表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夫人革命逃亡記  作者: 伊阪証
修正してない本編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

37/39

薔薇飾りの出世

夜の移動は、逃亡ではなく輸送に近かった。ラファエルの兵は記録箱を二台の荷車に分け、没収品の封印箱を一台に載せ、町の端へ向かう道を黙って進んだ。灯りは布で覆われ、馬の蹄には濡れた布が巻かれている。音を消すためだ。逃げているわけではない、とラファエルは言うだろう。補給路保全のための移動だ、と。紙束と遺品を抱え、処刑台の町から夜のうちに抜け出す。

アデルは荷車の横を歩きながら、白と金を基調にしたドレスの裾を片手で端を持ち上げていた。乾きかけた泥は布を硬くし、藍の染みは夜目にも黒く沈み、金糸の縁取りには炭粉と石畳の白い粉が入り込んでいる。深紅のコルセットは煤けているのに、夜の中では妙に色だけが残り、見張りの灯りが動くたびに暗い赤を返した。腰回りの大きな薔薇飾りは、昼間の確認作業で何度も椅子や台にぶつかり、縫い直した糸の根元からまた少し裂けている。胸元の青い宝石の欠落跡は、冷えた風を受けるたびに布の内側へ直接触れてくるようだった。彼女はそこを押さえたくなるたび、わざと手を腰の薔薇飾りへ移した。

「歩けるか。」

レイモンが横から聞いた。

アデルは顔を上げる。

「最近、あなた私にそればかり聞きますわね」

「実際、歩けていない時がある」

「失礼ね。歩けていないのではなく、衣装が抵抗しているだけです」

「同じだ」

「まったく違います。私の意思は前進、裾と薔薇飾りは反革命ですわ」

レイモンは少しだけ呆れた顔をした。火傷した手はまだ布で巻かれている。昼間より色は悪くないが、動きは重い。彼は処刑記録を読んだ疲労を顔の奥へ押し込んでいた。妻子を追えない痛みも、処刑場を見た苦しさも、法廷へ進む重さも、全部まとめて沈めている。レイモンは押し黙ったまま、足元の泥を蹴った。アデルはそれを分かっていたが、今は掘り返さなかった。夜道では、掘り返すより足元を見る方が先だった。

「あなたこそ、歩けていますの?」

「歩いている。」

「それは見れば分かります。私が聞いているのは、中身の方」

レイモンは少し黙った。

「分からない。」

「便利な答えね。」

「本当に分からない。」

「では、分からないまま歩きなさい。今夜はそれで十分ですわ。」

彼は返事をしなかった。だが、足は止まらなかった。アデルはそれを確認し、前方のラファエルへ視線を移した。ラファエルは一台目の荷車の横にいる。地図を持ち、時々道の先を見る。彼の歩調は乱れず、疲労は顔にあるのに、判断は落ちていない。

町外れの水車橋へ近づくと、兵の一人が手を上げた。全員が止まる。アデルも止まったが、裾が足に絡み、少し遅れて踏み直す羽目になった。橋の先は暗い。水車小屋の影があり、その横に細い納屋がある。風は川から来ている。川の匂いに、何か別の匂いが混じっていた。油。焦げる前の油。アデルは鼻を少し動かした。

「火を使うつもりですわね」

ラファエルが振り向く。

「なぜ」

「油の匂い。水車小屋に灯りがないのに、油だけが強い。しかも風上。橋を渡り始めたところで火をつければ、荷車ごと記録箱を止められます」

レイモンも前を見る。兵たちが銃を構えた。ラファエルは短く命じる。

「斥候二名、右から回れ。荷車は下げるな。下げれば町へ戻る形になる」

「進むの?」

アデルが聞く。

「進まなければ、ここで朝まで止まる。朝になれば監察官が人を集める」

「合理的ね。嫌になるほど」

「あなたが気付いたので、火がつく前に処理できます」

「褒めている?」

「事実です」

「本当に褒め方が育っていないわ」

ラファエルは無視した。アデルは肩をすくめ、橋の先を見た。斥候が影へ消える。しばらく何も起きない。水車の板だけが、止まったまま黒い輪郭を見せている。すると、納屋の陰で小さな音がした。木桶が倒れる音。次に男の短い悲鳴。ラファエルの兵が一人、油壺を抱えた男を引きずり出した。続いてもう一人。腕章を付けている。監察官の手の者だろう。正規兵ではない。だが、油壺と火打ち石を持っていた。

