表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夫人革命逃亡記  作者: 伊阪証
修正してない本編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

24/39

施療院の詰まった門前

施療院へ続く道は、地図で見るより長かった。ジュールの描いた線はひどく曲がっていたが、道順そのものは間違っていなかった。染物屋の通りを抜け、水門を避け、古い石塀に沿って東へ折れる。言葉にすればそれだけの距離なのに、実際の道は人と荷と血と泥で詰まり、進むたびに時間が削られていった。レイモンは何度も歩幅を広げかけ、そのたびにアデルが横から速度を合わせて押し戻した。走れば目立つ。走れば息が切れる。走れば火傷した手が揺れる。走れば、焦っている男だと誰にでも分かる。

「急ぐなと言ったはずよ」

「急いでいる」

「だから急ぎ方を選びなさいと言っていますの。奥方とお子さんを助ける前に、あなたが兵に見つかって吊るされたら、私は未亡人でもない女のために走らされたことになりますわ」

レイモンは返事をしなかった。

町の外れに近づくにつれ、空気は病の匂いを帯びた。汚れた包帯、煮沸しきれていない布、古い血、馬糞、湿った藁、酸っぱい汗。施療院そのものはまだ見えないが、そこへ向かう人間の列が先に道を作っていた。片腕を吊った男、顔半分を布で巻いた兵、子供を背負う老女、荷車に乗せられた老人、歩けなくなった娘を二人で支える夫婦。誰も声を大きく出さない。叫ぶ体力のある者はまだ幸運で、ここにいる多くは痛みを声にする力さえ節約していた。

その灰色の列の中で、アデルだけが異物だった。白と金を基調にしたドレスは裾から泥を吸って重くなり、金糸の縁取りには街道の埃が絡んでいる。前面を締める深紅のコルセットには工房の煤が薄く沈み、赤が濁って乾いた血の色に近づいていた。腰回りの大きな薔薇飾りは片側の花弁が潰れ、外側の金糸がほつれて、煙と泥を含んだ黒い線を作っている。胸元では、かつて青い宝石が留められていた台座だけが残り、装飾の欠落した一点が、汚損した華やかさの中でかえって目立った。病人と避難民の粗布の中で、その傷んだ豪奢さは、隠れるどころか奇妙に浮いていた。

「目立つ」

レイモンが低く言った。

「知っていますわ」

「隠せ」

「隠す布があるなら、とっくに包帯にされているでしょうね」

「冗談を言っている場合か」

「冗談ではありません。私の袖はすでにあなたの手に巻かれています」

レイモンは火傷した手をわずかに引いた。そこには、白い裏地を裂いた布が巻かれていた。金糸の細いほつれが包帯の端から出ている。彼はそれを見るたび、何か言いたそうにする。アデルはそのたびに、言わせない顔で前を向いた。礼を言われても困る。惜しむ顔をされても困る。自分で切った布だ。自分で選んだ損失だ。なら、彼に背負わせるつもりはない。

列の先で怒声が上がった。施療院へ続く門の手前に、臨時の選別所ができている。白い布を腕に巻いた係が三人、負傷者を見て、入れる者と外へ回す者を分けていた。医師ではない。手際はあるが、目が荒い。兵を優先し、歩ける民間人を後ろへ下げ、老人を見なかったことにしている。ひどいとは言える。だが、門の内側に入れる人数が限られているなら、誰かが分けるしかない。アデルはその現実を見て、すぐに顔を冷たくした。

レイモンは門を見ていた。そこに妻子がいるかもしれない。二日前の夜、処刑人の家の近くから出た母子が、施療院へ向かったかもしれない。ジュールの言葉が彼の中で燃えている。彼の足は自然に前へ出た。アデルは腕を掴んだ。

「並びなさい」

「時間がない」

「飛び込めば止められる」

「中にいるかもしれない」

「だから入る方法を作るのよ。あなたが門番を殴って入れば、その瞬間に中の人間まで危険になる。処刑人レイモンが来たと叫ばれれば、奥方もお子さんも隠れるか、引き渡されるか、誰かに売られます」

レイモンの目がアデルへ向いた。怒りがあった。

「……どうする」

ようやく彼は言った。

「見る」

「何を」

「この門で何が通貨になっているか」

施療院の門前には、金貨より効くものがあった。兵士の腕章。医師の印。清潔な布。水。担ぎ手。死体を運び出す人手。列を乱さないための声。係たちは疲れている。怒鳴る体力も惜しいのに、怒鳴らなければ列が崩れる。足りないのは薬だけではない。人を動かす者が足りていない。

