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夫人革命逃亡記  作者: 伊阪証
修正してない本編

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30/39

ラファエルの天幕

炭窯の裏から続く山道は、夜の中で細く曲がっていた。炭焼き小屋の灯りが背後で小さくなり、やがて木々の間に隠れると、道を照らすものは雲の切れ間から落ちる薄い月明かりだけになった。足元には炭の粉と湿った落ち葉が混じり、踏む場所を間違えると靴底が滑る。レイモンは前へ出たが、走らなかった。アデルが止めたからではない。彼自身が足元を見ていた。炭焼き小屋で受け取った木片と髪紐は懐にしまわれている。そこへ触れるたびに彼の指は動いたが、握り潰すほどではなかった。

アデルはその背を見ながら、白と金のドレスの裾を持ち上げて歩いた。裾は泥と藍と炭の粉で重く、金糸の縁取りには黒い粒が入り込んでいる。深紅のコルセットは湿気で硬く胴を締め、息を吸うたびに胸の下へ鈍い圧がかかった。腰回りの大きな薔薇飾りは金糸を一本失い、片側の花弁が垂れて、歩くたびに膝のあたりへ冷たく当たる。胸元の青い宝石の欠落跡は、修道女の一針で崩れずに残っていたが、台座だけの空白は夜気を受けて妙に冷えた。

「あなた、少しは歩き方がましになりましたわね」

アデルが言うと、レイモンは振り返らずに答えた。

「今それを言うのか」

「ええ。走って崖から落ちる男より、足元を見る男の方が連れ歩きやすいもの」

「褒めているのか」

「かなり」

レイモンは返事をしなかった。けれど、足は乱れなかった。アデルはそれで十分だった。彼は焦っている。焦っていないわけがない。だが、焦りをそのまま足へ移していない。それは小さいが、確かな変化だった。

しばらく進むと、道の脇に折れた枝が並んでいた。自然に落ちたものではない。細い枝が三本、斜面と反対側へ向けて置かれている。道を知る者の目印だった。レイモンが膝をつく。アデルも近づいた。

「奥方?」

「たぶん」

「なぜ分かるの」

「子供に道を教える時、妻はこう置いた。三本なら、曲がる。二本なら、止まる。一本なら、戻る」

アデルは枝を見る。何の変哲もない枝だ。だが、レイモンには家の中の記憶へ繋がっている。戸棚の印。髪紐。靴紐。枝の目印。彼の妻は、書類にも大きな声にも頼らず、子供が見落とさない小さな印を置いて進んでいる。逃げ慣れていないはずなのに、逃げるための判断を積み上げている。

「良い判断ね」

アデルは言った。

レイモンは顔を上げた。

「……ああ」

短い返事だった。だが、そこにはほんの少しだけ誇りがあった。アデルはその響きを聞いて、胸の奥に小さな棘が刺さるのを感じた。妻を褒めた。夫がそれを受けた。そこに自分の居場所はない。それは当然だった。当然であることが、腹立たしい。アデルはその棘を、いつものように言葉の奥へ押し込んだ。

「では、枝三本。曲がるのね」

「ああ」

二人は左へ折れた。道はさらに細くなり、炭焼きの道から獣道に近くなった。木の根が浮き、斜面から落ちた石が足元に転がっている。途中で、子供の靴跡が一度深く沈んでいた。近くに膝をついた跡がある。レイモンはそこへ手を伸ばし、土に触れた。

「転んだのか」

アデルは周囲を見た。血はない。布の切れ端もない。ただ、土がえぐれている。小さな足が滑り、大人が抱き起こした跡。少し先にはまた足跡が続いている。

「立っていますわ。ここで終わっていない」

レイモンの息がゆっくり抜けた。

「分かっている」

「分かっている顔ではなかったので」

「……そうだな」

彼は立ち上がった。アデルは何も言わず、先を見た。こういう時、余計な慰めは危険だ。彼には事実だけでいい。転んだ。立った。進んだ。それだけで足りる。

道はやがて、古い炭窯の跡へ出た。石で組まれた低い窯が半分崩れ、入口には木板が立てかけられている。そのそばに、小さな布片が結ばれていた。灰色の布。端に青い糸が一本。染料小屋で見つけたものと似ている。レイモンがそれを見つけた瞬間、顔が変わった。彼は手を伸ばしかけ、止まった。