「証拠を燃やすには、ずいぶん早起きですわね」

アデルが言うと、油壺の男が彼女を睨んだ。

「反革命の紙を守る女め」

「紙を燃やしたがる人間ほど、紙に弱いのよね。不思議だわ」

男は唾を吐こうとした。レイモンが一歩出る。レイモンが手を伸ばすと、男は喉を鳴らし、唾を地面へ吐き出さずに喉へ戻した。

ラファエルは捕らえた男たちを見た。

「誰の命令だ」

男たちは黙る。

「監察官?」

返事はない。沈黙が答えだった。アデルは油壺を見る。橋を焼くには足りない。だが荷車の布、記録箱の外装、乾いた藁に火を移すには十分だ。全部燃やせなくても、混乱を起こし、川へ落とし、一部を濡らせればよかったのだろう。

「記録箱は三台に分けて正解でしたわね」

アデルが言うと、ラファエルがこちらを見た。

「そうですね」

「私の案ではありませんけれど、私が言ったことにしても?」

「しないでください」

「けち」

その時、橋の下で板が軋んだ。全員の視線が下へ向く。捕らえた男は二人。だが、油の匂いはまだ残っている。レイモンが先に動いた。橋の欄干へ近づき、下を覗く。次の瞬間、彼は低く言った。

「下にいる」

ラファエルが銃を向けさせるより早く、橋の下から火が上がった。直接の炎ではない。油を染み込ませた藁束に火がつき、橋の下板を舐め始めた。乾いた部分がすぐに煙を出す。荷車が橋へ入る前だったのは幸いだが、このままでは通れない。記録箱を積んだ荷車は足止めされる。背後は町。夜明けまで残れば、監察官の思う壺だ。

ラファエルが命じる。

「水を」

兵が川へ走る。しかし火は橋の下だ。上から水をかけても届きにくい。橋板を外すには時間がかかる。アデルは周囲を見た。水車小屋、油壺、濡れた布、荷車の防水布、没収品箱。彼女の視線が自分のドレスへ落ちる。白と金の裾は泥と藍で濡れて重い。深紅のコルセットの下で息が詰まる。腰の薔薇飾りは邪魔。だが、濡れた布はある。量もある。高価で、汚れていて、腹立たしいほどよく水を吸った布が。

「最悪」

アデルは言った。

レイモンが振り向く。

「何だ」

「このドレス、今夜ついに役に立ちますわ」

「何を」

アデルは腰の薔薇飾りの縫い目に指をかけた。昼に直したばかりの糸だ。少女に、まだ勝っていると言ったばかりの薔薇。死刑台から降りた時の姿がまた一つ減る。いつ減らすかは自分で決めたい。そう言った。なら、今決めるしかない。彼女は糸を引きちぎった。

薔薇飾りが落ちた。

濡れて潰れた花弁が、白と金のドレスから離れ、彼女の手の中で重く沈んだ。レイモンが息を止めた。ラファエルも一瞬だけ動きを止めた。アデルは顔をしかめた。泣きはしない。そんな暇はない。ただ、ものすごく腹が立った。

「あなた方、後でこの花の損害額を政治に請求してくださる?」

「何をする気だ」

レイモンが言う。

「濡れた布を火へ押し当てるのよ。橋の下へ回れる?」

ラファエルが即座に答える。

「水車側からなら」

「では、行きましょう。私の薔薇を無駄にしたら許しません」

「あなたは残れ」

レイモンが言った。

「嫌です。私の薔薇です」

「危険だ」

「ええ。だから急ぐの」

彼女は落とした薔薇飾りを抱え、兵の一人から水桶を奪ってさらに水をかけた。金糸と深紅の布が完全に濡れ、重くなる。豪華な飾りはもう飾りではなかった。濡れた防火布だった。アデルはその重みに一瞬よろめいたが、レイモンが支えた。

