スピンオフ2:無名の王
史実より結構薄味にしてこれだからね?
王が死んだ日の朝、少年の部屋には何も起きなかった。
寝台は同じ場所にあり、椅子の脚は少し傾いたままで、前の日に残した黒いパンの欠片が皿の端で乾いていた。窓は高く、外は見えない。壁の向こうから鐘の音が薄く届き、遠くで人が叫んでいる気配だけがあった。少年はその意味を知らなかった。父がどこにいるのかも、なぜ朝の祈りの前に母が来ないのかも、なぜ姉の声が聞こえないのかも、誰も説明しなかった。
扉の外で鍵が回った。
看守が入ってきた。男は皿を取り、残ったパンを見て、少年の顔を見ずに言った。
「食わないなら下げる」
少年は顔を上げた。
「お父様は」
看守は答えなかった。皿を持ち上げ、こぼれた粉を靴の裏で踏んだ。
「お母様は」
看守は扉へ向かった。
「姉上は」
扉が閉まった。
鍵が二度回り、足音が遠ざかる。少年はしばらく扉を見ていた。質問は部屋に残った。答えだけが来なかった。
その日から、部屋に来る大人の数が増えた。
彼らは少年の名前を呼ばなかった。王の子とも呼ばなかった。ただ、おい、立て、座れ、黙れ、と言った。少年が聞き返すと、同じ命令が少し大きくなるだけだった。紙を持った役人は、少年の目の前で何かを書いた。少年が泣いた日も書いた。泣かなかった日も書いた。食べた量、眠った時間、咳の回数、言わされた言葉。そこには少年が何を思ったかは書かれなかった。
髪を切られた。
椅子に座らされ、頭を押さえられた。鋏の音が耳の横で鳴るたび、少年の肩が跳ねた。落ちた髪は膝に積もり、床へ滑った。誰も拾わなかった。母が撫でた髪だった。姉が時々からかっていた髪だった。床に落ちたそれを、看守は掃くでもなく踏みつけ、靴先で部屋の隅へ寄せた。
服も替えられた。
柔らかい布は持ち去られ、粗い上着が渡された。首元が擦れ、袖口が肌を赤くした。少年は袖を引いたが、布は伸びなかった。以前の服に残っていた匂いは消えた。母の部屋の香りも、姉の手袋に移っていた石鹸の匂いも、何もなかった。少年は自分の腕を鼻に近づけ、知らない布の匂いを嗅ぎ、すぐにやめた。
祈りを止められた。
寝台の上で手を組むと、扉が開いた。看守が歩み寄り、少年の指を無理にほどいた。
「やめろ」
少年は手を胸に戻した。
「どうして」
看守は答えなかった。
その夜、少年は布団の中で指だけを組もうとした。けれど、見つかると思うと指が固まり、胸の上で半端に止まった。祈りは声にならず、息だけが喉を通った。
姉の部屋は別だった。
少年はそれを知らなかった。ただ、壁の向こうや階段の上から、たまに床を踏む音がした。椅子を引く音。咳。女の声。少年は扉に近づき、耳を当てた。
「姉上」
返事はなかった。
もう一度呼ぼうとした時、廊下で足音が止まった。
扉が開き、看守が少年の腕を掴んだ。寝台まで引きずられ、肩が木枠にぶつかった。
「呼ぶな」
少年は痛みに息を詰めた。
「会わせて」
看守は答えなかった。
「一度でいいから」
答えは来なかった。
理由も来なかった。
次に来たのは歌だった。
大人たちは少年に歌わせた。知らない歌だった。言葉は荒く、音は跳ね、喉に引っかかった。少年が黙っていると、食事の器は机の端に置かれたままになった。湯気が消え、脂が白く固まり、汁の表面に膜が張った。少年はそれを見ていた。腹は鳴った。だが口は動かなかった。
一日目、少年は歌わなかった。
二日目、声を出そうとして咳き込んだ。
三日目、少年は音だけをなぞった。
