第七章前編:D'arc Ange
南部の共同防衛本部へ最初の砲声が届いたのは、夜明けの霧が街道を覆い、見張り台から川面さえ確認できない時刻だった。
音は一度、湿った大気へ低く響き、暫く遅れて二度目が続いた。復活王朝軍の先遣隊が、東側の街道を守る土塁へ砲撃を始めた合図であった。
砲弾は土塁の上部を削り、泥と木片を周囲へ撒き散らしたが、土の内側へ潜んでいた兵士たちは撃ち返さなかった。彼らは革命政府の正規兵だけではない。南部の地方兵、武器を持った自警団、復活王朝から離脱した騎兵、荷車を扱う職人、川筋を知る船頭が、同じ壕の中で別々の役割を与えられていた。
一つの旗の下へ集められてはいない。
同じ誓約書へ署名したわけでもない。
ただ、この街道を国外の軍隊へ渡せば、後方の町と畑が戦場になるという一点だけを共有していた。
見張り台から下りてきた少年兵が、ジャンの前へ膝をついた。息を整えるより早く、霧で濡れた報告書を差し出す。
「王朝軍の前衛、およそ千。砲は三門です。騎兵が川沿いへ分かれました。」
ジャンは報告書を開かず、少年兵の肩越しに本部の外を見た。負傷者を運ぶ担架、泥へ車輪を取られた弾薬車、朝食を配る女たちが、砲声の間隔へ耳を澄ませながら動き続けている。
「東門からの合図は?」
「ありません。」
「鐘も?」
「鳴っていません。王朝軍は三度目の鐘で門が開くと思っているようですが、町の鐘楼には革命兵が入っています。」
南部軍の老将が、卓上の地図へ太い指を置いた。
「内応する王党派が開ける約束だったのだろう。門が開かないと知れば、敵は正面から来る。」
「まだ、開かないと知っていない。」
ジャンは地図の東側を指で押さえた。
「だから待っている。砲を撃って、自分たちは来たと町へ知らせている。」
老将は眉間の皺を深くした。
「門が開くと信じている間に、こちらから叩くか。」
「今出れば、待っている騎兵に挟まれる。」
「では、土塁を撃たせ続けるのか。」
「土は戻せる。人は戻らない。」
ジャンは外套の袖で、地図へ落ちた雨粒を拭った。
「正面の兵は下がらない。撃ち返さず、壕の奥へ伏せる。川沿いへ分かれた騎兵は船頭に任せる。橋を守るのではなく、渡れる場所を消してくれ。」
中央政府から来た士官が反発と納得のいかなさを滲ませ、椅子を鳴らして立ち上がった。
ジャンの言葉は、その手続きの硬直を戦況を見切った一本の重い裁定で圧殺した。
「中央軍だけで守れるなら、昨日までに守っていたはずだ。命令系統の乱れを恐れて泥を被るのを拒むなら、その新しい肩書ごと後ろへ下がりなさい。川の深さを知る船頭たちにしか仕掛けられない罠がある。残った手は、すべて俺の名前で使い切る」
その決断の重さに、士官は唇を引き結んで沈黙した。反論を続ければ、中央政府が南部を守れなかった事実まで認めることになる。椅子へ戻りはしたが、納得した顔ではなかった。
老将はそれを横目に見て、地図の西側へ指を移した。
「王朝軍が内応を諦めれば、東の土塁へ歩兵を集中させる。こちらの火薬は多くない。」
「撃つ場所を減らす。」
「正面を捨てるのか。」
「正面へ入れる。」
ジャンが答えると、老将の目が細くなった。
東側の土塁の後方には、倉庫と職人街へ続く細い道がある。王朝軍は門を破れば町へ侵入できると考えるだろう。しかし、その道路は荷車が一台ずつ通る幅しかなく、両側には石工の作業場、染物屋の水槽、使われなくなった排水路が並んでいた。
「町へ入った兵を閉じ込めるつもりか。」
「閉じ込めるのではなく、広がれなくする。」
「住民が残っている。」
「もう移している。」
老将は初めて、地図からジャンへ視線を上げた。
「いつ命じた?」
「昨日、王朝軍が夜営したと聞いた時です。」
砲声が再び響いた。
今度は土塁の上で木材が折れる音が重なり、外から負傷者を求める声が上がった。ジャンの指先が地図の縁を強く押さえたが、走り出そうとはしなかった。
誰か一人の危機へ向かえば、別の場所が空く。
その選択を朝から何度も繰り返しているため、彼の瞼の下には青黒い影が沈んでいた。
復活王朝軍が待っていた三度目の鐘は、正午になっても鳴らなかった。
その頃、首都から南部へ続く複数の町では、夜明け前から革命政府の兵が同じ扉を叩いていた。
王党派の指揮官が集まる酒場、資金を保管する商人の倉庫、伝令が馬を交換する厩舎、密使が祈りを装って出入りしていた礼拝所。そのいずれにも、数週間前から見張りが付けられていた。
兵士たちは旗を掲げる者や、王の名を叫ぶ末端の支持者を追わなかった。先に拘束したのは、印章を持つ者、名簿を記憶する者、金の流れを管理する者、次の指揮官を知る者だった。
ある町の古い宿屋では、国内王党派の地方指揮官が、朝食のパンへ手を伸ばした時に窓硝子を破られた。
銃口が室内へ差し込まれ、扉の側に立っていた護衛が反射的に剣を抜く。最初の銃弾は護衛ではなく、卓上の文書へ手を伸ばした書記の胸を貫いた。
地方指揮官は椅子を倒し、燃え残った暖炉へ名簿を投げ込もうとしたが、背後から入った兵に手首を撃たれた。紙束は炎へ届かず、床へ散った。
「雑兵ではなく私を捕らえに来たのか。」
男は血の流れる手首を胸へ押しつけ、笑おうとして顔を歪めた。
革命軍の隊長は、床の名簿を靴先で踏み押さえた。
「あなたを捕らえれば、雑兵は誰の命令を待つ?」
「次の者が立つ。」
「その者の名前も、ここにある。」
隊長は床から一枚を拾い、男の顔の前へ掲げた。後継者、連絡係、資金提供者の名前が同じ筆跡で並んでいる。
地方指揮官の笑みが消えた。
「裁判は?」
「移送の途中で抵抗しなければ受けられる。」
「抵抗したことにするつもりだろう。」
隊長は答えなかった。
地方指揮官は、その沈黙から自分の運命を理解した。椅子の背へ肩を預け、呼吸を整えてから、まだ生きている護衛へ顔を向ける。
「剣を置け。ここで死んでも、何も繋がらない。」
護衛は床へ落ちた剣と男の顔を交互に見た。
「ですが――」
「聞こえなかったのか。」
地方指揮官は声を荒らげたが、怒りのためではなかった。護衛だけでも生かすため、命令の形を借りて懇願していた。
「置け。私の最後の命令だ。」
護衛の指が剣柄から離れた。
次の瞬間、地方指揮官の胸へ銃弾が入った。
室内に乾いた音が響き、男の身体が椅子ごと後方へ倒れる。革命軍の隊長は護衛を殺さず、壁際へ拘束させた。
命令を出す者だけを先に消す。
抵抗する力ではなく、抵抗を一つへまとめる者を排除する。
同じ手順は、朝から十を超える町で繰り返された。
復活王朝軍が国外から越境した時、国内の王党派は兵も武器も失っていなかった。それでも、どこへ集まり、誰の指示で門を開き、どの倉庫から食料を出せばよいかを知る者が消えていた。
生き残った支持者は、王朝軍の砲声を聞きながら待った。
命令が届くのを待ち、合図の鐘を待ち、既に殺された指揮官が現れるのを待った。
誰も、自分から門を開こうとはしなかった。
正午を過ぎると、復活王朝軍は内応を諦めた。
東側の土塁へ歩兵を集中させ、砲撃によって崩れた箇所から一気に進入する。土塁の内側に革命兵の姿がほとんど見えなかったため、王朝軍の指揮官は守備側が逃走したと判断した。
最初の歩兵が壕を越え、続く兵が旗を掲げる。
銃撃はなかった。
王朝軍の列は細い道へ入り、土塁を越えた勝利を後方へ知らせるため、金糸の旗を高く持ち上げた。
その旗が職人街の奥からも見えた瞬間、石工たちは作業場へ立て掛けていた支柱を外した。
切り出しかけの石材が道の片側へ崩れ、後続の兵を遮断する。
染物屋は水槽の板を抜き、濃く濁った水を道路へ流した。舗装されていない土が一気に泥へ変わり、装備を担いだ兵の足首を掴む。
屋根の上へ伏せていた地方兵が、先頭ではなく後方の将校へ銃を向けた。
最初の斉射で、白い羽根飾りを付けた指揮官が二人倒れた。
「前へ進め! 町の中心まで抜ければ広場へ出る!」
生き残った士官が叫んだが、その声は石工場の壁へ反響し、どの位置から発せられたかを守備側へ知らせた。二度目の銃撃が屋根から降り、士官は喉を押さえて泥へ沈んだ。
指揮官を失った前衛は進み続け、後衛は土塁へ戻ろうとした。
互いに逆方向へ動いた兵が狭い道で衝突し、倒れた者を踏まなければ身動きが取れなくなる。
復活王朝軍の騎兵は川沿いから町の側面へ回り込もうとしていた。しかし船頭たちは、浅瀬へ使われていない舟を沈め、川底へ綱と壊れた網を張っていた。
先頭の馬が水中の綱へ脚を取られ、騎手ごと倒れる。後続の馬は避けようとして深みへ入り、鎧の重さで水面から身体を持ち上げられなくなった。
岸から銃撃したのは正規兵ではなかった。
漁師、自警団、川沿いの農民が、普段鳥や獣へ向けていた古い銃を撃っている。装填も射撃姿勢も統一されていないため、王朝軍の騎兵は次の銃撃がどの方向から来るか予測できなかった。
復活王朝軍の本隊は、午後の早い時刻までに東側から後退を始めた。
敗北を決定したのは、兵力の不足でも火薬の欠乏でもない。国内王党派が門を開くという前提が崩れ、ジャンを中心とする一つの軍を倒せば南部が瓦解するという予測も外れたためであった。
ジャンは土塁の上から退却する王朝軍を見なかった。
本部へ運び込まれる負傷者の数を、一人ずつ書記へ確認していた。
「東側、死者三十二。重傷六十七。行方不明はまだ分かりません。」
「王朝軍は?」
「数えておりません。」
「数えられる範囲でいい。」
中央軍の士官が、血の付いた外套を脱ぎながら口を挟んだ。
「敵の死者まで心配している場合ではない。」
ジャンは書記から目を上げた。
「心配していない。明日、何人が戻ってくるか知りたい。」
「敗走した軍が、すぐ戻るものか。」
「戻れない人数を知らずに、勝ったとは言えない。」
士官は一瞬だけ言葉を失い、濡れた外套を椅子へ投げた。
「勝った。少なくとも今日の戦闘には。」
ジャンは頷かなかった。
土塁の外では、撤退する王朝軍の旗が霧の向こうへ消えつつある。その背後には、まだ別の軍がいた。
復活王朝軍の敗走を見たアーセンは、ジャン軍が追撃へ兵力を割くと予測していた。
王朝軍を追えば南東の道が薄くなる。追わなくても、負傷者の収容と土塁の修復によって守備側の動きは鈍る。どちらを選んでも、その間に中央へ近づく補給倉庫を押さえられる。
アーセンは全軍を投入しなかった。
先鋒へ騎兵と工兵を付け、後方には撤退路を維持する歩兵を残した。復活王朝のように、町の内応も、民衆の歓迎も期待していない。
狙うのは土地ではなく、ジャン軍が翌日以降も戦うために必要な麦、火薬、車輪、医薬品だった。
参謀が南東の街道を指した。
「王朝軍は完全に崩れています。追撃は出ていません。」
「出ないだろう。」
アーセンは遠眼鏡を下ろした。
「ジャンは、逃げる軍を追うために道を空けない。」
「なら、守備兵も動かないのでは?」
「動かなくていい。こちらは空いている倉庫へ入る。」
先鋒は、復活王朝軍の撤退から半刻も経たずに進軍を始めた。
街道の最初の橋には兵がいなかった。橋板も残り、欄干の下にも爆薬の痕跡はない。
工兵が安全を確認し、騎兵が渡る。
二つ目の曲がり角にも敵影はなかった。
アーセン軍は速度を上げた。
その判断が誤りだったのではない。
橋も道路も、軍隊を通すために破壊されてはいなかった。
ただ、橋を渡った後に必要となるものが、すべて移されていた。
街道沿いの井戸には蓋が打ち付けられ、飼料小屋は空になり、倉庫の車輪は軸ごと外されている。道標は抜かれ、脇道へ入れば収穫前の畑と排水溝へ誘導された。
先鋒が予定していた倉庫へ到着した時、建物の中に麦袋は一つも残っていなかった。
代わりに、床へ細かく砕かれた硝子と油が撒かれている。馬を入れれば蹄を傷め、火を使えば建物ごと燃える。
「伏兵です!」
見張りが叫んだ直後、倉庫の裏側から銃声が上がった。
アーセン軍の騎兵は即座に散開したが、攻撃は一方向から続かなかった。三発撃つと敵は移動し、別の作業場から二発、屋根の穴から一発、石垣の向こうから一発と、断続的に弾が飛んでくる。
追えば姿を消し、止まれば馬と将校が狙われた。
アーセンは後方から届いた最初の報告を読み、先鋒へ進撃停止を命じた。
「倉庫は空です。敵は小部隊に分かれています。数は多くありません。」
参謀が報告を読み上げた。
「少ないから厄介だ。」
「増援を送れば制圧できます。」
「制圧した後、何を守る。」
「倉庫と街道を。」
「空の倉庫を守り、井戸のない街道へ兵を並べるのか。」
アーセンは地図を折り、馬上で後方を振り返った。
復活王朝軍の敗走によって道は混雑し、負傷兵、捨てられた荷車、逃げた馬が撤退路へ流れ込んでいる。ジャン軍が意図して作った障害ではない。互いに連携していない二つの軍が、同じ道を別方向へ使おうとした結果だった。
「先鋒を戻せ。工兵を殿へ置き、負傷者を先に通す。」
参謀は僅かに躊躇した。
「今撤退すれば、ジャンに勝利を与えます。」
アーセンはその言葉に怒らなかった。遠くの銃声を聞き、馬の首筋へ片手を置いた。
「既に与えている。」
「ですが、ここで押し込めば――」
「押し込んだ先に食料も水もない。敵の本部を取っても、地方の兵は地方へ戻って戦う。橋を取っても船頭が別の浅瀬を潰し、倉庫を取っても職人が車輪を外す。」
アーセンは参謀の顔へ向き直った。
「我々はジャン一人と戦っているのではない。この土地で何を動かせば軍が止まるかを知っている者、全員と戦っている。」
「では、ジャンを捕らえても止まらないと?」
「今日の段階ではな。」
その答えを口にした時、南東の街道から黒煙が上がった。
退却中の王朝軍が捨てた火薬車へ、流れ弾が入ったのである。
爆発はアーセン軍の後衛に近い場所で起き、馬が驚いて隊列を崩した。横転した砲車が道を塞ぎ、後方から来た負傷者の荷車が次々に衝突する。
ジャン軍の攻撃ではなかった。
しかし、敵の混乱と地形を利用していたジャン側の小部隊は、その機会を逃さなかった。
排水溝へ潜んでいた兵が砲兵用の馬を撃ち、石工場の裏へ回っていた自警団が、砲車を引く綱を斧で切る。アーセン軍は人員を守るため、二門の砲と複数の弾薬車を放棄せざるを得なくなった。
撤退命令は速やかに伝わったが、被害を消すことはできなかった。
日没までにアーセン軍は南東の街道から退き、国境へ戻るための高地へ陣を移した。兵力の中核は残ったものの、前衛部隊の損耗、馬匹の喪失、砲と工兵器具の放棄は、次の攻勢を直ちに行える程度ではなかった。
参謀が死傷者の一覧を持ってくると、アーセンは最初に数字を確認し、次に失われた職種へ目を移した。
工兵、砲兵、獣医、車輪職人。
単なる兵数以上に、軍を動かす者が減っている。
「ジャン側は、我々の工兵を狙ったのでしょうか。」
「違う。」
アーセンは紙を畳んだ。
「彼らは、目の前で動かしている者を止めただけだ。誰か一人が全体へ命じた結果ではない。」
「それが、統率された軍より強いと?」
「常に強いわけではない。遅く、意見が割れ、同じ命令を繰り返せない。」
アーセンは暗くなった街道へ視線を向けた。
「だが、首を一つ落とせば死ぬ軍ではない。」
南部で二つの軍が退いたという報せは、夜更けにアデルたちの隠れ家へ届いた。
無名の王の姉は、毛布を肩まで掛けられ、窓から最も遠い寝台へ横たわっていた。塔から運び出された直後より血色は戻っているが、長く起きているだけで息が乱れ、指先にはまだ力が戻っていない。
寝台の下では、塔から連れてきた犬が丸くなり、戸口に立つレイモンへ片目だけを向けている。
レオンが報告書を読み終える間、アデルは姉のために温めた飲み物を匙で混ぜ続けていた。
「復活王朝は、何人失いましたの?」
姉の声は細かったが、言葉は明瞭だった。
レオンは紙から顔を上げた。
「確定していません。」
「少なく見積もった数字を聞いているのではありません。」
「まだ集計できないという意味です。」
「では、国内の王党派は?」
レオンの沈黙が僅かに長くなった。
姉はその間に答えを読み取り、毛布の上へ置いていた手を握った。
「殺されたのですね。」
アデルは匙を器の縁へ当て、乾いた音を一度響かせた。
「全員ではありませんわ。」
「指揮官を殺されたのなら、残った者は動けない。」
「動けない方が、今は生き残れます。」
姉の呼吸が浅くなる。
寝台の下の犬が頭を上げ、鼻先を毛布へ押しつけた。姉は震える指を伸ばし、その耳の後ろへ触れる。
「私を救うために来た人々が、私の居場所も知らないまま死んだのですね。」
「彼らは、あなたを救うためだけに来たのではありません。」
アデルは器を盆へ戻した。
「失った領地を取り戻す方、王政を復活させる方、自分の血統を守る方、革命政府へ報復する方。その全員が、あなたのお名前を必要としていた。」
姉は顔を横へ向けた。
「それでも、私の名前で来たのでしょう。」
「ええ。」
「なら、生きていると知らせれば止まるかもしれない。」
レイモンが何かを言おうとしたが、アデルは手を上げて止めた。姉から選択を奪わず、同時に希望だけで決めさせないため、彼女自身へ言葉を返す。
「姿をお見せになった後、どちらへ行かれますの?」
姉は眉を寄せた。
「戦っている者たちの前へ。」
「復活王朝の陣へ立てば、革命政府は王政復古の旗と見なします。革命政府の側へ立てば、王党派は監禁されたまま操られていると宣伝するでしょう。どちらにも属さないと仰れば、双方があなたを保護するという名目で奪い合います。」
「私が、自分の口で命じても?」
「あなたのお言葉をそのまま聞く方だけなら、既に戦争など起きておりませんわ。」
姉は視線を落とした。
アデルは責めるように追い込まず、寝台の側へ椅子を寄せた。
