第七章後編:D'arc Ange
自分が設計段階で指摘した通りだった。
収容者へ紙を与えれば、密書、遺書、虚偽の自白、看守への取引材料へ使われる。
机は食事を置くために必要だが、書くための道具は与えない。
その判断を、ダンは合理的だと考えていた。
今も、制度としては合理的だと分かっている。
合理的であることと、人間が耐えられることは別だった。
朝食とも昼食とも分からない時刻に、扉の下の小窓が開き、薄い粥と水が差し入れられた。
看守は顔を見せず、器だけを押し込んだ。
ダンは粥へ触れず、小窓の前へ膝をついた。
「時刻を教えてください。」
返答はない。
「収容記録へ、食事の時刻を記す義務があります。」
廊下で衣擦れの音が止まった。
「正午前です。」
若い男の声だった。
「正確には?」
「鐘が鳴っておりませんので。」
「勤務交代は何時だ。」
「話せません。」
「看守の配置を聞いているのではない。自分が何時間ここにいるか確認している。」
「時計はありません。」
「記録簿を見れば分かる。」
看守は答えなかった。
ダンは小窓の縁へ指を掛けた。
「私へ時間を知らせることを禁じた命令書があるなら、見せてください。」
「ありません。」
「ならば、教えても規則違反ではない。」
「必要以上の情報を与えるなと。」
「必要かどうかを、誰が決める。」
看守の呼吸が廊下側で僅かに乱れた。
「管理官です。」
「あなたは、自分で判断しないのか。」
「判断しないよう命じられています。」
「それで安心ですか。」
看守は小窓を閉めようとした。
ダンは指を挟まない位置へ引きながら、言葉だけを残した。
「判断しない者は、失敗した時に命令されたと言える。だが、命令した者は、現場が勝手に行ったと言う。」
小窓が途中で止まった。
「私へ何をさせたいのです。」
声には警戒と苛立ちが混じっていた。
「時刻を教えるだけです。」
「それで、何が変わる。」
「私が、自分の一日を他人へ奪われずに済む。」
看守は長く黙った。
「正午の四半刻前です。」
ダンは頭を下げなかった。
礼を述べれば、施しを受けた形になる。命令する権利もないため、当然の報告として受け取るしかなかった。
「記録しておいてください。収容後、正午前に食事を受け取った。」
「何のために。」
「後で、拘留時間を偽られないためです。」
看守は小窓を閉じた。
金属音の後、足音が遠ざかった。
粥は既に表面へ薄い膜を作っていた。
ダンは匙を取り、一口だけ口へ運んだ。
味はほとんどない。
長期収容者の体力を維持しつつ、贅沢や快楽を与えないための食事である。
それも、自分が認めた基準だった。
午後、房の外へ複数の足音が近づいた。
管理官と、聞き覚えのない男の声がある。
扉は開かず、小窓から一枚の紙が差し入れられた。
「確認書へ署名してください。」
ダンは紙を床から拾った。
収容時の身体状態、所持品、食事受領、外傷の有無が記されている。最下部に、収容者本人の確認欄があった。
「筆がない。」
小窓から木炭の短い棒が差し込まれた。
「署名後、返してください。」
ダンは紙を机へ置いた。
文面を最初から読み、三行目で止まる。
「拘束時に抵抗なし、とある。」
「抵抗されませんでした。」
「法的異議を述べた。」
「身体的抵抗ではありません。」
「ならば、身体的抵抗なしと書き換えてください。」
廊下の男が苛立った声を出した。
「意味は同じでしょう。」
「違う。抵抗なしとだけ残せば、拘留手続へ異議を述べなかったと読める。」
「そのようには扱いません。」
「あなたが扱わなくても、後の人間が扱う。」
管理官が低く言った。
「書き換えろ。」
紙が一度引き戻され、暫くして訂正されたものが入れられた。
ダンは次の項目を読む。
外傷なし。
手首には革紐の跡が残っている。
「外傷なしも誤りです。」
「護送に必要な拘束痕です。」
「負傷の原因ではなく、有無を記す欄だ。」
「軽微な発赤まで書く必要は――」
「軽微かどうかを医師が見たのですか。」
廊下の男は答えなかった。
管理官が再び命じた。
「手首に拘束痕ありと加えろ。」
三度目に差し入れられた紙を読み、ダンはようやく署名した。
木炭は指先へ黒く付着し、紙面にも粉が散った。
それを見て、彼は記録室で老書記が使っていた筆を思い出した。
この黒い棒では、細かな訂正も長い反論も書けない。
署名だけを残すための道具だった。
紙を返した後、ダンは木炭も小窓へ戻した。
隠せば、房内で密書を作ろうとしたと疑われる。
自分が規則を知り過ぎているため、どの行動も先の容疑まで見えてしまう。
夜になったことは、窓の細い光が消えたことで分かった。
灯りは与えられず、廊下の松明が扉の隙間から僅かに入るだけだった。
ダンが寝台へ横になった時、別の房から咳が聞こえた。
最初は短く、次に胸の奥から絞り出すような長い咳が続く。
ダンは身体を起こした。
「医師を呼べ。」
咳は止まらなかった。
廊下の看守は動かない。
「聞こえているだろう。呼吸器の症状か、血を吐いている可能性がある。」
看守の声が遠くから返った。
「夜間の巡回時に確認します。」
「巡回まで何刻ある。」
「分かりません。」
「先ほど、判断しない者は命令へ責任を押し付けると言った。」
足音が近づいた。
昼間に時刻を教えた若い看守だった。
「他の収容者について、あなたには関係ありません。」
「感染症なら関係がある。」
「房は隔離されています。」
「空気は廊下で繋がっている。」
看守は咳の続く方向へ顔を向けたらしい。
足音が一度止まり、その後、反対側へ走っていった。
暫くして管理官と医師が来た。
隣ではなく、二つ先の房が開けられ、苦しげな声と器具の触れ合う音が響いた。
ダンは寝台へ戻った。
看守が自分の言葉で動いたことへ、勝ったという感覚はなかった。
以前なら、この程度の医療確認を規則へ組み込めた。
だが、実際の収容者が発作を起こすまで、それを必要と考えなかった。
制度を作った時、彼が見ていたのは逃走、証拠、連絡、国家の安全だった。
房の中で一人ずつ息をする人間ではなかった。
翌朝、最初の聴取ではなく、取引のための役人が来た。
四十歳ほどの男で、裁判所の法服ではなく政府書記官の濃紺の上着を着ている。扉は開けられたが、男は房へ入らず、入口の外へ椅子を置いて座った。
兵士が左右に立つ。
ダンは机の側から動かなかった。
「名前と役職を。」
男は膝の上の書類を開いた。
「政府調整局の書記官です。」
「個人名を。」
「今回の面談には必要ありません。」
「後で発言の責任を問えないようにするためですか。」
書記官は表情を変えなかった。
「協力者へ、証言内容を再確認する機会を与える準備があります。」
「私に?」
「あなたではありません。」
男は紙を一枚めくった。
「老書記、元補佐官、食料商人。三名とも、秘密拘束所への関与を認めています。供述の一部を訂正すれば、処分を軽減できる。」
ダンは書記官を見た。
「誰の供述を、どの方向へ訂正させる。」
「あなたが印章を受け取った場面、秘密拘束を命じた場面について、記憶違いがあったと認めさせます。」
「なぜ、政府が私に有利な訂正を求める。」
書記官の指が紙の端を揃えた。
「あなたを救うためではありません。」
「では?」
「秘密拘束所が政府全体の運用だったと認められると、過去の判決が多数無効になる。あくまで一部の実務者が独断で規則を逸脱し、記録管理を怠った事件として処理する必要があります。」
ダンの口元へ、冷たい笑みが浮かびかけた。
「私個人の犯罪として処理するため、私に不利な証言を撤回させる?」
「あなたへ命令されたという部分を弱め、三人自身の責任を増やします。」
「結果として、私の罪も軽くなる。」
「暗殺事件への関与は別に残ります。」
「立証できていない。」
「世論は、既に関与を疑っています。」
「世論を証拠へするのか。」
書記官は紙から目を上げた。
「証拠ではありません。判決後の秩序を考慮する材料です。」
ダンは椅子へ座った。
「三人へ何を提示した。」
「老書記には、管理責任のみを認めれば釈放。元補佐官には、印章を紛失した過失へ罪を限定。商人には、秘密搬入の代金を返還すれば取引資格を維持する。」
「全員、受け入れなかったのか。」
書記官は返答する前に、紙を閉じた。
その間だけで答えは分かった。
「老書記は、証言を変える理由がないと。」
「元補佐官は?」
「最初の虚偽を含め、記録された通りでよいと。」
「商人は。」
「取引資格を失っても、家族へ同じ秘密を残すよりよいと。」
ダンは視線を机へ落とした。
商人が取引を捨てるとは考えていなかった。
利益と家族の安全を最優先し、状況に応じて政権側を選ぶ男だった。
だからこそ、ダンは信用していた。
忠誠ではなく、利害が一致する限り裏切らないという意味で。
その商人が、取引を失う方を選んだ。
「私を憎んでいるからではない。」
書記官は、ダンの独り言へ返さなかった。
「助けても、次に切られると思っている。」
「そのような発言をした者もいます。」
「誰が。」
「個別の供述内容は伝えられません。」
ダンは顔を上げた。
「先ほどまで証言を変える取引を持ちかけておいて、秘密を守るのか。」
「あなたの反応を確認するためです。」
「では、確認できたでしょう。」
「何が?」
「私には、証言を変えさせられる人間が残っていない。」
書記官は沈黙した。
それを否定しないことが、最も明確な確認だった。
ダンは背もたれへ身体を預けた。
「政府は、私から何を望んでいる。」
「秘密拘束所の全記録。関係した役人。過去に証言を整えた事件。未記載の移送先。」
「差し出せば?」
「裁判で協力が考慮されます。」
「死刑が禁錮へ変わる?」
「保証はできません。」
「ならば、ただの自白だ。」
「真実を明らかにする機会です。」
ダンは小さく息を吐いた。
「昨日まで真実を待てず、犯人を必要としていた政府が、今日は随分と敬虔ですね。」
書記官は言い返さなかった。
「考える時間を与えます。」
「期限は。」
「次の聴取まで。」
「その日付は。」
「未定です。」
「期限になっていない。」
「状況が動いています。」
書記官が立ち上がった。
ダンは、その言葉を拾った。
「何が起きた。」
「拘留中のあなたへ伝える必要はありません。」
「ジャンか。」
書記官の肩が僅かに止まった。
ダンは続けた。
「マルス銃撃だけなら、状況が動いているとは言わない。コラソンが捕まったなら、私への取引内容も変わる。政府が急ぐのは、別の軍事問題だ。」
書記官は扉へ向かった。
「面談を終えます。」
「ジャンの名を使ったクーデターが増えたのですね。」
男は振り返らなかった。
兵士が扉を閉め、鍵を掛けた。
その日の夕刻、若い看守が食事を運んできた。
小窓を開けた時、廊下の奥から別の役人たちの会話が漏れた。
「西の行政庁も落ちた。」
「本人の停止命令は届いている。」
「届いた後で軍事法廷を作ったそうだ。ジャンは裁判を経ろと言った、だから裁判したと。」
「南西の部隊は?」
「中央政府への合流を拒否。東では、復活王朝の残党を処刑した。」
ダンは小窓へ近づいた。
看守は会話が聞かれたことに気付き、器を押し込んですぐ閉めようとした。
「待ちなさい。」
看守の手が止まる。
「報告書を見せてください。」
「できません。」
「内容を聞いた。機密は既に失われている。」
「それでも、書面は渡せません。」
「ジャン本人が命じたのか。」
看守は目を伏せた。
「命じていないと聞いています。」
「ならば、彼を逮捕しても止まらない。」
看守は小窓越しにダンを見た。
「なぜです。」
「命令を受けて動いているのではなく、自分の行動をジャンの命令だと思い込んでいるからです。本人が否定しても、遠回しな承認だと解釈する。」
「では、どうすれば。」
ダンは反射的に答えようとした。
指揮官を個別に拘束し、通信路を切り、印章と資金を押さえ、各部隊へ別々の恩赦を提示する。ジャンの名を使うことを罪にせず、具体的な占拠、処刑、武器移動だけを裁く。全員を一つの反乱へまとめれば、互いに仲間だと認識して本当に連携するため、事件を細分化しなければならない。
頭の中では、既に手順が組み上がっていた。
「紙と筆を持ってきてください。」
看守の顔が強張った。
「許可されていません。」
「政府へ提案書を送る。」
「外部連絡になります。」
「反乱を止められる。」
「私には判断できません。」
ダンは扉へ掌を当てた。
「管理官を呼べ。」
「今は会議中です。」
「その会議で、何人拘束するか決めている間にも、別の町が落ちる。」
看守は迷った。
昼間、自分の判断で医師を呼んだ男である。
しかし今回は、収容者へ紙を与えることになる。規則違反として処罰される可能性が高い。
「内容を口頭で伝えます。」
「あなたが覚えられる量ではない。」
「侮辱するのですか。」
「違う。法的な区分、部隊ごとの恩赦条件、通信遮断の順序を、口頭で正確に運べる人間はいない。」
「それなら、管理官へ直接話してください。」
「呼べと言っている。」
看守は小窓を閉めず、廊下の奥を見た。
その時、管理官自身が現れた。
手には二枚の報告書がある。
「何の騒ぎです。」
看守が事情を説明するより先に、ダンが言った。
「ジャンの名で起きている占拠を止める方法があります。」
管理官の表情が硬くなった。
「あなたは収容者です。」
「法官でもある。」
「職務を停止されています。」
「知識まで停止されたわけではない。」
管理官は小窓の前へ立った。
「提案を外へ出せば、政府へ影響力を行使したと見なされます。」
「反乱を止める提案が?」
「内容が正しいか、こちらでは判断できません。」
「だから政府へ送る。」
「許可できません。」
ダンは扉から手を離した。
「私が命令権を持っていた時には、誰も判断できないと言わなかった。」
「あなたが判断したからです。」
「今は、判断する者がいないのか。」
管理官は報告書を折った。
「いるでしょう。」
「ならば、なぜクーデターが増えている。」
言葉が扉の両側へ残った。
管理官は怒らず、疲れたように目を伏せた。
「ダン。あなたの言う方法が正しくても、今それを受け取れば、政府はあなたが拘留所から政治を動かしていると疑われる。」
「疑われるから、国を壊す?」
「あなたは、何度も同じ選択をした。」
ダンの眉が寄った。
「何の話です。」
「正しい証言でも、出せば政府の信用を損なうから隠した。無実の可能性があっても、釈放すれば暴動が起きるから裁いた。今度は政府が、あなたの正しい提案を使えば信用を失うと考えている。」
「私と反乱鎮圧は別だ。」
「拘留された者は、皆そう言いました。」
管理官は看守へ、小窓を閉じるよう合図した。
ダンは最後に問いかけた。
「あなたは、反乱が広がっても構わないのか。」
管理官は扉から離れながら答えた。
「構いませんとは申しません。ただ、あなたへ権限を戻す方が恐ろしい者が多い。」
小窓が閉じた。
夕食の器だけが、暗い房の中へ残された。
ダンは机へ座った。
紙も筆もない。
頭の中には、クーデターを細分化し、ジャン本人から軍を切り離し、各部隊へ別々の命令系統を作る手順がある。
それを外へ出す道だけがない。
金を渡せる看守もいない。
脅せる家族の情報もない。
恩を返すと約束して動く協力者も残っていない。
法は知っている。
政府の弱点も、軍の動きも、群衆がどの言葉へ反応するかも分かる。
それでも、誰も彼の言葉を運ばなかった。
翌朝、看守が交代する時、廊下の奥で新しい報告が読み上げられた。
北西で地方責任者が殺され、ジャンを新政府の代表とする布告が出た。
南部の別の町では、その布告に反対した兵が、同じジャンの名を掲げて役所を奪い返した。
互いに敵対する二つの勢力が、同じ人間の名を使って戦っている。
ダンは扉の内側から静かに言った。
「一人の反乱ではない。名前を奪い合う戦争になる。」
若い看守が足を止めた。
「ジャン本人は、どうするのでしょう。」
「止めに行く。」
「止められますか。」
ダンは窓の細い光を見上げた。
「一つ止める間に、二つ増える。」
「それでは、誰が止めるのです。」
ダンは答えなかった。
自分なら止められるとは、もう言わなかった。
止める手順を知っていても、それを実行する者から信じられていなければ、知らないことと同じだった。
同じ時刻、革命政府ではロベルトが相次ぐ占拠報告を読み、南部ではラファエルが軍の移動図へ新たな印を加え、国境ではアーセンがジャン軍の拡大によって補給線が脅かされる範囲を計算していた。
レオンもまた、革命軍を名乗りながら中央の命令を拒む部隊の一覧を作らせていた。
四人は、互いに連絡を取っていない。
同じ解決策を望んでもいない。
それでも、同じ結論へ近づいていた。
ジャン本人が反乱を命じていないなら、本人を説得するだけでは止まらない。
ジャンの名を使って動く軍隊を、先に動けなくしなければならない。
処刑を待つ区画の中で、ダンだけが、その結論を誰より早く理解していた。
だが、理解していることを証明する相手も、伝える相手も、既に残ってはいなかった。
ジャンの名で最初に発せられた停止命令は、南部の本営を離れて二つ目の町へ届くまでに、文面の半分を失っていた。
原文には、行政庁を占拠してはならないこと、裁判を経ずに役人や王党派を殺してはならないこと、ジャンを政府の代表や軍の最高指導者として宣言してはならないこと、中央政府の命令を拒む場合にも住民へ武器を向けてはならないことが記されていた。だが、馬を替えた宿場では、長過ぎる命令文を一晩で複写できないという理由から、書記が要点だけを抜き出した。