列の隅では、下級女官が怯える子供たちの目を汚れたスカーフで覆いながら、民間人の列の最後尾に並ぶ動きを見せていた。アデルはその一行が一瞬視界に入ったことを確認すると、すぐに視線を前に戻した。アデルは列を見渡し、道端に積まれた汚れた布袋を指した。

「あれは?」

近くにいた女が顔を上げた。腕に包帯を巻き、額に汗を浮かべている。

「使い終わった布です。洗い場へ回すはずが、人が足りなくて」

「水場は?」

「裏の井戸。でも兵が先で、民間人は」

「煮沸は?」

女は答えに詰まった。アデルはそれで十分だった。洗われない布が溜まり、再利用できない包帯が不足し、係は怒鳴り続け、門は詰まる。ここを動かせば、入る理由ができる。

「レイモン」

「何だ」

「あなたは死体を運べる?」

「運べる」

「では今は、それを使います」

レイモンは一瞬、何かを飲み込んだ。処刑人の仕事は、死体の重さを知る仕事でもある。首を落とした後の体を誰がどう扱うか、血がどこへ流れるか、硬直する前に何をしなければならないか、彼は知っている。そんな知識を使わせることに、アデルはためらわなかった。ためらえば、彼の妻子に近づく手段を一つ捨てることになる。

彼女は門の方へ進んだ。係の一人が怒鳴る。

「下がれ! 順番を守れ!」

「順番を早くする話ですわ」

「何だと?」

アデルは汚れたドレスの裾を片手で持ち上げた。白と金の布は泥で重く、腰の薔薇飾りは片側が潰れている。それでも、彼女が背を伸ばすと、門前の空気が一瞬だけ止まった。深紅のコルセットに煤が入り、胸元の青い宝石の台座だけが空いていても、その立ち方はまだ人に命令する側のものだった。

「汚れた包帯が積まれています。洗い場へ回す人手がない。死体と重傷者が同じ出口を塞いでいる。門前で怒鳴る係が三人、実際に列を動かす人間が一人もいない。あなた方がこのまま怒鳴り続ければ、半刻後には門の前で死人が増えます」

係は彼女を睨んだ。

「お前は医者か」

「違います」

「なら黙れ」

「医者ではありませんが、詰まった廊下と無能な使用人と、倒れそうな女たちを動かす経験ならありますわ。宮廷の舞踏会も、施療院の門も、通路が詰まれば人が倒れる点では同じです」

「ふざけるな」

「ふざけている暇があるなら、あの老人を門の影からどかしなさい。もう息がありません。そこを塞いでいるせいで、後ろの担架が入れない」

係の顔が動いた。近くの門柱の影に、毛布を掛けられた老人がいた。誰も死体と呼ばなかった。呼べば運ばなければならないからだ。レイモンは無言でそこへ行き、膝をついて確認した。呼吸はない。首筋を見て、目を閉じさせ、毛布ごと抱え上げる。動きに迷いがない。門前の人々はそれを見て、少し道を開けた。死体を抱く男には、人は本能的に道を譲る。

アデルは係へ向き直った。

「死者を裏へ。歩ける者は左。担架は右。子供連れは壁沿い。汚れた布は井戸へ回す。煮沸用の鍋が足りないなら、門前の商人から釜を徴発なさい。後で施療院の印を押せば黙ります。怒鳴る人間を一人減らして、動かす人間を増やすのです」

「やらせろ」

痩せた医師が出てきた。頬はこけ、目の下には濃い隈があり、袖には乾いた血が付いている。彼はアデルを値踏みする時間さえ惜しむように見て、すぐ係へ命じた。

「その女の言う通りにしろ。死体を裏へ。布を洗わせろ。担架を止めるな」

係たちは動いた。命令の形になれば、人は従いやすい。アデルはすぐ列へ戻り、動ける者を左へ寄せ、座り込む者を壁際へ移させた。深紅のコルセットの前面に、誰かの血の付いた手が触れた。白と金のドレスの腰にある薔薇飾りへ、汚れた包帯がかすった。アデルは一瞬だけ顔をしかめたが、手を止めなかった。金糸の縁取りへ赤黒い汚れが入り込み、薔薇飾りの花弁に水滴と血が混ざる。王妃としての美の象徴は、施療院の門前で、救護の道具と同じ空気に晒されていった。