「取らないの?」

アデルが聞いた。

「目印なら、残す」

「そう」

彼は取らなかった。アデルはわずかに目を細めた。以前なら、彼は痕跡を自分の手に収めようとしたかもしれない。だが今は、後に来る誰か、あるいは子供自身が戻る場合のために残した。追う者ではなく、道を読む者の判断だった。

炭窯の中には、乾いた草と、焦げた木片が少し残っていた。誰かが短時間だけ休んだ跡がある。火は焚いていない。灯りも使っていない。寒かったはずだ。子供に熱があるなら、火を使いたかったはずだ。それでも使わなかった。見つかるのを避けたのだろう。

レイモンは窯の入口に手をついた。

「ここにいた」

「ええ」

「すぐ先にいるかもしれない」

「いるかもしれない。けれど」

アデルは道の先を見た。足跡は炭窯の奥からさらに山道へ続いている。だが途中で、別の足跡が重なっていた。規則的な靴底。二人。いや、三人かもしれない。深く踏まず、斜面の硬い場所を選んで歩いている。軍の斥候に近い。だが足跡は母子の跡を踏み潰していない。横を通り、少し離れて並走し、また先へ抜けている。

「また見られていますわね」

レイモンは足跡を見た。

「ラファエルか」

「隊の者でしょう。本人かどうかはまだ分かりません」

「追っているのか」

アデルは首を横に振った。

「見ている。でも、捕まえていない。少なくともここでは」

「なぜだ」

「それを考えるには、材料が足りません」

「お前はもう考えている顔だ」

アデルは少し笑った。

「嫌なところを見ますわね」

「何を考えている」

「見逃している理由が、善意ではなさそうだということ」

レイモンは黙った。アデルは足跡の幅を見ながら続けた。

「もし本気で捕まえるつもりなら、この炭窯で十分だった。子供は熱がある。母親は疲れている。山道で追えば追いつける。それなのに、足跡は横を抜けている。つまり、見つけた上で捕まえていない」

「なら、逃がしたのか」

「そこまではまだ言えません。けれど、少なくとも“今ここで捕まえる価値はない”と判断した。これは善意より厄介ですわ」

「厄介?」

「善意なら感謝すれば済む。損得なら、次に損得が変わった時に捕まる」

レイモンは足跡から目を離さなかった。彼の中で、妻子の安全と、ラファエルの判断が結びつき始めている。アデルはそれを見た。ここで結論を急げば、彼はラファエルを敵か味方かに分けたがる。だがまだ早い。政治の中には、敵のまま助ける者もいる。助けたように見せて売る者もいる。見逃すことで相手を別の罠へ流す者もいる。

「進みましょう」

アデルは言った。

「ええ。今は足跡が続いています。考えるのは歩きながらでもできますわ」

炭窯を越えると、山道はさらに傾斜を増した。アデルの靴は何度も滑った。白と金のドレスの裾は枝に引っかかり、深紅のコルセットは呼吸を邪魔し、腰の薔薇飾りは斜面の草に触れて濡れた。彼女は二度、薔薇飾りを手で押さえ直した。三度目に引っかかった時、布が嫌な音を立てた。

「待って」

アデルは足を止めた。

レイモンが振り返る。

「怪我か」

「衣装です」

「今か」

「今ですわ。これは由々しき問題です」

薔薇飾りの根元が裂けかけていた。金糸が数本切れ、白い裏地が見えている。ここで無理に進めば、飾り全体が落ちる。取れば楽になる。分かっている。分かっているが、アデルはしばらくその潰れた薔薇を見ていた。

レイモンは黙って待った。急ぎたいはずだ。けれど、待った。アデルはそれに気付いて、少しだけ口元を歪めた。

「待てるようになったのね」

「焦らず来いと言われた」

「奥方の言葉は効きますのね」

言ってから、少し棘が出すぎたと分かった。レイモンは答えなかった。アデルも謝らなかった。謝る場面ではない。彼女は薔薇飾りの裂けた部分を見て、布包みから針を出した。村で借りた曲がった針だ。糸は色が合わない。だが、今さら色を気にする状態ではない。

「直すのか」

「落とすよりは」

「歩きにくいだろう」

「ええ」

「なら」

「まだ早いと言ったでしょう」

レイモンはそれ以上言わなかった。アデルは立ったまま、腰の薔薇飾りを雑に縫い留めた。針は曲がり、糸は引っかかり、深紅のコルセットの縁に指が当たって痛い。白と金のドレスの上に、色の合わない糸が走る。宮廷の裁縫係が見れば卒倒するような応急処置だった。

