未亡人の手押し車
村を出る時、アデルは兄妹の母親が使っていたという古い針を受け取った。礼だと言われたからではない。そんなものを礼として渡せるほど、あの村には余りがなかった。ただ、兄が妹の服の裂け目を見て困っていたので、アデルが「針仕事くらい覚えておきなさい、泣いても布は塞がりませんわ」と言ったところ、村長の妻が黙って小さな布包みを持ってきたのだ。中には曲がった針が二本、錆びかけた指貫が一つ、色の合わない糸が少し入っていた。
「もらっていいのか」
レイモンが聞いた。
「借りたのよ」
アデルは布包みを胸元にしまいながら答えた。
「返す当てがあるのか」
「生きていれば、どこかで返せますわ。死ねば踏み倒しね」
同行を許された女官のエリーズは子供たちの手を引いて少し後ろを歩いている。アデルはその気配を背中で感じていた。自分がレイモンの横に立っていることを、エリーズがどう見ているのかは分からない。分かりたくもない。だが、分からないままにしておくには、レイモンが衝動的に救い出したエリーズの存在そのものが、あまりに静かだった。責めるわけでも、泣くわけでも、怒るわけでもない。ただ、子供の歩幅に合わせて歩いている。その堅実さが、アデルには面白くない棘のように感じられた。レイモンが自分ではない他人の命に執着することへの苛立ち、そして自分が許した『荷物』の存在そのものが、彼女にとっての『面白くない棘』だった。
「あなたが連れてきた荷物は、よく出来た方ね」
「急に何だ」
「褒めたのよ。褒め言葉くらい素直に受け取るべきだわ」
「俺に言われても困る」
「そういうところよ」
切れば歩きやすくなる。その絢爛豪華な装飾を外せば軽くなる。髪飾りも外せば目立たない。分かっている。分かっていて、まだ全部は捨てなかった。自分が処刑台から降りたばかりの惨めな女ではなく、先王夫人アデルであることを、自分自身に見せるために必要だった。
レイモンは眉を寄せた。アデルは笑い、泥で重くなった裾を少し持ち上げた。前面の深紅のコルセット、腰回りの大きな薔薇飾り、そして先王からの愛と呪いの象徴である青い宝石。白と赤の布はすでに宮廷のものではなく、逃亡者の足を絡め取る邪魔な幕になりかけている。それでも彼女は捨てなかった。
昼前、街道は森の縁へ入った。木々は葉を落とし、枝の間から薄い日が差している。遠くで車輪の軋む音がした。最初は荷馬車かと思ったが、音は遅く、不規則で、時々止まる。誰かが力任せに引き、荷が石に噛むたびに止まり、息を整え、また引いている音だった。
レイモンが先に足を止めた。アデルも同じ方向を見る。曲がり道の先で、小さな手押し車が斜めに傾いていた。車には布袋、木箱、鍋、毛布、壊れた椅子の脚、束ねた紙、男物の上着、使い込まれた工具箱が積まれている。積み方が悪い。重い物が上にあり、軽い物が下で潰れていた。車の横に、黒い服の女がいた。年は三十を少し越えた程度だろう。未亡人の服だったが、喪服として整っているのではない。急いで黒い布を羽織っただけの、死に追いつけなかった喪服だった。
女は車輪の泥を棒で掻き出していた。手袋は片方しかなく、爪の間に土が詰まっている。顔は青い。泣き腫らした目をしているのに、もう涙は出ないらしかった。彼女の足元には、小さな男の子が一人座っていた。六つほどの子で、両腕に木彫りの兵隊人形を抱えている。人形の片腕は折れていた。
アデルは車の荷を見る。レイモンは女の手を見る。エリーズは子供を見た。
「手伝う」
レイモンが言った。