看守は笑った。役人は笑わず、紙に書いた。少年は歌い終わると器を引き寄せ、冷めた汁を飲んだ。塩気が強く、喉が痛かった。何を歌ったのかは分からなかった。覚えたのは、歌えば食べ物が来るということだけだった。
言葉も教え込まれた。
父を罵る言葉。母を汚す言葉。家族を笑う言葉。少年は最初、首を横に振った。口を閉じた。目を閉じた。すると大人の手が顎を掴み、顔を上げさせた。何度も同じ言葉を聞かされた。昼も、夜も、食事の前も、眠る前も。
「言え」
少年は黙った。
「言え」
唇の内側を噛んだ。
「言え」
血の味がした。
何日目かに、少年は言った。
声は小さかった。意味を選んで言ったのではなかった。口から出せと言われた音が、口から出ただけだった。大人たちはその言葉を受け取り、また紙に書いた。少年の目を見た者はいなかった。
女が連れてこられた日があった。
看守でも、役人でも、医師でもない女だった。香水の匂いが強く、近づくとその下から病んだ体の匂いがした。少年は後ずさった。女は笑った。部屋の扉は開いたままだった。看守は廊下に立ち、止めなかった。
少年は何をされたのか、後で言葉にできなかった。
手首を掴まれたこと。逃げようとして寝台の角に膝をぶつけたこと。笑い声が耳元に来たこと。息が苦しくなったこと。服の布が乱れたこと。扉の向こうで看守が靴先で床を叩いていたこと。覚えているのはそれだけだった。
女が出て行った後、少年は壁際に座っていた。
膝が震えていた。袖を握ろうとしたが、指に力が入らなかった。泣くこともできなかった。泣けば誰かが来ると思っていた時期は、もう過ぎていた。
それから熱が出た。
最初は喉だった。次に腹が痛くなり、体の奥が熱く、皮膚だけが冷たくなった。少年は寝台の上で丸まり、息をするたびに小さく震えた。汗が服に染み、乾き、また濡れた。布は替えられなかった。寝台の藁は湿り、部屋の空気は重くなった。
医師が来た。
少年の手首を取り、瞼を上げ、口の中を見た。少年は医師の袖を掴もうとした。
「姉上に」
声はそこまでしか出なかった。
医師は手をほどいた。
「汚れている」
そう言った。
誰が汚したのか、誰も聞かなかった。
医師は薬を少し置き、出て行った。看守は扉を閉めた。少年は薬の匂いを嗅ぎ、飲み込もうとして吐いた。吐いたものはしばらく床に残った。拭きに来る者はいなかった。
姉は別の階で音を聞いていた。
咳。足音。器が置かれる音。怒鳴り声。鍵の音。何かが倒れる音。弟の声は日に日に少なくなった。姉は壁に手を当てた。石は冷たく、指の熱を奪った。耳を押しつけても、塔は返事をしなかった。
少年はだんだん返事をしなくなった。
食えと言われても、すぐには動かなかった。立てと言われても、起き上がるまでに時間がかかった。言えと言われれば言った。歌えと言われれば歌った。けれど、そこに抵抗も服従もなかった。疲れた体が、命令された形に少しだけ動くだけだった。
大人たちは苛立たなくなった。
怒鳴っても変わらないからだった。
叩いても、少年は驚くのが遅れた。命令しても、反応が遅れた。泣かせようとしても涙が出ない。言わせた言葉にも熱がない。彼らはそれをつまらなそうに見た。
やがて、熱心に部屋へ来ていた監視者がいなくなった。
少年には理由を知らされなかった。
その日から、部屋に入る者はさらに減った。食事は扉の下から差し込まれた。器が床を滑り、寝台の脚に当たって止まった。少年が取らない日もあった。看守はしばらく待ち、返事がなければそのまま去った。
服は替えられなかった。
部屋の隅に汚れが溜まった。湿った藁の匂い、汗の匂い、吐いたものの酸っぱい匂いが混ざり、石壁に染みついた。少年はその中で呼吸した。咳をするたび、胸が鳴った。体を起こす力がなく、寝台の端から落ちた毛布を拾うこともできなかった。