「ひどい出来」

アデルは自分で言った。

「落ちなければいい」

「慰めが雑ね」

「慰めではない」

「でしょうね」

それでも薔薇飾りは落ちなかった。潰れ、濡れ、裂け、色の合わない糸で留められている。それでもまだ腰にある。アデルはそれを確かめ、前を向いた。

「行きましょう」

レイモンは一歩先へ出た。今度は急かさなかった。

山道をさらに進むと、足跡は急に薄くなった。地面が硬くなったせいもある。だが、それだけではない。落ち葉が不自然に払われ、石が戻され、通った跡を隠している。母親の仕事ではない。子供連れで、そんな余裕はない。斥候の足跡が少し濃くなっている。誰かが後から痕跡を消したのだ。

アデルはしゃがみ込んだ。

「これは」

レイモンの声が低い。

「ラファエル隊でしょうね」

「なぜ消す」

「他の追手に見せないため」

「助けたのか」

「まだ断定しないで」

「痕跡を消している」

「ええ。だからこそ、目的が分からない」

アデルは落ち葉を指で払った。下には小さな足跡がかすかに残っている。完全には消しきれていない。消した者は、母子の跡を全て消すほど丁寧ではないが、一般の追手なら見失う程度には隠している。これは奇妙だった。捕まえる気なら消す必要はない。見逃すだけなら、ここまで手を加える必要もない。別の誰かに見つけられたくない。そういう処置に見える。

「ロベルト側の追手を避けさせた?」

アデルは呟いた。

レイモンが反応した。

「ロベルト?」

「可能性の話です。ロベルトが処刑を増やしているなら、処刑人の家族など格好の材料でしょう。捕らえて処刑するにも、人質にするにも、見せしめにするにも使える。ラファエルがそれを嫌うなら、痕跡を消す理由はあります」

「なぜ嫌う」

「あなたが裁判で勝ったから」

レイモンは眉を寄せた。

「何?」

「王族と処刑人。格差がある。身分も印象も、普通ならあなたが負ける。けれどあなたは理論で勝った。あの裁判が掘り返されると困る者がいる。ロベルトが無茶な処刑をしているなら、あなたを裁判に出すだけで処刑制度そのものに火がつく。サンソンが出てくれば、さらに面倒でしょうね」

レイモンは黙った。アデルは続ける。

「だから、あなたの家族を捕らえるのは簡単でも、使い方が難しい。処刑すれば同情を呼ぶ。裁判に出せば制度が揺れる。人質にすれば、あなたが出てくる。ラファエルが政治を考える男なら、少なくともこの段階では遠ざける」

「……逃がしたと?」

「まだ仮説ですわ」

「仮説を言うな」

「黙っていると、あなたが怒りで走るでしょう」

レイモンは否定しなかった。アデルはそれを見て、少しだけ肩の力を抜いた。考えを言語化することは危険だ。だが、黙っていれば彼は単純な敵意でラファエルを追う。今必要なのは、怒りではなく構図だった。

道の先で、枝が折れる音がした。

二人は同時に止まった。アデルは息を殺す。レイモンは彼女の前へ出た。今度は無駄な動きではない。木々の間から、人影が一つ見えた。すぐに二つ、三つ。灯りは持っていない。足音も小さい。市民巡回ではない。訓練された兵の動きだった。

レイモンの手が動く。武器はない。だが、彼は素手でも人を倒せる。アデルは低く言った。

「待って」

「囲まれている」

「分かっています」

「逃げ道は」

アデルは目だけで周囲を見る。左は斜面。右は崖。後ろは来た道だが、そこにも足音がある。前方には少なくとも三人。逃げ道はない。戦えば一人か二人は倒せるかもしれない。だが、アデルは走れない。レイモンの手は火傷している。相手は規律ある兵。ここで暴れれば、殺される理由を渡すだけだ。

「ラファエル隊なら、まだ殺されません」

「確証は」

「殺すなら、もう撃っています」

木々の間から、兵が出てきた。人数は六人。銃を構えているが、指は引き金にかかっていない。先頭の男は若くない。顎に短い髭があり、外套の留め具に簡素な軍章を付けている。彼はアデルの衣装を見た。白と金の泥汚れ、深紅のコルセット、縫い留められた薔薇飾り、青い宝石の欠落跡。それからレイモンを見た。

