志希、サブリメンの絆
志希は席に座ったまま、
ただ前のめりに崩れ落ちそうになっていた。
顔色は灰色。
胃は悲鳴。
意識は半分飛んでいる。
それでも──
ターンは回ってくる。
弟が慌てて声をかける。
「志希……ターンだぞ……!」
志希は、
まるで鉛の塊を持ち上げるような動きで
デッキに手を伸ばした。
「……ど……ろぉ……」
カードを引いた瞬間、
胃の奥でまた何かがうねりを上げた。
──ぐるり。
「……っ……」
「志希!?大丈夫か!?」
志希はカードを見つめるが、
視界が揺れて文字が読めない。
「……なに……これ……
……字が……泳いでる……」
志希は震える手でカードを手札に加えようとするが──
ぽとり。
カードが手から滑り落ちた。
観客がざわつく。
「カード落とした……」
「もう限界じゃん……」
志希は拾い上げる気力もなく、
ただ呟いた。
「……むり……
……ターン……エンド……」
志希は机に突っ伏したまま、
かすれた声で言う。
「……胃の奥で……
アマゾン川が……逆流してる……
……満潮が……せり上がって……
食道が……沈む……」
「志希、胃の中で自然災害起こすな」
香月は静かに頷いた。
「ふむ。
では、僕のターンだね」
そして──
香月は、
手に持った小瓶をゆっくりと開けた。
強烈なミントの冷気が、
店内に広がる。
志希は思わず自分のお腹を押さえる。
「……っ……!!
……おなか……
……冷える……」
香月は優雅に続ける。
「これは“クールダウン・ミント”。
スパイスで刺激した胃に、
急激にミントの冷却を重ねると……
胃腸の蠕動運動が加速する」
「……むり……
……トイレ……行く……」
「これは駄目なやつだ……
志希、もう行ってこい!!」
志希は立ち上がり、
ふらふらとトイレへ向かった。
観客は困惑。
「決勝戦でトイレ行くやつ初めて見た」
「志希ちゃん、HPもうゼロだろ……」
香月はハーブティーを片手に、
静かに呟いた。
「……さて。
彼女が戻るまでに、
盤面を“整えて”しまおうか」
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椅子から立ち上がった志希は、
顔は青白く、お腹を押さえ、足取りはふらふら。
「……むり……トイレまで……間に合わない……」
弟が慌てて支える。
「志希、大丈夫か……?」
志希は振り返り、涙目で叫んだ。
「話しかけないで!!
私いまブリ突き上げてるからぁ!!」
弟は言葉を失った。
「……そんな状態で決勝やってるのがまずおかしいんだよ……」
志希はそのままトイレへ駆け込み、
個室のドアを乱暴に閉めた。
中からは、
「……うぅ……なんで私が……こんな目に……」
という、魂の抜けた声が漏れてくる。
そのときだった。
トイレの個室の前に、
髭を生やした恰幅のいい男が立った。
着ている黒のTシャツには大きく
《三郎・油・命》
と書かれている。
驚いた弟が思わず声を上げる。
「え、ここ女子トイレだよね……?」
男は静かに首を振った。
「心配するな。すぐ出る。……ただ、渡すものがある」
男はドアの下の隙間から、
胃薬と紙パックの黒烏龍茶を差し入れた。
志希は驚いて声を上げる。
「……え……なに……?」
男は低い声で言った。
「これ、三郎の店主からだ」
それを聞いた志希は固まった。
弟も固まった。
男は女子トイレの入り口に戻り、続ける。
「俺たちは……気づいていたんだよ。
お前の注文が“入れ替えられていた”ことにな」
志希は息を呑んだ。
男は、まっすぐに言葉を続ける。
「本来なら、ギブアップしても全然よかった。
あの量は“慣れてない者”には地獄だ。
だが──」
男は拳を握った。
「お前は……逃げなかった。
あの山と向き合い、
最後まで食べ続けた」
志希の胸が熱くなる。
男は静かに言った。
「その瞬間──
お前は“サブリメン”として認められたんだ」
志希の目に涙が浮かぶ。
「……そんな……私……ただ……負けたくなくて……」
男は笑った。
「それで十分だ。
サブリメンは、どんな地獄でも向き合う。
それが絶対の掟だ」
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弟が恐る恐る尋ねる。
「……あの、香月のこと……怒ってるんですか?」
男は眉をひそめた。
「ああ、当然だ。怒ってる」
志希は震える声で言う。
「……やっぱり……注文入れ替えたから……?」
男は首を横に振った。
「いや、違う」
志希「え?」
男は深く息を吸い、
怒りを押し殺すように言った。
「香月は……
お前の“小ラーメン野菜少なめ”を完食して、
さっさと店を出ていった」
弟「……え、それの何が……?」
男は拳を震わせた。
「ロットメンバーは一心同体だ。
誰かが遅くてもロットは乱れる。
だが──
“誰かが早すぎても”ロットは乱れるんだよ!!」
志希「……えっ……?」
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いわゆる“三郎系”のラーメン店には、
常連の間で共有されている、
独自の秩序 がある。
その中心にあるのが、
“ロット” だ。
ロットとは、一度に茹でられる“麺の数” のこと。
鍋に投入された麺の量、
茹で時間、
盛り付けの順番──
これらすべてがロット単位で管理されている。
三郎の麺は太く、茹で時間も長い。
だから店は効率のために、
5~6人分をまとめて茹でる。
したがって同一ロットに入った客は、
その瞬間から運命共同体になる。
そして、ロットメンバーの誰かが遅いと──
タイミングがばらけ、
効率的に次のロットが茹でられない。
店全体の回転が止まる。
後ろの客が詰まる。
つまり、一人の遅れが全体に迷惑をかける。
だが、それは誰かが早すぎても同じことだった。
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男は叫んだ。
「ロットとは“共に食う”ものだ!!
あいつはその心がない!!
サブリメンを名乗る資格などない!!」
弟(いや香月サブリメンじゃないだろ……)
志希は苦しさの中で、
なぜか胸が熱くなっていた。
自分の戦いを見てくれていた人がいた。
自分の苦しみを理解してくれる人がいた。
それだけで、
少しだけ胃の痛みが和らいだ気がした。
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だが、弟はふと別のことに気づく。
「……志希。
お前がトイレにこもってる間に……
香月、絶対ターン進めてるぞ」
志希は青ざめた。
「……嘘……そしたら……負け……じゃん……」
弟は唇を噛む。
「即死ループ完成してたら……
どんなに頑張っても……」
志希は震えた。
「……やだ……
……負けたくない……」
そのとき、黒Tシャツの男が静かに口を開いた。
「……香月は、一つだけ……重大な見落としをしている」
弟が振り返る。
「……見落とし?」
男はゆっくりと頷いた。
「ルール上、“無限ループコンボ”は……
相手が席に戻って承認しない限り成立しない」
志希は息を呑んだ。
男は続ける。
「そして──
お前はまだ、戻っていない。」
志希の目に、わずかな光が戻った。
男は手に持った黒烏龍茶を握りしめながら言った。
「立て。
サブリメンは……
最後の一滴まで、諦めない」