「外へ出る権利は、あなたにあります。わたくしが閉じ込めるつもりはありません。ただし、今お姿を見せれば、あなた自身より先に、王族、聖女、姉、正統な血統という意味が歩き始めます。塔から救い出した身体を、次は群衆が旗竿へ縛り付けるでしょう。」
「では、私は何もできないの?」
問いには怒りよりも、長い監禁の後に再び選択を奪われる恐怖が混じっていた。
アデルはその感情を慰める言葉で覆わなかった。
「何もしないことを、今は選べます。」
「隠れているだけではありませんか。」
「ええ。ですが、他人に隠されるのと、自分で姿を見せないと決めるのは同じではありません。」
姉はアデルを見た。
「あなたは、私に隠れてほしいのでしょう。」
「死なず、奪われず、考えられる状態まで戻っていただきたいのです。わたくしの希望は、それですわ。」
「それでも、最後に決めるのは私?」
「当然でしょう。助けた人間を所有する権利など、こちらにはございませんもの。」
姉はすぐには答えなかった。
犬の耳へ触れていた指を止め、窓のない壁を長く見つめる。塔の中では、黙っていても革命政府の囚人であり、声を上げても王党派の王族だった。自分が何者として話すかを、自分で決める時間はなかった。
やがて姉は毛布を胸元へ引き寄せた。
「今夜は、出ません。」
アデルの肩から、見えない程度に力が抜けた。
「明日は?」
「明日、また考えます。」
「結構ですわ。」
「考えて、出ると決めたら?」
アデルは器を取り直し、冷めかけた飲み物へ口を付けられる温度が残っているか確かめた。
「その時は、誰に見せ、何を言い、言った後にどこへ逃げるかまで、一緒に決めましょう。」
姉の口元が僅かに動いた。
「逃げる前提なのですね。」
「生きる前提ですの。」
外では、勝利を告げる鐘が鳴っていた。
復活王朝を退けた勝利。
アーセン軍を押し戻した勝利。
革命政府が国内王党派を壊した勝利。
同じ鐘の音を、町ごとに別の意味で聞いていた。
ジャンの本営へ最初の異変が届いたのは、夜が完全に落ちた後だった。
使者は泥にまみれた馬から転がるように下り、勝利を祝う兵の間を押し分けて会議室へ入った。手には戦況報告ではなく、地方役所の印章が押された布告を持っている。
「西の町で、行政評議会が追放されました。」
ジャンは負傷者の一覧から顔を上げた。
「誰に?」
「共同防衛へ参加していた地方兵です。評議会が王朝軍へ内通していたとして、役所を占拠しました。」
「証拠は?」
「まだ届いていません。」
「占拠を止めろ。」
「既に、新しい評議会を作ったと。」
ジャンは椅子を押して立った。
「誰が許可した?」
使者は答えられず、布告を差し出した。
紙の最上部には、ジャンの勝利によって南部が救われたため、その意思を守る臨時政府を設置すると記されている。
ジャンは最後まで読まず、紙を卓上へ置いた。
「私の名前を外せ。兵を役所から戻し、前の評議会を拘束するなら裁判へ送れ。勝手に追放するな。」
「伝えます。」
使者が退出する前に、二人目が入ってきた。
「南西の駐屯隊が中央政府の命令を拒否しました。」
「理由は?」
「ジャンの防衛線を解体する命令には従えないと。駐屯隊長は、南部の軍権をあなたへ集めると宣言しています。」
「集めない。」
「既に周辺の三隊が合流しました。」
ジャンは卓上へ両手を置いた。
「戻れと命じろ。」
「中央政府へではなく、元の町へ?」
「どちらでもない。今いる場所を守り、他の役所へ入るな。私の名前で人を拘束するな。」
二人目の使者が頭を下げた時、廊下でまた足音が響いた。
三人目の報告は北西から届いた。
革命政府の地方責任者が殺され、兵士たちがジャンを新政府の保護者として宣言した。殺された責任者は恐怖政治へ加担した疑いを持たれていたが、審理も証言もなく、役所の階段で銃殺されている。
ジャンの喉が動いた。
「誰が撃った。」
「群衆の中からです。兵士は、町の意思だと。」
「町は人を撃たない。」
「ですが、布告には――」
「布告が引き金を引いたのか?」
使者は口を閉じた。
老将は部屋の隅で、三枚の報告書を見比べていた。
「勝った軍へ、皆が自分の望みを着せ始めた。」
ジャンは老将を睨むように見た。
「私の軍ではない。」
「戦う前はな。」
「今も違う。」
「違うと言って止まるなら、最初の報告で止まっている。」
ジャンは反論しかけ、言葉を飲み込んだ。
外では兵士たちが、王朝軍を退けた歌を歌い始めている。歌詞には既に、ジャンが南部を解放したという一節が加えられていた。彼自身は命じていない。誰が作ったかも知らない。それでも、兵たちは自分が何を守ったのかを説明するため、その歌を必要としていた。
中央軍の士官が扉の側から言った。
「今なら、正式に軍権を引き受けられる。あなたが命令すれば、勝手な占拠も処刑も統一できる。」
ジャンは男へ身体を向けた。
「私が政府を取れば、止まると?」
「少なくとも、誰の命令かは明確になる。」
「私が反対する町は?」
「従わせる。」
「従わなければ?」
士官は答えなかった。
その沈黙の先にあるものを、ジャンは既に見ていた。役所を占拠し、反対者を拘束し、抵抗すれば撃つ。今、各地で起きていることを、一つの大きな命令へまとめるだけだった。
「それを止めるために、同じことを私がするのか。」
「軍を持つ以上、選ばなければならない。」
「軍を持った覚えはない。」
老将が低く息を吐いた。
「兵の方が、持たれたと思っている。」
四人目の使者が到着した。
今度は報告書すら持っていなかった。馬を替え続けて来たのか、両脚が震え、入口の柱へ肩を預けなければ立っていられない。
「東の二都市で、同時に蜂起が始まりました。」
ジャンは椅子へ戻らなかった。
「誰に対する?」
「一方は革命政府へ。もう一方は、復活王朝の残党へです。」
「両方が、私の名前を使っているのか。」
使者は俯いた。
「はい。」
ジャンは目を閉じた。
敵の軍隊なら、道を閉じれば止められた。
砲なら土塁を積み、騎兵なら川を塞ぎ、補給隊なら倉庫を空にすればよかった。
だが、同じ勝利から正反対の命令を作り、自分の名前を掲げて動く者たちは、どの街道から来るのかさえ分からない。
「全ての町へ送れ。」
ジャンは目を開き、書記へ向き直った。
「役所を占拠するな。裁判を経ずに殺すな。私を政府の代表へ置くな。中央政府の命令を拒む場合も、武器を住民へ向けるな。」
書記は筆を取ったが、すぐに動きを止めた。
「署名は、どの肩書で?」
ジャンは答えられなかった。
革命政府の将軍ではない。
南部軍の総司令官にも就いていない。
復活王朝の兵も、中央軍も、地方兵も、自警団も彼の周囲にいるが、その全てを代表する地位は存在しない。
それでも、彼の名だけが先に国中へ走っている。
「ジャンとだけ書け。」
「それでは、命令として弱いと判断されます。」
「肩書を付ければ、そこへ座ったことになる。」
「ですが――」
「私の名前で始めた者が、私の名前だけでは止まらないのか。」
声は大きくなかった。
しかし、その問いに答えられる者はいなかった。
書記は肩書のない署名を書き、複数の使者へ同じ文面を渡した。
馬が用意され、命令書は夜の街道へ散っていく。
その時には既に、西の町で新しい評議会が最初の処刑者を選び、南西の駐屯隊は別の部隊へ合流を求め、北西では殺された地方責任者の家族が報復のため兵を集めていた。
ジャンが停止を命じるより早く、彼の勝利は新しい命令を作っていた。
彼が戦場で手に入れたものは、従う軍隊ではなかった。
誰もが自分の行動を正当化するために使える、一つの名前だった。
勝利は既に、勝者の手を離れていた。
南部から届いた勝利の報告は、首都へ入るまでに三度、意味を書き換えられていた。
最初の報告には、復活王朝軍が敗走し、国外軍も甚大な損害を受けたと記録されていた。次の町では、それがジャンの指揮による南部解放へ変わり、首都へ着いた頃には、人民軍が王党派と外国軍を同時に粉砕し、新たな革命政府を求めて各地で蜂起したという布告になっていた。
誰が最初に「新たな政府」と書き加えたのかは分からない。
だが、その文言を消そうとした役人は、ジャンの勝利を恐れる反革命分子として役所から追い出された。
広場へ続く通りでは、壁へ貼られた布告の上から、別の印刷物が何重にも重ねられている。ジャンを南部の守護者と呼ぶ紙、軍人による政権奪取を非難する紙、中央政府の命令へ従うよう求める紙、その中央政府こそ勝利を横取りしていると訴える紙が、雨を吸って一枚の厚い皮膜となっていた。
通行人は内容を読み比べなかった。
どの紙の前で足を止めたかを他人に見られる方が危険だったため、皆、視線だけを横へ滑らせ、歩調を落とさず通り過ぎた。
広場の中央には、早朝から木製の演壇が組まれていた。
元は穀物価格の公示に使われていた低い台へ、演説者の姿が後列からも見えるよう、樽と厚板を重ねて高さを増している。前面には革命政府の布が張られていたが、左右の端には昨夜誰かが縫い付けた南部軍の色が残り、その上から中央政府の係員が黒い布を被せようとしていた。
二人の作業員が布を引き合い、互いの指を払い除ける。
「勝利した兵の印を隠すのか!」
「ここは軍営ではない。政府の演壇だ。」
「政府が南部を守ったのか?」
「その言葉を、監視官の前でも繰り返してみろ。」
作業員の一人は周囲を見回し、口を閉じた。
黒い布は完全には固定されず、風が吹くたびに下から南部軍の色が覗いた。
演壇の背後に設けられた控え所では、マルスが原稿を読まずに破っていた。
机には政府の書記が用意した演説文が三部並び、そのどれにも「革命政府の指導の下」「統一された人民」「不法な軍事蜂起を鎮圧する」という同じ表現が書き込まれている。
マルスは一枚目を裂き、二枚目の中央へ指を置いた。
「人民に勝手な政府を作るなと言いながら、こちらの政府へ従えと命じるのか。」
若い書記は、破られた紙を拾おうとして手を止めた。
「今は、権力の所在を明確にする必要があります。」
「明確なら、なぜ私へ喋らせる。」
「市民があなたの声を聞きます。」
「政府の声を聞かないから、私を使うのだろう。」
「そのような意味では――」
「意味を隠すなら、もっと上手な文章を書け。」
マルスは残った原稿を机の端へ押し退けた。
寝不足によって瞼の周囲は黒く沈み、指先には細かな震えがあった。演説を控えた興奮ではない。前夜から各地の報告を読み続け、食事も取らず、同じ部屋を何度も往復したために、身体が歩調を止められなくなっていた。
側近の男が、窓の隙間から広場を覗いた。
「予定より人が増えています。ジャン支持者だけでなく、王党派の残党も混じっているでしょう。中止した方がいい。」
「中止すれば、誰が喋る。」
「ロベルトが布告を出します。」
「紙では、今夜までに三人殺される。」
「あなたが喋れば、十人増えるかもしれない。」
マルスの足が止まった。
側近は発言を後悔したように唇を引いたが、取り消さなかった。
マルスは暫く男を見つめ、その後、机に置かれた水差しへ手を伸ばした。水を注ごうとしたが、器の縁へ注ぎ口を二度ぶつけ、半分ほどを机へこぼした。
「私が煽ると?」
「以前なら、そう申し上げませんでした。」
「今は?」
側近は答えなかった。
その沈黙を責める代わりに、マルスは濡れた指を上着で拭った。
「だから、今日は軍へ銃を向けろとは言わない。」
「別の誰かを示せば、同じです。」
「何も示さず、家へ帰れと言えば、人々は帰るのか?」
「少なくとも、殺す相手を与えずに済みます。」
マルスは窓の外へ耳を傾けた。
広場では既に、複数の集団が異なる歌を歌い始めていた。一方がジャンの勝利を称えると、別の集団が革命政府の歌で覆い隠し、王党派を罵る叫びと軍人政治を恐れる声が、互いの歌詞を聞こえなくするために強くなっていく。
「相手はもう与えられている。」
マルスは低く言った。
「私が黙っても、あそこでは誰かが指を差す。」
「だからこそ、あなたが差してはいけない。」
側近の言葉に、マルスは僅かに眉を動かした。
反論はしなかった。
控え所の外から、開演を知らせる鐘が鳴った。
同じ頃、コラソンは広場の北側にあるパン屋の軒下で、籠の底へ手を入れていた。
籠の上には固く焼かれた小さなパンが並び、その下に粗い布が二枚、そのさらに下へ短銃が隠されている。銃身は片手で覆えるほど短く、遠距離では命中を期待できない。演壇の近くまで入らなければならず、撃った後に再装填する時間もない。
一度だけ使うための武器だった。
彼女の前を、腕章を巻いた監視員が歩いていく。パンを売る女へ興味を示さず、群衆の中で軍帽を被った者、王党派の徽章を外し忘れた者、布告を踏んだ者の顔ばかりを見ていた。
コラソンは籠を持ち上げた。
指が布の下の金属へ触れた瞬間、冷たさが掌の奥へ入り込む。
昔、マルスに会った時、彼の手は温かかった。
雨の日に、通りの隅で咳き込んでいた子供を見つけ、演説へ向かう途中だったにもかかわらず足を止めた。母親が医師を呼ぶ金を持っていないと知ると、自分の外套を子供へ掛け、近くの施療院まで抱えて運んだ。
その時のマルスは、遅れた演説について問われても、子供の呼吸が戻る方が先だと笑った。
後になって、彼はその出来事を演説で使った。
貧しい子供を放置した社会を責め、聴衆を怒らせ、施療院の責任者の名前を読み上げた。責任者は翌日、群衆に家を破壊され、その家族まで逃亡した。
マルスが嘘を語ったわけではない。
子供を救ったことも、施療院が金のない患者を拒んでいたことも、どちらも事実だった。
だが、彼が誰かを救った記憶は、いつしか別の誰かを殺すための材料へ変わった。
コラソンは、それを正義と呼ぶことができなかった。
彼を悪人だと決めることもできなかった。
だから、言葉を止めるしかないと思った。
演壇の周囲には、警備兵が三重に配置されていた。しかし人数が多すぎるため、一人ずつ顔を確認できていない。パンや水を運ぶ商人は、群衆を落ち着かせる役に立つとして内側まで通されていた。
コラソンは売り声を上げず、人の肩へ籠をぶつけないよう横向きになり、少しずつ前へ進んだ。
後ろから押された老婆が転びかけ、反射的に腕を伸ばす。籠が傾き、底の銃が布の上で僅かに滑った。
金属音は群衆の叫びに消えた。
老婆はコラソンの腕へ縋り、呼吸を乱した。
「悪いね。押されてしまって。」
「ここから離れた方がいい。」
「マルスを見に来たんだよ。あの人なら、軍人たちを叱ってくれる。」
老婆の目には、疑いのない期待があった。
コラソンは彼女を支えたまま、何も答えられなかった。
広場の前方で歓声が上がった。
マルスが演壇へ姿を現した。
――彼は政府から渡された赤い飾り布を身に付けず、黒い上着のまま台の中央へ立った。拍手を求めるように手を上げることもなく、群衆を端から端まで見渡す。
歓声は自然には止まらなかった。
ジャンの名を叫ぶ者、マルスへ軍を糾弾しろと求める者、王党派を皆殺しにしろと叫ぶ者が、彼の最初の言葉を奪おうと競い合っている。
マルスは黙ったまま待った。
声を張って群衆を押さえつけるのではなく、何も言わずに見つめ続けた。前列の者が口を閉じ、その静けさが後方へ波のように広がる。最後まで叫んでいた男が周囲の視線に気付き、声を小さくした。
完全な沈黙にはならなかった。
それでも、マルスは話し始めた。
「南部で勝った兵たちへ、まず礼を言うべきだと、政府の書記は私へ文章を渡した。」
群衆の一部から拍手が起きた。
マルスはその拍手が広がる前に続けた。
「私は、その紙を破った。」
拍手が途切れ、代わりにざわめきが広がった。
「勝った者だけへ礼を言えば、勝たせるために食料を運び、傷を縫い、家を明け渡した者を忘れる。兵だけを称えれば、明日には兵が、自分たちこそ国を所有していると思い始める。」
軍帽を被った男たちが互いの顔を見た。
「既に思っているぞ!」
後方から誰かが叫んだ。
「各地で役所を取っている!」
「ならば、役所を取った者へ聞こう。」
マルスの声が広場の壁へ反響した。
「敵を追い払った銃で、次は誰を撃つ? 王党派か。政府の役人か。命令へ従わない隣人か。それとも、自分より先に勝利を名乗った仲間か?」
今度は拍手ではなく、低い唸りが起きた。
クーデターへ反発する者には痛快な言葉だった。だが役所を占拠した地方兵の家族にとっては、自分たちの勝利を侮辱する発言にも聞こえる。
「ジャンは軍を動かした。」
前列の男が声を張った。
「政府が何もしなかったからだ!」
マルスは男の位置を見つけた。
「ジャンが役所を取れと命じたのか?」
「知らない。」
「知らない命令で人を殺し、その死体をジャンへ贈るのか。」
男は口を閉じた。
周囲から笑いが漏れたが、マルスは笑わせたままにしなかった。
「笑っている者も同じだ。お前たちは、軍人が勝手に政府を作ることへ怒っているのではない。自分たちの嫌う者を、軍人が先に殺したことへ腹を立てている。」
群衆の空気が変わった。
誰もが誰かを責める言葉を待っていたのに、マルスは聴衆自身へ刃を向けた。
コラソンは籠の底から手を離していた。
このままなら、撃たずに済むのではないかという考えが、ほんの僅かに浮かんだ。
マルスは軍人を扇動していない。
王党派を殺せとも言っていない。
群衆へ、自分たちの怒りを見ろと迫っている。
昔、施療院へ子供を運んだ男の声が、そこに残っていた。
だが、演壇の横に立つ政府の監視官が、マルスへ紙を差し出した。
マルスは一度拒んだ。
監視官は引かず、紙の下部へ押された印章を見せる。南部から届いた、役所占拠と政府役人殺害の一覧だった。
