第25話 初飛行はだいたい落ちる
翌朝、ルカ町の外れの草地で、私はピヨの背中に乗せられていた。乗せられていた、で合っている。自分から乗ったわけではない。村人たちに囲まれ、ピヨが胸を張り、トマが「落ちても受け止める」と言った結果、逃げ道がなくなっただけである。
「本当にやるの?」
「当然である」
ピヨの声は自信満々だった。背中は、思ったより広い。ふわふわしていて、少し温かい。ただし、安定感はまだ信用できない。
「ミリィ、手綱はこれでいいか?」
トマが革職人と一緒に作った簡易の帯を確認している。
「手綱というより、落下防止帯だね」
「落ちないほうがいい」
「そりゃそう」
革職人は真剣にうなずいた。
「縫い目は強くしてあります。ただし、無茶な急降下は想定していません」
「急降下しないでね、ピヨ」
「急上昇ならよいか」
「だめ」
「では普通に空を支配する」
「支配じゃなくて飛行」
周囲では村人たちが見守っていた。子どもたちは目を輝かせている。青年団はなぜか距離を測っている。バルトさんは荷馬車の上から見ている。セドさんは手帳を構えている。
「記録しなくていいです」
「歴史的瞬間です」
「落ちたら消してください」
「落下も含めて」
「含めないで」
ピヨが翼を広げた。風が草を倒す。少しだけ、空気が変わった。私は背中の羽毛をつかむ。
「ピヨ、ゆっくり」
「任せよ」
ピヨが地面を蹴った。一瞬、体が浮いた。本当に浮いた。草地が下に離れ、村人たちの顔が少し小さくなる。
「飛んでる」
「我は飛んでおる!」
ピヨが叫んだ。私も思わず息を呑む。風が頬をなでる。魔法で飛ぶときとは違う。自分の力ではなく、誰かの背に乗って空へ上がる感覚。少し怖い。でも、少し楽しい。
「ミリィ!」
下でトマが手を振った。私は片手を上げかけた。その瞬間、ピヨが横に傾いた。
「ピヨ?」
「風が我に逆らった」
「制御して!」
「しておる!」
していない。明らかにしていない。空が回った。地面が近づいた。
「着地!」
「戦略的降下!」
「落下!」
どすん。ピヨは草地に突っ込み、私はその背から転がり落ちた。幸い、草が厚かった。痛いけれど、怪我はない。トマが全速力で走ってくる。
「ミリィ、大丈夫か!」
「草と友達になりました」
「友達?」
「大丈夫って意味」
トマはほっと息を吐いた。ピヨは草まみれで起き上がり、翼を広げた。
「初飛行、成功である」
「着地は失敗」
「飛んだ」
「落ちた」
「飛んでから落ちた」
「そこは合ってる」
村人たちが拍手した。なぜ。
「飛んだぞ!」
「本当に浮いた!」
「次は畑の上から見たい!」
「待って」
私は草を払いながら立ち上がった。話が早い。早すぎる。初飛行は落下で終わったのに、もう利用計画が出ている。これがルカである。
******
飛行訓練は、その日だけで終わらなかった。むしろ始まった。次の日も、その次の日も、ピヨは草地で飛んだ。最初は十歩分。次は畑一枚分。
三回目の練習で、ピヨは少し調子に乗った。
「今度こそ美しく着地する!」
「美しさより安全」
「安全な美である!」
意味が分からないまま、ピヨが翼を打った。草地の上を風が走り、私の体が背中から少し浮く。
「ピヨ、低く!」
「低く飛んでおる!」
「私の感覚では高い!」
次の瞬間、ピヨの体がぐらりと傾いた。私は羽毛をつかんだが、指がすべった。視界の端で草地が回る。
落ちる。
そう思った先に、トマがいた。
着地地点の石を拾っていたらしい。私と目が合った瞬間、トマは石を放り出して両腕を広げた。
「ミリィ!」
「どいて!」
「無理だ!」
無理だった。私はそのままトマの胸に飛び込む形になった。
どん、と体がぶつかる。トマの腕が私の背中と肩を抱き留めた。けれど勢いまでは殺せない。二人まとめて草の上を転がり、空と地面とトマの服がぐるぐる入れ替わった。
止まった時、私はトマの腕の中にいた。
近い。
ものすごく近い。
トマの息が、すぐ耳の横にあった。私の手は、なぜかトマの胸元をつかんでいる。離そうとしたのに、指が布を握ったまま動かなかった。
「……大丈夫か」
トマの声がいつもより小さい。
「大丈夫、です」
私の声も小さかった。
トマは私を支えたまま起き上がろうとして、途中で動きを止めた。たぶん、抱きしめたままだと気づいたのだと思う。
私も気づいた。
気づかなくていいことに、きっちり気づいた。
「ええと」
「あ、悪い」
「いえ、助かりました」
「なら、よかった」
トマの顔が少し赤い。私もたぶん赤い。草のせいということにしたかったが、顔に草はついていない。
少し離れて座り直すと、変な沈黙が落ちた。
ピヨだけが、少し離れた場所で胸を張っている。
「見事な受け身であった」
「誰のせいで受け身が必要になったと思ってるの」
声を出せて、少しだけ助かった。
「トマまで巻き込まなくていいです」
「受け止めるつもりだった」
「結果、二人で転がってます」
「でも、怪我はない」
「そこはありがとう」
礼を言うと、トマはまた少し照れた。私は視線をそらした。こういうときのトマは、少し困る。真面目で、素直で、助けようとしてくれる。そして、助け方が近い。
