香月、食の魔術師
決勝卓に座った瞬間、志希の胃は、
まるで“油の海で溺れる小舟”のように揺れていた。
──ぐるり。
「……うっ……」
テーブルに突っ伏したまま、志希は小さく呻く。
胃の奥で、食べたばかりのラーメンの油とニンニクが、
暴徒のように暴れ回っている。
弟は隣で心配そうに覗き込む。
「志希……本当に大丈夫か……?
決勝だぞ……?」
「……決勝じゃなくて……
……胃が……決壊しそう……」
志希の声は、
もはや言語として成立しているかも怪しい。
そんな中、
対面の男──香月レオンは、
まるで高級ホテルのラウンジにでもいるかのような優雅さで、
ハーブティーを揺らしていた。
香りがふわりと漂う。
甘く、落ち着いた香り。
しかしどこか“支配的”な気配を帯びている。
志希の胃が、反射的に動いた。
「……っ……なに……これ……
……香りで……胃が……殴られてる……」
香月は微笑む。
「そのニンニク臭……そしてその顔色。
昼食には少々、重すぎたようだね」
志希の胃が、またひとつ跳ねた。
──ぐるり。
「……っ……
……やめて……
……胃が……油で……逆流……」
香月は、
志希の苦しむ様子を気にも留めない様子で、
カードを指先で軽く弾いた。
「さあ、志希さん。
君の体調が崩れ切る前に……
決勝戦を始めようか」
志希は顔を上げる。
目は虚ろ。
胃は死にかけ。
既に体力はゼロ。
だが──
「……勝つ……
……胃が死んでも……勝つ……」
弟「いや胃は死なせるなよ!!」
観客がざわつく。
「志希ちゃん……大丈夫か……?」
そして、店長の声が響いた。
「決勝戦──開始!」
先攻後攻を決めるダイスが転がる。
「先攻は……香月くん」
香月は笑みを浮かべる。
その笑みは、
“勝利が約束されている者”の余裕そのものだった。
「では──僕のターン。
まずは一枚ドロー。
……ふむ、悪くない」
志希は胃を押さえたまま呻く。
「……うっ……胃が……」
弟「志希、開始10秒で死にそうなのやめて」
香月はカードを一枚、滑らせるように場に置く。
「《アロマ・サーヴァント》召喚。
効果でデッキから《調香陣》をサーチ」
それと同時に香月は持っていた小瓶を開け、
ふわりと甘い香りを漂わせた。
「これは“緊張を緩める香り”。
甘い香りは脳をリラックスさせる。
これで少しは楽になるだろう。
その代わり……判断力は犠牲になるが」
志希はぼんやりと目を細めた。
「……なんか……ぼーっとする……」
香月はさらにカードを伏せる。
「では、ターンエンド。
君の番だよ、志希さん」
志希は震える手でデッキに触れる。
「……ドロー……」
なんとかカードを一枚場に出す。
「……《スパーク・チャージ》……」
香月は静かに笑う。
「ふふ……そのカード、
今の君の体調では……
“ただの紙切れ”だよ」
志希「……殺す……」
弟「語彙が死んでる」
ターンが相手に戻ると、
香月は別の小瓶を取り出した。
蓋を開けた瞬間──
鼻を刺すような鋭い香りが広がる。
「……っ!?
……なに……これ……
……胃が……熱……」
弟「スパイス系だ……!
胃を刺激するタイプの香りだ!」
香月は優雅に説明する。
「これは“覚醒スパイス”。
眠気は飛ぶが……
胃に直接ダメージが入る。
君のように三郎を食べた直後の人間には……
致命的だ」
志希は口を押さえた。
「……うぷ……っ……」
弟「頼むから決勝で吐くのはやめて!!」
志希は口を押さえ、
椅子にしがみつく。
香月は微笑んだまま、
さらにカードを置く。
「《スパイシー・ドロップ》発動。
相手の手札を一枚ランダムに捨てさせる」
志希の手が震え、カードが落ちる。
「……うっ……
……手が……勝手に……」
弟「手札じゃなくて胃袋の方が落ちそうだよ」
観客席がざわつく。
「香月、えぐすぎる……」
「香りの魔術師……?」
「これカードゲームじゃなくて拷問だろ……」
香月は、
まるで“香りの講義”でもしているかのように、
優雅に続ける。
「スパイスの刺激は、
胃の蠕動を一時的に活性化させる。
つまり──
三郎の油が一気に動き出す」
「……やめ……
……言わないで……
……動く……油が……」
弟「油が動くって概念あるんだ……」
志希は椅子にしがみつき、
呼吸が荒くなる。
香月は、
その様子を“観察対象”を見るような目で眺める。
「ふむ。
では次は──
血糖値を上げようか」
志希は顔を上げる。
「……は……?」
弟が叫ぶ。
「おい、やめろ……!
