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夫人革命逃亡記  作者: 伊阪証
修正してない本編

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27/39

藍に染まる小屋と炭焼き道

レイモンの後ろで、下級女官が二人の子供を庇うように夜霧の中に立っていた。

染料小屋は、村の東端から少し外れた低い土地にあった。川から引いた細い水路が建物の横を通り、夜でも水面だけが鈍く光っている。小屋の壁は黒に近い藍色へ染まり、戸口の土には赤、黄、緑、紫の染みが古い血痕のように重なっていた。

アデルは足を止め、周囲を見た。人の気配は薄い。だが完全に無人ではない。染料の桶は片付けられておらず、軒下にはまだ濡れた布が掛かっている。急いで閉めた場所だ。逃げたのか、隠れたのか、あるいは夜の仕事へ切り替えたのか。白と金を基調にしたドレスの裾は、ここへ来るまでにさらに泥を吸い、金糸の縁取りには川沿いの黒土が点々と入り込んでいる。深紅のコルセットは夜の中で暗く沈み、煤と血と湿気で重い色になっていた。腰回りの大きな薔薇飾りは、水気を含んで花弁が垂れ、片側だけ潰れたまま戻らない。胸元の青い宝石の欠落跡は、修道女が縫い留めた一針で崩れずにいたが、台座だけが残るその空白は、染料小屋の暗がりの中で小さな傷口のように見えた。

レイモンは小屋を見ていた。妻子の髪紐は、まだアデルの布包みの奥にある。染料小屋に着いたら返すと言った。だからここで返さなければならない。アデルは分かっていた。分かっているのに、布包みへ伸ばす指がほんの少し遅れた。自分の物ではない。預かっているだけだ。彼の妻子に繋がる物だ。だから、返すのが当然だった。返すのが当然であるほど、妙に手放しにくい。

「アデル」

レイモンが低く呼んだ。

彼は責めていない。だが、待っている。アデルは小さく息を吐き、布包みを開いた。針、指貫、青い硝子片、工房印、革命章、宿の印、濡れた命令書、地図。その奥に、小さな髪紐がある。灰色の糸に青い糸が一本だけ混じった、何の飾り気もない紐だった。宝石より安い。絹より粗い。けれど、レイモンの手へ戻す時、アデルは青い宝石を失った時より慎重になった。

「約束通り」

彼女は髪紐を差し出した。

レイモンは受け取った。火傷していない方の手で、指先だけを使って。彼は髪紐を握り潰さなかった。むしろ、触れる力を失ったように、掌の上へ載せて見ていた。妻のものか、子供のものか、彼には分かるのかもしれない。あるいは分からないからこそ、息が止まっているのかもしれない。

「行くぞ」

彼は言った。

「まだです」

アデルは即座に止めた。

レイモンの目が鋭くなる。

「ここまで来た」

「だから確認します。染料小屋から先は炭焼き道と南の集積所に分かれる。あなたが今、感情で片方を選べば、外した時に取り戻せない」

「妻は荷車を嫌がる」

「ええ。だから炭焼き道の可能性が高い。でも、子供が熱を出していた。暗い道を歩ける状態かは別です。洗濯屋の婆さんも可能性と言っただけ。証拠を拾うまでは、まだ分岐の前ですわ」

レイモンは歯を噛んだ。反論はなかった。けれど納得もしていない。アデルは彼のその顔を、夜の薄明かりの中で見た。アデルはそれを手で押さえながら進むしかなかった。

染料小屋の戸は、内側から細く開いていた。鍵はかかっていない。レイモンが先に入ろうとしたが、アデルは袖を引いた。

「私が先」

「危険だ」

「危険かどうかを見るために先に行きます。あなたの顔は、今、探し人の顔すぎるわ。隠れている者がいれば逃げます」

「俺はそんな顔をしているか」

「しています。扉を開けた瞬間に、妻と子を知っているなら言え、と書いてある顔です」

レイモンは黙った。アデルは戸を押した。染料の匂いが濃く流れた。藍、茜、灰汁、濡れた木、古い布。小屋の中には大桶が三つ、作業台が一つ、壁に掛けられた染め棒が数本。床には水がこぼれ、ところどころに足跡が残っていた。大人の足跡。小さな足跡。引きずったような布の跡。アデルはしゃがみ込む。白と金のドレスの裾が床の藍色の水に触れ、すぐに染みが広がった。