「あなた、そこの子を抱けます?」

「私が?」

「腕が空いているでしょう。母親は足を引きずっている。子供だけ先に門の影へ。あなたは泣かない。泣くなら歩きながら」

「はい」

「そこの兵士。腕の傷だけなら後ろ。腹を押さえている男を先に」

「俺は軍の」

「腕の傷だけなら後ろ。聞こえませんでした?」

兵士は一瞬怒りかけたが、医師がこちらを見ていたため黙った。アデルはその隙に担架を通した。彼女は聖女の顔などしていなかった。優しげに微笑んでもいない。むしろ傲慢で、苛立っていて、汚れた裾を邪魔そうに払っている。それでも門前の流れは確かに変わった。倒れていた者が壁際へ移り、担架が進み、汚れた布が井戸へ運ばれ、死体が裏へ出された。

レイモンは死者を二人運んだ後、三人目の老人へ手を伸ばした。アデルはすぐ止めた。

「あなたはそこまで」

「まだ」

「火傷した手で死体を運び続けるなと言っています。奥方とお子さんを探す前に、手を使い物にならなくする趣味でもあるの?」

レイモンの顔が強張る。アデルは周囲の視線を気にせず続けた。

「あなたが死体を運べることは分かりました。必要な信用は得た。次は中へ入る口実を得る段階です。ここで倒れる男を抱えて歩くほど、私は親切ではありませんわ」

「ええ。私はあなたを使うつもりですから、壊れる前に止めているの」

その言葉はひどかった。けれどレイモンは止まった。ひどい言葉は、時々正しい柵になる。彼は手を下ろし、呼吸を整えた。火傷した手の包帯には、死体の湿った毛布から移った汚れが付いていた。アデルはそれを見て、また袖を切るべきか迷った。迷って、やめた。切る布にも限りがある。

門の内側の医師が二人を呼んだ。

「お前たち、入れ」

レイモンがすぐ顔を上げる。アデルは一歩前へ出た。

「入ってよろしいの?」

「働けるならな。死体を運べる男と、列を捌ける女は今ここでは薬より貴重だ」

「光栄ですわ」

「皮肉を言う余裕があるなら、奥で吐く桶を運べ」

アデルは眉を上げた。

「随分な歓迎ね」

「嫌なら出ていけ」

「いいえ、働きますわ」

レイモンは医師へ近づいた。

「二日前の夜、下町から来た母子を探している。処刑人の家の近くから逃げた可能性がある。女一人、子供が」

「ここでは誰もが誰かを探している」

「名は」

レイモンは妻の名を言った。子供の名も。言う時、声がほんのわずかに掠れた。アデルはそれを聞いたが、顔には出さなかった。医師は近くの帳面をめくる。紙は血と水で波打ち、文字は急いで書かれていた。

「その名はない」

レイモンの喉が動いた。

「ない?」

「少なくとも正面からは入っていない。だが、夜は記録が崩れる。名前を偽る者もいる。下町から来た母子は何組かいた。染物屋通りで暴徒に追われた者、処刑場近くで転んだ子供、熱を出した赤子。詳しく知りたければ、洗い場の修道女に聞け。彼女が夜の民間人を見ている」

レイモンはすぐ動こうとした。アデルがまた腕を掴む。

「場所を聞いてから」

医師が顎で奥を示した。

「中庭を抜けて左。だが、今は水が足りない。桶を二つ持っていけ。ついでに聞け」

アデルは思わず笑った。

「情報料が桶二つとは、施療院は実に現実的ですわね」

「現実しか残っていない」

医師はそれだけ言い、次の負傷者へ向かった。アデルは桶を二つ拾い、一つをレイモンへ押し付けた。

「行きますわよ」

「……ああ」

施療院の中は、門前よりさらに濃い匂いがした。床には藁が敷かれ、その上に兵も民間人も並べられている。白い包帯は少なく、多くは灰色か茶色に汚れていた。壁際には水を待つ桶が並び、奥では誰かが祈っている。祈りの声と呻き声は似ていた。どちらも、聞いているだけでは何も変わらない。