行政庁を占拠してはならない、という一文は残った。
ジャンを政府の代表として宣言してはならない、という部分も残った。
しかし、その間に書かれていた裁判や住民保護の文言は、紙面へ収まりきらないとして削られた。
次の町では、地方将校が文面を読み、自分たちが既に役所を占拠していることへ顔を曇らせた。彼は部下へ撤収を命じる代わりに、占拠という言葉を臨時保護へ書き換えた。
役所を奪ったのではない。
反革命分子から行政機能を守るため、一時的に保護している。
ジャンを政府の代表へ置いたのではない。
正式な決断が下されるまで、民衆の期待を象徴する保護者として名を掲げているだけである。
書き換えられた命令書は、その解釈を添えられて次の部隊へ送られた。
その部隊では、ジャンが露骨に政権を取れば中央政府から反逆者と見なされるため、慎重に遠回しな指示を出しているのだと理解された。
拒絶は謙虚さへ変わった。
停止命令は、忠実な支持者だけが読み取れる秘密の承認へ変わった。
ジャンがその事実を知ったのは、最初の命令を出してから半日も経たない頃だった。
夜明け前に本営を出た彼は、馬を二度替え、昼を過ぎた頃に西方の行政都市へ到着した。街道沿いには、復活王朝軍との戦闘から戻った兵士と、勝利を祝う市民が並び、泥と血に汚れたジャンの姿を見つけるたび、帽子を掲げて歓声を上げた。
――彼は一度も手を振らなかった。
歓声へ応えれば支持を認めたと受け取られ、無視すれば民衆を試しているのだと解釈される。どちらを選んでも、自分の意図とは別の物語へ使われるため、前方だけを見て馬を進ませた。
行政庁の前には、地方兵が二列に並んでいた。
中央政府の旗は降ろされていない。その下へ南部防衛軍の色と、誰かが夜のうちに作ったジャンの肖像旗が掲げられている。似顔絵は本人より若く、傷も疲労もなく、片手には剣、もう一方には折れた王冠を持っていた。
ジャンは馬から降りると、その旗へ一度だけ目を向けた。
迎えに出た地方隊長は、三十代半ばの痩せた男で、肩の軍章だけが新しい。戦闘で名を上げたのではなく、昨日までの上官を追放し、部隊の支持によって隊長へ選ばれたのだろう。
男は敬礼しようとした。
ジャンは腕を上げる前に遮った。
風に揺れる肖像旗の圧迫感を背に受けながら、ジャンは言い含めるように命じた。
「役所へ掲げるものではない、直ちに下ろしなさい。私一人の勝利などという嘘を市民へ植え付けるな。追放した評議員を戻し、お前たちの部隊だけで裁かない手続きを敷くのが先だ」
英雄へ消費されることへの怒りを孕んだ拒絶に、隊長は視線を逸らして手を止めた。
隊長の背後で、地方兵たちの姿勢が僅かに固くなった。
「評議員の中には、復活王朝へ内通した者がいます。」
「証拠は?」
「町の鐘が鳴らなかったのは、王朝軍との連携に失敗したからです。」
「鐘が鳴らなかったことが、内通の証拠なのですか。」
「鐘楼の管理者は、評議会から任命されております。」
「管理者が命令を受けた証拠を尋ねている。」
隊長は口を閉じた。
ジャンは役所の階段を上がった。
入口の扉には銃弾の痕が残り、敷石には乾き始めた血が細い筋を作っている。占拠の際に撃たれた者がいたのだろう。
「死者は?」
隊長はジャンの後ろから答えた。
「二名です。一人は警備兵、もう一人は評議員の書記でした。」
「抵抗した?」
「警備兵は銃を抜きました。書記は記録を焼こうとしたため、止めようとした者ともみ合いになり……」
「撃ったのですね。」
「意図した処刑ではありません。」
ジャンは階段の途中で振り返った。
「意図していなければ、生き返りますか。」
隊長の頬が引き攣った。
その背後で兵士の一人が、ジャンへの侮辱だと受け取ったのか、若い隊長を庇うように前へ出ようとした。隣の兵が袖を引き、止める。
ジャンは役所の中へ入った。
議場は机を端へ寄せられ、中央へ臨時の指揮卓が置かれている。追放された評議員たちは地下の倉庫へ閉じ込められ、昨日まで税務記録を扱っていた書記たちが、軍の配給表を書かされていた。
壁には、新しい布告が貼られている。
南部臨時評議会。
ジャンの勝利を守るため、腐敗した行政を停止し、民衆と兵士から新たな代表を選出する。
「これを作ったのは誰です。」
隊長は一瞬迷い、自分を指した。
「私が草案を書きました。」
「私の許可を得た?」
「時間がありませんでした。」
「ならば、なぜ私の名が入っている。」
「民衆をまとめるためです。」
「私の名がなければ、誰も従わなかった?」
隊長は反論しようとしたが、言葉を見つけられなかった。
ジャンは布告を壁から剥がした。紙の下部には、役所を占拠した兵士だけでなく、商人、職人組合、聖職者の署名まで並んでいる。
一部は脅されて書いたのかもしれない。
だが、全員が反対していたとも思えなかった。
中央政府に不満を持ち、復活王朝を恐れ、ジャンの勝利へ新しい秩序を期待した者が、自分から署名したのだろう。
「これを全て撤去してください。」
隊長の声が低くなった。
「評議員を戻せば、再び王朝軍へ門を開くかもしれません。」
「それなら監視し、証拠を集め、裁判へ出してください。」
「裁判所はダンに握られていた。そのダンも今は拘束されている。誰へ渡せというのです?」
「だから、自分たちで役所を取ったのですか。」
「他に、守る者がいなかった!」
隊長の声が議場へ響いた。
地方兵たちが入口で息を詰める。
男は一度、自分の声量に驚いたように目を伏せたが、すぐジャンを見返した。
「王朝軍は門の外まで来た。中央政府から届いたのは、勝手に戦うなという命令だけでした。武器も食料も送られず、兵を出せば反逆と見なすと言われた。それでも我々は戦い、守った。終わった後で役所へ戻れば、昨日まで何もしなかった者たちが、また命令だけを出す。それを受け入れろと?」
ジャンは布告を手にしたまま、男の荒い呼吸を見た。
欲望だけで政権を取った者ではない。
恐怖と失望が先にあり、その後へ勝利が与えられた。
自分たちだけで守れたという経験が、中央へ従う理由を失わせた。
「受け入れろとは言っていません。」
ジャンは声を荒らげなかった。
「追放した評議員を戻し、兵を役所から出す。その後で、市民の前へ証拠を出してください。内通していた者がいるなら、臨時の審理を設けてもよい。ただし、あなたの部隊だけで裁かない。」
「誰を加えるのです。」
「職人組合、商人、聖職者、兵士、評議員。互いに一人ずつ出す。」
「それでは、結論が出るまで時間が掛かる。」
「人を殺した後で間違いに気付くよりは短い。」
隊長は唇を噛んだ。
ジャンは剥がした布告を卓上へ置いた。
「今夜までに兵を退かせてください。従わなければ、私自身がこの占拠へ反対したと町中へ知らせます。」
「それをすれば、あなたを信じて戦った兵が裏切られたと感じる。」
「私を信じたから役所を取ったのなら、私がやめろと言えばやめられるはずです。」
隊長の目に、痛みに似たものが浮かんだ。
「あなたは、我々が何を信じたか分かっていない。」
「では、教えてください。」
「命令ではありません。」
男は拳を握った。
「誰も守らなかった時、あなたは戦場から逃げなかった。兵士だけでなく、町の職人や船頭の判断を認めた。中央から命じられた通りに動くのではなく、自分の責任で守れと言った。だから我々も、自分の責任で役所を取りました。」
ジャンは返答を失いかけた。
自分が兵へ与えた判断の自由が、行政庁を占拠する自由へ拡張されている。
戦場では正しかった。
橋を知る者へ橋を任せ、川を知る者へ渡河阻止を任せなければ、復活王朝軍へ勝てなかった。
だが、敵が退いた後にも同じ自由を保てば、それぞれが自分の町で政府を作り始める。
「戦場で判断することと、国の形を決めることは同じではありません。」
「中央政府は、その違いを使って我々から武器を取り上げる。」
「武器を手放せとは言っていない。」
「今日は、役所から出ろ。明日は、町から出ろ。その次は、銃を置けと言うでしょう。」
「私が?」
「あなたが言わなくても、政府が言います。」
ジャンの瞼が重く落ちた。
男はジャンと話しているようで、実際には中央政府への不信を彼へぶつけている。ジャンがどれほど否定しても、背後にある恐怖までは消せない。
「では、今日の話だけをしましょう。」
ジャンは卓上へ両手を置いた。
「今夜までに兵を役所から退かせる。評議員を地下から出す。内通の疑いがある者は、複数の集団から選んだ審理人へ渡す。武器は部隊が保持してよい。ただし、町の出入口へ向け、住民や評議員へ向けない。」
隊長は暫く黙っていた。
「それが、あなたの命令ですか。」
「私の要求です。」
「命令ではない?」
「私は、あなたの正式な上官ではありません。」
隊長の口元が、苦く歪んだ。
「それでも、我々は従う。」
「私に忠実だからではなく、人を殺し続けないために従ってください。」
ジャンの言葉に、隊長は答えなかった。
彼の沈黙は同意ではなく、従う理由まで指定されることへの反発だった。
ジャンが役所を出た時には、日が傾き始めていた。
本来なら本営へ戻るべきだったが、東の町から新たな使者が来ていた。
ジャンの命令に従い、役所を占拠しなかった部隊が、代わりに即席の軍事法廷を開いたという報告だった。
裁判を経ずに殺すな。
その一文を忠実に守り、兵士三人を審理人とし、一人ずつ五分の弁明を認め、復活王朝への協力者を処刑している。
「何人です。」
ジャンは馬へ乗る前に尋ねた。
使者は息を整えられず、膝へ手を置いた。
「既に七人。次の審理が始まっています。」
「止める命令は?」
「届きました。」
「届いた後で?」
「隊長は、あなたが裁判を求めたため、正式な手続へ改めたと……」
ジャンは馬の手綱を握ったまま動かなかった。
側近の青年が、彼の横顔を見上げた。
「夜になります。東までは馬を替えても三刻以上です。」
「七人死んでいる。」
「今から向かっても、到着前に審理は終わります。」
「ならば、伝令を先に出す。」
「もう二人出しました。」
「別の道からも。」
青年は言い返さず、三人目の伝令を呼んだ。
ジャンは自分の馬へ乗った。膝へ力を入れた時、腿の筋肉が一瞬だけ痙攣し、鐙から足が外れかける。
側近が馬の首へ手を伸ばした。
「昨夜から、横になっておりません。」
「馬上で休んでいます。」
「眠っていないでしょう。」
「今は、その話をしている場合ではない。」
「いつなら、その話ができます。」
ジャンは青年へ顔を向けた。
側近は怯まなかった。
「西の役所を止める間に、東で法廷が始まった。東へ向かう間に、また別の町が動きます。あなたが全てへ直接行けば、眠れないだけでは済みません。」
「行かなければ、人が死ぬ。」
「行っても死んでいます。」
言葉は冷酷だったが、青年の目には涙に近い焦りがあった。
――彼はジャンを責めているのではない。
このまま動けば、目の前で倒れることを恐れている。
ジャンは手綱を緩めなかった。
「では、どうしろと?」
青年は答えを用意していなかった。
休めと言っても、その間に処刑が起きる。
指揮を他人へ任せれば、その者がジャンの名を使って新しい命令を出す可能性がある。
「一刻だけでも本営へ戻り、書記と命令系統を整えてください。」
「今出した命令さえ、別の意味へ変えられています。」
「だから直接行く?」
「少なくとも、顔を見れば言い逃れはできない。」
側近は手を下ろした。
「顔を見た者ほど、あなたの本意を勝手に理解したと思い込みます。」
ジャンの眉が僅かに動いた。
西の隊長もそうだった。
命令を聞いたのではなく、戦場で見たジャンの姿から、自分たちが望む思想を読み取った。
「それでも行きます。」
ジャンは馬を東へ向けた。
「私が止められる間は、止める。」
側近は自分の馬へ乗りながら、小さく息を吐いた。
「止められなくなった後は?」
ジャンは答えなかった。
東の町では、広場へ木製の卓が三つ並べられていた。
中央の卓には軍事法廷の審理人が座り、左右には書記と護衛兵が付いている。被告は一人ずつ前へ立たされ、罪状を読まれた後、五分だけ弁明を許される。
形式だけを見れば、裁判を経ずに殺してはいない。
証拠も提出され、証人もいる。
だが証人の大半は、処刑されたくなければ隣人の名を出せと迫られた者だった。
審理人の一人である中年の兵士は、証言の食い違いへ疑問を持っていた。だが他の二人が、非常時に完全な証拠を求めれば反逆者を逃すと主張し、判決は多数決で決められている。
八人目の被告は、王朝軍へ干し肉を売った商人だった。
男は両手を縛られ、卓の前へ立たされている。革命軍にも同じ商品を売ったと訴えたが、王朝軍へ食料を供給した事実は消えない。
「私は、来た兵へ売っただけです。旗を選べる立場ではありませんでした。」
審理人の若い兵士が紙を叩いた。
「拒めばよかった。」
「拒めば、店を奪われます。」
「国を売るより、店を失う方がましだろう。」
「家族がいます。」
「皆、家族を理由に裏切れば国は残らない。」
商人の妻が群衆の端で泣き、子供の口を押さえていた。
中年の審理人は、二人の同僚を見た。
「王朝軍が武力で買い上げた可能性を調べるべきだ。」
「本人が代金を受け取ったと認めている。」
「受け取らなければ、略奪として処理されるだけだ。」
「結果として敵軍を助けた。」
若い兵士は、ジャンの停止命令を掲げた。
「裁判を経ずに殺すなとある。だから我々は調べ、本人にも話させている。」
中年の兵士は、紙に書かれた肩書のない署名を見た。
ジャン。
その一語が、裁判の正当性を支える印章として扱われている。
広場の入口から馬の蹄が響いた。
ジャンが到着した時、八人目の判決が読み上げられる直前だった。
馬から降りる動作が遅れ、側近が鐙を押さえた。ジャンは礼を言う余裕もなく、群衆を割って卓へ向かった。
「判決を止めてください。」
若い審理人が立ち上がった。
驚きの後、顔へ喜びが浮かぶ。
「ジャン! ご安心ください。あなたの命令通り、裁判を設けました。」
「これは裁判ではありません。」
喜びが消えた。
「証人も、記録も、弁明もあります。」
「弁護人は?」
「非常時です。」
「証人へ反対質問をした者は?」
「審理人が確認しています。」
「三人のうち二人が有罪を前提に質問して、何を確認したのです。」
若い兵士の頬が赤くなった。
「では、反革命分子を放置しろと?」
「そうは言っていません。」
「また、それですか。」
兵士は卓の上の命令書を握った。
「役所を取るな。裁判をしろ。住民へ武器を向けるな。しかし敵へ食料を売った者を捕らえれば、今度は裁判ではないと言う。では、我々に何ができます?」
ジャンは、既に処刑された七人の名簿を見た。
罪状は内通、食料供給、王党派の布告所持、鐘楼への侵入、政府役人への暴行。
確かな罪も混じっているかもしれない。
だが、同じ手続で全員が処刑されているため、一人ずつの事実を見分けられない。
「この法廷を閉じてください。」
「代わりの法廷は?」
「作ります。」
「誰が?」
ジャンは答えに詰まった。
ダンは拘留され、革命裁判所は内部調査で動けない。ロベルトの政府へ送れば、地方兵は中央による報復と受け取る。通常の地方裁判所は、役人を追放された町で機能していない。
「決まるまで、被告を拘留する。」
「逃げます。」
「逃げない場所へ置いてください。」
「仲間が救出に来ます。」
「その時は守る。」
若い兵士の手が震えた。
「あなたは簡単に言う。守るための兵は我々です。食料を出すのも、夜通し見張るのも、反撃されて死ぬのも我々だ。それでも最後には、勝手に殺したと責められる。」
ジャンは男の疲れた目を見た。
この者も、ここ数日眠っていないのかもしれない。
恐怖の中で捕らえた者をどう扱えばよいか分からず、処刑すれば安全になると信じようとしている。
「責めます。」
ジャンは静かに言った。
若い兵士の表情が固まった。
「人を殺す判断をしたなら、責められることから逃げてはいけない。正しかったとしても、疑われ、調べられ、説明を求められる。それが嫌なら、処刑を選ばないでください。」
「あなたも戦場で人を殺した。」
「だから、正しかったと言い張るだけで済ませてはいません。」
「誰が、あなたを裁いた?」
言葉がジャンへ刺さった。
戦場の勝者である自分は、まだ誰にも裁かれていない。
兵を動かし、町へ戦場を引き込み、結果として多くの者を死なせた。その判断を、人々は勝利と呼び、責任を問う代わりに旗へした。
「まだ、誰も。」
ジャンは答えた。
「だから、私の名を裁判の根拠へ使わないでください。」
若い兵士は命令書を見下ろした。
「では、あなたも我々と同じです。」
「同じです。」
ジャンは否定しなかった。
「だからこそ、私が言えば正しくなるとは考えないでください。」
中年の審理人が、ゆっくり椅子から立った。
「審理を停止する。」
若い兵士が振り向いた。
「しかし――」
「このまま続ければ、我々はジャンの名を使っただけの処刑人になる。」
「敵を逃がすのか。」
「拘留する。審理人を増やし、町の代表も入れる。」
中年兵は商人の縄を切らせず、護衛へ房へ戻すよう命じた。
判決を待っていた群衆から、不満と安堵の入り混じる声が上がる。
処刑を望んでいた者もいれば、次に自分が告発されることを恐れていた者もいる。
ジャンは卓へ手を置いた。
指先の感覚が薄く、木の硬さが遠く感じられた。
側近が近づき、耳元で囁いた。
「本営から、また使者です。」
「どこで。」
「南西です。駐屯隊が中央政府の武器庫を押さえました。」