「だから残れと言った」

「支えられるなら問題ありませんわ」

「問題しかない」

「今は橋の方が問題です」

二人は水車側から橋の下へ回った。ラファエルの兵も続く。火は藁束から橋板の裏へ移りかけていた。煙が目に刺さる。工房の火事を思い出す匂いだった。レイモンの火傷した手がわずかに動く。あの時も彼は火へ入った。アデルはそれを見て、すぐ言った。

「今日はあなたが抱えるのではありません。押さえるだけ」

「分かっている」

「本当に?」

「分かっている」

アデルは濡れた薔薇飾りを火の上へ押し当てた。熱が手袋越しに伝わる。蒸気が上がり、煤と油の匂いが顔を打った。白と金の袖が煙を吸い、深紅のコルセットの前面へ黒い粒が飛ぶ。胸元の青い宝石の欠落跡にまで熱い煙が入り、彼女は咳き込んだ。それでも手は離さなかった。レイモンが横から別の濡れ布を押し当て、兵が水をかける。ラファエルが上から橋板の隙間へ水を流させる。藁束の火は暴れ、しばらくしてからようやく弱った。

「まだ右」

レイモンが言った。

アデルは薔薇飾りを引きずるように右へずらした。花弁の布が焦げる。金糸が黒く縮む。アデルは歯を食いしばった。

「本当に、最悪」

「離せ」

「嫌です」

「焦げている」

「見れば分かります!」

「手が」

レイモンが彼女の手首を掴み、位置を変えた。火傷した手ではない。無事な方の手だった。アデルの手袋の端が少し焦げている。彼はそれを見て、濡れた布を上から重ねた。彼女が持つ薔薇飾りと、彼が押さえる濡れ布。その二つで火はようやく完全に消えた。

煙だけが残った。橋板は一部焦げたが、抜けてはいない。荷車は通れる。記録箱は燃えなかった。

アデルは膝に手をつき、深く咳き込んだ。深紅のコルセットが咳を邪魔し、肺がうまく広がらない。白と金のドレスはさらに煤け、裾には火消しの泥水が飛び、腰にはもう薔薇飾りがない。そこだけが急に軽く、同時に寒かった。胸元の青い宝石の欠落跡に続いて、腰の薔薇まで失った。死刑台から降りた姿が、また一つ減った。

レイモンが彼女の肩を支える。

「怪我は」

「薔薇が死にました」

「体だ」

「手袋の端だけ。あと、誇りがかなり」

「誇りは燃えない」

「燃えましたわ。今、かなり香ばしく」

レイモンは言葉に詰まった。アデルは焦げた薔薇飾りを見た。もう飾りには戻らない。火を吸い、水を吸い、油を吸い、金糸は黒く縮れている。これを腰へ戻すのは無理だ。アデルは少しだけ黙った。思っていたより、胸に来る。くだらない。布飾りだ。歩くには邪魔だった。皆に取れと言われた。取った方が合理的だった。だが、自分で決めて取ったのに、喪失は喪失だった。

「アデル」

レイモンの声が低い。

「何?」

「……橋は残った」

彼なりの慰めだった。あまりにも不器用で、あまりにも事実だけだった。アデルは焦げた薔薇を見たまま、少しだけ笑った。

「ええ。私の薔薇は、処刑記録を守ったのね。出世したわ」

「そうだな」

「そこは笑うところですわよ」

「笑えない」

「でしょうね」

ラファエルが橋の上から下りてきた。彼は焦げた橋板と、アデルの手の中の薔薇飾りを見た。

「記録箱は無事です」

「まず私の薔薇へ弔辞を述べなさい」

「助かりました」

「弔辞が事務的すぎる」

「あなたの判断は有効でした」

「最低の褒め方ね。でも今は受け取ります」

ラファエルは捕らえた男たちを見た。

「監察官の手の者か」

兵が頷く。

「一人は逃げました。二人確保。橋下の者は火傷していますが生きています」

「尋問する。荷車はすぐ渡す。橋を越えたら修理班を残せ」

「はい」

アデルは焦げた薔薇飾りをどうするか迷った。捨てれば軽い。持てば邪魔。戻せない。けれど、ここで捨てるのはどうにも腹立たしい。彼女は薔薇飾りの焦げていない布端を裂き、そこから金糸がまだ残っている一部を切り取った。小さな焦げた花弁の欠片。彼女はそれを布包みへ入れた。青い硝子片、工房印、革命章、宿の印、命令書、地図。そこへ、焦げた薔薇の欠片が加わる。

