第六章後編:奇跡仕掛けの道化
第一の荷車が市場へ入ったのは、夜明けの鐘が鳴る少し前だった。
荷台には古い毛布が積まれ、その下へ人が横たわっているような膨らみが二つ作られていた。車輪は左右で別の工房のものを使い、車軸だけは廃車から外している。御者台へ座っていた男も、市場へ入る直前に馬から降り、手綱を別の者へ渡した。
最後まで荷車に乗る者はいない。
荷車の持ち主も存在しない。
追跡する者が調べれば調べるほど、別々の工房、別々の厩舎、別々の人間へ辿り着くように作られていた。
市場の入口で、荷車はわざと野菜籠へ車輪をぶつけた。
籠が倒れ、蕪と玉葱が石畳へ転がる。
商人が怒鳴り、御者役の男が謝りながら荷台へ手を掛ける。その拍子に、毛布の端から白い布と、王党派が使う古い刺繍の一部が覗いた。
「今の、何?」
野菜を拾っていた女が声を上げた。
御者役の男は答えず、慌てて毛布を戻した。
答えないことが、答えになった。
「誰を運んでいるの?」
「見るな」
「王党派の印じゃない?」
「違う」
男は否定しながら、荷車を急いで進ませた。
否定が早過ぎた。
市場にいた者たちの視線が、荷車へ集まる。
毛布の下で、隠れていた協力者が僅かに身体を動かした。
膨らみが、人間らしく揺れた。
「女が乗っている」
誰かが言った。
「無名の王の姉じゃないか?」
別の者が続いた。
「塔から移されたって話があった」
「革命政府が処刑するために?」
「王党派が奪ったのかもしれない」
噂は荷車より速く市場を抜けた。
読み上げ役が声を拾い、王党派の連絡役が走り、革命政府の監視役が紙を畳んだ。
荷車は西へ進んだ。
追う者は、まだ誰も知らなかった。
荷台の膨らみが二つとも、藁と人形で作られていることを。
その頃、第二の荷車は東側の橋へ向かっていた。
こちらには王党派の紋章を隠さなかった。
荷台の側面へ古い王冠が描かれ、幌の内側には無名の王の名を叫ぶ刊行物が積まれている。
御者は橋の手前で馬を止め、役人へ通行証を差し出した。
通行証は本物だった。
ただし、三日前に処刑された商人の名で発行されていた。
役人は名を読み、御者を見た。
「この商人は死んでいる」
御者は驚いた顔を作った。
「昨日、荷を渡されました」
「どこで」
「南の倉庫です」
「何を運んでいる」
「衣服です」
役人は荷台へ手を掛けた。
幌を開いた瞬間、刊行物の束が崩れ、橋の上へ散った。
風が紙を巻き上げる。
無名の王の顔、王冠、聖女の印、革命政府への呪いが、川の上へ舞った。
橋を通っていた者たちが拾い始める。
役人が叫んだ。
「触るな!」
御者は馬から飛び降り、欄干を越えた。
川へ落ちたのではない。
橋の下に設けられた作業足場へ降り、用意していた小舟へ乗った。
役人たちが覗き込んだ時には、舟は橋脚の陰へ入っていた。
荷車だけが残った。
王党派の刊行物と、死んだ商人の通行証と、誰も乗っていない御者台。
橋は閉鎖された。
通行人が止められ、刊行物を拾った者が拘束され、革命政府の兵が集められる。
王党派は、捕らわれた姉が橋を渡ったと誤解した。
革命政府は、姉を国外へ逃がす計画が始まったと判断した。
双方が同じ橋へ人を送った。
塔の守備隊からも六人が呼び出された。
塔の裏手にある古い作業小屋で、アデルはその報告を受け取った。
白金の髪は煤色の布で覆い、衣服も飾りのない黒い作業着へ替えている。腰の薔薇も、深紅のコルセットも、青い宝石の跡も見えなかった。
それでも、座り方だけは隠せていなかった。