ジャンは目を閉じかけ、すぐ開いた。
「理由は?」
「中央へ返せば、南部の防衛が解体されると。あなたが露骨には命じられないから、先に確保したと主張しています。」
若い審理人が、その会話を聞いていた。
「ほら、皆が同じことを考えている。」
ジャンは男へ顔を向けた。
「同じではありません。」
「あなたの勝利を守ろうとしている。」
「それぞれが、自分の望みを守っているだけです。」
ジャンは卓から手を離した。
身体を支えるものがなくなり、僅かにふらつく。側近が肘を掴んだ。
「休んでください。」
「南西へ伝令を。」
「出します。あなたは、ここで横になってください。」
「横になる場所は。」
「どこでもよいでしょう!」
側近の声が広場へ響いた。
周囲の兵と市民が、一斉に二人を見る。
青年は息を呑み、声を落とした。
「あなたが立っている限り、皆が次の命令を待つ。倒れるまで動けば、倒れた後には、あなたを救うという名目でさらに軍が動きます。」
ジャンの瞳が僅かに揺れた。
「ならば、倒れない。」
「そういう話をしているのではありません。」
「分かっています。」
「分かっていない。」
側近は肘を離さなかった。
「あなたは、止めに行くことだけを責任だと思っている。ここで休み、明日も止められる身体を残すことも責任です。」
ジャンは広場の端を見た。
処刑を免れた商人の妻が、子供を抱き締めている。その背後では、既に七人の遺体が荷車へ積まれていた。
一刻休んでいれば、八人目も死んだかもしれない。
その事実が、側近の正しさを押し退ける。
「半刻だけ。」
ジャンはようやく言った。
青年の肩から僅かに力が抜けた。
「寝台を用意します。」
「使者への返答を書いてからです。」
「半刻が、また消えます。」
「短くします。」
ジャンは役所の一室へ入り、机へ座った。
書記が紙を置き、彼の言葉を待つ。
武器庫を占拠するな。
中央へ引き渡す前に、町の代表と在庫を確認せよ。
武器を持ち出さず、他部隊へ配らず、守備以外へ使用するな。
ジャンは一文ずつ口にした。
書記が最後まで書き終えた時、彼は署名欄へ目を向けた。
「肩書は?」
ジャンは目を閉じたまま答えた。
「何も付けないでください。」
「前の命令は、権威が弱いと無視されました。」
「肩書を付ければ、政権を取ったと利用されます。」
「それでも、命令として届かなければ意味がありません。」
ジャンは目を開いた。
「では、これは命令ではなく、私の意思だと書いてください。」
書記は戸惑った。
「意思に従う義務はないと解釈されます。」
「従う義務があると思った者たちが、ここまで増やしたのです。」
署名だけを記し、使者へ渡した。
ジャンは寝台へ横になるため隣室へ移ったが、外套も靴も脱がなかった。側近が毛布を掛け、灯りを落とす。
――彼は目を閉じた。
すぐに西の役所、処刑された七人、南西の武器庫、各地へ散った命令書が浮かぶ。
誰かが文面を削っている。
誰かが拒絶を承認へ変えている。
誰かが今も、自分の名を掲げて人を捕らえている。
半刻を知らせる前に、彼は身体を起こした。
「まだ、十分も経っていません。」
側近が椅子から立った。
「眠れない。」
「横になっているだけでも――」
「使者が来た。」
「来ていません。」
「馬の音がした。」
側近は窓を開けた。
通りを走ったのは使者ではなく、夜警の騎兵だった。
ジャンは自分の呼吸を整えようとした。
音を聞き違えている。
目の奥が熱く、頭痛が脈に合わせて強くなる。
「もう一度、横になってください。」
「本営へ戻る。」
「今夜は、ここに。」
「報告が分散する。」
「集めさせます。」
「誰が判断する。」
側近は答えられなかった。
その沈黙を、ジャンは休んではいけない理由として受け取った。
同じ頃、ラファエルの本営には、ジャンが一日の間に西と東の二都市を移動し、行政庁の占拠と軍事法廷を止めたという報告が届いていた。
卓上には、ジャンの名で動いた部隊の位置が赤い印で示されている。
印は一つの戦線を作らず、各地へ散らばり、町と武器庫、橋、役所を個別に押さえていた。
副官は地図を見下ろしながら言った。
「本人が止めて回っています。こちらから攻めなければ、時間は掛かっても収束するのではありませんか。」
ラファエルは返答せず、報告書の時刻を順番に並べた。
夜明け前に南部本営。
昼過ぎに西方行政都市。
夜には東の軍事法廷。
その間にも、複数の命令書へ署名している。
「眠った記録がない。」
「移動中に休んでいる可能性は。」
「馬を三度替えている。伝令と同じ速度だ。」
ラファエルは、地図上のジャンの推定経路を指で追った。
「本人を放置すれば、収束する前に倒れる。」
「倒れれば、軍も止まるでしょう。」
「逆だ。」
ラファエルは副官へ顔を向けた。
「救出、復讐、遺志の継承。その三つを理由に、今より多くの部隊が動く。」
「では、ジャンを保護するのですか。」
「こちらが捕らえれば、我々も同じだ。軍は奪還を叫ぶ。」
「殺すこともできない。」
「殺す必要はない。」
ラファエルは、散らばる赤い印の周囲へ黒い線を引いた。
「外へ動けなくする。」
副官が線の形を見た。
「包囲ですか。」
「本人を攻めるのではない。ジャンの名で移動する部隊を止め、補給を一箇所へ集め、他の町へ手を出せなくする。」
「長期戦になります。」
「急げば、こちらが反革命軍に見える。ジャンを倒すためではなく、各地のクーデターを止めるためだと示す必要がある。」
「中央政府と協議しますか。」
ラファエルの口元が僅かに硬くなった。
「ロベルトは、ジャンを拘束すれば責任を押し付けられると考える。だが政府軍だけで包囲すれば、南部全体が敵になる。」
「ならば、誰と。」
ラファエルは地図の国境側へ視線を移した。
そこにはアーセン軍の後退地点が記されている。
さらに首都側には、レオンが再編している革命軍の印があった。
「協力はしない。」
「しかし三方向から動かなければ、逃げ道が残る。」
「彼らも、同じ理由ではないが動く。」
その推測は、既に現実となり始めていた。
アーセンは、ジャン軍の一部が国境沿いの倉庫へ入り、自国へ向かう輸送路から麦と馬を徴発した報告を受けていた。
徴発した部隊は、ジャンの命令で国境を守っていると主張している。
ジャン本人の署名はない。
それでも、放置すれば次は国境を越える可能性がある。
参謀が、再攻勢には早いと進言した。
「先の損害から、工兵と馬が戻っていません。正面からジャン軍へ向かえば、また土地全体を敵に回します。」
アーセンは損耗表ではなく、奪われた物資の一覧を見ていた。
麦、乾燥肉、蹄鉄、薬草、車軸。
「正面からは行かない。」
「では、国境を閉じるだけですか。」
「向こうが閉じる前に、こちらが道を押さえる。」
「ジャン本人を狙うので?」
「今は、所在も定まっていない。」
アーセンは、ジャンが各地へ移動している報告を横へ並べた。
「軍の指揮官が、町ごとの争いを止めるため走り回っている。あれは軍隊ではない。一人の移動で繋がっている複数の反乱だ。」
「本人を捕らえれば崩れると?」
「以前は、捕らえても止まらないと判断した。」
「今は違うのですか。」
「止まらなくてよい。」
アーセンは国境の退路へ指を置いた。
「一つの軍として動けなくなれば、それで足りる。」
首都側では、レオンが革命軍の兵籍簿を机へ広げていた。
ジャンの名を掲げた部隊の中には、元革命軍の兵士が多数含まれている。彼らは除隊も反乱宣言もせず、南部共同防衛へ参加した後、そのまま中央の命令を拒んでいた。
若い将校が、彼らを反逆者として除籍する案を出した。
レオンは紙を閉じた。
「除籍すれば、完全にジャンの軍になる。」
「既に、こちらの命令を聞きません。」
「聞かないことと、戻れないことは違う。」
「では、恩赦を?」
「まだ罪名を決めていない者へ、恩赦は出せない。」
「役所を占拠し、武器庫を奪っています。」
「全員ではない。町を守っただけの部隊も混じっている。」
レオンは、部隊ごとの行動を区別した一覧へ目を通した。
「ジャンを支持しているという理由だけで一つにまとめれば、こちらがあの軍を完成させる。」
「しかし、中央へ戻らせるには力が必要です。」
「だから、包囲する。」
将校の目が動いた。
「ラファエルと連携するのですか。」
「しない。」
「アーセンも動いています。」
「それでも、しない。」
レオンは首都から南部へ続く武器輸送路へ印を付けた。
「我々が取り戻すのは、革命政府の武器庫と通信路だ。ラファエルが何を守り、アーセンが何を奪うかは知らない。」
「三軍が同じ地域へ入れば、衝突します。」
「するだろう。」
レオンは淡々と答えた。
「だからこそ、ジャン軍は逃げにくくなる。」
夜明け前、ジャンは再び馬上にいた。
半刻の休息は眠りにならず、本営へ戻る途中にも二通の報告を読み、別の町へ命令を書かせた。
側近は隣を走りながら、何度も彼の姿勢を確認した。
背筋は伸びている。
手綱も握っている。
だが、目の焦点が時折遠くへ外れ、呼びかけへ返事をするまでの間が長くなっていた。
「本営へ着いたら、医師を呼びます。」
「必要ありません。」
「必要かどうかは、医師に決めさせてください。」
「医師は負傷者へ回す。」
「あなたが倒れれば、負傷者が増えます。」
ジャンは言い返さなかった。
街道の先に、南部本営の灯りが見え始める。
その周囲では、まだ誰も知らないまま、ラファエル軍の斥候が橋と街道を調べ、アーセン軍の先遣隊が国境側の補給路へ向かい、レオン軍が中央の武器庫を押さえるため進軍を始めていた。
三つの軍は、互いに命令を交わしていない。
ジャンを同じ意味で敵と考えてもいない。
ラファエルは、暴走する忠誠から国を守ろうとしていた。
アーセンは、国境と自軍の補給を守ろうとしていた。
レオンは、革命軍の指揮権を取り戻そうとしていた。
目的は異なっていた。
だが、三者が別々に動けば、ジャン軍の逃げ道は三方向から狭まる。
ジャンは本営へ入る直前、道端で馬を止めた。
遠方の丘に、昨日まではなかった小さな焚火が並んでいる。
友軍の合図ではない。
彼の側近も気付き、目を細めた。
「斥候を出します。」
ジャンは頷こうとした。
その瞬間、視界が暗く狭まり、馬上で身体が前へ傾いた。
側近が手綱を引き寄せ、肩を支える。
「ジャン!」
声を聞き、彼は辛うじて姿勢を戻した。
「眠っただけです。」
「馬の上で意識を失ったのです。」
「一瞬です。」
「その一瞬で、落馬して首を折る!」
側近の怒声に、本営の兵士たちが振り返った。
ジャンは支えられた肩を振り払わなかった。
振り払えるほど、腕に力が残っていなかった。
それでも、丘の焚火から目を離さない。
「誰の軍です。」
「分かりません。」
「ラファエルか、アーセンか、レオンか。」
「今は、どれでも同じです。」
側近はジャンの馬を自分の方へ引いた。
「あなたを休ませようとしている軍ではありません。」
ジャンは遠くの火を見つめた。
自分の命令を聞かない忠誠を止めるため、今度は自分の命令を必要としない軍隊が近づいている。
――彼は戦場で勝った。
だが、その勝利から生まれた軍を止めるための戦いは、本人が眠ることさえ許さないまま、既に始まりつつあった。
ラファエルが最初に閉ざしたのは、ジャンの本営へ直接通じる街道ではなかった。
南部の丘陵を縫うように走る幹線道路から外れ、麦畑と小村の間を抜ける細い荷車道へ、斥候と工兵を先に入れた。橋を壊さず、道も掘り返さず、ただ通過する荷車の積荷と御者の名を記録し、ジャンの名を掲げた部隊へ向かう物資だけを止める。
行商人の籠に隠された薬草。
農具に見せかけて束ねた槍の穂先。
空の樽の底へ詰められた火薬。
一見すれば家族の移動にしか見えない馬車の座席下に、折り畳まれた軍旗と命令書が入っていた。
ラファエルの兵は、その場で全員を拘束しなかった。
荷を没収し、氏名と送り主を聞き、通過させる者と戻す者を分ける。捕らえられた者が増えれば、ジャン側は道が塞がれたと直ちに気付く。最初は届くはずの荷だけを消し、包囲の輪郭そのものを隠す必要があった。
副官は、押収した荷物の一覧を持って本営へ戻った。
「北西の荷車道で火薬樽が二つ。東の農道では医薬品。南側の小橋からは、替え馬を三頭連れた男を止めました。」
ラファエルは卓上へ広げられた地図へ、細い黒線を一本加えた。
「食料は?」
「小麦が七袋、乾燥豆が四袋。ですが、いずれも軍の一日分にも足りません。」
「それでよい。」
副官は地図から顔を上げた。
「本営へ届く物資を完全に止めるのでは?」
「最初から止めれば、全軍が同時に徴発を始める。」
ラファエルは黒線の内側に散らばる村々を指した。
「少量だけ通す。届く部隊と届かない部隊を作り、自分たちだけ切り捨てられたと思わせる。」
「内部で争わせるおつもりですか。」
「争いを望んでいるわけではない。」
「ですが、結果としては同じでしょう。」
ラファエルの指が地図の上で止まった。
副官の声には非難ではなく、確認したくない事実を確かめる硬さがあった。
「包囲の外へ出れば、町を取る。内部へ物資を送れば、軍が増える。何もしなければ、ジャンが止めに走り続ける。」
ラファエルは目を上げた。
「最も死者が少ない選択をしたつもりだが、正しいとは言わない。」
副官は一覧を畳んだ。
「では、兵には何と説明します。」
「ジャン軍を飢えさせるためではなく、他の町へ動かさないためだと。」
「同じ意味に聞こえる者もおります。」
「その者には、そう聞こえるだろう。」
ラファエルは否定しなかった。
包囲は、攻撃しない戦闘ではない。
人間が必要とする食料、水、薬、眠る場所を順番に狭め、動けば死ぬ状況へ追い込む。刃を振るわなくても、最後には誰かが飢え、病み、仲間へ銃を向ける。
だからこそ、長く続けてはならなかった。
しかしラファエルは、ジャン軍がどれほどの速さで崩れるかを、まだ正確には知らなかった。
同じ頃、北東側の街道にはアーセン軍の先遣隊が入っていた。
先日の戦闘で砲と馬を失ったため、部隊は以前より小さく、荷も軽い。鎧を減らし、工兵道具と測量具を優先し、食料も数日分だけを背負わせている。
先遣隊を率いる将校は、国境沿いの穀物倉庫からジャン軍へ伸びる輸送路を断つよう命じられていた。
道を守るジャン側の兵は見当たらない。
だが、倉庫へ続く林道の入口には、ラファエル軍の旗が立っていた。
アーセン軍の斥候が馬を止め、背後の将校へ合図する。
ラファエル側からも十数名の兵が現れ、互いに弓と銃を構えたまま距離を保った。
ラファエル軍の隊長は、先に声を掛けた。
「この道は封鎖中だ。南部共同防衛軍へ物資を運ぶ者以外も、許可なく通せない。」
アーセン側の将校は、相手の兵数と背後の地形を見た。
正面から押し通せば勝てる。
しかし銃声を聞きつけてジャン軍が来れば、二軍を同時に相手取ることになる。
「我々は、ジャン軍へ物資を運ぶために来たのではない。その反対だ。」
「ならば、別の道を使え。」
「この先の倉庫は国境交易の物資を保管している。我が国の商人が所有する麦もある。」
ラファエル側の隊長は、僅かに顎を上げた。
「所有権を確認する間、倉庫へは誰も入れない。」
「確認するのは、あなた方ではない。」
「この地で兵を動かしている間は、こちらが確認する。」
アーセン側の将校の後ろで、若い兵が銃床を握り直した。
ラファエル兵も同時に反応し、銃口が僅かに持ち上がる。
両隊長は互いの部下の動きを見た。
一人が誤って撃てば、目的の異なる二軍が、その場で正式な敵になる。
アーセン側の将校は手袋を外し、右手を見える位置へ上げた。
「麦袋の刻印を確認させろ。自国商人の物だけを持ち出す。」
「その麦が、既にジャン軍へ売却されていた場合は?」
「代金を払った者が受け取る前なら、元の所有者へ戻る。」
「商人の理屈を、軍が持ち込むのか。」
「あなた方も、所有者を確認すると言った。」
ラファエル側の隊長は口を閉じた。
完全に拒絶すれば、倉庫を占有していると見なされる。
認めれば、アーセン軍が倉庫内部の在庫と道の構造を把握する。
「五人だけ入れる。」
「十人だ。」
「武器は置け。」
「敵軍の倉庫へ、無武装で入れと?」
「我々を敵と呼ぶなら、ここで帰れ。」
アーセン側の将校は、返答の前に林道の脇へ視線を走らせた。
木々の間には、ラファエル軍の斥候がさらに潜んでいる。こちらが見えている兵だけを数えていると判断したのだろう。
「七人。短剣のみ携帯する。」
ラファエル側の隊長は暫く考え、頷いた。
「倉庫の扉へ触れる前に、全員の名を記録する。」
「こちらも、立ち会った者の名を記録する。」
両軍は銃を下げなかった。
合意が成立しても、信用が生まれたわけではない。
むしろ互いに名を残し、後で責任を追える状態にすることで、辛うじて撃たずに済んだ。
その倉庫の西側では、レオン軍が革命政府の通信所を奪還しようとしていた。
通信所は小さな石造りの建物で、戦争前には税務記録と郵便の中継に使われていた。ジャンの名を掲げた地方部隊が占拠し、中央政府からの命令書を開封して、自分たちに不利なものだけを止めている。
レオン軍が到着した時、通信所の中には三十人ほどの兵が残っていた。
包囲されていることは知らない。
ラファエル軍が南の街道を押さえ、アーセン軍が国境側へ入っているため、逃げるなら東へ向かうしかなかった。
レオンの部下である将校は、門前へ出て降伏を求めた。
「中央の通信所を返還し、武器を置けば、占拠以前の所属部隊へ戻す。」
石壁の上から、ジャン軍の兵士が顔を出した。
「戻した後で反逆罪へ問うのだろう。」