マルスは紙を受け取り、目を走らせた。
最初の一行を読んだ時、表情が硬くなった。
「昨夜、西の町で、三人の役人が殺された。」
広場から罵声が上がる。
マルスは紙を下げなかった。
「南西では、政府の命令を拒んだ部隊が、武器庫を占拠した。北西では、革命への裏切りを理由に、裁判を行わず一人を銃殺した。」
「名前を言え!」
誰かが叫んだ。
「殺した奴の名前を出せ!」
別の声が重なる。
「裏切った役人の名前もだ!」
マルスの目が紙へ戻った。
監視官は、一覧の下にある氏名を指で示した。
コラソンの指が、再び籠の底へ入った。
マルスが名前を読めば、その者の家族も、同じ部隊にいた兵も、町に残る知人も狙われる。
読まなくても、群衆は政府が名前を隠したと怒る。
彼が口を開く前に、広場の端で小さな衝突が起きた。
南部軍の色を腕へ巻いた若者が、政府支持者の男に胸を押される。若者が押し返すと、周囲の兵が銃床へ手を掛け、群衆が円形に退いた。
「ほら、あいつらだ!」
誰かが指を差した。
「役所を取った連中と同じ印だ!」
「捕まえろ!」
マルスは演壇から身を乗り出した。
「その手を離せ!」
声は届いたが、群衆は止まらなかった。
南部軍の色を巻いた若者が複数人に囲まれ、腕を後ろへ捻られる。
「名簿を持っているはずだ!」
「仲間を吐かせろ!」
マルスは一覧を握り潰した。
「誰も捕らえるな! その男が何をしたか、お前たちは知らない!」
群衆の一部が止まった。
だが別の場所では、「マルスが南部軍を庇った」と叫ぶ者が現れ、今度は政府支持者が裏切り者として指を差される。
言葉は広場の端へ届くまでに形を変えた。
マルスが何を命じても、人々は自分の望む敵へ向けて聞き直す。
彼の顔に、怒りではなく焦りが浮かんだ。
コラソンには、その表情が見えた。
今なら、彼も理解したかもしれない。
自分が放った言葉が、もう自分の手へ戻らないことを。
それでもマルスは演壇から降りなかった。
「聞け!」
――彼は拳で演台を叩いた。
木板の音が銃声のように響き、人々の顔が再び中央へ向く。
「勝利を理由に役所を奪った者も、その報復を理由に無関係な兵を捕らえる者も、同じだ。自分の怒りへ、革命の名前を被せているだけだ!」
コラソンは短銃を握った。
マルスの言葉は正しい。
正しいから、人を動かす。
動かされた者は、次に「革命を騙る者」を探すだろう。
マルスが誰か一人を指さなくても、群衆は自分たちで該当者を作る。
昔の優しさが残っているからこそ、止めなければならない。
完全な怪物なら、誰も彼を信じない。
コラソンは老婆から身体を離した。
「少し、ここにいて。」
「パンは?」
「後で、全部差し上げます。」
老婆が意味を問う前に、コラソンは人の間へ肩を入れた。
演壇まで十歩。
警備兵の背中がある。
コラソンは籠を地面へ置き、布の下から短銃を抜いた。
九歩。
群衆がマルスを見ているため、近くの者さえ彼女の手元へ気付かない。
八歩。
銃の重みが、腕を下へ引いた。
――彼女は両手で支えた。
七歩。
マルスが演壇の端を掴み、身体を前へ乗り出している。
胸元が見えた。
コラソンは、引き金へ指を掛けた。
その瞬間、マルスが彼女の方を見た。
数百人の顔の中から見つけたのではない。
銃身が光を反射し、彼の目を引いただけだった。
だが二人の視線は重なった。
マルスの表情には、恐怖より先に、理解が浮かんだ。
コラソンは引き金を引いた。
爆発音が広場を切り裂いた。
短銃は彼女の手の中で跳ね、白い煙が視界を覆った。
弾丸はマルスの胸の中央を外れ、左の肩口から鎖骨の下へ入った。身体が後方へ捻れ、演台の縁へ腰を打ち付ける。
一瞬、誰も動かなかった。
次の瞬間、広場全体が崩れた。
「撃たれた!」
「マルスが撃たれたぞ!」
「王党派だ!」
「南部兵を捕らえろ!」
叫びが同時に上がり、警備兵が銃を抜いた。
誰かがコラソンの腕を掴もうとしたが、煙の中で別の男とぶつかり、二人とも倒れる。後方の群衆が前へ押し寄せ、転んだ者の上へ足を乗せた。
コラソンは空になった短銃を落とした。
逃げようとして身体を横へ向けたが、左右から人が押し寄せ、演壇の下へ追い詰められる。
警備兵が煙の中へ銃口を向けた。
「動くな!」
誰へ命じたのか、本人にも分かっていなかった。
演壇の上では、側近がマルスの身体を抱え起こそうとしていた。
「伏せてください! 二発目が来ます!」
マルスは肩を押さえ、歯を食いしばった。
指の間から血が溢れ、黒い上着の胸元へ広がっていく。
「どこだ。」
「分かりません。屋根か、群衆の中か――」
マルスは煙の薄くなった場所を見た。
演壇の下で、人波に押されて身動きできなくなっているコラソンの顔が見えた。
――彼女は逃げる方向を探しながらも、演壇から目を逸らしていなかった。
撃ち損じたことを後悔しているのか。
生きて立ち上がることを望んでいるのか。
マルスには判断できなかった。
警備兵の一人が、地面に落ちた短銃を見つけた。
「ここだ! 女が撃った!」
複数の手がコラソンへ伸びた。
その時、演壇の上でマルスが立ち上がった。
側近が止めるより先に、彼は傷口を押さえた手を離し、血に濡れた指で広場の南側にある屋根を指した。
「上だ!」
声は掠れていたが、広場全体へ届いた。
「二人目が屋根にいる! 銃を持っているぞ!」
警備兵たちが一斉に顔を上げた。
屋根には誰もいなかった。
だが、確認せずに無視できる命令ではない。半数が南側へ走り、別の者が群衆を伏せさせようと銃床を振るう。
コラソンへ伸びていた手が一瞬だけ減った。
マルスは演壇の階段を下りた。
一段目で膝が折れ、側近が腰を支える。
「どこへ行くつもりです!」
「撃った者を、見る。」
「兵に任せてください!」
「兵が先に殺す。」
マルスは側近の腕を振り払い、舞台の裏へ回った。
身体を動かすたび、肩口から熱い液体が流れ、左腕の感覚が薄くなる。呼吸を深くすれば胸の奥へ痛みが走るため、短く息を吸いながら進んだ。
演壇の下では、コラソンが黒い幕と木組みの隙間へ身体を押し込んでいた。
背後から男が髪を掴もうとした瞬間、マルスが演壇の支柱を蹴った。固定の甘かった板が外れ、男の腕へ落ちる。
「裏へ逃げたぞ!」
マルスは群衆へ叫び、実際にはコラソンの襟を掴んで、黒幕の奥へ引き込んだ。
――彼女は驚いて振り向き、血に濡れたマルスの顔を見た。
「何を――」
「声を出すな。」
「あなたを撃ったのは、私よ。」
「見ていた。」
「なら、離して!」
コラソンは襟を掴む手を払い除けようとしたが、マルスは右手だけで彼女を押し、演壇裏の狭い通路へ進ませた。
「ここに残れば、今度はお前が撃たれる。」
「そのために来たのではないわ。」
「死ぬために撃ったのか?」
「あなたを止めるためよ!」
「止まっただろう。だから、今は歩け。」
言葉の終わりでマルスの息が詰まり、壁へ肩を当てた。
コラソンは反射的に腕を伸ばしかけ、その手を途中で止めた。
自分が開けた傷だった。
触れる資格がないと考えたのではない。
触れれば、助けたいと思ってしまうことが恐ろしかった。
通路の向こうでは、警備兵が黒幕を剥がす音がしている。
マルスは壁から身体を起こし、コラソンの背を押した。
「先へ行け。」
「なぜ私を逃がすの。」
「今それを聞くのか。」
「あなたは、私を捕らえさせればいいでしょう。暗殺者を裁判へ送れば、演説の続きをする理由にもなる。」
マルスの足が止まった。
その指摘を否定できないためではなく、彼女が自分をそこまで理解していることへ、傷とは別の痛みを覚えた。
「捕らえれば、裁判まで生きていると思うのか。」
「あなたが命じれば――」
「先ほど、私が何を命じても、あいつらが好きな敵を作っていたのを見なかったのか!」
声を荒らげた瞬間、胸の内側が引き攣り、マルスは咳き込んだ。
唇の端へ血が付いた。
コラソンの顔色が変わる。
マルスはそれを見て、苦しそうに笑った。
「撃った後で、その顔をするのか。」
「胸を狙ったのよ。苦しませるつもりではなかった。」
「随分、親切な暗殺者だな。」
「あなたが、あんな人でなければ――」
コラソンの言葉が途切れた。
マルスは壁へ背を預け、荒い呼吸の間から問い返した。
「どんな人間だ。」
「昔は、子供を抱いて施療院へ走った。」
「今も走る。」
「その後で、施療院の人間を群衆へ売ったでしょう!」
「あの責任者は、金のない患者を追い返していた。」
「だから家族まで殺されていいの?」
「殺せとは言っていない。」
「あなたが名前を言えば、何が起きるか分かっていた!」
マルスは答えなかった。
通路の外から、演壇を叩く音が近づいている。
コラソンは彼の沈黙を見つめた。
「今日も同じだった。軍人を責めなくても、革命を騙る者を探せと言えば、皆が勝手に隣人を選ぶ。あなたは言葉が戻らないと分かっているのに、それでも喋る。」
「黙れば、別の者が喋る。」
「それで何人死んでも、自分が喋った方がましだと思っているの?」
マルスの右手が、通路の壁へ置かれた。
指先が震え、爪の下から血の気が失われている。
「思っていた。」
過去形で答えたことに、コラソンは僅かに目を見開いた。
マルスは顔を上げた。
「だから、お前をあそこへ置いていかない。」
「私を助ければ、あなたが正しくなると思っているの?」
「思っていない。」
「では、償い?」
「そんな綺麗な言葉で、この傷が塞がるか。」
マルスは自分の肩を顎で示した。
「お前を群衆に渡せば、あいつらは私の血を許可証にして、今夜中に百人捕らえる。王党派、南部兵、政府の反対者、お前と一度話しただけの人間までだ。私を撃った者を探すと言えば、誰を殺しても正当化できる。」
「それは、あなたが作った群衆でしょう。」
「そうだ。」
返答は早かった。
コラソンは、責任を否定する言葉を準備していたため、言葉を失った。
マルスは彼女の肩を押し、再び歩かせた。
「だから、私が一人でも減らす。」
通路の先には、印刷物と飾り布を搬入するための裏口があった。
外には荷車が一台停まり、雨に濡れた横断幕と破れた旗が荷台へ積まれている。御者は広場の騒ぎを見ようと席を離れ、建物の角から首を伸ばしていた。
マルスは荷台の布を持ち上げた。
「入れ。」
コラソンは動かなかった。
「私は逃げるために来たのではない。」
「なら、何のために来た。」
「あなたを殺して、演説を終わらせるため。」
「失敗した。」
マルスは布をさらに持ち上げた。
「二度目を撃つ銃もない。今ここで捕まれば、お前の目的ではなく、あいつらの目的に使われるだけだ。」
「それでも、あなたに逃がされたくない。」
「私も、お前を逃がしたくはない。」
「では――」
「だが、残せない。」
その言葉には情よりも苛立ちが強かった。
撃たれた相手を救う聖人の顔でもなく、昔の知人を赦す穏やかな顔でもない。自分が作った混乱へ、これ以上何かを奪われることを拒む人間の顔だった。
コラソンは荷車を見た。
「逃げた後で、もう一度あなたを狙うかもしれない。」
「次は、もう少し近くから撃て。」
「避けるつもり?」
「当てられると思うな。」
息を吐いたマルスの膝が揺れた。
コラソンは咄嗟に身体を支えた。
彼の体重が腕へ掛かり、血の温度が衣服を通して伝わる。
マルスは彼女の肩を借りたまま、僅かに口元を歪めた。
「助けるのか。」
「倒れられると、荷台へ入れないでしょう。」
「入るのは、お前だ。」
「あなたこそ治療が必要よ。」
「広場へ戻れば、医者が来る。」
「戻れば、私を逃がしたことが知られる。」
「知られないように戻る。」
「そんな身体で?」
「撃った本人が心配するな。」
コラソンは歯を食いしばり、マルスを荷車の縁へ座らせた。
そのまま自分が布の下へ入るのではなく、彼の上着を開き、傷の位置を見ようとする。
マルスが右手で遮った。
「触るな。」
「弾が残っているかもしれない。」
「医者ではないだろう。」
「あなたよりは、傷を見ている。」
「誰を撃ってきた。」
「あなたが最初よ!」
思わず声が大きくなり、二人とも広場の方へ顔を向けた。
追手の足音が近い。
マルスはコラソンの手首を掴み、布の下へ押し込んだ。
「黙って入れ。」
「マルス――」
「昔の私を知っているなら、一度くらい言うことを聞け。」
コラソンは布の隙間から彼を見た。
「昔のあなたなら、銃を向ける前に止まった。」
「昔のお前なら、人を撃たなかった。」
「昔の私は、あなたがこうなると思っていなかった。」
マルスの指が布の端を握ったまま止まった。
外から警備兵の声が聞こえる。
「裏口を調べろ! 女が逃げた!」
マルスは布を下ろした。
「私もだ。」
その言葉だけを残し、荷台を覆った。
御者が戻ってくる前に、マルスは馬の脇へ置かれていた鞭を取り、手綱を柱から外した。
左腕が動かないため、右手だけで馬の鼻先を南へ向ける。荷車の車輪止めを蹴り外し、馬の尻へ鞭を一度当てた。
馬は驚いて前へ出た。
荷車が石畳の窪みを越え、横断幕を揺らしながら路地へ進む。
御者が角から戻り、自分の荷車が動いていることに気付いた。
「おい! 待て、誰が動かした!」
マルスは柱へ身体を預けながら、別の方向を指した。
「銃を持った男が、馬を奪った。」
「女ではなかったのか?」
「二人いた。」
「どちらへ行った?」
「北だ。」
荷車は南へ曲がっていた。
御者はマルスの血を見て質問を忘れ、広場へ向かって医者を呼び始めた。
警備兵が裏口へ駆け込んできた。
先頭の男は、柱の前に立つマルスを見つけ、顔色を変えた。
「なぜ、こちらへ!」
「犯人を追った。」
「どこへ逃げました。」
マルスは北側の屋根を見上げた。
「仲間がいた。荷車を奪って北へ向かった。」
「女の顔は?」
「煙で見えなかった。」
警備兵は、マルスが演壇の上からコラソンの位置を見ていたことを知らない。
命令を受け、北の通りへ走り出した。
残った側近がマルスへ駆け寄り、倒れかけた身体を支えた。
「どうして歩いたのです。血が止まっていない!」
「止めればいい。」
「それができる人間を、今呼んでいます!」
「なら、怒鳴らず急がせろ。」
側近は上着を脱ぎ、傷口へ押し当てた。
マルスの顔から血の気が失われていく。
広場では、既に複数の犯人像が生まれていた。
王党派の女が撃ったという者。
ジャン派の兵士が軍事政権への批判を止めるために撃ったという者。
政府がマルスを黙らせるため、暗殺を装ったという者。
マルス自身が民衆の同情を得るため、浅い傷を負う芝居を仕組んだという者。
誰も、撃った女を被害者が逃がしたとは考えなかった。
考える理由がなかった。
マルスは担架へ乗せられる直前、南へ延びる路地を見た。
荷車は既に見えない。
コラソンがどこで降りるかも、その後どこへ向かうかも知らない。
彼女が再び銃を持つ可能性もある。
それでも、群衆へ渡すよりはよかった。
側近が彼の視線を追った。
「何を見ているのです。」
マルスは目を閉じた。
「誰も、見ていない。」
広場の中央では、踏み潰されたパンの籠が転がっていた。
固いパンの間に、空になった短銃が落ちている。
それを最初に拾った警備兵は、銃と籠を別々の証拠袋へ入れた。
次に来た役人は、パンを売っていた者の名簿を提出するよう命じた。
名簿には、既に死んだ女、存在しない住所、他人から盗まれた身分が並んでいた。
事件の真相を知る二人のうち、一人は血を流して意識を失い、もう一人は南へ向かう荷車の布の下で、震える手を自分の口へ押し当てていた。
コラソンが聞いた最後の音は、マルスを救えと叫ぶ群衆の声だった。
その声は、少し前まで暗殺者を殺せと叫んでいた声と、何一つ変わらなかった。
マルスが施療所へ運び込まれた時、彼の左肩から胸元へ広がっていた血は、黒い上着の色に紛れて遠目には判別できなくなっていた。
担架の周囲へ集まった者たちは、負傷の程度より先に、その口が再び開くかを確かめようとしていた。演説を聞いていた議員、広場の警備責任者、事件を報告する書記、マルスの言葉を紙面へ載せてきた印刷業者が、狭い廊下を塞ぎ、治療室の扉が閉じるたびに中へ顔を差し込もうとする。
医師は三度目に伸びてきた腕を扉の外へ押し返し、血の付いた前掛けを乱暴に外した。
「質問は受けさせない。弾丸は骨の近くへ残っている。身体を起こせば出血が増える。」
警備責任者は扉の隙間から寝台を覗いた。マルスは傷口へ布を当てられ、右腕を寝台の縁から垂らしたまま動かない。息は続いているが、胸郭の上下が浅く、時折喉の奥から苦しげな音が漏れていた。
「意識は戻ったのでしょう。」
「戻ったことと、話せることは同じではない。」
「犯人を見たか、その一つだけでよい。」
医師は濡れた布を助手へ渡し、警備責任者へ身体を向けた。
「一つだけと仰る方は、返答を得た後で必ず二つ目を尋ねる。女だったか、王党派だったか、誰に命じられたか、どちらへ逃げたか。答えを得られなければ肩を揺すり、意識を失えば私の治療が悪いと責めるのでしょう。」
「市内で報復が始まっている。犯人が分かれば止められる。」
「分からなければ、適当な誰かを捕らえるのですか。」
警備責任者の顎が僅かに引かれた。
医師は返答を待たず、扉を閉めた。掛け金の落ちる音が廊下へ響き、外に集まった者たちは、拒絶された怒りを互いの顔へ向けた。
広場では既に、犯人が三人に増えていた。
一人目は、パン籠の下へ短銃を隠していた若い女。
二人目は、マルスが撃たれた直後に指した南側の屋根へ潜んでいた狙撃手。
三人目は、負傷したマルスから荷車を奪い、北へ逃走した男。
二人目と三人目は存在しなかったが、目撃者の多くはマルス自身の叫びを聞いている。負傷者が自分を撃った者を見間違えるはずはないという思い込みが、煙の中で見た曖昧な影へ輪郭を与えていた。
