから、また走ってきた。素直なのは良い。少しずれているのが問題だ。
「山の鳥が降りてきてる。親父が、こんなのは見たことないって」
「私も見たことない」
「ミリィでも?」
「私は山の管理人じゃないからね」
そう言ったところで、広場の真ん中にピヨがどんと立った。前よりかなり大きくなった体。ふくらんだ胸。偉そうな目。そして、朝露でぐっしょり濡れた翼。
「山が我に挑んでいる」
「濡れた鳥が何か言ってる」
「濡れておらぬ。これは威厳の光沢である」
「威厳は水滴で垂れない」
ピヨはくちばしを上げ、山を見た。いつもの山なのに、どこか重い。空気が沈んでいる。木々の色も変わっていないはずなのに、奥のほうだけ影が濃く見えた。
******
広場には、人が集まり始めた。村長、ではなく町長と呼ばれかけている村長。商人のバルトさん。記録好きのセドさん。木工職人、革職人、石工さん。それから、朝ご飯の途中だったらしい主婦組まで。全員が山を見て、口々に言った。
「魔物かねえ」
「いや、魔物ならギルドに知らせが来るだろ」
「山崩れでは?」
「音はしたけど、土煙は見えなかったよ」
「ミスリルの山がついに怒ったんじゃないかい」
「ミスリルが怒るって何」
私がつぶやくと、隣でセドさんが手帳を開いた。
「では記録名は『山気変動第一号』で」
「名前を決めるの早いですね」
「出来事は名付けた瞬間から歴史になります」
「やめて。私の近くで歴史を作らないで」
バルトさんは山を見上げながら、ふむ、とあごに手を当てた。
「もし珍しい現象なら、見物客が来るかもしれませんね」
「今それを考える?」
「商人ですので」
「堂々としてるなあ」
「もちろん、危険なら近づけません。ただ、山奥の町に珍しい話がある、というだけで人は動きます。山鳴り、獣の移動、変わった空気。うまく整えれば、案内人の仕事にもなります」
「バルトさん、怖い話を観光に変えるの早すぎません?」
「怖い話は昔から売れます」
売れるらしい。商人の世界は、私が思っているより強い。村長が眉を下げた。
「ミリィちゃん、どう思う?」
「どうって」
「魔物ならギルドを動かす。山崩れなら道を閉じる。何か分からないなら、誰かが見に行かにゃならん」
みんなが、私を見た。視線が集まる。私はゆっくり一歩下がった。ピヨが一歩前に出た。
「任せよ。我が山を従えてこよう」
「それはやめて」
「なぜだ。我は空を支配する者」
「昨日まで着地を支配できてなかったから」
広場に、うんうん、という無言の同意が流れた。ピヨは不満そうに翼を広げる。
「ではミリィ、そなたが行け。我の副官として」
「誰が副官」
「主官でもよい」
「上がったようで下がってる気がする」
トマが少し真面目な顔で言った。
「俺も行く。山道なら足場を見られるし、もし道具が必要なら」
「危ないかもしれないよ」
「だから行くんだ」
まっすぐな声だった。こういうところは、本当に困る。断りにくい。
「分かった。でも、無茶はしないこと。ピヨも」
「我は無茶ではなく偉業をする」
「しないこと」
「……小さめの偉業なら」
「しない」
ピヨはくちばしを閉じた。
******
出発前に、ギルドにも顔を出した。ギルドの受付さんは、すでに疲れた顔をしていた。朝から「山が変だ」という報告が十件以上来ているらしい。
「魔物の目撃は?」
「今のところありません。ただ、鹿や山鳥が降りてきたという話ばかりです」
「魔物じゃなくて、山のほうが嫌がられてる感じか」
「はい。言い方は変ですが、そんな感じです」
受付さんは記録板を見せてくれた。北の沢で鳥の群れ。西の斜面で小獣の移動。山道の途中で木の折れた音。どれも一つなら珍しい出来事だ。でも、まとめて見ると、山全体が何かから距離を取ろうとしているように見える。ピヨは記録板をのぞき込み、重々しくうなずいた。
「山の者どもが、我の偉大さに気づいたのだ」
「全員逃げてるけど」
「畏敬である」