女は顔を上げ、男の姿を見て身を硬くした。レイモンの服は粗末な外套に変わっている。だが、隠しても残るものはある。人を避けて生きてきた男の立ち方。近づかれることを前提にしていない肩。人の死に慣れた目。女はそれを何と呼べばいいか分からないまま、子供を自分の方へ引き寄せた。
「結構です」
声は乾いていた。拒絶の形だけは残っていた。
アデルが横から覗き込んだ。
「結構ではありませんわ。あと十歩で車軸が折れます」
女はアデルを見た。美しい女だ。泥を被っても、髪が崩れても、布が汚れても、隠れないものがある。女の目に警戒とは別の感情が浮かんだ。困惑。苛立ち。こんな場所でそんな顔をした女に出会う理不尽さ。
「あなたに何が分かるのです」
「荷造りが下手なのは分かります」
女の頬に血が差した。
「これは、夫の物です」
「ええ。だから下手なのでしょう。死者の物を積む時、人は重さを間違えますもの」
レイモンがアデルを見た。止めるには少し遅かった。女の顔が歪む。男の子が人形を抱く手に力を入れた。
「黙ってください」
「嫌です」
アデルは即座に言った。声は冷たくない。むしろ、妙に軽かった。その軽さが女の怒りを受け止めず、横へ逃がした。
「泣いても車輪は抜けませんし、怒っても荷は軽くなりません。あなたが死ぬのは勝手ですけれど、その子まで森で夜を越す気?」
女は唇を震わせた。アデルは女ではなく荷を見た。
「工具箱。男物の上着。書類束。鍋。椅子の脚。毛布。布袋。順番が悪い。椅子の脚と鍋は捨ててもいい。工具は残す。書類は濡らしてはいけない。上着は一枚あればいい。毛布は子供用に一つ。残りは売るか、今ここで交換材料にする」
「捨てない」
女の声が鋭くなった。
「夫の物です。あの人が、最後まで使っていた物です。全部持っていきます」
「全部持てるならね」
アデルは車の傾きを指で示した。
「持てないものを全部と言うのは、愛ではなく計算違いです」
女がアデルへ掴みかかろうとした。レイモンが前へ出かけたが、アデルは動かなかった。女の手はアデルの胸元の手前で止まった。青い宝石が揺れる。女の指は泥と血で汚れていた。触れれば、白い布に跡が残る。アデルはその手を見下ろし、少しだけ目を細めた。
「汚しても構いませんわ。どうせもう、清潔な女ではありませんもの」
その一言で、女の手から力が抜けた。怒りが消えたのではない。怒りをぶつける先が、ほんの少し見えなくなったのだ。
レイモンは黙って車の横に膝をついた。車輪の泥を掻き、軸を確認する。木は割れかけていた。無理に進めば折れる。彼は工具箱を開けた。中には鋸、金槌、楔、古い革紐、釘が入っている。職人の道具だった。
「夫は」
レイモンが短く聞いた。
女は答えなかった。だが、男の子が言った。
「橋を直してた」
女が息を呑んだ。子供は人形を見ながら続けた。
「兵隊さんが来るから、橋を直せって。父さん、夜も行った。帰ってきた時、血がついてた」
女は子供の口を塞ごうとした。レイモンは手を止めない。アデルも口を挟まない。
「次の日、また行った。帰ってこなかった。母さんが迎えに行ったら、橋の下にいた」
森の音が急に薄くなった。アデルは女を見る。女は子供の肩を抱いていたが、その手は震えていた。
「事故です」
女は言った。
誰に向けた言葉でもない。自分に言い聞かせるための言葉だった。
「軍の仕事でした。橋を直す仕事で、足を滑らせた。それだけです」
レイモンは車輪に革紐を巻き、割れた部分を仮に締めた。
「死体は誰が見た」
女は答えない。
「首の骨か。胸か。腹か。落ちたなら、どこを打った」
「あなたには関係ありません」