「武器庫の略奪、殺人、住民への暴行へ関与していない者は処罰しない。」
「誰が関与したと決める。」
「記録と証言で調べる。」
壁の上の兵士は笑った。
「ダンが作った裁判所でか?」
レオン軍の将校は、返す言葉を選んだ。
ダンは拘留されている。
革命裁判所の信用も失われている。
だからといって、現場の兵が独自に裁判を始めれば、前日の軍事法廷と同じになる。
「新しい審理人を置く。」
「ロベルトが選ぶのか。」
「軍だけでは決めない。」
「では、誰が決める!」
声が石壁へ反響した。
通信所の兵士たちは、降伏条件より、自分たちを裁く者が誰になるかを恐れている。
レオン軍の将校が返答を探している間に、東側の林から銃声が一発響いた。
通信所の兵士が振り向き、レオン軍も同時に隊列を変える。
林から出てきたのは、アーセン軍の小部隊だった。
国境倉庫から別の輸送路を探し、通信所の東へ回り込んでいたのである。
アーセン兵は通信所の存在を知っていたが、レオン軍が既に包囲しているとは知らなかった。
互いの旗を確認した直後、通信所の壁から銃弾が飛んだ。
誰を狙ったのか分からない。
弾はレオン軍の兵士の肩を掠め、その背後の木へ入った。
レオン軍は通信所からの攻撃と判断し、前方へ盾を出した。
アーセン軍は自分たちが撃たれたと思い、林の縁へ伏せて銃を構える。
壁の上のジャン兵は、外の二軍が互いへ銃口を向けたのを見て、東門を開いた。
「今だ、森へ抜けろ!」
十数人が通信所から飛び出し、アーセン軍とレオン軍の間を横切ろうとした。
アーセン兵が止まれと叫ぶ。
ジャン兵の一人が銃を撃ち、アーセン側の軍曹が倒れた。
直後、アーセン軍が一斉射撃を返した。
逃走中のジャン兵だけでなく、反対側に展開していたレオン軍の盾へも弾が当たる。
レオン側の将校が剣を抜いた。
「撃つな! こちらへ向けるな!」
アーセン側の指揮官も叫び返した。
「先に撃ったのは、そちらの包囲内だ!」
「我々の兵ではない!」
「ならば、なぜ逃がした!」
「こちらが開けた門ではない!」
銃声と怒号の間を、ジャン兵が東の森へ走る。
しかし森の奥には、ラファエル軍が別の荷車道を封鎖するため配置した小隊がいた。
逃げてきた兵士たちは、前方にまた別の旗を見つけ、足を止める。
後ろにはレオン軍とアーセン軍。
前にはラファエル軍。
どの軍も、自分たちを味方とは見なさない。
ジャン兵の隊長は、最も人数の少ないラファエル側へ向かって叫んだ。
「我々はジャンの命令で、町を守っていた! ラファエル殿は、南部軍を敵とはしないはずだ!」
ラファエル軍の小隊長は、銃を構えたまま答えた。
「ジャン本人の命令書を見せろ。」
「口頭だ!」
「誰を通じて受けた。」
「我々の隊長からだ。」
「その隊長は?」
ジャン兵の隊長は後ろを振り返った。
通信所に残っているのか、別の道へ逃げたのか分からない。
「今は、ここにいない。」
「武器を置け。」
「置けば、レオンへ渡すのか。」
「事情を聞く。」
「聞いた後で?」
「今は答えられない。」
ジャン兵たちの間に動揺が広がった。
誰へ降伏しても、その先が分からない。
アーセンへ捕らえられれば国外へ連れて行かれる。
レオンへ戻れば反逆罪。
ラファエルは処遇を明言しない。
隊長は銃を握る手へ力を入れた。
その動きを見て、ラファエル軍の兵も照準を上げる。
「待て。」
ジャン兵の後方から、別の男が声を上げた。
まだ若い兵士だった。
「俺たちは、通信所を守っただけだ。誰も殺していない。」
隊長が振り向く。
「黙れ。」
「武器を置けば、少なくとも今は死なない。」
「後で処刑される。」
「撃てば、今死ぬ。」
若い兵士は銃を地面へ置いた。
隣の兵が彼を睨んだが、撃つことはできなかった。
一人が置けば、残った者だけが戦闘を選んだことになる。
二人目、三人目が続いた。
隊長は最後まで銃を手放さなかった。
「ジャンは、我々を見捨てない。」
若い兵士が苦しそうに答えた。
「ジャンは、ここにいない。」
その一言で、隊長の表情が崩れた。
彼らを動かしてきた名は、目の前のどの軍にも通じない。
ジャン本人がいない場所では、その名は降伏を認めさせる権威にも、処刑を止める盾にもならなかった。
隊長は銃口を下げた。
完全に地面へ置くまで、長い時間が掛かった。
通信所では、アーセン軍とレオン軍が互いへ銃を向けたまま、負傷者を引きずり下げていた。
最初に撃たれたレオン兵は肩を負傷しただけだったが、アーセン軍の軍曹は胸へ弾を受け、既に呼吸が止まっている。
アーセン側の指揮官は、倒れた軍曹の前で膝をつき、銃創の角度を確かめた。
弾は通信所側から入っている。
レオン軍が撃ったものではない。
それでも、部下を死なせた怒りは簡単には消えなかった。
レオン側の将校が、一定の距離を保って近づいた。
「通信所を制圧する。東側へ逃げた兵は、ラファエル軍が止めるだろう。」
アーセン側の指揮官は立ち上がった。
「我々も通信記録を確認する。」
「革命政府の施設だ。」
「国境沿いの輸送記録が含まれている。」
「写しを渡す。」
「原本を確認する。」
「信用できないなら、ここで引け。」
アーセン側の兵士たちが再び銃を持ち上げる。
レオン側も盾を並べた。
先ほどの銃撃で互いに死傷者を出しているため、交渉の余地は細くなっていた。
「原本へ触れさせないなら、通信所へ入る。」
アーセン側の指揮官は言った。
「力ずくでか。」
「必要なら。」
レオン側の将校は剣を抜かなかった。
代わりに、通信所の石壁へ視線を向けた。
中にはジャン軍の兵がまだ残っている。
外で二軍が争えば、その間に記録を焼かれる。
「我々が先に制圧する。その後、国境関係の記録だけを、双方立ち会いで確認する。」
「立ち会う者は?」
「こちらから三人、そちらから三人。」
「写しを取る書記も加える。」
「武器は入口へ置け。」
アーセン側の指揮官は、林で交わされた交渉と同じ要求を聞き、僅かに口元を歪めた。
「この国では、どこへ入るにも武器を置かせるのか。」
「武器を持った者が多過ぎるからだ。」
二人は互いを信用しないまま、条件を決めた。
その間に、ラファエル軍へ降伏したジャン兵の情報が届く。
三軍は協力していない。
しかし一方が道を塞ぎ、別の一方が通信所を攻め、さらに別の軍が逃走路へ現れたことで、ジャン兵はどの隙間からも抜けられなかった。
同じ現象は、別の場所でも起き始めていた。
夜、ジャン軍の補給を担当する商人が、南側のラファエル軍へ賄賂を持ち込んだ。
銀貨だけでなく、戦後に倉庫の所有権を渡す証書、地方役人との取引記録、王党派の隠し財産まで差し出した。
ラファエル側の隊長は銀貨を数えず、証書だけを灯りへ透かした。
「通したい荷は?」
「小麦二十袋、薬箱三つ、塩漬け肉。それから、医師が二人です。」
「誰の部隊へ。」
商人は一瞬、答えを避けた。
「南部共同防衛軍へ。」
「隊名を。」
「詳しくは聞いておりません。」
「では、戻れ。」
「お待ちください。」
商人は銀貨袋を一つ増やした。
「ラファエル殿の兵へ渡す分も含んでおります。」
隊長の部下が僅かに目を動かした。
数か月分の給金に相当する金額だった。
隊長は部下の反応を見た後、商人へ道の先を指した。
「ここを通しても、東の街道はアーセン軍が押さえている。」
「そちらにも話を通します。」
「アーセン側を抜けても、北側にはレオン軍がいる。」
「別の道へ回します。」
「その別の道を、我々が塞いでいる。」
商人の口元が引き攣った。
「どこか一つくらい、通れる道はあるでしょう。」
「ある。」
隊長は答えた。
「だが、その道がジャン軍へ続いていると分かった瞬間、別の軍が塞ぐ。」
「あなた方は、協力しているのですか。」
「していない。」
「では、なぜ。」
隊長は銀貨袋を商人側へ押し戻した。
「互いに信用していないからだ。」
ラファエル軍は、アーセン軍が密輸を利用して兵を入れることを恐れる。
アーセン軍は、レオン軍が革命政府の名で補給を独占することを警戒する。
レオン軍は、ラファエルが王党派や地方勢力を通して独自の軍事基盤を作ることを疑っている。
そのため、どの軍も他の軍が見逃した道を監視し、買収された将校がいないか探り、夜間の荷車を止めた。
包囲軍同士の猜疑が、ジャン軍にとっては最も厳しい封鎖になっていた。
商人は銀貨を持ち帰らなかった。
ラファエル側が受け取らなくても、次の軍へ渡せる。
――彼は西へ回り、アーセン軍の前哨へ向かった。
そこでは銀貨より、国境商人の名簿と、ジャン軍内部の配置を求められた。
「物資を通す代わりに、誰がどこにいるか話せと?」
アーセン軍の士官は、火の上で乾かしていた手袋を裏返した。
「通すとは言っていない。話を聞いてから決める。」
「ラファエル軍は、賄賂を受け取りませんでした。」
「我々が受け取ると思ったか。」
「戦争には金が掛かります。」
「だから、銀貨より使える情報を出せ。」
商人は迷った末、ジャン軍の補給責任者の名と、医薬品が不足している部隊の位置を話した。
それでも、アーセン軍は荷を通さなかった。
代わりに商人へ、北側へ回ればレオン軍が人道物資として医師だけは通すかもしれないと告げた。
商人は最後の望みを抱き、荷車を北へ動かした。
夜明け前、レオン軍の検問へ到着した時には、馬の一頭が疲労で脚を引きずっていた。
レオン軍の兵は、医師二人を荷車から降ろし、資格と持ち物を確認した。
薬箱の中には鎮痛薬、縫合糸、包帯のほか、軍の命令書を隠せる二重底があった。
「空です。」
商人は必死に訴えた。
「何も隠していない。」
検査した兵士は、二重底の薄い板を持ち上げた。
「隠すための場所はある。」
「医師は、捕虜の診療にも使います。」
「どちらの捕虜だ。」
「負傷した者なら、誰でも。」
レオン軍の隊長は医師たちを見た。
二人とも疲れ、怯えている。ジャン軍への忠誠ではなく、治療を必要とする患者がいると聞いて来ただけかもしれない。
「医師だけは通す。」
商人の顔へ安堵が浮かんだ。
「では、薬箱も。」
「こちらで中身を確認し、必要分を持たせる。食料と荷車は押収する。」
「それでは、ジャン軍へ届きません。」
「医師は届く。」
「兵が飢えれば、治療もできない!」
隊長は商人へ近づいた。
「その兵が、どの町から食料を奪うつもりか知っているか。」
商人は答えられなかった。
荷車の小麦はレオン軍に押収され、医師は薬の一部だけを背負って徒歩で包囲内へ送られた。
商人は空になった荷車を前に立ち尽くした。
三つの軍へ話を持ち込み、三つとも異なる理由で拒絶された。
誰か一人を買収すれば抜けられる包囲ではなかった。
買収した相手の先に、別の軍がいる。
その軍を買収しても、最初の軍が裏切りを疑って追ってくる。
商人が戻る頃には、ジャン軍内部で、彼が物資を売り払って逃げたという噂が先に広まっていた。
本営へ戻ってきたジャンは、机の上に積まれた報告書を前に立っていた。
座れば眠ってしまうと分かっているため、椅子を壁際へ退けさせている。
側近は、その判断自体が既に異常であると考えたが、強引に座らせればジャンが別の部屋へ移るだけだった。
報告書には、通信所の喪失、ラファエル軍への降伏、アーセン軍との衝突、補給商人の不帰還が記されている。
「通信所を失った部隊は?」
ジャンは紙から目を離さず尋ねた。
書記が答えた。
「一部はラファエル軍へ降伏。残りは不明です。」
「死者は。」
「確認できた者だけで十一。アーセン軍とレオン軍にも死傷者が出ています。」
「包囲軍同士で撃ち合った?」
「はい。」
側近の青年が地図へ近づいた。
「三者は連携していません。今なら、衝突している間に一方向へ抜けられる可能性があります。」
本営に集まった将校たちが、一斉に地図を見た。
一人はラファエル側との交渉を主張した。
「ラファエルは、我々を殲滅するつもりではない。武器を保持したまま町へ戻る条件を引き出せる。」
別の将校が反対した。
「彼は王党派とも話す男だ。我々を分散させた後、一人ずつ捕らえる。」
「ならば、レオンへ戻る。」
革命軍出身の隊長が言った。
「中央の武器庫を返し、クーデターに関与した者だけを差し出せば、兵の大半は元の所属へ復帰できる。」
地方部隊の指揮官が机を叩いた。
「差し出す者を誰が決める。首都の軍人は、我々全員を反逆者にする。」
「アーセン側へ抜ければ、国外で捕虜だ。」
「捕虜でも、生きていられる。」
「国を売るのか!」
声が重なった。
ジャンは報告書を置いた。
「一人ずつ話してください。」
だが、将校たちは止まらなかった。
包囲が始まる前なら、ジャンの声だけで口を閉じた者たちである。
今は、それぞれが自分の部隊を生き残らせるため、他の部隊より先に条件を得ようとしていた。
「南から突破すべきだ!」
「ラファエル軍が最も厚い。」
「厚いからこそ、他の二軍は追ってこない。」
「逆だ。突破を見れば、アーセンが側面へ来る。」
「では、東だ。アーセン軍は損耗している。」
「国境側へ行けば、侵略の口実を与える!」
「もう侵略されているだろう!」
ジャンは卓上の水差しを持ち上げた。
手が震え、器の縁へ注ぎ口が当たった。
小さな音だったが、側近だけは気付いた。
ジャンは水を飲まず、器を戻した。
「包囲を突破しません。」
将校たちの声が止まった。
地方指揮官が信じられないように顔を上げる。
「このまま、飢えるまで待つのですか。」
「各軍へ停戦の使者を出します。」
「別々に?」
「目的が違うなら、条件も違う。」
革命軍出身の隊長が身を乗り出した。
「三者のうち一つと合意すれば、残る二軍がそこを攻めます。」
「だから、同じ時刻に送る。」
「返答を待つ間にも、補給は減る。」
「突破すれば、町が戦場になる。」
地方指揮官が低く言った。
「町は既に我々へ食料を渡している。」
「自発的に?」
「守るために必要だと理解しています。」
「昨日、南の村で徴発がありました。」
指揮官の表情が変わった。
ジャンは報告書を取り上げた。
「小麦二十袋、家畜六頭、冬用の薪。住民が拒んだ後、兵が倉庫を開けた。」
「我々の部隊ではありません。」
「ジャンの名を掲げていました。」
「だからといって、我々と同じにするのですか。」
「包囲軍から見れば同じです。」
ジャンは報告書を机へ置いた。
「こちらが一つの軍だと言い張る限り、他部隊の略奪も我々の責任になります。逆に、別の軍だと言えば、私の名で動く理由はありません。」
指揮官は口を閉じた。
ジャンは将校たちを見渡した。
「各部隊は、元の町と所属を明らかにしてください。私の名を外し、自分たちの行動へ自分たちで責任を負う。」
「それでは、軍が分裂します。」
「既に分裂しています。」
「あなたが認めれば、本当に終わる。」
ジャンの瞼が僅かに下がった。
「終わらせるために言っています。」
地方指揮官は椅子を蹴るように立ち上がった。
「我々は、あなたのために戦った!」
「私のためではないと、何度言えば分かるのです。」
「では、何のためだったのです!」
問いは怒号として室内へ響いた。
復活王朝を退けるため。
町を守るため。
中央政府が送らなかった武器を自分たちで確保するため。
王党派への報復。
革命を守るため。
それぞれの部隊が別の答えを持っていた。
ジャンは、そのどれか一つを全員の目的として選べなかった。
「自分で決めてください。」
――彼は答えた。
「私の名を答えにしないでください。」
指揮官の顔から怒りが抜け、代わりに見捨てられた者の痛みが現れた。
「今さら、それを言うのですか。」
「今まで言い続けました。」
「あなたが否定するほど、我々は、あなたが責任を背負おうとしていると思っていた。」
ジャンは息を止めた。
否定さえも、忠誠を強める材料になっていた。
側近が将校たちの間へ入った。
「今夜は、各部隊の位置と食料量を出してください。停戦条件は、それを見てから決めます。」
「誰の命令だ。」
地方指揮官が青年を睨んだ。
側近は一瞬怯んだが、ジャンを見なかった。
「私の提案です。」
「お前に軍を動かす権限はない。」
「だから、従うかどうかは、あなた方が決めてください。」
ジャンが先ほど述べたのと同じだった。
忠誠ではなく、自分の責任で選ばせる。
指揮官は返答せず、部下と共に部屋を出た。
残った将校も一人ずつ退出し、最後にはジャンと側近、書記だけが残った。
側近は扉が閉じるのを待ち、机へ両手を置いた。
「横になってください。」
「停戦文を書きます。」
「今の状態で書けば、また違う意味へ読まれます。」
「書かなくても、勝手に意味を作られる。」
「それでも、今は眠ってください。」
ジャンは返答せず、報告書へ手を伸ばした。
紙が二枚重なって見え、指先が空を掴む。
側近がその手を押さえた。
「ジャン。」
「離してください。」
「嫌です。」
声は震えていた。
青年は上官へ反抗しているのではない。
友人か、守るべき人間か、それとも自分の人生を預けた象徴を失うことを恐れている。
「半刻ではなく、眠るまで。」
「眠っている間に部隊が動く。」
「起きていても、もう全ては止められません。」
ジャンの瞳が青年へ向いた。
「それを認めろと?」
「認めなければ、あなた一人が先に壊れます。」
沈黙の中で、外から荷車の音が聞こえた。
補給担当者が到着し、書記へ新しい帳簿を渡している。
ジャンは側近の手を外し、帳簿を受け取った。
「食料は。」
補給担当の男は、帽子を胸元へ抱えたまま立っていた。
「小麦は三日分。乾燥豆が二日。塩漬け肉は、各部隊へ均等に配れば一日半です。」
ジャンは帳簿の数字を追った。
