【挿絵付】第2話 魔女、山で卵を拾う
山の上空を、私はゆっくり飛んでいた。
転生してから、たぶん十分も経っていない。白い空間で女神さまと話していた時間を含めるならもう少し経っているのかもしれないけれど、体感としては、さっき死んで、さっき謝られて、さっき放り出されたばかりである。
下には深い森。遠くには小さな村。風は冷たすぎず、草と土の匂いが鼻の奥に届く。空は青く、雲はのんびり流れていて、私の身体は嘘みたいに軽い。普通なら感動するところなのだろう。異世界。魔法。空を飛ぶ身体。人生二周目の初日としては、かなり派手な始まりだ。
でも、私はそこまで浮かれていなかった。
なぜなら、今とても重要な問題があるからだ。
「寝床がない」
声に出すと、問題の大きさがいっそうはっきりした。
そう。私は家なしである。最強クラスの魔女だとか、半永久的な命だとか、そういう派手なものをもらったところで、今夜寝る場所がなければただの住所不定魔女である。
それは困る。
とても困る。
世界を救う前に、布団がいる。いや、世界を救う予定はない。絶対にない。だから順番としては、布団、寝床、できれば屋根、ついでに水場。まず生活である。
私は山のふもとに見える村へ向かっていた。村なら家がある。家があるなら、空き家もあるかもしれない。空き家がなくても、納屋くらいはあるかもしれない。納屋でも、雨風をしのげれば初日は勝ちである。
そう考えながら高度を少し下げたとき、森の中にぽつんと開けた場所が見えた。
「……ん?」
木々の緑が途切れたそこには、岩がいくつも転がり、古い木が斜めに倒れていた。山肌が少しだけむき出しになっていて、周囲の森から取り残されたみたいな場所だった。
その倒木の根元に、白くて丸いものがある。
卵だ。
ただし、普通の卵ではない。遠目でも分かるくらい大きい。私の胴くらいありそうで、白い殻の表面には淡い金色の模様が浮かんでいる。森の陰に置かれているのに、そこだけ薄く光を含んで見えた。
「大きいな」
思わずつぶやいた。鶏の卵ではない。鳥だとしても、かなり大きな鳥のものだ。親が近くにいるなら、私が近づいた瞬間に怒られる可能性がある。しかも、ここは異世界である。巨大鳥だけでは済まないかもしれない。
私は少し迷ってから、ゆっくり降りた。降りたのは、好奇心ではない。たぶん。村へ向かう途中に、明らかに妙なものがあったので確認するだけだ。確認は大事だ。見なかったふりをするためにも、まず何を見たのか把握しなければならない。
地面に足をつけると、枯れ葉が靴の下でかさりと鳴った。空から見たより、開けた場所は静かだった。風は木々の上を抜けているのに、卵の周囲だけ音が薄い。近づくにつれて、胸の奥がじんわり温かくなる。
魔力。
たぶん、魔力だ。
女神さまがくれた感覚が、勝手にそれを教えてくる。便利だけれど、こういう時だけ妙に親切なのは困る。知らなければ、ただの大きな卵として距離を取れたのに。
「……すごく、何か入ってる」
雑な感想しか出なかった。だって、卵である。魔力のある卵。山の中に放置された、妙に大きな卵。どう考えても、拾うと面倒なやつだ。
私は一歩下がった。
「見なかったことにしよう」
うん。
それがいい。
私は静かに暮らしたい。変な卵を拾って、変な生き物が生まれて、変な運命が始まるなど、物語ならともかく生活としては困る。そもそも、親が近くにいる可能性もある。勝手に触ったら怒られるかもしれない。
親が巨大鳥だったら困る。
親が竜だったらもっと困る。
親が「その卵に触れた者は一族の客人」とか言い出す文化圏だったら、かなり困る。
異世界の卵事情を私は知らない。知らないものには触らない。これは、とても堅実な判断である。
私は村へ行く。寝床を探す。卵は知らない。
そう決めて背を向けた瞬間、卵が、こん、と鳴った。
足が止まる。
「……今、鳴った?」
森が静かすぎて、聞き間違いという逃げ道がなかった。
こん。
また鳴った。今度は、内側から何かが殻を叩いている音だと分かった。私はゆっくり振り返る。
「いやいやいや」
困る。そういう、捨てられた子犬みたいな反応は困る。私は善人ではある。たぶん。少なくとも、見捨てるのが得意な人間ではない。
でも卵だ。
しかも魔力のある大きな卵だ。
子犬より、かなり厄介な予感がする。
こん、こん。
卵がまた鳴った。しかも、今度は少し弱々しい。私は胸の奥を小さくつつかれた気分になった。
「……そういうの、ずるくない?」
文句を言いながら、結局、私は卵の前にしゃがんでいた。殻にそっと手を当てる。冷たいと思っていたのに、指先に返ってきたのはやわらかな温かさだった。
中で小さな命が動いている。
分かる。
分かってしまった。
ああ、もう。分かったら、置いていけないじゃないか。
「私は静かに暮らしたいんだけど」
こん。
「返事しないで」
こん。
「いや、返事なの?」
卵は沈黙した。
なんだろう。今、会話が成立した気がする。それがいちばん怖い。
私は周囲を見回した。森は静かだ。鳥の声は遠く、獣の気配も薄い。ただ、卵の周りだけ、ほんの少し空気が違っている。温かいのに、寂しい。守られているようで、置き去りにされているような、不思議な場所だった。
魔力の流れを感じようとすると、卵から細い糸のようなものが伸びているのが分かった。山の奥へ。空へ。そして、なぜか私のほうへ。