廊下で声がした。
「生きてるのか」
「さあ」
「見てこい」
「臭い」
鍵は回らなかった。
少年は天井の染みを見ていた。
染みは日によって形を変えた。犬に見える日があった。馬に見える日があった。母の横顔に見える日があった。姉の髪に見える日があった。少年は口を動かした。
姉上。
声は出なかった。
喉から漏れたのは、乾いた息だけだった。
塔の外で、少年の名はまだ使われていた。
救い出そうとする者は、彼がまだ生きていることを願った。革命の側にいる者は、彼がまだ残っていることを嫌がった。遠い国の者は、彼がいるだけで話の材料になると考えた。だが塔の部屋に来る者は少なかった。彼が食べたか、眠ったか、熱が下がったか、服が乾いたかを確かめる者は、日ごとに減った。
姉だけが、弟の音を探していた。
けれど姉にも、弟は見えなかった。
ある朝、器が差し込まれた。
床を滑り、寝台の脚に当たって止まった。
少年は動かなかった。
看守は扉の外で待った。
「食え」
返事はなかった。
「おい」
返事はなかった。
看守は舌打ちをした。
鍵は回らなかった。
その日、塔の中で、少年が生きているのか、壊れているのか、誰にも分からなくなった。
分からなくなっても、誰もすぐには困らなかった。
少年が死んだ朝、塔の中は静かだった。
扉の下から差し込まれた器は、前の日のまま床に残っていた。汁は乾き、縁に白い跡を作っている。部屋の空気は重く、腐った藁と汗と薬の匂いが混じっていた。看守は廊下でしばらく立ち止まり、扉を叩いた。
「おい」
返事はなかった。
看守はもう一度叩いた。
「起きろ」
返事はなかった。
鍵が回った。扉が開くと、こもった匂いが廊下へ流れた。看守は顔をしかめ、腕で鼻を覆った。寝台の上で、少年は壁の方を向いていた。毛布は腰のあたりで止まり、痩せた肩が上着の布を押し上げている。看守は近づかず、扉のところから声をかけた。
「医師を呼べ」
医師が来た。
医師は寝台の横に立ち、少年の手首を取った。指は軽く、冷たかった。瞼を上げる。口元に手を寄せる。胸に耳を近づける。部屋の中で、その動きだけが短く続いた。
「死んでいる」
誰も泣かなかった。
看守は床の器を見た。役人は書類を開いた。医師は布で指先を拭いた。少年の体はそこにあったが、部屋にいる大人たちの視線はすぐに紙へ移った。
「時刻は」
「朝の確認時」
「死因は」
医師は少年を見た。上着の襟、汚れた袖、湿った寝台、細い足、荒れた皮膚、乾いた唇。すべて見たはずだった。
「衰弱」
役人は書いた。
「病名は」
医師は少し黙った。
「長期の不衛生、発熱、感染症状、栄養不良」
「短く書け」
役人は言った。
医師は布を畳んだ。
「病死」
役人はその二文字を書いた。
その二文字の中には、閉じ込めた日数も、替えられなかった衣服も、家族から切り離した夜も、言わせた罵倒も、歌わせた歌も、病んだ女を部屋へ入れたことも、熱に震える体を放置したことも入らなかった。
少年は病死した。
紙の上ではそうなった。
遺体は洗われた。
だが、洗っても全部は落ちなかった。爪の間の黒ずみ、痩せた手首、骨の浮いた胸、長く替えられなかった布が擦った肌の跡。係の者は黙って作業した。何かを見つけても声に出さなかった。声に出すと、見たことになる。見たことになると、書かなければならない。書けば、誰かが読む。誰かが読めば、誰かが責任を問われるかもしれない。
だから誰も、長く見なかった。