「関係ない。だが、荷の重さには関係がある」
女は顔を上げた。レイモンは工具を戻さず、低い声で続けた。
「事故なら、工具は形見だ。殺されたなら、証拠だ。捨てる物が変わる」
アデルは横目でレイモンを見た。彼の声は冷静だった。死を扱ってきた男の、慣れた声。だが、処刑台で首を確認する声とは違う。死に方を暴くためではなく、残された者が何を持っていくべきかを決める声だった。
女は長く黙った。やがて、震える手で工具箱の底を探った。油紙に包まれた細い金具が出てきた。橋の補強に使うものらしかったが、端が不自然に曲がっている。レイモンはそれを受け取り、泥を落とした。
「争った跡か」
アデルが言った。
女の喉が鳴った。
「夫は、橋を落とすつもりだったのだと思います」
空気が変わった。エリーズが子供たちを少し後ろへ下げる。レイモンは顔を上げない。アデルは女を見たまま、先を促さなかった。促せば、女は閉じる。黙っていれば、言わずにいられなくなる。
「軍が通れば、村の穀物がまた取られる。男たちも連れていかれる。あの人は、修理すると見せかけて、夜のうちに橋を弱くしようとした。誰も殺すつもりはなかった。ただ、荷馬車が通れないように、少し壊すだけだと」
「見つかったのね」
アデルが言った。
女は頷かなかった。だが否定もしなかった。
「だからこれは持っていきます。あの人が何をしようとしたか、私だけは忘れない。誰にも言えないなら、せめて物だけでも」
「それで子供が潰れても?」
女の顔がまた歪んだ。だが今度は怒りではない。痛みだった。アデルは容赦なく続けた。
「夫の全部を持っていくことはできません。あなたが選ぶの。夫の死を持つのか、夫の仕事を持つのか、夫の意思を持つのか。全部と言うなら、その子の背中にも死体を背負わせることになる」
男の子は意味を完全には理解していなかった。ただ、母親が苦しんでいることだけは分かり、人形を抱え直した。折れた腕の兵隊人形だった。レイモンがそれに目を止める。
「その人形は」
「父さんが作った」
子供は小さく言った。
「腕が折れたの」
レイモンは手を出した。子供は迷った。処刑人だとは知らない。だが、怖い男だとは分かる。それでも彼は、少しずつ人形を差し出した。レイモンは工具箱から細い釘と糸を取り、折れた腕を合わせた。指は大きいのに、作業は静かだった。処刑前に刃を確かめていた手と同じ手が、木の兵隊の腕を繋いでいる。アデルはその光景を見て、胸の奥が妙に落ち着かなくなった。
「器用ね」
「仕事柄な」
「その返し、最低ですわ」
「他に言いようがない」
「あるでしょう。昔、恋人に褒められた時くらい、もう少し気の利いた顔をしていたわ」
レイモンの手が一瞬だけ止まった。アデルは勝ったように笑う。女は泣きかけていた。しかし、そのやり取りに一瞬、顔から力が抜け、わずかに唇の端を上げた。
「知ってる人?」
女は答えられなかった。アデルが代わりに言った。
「昔、少しだけね。今はただの逃亡仲間よ」
「逃亡?」
レイモンが低く咎めた。
「子供に嘘を教える方が悪いわ」
「黙っていればいい」
「あなたが黙りすぎるから、私が喋るのよ」
人形の腕が繋がった。完璧ではない。だが動かさなければ取れない。子供はそれを受け取り、目を丸くした。
「直った」
「強く振るな。すぐ取れる」
「ありがとう」
その言葉は小さかった。レイモンは返事をしなかった。ただ工具を戻した。アデルは見逃さなかった。彼が一瞬、何かに耐えるように息を止めたことを。ありがとう、という言葉は、処刑人の耳には慣れないのだろう。罵声、泣き声、祈り、沈黙。その方が彼には馴染んでいる。感謝は、刃より扱いにくい。