「昨日の報告では、五日分あった。」
「南西の部隊が、登録されていない兵を千人以上連れてきました。北の部隊も、住民と家族を中へ入れています。」
「井戸と水車は。」
「東の水車はレオン軍が押さえました。西の井戸は使えますが、列が長く、昨夜二度争いが起きました。」
「医薬品は。」
男の口が僅かに開き、すぐ閉じた。
「包帯と消毒用の酒が、今夜で尽きます。」
「密輸の荷は?」
「戻ってきません。」
「商人も?」
「空の荷車だけが見つかりました。商人は、物資を売ったと疑われています。」
ジャンは帳簿を閉じた。
「違います。三軍に止められたのでしょう。」
補給担当者は頷けなかった。
軍内部では既に、商人を裏切り者として捜す者が出ている。戻れば処刑される可能性がある。
「徴発を禁止してください。」
男の顔が歪んだ。
「禁止しております。」
「それでも、起きている。」
「食べる物がなければ、兵は命令を聞きません。」
「私の命令だから聞かないのではなく、住民から奪えば自分たちが守るべき町を壊すからです。」
「それを理解している兵ほど、先に自分の家族へ食料を送っています。」
ジャンは帳簿を持つ手へ力を込めた。
軍だけが包囲されているのではない。
兵士の妻子、負傷者、避難してきた住民まで内部へ入り、同じ食料を分けている。
ラファエルは長期包囲を想定しているかもしれない。
しかしジャン軍には、長期戦を耐える基盤が最初から存在しなかった。
補給担当者は帽子を握り潰すように言った。
「将軍、全軍の正確な人数を、誰も知りません。」
ジャンは顔を上げた。
「登録簿があるでしょう。」
「昨日の登録だけで四つあります。革命軍の名簿、地方兵の名簿、共同防衛の志願者、町ごとの自警団。同じ人間が二つへ載り、家族を兵として数え、死者の名で配給を受ける者もいます。」
「整理してください。」
「書記が足りません。」
「各部隊から出させる。」
「出せば、配給を減らされると疑います。」
男の声が少しずつ掠れた。
「馬も、正確には分かりません。傷病者は毎日増え、医師は部隊ごとに囲われています。共同の病舎へ移せと言っても、自分たちの兵を他隊へ任せられないと。」
ジャンは帳簿の表紙を見た。
軍が大きくなったのではない。
複数の部隊、町、家族、避難民が、一つの名前の周囲へ押し込まれただけだった。
指揮系統も、配給制度も、医療も、宿営地もない。
ジャンが走り回り、争いが起きるたび止めることで、一つの軍に見えていただけである。
「包囲が始まって、まだ二日です。」
補給担当者は言った。
「このままなら、三日後ではありません。明日から、各部隊が自分の食料を守り始めます。」
側近がジャンの顔を見た。
瞳の奥に、先ほどまでとは違う恐怖が浮かんでいる。
敵の攻撃ではない。
自軍が、食料一袋のために互いへ銃を向ける未来だった。
「停戦の使者を、今夜出します。」
ジャンは言った。
「三軍全てへ?」
「同時に。」
補給担当者が不安げに問い返した。
「条件は、何を。」
ジャンは答えようとした。
ラファエルには、町から軍を引き離す代わりに、兵の帰郷を認めさせる。
レオンには、元革命軍の復帰と、地方部隊への一律処罰を行わないよう求める。
アーセンには、国境を越えず、捕虜を国外へ運ばないことを条件に、輸送路から部隊を退かせる。
三者は目的が違う。
一つの文面では通じない。
それぞれ別の言葉を使えば、後で密約と疑われる。
ジャンは紙へ手を伸ばした。
指が震え、羽根ペンを掴めない。
側近が代わりに取った。
「口述してください。」
ジャンは一行目を考えた。
だが、言葉が出る前に、外から怒鳴り声と木箱の割れる音が響いた。
補給所で、配給を巡る争いが始まったのである。
三人が廊下へ出ると、兵士たちが小麦袋を挟んで押し合っていた。
一方は南西の地方兵、もう一方は元革命軍だった。
「こちらの部隊へ配る分だ!」
「名簿にない兵へ渡す食料はない!」
「昨日まで同じ場所で戦っただろう!」
「昨日の戦いで、こちらは四十人死んだ!」
袋の口が裂け、麦粒が床へ流れた。
兵士たちは武器を抜いていない。
だが腰の剣へ手が掛かり、互いの背後へ仲間が集まり始めている。
ジャンは声を上げようとした。
喉が乾き、最初の音が出なかった。
側近が代わりに叫んだ。
「剣から手を離せ!」
兵士たちが振り向いた。
ジャンの姿を見た者から、動きが止まる。
まだ、彼の顔には力が残っていた。
だが、その静止は以前より遅かった。
南西の兵士が、ジャンへ訴えた。
「我々の部隊だけ、配給が減らされました!」
元革命軍の兵士がすぐ反論する。
「登録されていない家族まで連れてきたからだ!」
「家族を外へ出せば、ラファエル軍に捕らえられる!」
「だから、我々が飢えろと?」
ジャンは床へ散った麦を見た。
一粒ずつ拾うことなどできない。
踏まれれば泥と混じり、食べられなくなる。
「同じ量へ戻してください。」
元革命軍の兵士が顔を歪めた。
「人数が違います。」
「人数で分ける。」
「名簿が違うと、先ほど言われたばかりです。」
補給担当者の声だった。
ジャンは言葉を失った。
どちらの部隊が何人いるかさえ分からない。
均等も、公平も、計算する土台がない。
南西の兵士が、疲れ切った声で言った。
「ジャン。誰を先に食わせるか、決めてくれ。」
全員の視線が集まった。
彼らは命令を求めている。
従わなかった者たちが、最後には自分で選べない死の順番だけをジャンへ委ねようとしている。
――彼は答えられなかった。
兵士。
負傷者。
子供。
医師。
馬。
工兵。
誰を先に食べさせても、別の誰かが動けなくなる。
「今夜、全ての名簿を集めます。」
ジャンはようやく言った。
「食料を、人数で分け直す。」
「今夜の分は?」
「現在の配給を半分にしてください。」
兵士たちの顔に絶望が浮かんだ。
ジャンは続けた。
「残りは、子供と重傷者へ。」
元革命軍の兵士が目を閉じた。
南西の兵士は反論せず、剣から手を離した。
誰も納得していない。
それでも、今は従った。
ジャンがまだ立っていたからである。
争いが収まった後、側近は彼の腕を掴んだ。
「今度こそ、休んでください。」
ジャンは床の麦を拾おうと屈んだ。
姿勢を下げた瞬間、視界が揺れ、片膝が床へ落ちた。
周囲の兵士が息を呑む。
ジャンはすぐ立とうとしたが、脚へ力が入らない。
側近が両腕で支えた。
「眠っていないからです。」
「麦を……踏ませないでください。」
「人に拾わせます。」
「食べ物です。」
「分かっています!」
青年の声が震えた。
兵士たちは、勝者として掲げてきた男が、床へ落ちた麦粒を前に膝をついている姿を見ていた。
誰も歓声を上げなかった。
ジャンは支えられながら立ち、寝台へ運ばれた。
外では配給が半分へ減らされ、三軍の包囲はさらに狭まっていく。
ラファエルの本営へ、最初の詳細な捕虜報告が届いたのは、その夜だった。
通信所から逃げ、林で降伏したジャン兵たちの証言である。
副官は聞き取りを終え、地図の上へ新しい数字を書いた。
「各部隊の合計は、これまでの推定より少なくとも三割多い。」
ラファエルは顔を上げた。
「家族と避難民を含む?」
「含めれば、さらに増えます。正確な人数は、捕虜たちも知りません。」
「補給は。」
「三日分もないと。」
副官は自分でたちも知りません。」
「補給は。」
「三日分もない書いた数字を見つめた。
「我々は、一月以上の包囲を想定していました。」
ラファエルは地図へ引いた黒線を指でなぞった。
包囲網はまだ完成したばかりである。
橋も街道も完全には閉じていない。
密輸の道も、全てを見つけたわけではない。
それでも、ジャン軍内部では既に配給争いが始まっている。
「こちらが上手く包囲したからではない。」
ラファエルは低く言った。
「最初から、軍を支えるものがなかった。」
「では、数日で崩れます。」
「崩れ方が問題だ。」
副官は黙った。
一つの指揮系統を持つ軍なら、食料が尽きれば降伏する。
ジャン軍は複数の部隊が同じ名前の下へ集まっただけである。
一部が降伏し、一部が突破し、一部が略奪し、一部がジャンを守るため最後まで戦う。
同じ軍として終わらない。
「包囲を狭めますか。」
ラファエルはすぐには答えなかった。
狭めれば、崩壊は早まる。
遅らせれば、ジャン軍は周辺の村から奪う。
どちらを選んでも、死者は出る。
「食料を運ぶ道を一つだけ残す。」
副官が驚いて顔を上げた。
「包囲を緩めるのですか。」
「完全には通さない。最低限の配給だけを入れ、徴発へ出る理由を減らす。」
「アーセン軍とレオン軍が、その道を利用します。」
「だから、両方へ知らせる。」
「協力しない方針では?」
ラファエルは地図から目を離さなかった。
「協力ではない。こちらが道を開けると知らなければ、彼らは密輸路だと思って塞ぐ。」
副官は僅かに息を吐いた。
三軍の猜疑が包囲を完成させた。
今度は、その猜疑が人道的な通路さえ閉じようとしている。
「ジャン軍へは、何と。」
「食料を受け取る条件として、部隊ごとの人数と位置を出させる。」
「出せば、こちらへ軍の全容を渡すことになります。」
「だから、拒む部隊も出る。」
「その部隊は?」
ラファエルは黒線の内側を見た。
「ジャンが止めに行く。」
副官の顔が曇った。
「また、彼を動かすのですか。」
「動かさなければ、別の者が殺し合う。」
ラファエルは目を閉じず、疲労の色を隠さなかった。
「我々は、ジャンを救うために包囲しているのではない。だが、彼が倒れれば包囲の内側で何が起きるか、最もよく分かっているのも我々だ。」
遠く離れたジャン軍の本営では、側近がようやくジャンを寝台へ横たえ、扉の外へ兵を立たせていた。
眠りを妨げる報告を入れないためではない。
ジャンが目を覚まし、また一人で外へ出るのを止めるためだった。
しかし寝台の上でも、彼の指は何かを書くように動いていた。
夢の中でさえ、命令を作り続けている。
側近は椅子へ座り、その手が止まるまで見守った。
包囲は、三つの軍によって作られていた。
だが、最初に崩れ始めたのは城壁でも街道でもない。
ジャン一人の身体へ預けられていた、軍全体の形だった。
ジャンが目を覚ました時、室内には灯りが残っていなかった。
瞼を開いても、窓の位置さえ分からないほど暗い。寝台へ横たえられた経緯を思い出すより先に、彼は手を伸ばし、枕元に置かれているはずの報告書を探した。
指先が触れたのは、冷えた水差しと空の机だけだった。
報告書も羽根ペンも、側近によって持ち去られている。
身体を起こすと、頭蓋の内側へ遅れて痛みが走った。脈拍に合わせ、目の奥を固い棒で押されているような鈍痛が強くなる。両脚は眠った後より重く、膝を曲げただけで腿の筋肉が痙攣した。
ジャンは寝台の縁へ腰掛け、暗闇の中で息を整えた。
自分が何刻眠ったのか分からない。
窓の外に鳥の声はなく、兵の交代を知らせる鐘も聞こえない。深夜なのか、夜明け前なのか、その区別さえつかなかった。
扉へ歩き、取っ手を押す。
開かなかった。
外側から鍵が掛けられている。
ジャンは一度、扉から手を離した。自分を閉じ込めた者が誰か、考える必要はない。
「開けてください。」
廊下から椅子が動く音がした。
少し間を置いて、側近の青年が答える。
「まだ、夜明け前です。」
「何刻眠りましたか。」
「二刻に届いておりません。」
「報告書を戻してください。」
青年はすぐに返さなかった。
ジャンは扉へ額を付けかけ、冷たい木へ触れる直前で姿勢を戻した。
「聞こえていますね。」
「聞こえております。」
「ならば、開けてください。」
「お断りします。」
ジャンの指が取っ手へ掛かったまま止まった。
「誰の命令ですか。」
「私の判断です。」
「あなたに、私を拘束する権限はありません。」
「ええ、ございません。」
青年の声は震えていなかった。
「ですから、処分は後で受けます。今は開けません。」
「その間に何か起きれば、あなたが責任を負えるのですか。」
「扉を開け、あなたが階段から転げ落ちた場合も、私は責任を負わされます。」
「転びません。」
「昨日、馬の上で意識を失った方の言葉を、どう信用しろと仰るのです。」
ジャンは言い返そうとしたが、暗闇の中で喉が乾き、咳が一度漏れた。
廊下側で青年が椅子から立ち、扉へ近づく気配がする。
「水はありますか。」
「あります。」
「飲んでください。」
「報告書を。」
「水をお飲みになれば、最初の一通だけ読み上げます。」
ジャンの眉が寄った。
「取引をしている場合ですか。」
「あなたが食事も睡眠も命令で拒むので、取引にしております。」
「私は拒んでいません。」
「食べ物を机へ置けば、書類の下へ隠れるまで触れず、寝台を用意すれば、伝令が来たと言って立ち上がる。それを拒絶ではないと仰るなら、言葉の意味から決め直さなければなりません。」
青年の声に、抑え切れない苛立ちが混じった。
怒っているのではない。
恐れているため、丁寧に話し続ける余裕がなくなり始めている。
ジャンは水差しを探し、暗闇の中で器へ注いだ。縁から溢れた水が指へ伝い、床へ数滴落ちる。
「飲みました。」
「一口では足りません。」
「見えているのですか。」
「飲み終えた音と、水差しを戻した音が近過ぎました。」
ジャンは器を口へ戻した。
今度は半分ほど飲み、机へ置いた。
扉の向こうで紙が開かれる。
「ラファエル軍より、食料搬入路を一箇所開くとの通告です。」
ジャンは取っ手から手を離した。
「条件は。」
「部隊ごとの兵数、負傷者、家族、避難民、馬の数を申告すること。搬入された食料は、各部隊ではなく共同配給所で管理すること。輸送路へ兵を近づけず、荷を奪わないことです。」
「他には?」
「申告されていない部隊へは配給しない、と。」
ジャンは暗い室内を振り返った。
昨日の時点で、全軍の人数を誰も把握していないことが判明している。名簿は四つに分かれ、同じ人間が複数へ載り、死亡者の配給票を家族が使っていた。
正確な人数を出せなければ、食料は入らない。
出せば、包囲側へ軍の配置と規模を渡すことになる。
「アーセン軍とレオン軍は、その道を認めていますか。」
「通告には、双方へ連絡済みとあります。」
「回答は。」
「アーセン側は、搬入物資へ軍需品が含まれないことを条件に通過を認める。レオン側は、配給対象となる元革命軍の兵籍確認を要求しております。」
「つまり、ラファエルだけの条件ではない。」
「ええ。」
青年が紙を折る音がした。
「三軍全てへ名簿を渡すことになります。」
ジャンは暫く黙った。
包囲軍同士は協力していない。
だからこそ、一つの道を開けるだけでも三者が別々の条件を付ける。誰か一軍へ嘘をつけば、別の軍が矛盾を見つける。
「扉を開けてください。」
「休息を終える理由にはなりません。」
「名簿を揃えなければ、食料が届かない。」
「書記たちが作業しています。」
「部隊が正しい数字を出すと思いますか。」
青年は返答しなかった。
自分の兵数を少なく申告すれば、配給も減る。
多く申告すれば、兵力を過大に見せられる一方、包囲側から危険な部隊と判断される。家族を兵として数えれば食料は増えるが、戦闘員として扱われる可能性もある。
誰も、正直な数字を出す理由を持っていなかった。
「私が各隊長と話します。」
「あなたが話せば、皆が自分の部隊だけ多く配給するよう訴えます。」
「それでも、数字は出させられる。」
「そして、あなたは一人ずつ事情を聞き、また夜まで眠らない。」
ジャンは扉へ手を置いた。
「食料がなければ、明日の夜まで軍が持ちません。」
廊下の青年も、扉へ掌を当てたようだった。
木の板を挟み、二人の声が近くなる。
「あなたがいなければ、食料を分けられない軍にしたのは誰です。」
ジャンの指先が固くなった。
「私が作った軍ではありません。」
「その言葉で、もう逃げないでください。」
青年の声は低かった。
「あなたが集めたのではない。命じてもいない。分かっております。ですが、今は皆があなたを見る。あなたが承認しなければ名簿を出さず、あなたが決めなければ一袋の麦も分けない。その現実まで、望んでいないから自分の責任ではないとは言えないでしょう。」
「責任ではないとは言っていません。」
「ならば、責任の取り方を変えてください。」
「どう変えるのです。」
「全てを自分で決めない。」
ジャンは目を閉じた。
「誰へ任せる。」
「それを、今から決めます。」
「決める間に、配給が止まる。」
「あなたは、誰かに任せるまでの時間さえ、無駄だと思っている。」
「今は無駄です。」
「いつなら無駄ではなくなるのです!」
青年の拳が扉へ当たり、鈍い音を立てた。
すぐに謝罪はなかった。
彼も、言葉を取り戻すために息を整えている。
「今朝までに、名簿を作る責任者を五人選びました。」
暫くして、青年は言った。
「革命軍出身者、地方兵、町の自警団、補給係、避難民の代表。それぞれが自分の名簿を持ち寄り、同じ者を重複から外します。」
「誰が最終確認を。」
「五人全員です。」
「意見が割れれば?」
「多数決です。」
「三人が結託すれば、残りの配給を削れる。」
「あなた一人で決めれば、あなたが騙される。」
ジャンは答えられなかった。
青年は続けた。
「完全な数字にはなりません。それでも、あなたが全員と話すよりは早い。間違いがあれば、次の配給までに訂正します。」
「最初の間違いで、食べられない者が出ます。」
「あなたが決めても、出ます。」
暗い室内へ沈黙が落ちた。
昨日、配給を半分に減らし、子供と重傷者を優先した。あの判断によって、働ける兵士の中には食事を取れなかった者がいる。