アデルの白と金のドレスは、施療院の薄暗い廊下でさらに目立った。金糸の汚れは燭台の火に拾われ、深紅 of コルセットは血のついた包帯の列と嫌なほど色が合った。胸元の青い宝石の欠落跡には、光が入らない。そこだけ小さな穴のように暗く、彼女が失ったものを無言で示していた。腰の薔薇飾りは人の肩や担架にぶつかり、花弁の端がさらに潰れた。彼女はそれに気付き、顔をしかめ、しかし立ち止まらなかった。廊下の壁際、民間人の荷物の陰に、下級女官が二人の子供を座らせ、アデルとレイモンが持つ水桶を見ていた。子供たちは口を開かず、女官はアデルの動きから目を離さない。アデルはそれに気付かず、あるいは気付かないふりをして、

「こちらよ」アデルは桶を持ったまま中庭へ出た。

アデルは桶を持ったまま中庭へ出た。井戸のそばには修道女が一人いた。年は五十前後。袖をまくり、血のついた布を水に浸している。聖職者というより洗濯女の手だった。爪は短く、指は赤く荒れていた。彼女はアデルの衣装を見ても驚かなかった。驚く力を、もう使い切っているのだろう。

「水なら並んで」

修道女は言った。

アデルは桶を置く。

「水も欲しいけれど、人も探しています」

「順番に死んで、順番に運ばれて、順番に名前を間違えられる場所で?」

「ええ。だから、名前以外で聞きます」

修道女の手が止まった。レイモンが一歩前へ出る。

「二日前の夜、下町から来た母子を見なかったか。処刑場の騒ぎの後だ。女一人、子供が一人か二人。処刑人の家の近くから逃げた可能性がある」

修道女はレイモンの色彩を欠いた瞳を凝視した。その手が、水に浸した布を絞るのをわずかに止めた。何かに気付いた顔だった。

「母子なら多い」

「子供は」

レイモンの声が急ぐ。アデルは桶の取っ手を握りながら横から入った。

「急かしてごめんなさい。この人、焦ると質問が下手になりますの。女はおそらく下町の粗布。荷は少ない。子供を守るため、目立たない場所を選ぶ。処刑人の家の近くから出たなら、民衆の視線を避けている。負傷しているなら転倒か打撲。病なら熱。誰かに名を聞かれても、すぐ答えなかった可能性があります」

修道女はアデルを見た。今度は少しだけ興味を持った顔だった。

「あなたは?」

「迷惑な同行者ですわ」

「でしょうね」

修道女は布を絞り、井戸端に置いた。

「二日前の夜、下町から来た女がいた。子供を一人抱えていた。もう一人は自分で歩いていたかもしれない。暗かった。女は名を言わなかった。子供が熱を出していて、奥へ入れろと頼んだ」

レイモンの顔が変わった。

「今どこに」

「ここにはいない」

「なぜ」

「熱の子は朝には下がった。怪我も軽かった。ここは重傷者を優先する。女は長くいると見つかると言って、夜明け前に出た」

レイモンの手から桶が落ちかけた。アデルが支えた。

「どちらへ?」

「東の洗濯場の裏から出た。施療院の証明布を一枚渡した。あれがあれば、次の救護所までは病人扱いで通れる。向かった先は、古い聖堂跡か、川沿いの女たちの宿。選べるほど元気ではなかったはず」

「生きていたのか」

レイモンの声は低く、ほとんど息だった。

修道女は頷いた。

「少なくとも、ここを出る時は」

その答えは救いであり、残酷でもあった。生きていた。だがもうここにはいない。追う先は二つ。時間は経っている。証明布があるなら、別名で動ける。見つけやすくなったのか、見つけにくくなったのか分からない。

レイモンは井戸端に手をついた。火傷した手で。アデルがすぐその手を掴んで離した。

「その手で石を握らない」

「生きていた」

「ええ」

「ここを出た」

「ええ」

「追う」

「追います」

アデルは今度は止めなかった。止める必要はあったが、止め方を変える必要があった。

「ただし、二手のどちらかを選ぶ前に、証明布の形を聞く。古い聖堂跡と女たちの宿、それぞれの危険を聞く。あなたが走るのはその後」

レイモンは彼女を見た。目の奥に、痛いほどの光があった。アデルはその光を受け止め、胸の奥の棘を黙らせた。彼の妻子が生きていた可能性。それを喜ぶべきだ。実際、喜んでいる。彼が壊れずに済むなら、その方がいい。だが、彼が生きる理由を強く取り戻すほど、自分の横にいる理由は弱くなる。