荷の整理はそこから始まった。アデルは女に捨てさせるのではなく、選ばせた。椅子の脚は置いていく。鍋は一つだけ残す。男物の上着は切って、子供の肩掛けと車輪の補強布にした。毛布は一枚を残し、もう一枚は村へ戻る途中の老人に渡すために分けた。書類束は油紙に包み直し、工具箱は車の中央へ置いた。重心が下がると、車は見違えるほど安定した。
女は最後まで、椅子の脚を見ていた。夫が座っていた椅子なのかもしれない。夫が作った椅子なのかもしれない。アデルは聞かなかった。聞けば意味が生まれる。意味が生まれれば捨てられなくなる。
「行き先は?」
レイモンが聞いた。
「叔父の家へ。川向こうの町です。橋が使えれば半日でした」
「橋は?」
女は首を振った。
「軍が押さえています。通行証がなければ止められる。夫のことも、知られているかもしれません」
アデルは書類束を見る。
「その中に、橋の図面は?」
女が驚いた顔をした。
「あります。たぶん」
「出して」
女は油紙を開きかけたが、アデルは止めた。
「ここでは駄目。濡れるわ。大きさだけでいい。橋の下を通れる道はある?」
「水が少なければ」
「今は?」
「昨日から雨がないので、子供連れでも、浅い場所を選べば」
アデルはレイモンを見た。
「通れる?」
「車は無理だ」
「荷を分けるわ。工具と書類と子供を優先。車は浅瀬の手前まで。そこから人で運ぶ」
女が息を呑んだ。
「そんなことまで」
「途中で徴発部隊に見つかれば、荷ごと取られます。あなたは夫の物を守りたいのでしょう。なら、泣く時間より運ぶ時間を使いなさい」
未亡人が押し黙った。アデルが示す行動の道筋は、彼女の足を止めなかった。むしろ、動く形を与えた。女は涙を拭かず、工具箱を抱えた。レイモンは車を押し、アデルは書類束と軽い荷を持った。エリーズは子供たちをまとめ、未亡人の息子に声をかけた。子供は直った兵隊人形を胸に抱き、母の後ろを歩いた。
浅瀬へ向かう道は悪かった。木の根が露出し、泥が靴に絡む。アデルの裾はさらに汚れた。赤い布が水を吸い、白いレースは茶色くなった。彼女は何度も舌打ちしかけ、その度に飲み込んだ。ここで文句を言えば、レイモンがまた呆れた顔をする。それは少し見たい。だが、未亡人の前でそれをやるのは違う。アデルは人の痛みを完全に理解する女ではないが、舞台を間違えるほど鈍くはなかった。
浅瀬に着くと、レイモンは水の深さを見た。膝下。子供には深いが、渡れないほどではない。流れはある。荷を持って足を取られれば危ない。
「先に俺が行く。荷を渡せ」
「あなた一人では遅いわ」
アデルは靴を見た。高い踵。馬鹿げている。逃亡にも浅瀬にも向かない。彼女は少し黙り、それから片足を石に乗せ、足首の飾り紐を外し始めた。
レイモンが目を逸らした。
「見ていませんわよね」
「見ていない」
「早いわね。少しは惜しみなさい」
「急げ」
「本当に可愛げのない人」
アデルは靴を脱いだ。裸足で冷たい水に入ると、息が詰まった。石が足裏に当たり、泥が指の間へ入り込む。かつて宮廷の床を歩いていた足が、今は川底を探っている。笑えるほど落ちたものだ、と彼女は思った。けれど不思議と、惨めだとは思わなかった。死刑台よりはずっといい。冷たい水も、泥も、重い書類も、全部、生きている側の不便だった。
荷を渡し、子供を渡し、工具箱を渡す。未亡人は最後に残った。彼女は川の手前で振り返った。置いてきた車が見える。車には、捨てきれなかった小さな布袋が一つ残っていた。