医師は体を確認し、書類に署名した。役人は別の紙を用意した。看守は窓を少し開けようとして、固く閉ざされていることに気づき、諦めた。部屋の中にいた匂いだけが、死んだ後もすぐには出ていかなかった。
「発表はどうする」
役人の一人が言った。
その言葉で、少年の死は部屋から運び出された。
まだ体は寝台にある。だが、話はもう体から離れていた。
死んだと出せば、外の者が騒ぐ。生きていると伏せれば、噂が広がる。病死と出せば、なぜ病んだかを問われる。衰弱と出せば、誰が衰弱させたのかを問われる。熱病と出せば、接触した者の名前が出る。沈黙すれば、沈黙そのものが証拠になる。
誰も少年の顔を見なかった。
「病死でいい」
一人が言った。
「体が弱かった」
別の者が言った。
「もともと病弱だったことにすればいい」
それを聞いた医師は顔を上げたが、何も言わなかった。
少年が走っていた頃を知る者は、その場にいなかった。犬を怖がって母の後ろへ隠れたことも、姉にからかわれて怒ったことも、朝起きるのを嫌がったことも、許しの言葉を言いたがらなかったことも、その部屋の誰にも必要ではなかった。
必要なのは、死因だった。
もっと正確に言えば、使いやすい死因だった。
姉には知らされなかった。
塔の別の部屋で、姉はその日の足音がいつもと違うことに気づいた。廊下の人の数が多い。低い声が続く。階段を上り下りする音がある。何かが運ばれる音がする。弟の咳は聞こえない。
姉は扉の内側に立った。
「弟に何かあったのですか」
返事はなかった。
「答えてください」
返事はなかった。
「一度だけでいい。声を聞かせてください」
鍵は回らなかった。ただ、愛犬の声だけでしか彼の状況を知れなかった。
その夜も、翌朝も、弟の声は聞こえなかった。
姉はその沈黙だけで死を知ることはできなかった。塔は真実を渡さなかった。悲しむための事実すら与えなかった。弟は姉の中で、死んだのではなく、返事をしない部屋に閉じ込められたまま止まった。
外へ出た知らせは短かった。
旧王家の男子が死んだ。
病で死んだ。
必要な確認は済ませた。
それだけだった。
短い知らせは、すぐに裂かれた。
革命派の者は、手続きは済んだと言った。戦争と反乱の時代に、ひとりの囚人の死だけを取り上げるなと言った。塔の管理は困難だったと言った。病は突然だったと言った。記録はあると言った。医師も見たと言った。
だが、誰も部屋の匂いの話はしなかった。
誰も、替えられなかった服の話はしなかった。
誰も、扉の下から食事を滑らせた話はしなかった。
誰も、姉の呼びかけに鍵を開けなかった話はしなかった。
誰も、病んだ女を入れた日の話はしなかった。
しなかったことが増えるほど、彼らの言葉は整っていった。
「不幸な事故だった」
「時代の混乱だった」
「監禁ではなく保護だった」
「再教育ではなく管理だった」
「放置ではなく隔離だった」
言葉はよく磨かれていた。
磨かれた言葉ほど、塔の床に残った汚れから遠かった。
救おうとしていた者たちにも知らせは届いた。
信じない者がいた。
遅すぎたと椅子を蹴る者がいた。
まだ生きているはずだと言う者がいた。
死んだと認めた瞬間に、自分たちが間に合わなかったことも認めなければならない。だから手紙は震えた。地図は広げられたまま片づけられなかった。塔の出入口、看守の交代、馬車の手配、金を渡す相手、偽の通行証。すべてが急に無意味になった。
だが、無意味になった紙を捨てる者は少なかった。
紙が残っていれば、まだ計画は終わっていないように見える。
計画が終わっていなければ、少年もまだ終わっていないように見える。
最初の生存説は、悲鳴に近かった。