南側の屋根にいたと証言する者は、赤い帽子を見たと言った。
別の者は、軍帽だったと譲らなかった。
荷車を見た者の一人は、御者が長身の男だったと主張し、別の女は、髪を短く切った少年だったと証言した。
パン籠を持っていた女についても、老婆は茶色い髪だったと述べ、警備兵は黒髪だったと記録し、広場の商人は灰色の頭巾を被っていたため髪など見えなかったと怒鳴った。
証言を集めていた書記は、筆先を止める暇もなく紙を替え続けた。誰かの証言を書き終える前に別の者が袖を引き、先ほどの男は嘘をついている、自分だけが正しく見たと訴える。
「銃を撃ったのは王党派の女だ。胸元に百合の飾りがあった。」
「百合ではない、南部軍の印だ。私の隣にいた男も見ている。」
「その男なら、騒ぎの途中で政府の役人を殴って逃げたぞ。」
「では、そいつも共犯だ。」
書記は紙面の余白へ共犯の可能性と書き、その直後に線を引いて消した。
広場の端では、倒れた者の治療より先に、誰が逃げたかを確かめる拘束が始まっていた。南部軍と同じ色の布を身に付けていた若者、空になった銃を最初に拾った警備兵、パン籠の持ち主を知っていると口走った老婆が、別々の兵に腕を取られている。
老婆は、先ほどコラソンに支えられた時と同じ腕で、今度は兵士の袖へ縋った。
「私は名前なんて知らないよ。少し話しただけだ。」
「何を話した。」
「ここから離れた方がいいと言われた。」
「銃撃を予告していたのか。」
「そういう言い方ではなかった!」
「では、どのような言い方だった。」
老婆は口を開いたまま、答えられなくなった。
言葉そのものは覚えている。だが、銃撃前に広場を離れろと言った事実だけを切り取れば、警告にも犯行予告にもなる。老婆は自分の記憶より、兵士が求める意味を先に恐れ始めた。
「ただ、人が多いから危ないと……そういう意味だったと思う。」
「思う、では証言にならない。」
兵士は老婆の腕を放さず、書記の前へ連れていった。
事件発生から半刻も経たないうちに、証言は真実を残すためではなく、拘束された者が自分を解放させるための対価へ変わっていた。
誰かの名前を出せば帰れる。
別の者の服装を詳しく語れば、自分は犯人を見ていた善良な市民として扱われる。
何も見なかったと言えば、何かを庇っていると疑われる。
広場にいた者たちは、記憶を正確に話すより、役人が既に信じている筋へ自分の記憶を合わせ始めた。
ダンが広場へ到着したのは、踏み潰されたパンが泥と血を吸い、石畳へ貼り付いた頃だった。
――彼は護衛を大勢連れてこなかった。二人の書記と、証拠を運ぶ兵士、裁判所の印章を持つ若い補佐官だけを従え、群衆の間を歩いた。
見物人は道を譲ったが、敬意のためではない。彼に顔を覚えられることを避け、皆、視線を伏せたのである。
ダンは演壇へ上がらず、最初に短銃が落ちていた位置へ向かった。
証拠袋へ入れられた銃は、既に複数の人間に触れられている。銃身の表面には泥、パン屑、警備兵の手袋から移った油が混じり、握った者の痕跡を見分けることなどできなかった。
ダンは袋の口を開かせ、銃を直接握らずに覗き込んだ。
「装填は一発だけか。」
証拠係の兵士が背筋を伸ばした。
「はい。薬室は空です。予備の弾丸も火薬も、籠からは見つかっておりません。」
「殺した後で逃げることを考えなかったのか、最初から逃げる必要がないと思っていたのか。」
若い補佐官が紙へ書き留めながら尋ねた。
「自殺を覚悟していた可能性でしょうか。」
「覚悟という言葉を記録へ使うな。本人が語るまでは、こちらの感想だ。」
ダンは銃の照準と引き金を見た。
安価ではあるが、粗悪品ではない。狭い場所で一度だけ使用するため、銃身を短く切り詰めてある。加工した職人を辿れば製造元へ行き着けるかもしれないが、革命後に押収された武器は何度も持ち主を変え、同じ型の銃が軍、警察、私兵、盗賊へ流れていた。
「撃った者は女だと、マルスが確認したのですか。」
補佐官の問いに、ダンは銃から目を上げなかった。
「マルスは何も証言していない。」
「しかし、演壇の下へ向かったと。」
「倒れた後に歩いたからといって、犯人を確認した証拠にはならない。」
「警備兵は、マルスが女を追っていたと――」
「警備兵は、彼が屋根の狙撃手を指したとも言っている。どちらを採用する?」
補佐官は筆を止めた。
ダンは証拠袋を閉じさせ、次にパン籠を見た。籠の底には二重の板が嵌め込まれ、短銃を横へ寝かせられる空間が作られている。即興で布の下へ隠したのではなく、運搬前から武器を入れる目的で加工されていた。
「籠職人を探しますか。」
「探せ。だが、職人を犯人にするな。」
補佐官は顔を上げた。
「そのような意図はございません。」
「捜査を急げと命じられた者は、最初に見つけた繋がりを結論へ変える。籠を作った者が銃撃を知らなかった可能性を、書面へ残しておけ。」
ダンの声音は冷たかったが、命令だけを聞けば慎重な法官に見えた。
証拠の意味を一つへ限定せず、複数の可能性を記録させる。目撃者の感情を事実から切り離し、負傷者の未確認の行動を証言として扱わない。
――彼は混乱した広場にいる誰よりも、法の形式を守っていた。
しかしダンが守ろうとしているのは、真実へ辿り着くための時間ではなかった。
裁判所が後からどの結論を選んでも、最初からその可能性を調べていたと主張できる書面であった。
広場から施療所までの通りには、報復を求める市民が集まり始めていた。
「暗殺者を渡せ!」
「南部の反逆者を裁け!」
「政府内部に共犯者がいる!」
叫びはまだ一つへまとまっていない。
それがダンには最も危険だった。
犯人像が定まらなければ、市民は自分の嫌う者を各自で犯人に選ぶ。王党派の店が襲われ、南部出身者が捕らえられ、政府の役人同士が互いを密告する。事件一件の死者より、その後に作られる数百人の容疑者の方が国家を壊す。
だからこそ、法が先に一人を選ばなければならない。
真実であることが望ましい。
だが真実が見つかるまで社会が待たないなら、少なくとも、社会が受け入れられる犯人でなければならなかった。
ダンは施療所へ入った。
廊下の人間は、裁判所の印章を見ると壁際へ退いた。先ほどまで医師へ食い下がっていた警備責任者も、ダンには道を開ける。
「容態は。」
扉の前に立つ医師は、相手が誰であっても態度を変えなかった。
「先ほど申し上げた通りです。」
「私は聞いていない。」
「あなたの部下が三度聞きました。」
「部下が何を聞いたかではなく、私が判断するために必要なことを尋ねている。」
医師は扉の前から動かなかった。
「生命の危険があります。弾丸は左の肩口から入り、骨へ当たって止まっている可能性が高い。取り出すまで動かせません。」
「意識は。」
「出血と薬で安定していない。」
「私の質問へ頷くことはできるか。」
「その質問が一つで終わると保証できますか。」
ダンは医師を見つめた。
医師の袖には血が染み、指先は長時間の圧迫で赤く腫れている。法廷へ呼び出されることを恐れてはいるが、それ以上に、寝台の患者へ誰かが触れることを拒んでいた。
「保証しよう。」
「法的な保証ですか。」
「私の言葉では足りないと?」
「あなたは、必要があれば言葉の意味を変える方でしょう。」
廊下の空気が硬くなった。
警備責任者が医師を睨んだが、ダンは怒鳴らなかった。
「では、書面を作る。一つの質問だけを記し、返答後は直ちに退室する。」
「質問は何です。」
「銃を撃った者を見たか。」
医師は扉へ手を置いたまま、僅かに顔を横へ向けた。
「それを聞いて、見たと頷いた場合は?」
「容姿を確認する。」
「一つではありませんね。」
「見たかどうかだけで捜査を進められると、本気で思うのか。」
「一つだけと仰ったのは、あなたです。」
ダンの眉が僅かに動いた。
医師はその変化を見逃さず、言葉を続けた。
「あなたが一つを守れないなら、負傷者に何を守らせるのです。今は話させません。」
ダンは扉を押し退けようとはしなかった。
ここで強制すれば、マルスが悪化した場合、裁判所が革命の演説者を殺したという噂になる。医師一人を拘束することは容易だが、その後に治療を続けられる者はいない。
「意識が戻った時刻を記録しろ。最初に話した言葉も、相手も、すべて残す。」
「治療を妨げない範囲であれば。」
「私以外の者に質問させるな。」
医師はそこで初めて、露骨な不快感を表した。
「患者の口まで裁判所の所有物ですか。」
「違う。だが、最初の言葉だけを切り取られ、各派閥が別々の布告へ使うよりはよい。」
ダンは踵を返した。
扉の向こうから、マルスの掠れた咳が聞こえた。
ほんの数歩進んだところで、寝台側の床へ何かが落ちる音がした。医師が急いで扉を開け、助手へ布を求める。
その隙間から、ダンはマルスの顔を見た。
白い枕の上で汗に濡れ、唇の色を失っている。右手だけが寝台の端を掴み、誰かを押し退けるように指を動かしていた。
「コ……」
声は最後まで形にならなかった。
医師が扉を閉めた。
廊下に残った警備責任者が、ダンの横顔を窺った。
「今、名前を。」
「聞き取れない音は証言ではない。」
「コラソン、と言ったのでは?」
ダンは男へ顔を向けた。
「あなたには、そう聞こえたのか。」
「おそらく。」
「ならば、自分の名で記録へ署名しろ。後で違った時、責任も引き受けてもらう。」
警備責任者は口を閉じた。
記録へ残さなければ、重要な証言を隠したと疑われる。残せば、意識のない負傷者の声を自分の都合で解釈した責任を負う。
――彼は視線を床へ落とし、結局何も言わなかった。
ダンは、それを臆病とは考えなかった。
責任を付ければ、不確かな証言の多くは消える。
問題は、責任を負わせてもなお残る嘘だった。
午後、革命政府の会議室へ集められた証言書は、卓上へ積み上げても高さが揃わなかった。
広場の警備隊、商人組合、施療所、北門、南門、荷車の御者、演壇を組んだ職人から、それぞれ異なる紙と形式で報告が届く。時間の記載も統一されず、銃撃が正午前だったとする者もいれば、鐘が鳴った直後だと主張する者もいた。
ロベルトは最初の数枚を読んだ後、眼鏡を外し、鼻梁を指で押さえた。
「屋根の狙撃手は見つかったのか。」
ダンは向かい側の席で、証言を三つの束へ分けていた。
「存在した証拠がありません。」
「マルスが指した。」
「負傷者が群衆を別方向へ誘導した可能性もある。」
ロベルトの指が止まった。
「なぜ、そのようなことをする。」
「犯人を逃がすためです。」
「自分を撃った者を?」
「あり得ないと断定する根拠はない。」
ロベルトは眼鏡を卓上へ置いた。
疲労で赤くなった目が、ダンの手元の紙へ向く。
「あなたは、マルスを疑っているのか。」
「疑う対象から除外していないだけです。」
「負傷者を共犯者として扱えば、民衆は政府が事件を隠していると考える。」
「最初から除外すれば、政府がマルスを守るため事実を消したと考えるでしょう。」
「では、何をしても疑われると言いたいのか。」
ダンは三束目へ、新しい証言書を置いた。
「今の状態では。」
ロベルトは椅子の背へ身体を預けた。
窓の外から、暗殺者の即時処刑を求める声が聞こえている。その反対側の通りでは、南部兵の拘束へ抗議する者が集まり、双方の間へ警備隊が配置されていた。
「今夜までに、政府として発表を出す。」
「犯人が判明していません。」
「判明していないと発表すれば、各地区が勝手に捜査を始める。」
「既に始めています。」
「だから止めるのだ。」
ロベルトは卓上の証言書を一枚取り、乱雑な文字を追った。
「王党派による犯行ではないのか。」
「そう断定すれば、今日摘発を免れた王党派を一斉拘束する理由にはなります。」
「理由ではなく、可能性を聞いている。」
「可能性はあります。」
「南部のクーデター派は?」
「可能性はあります。」
「政府内部の反マルス派は?」
「同様です。」
ロベルトは紙を卓上へ戻した。
「あなたの返答では、何も決められない。」
「決めることと、判明することは別です。」
「それを同じにするために、法があるのではないか。」
ダンは手を止めた。
その言葉を否定すれば、自分の立場を否定することになる。肯定すれば、法が真実を作れると認めることになる。
――彼は僅かな間を置き、証言の束をロベルト側へ押し出した。
「法は、判明した事実に結論を与えます。事実が揃わない時にできるのは、何を先に調べるか決めることです。」
「今、先に調べるべきものは?」
「犯人の思想ではなく、広場へ入るために使った経路です。」
ロベルトの眉が寄った。
「王党派かどうかを後回しにするのか。」
「王党派なら王党派の通行証を使うとは限らない。南部兵なら軍服で入るとも限らない。思想から追えば、こちらが嫌う者だけが容疑者になります。」
「珍しく慎重だな。」
「慎重なのではありません。」
ダンはパン籠の底板を写した図面、短銃の寸法、警備配置を卓上へ並べた。
「演壇の近くへ商人として入り、武器を持ち込み、撃った後に荷車で離脱した。これには通行証、商人名簿、演壇裏の搬入口、荷車の出入りを知る者が必要です。単独犯であっても、知らずに助けた者がいる。」
「全員を拘束するのか。」
「全員を調べます。」
「同じではないか。」
「調べる前に拘束すれば、彼らは自分を守るため証言を作る。先に記録を押さえ、食い違った者だけを呼ぶ。」
ロベルトは暫く図面を見つめた。
「いつまでに出せる。」
「明朝までに、最初の候補を。」
「候補では足りない。」
「真犯人を明朝までに用意せよと?」
ロベルトの目が鋭くなった。
「言葉を選べ、ダン。」
「選んでおります。」
二人の間に沈黙が落ちた。
革命政府の外では、群衆が選ばずに言葉を投げ合っている。会議室の中だけが静かであるほど、その壁が薄く感じられた。
ロベルトは声を落とした。
「誰かを差し出さなければ、今夜中に南部出身者が殺される。王党派の家族も、マルスを批判した者もだ。」
「承知しています。」
「では、止めろ。」
ダンは返事をしなかった。
ロベルトの命令は、犯人を捜せという形をしている。
だが求められているのは、報復を一箇所へ集める器だった。
誰か一人、あるいは一つの組織が正式な容疑者になれば、他の市民を勝手に捕らえる理由は弱くなる。裁判所が処罰を引き受けることで、群衆から私刑の名目を奪える。
選ばれた者が本当に犯人であるなら問題はない。
違った場合でも、数百人を救うため一人を切ったと説明できる。
その考えがダンの内側へ浮かんだ時、彼は不快感を覚えなかった。
これまで同じ選別を、何度も法の名で行ってきたからである。
「商人名簿と搬入口の許可記録を、裁判所へ運ばせます。」
ダンは立ち上がった。
「広場で拘束した者は?」
「暴行や武器所持の事実がない者から解放してください。」
ロベルトは意外そうに彼を見た。
「釈放するのか。」
「今の拘束者は、各警備兵が自分の疑いで選んだ者です。裁判所が選ぶ前に人数を増やされると困ります。」
人命への配慮ではなかった。
刃を振るう者が複数いる状態を、ダンは許容できなかったのである。
夕刻までに、演壇へ物品を搬入した商人、作業員、印刷業者の名簿が裁判所へ集められた。
ダンは大広間を使わず、窓の少ない記録室へ書記を並べた。机ごとに役割を分け、第一の机では名前と住所、第二では通行証の発行者、第三では荷車と馬の所有者、第四では軍や政府機関との取引歴を照合させる。
「思想欄は作らないでください。」
若い書記が顔を上げた。
「王党派か革命派かを記録しないのですか。」
「思想は後からいくらでも付けられる。最初から欄を作れば、記録係が人物をそこへ押し込む。」
「しかし、捜査上重要では。」
「重要だから最後に使う。先に使えば、他の記録がすべて思想へ従う。」
ダンは一つの机へ歩み寄った。
そこでは、演壇へ水を運んだ三人の名が並んでいる。一人は政府支持者、一人は政治活動へ関与しておらず、もう一人は王党派の親族を持っていた。
政治欄を先に見れば、三人目だけが詳しく調べられる。
だが荷車の番号を照合すると、不審なのは二人目だった。届け出た車輪の寸法と、実際に演壇裏へ残った轍の幅が一致していない。
「この男を呼んでください。」
「拘束しますか。」
「呼ぶだけです。」
「逃亡した場合は?」
「その時に拘束する理由ができます。」
ダンは次の机へ移った。
法は、理由が生まれてから人を捕らえる。
少なくとも書面上は、その順序を守らなければならない。
部屋の奥では、年嵩の書記が商人名簿を一枚ずつめくっていた。
白髪の混じる髪を後ろへ撫で付け、古い法服の袖口を何度も縫い直している。ダンがまだ裁判所で地位を得る前、債権者に追われ、旧司法組織からも外されかけた頃、記録係として働ける場所を用意した人物だった。
誰も雇おうとしなかった若い法曹へ、書類を読む速さだけは本物だと言って机を一つ与えた。
ダンは借りを忘れていなかった。
忘れていないことと、返すことは別だった。
老書記が一枚の紙で指を止めた。
「ダン。」
法廷の外で役職を付けずに呼ぶ者は、今ではほとんどいない。
若い書記たちの筆が一瞬だけ遅くなったが、老書記は気にしなかった。
「この商人許可証を見てみろ。」
ダンは机へ近づいた。
許可証には、パン、飲料水、印刷物、演壇用布地の搬入が認められている。発行日は銃撃事件の三日前。名義人は、広場へパンを届ける商人組合の下働きとなっていた。
「名簿に、その名は?」
「ない。住所も偽りだ。」
「偽造か。」
「印章は本物に見える。」
老書記は紙を灯りへ透かし、下部へ押された印を示した。