アデルはそれに気付いた。
「取りに戻らない」
「でも」
「戻れば足跡が増える。迷いも増える。追われた時、あなたはまた振り返る。駄目よ」
女は唇を噛んだ。レイモンが静かに言った。
「何が入っている」
「夫の、髪です」
アデルは目を伏せた。レイモンも黙った。エリーズが女を見た。誰もすぐには答えなかった。
アデルは水の中で立ったまま、少し考えた。合理で言えば捨てるべきだった。戻る危険はある。だが、女はここで捨てれば、たぶん足を止める。体は渡っても、心が車の横に残る。そういう荷は、目に見える荷より厄介だ。
「レイモン」
「俺が行く」
彼はそう言って戻った。早かった。水を渡り、車まで走り、布袋を取る。遠くで馬の音がした。今度は気のせいではない。アデルは森の方を見る。徴発部隊か、巡回か、ただの旅人か。分からない。だが足音ではなく蹄だ。近づいている。
「急いで」
アデルの声は低かった。レイモンは戻る。水に入り、布袋を片手で掲げる。流れが足に当たり、外套の裾が濡れる。あと数歩というところで、対岸の茂みから騎兵の影が見えた。二騎。まだこちらには気付いていない。アデルは未亡人の肩を掴み、岩陰へ押し込んだ。エリーズが子供たちを伏せさせる。
レイモンは水の中で止まれない。止まれば見つかる。走れば水音が立つ。アデルは一瞬だけ目を細め、胸元の青い宝石に手をかけた。それを外し、光が差す方へ放った。宝石は浅瀬から少し離れた石の上に当たり、青く光った。
騎兵の一人がそちらを見た。
「何か光ったぞ」
もう一人が馬首を向ける。アデルは息を止めた。レイモンはその隙に最後の数歩を渡り、岩陰へ滑り込んだ。水音は川の音に紛れた。騎兵は石の方へ向かい、青い宝石を拾った。
遠ざかる蹄の音を聞きながら、アデルは心の中で冷徹に確信した。人間は、自分が持っていない価値に対しては、これほどまでに容易く目を奪われるものだ。それは、命の価値を相対化し、自分の知性で敵の行動を完全に支配したことの、圧倒的な勝利の証明だった。
「女物だな」
「近くにいるか」
「上流だろう。流れてきたのかもしれん」
騎兵たちはしばらく周囲を見たが、やがて馬を進めた。完全に去るまで、誰も動かなかった。アデルは岩に背を預け、裸足のまま息を吐いた。
レイモンが彼女を見た。
「宝石を」
「見れば分かりますわ」
「あれは残していた物だろう」
「ええ。残していた物よ」
「よかったのか」
アデルは濡れた足を見た。宝石が一つ消えた胸元は、少し軽かった。軽いことが腹立たしかった。
「夫の髪よりは安いでしょう」
未亡人が泣いた。声を殺していたが、肩が震えていた。彼女は布袋を胸に抱き、何度も頭を下げようとした。アデルはそれを手で止めた。
「礼は要りません。あなたが叔父の家へ着いたら、橋の図面を写しておきなさい。川を渡れる道、橋の下を抜ける道、軍が使う道。全部。いつか役に立つかもしれない」
女は涙を拭い、頷いた。アデルはその顔を見た。さっきまで荷に押し潰されていた顔ではない。まだ悲しんでいる。まだ夫を背負っている。だが、歩く形には戻っていた。
「名前は」
女が聞いた。
アデルは少し笑った。
「今は名乗らない方が、お互い長生きできますわ」
「では、何と覚えれば」
アデルは答えかけて、少し迷った。先王夫人。逃亡者。死刑囚。泥だらけの女。どれも正しいが、どれも今ここで渡す名前ではない。
レイモンが横から言った。
「荷を軽くした女でいい」
アデルは彼を睨んだ。
「ひどい名ね」