「恐怖かもしれない」
トマは受付台の横で、山道の簡単な地図を見ていた。
「この辺り、古い崩れ道がある。足場が悪いから、行くならロープがいる」
「準備して」
「分かった」
トマはすぐに鍛冶場へ戻り、丈夫な縄と杭を持ってきた。ピヨはそれを見て、なぜか胸を張る。
「我にも装備を」
「必要?」
「勇者には装備が必要である」
受付さんが、そっと小さな布を差し出した。
「では、首に巻きますか?」
「よい」
「やめて。遠足みたいになる」
結局、ピヨは赤い布を首に巻かれた。本人は満足していた。山の異変を調査しに行く一行というより、ちょっと気合いの入った散歩に見える。でも、そのくらいでちょうどいい。最初から深刻すぎると、足がすくむ。
出発するとき、広場の人たちは思ったより静かだった。主婦組が干し肉と固焼きパンを包んでくれる。村長は古い山道の話を教えてくれる。バルトさんは「もし珍しいものがあっても勝手に売りません」と言った。
「それ、信用していいんですか」
「半分くらいは」
「自分で半分って言った」
セドさんは私の名前を大きく記録しようとして、私に止められた。
「調査者、ミリィさん」
「書かない」
「では、匿名の住民」
「それで」
ピヨは赤い布を揺らし、堂々と歩き出した。遠足ではない。遠足ではないはずだ。でも、見送る子どもたちが手を振っているので、ますます遠足みたいだった。ピヨが得意げに翼を振り返し、赤い布がやけに目立った。
「完全に遠足」
「偵察である」
山道に入ると、空気の違いはもっとはっきりした。いつもの山は、うるさい。葉がこすれる音。鳥の声。小さな獣が藪を走る音。虫の羽音。そういうものが重なって、山らしいざわめきになる。でも今は、そのざわめきが薄い。まるで山が口を閉じて、何かを見ないようにしているみたいだった。
「静かだな」
トマが小声で言った。
「うん」
「怖いか?」
「面倒そう」
「ミリィらしい」
「怖いって言うと、ピヨが張り切るから」
前を歩くピヨが、すぐに振り返った。
「我はすでに張り切っている」
「でしょうね」
「この静けさ。これは強者が近くにいる証」
「強者?」
「我ほどではないがな」
その瞬間、山の奥から、低い息のような音がした。ごう。ピヨの羽が、ふわっと逆立った。そして、何事もなかったような顔で、私の後ろに移動した。
「今、隠れたよね」
「隊列を変更しただけである」
「私を盾にする隊列?」
「合理的である」
「最悪」
トマが笑いをこらえていた。こんな状況で笑えるのは、たぶん良いことだ。笑えなくなったら、本当に危ない。しばらく進むと、道が崩れていた。崩れたというより、何か巨大なものが通ったあとに見えた。木が根元から折れ、岩が割れ、地面に深い溝ができている。私はしゃがみ、土に触れた。温かい。まだ新しい。
「山崩れじゃないな」
トマが真面目な顔になった。
「何か、落ちた?」
「落ちた、というより……」
私は顔を上げた。木々の向こうに、黒い影が見えた。小屋ではない。岩でもない。あまりにも大きくて、頭が形を理解するのを拒むような影。ピヨが小さく言った。
「……でかい」
「ピヨより?」
「今の発言は聞かなかったことにせよ」
私たちは、ゆっくり近づいた。近づくほど、空気が重くなる。魔力の気配もある。強い。でも荒れている。何か大きな力が、傷口から漏れているような感じだった。
そして、木々が切れた場所で、私はそれを見た。巨大な翼。山肌のような鱗。曲がった角。岩を抱くほど太い爪。何かが倒れている、なんて言葉では足りない。伝説が、山の中で横になっていた。それは、ドラゴンだった。トマが息を飲む。ピヨが、私の外套の裾をくちばしでつかむ。
「ミリィ」
「うん」
ドラゴンのまぶたが、わずかに動いた。黄色い瞳が、私たちを見た。山の空気が変わった理由が、そこに倒れていた。
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