死んでいない。
すり替えられた。
密かに逃がされた。
見た者がいる。
似た声を聞いた者がいる。
遠い町で、面影のある子供が保護された。
誰も確かめられなかった。
確かめられないからこそ、噂は死ななかった。
やがて、自分がその少年だと名乗る者が現れた。
一人目は金が欲しかった。
二人目は担がれていた。
三人目は話しているうちに、自分でも信じ始めていた。
四人目は傷跡を見せた。
五人目は夢の中で母に呼ばれたと言った。
六人目は塔の間取りを語ったが、誰かから聞いた話を混ぜていた。
人々は怒り、泣き、笑い、また信じた。
死んだ少年は一人だった。
死ななかった少年は、噂の数だけ増えた。
そのたびに、塔の中の本当の少年は遠ざかった。
咳をしていた少年。
器に手を伸ばせなかった少年。
姉を呼ぼうとして声が出なかった少年。
その少年ではなく、救出された少年、戻ってくる少年、王座へ座る少年、母の名誉を晴らす少年、外国から現れる少年が、人々の口の中で歩き始めた。
革命派はその噂を嫌がった。
だが、嫌がり方にも空洞があった。
「死んだものは死んだ」
そう言う者がいた。
「記録がある」
そう言う者がいた。
「証明できる」
そう言う者がいた。
彼らは証明したがった。
けれど、証明したいのは少年の死ではなかった。
自分たちがひどいことをしていない、という形だった。
罪悪感を口にする者も現れた。
「胸が痛む」
「かわいそうなことをした」
「時代が悪かった」
「誰も正しくなかった」
その言葉は一見やわらかかった。
けれど、彼らは何をしたかを数えなかった。
家族から引き離したこと。
名前を奪ったこと。
祈りを禁じたこと。
父母を罵らせたこと。
食事を条件に歌わせたこと。
病んだ女を入れたこと。
熱を出した後も布を替えなかったこと。
姉に知らせなかったこと。
死んだ後も短い病名に押し込んだこと。
胸が痛むと言う者ほど、それらを一つずつ口にしなかった。
罪悪感だけを抱え、事実は抱えなかった。
年月が過ぎた。
塔の部屋を直接知る者は減った。鍵を持っていた者は老い、紙を書いた者は死に、医師の署名は古い箱にしまわれた。だが少年の名は消えなかった。消えないどころか、扱いやすくなった。
復活した王朝の広間で、王の弟はその名を出した。
声は静かだった。怒鳴らなかった。怒鳴らないからこそ、そこにいる者たちは背筋を伸ばした。
「王を倒しただけなら、彼らは政治の敵だったと言えるかもしれない。だが、塔の中の子供に何をしたかは、別の話だ」
誰も笑わなかった。
書類が並べられた。医師の記録。看守の証言。姉が後に聞かされた沈黙。流れた噂。自称生存者の供述。部屋の管理記録。食事の記録。衣服の記録。途切れた記録。残っていない記録。
残っているものも証拠だった。
残っていないものも証拠になった。
革命派の残党は反撃した。
「古い王政が被害者の顔をするな」
「民衆は何世代も苦しんだ」
「王家は国を飢えさせた」
「一人の子供だけを取り上げるな」
その言葉に嘘は混じっていなかったかもしれない。
だが、嘘でないことと、その子供にしたことは別だった。
王の弟は、その反撃を聞き終えるまで黙っていた。
そして言った。
「ならば、民衆の苦しみを語る口で、あの部屋の床も語れ」
沈黙が落ちた。
「飢えを語るなら、あの子の器も語れ。暴政を語るなら、あの子に言わせた言葉も語れ。自由を語るなら、姉の扉を開けなかった鍵も語れ。平等を語るなら、病んだ女を子供の部屋へ入れた日の記録も語れ」
誰かが息を呑んだ。
「語れないなら、正義の話ではない。ただ、勝った側が後から作った言い訳だ」