誰が決めても、全員を救う食料はない。
正しい配分ではなく、誰を先に飢えさせるかを選んでいる。
「扉を開けます。」
青年は言った。
鍵が回った。
「ただし、五人の前で決定を覆さないでください。意見を述べるなら、六人目としてです。」
扉が開くと、廊下の灯りが室内へ差し込み、ジャンは眩しさに目を細めた。
青年は椅子の横に立っていた。
顔は青白く、彼自身も眠っていない。
「あなたも休んでいないではありませんか。」
ジャンが言うと、青年は疲れた目を向けた。
「誰かが、扉の前にいなければなりませんでしたので。」
「別の者へ任せればよかった。」
「今の言葉を、ご自身にも使ってください。」
ジャンは言い返さず、廊下へ出た。
名簿の照合作業は、本営の大広間で行われていた。
以前は軍議に使われていた卓を五つへ分け、それぞれに異なる名簿、配給票、負傷者の記録、家族単位の一覧が積み上げられている。
書記たちは、同じ名前、同じ生年月日、同じ出身地を探し、重複した箇所へ線を引く。しかし革命軍の名簿では本名、地方部隊では通称、自警団では家名だけが使われている者も多く、照合は容易ではなかった。
一人の男が、三つの名で登録されていた。
革命軍では本名。
故郷の自警団では父親と同じ呼び名。
共同防衛軍では、戦場で付けられた渾名。
本人を呼び出さなければ同一人物と判断できない。
別の兵士は、名簿上では死亡している。
だが、その名の配給票は妻と二人の子供が使っていた。
死亡者として外せば、家族は食料を失う。
生存者として残せば、包囲側へ戦闘員一人として申告される。
避難民代表の女は、死者の名を削ることへ反対した。
「配給票を作り直すまで残してください。この名前で、子供が食べているのです。」
革命軍出身の将校は首を横へ振った。
「兵力を多く申告すれば、レオン側は武装解除の対象として数える。」
「子供を兵士だと?」
「名簿だけを見れば、そうなる。」
「では、家族として別へ移せばよいでしょう。」
補給係が帳簿を開いた。
「家族名簿には、死亡者との続柄を証明する書類が必要です。」
女の頬が強張った。
「逃げる時に、戸籍を持ってこられたと思いますの?」
「証明がなければ、他人の配給票を集めた者と区別できない。」
「子供の顔を見れば、飢えていることくらい分かる!」
補給係も声を荒らげた。
「全員が飢えているから、名簿を作っているのです!」
室内の筆音が止まった。
ジャンは入口で二人の応酬を聞き、すぐには口を挟まなかった。
以前なら、自分が決めなければ進まないと考え、死者の配給票を家族票へ暫定変更するよう命じただろう。
だが、その判断を全ての部隊へ適用すれば、確認できない家族が際限なく増える。逆に認めなければ、実際の遺族が食料を失う。
自分一人で決めても、問題は消えない。
「死亡者の票へ印を付け、家族票へ一時移行させましょう。」
避難民代表が振り向いた。
ジャンは卓へ近づいたが、中央へ立たず、空いている一席へ座った。
「次の配給までに、同じ隊か町から二名の確認を取る。確認できなければ再審査する。それまでは、家族として数えてください。」
革命軍の将校が疑問を向けた。
「同じ部隊が虚偽を認め合う可能性があります。」
「あります。」
ジャンは認めた。
「ですから、部隊一名と町の代表一名に分ける。」
「町の代表が逃亡している者は?」
避難民代表が続ける。
「同じ地域から来た別の家族に確認させる。」
「それもいなければ?」
ジャンは答えかけ、言葉を止めた。
全ての例外へ、その場で答えを作ろうとしている。
青年が背後から彼を見ていた。
任せろと述べた直後に、再び全体の判断を引き取ろうとしている。
ジャンは避難民代表へ顔を向けた。
「あなたなら、どうします。」
女は驚き、返答までに間を置いた。
「子供の年齢と、どの町から来たかを聞きます。同じ道を通った人間がいれば、見覚えがあるか尋ねます。誰も知らなければ……食料を半量だけ渡し、次の日までに別の証言を探します。」
「それで進めてください。」
革命軍の将校が口を開いた。
「虚偽だった場合は?」
ジャンは彼を見る。
「あなたは、どうするべきだと思います。」
将校は、自分へ判断が戻ってきたことに戸惑った。
「次の配給を止める。ただし、子供まで処罰することはできません。偽った大人だけを別に扱います。」
「では、その二つを合わせてください。」
避難民代表と将校は互いを見た。
意見は一致していない。
だが、ジャンの裁定へ従うのではなく、自分たちで条件を調整しなければならなくなった。
ジャンは次の卓へ移ろうとし、椅子から立った。
その瞬間、視界の端が暗くなった。
卓へ手を置き、身体が傾くのを防ぐ。
青年が近づいたが、腕を掴まず、いつでも支えられる距離で止まった。
ジャンは数度瞬きをし、焦点を戻した。
「大丈夫です。」
青年は返事をしなかった。
その言葉を信用していないことを、沈黙で示している。
名簿整理は昼を過ぎても終わらなかった。
当初推定された兵数より、登録者は二割以上多い。重複を外しても、家族と避難民が加わるため、配給対象は減らない。
馬の数は名簿より少なかった。
戦闘で死んだ馬、食料にされた馬、別部隊が持ち出した馬が記録へ反映されていない。
医師の数は、逆に過大だった。
薬草を扱える者、傷口を縫える兵、産婆まで医師として数えられ、実際に重傷者を診られる者は十人にも満たない。
五人の責任者は、申告を三つに分けることを決めた。
戦闘員。
非戦闘員。
負傷や病気によって戦えない者。
包囲側が負傷兵を後日再び戦闘員として扱う可能性があるため、傷の程度も記録する。
ジャンはその決定へ口を挟まなかった。
書記から確認を求められると、五人へ戻した。
「責任者の方々が合意したなら、その通りにしてください。」
同じ言葉を三度繰り返した頃、青年は僅かに安堵した。
しかし四度目には、ジャン自身が何を尋ねられたか理解できていないことへ気付いた。
書記が持ってきたのは名簿ではなく、南西部隊へ送る停止命令の控えだった。
「こちらも、五人へ?」
ジャンは紙面を見てから、質問を聞き違えたと理解した。
「失礼しました。読みます。」
紙を受け取り、最初の行を追う。
南西部隊は武器庫から火器を持ち出さず、包囲軍へ攻撃を仕掛けず、食料回廊へ近づかないこと。
前夜、自分が既に同じ内容の命令を出した記憶がある。
「これは、昨日送りませんでしたか。」
書記は首を横へ振った。
「昨日は、食料搬入路が決まっておりませんでした。」
「では、武器庫から動くなという命令は。」
「別の文書です。」
「その写しを。」
書記は束の中から一枚を探し、差し出した。
ジャンは二つを並べた。
前日の命令では、武器庫を守り、武器を外へ持ち出すなと書かれている。
新しい命令では、包囲軍へ攻撃を仕掛けず、食料回廊へ近づくなと加えられている。
矛盾はない。
それでも、同じ命令を二度出したと思い込んだ。
記憶の順序が曖昧になっている。
「署名を。」
書記が羽根ペンを渡した。
ジャンは名を書き、紙を返した。
青年が受け取る前に、文面を確認する。
「待ってください。」
「何か。」
「日付が、昨日になっています。」
ジャンは署名欄を見た。
確かに、前日の日付を書いている。
「訂正します。」
線を引こうとすると、青年が手を添えて止めた。
「新しい紙へ書き直します。訂正痕があれば、後から命令が改竄されたと疑われます。」
書記はすぐ紙を取り替えた。
ジャンは新しい紙へ署名し、今度は日付を声に出して確認した。
周囲の者は何も言わなかった。
誰も、単純な書き損じとして笑わない。
彼が疲労によって日付を誤ったことを、全員が見ていた。
「医師を呼びます。」
青年が小声で言った。
「署名を間違えただけです。」
「昨日の文書と今日の文書を混同しました。」
「内容は覚えています。」
「日付を忘れた人間が、内容だけは正確だと、誰が保証します。」
ジャンの頬が強張った。
「あなたは、私を指揮から外したいのですか。」
青年の顔に、傷付いた色が現れた。
「外したいのではありません。」
「では、何を。」
「あなたが間違いを認める前に、誰かが止められるようにしたいのです。」
「私が間違えることを前提に?」
「眠っていない人間は、間違えます。」
「今の命令に誤りはない。」
「今回には。」
青年は一度、目を伏せた。
「次も同じとは限りません。」
ジャンは周囲を見た。
五人の責任者、書記、補給係が、仕事を続けるふりをしながら二人の会話を聞いている。
ここで青年を退ければ、ジャンは自分への疑問を許さない指揮官になる。
認めれば、自分の命令へ常に別人の確認が必要となる。
それは権威の低下ではない。
既に権威が一人の身体へ集中し過ぎていることを認める行為だった。
「今後、私の命令書は二人が確認してください。」
ジャンは書記へ言った。
「内容と日付、既存の命令との矛盾を見る。問題があれば、発送前に戻してください。」
書記は驚きながら頭を下げた。
「確認する二名は、誰を。」
ジャンは答えようとし、側近の青年を見た。
「あなたと、五人の責任者から一名。」
青年はすぐに頷かなかった。
「私だけでは、あなたへ反対しにくい。五人のうち、その命令に最も関係する者を加えてください。」
「それで構いません。」
ジャンは自分の署名を見た。
以前より線が震え、最後の一画だけが長く伸びている。
自分の名前さえ、疲労を隠せなくなっていた。
午後、食料回廊へ出す最初の名簿が完成した。
正確ではない。
それでも、誰が何人を抱え、どこにいるかを、以前よりは示せる。
ラファエル側へ使者を出す準備が整い、青年はジャンへ最終確認を求めなかった。
五人の責任者が署名し、ジャンの名は証人欄へ置かれた。
――彼はそれを見ても反対しなかった。
使者が出発した後、医師が本営へ呼ばれた。
ジャンは診察を拒もうとしたが、青年が命令書の確認役を引き受ける条件として、診察を受けることを要求した。
医師は瞼を持ち上げ、脈を測り、指先の震えを確認した。
「最後に、連続して六刻以上眠ったのはいつです。」
ジャンは答えられなかった。
「覚えていないのですか。」
「数日前です。」
「何日前かを。」
「復活王朝軍が来る前。」
青年が横から言った。
「四日以上前です。」
医師の指が、ジャンの手首から離れた。
「今夜は眠らせます。」
「使者の返答が来ます。」
「返答は他の者が読めます。」
「判断は。」
「判断する方々を、先ほど選んだのでしょう。」
ジャンは青年を睨まなかった。
自分の言葉を医師へ渡されたことへ反発するより、それが正しいと理解している。
「薬は使いません。」
「眠れないなら使います。」
「意識が戻らなくなる可能性がある。」
「このままでも、立ったまま意識を失います。」
医師は鞄から小瓶を出した。
「強い薬ではありません。眠りへ入るまでの時間を短くするだけです。」
ジャンは瓶を見つめた。
軍の外では三つの包囲軍が動き、内部では配給が半分に減り、部隊ごとに降伏先を探している。
目を閉じれば、その間に全てが崩れるように思えた。
「一刻だけ。」
医師は首を横へ振った。
「時間は、身体が決めます。」
「起こす条件を決めてください。」
青年が口を開く。
「食料回廊が閉じた場合。包囲軍が攻撃を始めた場合。内部で武器を使った衝突が起きた場合。その三つです。」
医師は青年を見た。
「発熱や痙攣が起きれば、起こす必要もありません。」
「ジャンへ言っているのです。」
「分かっています。」
青年はジャンへ向き直った。
「この三つ以外では起こしません。」
「ラファエルから条件変更が来ても?」
「五人で判断します。」
「アーセン軍が国境側を動けば。」
「斥候へ任せます。」
「レオンが元革命軍へ離脱を呼びかければ。」
「本人たちが選びます。」
一つずつ、自分が起きている理由を取り上げられていく。
ジャンは息を吐いた。
「分かりました。」
医師が薬を水へ数滴落とした。
ジャンは器を受け取ったが、すぐには飲まない。
「眠っている間に、私を包囲軍へ渡しますか。」
青年の顔が強張った。
疑っているのではない。
不眠によって、自分がいない間に何を決められるかという恐怖が、口から先に出た。
「渡した方がよいと思えば、起きているあなたにも申し上げます。」
青年は静かに答えた。
「眠っている間だけ裏切るほど、私は器用ではありません。」
ジャンは暫く彼を見た後、薬を飲んだ。
同じ頃、アーセンの野営地では、捕虜三人が別々の天幕へ分けられ、同じ質問を受けていた。
ジャンの居場所を知っているか。
直接問われたのは、それだけだった。
一人目は、知らないと答えた。
二人目は、南部本営にいると聞いたが、本人は毎日移動していると述べた。
三人目は、昨日の夜に西の町で見たと証言した。
三人の言葉は一致しない。
アーセンは、それを嘘として責めなかった。
捕虜を殴り、眠らせず、同じ答えへ揃えることも命じなかった。
代わりに、捕虜が持っていた物を卓へ並べさせた。
命令書。
馬の交換票。
食料配給票。
乾燥肉を包んでいた布。
茶葉の小袋。
薬草を購入した領収書。
それぞれは、ジャン本人の位置を示すものではない。
だが、命令書の紙質、折り目、泥の色、蝋の温度によって、どこで書かれ、どの経路を通ったかを推測できる。
参謀は、捕獲した命令書を日付順へ並べた。
「西の行政都市から出た命令は、正午過ぎ。東の軍事法廷へ停止を求めた文書は日没前です。」
「本人が、その場で書いた証拠は。」
アーセンが尋ねる。
「文体と署名だけです。」
「それでは足りない。」
参謀は紙を裏返した。
「西の命令書には、青灰色の泥が付いています。行政都市周辺の粘土質と一致します。東のものには、広場の木卓へ使われた松脂が。」
「署名した場所は、報告通りだろう。」
「はい。しかし、その後の命令は全て同じ紙へ変わっています。」
参謀は別の三通を置いた。
紙の色は僅かに黄ばみ、片隅へ同じ透かしがある。南部本営が以前から備蓄していた公用紙だった。
「本人が本営へ戻った。」
「あるいは、本営の書記が代筆した。」
「署名は?」
「本人の筆跡です。」
アーセンは三通の署名を見た。
一通目は線が鋭く、最後まで途切れていない。
二通目は末尾が僅かに震える。
三通目では日付が訂正され、同じ内容の紙が二枚作られている。
「眠っていない。」
アーセンの言葉に、参謀は命令書から顔を上げた。
「署名だけで?」
「署名だけではない。」
アーセンは馬の交換票を引き寄せた。
ジャンが通過したと考えられる宿場では、通常一日に一頭か二頭しか替え馬が出ない。ここ数日は、夜間にも同じ体格の騎手へ馬が渡され、返された馬は全て汗と泡にまみれている。
食料配給票では、ジャンの本営へ乾燥肉と濃い茶が運ばれる量だけが増え、酒と睡眠用薬草の使用はない。
医薬品記録には、頭痛薬、胃の痛みを抑える薬、目の炎症へ使う布が追加されている。
「疲労していることは間違いありません。」
参謀は言った。
「ですが、居場所は毎日変わる。」
「変えているように見せている。」
アーセンは、各地から出た命令書の到着時間を地図へ書き込ませた。
西の町から本営へ届く報告。
東の軍事法廷から戻る使者。
南西の武器庫。
北の通信所。
四方向から来る報告は、全て夜半から夜明け前の間に一度、同じ中継点へ集まっている。
そこから新しい命令が各地へ出る。
ジャン本人が町を移動しても、軍全体の報告を処理するには、同じ場所へ戻らなければならない。
「南部本営ではありませんか。」
参謀が地図を指した。
「大き過ぎる。」
アーセンは首を横へ振った。
「南部本営なら、出入りする伝令も、食料も、護衛も多い。本人を隠す場所には向かない。」
「しかし、公用紙は本営のものです。」
「紙だけを運んでいる。」
アーセンは捕虜の茶袋を手に取った。
袋には炭の粉が付いている。
南部本営周辺は農地であり、暖房には薪が使われる。炭を大量に扱う場所は、少し離れた旧鍛冶工房か、軍の蹄鉄を修理する中継所である。
別の命令書には、細かな鉄粉が付着していた。
「馬を替え、伝令を集め、夜中でも火を使える。公用紙を保管し、護衛を置いても不自然ではない場所。」
参謀は地図の南東へ目を移した。
「旧軍馬整備所。」
アーセンは返答せず、別の記録を開いた。
替え馬の蹄鉄交換数。
本営へ申告された数より、毎夜二頭だけ多い。
その二頭は夜明け前に整備所へ入り、朝には別の厩舎へ移されている。
「ジャンは、そこへ戻っている。」
参謀の指が地点へ止まった。
「伝令を集めるために?」
「それだけではない。」
アーセンは薬草の領収書を示した。
同じ整備所へ、頭痛薬と濃い茶が送られている。軍全体へ配る量ではない。一人か数人のための量だった。
「本営では休めない。部隊の隊長、避難民、役人、全員が会いに来るからだ。だから少し離れた中継所へ移り、そこで命令を処理する。」
「休むための場所なら、護衛が厚いのでは?」
「休んでいないから、厚くない。」
アーセンは捕虜三人の証言書を並べた。
一人目は、ジャンが常に移動しているため知らない。
二人目は、本営にいると聞いた。
三人目は、西の町で見た。
誰も嘘をついていない。
ジャンは町を移動し、本営へ顔を出し、夜明け前には整備所へ戻る。
全員が別の時間の真実を見ていた。
参謀は地図上の距離を測った。
「ここへ部隊を送れば、ラファエル軍の包囲線を一部越えます。」
「知らせない。」
「ラファエル軍と衝突します。」
「大部隊ならな。」
「何人で向かわせるおつもりです。」
アーセンは整備所周辺の地形図を開いた。