修道女は二人を交互に見た。

「証明布は灰色に青い糸を一本縫い込んだもの。施療院の古い印です。聖堂跡は密告者が多い。女たちの宿は金を取るが、子供は隠す。母親なら宿へ行く可能性が高い」

アデルはすぐに頷いた。

「感謝します」

「水を運んでから言いなさい」

「もちろん」

アデルは桶を持ち上げた。レイモンも持つ。今すぐ走り出したい男に、水桶を持たせる。滑稽だが、必要だった。水を運ぶ間に呼吸が整う。呼吸が整えば、道を選べる。道を選べば、生きている者に近づける。

二人は桶を洗い場へ運んだ。アデルのドレスの裾は井戸水を跳ね、白と金の布に新しい染みを作った。深紅のコルセットの下では息が詰まり、腰の薔薇飾りは濡れて重く垂れた。青い宝石のない胸元だけが、相変わらず軽い。彼女はその空白へ触れかけ、やめた。今は自分の欠けた装飾を惜しむ時間ではない。

水を運び終えると、レイモンは施療院の門を出ようとした。今度はアデルも並んだ。止めない。ただし横に立つ。

「女たちの宿へ行きます」

「聖堂跡は」

「密告者が多い。奥方が子供を連れているなら、まず宿を選ぶ。聖堂跡は、宿で断られた場合か、金が尽きた場合。順番を間違えると追跡が崩れます」

「分かった」

その返事は早かった。焦りはある。だが今は、地図と証言と行き先がある。レイモンは走り出さなかった。歩幅は速いが、歩いていた。アデルはその隣で、汚れた裾を持ち上げる。

門を出る直前、修道女が声をかけた。

「あなた」

アデルが振り返る。

修道女は彼女の胸元を見ていた。青い宝石の台座だけが残る場所だ。

「そこ、留め具が外れかけています。走ると布が裂ける」

アデルは一瞬、目を伏せた。

「直す時間は?」

「一針なら」

修道女は針を取った。アデルは立ったまま、胸元の布を押さえる。修道女の荒れた指が白と金の布をすくい、深紅のコルセットの縁へ一針だけ糸を通した。宝石は戻らない。だが、空いた台座の下で緩んでいた布は留まった。

「これで走っても少しは持つ」

「借りが増えますわね」

アデルが言うと、修道女は短く答えた。

「返せる時に、誰かへ返しなさい」

その言葉は、ここまで拾ってきた針や硝子片や工房印や革命章と同じ場所へ落ちた。アデルは軽く息を吐き、微笑んだ。

「生きていれば、どこかで」

修道女は何も言わなかった。レイモンはそのやり取りを見ていた。アデルが人から借りてばかりいることを、彼はもう数えるのをやめたようだった。あるいは、数えているが言わなかっただけかもしれない。

施療院を出ると、夕暮れはさらに濃くなっていた。女たちの宿へ向かう道は狭く、洗濯場の裏を抜け、川沿いへ下る。レイモンの妻子がそこにいるかは分からない。けれど、二日前の夜に生きて施療院を出た。その事実だけで、レイモンの背中には、追う男の気配があった。

アデルはその背を見て、歩調を合わせた。死刑を免れ、元恋人と逃げ、人を助け、借りを増やし、ようやく彼の妻子の影へ近づいている。

「レイモン」

「何だ」

「走らないで」

「分かっている」

「本当に?」

「分かっている」

「なら結構。あなたが走らないなら、私はこの格好でもまだ追いつけますわ」

レイモンはアデルの泥と煤に汚れた白金のドレス、煤けた深紅のコルセット、濡れて重くなった薔薇飾り、青い宝石を失った胸元を見た。視線は一瞬だけで、すぐ前へ戻る。

「その格好で来る気か」

「当然でしょう」

「目立つ」

「ええ」

「危険だ」

「ええ」

「なぜ」

アデルは笑った。疲れと煤と泥で顔色は悪い。それでも、笑みだけはまだ華やかだった。

「死刑台から降りた女が、元恋人の奥方探しを手伝うのよ。地味にやったら、神様に気付かれないでしょう?」

レイモンは呆れたように息を吐いた。けれど、今度は止めなかった。二人は川沿いの道へ向かった。背後の施療院では、まだ呻き声と水音が続いている。前方には、洗濯場の湿った匂いと、女たちの宿の灯りがあった。アデルの布包みの中で、青い硝子片と工房印と革命章が小さくぶつかる。借り物と預かり物と危険物。彼女の逃亡は、少しずつ重くなっていた。だがその重さは、死体の重さではなかった。生きている者たちへ返すための重さだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