未亡人が初めて、ほんの少し笑った。笑ってから、自分でも驚いたような顔をした。子供は兵隊人形を抱え、レイモンに向かって小さく手を振った。レイモンは表情を変えなかったが、ほんのわずかに頷いた。
「あなた、私を形容する才能が壊滅的だわ」
未亡人が初めて、ほんの少し笑った。笑ってから、自分でも驚いたような顔をした。子供は兵隊人形を抱え、レイモンに向かって小さく手を振った。レイモンは戸惑った末、ほんのわずかに頷いた。
浅瀬を離れ、森の道へ入る時、アデルは一度だけ振り返った。対岸の石の上に、もう青い光はない。宝石は奪われた。だが未亡人は布袋を抱え、子供は直った人形を持ち、工具箱と図面は濡れずに残った。何かを失わなければ、何かは運べない。そんな分かりきったことを、泥水の中で学ばされるのは腹立たしい。
レイモンが隣に来た。
「惜しかったか」
「当然でしょう。あれは高いのよ」
「命よりも?」
アデルは彼を見た。彼の声にからかいはない。本気で聞いている。だからこそ腹立たしい。
「命と比べれば大抵のものは安いわ。けれど、安いから惜しくないわけではありません」
「そうか」
「そうよ。あなたはそういう計算が雑なの。だから自分ばかり削る」
レイモンは黙った。アデルは濡れた髪を払い、泥だらけの足で歩き出した。冷たさで足先の感覚が鈍い。靴は手に持っている。美しい先王夫人としては最低の姿だった。だが、処刑台で首を差し出すよりは、ずっと自分らしい。
少し進んだところで、レイモンが言った。
「人形を直した時、礼を言われた」
「聞こえていましたわ」
「どう返せばいいか分からなかった」
「頷いていたじゃない」
「それでいいのか」
「十分よ。あなたが突然、満面の笑みで『どういたしまして』などと言い出したら、私は川へ戻って頭を冷やすわ」
レイモンはかすかに息を吐いた。アデルはそれが笑いである可能性を読み取った。アデルは横目でそれを確認し、顔を前へ戻した。胸元は軽い。宝石は一つ消えた。だが、代わりに妙なものが増えている。粥を食べた兄妹の顔。死刑を免れた兵士の沈黙。人形を抱えた子供の礼。未亡人が布袋を抱えて歩き出した背中。
レイモンだけではない。自分の中にも、何かが積まれている。アデルはそれを慈悲とは呼ばなかった。善行とも呼ばなかった。そんな柔らかい名を与えると、次に使う時に鈍る。これは投資だ。道を買い、沈黙を買い、情報を買い、未来の逃げ場を買った。そう考えればいい。そう考えれば、胸元から宝石が一つ消えた痛みも、少しは我慢できる。
「ねえ、レイモン」
「何だ」
「私、今日も政治には関わっていませんわよね」
「橋の図面を要求していた」
「未亡人の安全確認です」
「軍道の情報も聞いていた」
「地理のお勉強ですわ」
「宝石で騎兵を誘導した」
「落とし物よ」
レイモンは今度こそ、わずかに笑った。アデルはそれを見て、胸元の喪失が少しだけ軽くなるのを感じた。あの青い宝石より、この男の不意の笑いの方が価値があるなどと認める気はない。そんなことを認めれば、あまりにも分が悪い。だから彼女は顔を逸らし、泥だらけの裾を払った。泥は落ちない。代わりに、レイモンの笑いだけが、しばらく耳の奥に残った。
森を抜ける頃、未亡人たちの姿はもう見えなかった。だが、川向こうの町へ向かう細い道には、二人分の足跡と、小さな子供の足跡が続いていた。荷は減った。だが、歩く者は減っていない。それで十分だった。アデルはそう判断し、先へ進んだ。死を逃れた女の旅は、まだ始まったばかりだった。けれど彼女の足取りは、朝よりも少しだけ確かだった。