北側は緩い斜面。
西は放棄された牧草地。
南には小川。
東は蹄鉄用の炭と廃材を積む狭い作業道。
軍を入れれば目立つ。
少人数なら、ラファエルとジャン双方の斥候へ紛れられる。
「十二人。」
参謀は聞き間違いを疑ったように顔を上げた。
「ジャンの捕縛に?」
「軍と戦うつもりはない。」
「護衛が十二人を超えていれば。」
「引く。」
「次の機会を待つのですか。」
「次には、居場所を変える。」
参謀の眉間に皺が寄った。
「ならば、確実にするため、五十人は必要です。」
「五十人が動けば、ジャン軍もラファエル軍も気付く。戦闘になり、本人を殺す可能性が上がる。」
「殺してはいけない理由は。」
アーセンは参謀を見た。
「今まで、何を調べていた。」
参謀は言葉を止めた。
ジャン軍は、ジャンの細かな命令で動いていない。
各部隊が自分の町と信念を守り、ジャンの名を正当性として使っている。
本人を殺せば、全ての部隊が自分こそ遺志を継ぐ者だと主張する。
「生きたまま捕らえても、奪還を名目に動きます。」
「動く。」
アーセンは否定しなかった。
「だが、遺志を好きに作れない。」
「本人へ命令を書かせる可能性も。」
「国外へ運ぶ。」
参謀の目が僅かに開いた。
「国境まで、包囲軍とジャン軍の間を抜けるのですか。」
「捕らえた直後に軍へ知らせなければよい。」
「失踪させる?」
「本人の居場所が分からなければ、部隊は救出先を定められない。ラファエルを疑う者、レオンを疑う者、我々を疑う者に分かれる。」
「一時的には、混乱が増えます。」
「一つの軍として動けなくなる。」
アーセンは地図上の整備所から国境まで、細い線を引いた。
主要街道は使わない。
家畜を運ぶ道、林業用の道、洪水期だけ放棄される浅瀬を繋ぐ。
捕虜用の大きな馬車も使わず、負傷兵を運ぶ担架か、荷物へ紛れさせる。
「ジャンが抵抗した場合は。」
参謀は尋ねた。
「殺すな。」
「こちらの兵が殺されても?」
アーセンの視線は揺れなかった。
「腕か脚を折ってでも捕らえる。だが、首と胸は狙うな。」
「そこまでして、生かす価値が。」
「価値ではない。」
アーセンは、震え始めた署名へ指を置いた。
「死なせた時の損害が大き過ぎる。」
天幕の外で、見張り交代の鐘が一度鳴った。
夜明けまで、まだ時間がある。
ジャンが薬を飲んだことを、アーセンは知らない。
だが、命令書の震え、増えた茶、使われ続けた替え馬から、いつ限界が来てもおかしくないと判断していた。
「今夜、向かわせる。」
参謀は地図を見た。
「本人が戻らなければ?」
「一晩だけ待つ。」
「その間に発見されれば。」
「整備所の作業員を装わせる。炭と蹄鉄を運ぶ荷車を使え。」
「誰を指揮官に。」
アーセンは十二人の名簿へ目を通した。
夜間移動ができる者。
馬の扱いに慣れた者。
殺すより拘束を優先できる者。
命令より功名を求める者は外す。
ジャンを英雄として憎む者も、恐れる者も外した。
最後に一人の名へ印を付ける。
「この男へ任せる。」
参謀は名を確認した。
「先の撤退で、兄を失っています。」
「だから、監視役を二人付ける。」
「復讐を望む可能性があります。」
「本人にも伝えろ。ジャンを殺せば、兄を失った戦争がさらに長く続くと。」
参謀は名簿を閉じた。
「作戦名は。」
アーセンは僅かに眉を寄せた。
「必要ない。」
「複数の命令書へ記す際に、呼称がなければ内容が露見します。」
「では、軍馬の回収とだけ書け。」
「人間を、軍馬として?」
「命令書を奪われても、整備所へ馬を取りに行くようにしか見えない。」
アーセンは立ち上がり、天幕の入口を開いた。
外では十二人の兵が、まだ何も知らされずに集められている。
武器は短剣、縄、口を塞ぐ布、眠らせるための薬だけ。
銃は最低限に減らされていた。
軍隊を倒すための装備ではない。
一人を連れ去るための道具だった。
同じ夜、ジャンは薬によって深い眠りへ落ちていた。
身体はようやく動きを止めたが、額には汗が浮かび、呼吸は時折浅くなる。
側近は寝台の横へ座り、三つの条件に当てはまる報告だけを自分の前へ置かせた。
食料回廊は、まだ開いている。
包囲軍からの攻撃はない。
内部で武器を使った衝突も、今のところ起きていない。
起こす理由はなかった。
それでもジャンの指先は、毛布の上で何度も動いた。
紙を探し、署名し、誰かを止めるように。
青年はその手を握らなかった。
触れれば目を覚ますかもしれない。
ただ、動きが収まるまで見守った。
夜明け前には、ジャンを旧軍馬整備所へ移す予定だった。
本営では人が多過ぎ、眠り続けている姿を見られれば、指揮不能という噂が広がる。静かな場所で医師に診せ、目を覚ますまで報告を五人の責任者が処理する。
それはジャンを守るために、側近たちが初めて本人へ知らせず決めた移動だった。
整備所へ向かう荷車は、まだ用意されていない。
その道の反対側から、炭と蹄鉄を積んだ別の荷車が、既に夜の林へ入っていた。
アーセンは大軍を動かさなかった。
城壁を破る砲も、包囲を狭める歩兵も送らなかった。
眠らない一人の男が、必ず戻る場所だけを見つけた。
そして、その男が初めて深く眠った夜に、捕らえるための十二人を差し向けた。
第七十話 DarkAngle
炭と蹄鉄を積んだ荷車は、夜明け前の林道を、車輪の軋みを隠そうともせず進んでいた。
荷台の上には黒い炭袋が十二袋、鍛冶場へ納める鉄材、割れた馬具、使い古された毛布が積まれている。御者台へ座る二人は軍服を脱ぎ、炭焼き職人の擦り切れた上着を纏っていた。残る十人は荷の間へ身体を沈め、短剣、縄、目隠し、猿轡を炭袋の下へ隠している。
銃は三挺だけだった。
一挺は御者台の下。
二挺は荷台の両端。
戦闘を避けられない場合にも、威嚇と退路確保へ使うための数であり、旧軍馬整備所を制圧するには足りない。
部隊を率いる男は、荷車の最後尾で身体を横たえ、炭袋の隙間から空を見ていた。
名を呼ばれることを禁じられているわけではない。
ただ、出発前にアーセンから、今回の命令書へ誰の名前も残すなと言われていた。
捕縛に成功しても、失敗しても、十二人が一つの部隊として記録されることはない。国境を越えた後に褒賞を受ける者もいない。死ねば、軍馬の回収中に行方不明となった兵士として処理される。
男の兄も、同じように記録から薄く消えた。
ジャン軍との先の戦闘で、後衛を守るため残り、胸へ銃弾を受けた。遺体は回収できず、死亡確認の欄には、戦場放棄時に消息不明とだけ記されている。
男は、兄を殺した兵士の顔を知らない。
その兵士へ命令した人物も、ジャンであったかどうか分からない。
それでも、軍の報告書には敵指揮者としてジャンの名が書かれ、国外から届いた新聞には、南部の怪物、DarkAngleの軍勢によって損害を受けたと記されていた。
兄を失った怒りは、名のある一人へ向ける方が容易だった。
荷車が窪みへ落ち、大きく揺れた。
隣に伏せていた監視役の兵士が、男の手元へ視線を落とした。彼の右手は、外套の内側に隠した短剣の柄を握っている。
「まだ、抜く場面ではありません。」
囁きは小さかったが、警告としては十分だった。
男は手を離さず、炭袋の隙間へ目を戻した。
「分かっている。」
「分かっている方は、出発してから三度も柄を確かめません。」
「落としたかもしれないだろう。」
「落とせば、荷台の板へ音がします。」
男は監視役へ顔を向けた。
「俺が殺すと思っているのか。」
「思っているから、私ともう一人が付きました。」
「正直だな。」
「あなたも、兄上を失ったことを隠しておりません。」
男の指から、ようやく力が抜けた。
監視役は追い打ちを掛けなかった。
兄の死を忘れろとも、任務へ私情を持ち込むなとも言わない。忘れられない人間へ正しい言葉を投げても、忘れられないという事実は変わらない。
「アーセン殿は、なぜ俺を選んだ。」
男が尋ねると、監視役は僅かに考えた。
「殺したいほど憎んでいる者が、それでも命令を守れるか確かめるためではありませんか。」
「試験か。」
「違うでしょう。」
「ならば?」
「ジャンを殺さず捕らえられる軍だと、我々自身へ証明するためです。」
男は鼻から短く息を吐いた。
「立派な話だ。」
「立派ではありません。殺せば面倒が増えるから、生かすだけです。」
「それなら、俺ではなく冷静な奴を選べばよい。」
「冷静な者は、相手が剣を抜いた時に、合理的な判断として胸を撃ちます。」
男の目が細くなった。
監視役は荷台の前方を見たまま続けた。
「あなたは、殺したいからこそ、殺さない理由を覚えている。」
その言葉が慰めではないことだけは分かった。
男は短剣から手を離し、縄の位置を確かめた。
林が途切れ、旧軍馬整備所の外壁が見え始めた。
石造りの低い建物が三棟、蹄鉄工房、厩舎、飼料倉庫として並び、中央の広場には壊れた柵と水桶が残っている。戦争前は数十頭の軍馬を収容できたが、現在使われている馬は十頭にも満たない。
正門の上にはジャン軍の旗がなかった。
南部共同防衛の色も、革命政府の旗も掲げられていない。
中継所であることを目立たせないため、外から見れば放棄された鍛冶場にしか見えなかった。
門前には二人の兵士が立っていた。
一人は槍を持ち、もう一人は厚い外套へ腕を入れたまま、寒さを堪えるように肩を丸めている。
御者役の兵士が馬を止めた。
「炭と蹄鉄だ。夜明け前に入れろと頼まれた。」
槍を持つ兵士は荷車へ近づき、荷の上へ視線を走らせた。
「誰からの注文だ。」
「整備所の親方だ。」
「名前は?」
御者は顔を顰めた。
「昨日、東の市場で頼んできた禿げた男だ。名前まで聞いて商売するほど、こちらは上等な店ではない。」
外套の兵士が欠伸を噛み殺しながら言った。
「親方は昨日から寝ていない。炭を頼んだかもしれん。」
槍の兵士は納得せず、荷台の後ろへ回った。
炭袋の一つへ槍の柄を当て、硬さを確かめる。
中に潜む兵士の肩から、袋一枚を挟んだ位置だった。
部隊長は呼吸を浅くし、短剣ではなく縄へ指を掛けた。
「一袋、開けろ。」
門兵の言葉に、御者は面倒そうに舌を鳴らした。
「開けた袋は、お前が全部買えよ。」
「中を見せろ。」
「炭に決まっている。蹄鉄を隠して密輸する馬鹿がいるか?」
「今は、パン籠へ銃を隠す奴もいる。」
御者の表情が僅かに止まった。
マルス銃撃事件は、この整備所へも伝わっている。
門兵は相手の一瞬の反応を見逃さず、槍を持ち直した。
その時、整備所の内側から馬の嘶きが響いた。
厩舎の扉が開き、若い兵士が飛び出してくる。
「急げ! 寝台を運ぶ。毛布も、湯も用意しろ!」
門兵たちが振り返った。
御者は、その隙へ割り込むように尋ねた。
「病人でも出たのか。」
若い兵士は荷車を見ても、疑う余裕がなかった。
「炭なら中へ入れろ。火を強くする。」
槍の兵士が止めようとした。
「確認が――」
「後だ! ジャンを運んでくる!」
名前が口から出た瞬間、若い兵士自身が息を止めた。
門兵二人の顔が強張る。
御者は何も知らない商人の顔を崩さず、手綱を軽く振った。
「偉い方なら、尚更冷やすな。どこへ置く。」
若い兵士は、蹄鉄工房の隣にある小棟を指した。
「裏へ回せ。大声を出すな。」
門が開いた。
荷車はゆっくりと整備所の中へ入った。
部隊長は炭袋の隙間から、建物と兵の配置を確認した。
門兵二人。
厩舎に三人。
工房の火を起こしている作業員が二人。
小棟の前に、側近らしき青年と医師。
他に見える兵は四人。
合計十二人前後。
アーセンの推測より少ない。
ジャンの護衛は各地へ伝令として出され、整備所へ残っているのは側近と疲弊した兵だけだった。
荷車が裏手へ回ったところで、御者が車輪を大きな石へ当てた。
荷台が傾き、炭袋の一つが地面へ落ちる。
袋の口が破れ、炭が石畳へ散った。
「何をしている!」
工房の作業員が怒鳴って近づく。
御者は席を降り、車輪の下を覗き込んだ。
「軸が外れた。手を貸せ。」
作業員は舌打ちしながら屈んだ。
その背後へ、荷台から一人目の兵士が音もなく下りる。
口を塞ぎ、首へ腕を回し、地面へ倒す。
同時に、残る兵士たちが炭袋の間から起き上がった。
一人は門へ。
二人は厩舎へ。
三人は小棟へ。
部隊長と監視役二人は、最後に荷台を降りた。
最初の作業員が失神させられる前に、もう一人が異変へ気付いた。
「敵だ!」
声が整備所へ響いた。
門兵が槍を構え、厩舎の兵が銃を取る。
アーセン兵は正門を閉じるのではなく、外側へ押し開いた。
逃走時に閂を外す時間を失わないためである。
銃声が一発響いた。
門兵が撃った弾は、炭袋へ入り、黒い粉を空中へ撒き散らした。
アーセン側は撃ち返さず、荷車を横へ動かして盾にする。
「殺すな! 腕を狙え!」
部隊長の命令が飛んだ。
厩舎から出た兵士が剣を抜き、一人へ斬り掛かった。
アーセン兵は短剣で受けず、炭袋を投げつける。兵士の視界が黒い粉で塞がれたところへ、横から別の者が脚を払った。
倒れた身体を二人で押さえ、剣を蹴り飛ばす。
正面衝突は避けられている。
だが、小棟の前では、ジャンの側近が既に剣を抜いていた。
青年は整備所へ入った荷車が罠だと理解すると、医師を室内へ押し戻し、扉の前へ立った。
「誰の軍だ!」
部隊長は短剣を抜かなかった。
「アーセン殿の命令で来た。」
「ジャンを殺しに来たのか。」
「生きたまま連れて行く。」
青年の肩が僅かに下がった。
安堵ではない。
殺さないという言葉が、救いではなく誘拐の宣告であることを理解している。
「帰れ。」
「帰れば、次は五十人来る。」
「脅しのつもりか。」
「十二人で済ませたい。」
青年は剣先を上げた。
「本人は、まだ眠っている。」
「好都合だ。」
「四日間、まともに眠っていない。薬も使った。今動かせば、命に関わる。」
部隊長は医師へ視線を向けた。
「移送に耐えられるか。」
医師は青年の背後から顔を出し、答えることを躊躇した。
「答えるな。」
青年が遮った。
「彼らへ情報を渡せば、共犯になる。」
医師は側近の横顔を見た。
「ここで戦闘になれば、もっと危険です。」
「だから、渡せと?」
「生かすと言っている。」
「信じるのか。」
医師は部隊長と、その背後の兵士たちを見た。
彼らは銃を構えていない。
短剣と縄だけを持ち、倒した兵へ止血を施している者までいる。
少なくとも、最初から殺すために来た部隊ではない。
「移送するなら、寝台ごとだ。」
医師は答えた。
側近が振り返った。
「先生!」
「馬へ乗せれば、落ちる。荷車の揺れも抑えなければならない。目を覚ました直後に拘束すれば、心拍が上がる。」
部隊長は頷いた。
「荷車の炭を下ろす。毛布を敷く。」
青年は剣を下ろさなかった。
「勝手に話を進めるな。」
「あなたも連れて行く。」
「何?」
「医師もだ。途中で死なせれば、こちらが困る。」
「私は、ジャンから離れない。」
「ならば、話は早い。」
青年の目に怒りが浮かんだ。
敵の都合で同行を許されることが、忠誠への侮辱に感じられたのだろう。
「捕虜としてか。」
「世話係としてだ。」
「同じだ。」
「違うと言えば、信じるのか。」
二人の間へ、医師が手を上げた。
「言葉で決めている時間はない。眠りが浅くなっている。」
小棟の中から、寝台の軋む音がした。
ジャンが目を覚ました。
側近の身体が反射的に扉へ向く。
部隊長はその動きを見て、監視役へ合図した。
「扉を閉じるな。中へ入らせろ。」
青年は剣を構えたまま、後退して室内へ入った。
部隊長と監視役二人が続く。
部屋には寝台、机、医療道具、命令書を置くための小さな棚がある。ジャンは上体を起こし、毛布を腰へ掛けたまま、扉の方を見ていた。
薬がまだ残っているのか、瞳の焦点は遅れて動く。
「何が起きています。」
声は掠れていた。
側近は寝台の前へ立った。
「アーセン軍です。あなたを連れ去りに来ました。」
ジャンは部隊長を見る。
驚きはしたが、恐怖より先に室外の音へ耳を澄ませた。
「死者は?」
部隊長は返答に一瞬遅れた。
「こちらにはいない。あなたの兵も、今のところは。」
「今のところ。」
ジャンは毛布を退け、床へ足を下ろした。
側近が肩を支える。
「立たないでください。」
「外の兵へ停止を命じる。」
「こちらで止めています。」
「私の兵は、私が捕らえられると知れば戦う。」
「知られる前に出る。」
部隊長が答えた。
ジャンは男へ目を向けた。
「隠して連れ去るつもりですか。」
「あなたの居場所が分かれば、奪還の軍が動く。」
「分からなくても動きます。」
「互いに、誰を攻めるかで割れる。」
ジャンはその答えから、作戦の目的を理解した。
殺すのではない。
指揮官を奪い、救出先を曖昧にし、軍内部の疑念を増やす。
「アーセンが考えたのですか。」
「そうだ。」
「本人は来ない。」
「大軍を動かせば、あなたを殺すことになる。」
ジャンは側近の肩から手を離し、机へ向かおうとした。
最初の一歩で膝が揺れた。
医師が反対側から腕を取る。
「横になってください。」
医師が反対側から腕を取るのを振りほどき、ジャンは机の縁へ手を掛けた。
指先に力が入らず、木を掴む代わりに表面を滑る。
「偽造だと言われようが構わない、整備所へ残す。私の名前が一人歩きして次の町を焼くくらいなら、何も残さないよりはマシだ。全ての部隊へ、攻撃を止める命令を今ここで書き切る」
膝が揺れながらも執念でペンを握るその断定に、部隊長の制止は押し黙った。
側近が椅子を引いた。
「私が書きます。口述してください。」
部隊長は止めなかった。
命令書一枚で軍が完全に停止するとは考えていない。むしろ、各部隊が本物か偽物かを争えば、アーセンの狙いへ近づく。