「やめて。こっちに縁を伸ばさないで」
卵は、こん、と鳴った。
「返事が上手になってる」
私は頭を抱えた。
ここで魔法を使えば、たぶん目立つ。女神さまにもらった魔力は、普通ではない。自分でも分かる。山より大きい、は言いすぎかもしれないけれど、少なくとも村の人が見たら驚く程度には大きい。
使えば、痕跡が残るかもしれない。誰かが見つけるかもしれない。見つけた誰かが、私を探すかもしれない。そして私は、説明することになる。
説明すれば、頼まれる。
頼まれれば、昼寝が減る。
非常に重大な問題である。
だから、使わない。使わないのが一番いい。そう決めたはずなのに、手のひらには卵の温かさが残っている。中の命は、たぶん今、外へ出たがっている。でも、自力では少し足りない。
そういうことまで、分かってしまう。
便利な感覚だ。
便利すぎて嫌だ。
「孵せばいいのかな」
言った瞬間、胸の奥から魔力が動いた。私の意思より少し早く、身体が答えを知っていたみたいだった。
やろうと思えばできる。卵を温めるでも、殻を割るでもなく、中の命が安全に外へ出られるよう、魔力で少しだけ手助けする。少しだけ。あくまで少しだけだ。
これは大魔法ではない。人助け、いや卵助けである。
私は一度、村のほうを見た。木々の隙間の向こう、山のふもとに屋根が並んでいる。あそこへ行けば、寝床の交渉をしなければならない。私はまだ、この世界の挨拶も、相場も、常識も知らない。そんな状態で、魔力の痕跡を背負って村へ行くのは、たぶんかなりよくない。
でも。
目の前の殻が、また小さく鳴った。
私は息を吐き、両手を卵に添えた。逃げるなら今だった。けれど、ここで背を向けたら、きっと今夜どこで寝ても眠れない。
「少しだけだからね」
卵が、こん、と鳴った。
「だから返事しないで」
指先に意識を集めると、淡い光が卵へ流れた。金色の模様がふわりと明るくなる。温かさが増し、殻の内側で小さな気配が身じろぎした。
ぱき。
小さな音がした。殻に細いひびが入る。
私は反射的に手を止めた。
「待って。早くない?」
こん。
「急かさないで」
ぱき、ぱき、ぱき。
ひびは少しずつ広がっていく。私は息を止めた。中から何が出てくるのか、正直、怖い。竜だったらどうしよう。大蛇だったらどうしよう。山を燃やす火の鳥だったら、私は今すぐ女神さまに苦情を言いたい。
ただ、ひびの奥から漏れてくる気配は、思ったより小さかった。強い。確かに強い。でも、今はまだ小さい。大きな力を持っているのに、うまく体を動かせない赤ん坊のような、不安定な気配。
私は魔力をさらに細くした。押し開けるのではなく、道を作る。殻が割れたい方向を探し、そこだけを少し助ける。
すると、卵の金色の模様が一瞬だけ強く光った。
森の葉がざわりと揺れる。
風ではない。
魔力の波だ。
「あ、まずい」
今の光、遠くから見えたかもしれない。
村からは、どうだろう。山のふもとの村。煙突の煙。畑。人。誰かが空を見上げていないといい。
そう思った瞬間、遠くの畑のあたりで、小さな点が動いた気がした。
人かもしれない。鳥かもしれない。ただの風で揺れた木の枝かもしれない。距離がありすぎて分からない。
分からないけれど、分からないものほど面倒である。
もし今の光を見られていたら、どう説明するのか。
山の中で光る大きな卵を見つけまして。
中から音がしたので。
少しだけ魔力を流しました。
駄目だ。怪しい。完全に怪しい。私が聞く側なら、まず一歩下がる。
私は慌てて魔力を抑えた。抑えたつもりだった。でも、卵の中から、ふわりと別の力が返ってくる。私の魔力に触れて、何かが目を覚ましたような感覚。
殻の内側で、小さなものが動いた。
こん。
今度の音は、さっきよりはっきりしていた。
私は手を離せなかった。ここで離すのは、たぶん一番よくない。途中で手を出して、途中で逃げる。それは、さすがに無責任だ。
静かに暮らしたい。面倒は避けたい。目立ちたくない。全部、本音だ。
でも、助けられそうなものを、助けられると分かってしまったものを、ここで見捨てて村へ行けるほど、私は器用ではなかった。
私は奥歯をかみ、卵のひびを見つめた。
「最後まで面倒を見るしかないか」
言ってから、自分で嫌になった。
面倒を見る。
転生初日に言う言葉ではない。静かに暮らす計画が、すでに森の中でひび割れている。卵と一緒に。
ぱき。
大きめのひびが入った。
中から、かすかな音がする。呼吸のような。寝言のような。まだ言葉になる前の気配が、殻の向こうで震えている。
それから、声がした。
「ミリィ」
私は固まった。
風の音が遠くなる。指先に触れている殻の温かさだけが、やけにはっきり残った。
「……まだ名乗ってないんだけど」
卵は沈黙した。
でも、今のは確かに声だった。内側から。私の名前を呼んだ。
女神さまがくれた、こちらの世界で自然に使える名前。まだ誰にも名乗っていない名前。私自身だって、口の中で何度か転がしただけの名前。
卵の中の何かが、それを知っていた。
ぱき、ぱき、と殻のひびが広がる。金色の光が、割れ目から細く漏れる。
私は息を止めたまま、卵を見つめた。
もう、見なかったことにはできない。
もう、ただの卵ではない。
そしてたぶん、静かな暮らしは、始まる前から少し遠ざかった。
初日からこれである。
先が思いやられる。
本当に。