「最悪」

彼女は呟いた。

レイモンが後ろから入る。

「何が」

「裾が藍に染まりましたわ」

「今は」

「分かっています。けれど、腹が立つものは立つの」

彼女は裾を少し持ち上げ、床の跡を確認した。小さな足跡は二種類ある。一つはふらつきがあり、踵が弱い。もう一つは少し大きく、歩幅が短い。子供二人。老婆の証言と合う。大人の足跡は、片方の足に重心が寄っている。子供を抱えていたか、荷を持っていたか。足跡は小屋の奥へ向かい、そこで途切れ、壁際の作業台へ寄っていた。

作業台の上には、乾きかけた布切れがあった。灰色の布。端に、青い糸が一本だけ残っている。証明布から外した糸か、それを真似た目印か。レイモンが近づく。アデルは先に布を取った。今度は彼も怒らなかった。ただ、見ていた。

「同じ青ね」

アデルは言った。

「妻は裁縫ができる」

「ええ。宿でもシーツを縫ったと聞きました」

「これを作ったのか」

「たぶん。証明布を持ち続けるのは危険。でも完全に捨てれば、救護所で通れなくなる。だから青い糸だけを別の布へ移した。施療院の証明布そのものではなく、似た印として使うために」

レイモンは布を受け取った。髪紐と同じ青い糸。彼の妻が考えたか、洗濯屋の老婆が教えたかは分からない。だが、少なくとも彼女はただ流されていない。子供を抱え、追われ、名を伏せ、それでも次の通行のための印を作っている。

「生きている」

レイモンは低く言った。

「ここを出た時は、そう見ていい」

アデルは慎重に答えた。

「どちらへ」

彼はすぐ聞いた。

アデルは床を見る。足跡は二つに分かれていない。小屋の裏口へ向かっている。裏口の先は、炭焼き道へ続く細い坂だ。南の集積所へ向かう荷車道は正面口から出る。床に荷車の轍はない。小さな足跡は裏へ向かった。少なくとも、自力で歩けるところまでは炭焼き道を選んだ。

「炭焼き道」

アデルが言うより早く、レイモンは動きかけた。アデルはその前に言葉を置いた。

「ただし、待って」

「またか」

「足跡が乱れている」

彼は止まった。アデルは裏口の手前を指した。そこには小さな足跡が重なり、藍色の水が飛び散った跡がある。誰かが急に振り返ったか、何かを避けた。大人の足跡もそこで深く沈み、壁に手をついた跡が残っている。子供の足跡の一つは、そこから薄くなっている。抱き上げられたのだろう。

「追われた?」

レイモンの声が変わった。

「あるいは、誰かを見た」

アデルは壁に残った手の跡を見る。細い手。女の手。指先に染料が付いている。下へ少し引きずっている。転びかけたのかもしれない。その下に、別の跡があった。軍靴ではない。だが、町の男の靴でもない。硬い底。規則的な歩幅。二人分。小屋の正面から入り、作業台の近くで止まり、裏へは進んでいない。

「先客がいたわね」

「誰だ」

「分かりません。ただ、巡回補助員の雑な足ではない。もっと訓練された歩き方。軍か、軍に近い者」

レイモンは裏口へ向かう。アデルは追った。裏口の外には、細い坂道があり、闇の中へ伸びていた。坂の入口に、踏み消された灯芯が落ちている。さらにその横に、紙片が一つ。アデルが拾うと、そこには短い文が書かれていた。文字は整っている。命令書ではない。兵站に関する簡単な記録だった。

「何だ」

レイモンが聞く。

アデルは紙片を読む。

「炭焼き道、夜間通行あり。女子供二名以上。反革命関係者の可能性は低い。追跡優先度低。補給路確保を優先」

「誰の記録だ」

「軍の斥候か、補給路を見ている部隊ね。少なくとも、マルスの煽動に乗った市民巡回ではない。文が静かすぎる」

レイモンは紙を奪うように受け取り、読んだ。彼の表情が揺れる。女子供二名以上。反革命関係者の可能性は低い。追跡優先度低。つまり、誰かが妻子を見た。見て、追わなかった。助けたわけではない。ただ優先度を低く置いただけだ。だがそれだけで、彼女たちは進めた。