それでもジャンは書かせる。
自分の言葉が利用されると分かっていても、何も残さず消えることを選べない。
側近が紙を置き、筆へインクを含ませた。
ジャンは呼吸を整えた。
「私の所在を理由に、いずれの軍へも攻撃を行わないこと。」
側近が書く。
「救出を名目に、役所、武器庫、街道を占拠しないこと。」
部隊長の背後で、監視役が僅かに息を吐いた。
以前から何度も出された命令と、ほとんど同じである。
ジャンは続けた。
「私が捕縛されたとの報告を受けても、誰か一人を後継者として立てないこと。各部隊は元の町か所属へ戻り、住民、負傷者、家族の安全を優先すること。」
側近の筆が止まりかけた。
「あなたが生きているとは、書かないのですか。」
「それを書けば、私を救えると考える。」
「死んだと思われれば、復讐が始まります。」
ジャンは目を閉じた。
どちらを選んでも、誰かが都合よく使う。
生存を書けば奪還。
死を匂わせれば殉教。
「生死については書かないでください。」
「では、最後は。」
ジャンは机の上の紙を見た。
文字が僅かに揺れて見える。
「私の名を、命令の根拠へ使わないこと。」
側近の筆が動かない。
「それでは、誰もこの命令を聞きません。」
「今まで聞かなかった。」
「だからこそ、もっと強い言葉を。」
「強い言葉を使えば、私を代表にする。」
側近は唇を噛んだ。
ジャンは自分で筆を取ろうとした。
右手が持ち上がらず、机の上で指が震える。
「書いてください。」
青年は目を伏せたまま、最後の一文を記した。
ジャンは署名を求め、筆を受け取った。
最初の一画を引いた時、手首が大きく揺れた。
文字は以前の署名より崩れ、最後の線が途中で切れる。
――彼は書き直そうとしたが、部隊長が紙へ手を伸ばした。
「そのままにしろ。」
ジャンは男を睨んだ。
「偽造を疑われる。」
「今のあなたが書いた証拠になる。」
「弱っている署名を見せれば、指揮不能だと――」
「事実だ。」
側近が部隊長へ剣を向けた。
監視役二人が同時に動き、片方が刃を短剣で受け、もう片方が青年の手首を掴む。
「離せ!」
「殺すな!」
部隊長の命令が重なる。
青年は二人を振り払おうとしたが、数日間の疲労で力が続かない。剣を落とされ、床へ膝をつかされた。
ジャンが椅子から立ち上がった。
「彼へ手を出すな。」
「動かないでください!」
医師が止めた。
ジャンは机の横へ置かれていた自分の剣へ手を伸ばした。
鞘から抜こうとしたが、指が柄を正確に掴めない。
一度目は滑り、二度目でようやく握る。
刃を半分ほど抜いた時、腕が止まった。
剣の重さが、普段より何倍にも感じられる。
部隊長は武器を構えず、正面から近づいた。
「置け。」
「私へ命じるのですか。」
「その身体で剣を抜けば、こちらが押さえる前に自分を傷付ける。」
「近づけば、斬ります。」
「斬れていない。」
ジャンの目に怒りが浮かんだ。
――彼は身体を捻り、剣を抜き切ろうとした。
視界が暗くなった。
力を入れた脚が床を支えられず、膝が折れる。
医師と側近が同時に手を伸ばしたが、部隊長の方が近かった。
男はジャンの胸を支え、床へ倒れるのを防いだ。
その身体は、想像していたより軽かった。
軍を膨張させ、外国軍へ損害を与え、各地で政府を倒した怪物として語られていた男は、四日間の不眠と食事不足で、鎧を外せば痩せた一人の兵士に過ぎなかった。
部隊長の右手は、ジャンの肩を支えている。
左手は短剣の柄へ届く。
この距離なら、胸へ刺せる。
兄を死なせた軍の指揮官を、自分の手で終わらせられる。
ジャンは意識を失っていない。
呼吸を乱しながら、男の顔を見た。
「兄を失ったのですね。」
部隊長の指が硬くなった。
「なぜ分かる。」
「私を見る目が、敵を捕らえる目ではない。」
「分かったように言うな。」
「分かりません。」
ジャンは息を継いだ。
「誰が殺したかも、どこで死んだかも、私は知らない。」
「お前の軍だ。」
「そうでしょう。」
否定されると思っていた。
自分は命じていない。
各部隊が勝手に戦った。
復活王朝や別軍の流れ弾かもしれない。
ジャンには、逃げる言葉がいくらでもあった。
それでも彼は、そうでしょうと答えた。
部隊長の短剣へ掛かった指が震える。
「謝れば済むと思うな。」
「思いません。」
「俺の兄は、記録では行方不明だ。死体もない。」
「名前は?」
部隊長は答えなかった。
「覚えるつもりか。」
「覚えられないかもしれない。」
ジャンは正直に言った。
「今も、何人の死者がいるか分からない。」
男の顎が引き攣った。
「なら、聞くな。」
「それでも、名前があったのでしょう。」
部隊長の胸へ、怒りとは違う痛みが走った。
兄の名を口にすれば、この男の記憶へ与えてしまう。
言わなければ、兄は敵指揮官にさえ知られないまま消える。
監視役が一歩近づいた。
「任務を。」
男は短剣から手を離した。
「縄を出せ。」
ジャンは抵抗しなかった。
できなかったのではない。
側近の手首を押さえていた兵へ目を向けた。
「彼を傷付けないなら、従います。」
部隊長は青年へ視線を移した。
「同行する。医師もだ。」
側近は押さえられたまま、ジャンを見た。
「私のことを条件にしないでください。」
「あなたがここへ残れば、私の命令を持って軍を止めようとする。」
「当然です。」
「殺されます。」
「それでも――」
「今度は、私があなたを止めます。」
ジャンの声は弱かったが、青年の言葉を遮った。
「ついてきてください。」
側近の顔が歪んだ。
逃走でも救出でもない。
捕虜として敵国へ向かうことを、同行してほしいと頼まれている。
「命令ですか。」
青年が尋ねた。
ジャンは僅かに首を横へ振った。
「頼んでいます。」
側近は目を閉じた。
「最初から、そう仰ればよかったのです。」
監視役たちは青年の手を離した。
医師はジャンの脈を確認し、寝台へ戻すよう命じた。
アーセン兵は荷車の炭を半分以上下ろし、板の上へ毛布と藁を重ねた。ジャンを寝台ごと運ぶ案は、門を通る際に目立つため却下された。代わりに軍用担架へ固定し、炭袋の間へ寝かせる。
手首の拘束は前ではなく、毛布の下で片方ずつ荷台の金具へ繋いだ。
完全に動けなくすれば体調が悪化し、自由にすれば走行中に逃げる。医師が、血流を妨げない締め方を自分で確認した。
側近と医師も荷台へ乗せられたが、手は縛られなかった。
抵抗すれば、その場で拘束するとの条件だけが告げられた。
整備所の兵たちは、武器を奪われ、工房の中へ集められていた。
殺された者はいない。
銃創を受けた一人も、腕を掠めただけだった。
部隊長はジャンの命令書を、整備所の中央にある机へ置いた。
その上へ石を載せ、風で飛ばないようにする。
側近が荷台から見ていた。
「持っていかないのですね。」
「残すために書いたのだろう。」
「あなた方に都合がよいからでしょう。」
「都合が悪ければ、燃やしていた。」
側近は返答せず、命令書へ視線を残した。
荷車が動き出す。
門兵たちは拘束を解かれていないため、追うことはできない。だが一刻も経たず、近隣の部隊が異変へ気付くだろう。
十二人は、来た道を戻らなかった。
東の作業道から小川へ下り、荷車の車輪を浅い水の中へ通す。轍を消し、その後、林業用の道へ入る。
ジャンは薬と疲労によって、再び意識を失いかけていた。
荷車が揺れるたび、側近が毛布の位置を直し、医師が呼吸を確かめる。
部隊長は御者台の横へ立ち、後方を警戒した。
兄を失った怒りは消えていない。
ジャンが無抵抗だったから、赦したわけでもない。
ただ、殺さずに捕らえた。
それだけが、今は自分と兄の死を、同じ報復の中へ落とさずに済ませていた。
旧軍馬整備所でジャンの失踪が判明したのは、荷車が林へ消れてから半刻後だった。
最初に到着したのは、食料回廊の人数確認へ来たラファエル軍の小隊だった。
整備所の兵を解放し、命令書を読み、何人の敵が来たか聞き取る。
兵たちの証言は一致しなかった。
十人だった。
二十人以上いた。
炭袋の中から際限なく出てきた。
一人も銃を撃たなかった。
最初に撃ったのは門兵だった。
全員が外国語を話した。
いや、国内の言葉だった。
誰かがアーセンの名を聞いた。
誰も名乗らなかった。
ラファエル軍の隊長は、命令書の署名を確認した。
崩れた筆跡。
前日の日付を誤った署名よりも、さらに弱い線。
「本物ですか。」
部下が尋ねる。
整備所の側近も医師も連れ去られ、筆跡を確認できる者はいない。
「本物だとしても、捕らわれた状態で書かされた可能性がある。」
「偽物なら?」
「どちらでも、各部隊は信じたい方を選ぶ。」
予測はすぐ現実になった。
ジャン失踪の報告が最初の部隊へ届くと、その隊長は命令書を本物と認め、兵を元の町へ戻す準備を始めた。
別の部隊は、署名が崩れていることを拷問の証拠だと主張し、ジャン奪還のためラファエル軍へ攻撃しようとした。
アーセン軍の仕業と判断して国境へ向かう者。
レオンが密かに拉致し、中央へ運んだと疑う者。
ラファエルが保護の名目で隠していると考える者。
さらに、ジャンが自分たちの暴走を止めるため、意図的に姿を消したという説まで生まれた。
本営へ集まった将校たちは、誰の命令に従うかを決められなかった。
「命令書には、後継者を立てるなとある。」
「敵に書かされた紙だ。」
「では、誰を代表にする。」
「一番兵力の多い部隊だ。」
「それをしたら、他の部隊が従わない。」
「ジャンを捜す間だけでも、統一指揮が必要だ。」
「統一した瞬間、ジャンの命令へ背く!」
声が重なり、誰も中央へ座れなかった。
昨日まで、ジャン本人が自分は指揮官ではないと否定しても、周囲は彼を中心に動いた。
今日、本人が消えると、誰もその位置へ代わりに座れない。
ジャンの名を利用することはできても、ジャンと同じように、異なる部隊へ同時に拒絶されず話を聞かせられる者はいなかった。
食料配給の五人は、命令書の通り共同管理を続けようとした。
だが一部の部隊が、ジャン救出へ向かう兵へ優先して食料を渡すよう要求し、別の部隊は撤退する者へ先に配れと主張した。
食料回廊へ出す名簿も、誰が代表署名をするかで止まった。
ジャンが捕らえられたことで、軍が一斉に降伏したわけではない。
アーセンの予測通り、一つの軍として動けなくなった。
ラファエル軍は、救出を名目に外へ出ようとする部隊を止めた。
レオン軍は、元革命兵へ個別の帰還を呼びかけ、武器を置いた者から受け入れた。
アーセン軍は国境側の道をさらに閉ざし、追跡部隊を別方向へ誘導した。
三軍の包囲は、ジャンを中心とした一つの敵ではなく、互いに異なる目的を持つ小部隊を一つずつ処理する段階へ変わった。
ジャンを乗せた荷車は、主要街道を避けて北東へ進んだ。
途中で一度、ラファエル軍の斥候と擦れ違った。
御者は荷車を止めず、炭を捨てて整備所から逃げてきた商人を装った。
斥候は荷台を調べようとしたが、遠くでジャン軍の一部が包囲線へ発砲し、警笛が鳴る。
彼らは荷車より戦闘へ向かった。
次の分岐では、アーセン軍の別働隊が待っていた。
荷車はそこで交換され、整備所へ入った十二人のうち八人が別方向へ散る。追跡者に見つかった場合、ジャンを運ぶ本隊を悟らせないためだった。
部隊長は最後まで残った。
新しい荷車は負傷兵の輸送用で、外から見れば血と薬の匂いが染み付いている。ジャンは包帯で顔の一部を覆われ、重傷者として荷台へ横たえられた。
側近は、その偽装を見て顔を顰めた。
「生きている顔を隠す必要がありますか。」
部隊長は手綱を確認しながら答えた。
「外国では、顔を知る者が増える。」
「英雄として?」
男は側近を見た。
「そちらでは、そうなのだろう。」
国境を越えるまでに、ジャンは一度だけ目を覚ました。
空は明るくなり、荷車の帆布を通して白い光が入っている。車輪の音は石畳ではなく、乾いた土の上を進む鈍い響きへ変わっていた。
側近が顔を覗き込む。
「水を飲めますか。」
ジャンは唇を湿らせた後、周囲を見た。
「どこです。」
部隊長が御者台から答えた。
「国境の手前だ。」
「私の軍は。」
「ばらばらになった。」
側近が男を睨んだ。
「その言い方をする必要はないでしょう。」
「事実だ。」
ジャンは目を閉じた。
痛みを感じているようには見えなかった。
予測していた結末を、確認しただけの顔だった。
「命令書は残したのですね。」
「残した。」
「読まれましたか。」
「読まれた。信じた者と、信じなかった者がいる。」
ジャンは小さく息を吐いた。
「それでよい。」
側近が顔を近づけた。
「よいはずがありません。あなたを救おうとする部隊が、包囲軍へ向かっています。」
「全員が同じ方向へ向かわないなら、一つの戦争にはならない。」
部隊長は手綱を握る手へ力を入れた。
「自分が捕まれば軍が分裂すると分かっていたのか。」
「分かっていました。」
「それでも、剣を抜いた。」
「何もしなければ、側近たちが私を守るため戦う。」
「抜いても戦った。」
「私が先に倒れたので、止まりました。」
部隊長は返答しなかった。
ジャンは自分が勝てるとは思っていなかった。
剣を抜いた行為は逃亡のためではなく、側近や兵士の注意を自分へ集め、抵抗の中心を一つにするためだったのかもしれない。
それが正しかったかは分からない。
ジャン本人にも、全てを計算する力は残っていなかっただろう。
「兄上の名を、まだ聞いていません。」
ジャンが言った。
部隊長の肩が固くなる。
側近は二人の間に何があったか知らず、黙っていた。
「覚えられないと言っただろう。」
男は前を見たまま答えた。
「それでも聞きます。」
「聞いて、どうする。」
「何もできません。」
「なら、何のために。」
ジャンは帆布の隙間から見える空を見た。
「私の軍で死んだ誰か、ではなくなる。」
部隊長は長く黙った。
馬の蹄と車輪の音だけが続く。
やがて、男は兄の名を告げた。
ジャンは一度だけ繰り返した。
声は弱く、発音も完全ではなかった。
「忘れるなよ。」
「努力します。」
「約束しろ。」
ジャンは男へ顔を向けた。
「約束すれば、忘れた時に嘘になります。」
部隊長の口元が苦く歪んだ。
「本当に、嫌な男だな。」
「そうでしょう。」
側近が小さく息を漏らした。
笑ったのか、泣きそうになったのか、自分でも分からない音だった。
国境の検問所では、アーセン軍の正規部隊が待っていた。
ジャンを運んだ者たちは、そこで初めて正式な捕虜引渡書を受け取った。
文書には、被拘束者の名前、身体状態、同行者、所持品が記されている。
部隊長は最下部の表記を見て、眉を寄せた。
被拘束者名、DarkAngle。
ジャンではない。
国内で広まったD'arc Angleとも違う。
文書を作成した役人へ尋ねる。
「この名前は、誰が決めた。」
役人は書類から顔を上げなかった。
「国外での通称です。」
「本人の名ではない。」
「軍の手配書、新聞、外交報告では、その名で統一されています。」
側近が書面を奪うように覗き込んだ。
「D'arc Angleです。綴りが違う。」
役人は、初めて側近の顔を見た。
役人は書類から顔を上げないまま、冷淡に宣告した。
「軍の手配書も外交報告も、その『闇の天使(DarkAngle)』の名で統一されています。地方政府を転覆させてきた男を、こちらの国が光の騎士と呼ぶ理由などありませんもの」
国家の手続きとしての冷徹な定義が、奪われた名の重みに対する絶望を突きつけ、側近の反論を完全に圧殺する。怒りに震える側近の沈黙を、ジャンは荷台の上から聞いていた。
「見せてください。」
側近が書面を持って近づく。
ジャンは拘束された手を動かせないため、目だけで文字を追った。
DarkAngle。
国内では、D'arc Angleという音へ英雄の意味が重ねられた。
勝利をもたらす者。
闇を切り裂く騎士。
軍を持たずに軍を動かした守護者。
国境を越えた同じ音は、闇から現れ、国を乱し、政府を倒し、外国軍を殺す怪物へ変わっている。
「訂正させます。」
側近が言った。
ジャンは首を横へ振った。
「必要ありません。」
「あなたの名ではない。」
「国内の名も、私が付けたものではありません。」
「だからといって、悪名を受け入れるのですか。」
ジャンは書面から目を離した。
「受け入れるかどうかを、誰も尋ねていないでしょう。」
役人は何も言わなかった。
彼にとって、ジャン本人の意思は書類の作成へ必要ない。国外で通用する識別名があれば足りる。
捕虜引渡書へ、部隊長が署名した。
ジャンの所持品として、剣、崩れた署名の命令書の写し、薬瓶、外套、側近が保管していた印章のない公用紙が記録される。
原本の命令書は整備所へ残され、既に国内で複数の意味へ分裂している。
国境の門が開いた。
荷車は、アーセンの国へ入る。
ジャンは国外へ連れ去られても、国内へ残った名から逃れられない。
D'arc Angleを掲げる者は、なお彼を救国者として戦い、DarkAngleを恐れる国々は、捕らえられた怪物を見ようと国境へ人を集める。
どちらの名前も、本人が命じたものではなかった。
勝利が命令を離れたように、名声も、悪名も、その名を持つ人間の手を離れていた。
ジャンは目を閉じた。
今度の眠りには、側近も医師も抗わなかった。
彼が眠っている間にも、国内では救出を求める兵が別々の方向へ進み、降伏する部隊が武器を置き、撤退する者が町へ戻り、残った者が自分こそジャンの意思を継ぐと宣言していた。
一つの軍は、終わった。
だが、その軍を作った名前は、国境の両側で、別々の戦争を始めようとしていた。