革命政府の物資管理局が用いる印章だったが、輪郭の一部が僅かに欠けている。使い込まれた印面にだけ生じる傷であり、型を取った偽造品では再現しにくい。
ダンは紙を受け取り、指で欠けをなぞった。
「誰の管理下にある。」
「物資管理局だけではない。緊急搬入用として、裁判所にも一つ貸し出されている。」
老書記は別の台帳を開いた。
印章貸出の記録には、半年前の日付と、返却未確認の印が残っている。
受領者の欄へ書かれていたのは、ダンの補佐官だった。
現在、広場の証拠を運んでいる若い男とは違う。
数か月前、ダンが秘密拘束所へ食料と書類を運ぶために使い、その後、別件の証拠消失を理由として地方へ転任させた元補佐官である。
「この印章は、返却されたはずだ。」
ダンは言った。
老書記は台帳を指先で叩いた。
「返却を確認した署名がない。」
「記録漏れだ。」
「それを確かめるのが、今の仕事だろう。」
ダンは許可証を裏返した。
紙そのものは政府の公用紙ではない。市場で買える安紙であり、印章だけを本物から押した可能性が高い。
元補佐官が印章を持ち出したのか。
誰かが裁判所から盗んだのか。
あるいは、ダン自身が記録へ残さず使用させた時に複製されたのか。
どの可能性も、銃撃事件とは別の秘密へ繋がっていた。
老書記は椅子へ座ったまま、ダンの顔を見上げた。
「覚えているか。」
「何を。」
「その印章を借りた理由だ。」
「半年も前の物資搬入を、すべて記憶していると思うのか。」
「お前は、忘れたふりをする時だけ質問で返す。」
周囲の筆音がさらに小さくなった。
ダンは若い書記たちへ目を向けなかった。
「秘密拘束所へ、食料を運んだ。」
老書記は答えを待たずに言った。
「あの場所は正式な監獄ではなかった。裁判前の人間を置き、証言を合わせるために使っていた。」
「国家の安全に関わる容疑者を、一時的に隔離しただけだ。」
「公的な搬入記録を残せなかったから、広場の商人用許可証を流用した。」
ダンの声が低くなった。
「今は、昔の手続を裁く場ではない。」
「昔の手続で使った印章が、今日の銃撃犯を広場へ入れた。」
「まだ、そうと決まったわけではない。」
「では、調べるのだろう?」
老書記の問いは、責める調子ではなかった。
それがかえって、ダンの内側へ鈍く刺さった。
この男は、ダンを破滅させたいのではない。
若い頃と同じように、書類へ書かれた事実を最後まで追えと言っているだけだった。
「元補佐官を捜します。」
「それだけか。」
「印章を持っていたのは彼だ。」
「使わせたのは、お前だ。」
ダンは許可証を机へ置いた。
「この部屋で、推測を事実のように話さないでください。」
老書記は暫く黙り、台帳を閉じた。
「役職を得てから、随分と丁寧に喋るようになったな。」
「あなたも、私を役職で呼ぶべきです。」
「昔、債権者から逃げて私の机の下へ書類を隠していた男を、何と呼べば満足する?」
若い書記の一人が、耐えきれず視線を落とした。
ダンは怒鳴らなかった。
怒鳴れば、個人的な過去を認めることになる。老書記を退室させれば、許可証の発見を恐れたと見なされる。
「この記録は、私が預かります。」
老書記が台帳へ手を置いた。
「原本は記録室から出さない。」
「捜査責任者の命令です。」
「だから写しを作る。お前自身が、原本を動かすなと教えた。」
ダンの指が許可証の端を押さえた。
老書記の言葉は正しい。
証拠の原本を責任者が持ち出せば、改竄を疑われる。かつてダン自身が、若い書記たちへ何度も命じた規則だった。
「では、直ちに写しを。」
「私が作る。」
「別の者へ任せなさい。」
老書記の目が細くなった。
「私を、この記録から外すのか。」
「発見者が写しまで作れば、後に一人で作った証拠だと疑われます。」
「誰が疑う。」
「私が疑います。」
部屋の筆音が止まった。
老書記の手が、台帳の表紙からゆっくり離れた。
ダンはその手に浮いた血管を見た。
若い頃、夜通し書類を教えられた時にも、同じ指で誤字を指摘された。法廷から追放されかけたダンの推薦状を書き、使い物にならない男ではないと上役へ頭を下げたのも、その手だった。
恩を返す方法はいくらでもあった。
今、この男を捜査から外さず、共に記録を調べることもできた。
しかし老書記が残れば、秘密拘束所の経路まで必ず掘り起こす。銃撃事件の捜査は、コラソンを広場へ入れた者を探すだけでは終わらず、裁判所が過去に誰を秘密裏に運び、誰の証言を整え、どの許可証を偽装したかへ広がっていく。
マルス銃撃の犯人を見つける前に、法廷そのものが容疑者になる。
ダンは許可しなかった。
「発見者であるあなたは、事情聴取を受けてもらいます。」
老書記は一度だけ瞬きをした。
「私を、容疑者にするのか。」
「印章の返却漏れを知りながら、半年間報告しなかった。」
「今、見つけた。」
「それを証明する者は?」
老書記の口元が歪んだ。
笑ったのではない。自分が教えた言葉の使い方を、教え子から返された人間の顔だった。
「なるほど。」
――彼は椅子から立ち上がった。
「誰を犯人にするか、もう決めたのか。」
ダンは答えなかった。
老書記は若い書記たちを見回した。
誰も顔を上げない。
ここで彼を庇えば、印章の管理不備へ加担したと疑われる。何も言わなければ、恩人が連れて行かれるのを見送ることになる。
ダンは護衛へ合図した。
「別室で待機させてください。拘束具は不要です。」
老書記は差し出された腕を振り払わなかった。
ただ、扉を出る前に振り返り、ダンへ静かに言った。
「最初に机を貸した時、お前は法だけは裏切らないと言った。」
ダンの喉が僅かに動いた。
「人間を裏切らないとは、言っておりません。」
老書記はそれ以上何も言わず、護衛と共に記録室を出た。
扉が閉じると、部屋の中へ筆音が戻った。
先ほどより速く、硬い音だった。
書記たちは、次に疑われないため、自分の仕事へ没頭しているように見せていた。
ダンは許可証の写しを作らせ、原本を封印させた。
「元補佐官の所在を確認してください。秘密拘束所で勤務した兵、食料を運んだ商人、その時期に通行証を扱った全員を呼びます。」
若い補佐官が筆を走らせながら尋ねた。
「老書記も、共犯候補へ入れるのでしょうか。」
ダンは机の上に残された台帳を見た。
「候補ではありません。」
「では、参考人として?」
「管理責任を怠った者です。」
「銃撃事件との関与は。」
「今から調べます。」
若い補佐官は一瞬だけ迷った後、書き留めた。
ダンは部屋の中央へ戻り、集められた記録を見渡した。
短銃。
加工されたパン籠。
存在しない商人。
返却されていない印章。
裁判所が秘密搬入へ使った許可証。
事件の線は、外の王党派にも南部軍にも伸びず、真っ直ぐ自分の足元へ戻ってきている。
だが、それはダンが銃撃を命じたという意味ではない。
法の外側で人間を運ぶために作った経路が、別の人間によって逆向きに使われただけだった。
その違いを証明するには、過去の秘密をすべて明らかにしなければならない。
明らかにすれば、マルスを撃った一人を裁く前に、ダンが裁判へ送ってきた数十人の手続が疑われる。
窓の外から、暗殺者を殺せという声が届いた。
先ほどより人数が増えている。
今夜中に、群衆は自分たちの犯人を作る。
明朝までに、政府も犯人を必要とする。
ダンは、老書記が座っていた椅子へ目を向けた。
空いた席の上には、使い古された筆が一本残っている。
――彼はそれを手に取らず、若い補佐官へ命じた。
「最初の報告書を書いてください。」
「題目は。」
ダンは短い間だけ考えた。
真相調査。
政府機関への浸透。
王党派による暗殺。
南部軍の共謀。
どの言葉を最初に置くかで、明日拘束される者が変わる。
「革命政府の通行制度を悪用した、組織的暗殺未遂。」
「組織的、と断定するのですか。」
「単独犯では通行証を発行できない。」
「印章を盗んだ可能性もあります。」
ダンは補佐官を見た。
若い男は怯みながらも、筆を下ろさなかった。
「では、組織的、または政府内部の管理不備を利用した暗殺未遂と書きますか。」
「長過ぎる。」
「ですが、事実には近づきます。」
ダンは窓の外の叫びを聞いた。
事実へ近づく文章は、群衆を止めない。
単純な言葉だけが敵の輪郭を作る。
「組織的暗殺未遂でよい。」
補佐官の筆が紙へ触れた。
最初の一文字が書かれた瞬間、まだ存在するかも分からない組織が、公文書の中では事実になった。
ダンはその文字を見つめた。
誰を犯人にするかは、まだ決めていない。
だが、何人を犯人にできる事件へ変えるかは、既に決めていた。
老書記が待機させられた部屋には、机が一つと椅子が二脚、壁際へ水差しが置かれているだけであった。
窓は中庭へ面していたが、鉄格子の外側へ記録庫の高い壁が立ち、空は細い帯としてしか見えない。正式な拘留室ではなく、証人や役人を一時的に待たせるための場所である。それでも扉の外には兵が立ち、内側から開けられないよう鍵が掛けられていた。
老書記は椅子へ座らず、窓の下に立っていた。
若い頃から長時間机へ向かい続けた背は僅かに曲がっている。記録室から連れ出された時にも手放さなかった布製の筆入れを、両手で包むように持っていた。
扉が開き、先ほどまでダンの側で記録を取っていた若い補佐官が入ってくる。
後ろには二人の書記が続き、一人が紙束を抱え、もう一人が机へインク壺を置いた。
老書記は三人を見て、僅かに眉を上げた。
「本人は来ないのか。」
若い補佐官は正面の椅子を引いたが、自分では座らなかった。
「捜査責任者は、他の証拠を確認しています。」
「では、あなたが私を調べる?」
「事情を記録します。」
「事情という言葉は便利だな。証人にも容疑者にも使える。」
補佐官は反論せず、机の上へ一枚の許可証を置いた。銃撃犯が広場へ入るために使ったと考えられる、偽名の商人許可証である。
「この印章を発見した経緯から、お話しください。」
老書記は紙へ近づかず、立ったまま答えた。
「商人名簿と搬入記録を照合していた。許可証の名が名簿に存在せず、住所も該当しなかった。印章の欠けが裁判所へ貸し出されたものと同一だったため、台帳を確認した。」
「印章が返却されていないことは、以前から知っていましたか。」
「知らなかった。」
補佐官が筆を走らせる書記へ目を向け、記録されたことを確認した。
「印章の貸し出しを承認したのは?」
「ダンだ。」
部屋の中の筆音が一瞬だけ途切れた。
若い補佐官は表情を変えず、次の問いへ進んだ。
「書面上の承認者は、元補佐官となっています。」
「命じた者と、書類を受け取った者は違う。」
「その命令を直接聞いたのですか。」
「聞いた。」
「誰が同席していました。」
老書記は記憶を探るため、細い空を見上げた。
「物資管理局から来た女書記が一人。印章を受け取った補佐官。食料商人の男。それから、拘留所の管理人だ。」
補佐官の指が僅かに止まった。
四人の名が出た。
一人の証言だけなら、老書記の記憶違いや私怨として処理できる。しかし別の場所にいる複数の人物を指名したことで、照合すべき記録が生まれた。
「命令の目的は?」
「正式な記録へ載せられない拘留者へ、食料と書類を運ぶためだ。」
「正式な記録へ載せられない、という表現は、ダン本人が使ったのですか。」
「違う。本人は、記録を後から整えると言った。」
「後から?」
「捜査が終わり、容疑が確定してから、正式な収容日を決める。その時に書類を作ると。」
若い補佐官は、記録を取る二人へ顔を向けなかった。だが、その背筋が先ほどより固くなっていた。
拘留した後で、拘留開始日を決める。
裁判所が人間を隠していたと認めるに等しい証言である。
「実際に、後から書類は作られましたか。」
「一部は。」
「一部?」
「裁判へ出された者は、逮捕日が書き換えられた。途中で釈放された者、別の役所へ移された者、病死した者については、最初から存在しなかったことになった。」
「病死した者がいたのですか。」
老書記は補佐官を見た。
「その質問は、今日の銃撃事件に必要か。」
「通行制度がどのように使われたかを確認するためです。」
「ならば、正直に記録すればよい。印章は人間を法の外へ運ぶために使われた。今日、その同じ道を通って、女が広場へ入った。それだけだ。」
補佐官の喉が動いた。
「あなたは、ダンが暗殺へ関与したと考えていますか。」
老書記は初めて椅子へ座った。
長く立っていた脚へ痛みが出たのか、膝を掌で一度押さえた。
「考えていない。」
予想と異なる返答に、補佐官は問いを重ねなかった。
老書記は机に置かれた許可証へ目を落とした。
「ダンは、マルスを撃つ理由を持たない。少なくとも、今はな。」
「では、なぜ印章が使われたのでしょう。」
「自分だけが使えると思っていた仕組みを、別の誰かに使われた。それだけかもしれない。」
「それなら、管理不備です。」
「管理不備だけで済めばよいな。」
老書記の声には皮肉よりも疲労があった。
「扉を作った者は、誰かが逆から入ってくる可能性も考えなければならない。だが、あの男は、自分が鍵を持っている限り、扉は自分のものだと思っていた。」
若い補佐官は記録係へ合図し、その一文をそのまま書かせなかった。
比喩は事実ではない。
それでも、補佐官の中には残った。
「あなたは、なぜ半年間、台帳を調べなかったのです。」
「返却確認の欄が空いている印章は他にもある。革命が始まってから、役所は印章を貸し、帳簿を失い、担当者が処刑され、別の者が後から署名した。すべてを一つずつ追えば、記録室は一歩も進まない。」
「つまり、見逃した。」
「そうだ。」
老書記は否定しなかった。
「私にも責任はある。だが、私一人の責任へすれば、簡単に終わる。」
補佐官の目が僅かに細くなる。
「ダンが、あなたへ罪を負わせようとしていると?」
「まだ決めていないだろう。」
老書記は筆入れを机へ置いた。
「だから、今のうちに全部話している。」
「自分を守るためですか。」
「それもある。」
「ダンへの復讐では?」
老書記は暫く若い男を見た。
「あなたは、あの男に拾われたのか。」
補佐官の表情が初めて動いた。
「質問に答えてください。」
「答えている。拾われた者は、見捨てられた者の証言を復讐だと思いたがる。そうでなければ、次は自分かもしれないからだ。」
「私は、個人的な推測を求めていません。」
「では、記録へこう書け。私は、ダンが暗殺を命じたとは知らない。印章を法の外で使わせたことは知っている。返却を確認しなかった自分の過失も認める。これ以上でも、以下でもない。」
補佐官は記録された文章を読み返し、老書記へ確認した。
その言葉にはダンを破滅させようとする誇張がなかった。
自分の過失も含めている。
だからこそ、簡単には崩せなかった。
聴取が終わるより早く、別の部屋では元補佐官が取り調べを受けていた。
地方へ転任させられていた男は、夜明け前に宿舎から連れ出され、長距離を馬車で運ばれてきたため、頬には髭が伸び、上着の釦も一つ掛け違えていた。
両手は拘束されていない。
しかし扉の前に兵士が二人立ち、机には彼が受領した印章の貸出台帳が置かれている。
ダンは自ら、その男の正面へ座っていた。
「返却したはずです。」
元補佐官は、同じ言葉を三度繰り返していた。
「誰へ?」
「物資管理局へ。」
「担当者の名前は。」
「覚えていません。」
「受領証は。」
「渡されなかった。」
「印章を返したのに、証明する紙を求めなかった?」
元補佐官は乾いた唇を舐めた。
「正式な貸し出しではありませんでした。」
「台帳には載っている。」
「後から載せたのでしょう。」
ダンは椅子の背へ身体を預けた。
「誰が?」
「あなたです。」
部屋の中の書記が顔を上げた。
ダンの眼差しが動き、書記はすぐ紙へ戻った。
「私が、何のために。」
「印章が外へ出た責任を、私へ負わせるために。」
「半年も前から、今日の銃撃を予測していたと?」
「今日のためではない。」
元補佐官は拳を膝の上で握り締めた。
「秘密拘束所が見つかった時のためです。」
ダンの表情は崩れなかった。
「あなたは、印章を使って何を運んだ。」
「食料、薬、尋問記録、偽名の衣服、移送される人間。」
「人間?」
「荷車の底へ寝かせ、布を被せて運びました。」
「誰の命令で。」
「あなたです。」
「書面はあるか。」
元補佐官は笑おうとして失敗した。
頬の筋肉が引き攣っただけだった。
「書面を残さないための秘密拘束所でしょう。」
「ならば、あなたが勝手に行った可能性もある。」
「そう言うと思いました。」
男は上着の内側へ手を入れようとし、兵士が即座に剣へ触れた。
ダンが片手を上げ、止める。
元補佐官は胸元から小さな革袋を取り出した。
袋の中には、折り畳まれた紙片が数枚入っていた。
「何だ。」
「あなたから受け取った指示の控えです。」
ダンの瞼が僅かに下がった。決定的な物証を突きつけられてなお、その声に焦りはない。
「文字だけの紙片など、お前が自分の身を守るためにいくらでも偽造できるはずだ」
「ええ、その通りです。ただの紙切れ一つなら、誰でも捏造できます」
元補佐官は怯むことなく男を見返し、自身の用意した逃げ道の細さを自嘲するように口の端を歪めた。
「だからこそ、これだけではあなたの首を取るための証拠にはならないと、私自身が一番よく分かっています」
紙片は小さく、命令の全文ではなく、日付、荷車の番号、搬入量、拘留者を示す記号だけが書かれている。署名はなく、筆跡も急いで崩されていた。
元補佐官は一枚を机へ置いた。