その場で少年は使われた。
革命を責めるために使われた。
王朝を戻すために使われた。
失われた血統を飾るために使われた。
王の弟の言葉は、革命派の言い訳を裂いた。だが、その言葉もまた少年を返しはしなかった。塔の部屋へ戻り、布を替え、熱に濡れた額を拭き、姉に会わせることはできなかった。できないまま、少年の名は玉座の近くに置かれた。
やがて舞台が作られた。
塔はきれいな石壁になった。
少年の服は汚れすぎない程度に裂かれた。
姉は美しく泣いた。
看守は分かりやすく冷酷になり、役人は分かりやすく悪くなった。
歌がついた。
死んだはずの少年が、舞台の上で歌った。救出される場面も作られた。母の幻に抱かれる場面も作られた。遠い国で生き延びる終幕もあった。客席は泣いた。拍手した。劇場を出る頃には、塔の匂いは誰の服にもついていなかった。
生存説は歌になった。
死は見せ場になった。
衰弱は照明になった。
汚れた部屋は背景になった。
病名は台詞になった。
姉の知らされなかった時間は、きれいな沈黙になった。
その舞台を見た者の中には、本気で涙を流す者もいた。
涙は嘘ではなかった。
だが、涙が本当であることと、少年が返ってくることは別だった。
王党派の者は怒りながらも見に行った。革命の子孫は、悲劇としてなら語ってもいいと言った。外国の者は、古い国の美しい傷として持ち帰った。
誰も、塔の中の少年を子供として返さなかった。
姉は生き残った。
生き残ったことは救いではなかった。彼女は家族の死を後から知らされた。弟の死も、母の死も、父の死も、叔母の死も、時間を奪われた形で渡された。泣くべき日に泣けず、知るべき日に知らされず、抱きしめるべき弟の体はすでになく、最後の声も残っていなかった。
彼女が覚えていたのは、音だった。
階段の向こうの咳。
扉の向こうの足音。
返事のなかった呼びかけ。
それだけが、政治にならずに残った。
ある時、誰かが姉に尋ねた。
「あの方は本当に亡くなったのでしょうか」
姉は長く黙った。
その問いは、弟のための問いではなかった。尋ねた者は奇跡を欲しがっていた。物語を欲しがっていた。帰還する少年を欲しがっていた。王朝の証明を欲しがっていた。革命の罪を欲しがっていた。自分の涙を置く場所を欲しがっていた。
姉は答えた。
「私の弟は、塔で私に返されませんでした」
それ以上は言わなかった。
生きていたか死んでいたかより先に、返されなかったことが事実だった。
少年は塔で壊された。
死んだ後、噂の中で増やされた。
政治の中で掲げられた。
裁判の中で示された。
舞台の上で歌わされた。
涙の中で飾られた。
悔恨の言葉の中で薄められた。
誰も、彼をただの子供として返さなかった。
そして最後に残ったのは、短い病名ではなかった。
美しい生存説でもなかった。
革命の言い訳でも、王朝の糾弾でもなかった。
塔の中で、器が床を滑った音だった。
それを聞いた者だけが、弟を探していた。
殺した後に、初めて同情しようというのか。
殺した後に、何をしようというのか。
ノリと勢いで殺しただけ、極道の様な非道達。
許すかどうかも考えれない、存在自体が邪悪故に。
先代の王に侵略者がいて、それを封じ込め、和解として送り込んだ令嬢。
彼女を手に掛け、更に彼女の子を殺す。
そして、彼女の子供は虚無の中に置き去りにされたのだ。
復活王朝よ、立ち上がれ。
隣国のある教会の領地で貴族達は誓ったのだ。
王党派の腑抜けは同床異夢を以て宣戦布告をしたのである。
戦う以外に道は無し、今は亡き兄に捧ぐ。