志希、さっき三郎食って血糖値乱高下してんだぞ!」
香月は小瓶を開ける。
甘い、濃厚な香りが広がった。
「“シュガー・アロマ”。
甘い香りは脳に“糖が入った”と錯覚させる。
血糖値が急上昇し──
その反動で強烈な眠気が来る」
志希の瞼が落ちる。
「……っ……
……ねむ……
……ねむ……」
弟「来た!!
血糖値スパイクの反動!!」
志希の目が半分閉じる。
「……カード……見え……ない……
……眠……」
香月は微笑む。
「眠ってもいいよ?
その間に、僕は盤面を整えるから」
志希はかすれた声で呟く。
「……殺す……」
弟「語彙が完全に“殺す”しかない」
観客席からも悲鳴が上がる。
「これ……試合続けていいのか……?」
「志希ちゃん、もう戦闘不能だろ……」
香月はハーブティーを片手に、
静かに告げる。
「君の体調は、
今──
最悪のバランスになっている。
眠気と吐き気の同時発生。
人間が最も判断力を失う状態だ」
志希は机に突っ伏しながら呻く。
「……ねむ……
……吐く……
……胃……死ぬ……」
弟「志希、もう“生きてるだけで偉い”レベルだよ」
香月はカードを数枚並べ、
盤面を整えながら微笑む。
「さあ──
君が寝落ちする前に、
僕は勝利の準備を進めさせてもらうよ」
志希は目をこすりながら呟く。
「……むり……
……目……開かない……」
弟「志希!!
寝るな!!
寝たら終わりだ!!」
志希はふらふらと顔を上げる。
「……ねむ……
……吐く……
……ねむ……」
弟「どっちだよ!!」
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香月はカップを揺らしながら、
志希の苦しむ様子を観察している。
「……ふむ。
やはり“眠気と吐き気の混在”は、
人間の集中力を最も奪うね」
「……言わないで……
……胃が……揺れる……」
「……残念だが……
君が昼食の選択を間違えた時点で、
勝負は決していたんだよ」
弟が即座に噛みつく。
「いや、間違えたのは店員だよ!
こっちは“小ラーメン野菜少なめ”って言ったのに、
なんで“ニンニク野菜アブラマシマシ”が来るんだよ!」
香月は、まるで答えを知っているかのように、
意味深に目を細めた。
「……そう。
“少なめ”が“マシマシ”になるなんて、
普通はあり得ない。
だが──世の中には、
“食の流れ”を操る者もいる」
「……食の……流れ……?」
香月はハーブティーを一口飲み、
静かに言った。
「君は知らないだろうけど……
この世界には、
“食”の支配者がいるんだよ」
「……なんだよその中二設定」
香月は笑う。
「中二病?違うさ。僕はただ──
“勝つために必要な準備”をしただけだ。
カードゲーマーは呪文を操る。
三郎のコールは“呪文”そのもの……
注文の順番を操作することなど……造作もない」
そのとき、弟の脳裏に何かが引っかかった。
弟はふと、昼休憩の出来事を思い出していた。
自分たちの後に、
大ラーメンニンニク野菜アブラマシマシを頼んだ人物がいたことを。
コールを受けた店員は食券に印をつけ、注文順にカウンターに並べていく。
もし、一瞬の隙を見て食券を入れ替えることができたとしたら……?
──実は、香月の外道さはそれだけではなかった。
昼休憩中に対戦相手がUberで軽食を頼もうとすれば、
同エリアに大量の偽注文を出して配達を遅延させる。
高単価の注文を出すことで、
必然的に相手の注文の優先度は下がる。
運よく配達員が見つかったとしても、
ダブルピック、トリプルピックの対象となる。
結果──
相手の注文は、配達ルートの最後尾に回される。
到着予定時刻が永遠に更新され続ける地獄の画面。
配達員が来たと思えば、全く違う方向へ誘導される謎のピン。
相手の注文が時間内に届くことはまずない。
さらに──
松屋や富士そばのような食券制の店では、
前もって券売機に“調整中”の札を掛けておく。
デパートのレストラン街に行こうとすれば、
香月が先回りして立ち、
「今日は全館休業ですよ」と平然と嘘をつく。
近くのコンビニに行けば、
弁当コーナーの弁当がすべて買い占められている。
対戦相手が昼食を取ろうとするたびに、
常に“何か”が邪魔をした。
偶然ではない。
すべて──香月の仕業だった。
香りで精神を揺らし、
食を奪って集中力を削ぎ、
胃を刺激して判断力を奪う。
香月は、食に関する妨害行為において一流のプロだった。
その異常な執念から、
いつしか彼はこう呼ばれるようになった。
《食の魔術師》(フード・ソーサラー)
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テーブルに突っ伏す志希に向かって、弟は呟く。
「こいつ……今までのどの相手よりも“危険”だ……!!」
観客
「香りだけじゃなくて……食まで妨害してたのかよ……」
「外道すぎる……」
「これ勝てるのか……?」
香月は微笑む。
「さあ──続けようか。
君の“五感”は既に支配した。
次は……
君のライフを奪う番だ。」