「この日付に、食料商人へ同じ金額が支払われています。拘留所の薪の搬入量も増えている。老書記が保管している別帳簿にも、同じ荷車番号があるはずです。」
ダンは紙片へ触れなかった。
「なぜ持っていた。」
「生き残るためです。」
「私を脅すために?」
「最初は、違いました。」
男は視線を落とした。
「あなたの役に立っていれば、いつか正式な地位へ戻してもらえると思っていた。その時、自分が何をしたか忘れないために残した。」
「忘れた方が、都合はよかったはずだ。」
「あなたには。」
元補佐官の声へ、初めて怒りが混じった。
「私は、拘留された者の名前も知らず、罪も知らず、ただ番号で運びました。夜に声が聞こえても、質問するなと言われた。死んだ者を運び出す時も、荷物として記録した。」
「あなたは拒めた。」
「拒めば、私が中へ入れられた。」
「今になって被害者を装うのか。」
「装っていません。」
元補佐官は顔を上げた。
「私は加担した。だから、全部話している。」
ダンの指が机の縁をゆっくりとなぞった。
老書記と同じだった。
自分の責任を否定しない。
そのため、ダンが罪を押し返そうとしても、完全には逃げない。
「印章は、誰へ返した。」
「返していません。」
先ほどまでの証言と矛盾した。
書記の筆が止まる。
ダンは男を見つめた。
「今、返したと言った。」
「そう言わなければ、最初の一刻で私だけが犯人になるでしょう。」
「虚偽の証言を認めるのか。」
「認めます。」
元補佐官は息を吐いた。
「印章は、あなたへ戻した。」
部屋の空気が固まった。
「どこで。」
「裁判所の裏階段。最後の拘留者を移した翌朝です。」
「誰か見ていたか。」
「食料商人がいました。」
「名前は。」
男は答えた。
その名は、老書記が先ほど挙げた商人と同じだった。
証言の最初は食い違っている。
返却した、返却していない、物資管理局へ返した、ダンへ返した。
だが嘘を認めた後に出た人物と場所は、別室の証言と結び付いた。
ダンは筆記を命じていた書記へ言った。
「最初の虚偽も消すな。」
元補佐官が僅かに驚いた顔をした。
「消さないのですか。」
「嘘をついた証人であることも、記録の一部だ。」
「それで、私の後の言葉を無効にする?」
「無効かどうかは、照合して決める。」
ダンは立ち上がった。
「食料商人を連れてこい。」
商人は既に裁判所の別棟へ呼ばれていた。
――彼は老書記や元補佐官ほど落ち着いていなかった。
太った身体を窮屈な椅子へ押し込み、襟元へ浮いた汗を何度も布で拭っている。革命前から裁判所や施療院へ食料を納め、政変のたびに取引先を変えて生き残ってきた男だった。
若い頃のダンが債務を抱え、食事代すら払えなかった時期には、月末まで待つと言ってパンと肉を渡したことがある。
その代わり、ダンが地位を得た後は、裁判所の取引へ優先的に入れてもらった。
恩と利益は、どちらか一方ではなかった。
ダンが部屋へ入ると、商人は立ち上がろうとしたが、膝が机へぶつかり、水差しを倒しかけた。
「座っていてください。」
「私は、銃など売っておりません。」
「まだ聞いていない。」
「食料しか扱っていない。パンと干し肉、豆、薪、酒、それから薬草です。武器は一度も。」
ダンは向かいへ座った。
「秘密拘束所へも?」
商人の手が、襟元で止まった。
「何のことでしょう。」
「半年前、商人用の通行証で食料を運んだ場所です。」
「幾つもあります。軍の倉庫、臨時病棟、孤児の給食所。」
「荷車番号は三十七。受領者の署名はなく、代金は裁判所の特別費から支払われている。」
商人は布を握り締めた。
「昔の帳簿を、すべて覚えているわけではありません。」
ダンは元補佐官の紙片を机へ置いた。
「同じ日付、同じ荷車、同じ支払額です。」
商人の目が紙片へ動いた。
「誰が出したのです。」
「質問しているのはこちらです。」
商人は唇を結んだ。
ダンは怒鳴らず、支払記録をもう一枚並べた。
「この代金は通常より三割高い。口止め料を含んでいましたか。」
「夜間の搬入でした。危険手当です。」
「何が危険だった。」
「道が暗い。」
「首都の石畳を走るだけで、三割増しになるのか。」
「兵士が多かった。」
「裁判所の命令書があれば、止められない。」
商人は答えなかった。
ダンは男の顔を見た。
昔、代金を払えなかった時、帳簿の端へ小さく印を付け、次に金が入ったら払えばよいと言った男である。
その時の恩を、ダンは後の取引で返したつもりだった。
商人も、返してもらったと思っていたはずだった。
だが一度でも秘密を共有すれば、恩は終わらない。
互いに相手を黙らせ続けなければならない関係へ変わる。
「あなたが、私へ印章を返す場面を見たと証言した者がいる。」
商人の顔色が変わった。
「誰です。」
「見たのですか。」
「……見ました。」
商人は布を机へ置いた。
「裏階段でした。元補佐官が小箱を渡し、あなたが受け取った。」
「中身を確認したか。」
「していません。」
「なら、印章とは限らない。」
「限りません。」
商人は頷いた。
「ですが、その翌日から通行証は使われなくなった。」
「なぜ、今まで話さなかった。」
「話す理由がなかった。」
「今は?」
「呼ばれたからです。」
あまりに単純な返答だった。
復讐でも正義でもない。
裁判所から呼ばれ、証言を求められたから答える。
ダンはその平凡さへ苛立ちを覚えた。
「私との取引を失う可能性は考えなかったのですか。」
商人は困ったように目を伏せた。
「あなたは、もう私を守れないでしょう。」
ダンの眉が僅かに動いた。
「誰がそう言った。」
「誰も。」
商人は汗を拭った。
「老書記が連れて行かれ、元補佐官も呼び戻され、秘密拘留所の帳簿まで出された。あなたが強いままなら、ここまで表へ出ない。」
「だから、見捨てる?」
「見捨てるつもりではありません。」
「では、何です。」
商人は暫く言葉を探した。
「沈む船から降りる、と申せば、怒りますか。」
ダンは笑わなかった。
商人は肩を落とし、続けた。
「若い頃のあなたへ食事を渡したのは、本当に助けたいと思ったからです。後で取引を回していただいたことにも、感謝しています。ですが、恩があるから一緒に沈めと言われても、家族まで乗せられません。」
「私は、沈んでいない。」
「それなら、私の証言一つで揺らがないでしょう。」
商人の声は弱かった。
弱いからこそ、挑発ではなかった。
ダンは机の上の記録へ目を落とした。
元補佐官は最初に嘘をついた。
老書記は自分の管理責任を認めた。
商人は利益のために秘密搬入へ協力した。
全員に傷がある。
完全な証人はいない。
しかし三人は相談していないにもかかわらず、同じ裏階段、同じ荷車、同じ支払日、同じ印章へ辿り着いている。
細部は一致していなかった。
それぞれが自分に都合のよい部分を隠し、順番を変え、責任を軽くしようとしている。
だからこそ、中央に残る事実が一層固くなった。
ダンが商人の聴取を終えた頃、施療所ではマルスが短い意識を取り戻していた。
医師は肩から弾丸を取り出したばかりで、寝台の横に置かれた浅い皿には、血と骨片にまみれた鉛が転がっている。
マルスの顔は白く、呼吸をするたび左胸が僅かに震えた。麻酔に使った薬と出血のため、瞳は焦点を結びにくく、天井から医師の顔へ戻るまでにも時間が掛かる。
それでも、治療室の外には政府の聴取官が待っていた。
医師が扉を開けると、男は書面を掲げた。
「一つの質問だけです。」
「昨日も同じ言葉を聞いた。」
「書面へ明記しています。犯人を見たか、その確認のみ。」
医師は紙を読み、室内へ入れる人数を一人へ限定した。
聴取官は護衛を外へ残し、寝台から距離を取って立った。
マルスは男の胸元にある政府の徽章へ目を向け、唇を動かした。
声が出ず、医師が濡らした布で口元を湿らせる。
「聞こえますか。」
マルスは僅かに頷いた。
聴取官は書面を開いた。
「銃を撃った人物を、あなたは見ましたか。」
マルスの瞼が一度閉じた。
コラソンの顔が浮かんだのか、演壇の下の煙を思い出したのか、右手の指が寝台の布を弱く掴んだ。
「見た。」
掠れた声だった。
聴取官の筆が動く。
「人物は、コラソンという女でしたか。」
医師が顔を上げた。
「一つの質問と。」
「確認です。」
マルスは浅く息を吸った。
「そうだ。」
聴取官は最初の書面の下へ、別の紙を重ねた。
「コラソンは王党派の命令を受けていましたか。」
マルスの瞳が聴取官へ向いた。
「知らない。」
「南部のクーデター勢力との接触は?」
「知らない。」
「政府内部の者から通行証を受け取った可能性は?」
「知らない。」
「演説前に、彼女から脅迫や警告を受けましたか。」
医師が聴取官の腕を掴んだ。
「終わりです。」
「まだ重要な確認が。」
マルスは右手を持ち上げようとしたが、肘が寝台から離れず、指先だけが動いた。
「聞かせろ。」
医師が彼を止めようとしたが、マルスは首を横へ振った。
聴取官は紙へ目を落とした。
「コラソンは、あなたの演説を止めるため、王党派と共謀して銃撃した。この認識に相違ありませんか。」
マルスの顔から、薬による曖昧さが一瞬だけ消えた。
「知らない、と言った。」
「ですが、あなたを撃った。」
「撃ったことと、誰に命じられたかは別だ。」
「動機を推定できるのは、あなたです。」
「推定を、証言にするのか。」
声を出すたび、肩口の布へ新しい血が滲んだ。
医師は聴取官を扉へ押し戻そうとしたが、マルスは続けた。
「私が見たのは、銃を持った彼女だけだ。」
「逃走を助けた者は?」
マルスの呼吸が止まりかけた。
自分が作った屋根の狙撃手と、北へ逃げた男。
存在しない共犯者を、政府は既に探している。
「いない。」
聴取官の筆が止まった。
「警備兵は、二人目がいたと。」
「いない。」
「では、なぜあなたは屋根を指したのです。」
医師が強く言った。
「聴取は終わりです。」
マルスは目を閉じた。
「群衆を、逸らした。」
聴取官の顔が強張った。
「犯人を逃がしたのですか。」
マルスは答えなかった。
「なぜ、自分を撃った者を?」
医師が聴取官を扉の外へ押し出した。
男は抵抗しながらも、寝台へ近づくことは避けた。ここで患者を死なせれば、自分の聴取が原因として記録される。
扉が閉じる直前、マルスの掠れた声が届いた。
「殺されるからだ。」
聴取官は廊下で立ち止まった。
医師が扉へ鍵を掛ける。
手元の紙には、政府が欲していた証言が一つも揃っていない。
コラソンが撃った。
それだけだった。
王党派の命令も、ジャン派の共謀も、政府内部の陰謀も、マルスは認めなかった。
それどころか、被害者自身が犯人を逃がした事実が加わった。
この報告が裁判所へ届いた時、ダンは商人の聴取記録を読んでいた。
若い補佐官が紙を差し出す。
「マルスが意識を取り戻しました。」
「証言は。」
「コラソンが撃ったことは認めました。しかし、動機も共犯者も知らないと。」
ダンは紙を受け取った。
最後の部分まで読み、指を止める。
「群衆を逸らし、逃走を助けた。」
「はい。」
「荷車も?」
「本人は、そこまで話していません。」
「医師が止めたのか。」
「出血が再開したためです。」
ダンは報告書を机へ置いた。
「被害者が犯人を逃がし、政府の用意した動機を否定した。」
若い補佐官は返答を控えた。
ダンは窓の外を見た。
広場ではまだ、王党派による暗殺を叫ぶ者がいる。政府がその筋書きを発表すれば、簡単に受け入れられるだろう。
しかしマルスの証言が公開されれば、政府が嘘をついたことになる。
非公開にすれば、マルスを黙らせたと疑われる。
「ロベルトへ届けてください。」
「全文を?」
「削れば、後で誰が削ったか調べられる。」
補佐官は頷き、退出しようとした。
「待ちなさい。」
ダンは、机の上へ並ぶ三人の証言を見た。
老書記。
元補佐官。
食料商人。
その外にも、拘留所の管理人と物資管理局の女書記が、既に裁判所へ向かっている。
「証人同士を会わせないでください。」
「口裏合わせを防ぐためですか。」
「違う。」
ダンは言葉を選んだ。
「今のままなら、証言は細部で食い違っている。会わせれば、同じ物語へ整えてしまう。」
補佐官は、その意図を理解した。
細部の不一致を残す。
後で虚偽証言として崩すためなのか、逆に独立した証言として扱うためなのかは、まだ分からない。
「ダン。」
扉の外から声がした。
老書記だった。
護衛の制止を受けながらも、部屋の入口まで連れてこられている。事情聴取を終え、別室へ戻される途中だった。
ダンは立ち上がらなかった。
「何です。」
老書記は室内の机に並ぶ紙を見た。
「拘留所の管理人が来たそうだな。」
「あなたには関係ありません。」
「物資管理局の女書記も。」
「証人の情報を、どこで聞いた。」
「廊下の役人は、扉より口が軽い。」
老書記は護衛へ押されながらも、ダンから目を逸らさなかった。
「全員、別々のことを言うぞ。」
「既に、そうなっています。」
「なら、安心した。」
ダンの眉が寄った。
「何がです。」
「相談して作った話ではないと分かる。」
老書記は静かに言った。
「私たちは皆、自分を守るため少しずつ嘘をつく。順番を変え、知らないことを知らないと言わず、覚えていないことを相手のせいにする。だが、同じ日、同じ階段、同じ荷車へ、最後には戻る。」
「それを判断するのは、あなたではありません。」
「そうだ。あなただ。」
老書記の顔には、勝ち誇る色がなかった。
むしろ、長く教えてきた相手へ最後の問題を渡す教師のような、重い疲れがあった。
「だから見ている。人を切るために使ってきた不一致を、今度はどう扱うのか。」
護衛が老書記を廊下へ押し戻した。
扉が閉じる。
ダンは机の上の記録へ視線を落とした。
秘密拘束所の存在は、まだ銃撃事件の犯人を示していない。
コラソンが誰から印章を得たのかも不明である。
だが、事件を調べるために開いた記録から、裁判所が法の外で人間を拘束し、移送し、証言を整えていた事実が浮かび上がった。
そして、その中心には自分がいる。
若い補佐官が戻ってきた。
手には、新しい書面があった。
「拘留所の管理人が到着しました。」
「何と。」
「秘密拘束所の運用について、証言すると。」
「条件は?」
「自分だけの責任にしないこと。」
ダンは目を閉じなかった。
「物資管理局の書記は。」
「印章を貸し出した記録と、返却を求めた手紙の控えを持っています。」
「手紙?」
「三度、裁判所へ送ったと。」
ダンの指先が、机の縁から離れた。
返却を求める手紙。
それが残っているなら、単なる記録漏れでは済まない。催促を受けながら返却せず、印章を使い続けたことになる。
「誰が受け取った。」
補佐官はすぐに答えなかった。
その間だけで、ダンには分かった。
「私の部署か。」
「あなたの署名で、確認済みと返答されています。」
部屋の外で鐘が鳴った。
夜の拘束開始を知らせる音だった。
昨日までなら、その鐘を聞いた者は、自分の名が逮捕状へ載っていないことを祈った。
今日、ダンは初めて、自分の机へ届けられる書類の中に、自分の名が書かれている可能性を考えた。
銃撃事件の捜査は、まだ終わっていない。
コラソンは逃亡し、マルスは治療中で、暗殺を命じた者も分からない。
それでも、事件は既に別の方向へ進み始めていた。
誰がマルスを撃たせたかではなく、誰が人間を法の外へ運ぶ道を作り、誰が証拠を隠し、誰が命令を存在しなかったことにしたのか。
そして、何人の恩人を使い、用が済んだ後に切り捨てたのか。
机の上には、まだ互いに会ったことすらない証人たちの記録が並んでいた。
文章も、記憶も、責任の置き方も違う。
だが、すべての紙の中央へ、同じ名前が残っていた。
ダンはそれを消さなかった。
まだ消せると考えていた。
ダンの執務室から裁判所の印章が運び出されたのは、夜明け前であった。
若い補佐官は鍵を二つ使って壁際の戸棚を開き、中から大小七つの印章を取り出した。国家反逆罪、財産没収、証人召喚、秘密審問、緊急拘束。それぞれが布へ包まれ、使用記録と共に木箱へ収められていく。
ダンは机の向こう側に座ったまま、その作業を止めなかった。
印章の保全は捜査責任者である自分が命じた形式になっていたが、実際には、誰も彼が新たな書類へ印を押せないようにする措置であった。
「緊急拘束印まで持ち出す必要がありますか。」
補佐官は木箱の蓋を閉じる前に手を止めた。
「証拠の保全です。」
「誰から守るのです。」
男は答えず、箱を兵へ渡した。
ダンは椅子の肘掛けへ指を置いた。昨日までなら、質問へ答えない部下を職務怠慢で退室させていた。しかし今、その命令を出せば、証拠へ触れようとした行為として記録される。
「私の署名が必要な文書はどうする。」
「副公訴官が代行します。」
「任命手続を経ていない。」
「国家非常時における職務代行規定を用います。」
ダンの指が止まった。
その規定は、反革命容疑を受けた役人を即座に職務から外すため、彼自身が整えたものだった。正式な解任を待てば証拠を消される可能性があるため、疑いが生じた段階で権限だけを停止できる。
「私は職務停止を命じられていない。」
「命令書は、審問開始と同時に渡されます。」
「審問の結果が出る前に?」
補佐官はようやくダンの顔を見た。
「あなたが、そう作りました。」
木箱が運び出され、扉が閉じた。
机に残ったのは、使われていないインク壺、封を切れない書簡、署名する権限を失った紙だけだった。
ダンは椅子から立ち、窓辺へ歩いた。
中庭には早朝から兵が配置されている。彼を守るためではない。部屋から別の建物へ移動する際、記録庫や証人控室へ近づかせないための監視だった。