「ラファエル軍かもしれませんわ」

アデルが言った。

「なぜ」

「補給路確保を優先、とある。民間人を見ても即座に捕らえず、軍務を優先する書き方。規律がある。少なくとも、女たちの宿へ踏み込もうとした巡回連中とは違う」

「敵か」

「敵でしょうね。けれど、今のところ民間人を踏み潰す種類の敵ではない」

レイモンは紙片を握った。今回は握り潰さなかった。アデルはそれを確認してから、小さく息を吐いた。

「あなたの奥方は、運が良い」

「運で済ませるな」

「では、判断が良い。追われにくい道を選び、証明布を目印へ作り替え、軍の斥候に反革命ではないと判断された。少なくとも、ここまでは生き延びる選択をしています」

レイモンは黙った。アデルは続けなかった。妻の判断を褒めるのは、今の自分にとって奇妙な位置に立つ行為だった。だが事実だった。事実は認める。認めた上で、胸の奥の棘は別に処理すればいい。

小屋の奥で、かすかな物音がした。二人は同時に振り返る。染料桶の裏、積まれた布の陰に、小さな影が動いた。レイモンが手を伸ばしかけたが、アデルが先に声をかけた。

「出ていらっしゃい。桶の裏は寒いわ」

返事はない。

「子供?」

やはり返事はない。アデルはしゃがんだ。深紅のコルセットが腹を圧迫し、濡れた薔薇飾りが膝に当たった。苛立たしい。だが今は、立ったまま見下ろすより、目線を下げた方がいい。

「こちらの男は怖い顔をしていますけれど、今は噛みません」

「噛まない」

レイモンが低く言った。

「そういう返事が怖いのよ」

布の陰から、十歳ほどの少年が出てきた。手には染料の付いた木べらを握っている。服は染みだらけで、髪にも藍が付いていた。逃げ遅れた染料小屋の子供か、見張りか。少年はレイモンではなく、アデルの衣装を見た。汚れた白金、深紅のコルセット、潰れた薔薇飾り、青い宝石の欠けた胸元。それを見て、少しだけ目を丸くした。

「おばけ?」

アデルは眉を上げた。

「失礼ね。こんなに高価なおばけがいるものですか」

少年は木べらを握り直した。

「さっきの人たちも、そう言ってた。白くて赤くて、きらきらしてる女が来るかもしれないって」

ラファエル軍の斥候は、アデルの元王妃としての圧倒的な格の違いと、その目立つカリスマ性を事前に予測し、兵に「近づくな」と警告していた因果が、この少年のセリフによって客観的に補強された。

アデルとレイモンが視線を交わす。

「誰が?」

アデルが聞く。

「軍の人。二人。女と子供が通ったあとに来た。追わなかったけど、道を見てた」

「その軍の人が、私のことを?」

「違う。白と赤の女がいたら、目立つから近づくなって。たぶん逃げてる貴族だから、近づくと面倒だって」

アデルは笑った。腹立たしいが、正しい。

「なかなか良い観察ね。面倒なのは事実ですわ」

レイモンは少年へ詰め寄りかけた。

「女と子供は、いつ通った」

少年はびくっとした。アデルがレイモンの腕を叩く。

「距離」

レイモンは止まる。少年は木べらを胸元で握った。

「夕方より前。小さい子が熱くて、女の人が水をくれって言った。俺、染め水じゃない方の水を出した。大きい子は歩いてた。眠そうだった」

「怪我は?」

「小さい子は熱。女の人は腕に擦り傷。大きい子は靴が壊れてた」

レイモンの顔が痛みに変わった。アデルはその変化を見て、すぐ質問を引き取る。

「靴を直した?」

「紐を替えた。炭焼き道は石が多いから」

「誰が?」

「女の人。手が早かった。染め布の端を裂いて、すぐ結んだ」

レイモンが目を閉じる。妻の手を思い出しているのだろう。裁縫ができる。シーツを縫い、証明布を作り替え、子供の靴紐を直す。彼女は生きるために手を動かしている。

「その後、どちらへ」

「炭焼き道。軍の人が来る前に。女の人が、南は人が多すぎるって」

アデルは頷いた。判断は合っている。南の集積所は食料があるが、軍の目が多い。子供連れで紛れるには、短期なら良いが、追われているなら危険。炭焼き道は厳しいが、見つかりにくい。