「ミリィ、我の飛行に感動しておるな」
「転がりすぎて目が回ってるだけ」
「照れるな」
「照れてない」
ピヨは聞いていない。青年団は、いつの間にか飛行距離を木札に記録していた。
『本日のピヨ飛行記録』
「また記録」
セドさんが満足そうにうなずく。
「記録は成長を見える形にします」
「成長は見えます。体が大きいので」
「落下地点も記録します」
「しなくていい」
木札には、飛行距離と落下地点が書かれていた。一回目、草地。二回目、干し草置き場。三回目、トマ。
「トマが地点になってる」
「俺か」
「受け止めたから」
「地点扱い」
トマは少し笑った。広場では、子どもたちが「ピヨ便」とか「空の道」とか、勝手な名前をつけ始めている。まだ早い。本当に早い。でも、ピヨが空を飛び始めたことで、町の人たちの目が変わったのは分かった。山道を越えられるかもしれない。冬に閉ざされても、急ぎの知らせを運べるかもしれない。畑や道の様子を上から見られるかもしれない。魔法ではなく、ピヨで。それはこの世界では、かなり大きなことだった。
******
夕方、ようやく訓練が終わった。私は草まみれのまま、井戸のそばで顔を洗った。冷たい水が気持ちいい。トマが横で革帯を確認している。
「少し直す。背中に当たるところがずれてた」
「ありがとう」
「次はもう少し楽になる」
「次がある前提」
「あるだろ?」
ある。たぶん、ある。私はため息をついた。
「ピヨが飛べるようになったら、外の町へ行くのも楽になりますね」
「行くのか?」
「行くつもりはなかったけど」
言った瞬間、背後でバルトさんの声がした。
「それは良いですね」
「聞いてた」
バルトさんは、いつの間にか広場の端に立っていた。商人は気配を消すのがうまい。たぶん、儲け話がある方向へ静かに寄ってくる習性がある。
「今のは試験飛行ですか」
「落下訓練です」
「我は飛んだ」
「最後に地面と親しくしたでしょ」
ピヨは胸を張る。
「大地との交流である」
「交流が激しすぎる」
バルトさんは草地に残った跡を見て、少し考えた。
「着地場所は整えたほうがいいですね。草地でも石が混じると危険です」
「やる前提にしないで」
「やるなら、です」
「その『なら』が怖い」
トマも地面を見ていた。
「ここに柔らかい土を入れて、周りを木の柵で囲えば、練習場になるかも」
「トマまで」
「落ちるなら、落ちても大丈夫な場所がいる」
「言ってることは正しい」
正しいから困る。ピヨは自信満々だが、空は広い。落ちる場所を間違えたら、笑い話では済まない。私はため息をつき、草地を見回した。
「練習するなら、見物は禁止。人が集まると危ない」
「では我の勇姿は誰が見る」
「私とトマ」
「少ない」
「安全」
ピヨは不満そうだったが、トマは少し嬉しそうだった。その顔を見て、私はまた失敗した気がした。言葉の選び方ひとつで、変な期待が生まれる。まったく、空を飛ぶより面倒かもしれない。その後、練習場予定地には、なぜか見物禁止の札が立った。まだ練習場でもないのに。セドさんが先走ったのだ。
『危険。飛行訓練中につき立入禁止』
「訓練中じゃない」
「これから訓練するなら、先に札が必要です」
「準備が早い」
ピヨはその札を見て、たいへん満足そうだった。
「我の偉業に札が立った」
「危険札ね」
「偉業には危険が伴う」
「危険を伴わない方向でお願い」
トマは草地の石を拾い始めた。一つ拾っては脇へ置く。また一つ。地味な作業だ。でも、もし本当に飛ぶなら、こういう地味な作業が一番大事になる。私はそれを見て、少しだけ覚悟を決めた。面倒は避けたい。でも、やるなら怪我は避けたい。結局、面倒を減らすために面倒を見ることになる。バルトさんはその様子を見て、帳面に何か書いた。
「何を書いたんですか」
「将来的な空路整備費です」
「未来が勝手に予算化されてる」
聞かなければよかった。予算化された未来は、だいたい現実になるからだ。しかも、だいたい私の許可より先に。本当に困る。
「近隣の町を見るのは大事です。ルカ町の商品がどう見られているか、確認できます」
「商売の話にしないで」
「トマさんも外の鍛冶屋を見る機会になります」
トマの目が少し輝いた。ずるい。バルトさんは、こういうところがずるい。
「外の鍛冶屋か」
「行きたい?」
「見てみたい」
素直に言われると弱い。私はピヨを見た。ピヨは草地の真ん中で胸を張っている。
「我に乗るがよい。町などひと飛びである」
「着地が問題」
「明日には完成する」
「その自信だけは尊敬する」
私はもう一度空を見上げた。近隣の町。魔法石に頼る外の暮らし。見ておく意味は、たぶんある。面倒なことになりそうな意味も、もちろんある。
「……行くだけなら」
言ってしまった。トマが嬉しそうに笑う。バルトさんが商人の顔になる。ピヨが高らかに鳴く。私は額を押さえた。初飛行は落ちた。そして次の面倒は、空から来るらしい。
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