空はまだ青白く、町の屋根には夜の冷気が残っている。
通りでは、マルスの銃撃犯を求める群衆が眠らずに声を上げ続けていた。
昨日まで彼らは王党派を処刑しろと叫んでいた。
今朝は、裁判所の内部へ共犯者がいると叫んでいる。
誰がその言葉を流したのか、ダンには分かっていた。
政府は、自分たちへ向いていた疑いを一人の法官へ集め始めている。
それは、ダンが何度も用いてきた手法だった。
複数の役所が関与した失敗を、一人の責任者へ集約する。
制度に欠陥があったのではなく、運用した人物が腐敗していたことにする。
その人物を裁けば、制度は正しさを取り戻したと発表できる。
扉が再び開き、兵士が二人入った。
「審問室へ移動していただきます。」
「拘束具は。」
「現時点では使用しません。」
「現時点では、か。」
兵士は答えなかった。
ダンは外套を手に取ったが、着る前に内側のポケットを裏返した。紙片も私物も残していないことを見せる。
兵士の一人が、僅かに困惑したように眉を動かした。
「身体検査は命じられておりません。」
「後から紙を隠したと言われては困る。」
ダンは外套を纏った。
「記録へ残せ。自分から所持品を示し、何も持ち出していないと。」
兵士は互いの顔を見た。
ダンはその反応を見逃さなかった。
「命令がなくとも、見た事実は記録できるだろう。」
「審問官へ伝えます。」
「あなた自身の名で書け。」
兵士の顔に緊張が走った。
証言へ署名させる。
昨日までダンが不確かな目撃者へ用いていた手法である。
若い兵士は拒まず、小さな手帳へ時刻と事実を書いた。
ダンはそれを確認してから廊下へ出た。
審問室は、革命裁判所の大法廷ではなかった。
窓のない小部屋へ長机が置かれ、その向こうにロベルト、二人の議員、副公訴官、軍の監察官が座っている。裁判官は一人もいない。
法的な有罪を決める場ではなく、ダンを職務へ残すか、容疑者へ変えるかを決める政治的な聴取だった。
長机の手前には椅子が一脚だけ置かれている。
ダンは座るよう命じられるまで立っていた。
ロベルトは卓上の証言書を閉じ、眼鏡越しに彼を見た。
「座ってください。」
「これは正式な審問ですか。」
「事実確認です。」
「ならば、私の立場を明確にしていただきたい。捜査責任者、証人、容疑者、そのいずれです。」
議員の一人が苛立ったように紙を揃えた。
「今から、それを判断する。」
「立場が決まっていない人間へ質問し、その返答によって立場を決めるのですか。」
「何か問題が?」
ダンは椅子へ座らず、議員へ目を向けた。
「証人には、虚偽を述べない義務があります。容疑者には、自分を罪へ導く証言を拒む権利がある。捜査責任者には、知り得た秘密を守る義務がある。立場が曖昧なままでは、同じ返答が義務にも犯罪にもなる。」
ロベルトは眼鏡を外し、布で拭った。
「あなた自身が、非常時には立場の確定を待てないと何度も主張してきた。」
「拘束の必要性と、証言の扱いは別です。」
「今回は、あなたを拘束していない。」
「権限を停止し、印章を奪い、証人との接触を禁じ、兵を付けて移動させた。それを自由な出席と呼ぶのですか。」
軍の監察官が机へ片肘を置いた。
「逃げるつもりがないなら、困らないでしょう。」
ダンは男の軍服へ視線を移した。
「逃げる者だけが権利を必要とすると?」
「あなたの権利について議論するために集まったのではない。」
「では、何について?」
ロベルトが眼鏡を戻した。
「秘密拘束所、印章の不正利用、逮捕日の改竄、証拠の作成、そしてマルス銃撃犯が政府の通行制度を使って広場へ入った件です。」
「最後の一件と、それ以前の四件を同じ事件として扱う根拠は。」
「同じ印章が使われた。」
「印章が同じなら、使用者も同じだと?」
「あなたが管理していた。」
「管理を離れた後に使われた可能性は、昨日の捜査で既に示したはずです。」
副公訴官が証言書を一枚開いた。
「元補佐官は、印章をあなたへ返したと述べています。」
「最初は物資管理局へ返したと嘘をついた。」
「その虚偽も記録されています。」
「虚偽を認めた証人の後の発言だけを採用するのか。」
老書記の言葉が、ダンの耳へ戻った。
人を切るために使ってきた不一致を、今度はどう扱うのか。
ダンは一瞬、言葉を止めた。
副公訴官はその沈黙を待った。
「証言の不一致は、証人同士が事前に口裏を合わせていない証拠にもなります。」
「私が昨日、補佐官へ教えた理屈です。」
「法は、誰が述べても法です。」
ダンの口元が僅かに動いた。
笑いかけたのではない。
自分の言葉を奪われた人間が、痛みを隠すために筋肉を固くしただけだった。
「元補佐官は印章を返した。食料商人は、裏階段で小箱が渡された場面を見た。中身は確認していない。老書記は、私が印章の利用を命じたと述べたが、返却場面は見ていない。三人の証言を合わせても、私が返却された印章を受け取った事実までは確定しない。」
「物資管理局の女書記は、返却を求める書簡を三度送り、あなたの署名入りで確認したとの返答を受け取っています。」
副公訴官が三通の写しを机へ並べた。
ダンは近づかず、席の位置から目を細めた。
「原本は。」
「保全しています。」
「署名の鑑定は。」
「あなた自身の署名記録と一致しています。」
「筆跡が似ていることは、本人が書いた証明にならない。」
議員が椅子を鳴らした。
「では、すべて偽造だと言うのか。」
「違います。証明されていないと言っている。」
「この期に及んで、言葉遊びを――」
「言葉を正確に扱うことが法でしょう。」
ダンの声が初めて強くなった。
「疑いと事実、可能性と証明、有罪と不快な人物を区別しなければ、ここは裁判所ではない。」
ロベルトは指を組み、唇の前へ置いた。
「秘密拘束所の存在は認めますか。」
「認めます。」
議員たちの間に小さな動きが起きた。
ダンは続けた。
「正式な監獄へ入れれば仲間に所在を知られ、証人を殺される危険がある者を一時的に隔離した。国家非常時の保護措置です。」
「逮捕日を後から書き換えた。」
「正式な訴追が始まった日を逮捕日として記録した。」
「それ以前は自由だったと?」
「監視下にあった。」
「外へ出られない場所へ閉じ込められた状態を、監視と呼ぶのか。」
「拘束と記録すれば、拘束命令書が必要になります。」
ロベルトの目が鋭くなった。
「命令書がないから、拘束ではないことにした?」
「国家を守るため、手続が現実へ追いつかない場合があります。」
「あなたが、そう判断した。」
「はい。」
ダンは否定しなかった。
ここで責任を部下へ押し付ければ、元補佐官や老書記の証言を強めるだけになる。
「私は命じました。印章を使い、商人の許可証として物資を運ばせ、人間も外から見えない形で移送した。ですが、それはマルスの暗殺とは無関係です。」
「同じ経路が暗殺者に使われた。」
「道を作った者が、道を通る全ての人間へ責任を負うなら、街道を作った職人は侵略軍の共犯ですか。」
軍の監察官が鼻で息を吐いた。
「街道には門番がいる。」
「この通行制度にもいました。」
「買収されたか、命じられたか。」
「それを調べている途中で、私の権限を奪ったのはそちらです。」
ロベルトは一枚の紙を持ち上げた。
「調べる途中で、あなたは最初の発見者を容疑者へ変えた。」
老書記の事情聴取命令だった。
「印章の返却漏れを半年間見逃した管理責任があります。」
「それだけで別室へ兵を付けた?」
「証人同士の接触を防ぐためです。」
「元補佐官も商人も、同じ扱いを受けていない。」
「老書記だけが、すべての記録へ自由に触れられた。」
「あなたの過去を知っていたからではなく?」
ダンの背中が僅かに硬くなった。
ロベルトは証言書を読み上げなかった。
ただ、老書記が若いダンへ机を貸し、法曹としての地位を得る手助けをしたこと、秘密拘束所の記録へ最初に疑問を呈したことが書かれた紙を、他の証言の上へ置いた。
「恩人だから外した、とは言わないのですね。」
「恩人であることは、証拠の扱いに関係ありません。」
「関係がないから、真っ先に切った?」
「発見者が同時に原本を扱えば、証拠の独立性が失われる。」
「別の書記へ原本を任せ、自分も立ち会えば済んだ。」
「時間がありませんでした。」
「時間がない時、あなたはいつも人を切る。」
ロベルトの言葉は静かだった。
その静けさには、以前からダンへ抱いていた警戒が混じっている。
「証拠を守るため。国家を守るため。群衆を止めるため。理由は毎回違うが、切られるのはあなたへ借りのある者だ。拒まない者を先に選ぶ。」
ダンの指が膝の上で組まれた。
「政治的な印象を述べる場ですか。」
「人間の選び方も、捜査の一部だ。」
「ならば、あなたも同じでしょう。」
室内の空気が変わった。
議員が顔を上げ、軍の監察官は腕を机から下ろした。
ロベルトは動かなかった。
ダンは正面から彼を見る。
「マルスが撃たれ、ジャンの名でクーデターが続き、王党派を排除しても混乱は止まらない。政府は、制度ではなく誰か一人が腐敗していたことにしなければならない。だから私を選ぶ。」
「あなたの罪を作っていると?」
「違う。罪はあります。」
あまりに明確な返答に、議員たちが言葉を失った。
ダンは椅子の背から身体を離した。
「秘密拘束。記録の改竄。許可証の不正使用。証人への圧力。それらは事実です。ですが、これまで政府は必要な手段として黙認した。今になって私個人の犯罪へ変えるのは、同じ制度を残すためでしょう。」
ロベルトの頬が僅かに強張った。
「私は、秘密拘束所の全容を知らなかった。」
「知らないまま、結果だけを受け取った。」
「報告されなかった。」
「尋ねなかった。」
「私へ責任を分けるつもりか。」
「分ける必要はありません。最初から分かれている。」
ダンは室内に座る全員を見渡した。
「私が人を隠して拘束し、証言を整え、裁判へ出した。その判決を認め、処刑を政治的成果として発表したのは政府です。私だけを処刑しても、死んだ者は私一人に殺されたことにはならない。」
議員の一人が机を強く叩いた。
「詭弁だ! 命令を逸脱したのはあなた自身だろう!」
「逸脱した結果が都合よければ黙り、失敗した時だけ逸脱と呼ぶのですか。」
「マルスが撃たれた!」
「私が撃たせた証拠を出してください。」
ダンの声が室内へ鋭く響いた。
「それが、この審問の始まりだったはずです。印章が使われた。秘密経路が悪用された。私は経路を作った。そこまでは事実です。しかしコラソンへ銃を渡した者も、通行証を渡した者も、誰が暗殺を命じたかも判明していない。」
副公訴官が紙をめくった。
「コラソンが通行証を得た時期に、あなたの元補佐官が首都へ戻っていた記録があります。」
「元補佐官が何をした。」
「まだ分かりません。」
「分からないことを、私へ繋げるのか。」
「あなたが用意した人物と経路が、すべて揃っている。」
「だから、調べろと言っている!」
ダンは立ち上がった。
椅子の脚が床を擦り、兵士が反射的に一歩前へ出る。
ダンは両手を見える位置へ置き、兵を睨まなかった。
「コラソンが誰から命令を受けたのか。元補佐官と接触したのか。許可証を誰が押したのか。それを調べず、私を拘束すれば、真犯人は逃げる。」
「あなたを残せば、証拠が消える。」
ロベルトが言った。
「消していない。」
「老書記を外した。」
「証拠を封印した。」
「印章の利用を組織的暗殺と報告させた。」
ダンの顔から、一瞬だけ力が抜けた。
若い補佐官へ命じた最初の報告書。
まだ組織の存在も確認されていないのに、群衆を止めるため、その言葉を選んだ。
ロベルトはその紙を持ち上げた。
「銃撃事件を、何人でも犯人にできる形へ整えた。そうではないのか。」
「単独犯では、政府の印章を使えない。」
「元補佐官が一人で使った可能性を、あなた自身が認めていた。」
「公表文には単純さが必要です。」
「真実より?」
ダンは答えなかった。
問いへの答えは、昨日の時点で出していた。
事実へ近づく長い文章では群衆を止められない。
単純な敵を作る言葉が必要だった。
その判断が、今度は彼自身を組織的犯罪の中心へ置こうとしている。
ロベルトは紙を下ろした。
「座ってください。」
ダンは暫く立っていたが、やがて椅子を戻し、腰を下ろした。
その動作には服従よりも、最後まで手続を崩さない法官の意地があった。
副公訴官が次の証人を呼ぶよう命じた。
扉が開き、老書記が入ってきた。
兵は付いていたが、手は拘束されていない。
――彼はダンの姿を見ても足を止めず、長机とダンの間へ置かれた椅子へ座った。
二人が向かい合うのは、記録室から連れ出されて以来だった。
ロベルトが老書記へ尋ねた。
「ダンから、証言を変更するよう求められましたか。」
「いいえ。」
「証拠を隠すよう命じられたことは?」
「今回の事件では、ありません。」
議員が眉を寄せた。
「今回以外では?」
老書記はダンを見た。
「秘密拘束所の記録を、正式な裁判記録と混ぜるなと言われました。」
「理由は。」
「収容日の食い違いが露見するからです。」
「書面は残っていますか。」
「命令書はない。口頭でした。」
ダンが口を開いた。
「その場には誰がいた。」
老書記は視線を向けた。
「私とお前だけだ。」
「ならば、証明できない。」
「そうだな。」
老書記は簡単に認めた。
「だから、これだけでお前を裁くなと申し上げる。」
長机の向こうに座る者たちが、意外そうに顔を上げた。
ダンも眉を動かした。
「私を庇うのですか。」
「庇っていない。」
老書記は膝の上へ手を置いた。
「証明できないものを、証明されたことにするなと言っている。お前が何度も破った規則だが、私はまだ破るつもりがない。」
「私があなたを容疑者にした後でも?」
「それと法は別だ。」
ダンの喉が僅かに動いた。
若い頃、自分が法だけは裏切らないと言った時、この男は笑わなかった。
法は人間が裏切るから必要になるのだと答えた。
今、切り捨てられた後でさえ、同じ態度を貫いている。
ロベルトは老書記へ続けて尋ねた。
「では、確実に証言できることだけを。」
「ダンは秘密拘束所の設置を命じた。印章の使用を認めた。逮捕日を後から整えるよう述べた。今回発見された通行証と同じ欠けのある印章が使われていた。印章の返却は確認されていない。以上です。」
「ダンが返却後の印章を受け取ったことは。」
「見ていない。」
「マルス銃撃へ関与したことは。」
「知らない。」
「証拠を消そうとしたことは?」
老書記は少し考えた。
「私を記録から外した。」
「それを証拠隠滅と考えますか。」
「考えない。」
議員が身を乗り出した。
「なぜだ。」
「原本は封印され、写しも複数作られた。私が外されても、記録は残っている。」
老書記はそこでダンへ顔を向けた。
「この男は、証拠を消すより、人間の信用を消す。私が印章を見逃した管理責任者だと先に示せば、その後の証言を弱くできると思った。」
ダンは否定しなかった。
「間違っていますか。」
「方法としては正しい。」
老書記の声が僅かに低くなった。
「だが、お前は人間を紙の余白だと思い過ぎた。切れば、そこから先は何も残らないと。」
「感情を証拠へ混ぜるつもりですか。」
「違う。切られた人間は、別の場所で口を開く。その事実を忘れたと言っている。」
老書記の聴取が終わると、元補佐官、食料商人、物資管理局の女書記も順番に入った。
彼らの証言は、以前集められたものと大きく変わらない。
元補佐官は最初に嘘をついたことを認め、印章をダンへ返したと改めて述べた。
食料商人は小箱の中身を見ていないと繰り返し、ダンが受け取ったと断定することを拒んだ。
女書記は返却催促への返書を示したが、ダン本人が筆を取った場面までは見ていなかった。
完全な証人は一人もいない。
しかし、秘密拘束所と印章の不正使用については、誰の証言も同じ地点へ集まった。
マルス銃撃への関与だけは、最後まで空白のまま残った。
全ての証人が退室した後、ロベルトは議員たちと短い協議へ入った。
ダンは室内に残された。
聞かせないための協議なら、別室へ移せばよい。それをしないのは、彼の反応まで観察するためだった。
「暗殺への直接関与は立証できない。」
副公訴官が最初に言った。
議員は低い声で返した。
「だが、秘密拘束所だけで十分だ。」
「これまで政府が利用してきた。」
「正式には知らなかったことにできる。」
ダンは目を伏せなかった。
自分の予測が、数歩先で言葉になっている。
軍の監察官が腕を組んだ。
「釈放すれば、裁判所の記録へ触れる。」
「職務停止を継続する。」
「支持者を使う可能性がある。」
議員が吐き捨てるように言った。
「支持者など残っているのか。」
その言葉だけが、ダンの内側へ深く入った。
法的な罪ではない。
彼を守る者が存在しないという確認だった。
ロベルトは暫く黙り、卓上の紙を一枚引き寄せた。
「銃撃事件については、引き続き別に捜査する。」
「ダンを切り離すのか。」
「関与を立証できないまま暗殺罪へ入れれば、裁判で崩れる。」
「秘密拘束、記録改竄、印章不正使用、証人威迫。」
副公訴官が罪名を書き並べた。
「それだけで、身柄を拘束できます。」
「通常の未決拘留か?」
ロベルトの問いに、議員は首を横へ振った。
「証人が多い。証拠へ触れる手段も知り過ぎている。国家非常時の特別拘留を。」
ダンはそこで初めて、協議へ口を挟んだ。
「私の前で、逮捕後の扱いまで決めるのですか。」
ロベルトは筆を止めた。
「あなたの意見は、先ほど聞きました。」
「弁護人を通していない。」
「これは裁判ではない。」
「裁判ではない場所で、拘留を決める?」