「レイモン・サンソン」

男は言った。

レイモンの肩がわずかに動く。

「誰だ」

「名乗る必要はない。武器を持っていないことは分かっている。抵抗すれば、女を先に撃つ」

アデルは眉を上げた。

「順番が無粋ね」

男は彼女を見た。

「あなたは黙っていてください、先王夫人」

「私の名を知っているのなら、少しは丁寧に扱いなさい」

丁寧に扱う命令は受けていません。

「では、殺す命令は?」

レイモンが低く言った。

「家族は」

兵たちの空気がわずかに変わった。先頭の男は表情を動かさない。

「我々はあなたを捕らえる命令を受けている」

「家族はどこだ」

「それは、ラファエル様がお話しになる」

アデルは小さく息を吸った。出た。ラファエル。ここで本人の名を出す。つまり、この捕縛は現場判断ではない。上からの指示だ。

レイモンが一歩出ようとした。兵の銃口が上がる。アデルは彼の袖を掴んだ。

「ここでは駄目」

「家族を知っている」

「だからこそ、ここでは駄目」

「離せ」

「離しません」

レイモンの目が彼女へ向いた。怒り、焦り、恐怖、期待。全部が混ざっている。アデルはその目を正面から受けた。

「あなたがここで暴れれば、ラファエルに会えません。奥方たちの情報も聞けません。今だけ、あなたの手をしまいなさい」

「……」

「焦らず来い、と言われたのでしょう」

その言葉で、レイモンの動きが止まった。木片の伝言。妻の声ではない。老人が伝えた言葉だ。それでも効いた。彼は歯を噛み、ゆっくり手を下ろした。

先頭の兵が顎を動かす。兵二人が近づき、レイモンの手を縛ろうとした。アデルはすぐ言った。

「火傷している手を乱暴に扱ったら、あなた方の上官に治療費を請求しますわよ」

兵の一人が戸惑った。先頭の男は少しだけ面倒そうな顔をした。

「左を縛れ。右は布の上から」

「ありがとうございます。少しは教育がおありね」

「黙ってください」

「努力しますわ」

兵がアデルにも近づく。彼女は自分から両手を出した。白と金の袖は裂け、片方は内側の布を失っている。金糸のほつれが兵の指に触れた。兵は一瞬だけ彼女の腰の薔薇飾りを見た。汚れ、縫い直され、まだ落ちていない薔薇。アデルはその視線に気付き、微笑んだ。

「取れそうで取れないでしょう?」

兵は答えなかった。

手首に縄がかかる。粗い縄だった。肌に当たる。アデルは顔をしかめた。

「最悪。手首まで庶民的になるなんて」

レイモンが横で低く言った。

「今それを言うのか」

「今だから言うのよ」

彼は短く息を吐いた。笑ったわけではない。だが、ほんのわずかに緊張が割れた。アデルはそれで十分だった。捕まった。山道で囲まれた。妻子には追いつけていない。ラファエルの名が出た。状況は悪い。けれど、まだ終わってはいない。殺されていない。話を聞ける場所へ連れていかれる。

兵二人がレイモンとアデルを囲み、下級女官と子供たち一行の背後へ回り込んだ。

先頭の兵が道を示した。

「歩け」

「どちらへ?」

アデルが聞く。

「下だ」

「下? せっかく上ってきましたのに」

「命令です」

「命令とは本当に、人の苦労を平気で逆流させますわね」

レイモンは前を向いたまま言った。

「アデル」

「何?」

「黙っていろ」

「努力すると言いました」

「足りない」

アデルは顔を横へ向けた。手首の縄が肌を擦り、白と金のドレスの裾が泥を引いた。

そのことが、少しだけ楽しかった。

アデルはその笑みを兵に見せないよう、顔を横へ向けた。夜の山道を、六人の兵に囲まれて下る。レイモンは隣にいる。ラファエルが待っている。妻子は、少なくともこの道の先へ進んだ。追いつけなかった。だが、消えたわけではない。

縄が手首に食い込む。深紅のコルセットが息を圧し、白と金のドレスが泥を引きずり、腰の薔薇飾りが崩れたまま揺れる。アデルはそれでも背を丸めなかった。

死刑台から降りた女は、今度は捕虜として山を下りた。

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