レイモンがそれを見ていた。

「持つのか」

「全部は無理。でも、一部くらいは」

「重くなる」

「軽いわよ」

「そういう意味ではない」

アデルは布包みを結んだ。

「知っています」

橋を渡る時、アデルの腰は軽かった。薔薇飾りがないだけで、歩きやすさは段違いだった。腹立たしいほど楽だった。彼女はその事実にさらに腹を立てた。レイモンは横で何も言わない。言えば怒られると分かっている顔だった。

「今、歩きやすそうだと思いました?」

アデルが聞く。

「思っていない」

「嘘」

「……少し」

「正直すぎる男は嫌われますわよ」

「もう嫌われている」

「誰に?」

「お前に」

アデルは一瞬だけ黙り、それから少し笑った。

「嫌っていたら、薔薇を燃やしてまで橋は守りません」

「記録のためだろう」

「ええ。記録のため。あなたのためではありません」

「分かっている」

「本当に?」

「……分からない」

アデルはその答えに、妙に満足した。分からないと言えるなら、まだいい。分かったふりで全部を処理されるより、ずっといい。

橋を越えると、荷車が一台ずつ渡った。記録箱は無事だった。没収品箱も無事だった。ラファエルの兵たちは橋の向こうで隊列を組み直し、夜道を再び進み始める。背後では修理班が橋板を確認し、捕らえた男たちが縛られている。監察官の手は早い。次はもっと直接的に来るだろう。証拠を燃やし、橋を焼き、町へ戻らせる。これで失敗したなら、次は記録ではなく人を狙うかもしれない。

ラファエルがアデルへ近づいた。

「あなたは次から荷車に乗ってください」

「なぜ?」

「歩かせると、また何かを燃やして解決しようとする」

「私が悪いみたいに言わないで」

「あなたが有効すぎる」

「それ褒め言葉?」

「警戒です」

「でしょうね」

荷車に乗ることになったアデルは、没収品箱の横へ腰掛けた。白と金のドレスの裾をたくし上げ、深紅のコルセットの苦しさを少しだけ逃がす。腰の薔薇飾りがないため、座るのは驚くほど楽だった。彼女はその楽さにまた腹を立て、腕を組んだ。

レイモンは荷車の横を歩く。火傷した手は無事だった。彼は時々、アデルの腰の空いた場所を見る。そこに薔薇飾りがないことを、彼も気にしているのだろうか。アデルは気付いていたが、指摘しなかった。指摘すると、自分も気にしていると認めることになる。

夜道の先で、雲が切れた。月明かりが少しだけ荷車の上へ落ちる。没収品箱の封印、記録箱の角、アデルの焦げた手袋、深紅のコルセット、青い宝石のない胸元。そして、腰にあったはずの薔薇の空白。アデルはその全部を一度に感じながら、布包みの中の焦げた花弁に指を当てた。

「まだ勝っているかしら」

小さく呟くと、レイモンが聞き取った。

「何に」

「薔薇が落ちたら負けかと思っていましたの」

「違うのか」

「橋は残った」

レイモンは少し黙った後、低く言った。

「なら、勝ちだろう」

アデルは彼を見た。彼は前を向いていた。慰めが相変わらず事実だけで、不器用で、少し腹立たしい。けれど今夜は、それでよかった。

「ええ」

アデルは焦げた花弁を布包みの奥へ押し込み、荷車の揺れに身を任せた。

「では、勝ちにしておきますわ」

荷車は夜道を進んだ。処刑記録と没収品と、焦げた薔薇の欠片を載せて。ロベルト派の火は背後で消え、前にはまだ別の火が待っている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