「非常手続です。」
ダンは椅子から立った。
兵士が今度は迷わず前へ出る。
「その手続は、反革命容疑者が証拠を消す明白な危険がある場合に限られる。」
副公訴官が条文を開いた。
「対象者が、公文書の運用、証人の所在、拘束施設、印章管理に精通し、通常の監視では証拠保全が困難と判断される場合。」
「それは私が作った補足規定だ。」
「ですから、適用できます。」
「反革命容疑を受けていない。」
議員が冷たく返した。
「国家機関を私的に運用し、政府の信用を損なった。」
「反革命ではない。」
「国家へ対する危険である点は同じだ。」
「同じではない!」
ダンの声が壁へ反響した。
――彼はすぐに息を整えたが、既に叫びは記録されている。
「条文の対象を拡張するなら、正式な解釈決定が必要です。今ここで都合よく読み替えることはできない。」
ロベルトは、机の上の逮捕命令書へ目を落とした。
「あなたは以前、国家の存続が条文の文言へ優先すると主張した。」
「状況が違う。」
「対象者が違うだけでは?」
ダンは返せなかった。
違う。
自分は国家を守る側であり、捕らえられてきた者たちは国家を脅かす側だった。
そう言えばよかった。
だが、その区別を決めてきたのも自分だった。
ロベルトは命令書へ署名した。
副公訴官、議員、軍の監察官が順番に名を加える。
最後に、裁判所から運び出された緊急拘束印が箱から出され、紙面の下へ押された。
鈍い音が一度、室内へ響いた。
ダンはその印を見つめた。
何度も他人の名前の下へ押させた印だった。
乾くまで触れてはならない赤い跡が、今は自分の名の横へ残っている。
兵士が左右へ立った。
「身柄をお預かりします。」
ダンは両腕を差し出さなかった。
「拘束具を使用する根拠は。」
「逃走、抵抗、証拠への接触を防ぐためです。」
「私は何もしていない。」
「起きてからでは遅いと、あなたが定めました。」
兵士は革紐を取り出した。
ダンはロベルトを見た。
「銃撃事件の真相は、まだ何も分かっていない。」
「捜査は続ける。」
「私を拘束すれば、秘密経路を知る者が一人減る。」
「証言してもらいます。」
「容疑者の証言を信用するのか。」
ロベルトは疲れた顔で答えた。
「証拠と照合します。あなたが、いつもしてきたように。」
兵士がダンの右手首へ革紐を回した。
締め方は必要以上に強くない。
それでも、法廷で他人の拘束を見てきたダンには、自由を奪う圧力がどの位置へ掛かるか分かった。
「逮捕前の審理を要求する。」
「非常時なので、省略します。」
「弁護人との接触を。」
「証拠保全のため、最初の聴取まで制限します。」
「記録の閲覧を。」
「容疑者が関与した可能性のある記録は、公開できません。」
一つ要求するたび、自分の言葉が返ってきた。
ダンは途中から反論を止めた。
革紐で両手をまとめられた後、外套の襟を兵士に整えられる。
それは親切ではなかった。
廊下を歩く際、拘束具が外から見えないようにし、裁判所内で騒ぎを起こさせないためである。
扉が開いた。
外には、老書記、元補佐官、食料商人が、それぞれ別の兵に付き添われて立っていた。
証言後の解放手続を待っている。
ダンの姿を見ると、商人は目を逸らした。
元補佐官は何かを言いかけたが、口を閉じた。
老書記だけが、真っ直ぐ彼を見た。
ダンは足を止めなかった。
「満足ですか。」
老書記は首を横へ振った。
「いいや。」
「では、なぜ証言した。」
「事実だったからだ。」
「その事実で、私は処刑される。」
「お前が他人へ言ってきたことだろう。事実を話した者へ、判決の責任まで負わせるな。」
ダンの歩調が一瞬だけ乱れた。
兵士が腕を取ろうとしたが、彼は自分で姿勢を戻した。
「私がいなくなれば、この裁判所は正しくなると思っていますか。」
「思っていない。」
「ならば、無意味だ。」
老書記の目に、僅かな悲しみが浮かんだ。
「正しくならないから、お前を残してよいとはならない。」
ダンはそれ以上返さず、廊下を進んだ。
階段の下では、夜明けから待っていた役人や書記が、壁際へ道を空けている。
誰も声を掛けなかった。
以前、彼が通れば頭を下げ、書類を差し出し、判断を求めた者たちだった。
今は、目を合わせれば関係者と見なされることを恐れ、床か壁を見ている。
ダンはその沈黙の中で、ようやく理解した。
証拠が増えたから逃げ道を失ったのではない。
自分が裏切った者たちが証言したからでもない。
彼を助けた時に得られる利益より、助けたことで被る危険の方が大きくなった。
法はその変化を認め、彼へ向きを変えただけだった。
裁判所の外へ出ると、朝の光が石段へ差していた。
群衆はまだマルスの暗殺者を求めていたが、護送されるダンの姿へ気付いた者から、別の叫びが生まれた。
「裁判所の人間が捕まったぞ!」
「共犯者だ!」
「暗殺を命じたのは、あいつか!」
銃撃への関与は、何一つ証明されていない。
それでも、群衆は既に結論を得ていた。
ダンは立ち止まり、振り返ろうとした。
兵士が肩を押し、護送車へ進ませる。
「私は暗殺を命じていない!」
声は石段の上へ届いた。
群衆の一部が笑い、別の者が罵声を浴びせた。
彼が過去に裁いた者たちも、同じ言葉を叫んでいた。
自分は命じていない。
自分は知らなかった。
自分の罪ではない。
ダンは、その訴えを何度も証拠不足として退けた。
今、自分の声が同じ場所へ落ちている。
護送車の扉が閉じる直前、ロベルトの書記が裁判所の階段を駆け下りてきた。
手には、銃撃事件の新しい報告書が握られている。
「コラソンらしき女が、南側の地区で目撃されました!」
ダンは鉄格子の内側から顔を上げた。
まだ追える。
今すぐ人を出せば、荷車の経路、隠れ家、通行証を渡した者へ辿り着ける。
「南門を閉じるな。出た者を追えば逃走先が分かる。監視だけを――」
護送車の外にいた兵士は、彼の命令を聞いても動かなかった。
ダンには、もう命じる権限がない。
書記は裁判所の中へ報告を運び、護送車の御者が馬を進ませた。
車輪が石畳を踏み、革命裁判所から離れていく。
事件の真相は、まだ市内のどこかを逃げ続けていた。
その一方で、政府は既に一人の容疑者を手に入れていた。
法がダンを有罪と決めたのではない。
法を運用する者たちが、ダンを残すより切り捨てた方が安全だと決めた。
それでも逮捕命令書には、政治的都合など一字も書かれていない。
国家非常時。
証拠保全。
証人への接触防止。
逃走の危険。
すべて、ダン自身が整えた正しい言葉だった。
法は彼を裏切っていなかった。
ただ、初めて彼自身へ適用されただけであった。
革命裁判所からダンを運び出した護送車は、一般の未決囚を収容する中央監獄へ向かわなかった。
鉄格子の付いた小窓から見える通りは、裁判所の正門を離れた後、川沿いの広い道を避け、古い軍用倉庫と処刑場の裏手へ続く狭い坂へ入っている。石畳は長年の荷車によって中央だけが深く削れ、車輪が窪みへ落ちるたび、座席へ固定されていないダンの身体は左右へ揺れた。
両手首へ回された革紐は外套の袖に隠されていたが、振動のたびに骨へ食い込み、皮膚の内側へ熱を残す。
向かいに座る護衛兵は二人とも若かった。
一人は裁判所の階段でダンの外套を整えた兵士であり、もう一人は護送車へ乗る直前に身体検査を行った者だった。二人ともダンと視線を合わせず、腰へ下げた短剣の位置ばかりを気にしている。
ダンは格子の外を見ながら尋ねた。
「中央監獄ではないな。」
護衛兵は答えなかった。
「経路を秘匿する命令でも受けているのですか。」
年若い方の兵士が、膝の上に置いた拳を固くした。
「到着後、管理官から説明があります。」
「説明を到着後へ回す法的根拠は?」
「我々は、法的な質問へ答える立場ではありません。」
「では、どの立場で私を運んでいる。」
「護送兵です。」
「それは職務であって、権限の根拠ではない。」
兵士は唇を引き結んだ。
ダンは追及を続けなかった。
彼らが何も知らないことは、返答の遅さから分かっている。命令書には目的地だけが記され、拘留の理由や期限は告げられていないのだろう。知らない者を詰めても、新しい情報は出ない。
それでも質問したのは、二人へ自分がまだ手続を追える人間だと見せるためだった。
容疑者として扱われる者は、最初に周囲から判断能力を奪われる。拘束され、場所を知らされず、時間を曖昧にされ、何を求めても後で説明すると返される。その繰り返しによって、自分の要求が不当なのではないかと思い始める。
ダンは、それを何度も見てきた。
そして、利用してきた。
護送車が坂を登り切ると、処刑場の高い木柵が左手に現れた。柵の向こうには、刃を上げる滑車と、観衆を押し留めるための防護柵の先端だけが見える。
公開処刑のない日であるにもかかわらず、周囲には酒売りと菓子商人の屋台が残り、明日の処刑予定を聞きに来た者が役人へ群がっていた。
誰かが護送車へ気付いた。
「裁判所の男だ!」
声が上がると、数人が車輪の横へ駆け寄った。
「マルスを撃たせたのか!」
「顔を見せろ!」
「法官も断頭台へ上がるのか!」
護衛兵が小窓の鎧戸を閉じようと手を伸ばした。
ダンはその手首へ視線を向けた。
「閉める命令を受けていますか。」
「石を投げられるかもしれない。」
「閉めれば、私を隠して運んでいると騒がれます。」
「開けたまま負傷されれば、こちらの責任です。」
「では、あなたの判断で閉めなさい。」
兵士は動きを止めた。
命令ではなく、自分の判断として鎧戸を閉じれば、後からダンが護送中に証拠隠滅や暴行を受けたと訴えた場合、説明を求められる。
若い兵士は手を引いた。
その直後、石が一つ格子へ当たり、乾いた金属音を響かせた。
ダンは顔を背けなかった。
群衆の中に、以前裁判所で見た者がいる。
夫を反革命罪で失い、判決後も毎日門前へ立っていた女。食料横流しの罪を着せられた息子の無実を訴え、最後には証言妨害で拘束された老人。ダンが名前を覚えていない者たちも、自分の顔を覚えている。
彼らの中には、マルス銃撃事件と自分が無関係であることを知る者もいるかもしれない。
だが、関係がないから罵声を止める理由にはならない。
別の罪で憎むには、十分だった。
護送車は処刑場の背後にある石造りの建物へ入った。
表門には看板も紋章もなく、二重の鉄扉と、狭い見張り窓だけが設けられている。以前は軍の火薬庫として使われ、湿気と換気の悪さから廃棄された場所だった。
革命後、死刑判決が確定する前の危険人物、逃走の可能性が高い者、通常の監獄へ入れれば他の囚人と連絡を取る者を一時的に置く区画へ改装されている。
一時的という言葉が、何日を指すかは決められていなかった。
ダンはその運用規則を知っている。
自分が作成に関わったからである。
護送車の扉が開き、冷たい空気が入り込んだ。
建物の管理官は、薄い灰色の制服を着た痩身の男だった。以前、証人逃亡を防ぐための拘留制度について意見を求められた際、裁判所へ二度ほど出入りしている。
管理官はダンの姿を見ると、一瞬だけ目を伏せた。
知り合いとしての反応を見せたことを、周囲の兵へ悟られないためだった。
「降りてください。」
ダンは両手を拘束されたまま、車体の縁へ足を掛けた。
段差が高く、外套の裾が車輪へ引っ掛かる。護衛兵が肘を支えようとしたが、ダンは自分で姿勢を立て直した。
「収容命令書を確認します。」
管理官は建物の入口へ向かいながら答えた。
「内部でお見せします。」
「原本を。」
「写しです。」
「原本は、どこにある。」
「革命政府と裁判所が一部ずつ保管しています。」
「裁判所は、私の職務停止後に副公訴官が管理している。その者が署名しましたか。」
管理官の歩みが僅かに鈍った。
「複数名の署名があります。」
「質問へ答えてください。」
管理官は立ち止まらなかった。
「私は、書類を受領して収容する立場です。署名の正当性を審査する権限はありません。」
「正当性を確認せず、人間を閉じ込めるのですか。」
「確認は、送付元が行っています。」
「送付元が誤っていれば?」
管理官は鉄扉の前で鍵を取り出した。
「その問いを、以前こちらから裁判所へ提出しました。」
鍵が回り、扉が内側へ開く。
「あなたの部署からは、収容を遅らせる方が国家へ大きな危険を生むと回答がありました。」
ダンは男の横顔を見た。
皮肉を言ったわけではない。
管理官は、当時の返答をそのまま繰り返しているだけだった。
建物の内部には、火薬庫だった頃の厚い石壁が残り、廊下の幅に対して天井が不自然に高い。窓は壁の上部へ細く設けられ、地上から手を伸ばしても届かない。
足音は石床へ反響し、前後の距離を実際より長く感じさせた。
ダンは廊下の途中で、右側に並ぶ鉄扉の数を数えた。
一、二、三、四。
通常の未決囚なら、収容者同士が声を交わせる程度の間隔で房が並ぶ。しかしここでは、二つの房の間に空の物置か壁が挟まれ、隣人の存在を確かめにくくしてある。
孤立させ、時間と場所の感覚を失わせる構造だった。
「私の拘留区分は。」
管理官は最奥の扉の前で止まった。
「特別保全拘留です。」
「刑事被告人ではない?」
「起訴前です。」
「未決囚でもない?」
「正式な起訴内容が確定していません。」
「では、何として収容する。」
管理官は命令書の写しを取り出した。
「国家機関へ重大な影響を及ぼす情報を保持し、証人、記録、共犯関係への接触によって捜査を妨害する可能性がある者。」
「可能性だけか。」
「そう記されています。」
「期限は?」
「最初の聴取終了まで。」
「聴取日は。」
「決まっていません。」
ダンは命令書へ顔を近づけた。
両手が自由なら、紙を奪い取るのではなく、署名、日付、印章の位置を指で追って確認しただろう。今は管理官の手元へ置かれたまま読むしかない。
「処刑前拘留区画へ入れながら、起訴も期限もない。」
管理官の指が、紙の端を強く掴んだ。
「区画の名称は公的なものではありません。」
「ここから出た者の何人が無罪になった。」
管理官は答えなかった。
「何人が釈放された。」
「統計を記憶しておりません。」
「あなたは管理官だ。」
「私が処遇を決めるわけではない。」
ダンは扉の向こうへ目を向けた。
「だから、知らなくてよいと?」
管理官の顔に苦痛に似た苛立ちが浮かんだ。
「あなたがここを作った時、収容者へ必要以上の情報を与えないよう命じた。」
「質問への回答まで禁じてはいない。」
「回答が、希望にも脅迫にも利用されると言ったのは、あなたです。」
二人の間に短い沈黙が落ちた。
ダンは管理官を責められなかった。
男は規則へ従っている。
その規則が人間の口を閉ざすよう作られているだけだった。
革紐が外された後、代わりに房の中へ鎖は用意されなかった。
逃走できる窓も、壊せる家具もないからである。
室内には木製の寝台、薄い藁布団、蓋のない水桶、机、椅子が一つずつ置かれている。紙も筆もない。
壁には以前の収容者が爪か金属片で付けた細い傷が残り、日数を数えようとした縦線が途中で途切れていた。
ダンは室内へ入る前に振り返った。
「弁護人を呼んでください。」
管理官は扉の外に立ったまま答えた。
「最初の聴取までは、外部との接触を制限されています。」
「弁護人は外部の共犯者ではない。」
「証言や記録の内容を伝えられる可能性があります。」
「弁護人との秘密交通は、被疑者の権利です。」
「特別保全拘留中は、監視下での面会へ変更できます。」
「ならば、監視下で構わない。」
「面会の許可が必要です。」
「誰の?」
「捜査責任者です。」
ダンの口元が僅かに硬くなった。
「副公訴官か。」
「現在、銃撃事件と秘密拘束所事件の合同捜査官が選任されています。」
「名前は。」
「まだ通達されていません。」
「存在しない責任者の許可を待てと?」
管理官は、命令書を持つ手を下ろした。
「こちらで決められることではありません。」
「証人召喚を求めます。老書記、元補佐官、食料商人、物資管理局の女書記。全員へ反対尋問を行う。」
「審理ではありません。」
「正式な審理ではないからこそ、証言を一方的に使うなと言っている。」
「最初の聴取で要求してください。」
「記録閲覧は?」
「証拠保全のため、許可されません。」
「自分に対する証拠を見ず、どう答える。」
「記憶に基づいて答えてください。」
ダンは笑いそうになった。
喜びではない。
あまりに正確に、自分が他人へ使ってきた手順が返されるためだった。
「記憶が証拠と食い違えば、虚偽供述にするのですね。」
管理官は答えなかった。
ダンは一歩、室内へ入った。
「起訴内容の提示を求めます。」
「確定後に。」
「暗殺共謀か。印章不正使用か。秘密拘束か。記録改竄か。」
「私には答えられません。」
「何の罪で処刑するか決める前に、処刑を待つ場所へ入れる。」
管理官の眉が微かに動いた。
「誰も、処刑が決まったとは申していません。」
ダンは最奥の廊下を見た。
人の声は聞こえない。
だが房の扉の下には、過去に何度も食事が滑り込まされた跡が残っている。
「ここへ入れて、処刑されなかった者の名前を一人挙げてください。」
管理官は沈黙した。
それが答えだった。
扉が閉じた。
鉄の閂が下り、鍵が二度回された。
ダンは暫く扉の前に立ち、廊下を離れていく足音を数えた。
三人。
管理官、護衛兵二人。
角を曲がり、音が消える。
その後には、建物の奥で水滴が落ちる響きだけが残った。
ダンは寝台へ座らず、机の表面を手で確かめた。
引き出しはない。板の裏にも紙片を隠せる隙間はない。椅子の脚は床へ固定され、木材を割って武器や筆を作れないよう金具で覆われている。