「他に何か言っていた?」

少年は考えた。

「小さい子が、父さんはって聞いた。女の人は、先に行って待ってるって言った」

レイモンの呼吸が止まった。アデルも黙った。その言葉は、嘘だ。母親が子供を歩かせるための嘘。だが、嘘がなければ子供は歩けない時がある。アデルはそれを知っていた。レイモンも分かったはずだ。分かったから、顔が崩れた。

少年は怯えたように続けた。

「泣いてなかった。女の人、泣いてなかった」

レイモンは低く言った。

「……そうか」

それだけだった。けれど、その声の中には、感謝とも痛みとも怒りともつかないものがあった。

アデルは布包みから宿の印ではなく、青い硝子片を取り出した。アンヌから借りたものだ。本当は返すべき相手がいる。だが今、少年へ何も渡さずに情報だけ持っていくのは、少しだけ気が済まなかった。彼女は一瞬迷い、結局、硝子片ではなく、潰れた薔薇飾りの外側からほつれていた金糸を一本引き抜いた。腰回りの薔薇飾りがさらに崩れる。アデルは顔をしかめたが、金糸を少年へ渡した。

「水を出してくれた礼よ」

少年は金糸を見た。

「これ、高い?」

「元はね。今は泥と染料付きだから、価値は下がっています」

「もらっていいの」

「借りではなく、礼です。あなたがあの母子に水を出した分」

少年は少し考え、受け取った。アデルの薔薇飾りは、その分だけまた貧しくなった。だが、仕方がない。今日のアデルは、宝石や布や金糸を少しずつ落としながら進む生き物になっている。豪華な虫が、羽の粉を道に撒いているようだと自分で思い、あまりの腹立たしさに小さく笑った。

「行くぞ」

レイモンが言った。

今度はアデルも止めなかった。止める理由がもうない。炭焼き道。夕方前に通過。子供は熱。靴は修理済み。軍の斥候は追跡優先度低と判断。妻は子供へ、父は先で待っていると嘘をついた。すべてがレイモンの背を押していた。

ただし、アデルは裏口を出る前に言った。

「走らない」

レイモンは振り向かずに答えた。

「分かっている」

「本当に?」

「見張っていろ」

その返しは、さっきより早かった。アデルは少しだけ笑う。

「ええ。見張りますわ」

炭焼き道は、染料小屋の裏から山側へ伸びていた。木々の間に細い坂があり、足元には黒い炭の粉が混じっている。夜の中では道そのものが影に見えた。アデルは白と金のドレスの裾をさらに持ち上げたが、藍に染まった部分が冷たく脚へ触れた。深紅のコルセットは苦しく、腰の薔薇飾りは金糸を一本失ってさらに崩れ、青い宝石のない胸元は暗いままだった。

それでも彼女は歩いた。レイモンの隣で。彼の妻子へ向かって。自分の立つ場所が少しずつ危うくなるのを感じながら、それでも歩いた。先王夫人アデルは、誰かの妻ではない。母でもない。救済者でもない。ただ、死刑台から降り、元恋人の横で、借り物と預かり物と失った装飾を抱えて歩く女だった。

道の奥で、遠く小さな咳が聞こえた気がした。

レイモンが足を止めた。

アデルも止まる。二人は息を殺した。風かもしれない。枝の軋みかもしれない。だが、レイモンの顔は変わっていた。彼には分かったのかもしれない。親だけが聞き分ける種類の音が、この世にはある。

もう一度、咳がした。

今度は、確かに子供の声だった。

レイモンが走り出しかける。アデルは腕を掴まなかった。代わりに、短く言った。

「足元」

彼は一瞬だけ止まり、道を見た。炭焼き道の端は崩れている。走れば落ちる。彼は歩幅を抑え、しかし速く進んだ。アデルも続いた。泥に濡れたドレスが重い。薔薇飾りが足に当たる。息が苦しい。それでも置いていかれない程度には進む。

下級女官は、熱のある子供を抱え、アデルの藍に染まった裾の後ろを無言で追った。

夜の奥で、細い灯りが一つ揺れていた。

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