狭い椅子へ腰掛けながら、まるで自分のために用意された応接室のように背筋を伸ばしている。
「六人」
アデルは紙を折った。
「思ったより少ないわね」
向かいにいたレオンが、塔の見取り図から顔を上げた。
「市場の荷車へ、もっと兵が向かった」
「何人?」
「十人。監視役が二人」
「王党派は?」
「橋へ集まっている。荷車を奪おうとして、政府兵と揉め始めた」
「では、予定どおりですわね」
「予定より早い」
レオンは砂時計を見た。
「市場の噂が広がるのに、半刻は掛かるはずだった」
「皆様、姉君の居場所が気になって仕方ないのよ」
「制御できるか」
「噂を?」
アデルは小さく笑った。
「最初から制御するつもりはありませんわ。進む方角だけ、少し押して差し上げるの」
作業小屋の奥では、レイモンが担架の縄を確かめていた。
担架は木枠ではない。
狭い縦穴を通すため、厚い布と革紐で身体を包み、頭と首だけを固い板で守る形に作られている。
犬用の籠には蓋がない。
蓋を閉じれば、暴れて傷つく可能性がある。代わりに胸と腹を支える布が渡され、立ったままでも伏せたままでも吊れるようになっていた。
「本人を先にする」
レイモンが言った。
「犬が吠えた場合は?」
レオンが尋ねる。
「布を嗅がせる」
レイモンは小さな包みを開いた。
中には、塔から洗濯物を運び出す女が持ち出した、古い寝具の端が入っている。
「姉の匂いが残っている。犬が覚えていれば、籠へ入る」
「覚えていなければ」
「噛まれる」
「誰が?」
アデルが尋ねる。
レイモンは答えなかった。
「あなたが噛まれるつもりでしょう」
「手袋はある」
「犬は手だけを噛むとは限りませんわよ」
「他に近づける者がいない」
「姉君が命じれば?」
「命じる状態か分からない」
レイモンは寝具の布を犬用の籠へ結んだ。
「本人が犬を守ろうとして抵抗する可能性がある。先に犬へ触れれば、こちらを敵だと思う」
「先に姉君へ触れても同じでは?」
「だから話す」
「理解できなければ?」
「それでも話す」
アデルはレイモンの手元を見た。
処刑台へ上がる者にも、彼は最後まで話していた。
希望する死に方を聞き、姿勢を教え、刃が落ちる前に何が起こるかを伝えていた。
今度は死なせるためではない。
それでも、相手が理解するかどうかにかかわらず、言葉を省かない。
「あなたが入るのは最後です」
アデルが言った。
レイモンが顔を上げる。
「最初だ」
「最初は縦穴を確認する方。次に縄と担架。それからあなた」
「何かあれば、先に治療できる」
「何かある場所へ、治療する方を最初に落としません」
「時間がない」
「時間がないから順番を守ります」
レイモンの眉が僅かに動いた。
アデルは引かなかった。
「奇跡は、雑に急ぐことではありませんわ」
外から三度、短い笛が鳴った。
塔の西側へ入った職人からの合図だった。
縦穴は開いている。
滑車も使える。
ただし、古い縄は途中で擦れ、一本では人間を支えられない。
レオンは立ち上がった。
「縄を替える」
「見張りは?」
アデルが尋ねる。
「西側には二人。巡回が一人」
「三人残っておりますのね」
「塔全体では、もっといる」
「西側だけで十分です」
アデルは砂時計を返した。
「第三を始めます」
塔の北側には、使われなくなった火薬庫があった。
火薬は既に抜かれ、今は割れた樽と古い木材しか置かれていない。
その屋根裏へ、前夜から湿らせた藁と油を含ませた布が隠されていた。
火を大きくするためではない。
白く重い煙を出すためだった。
合図を受けた協力者が、布へ火を移した。
煙はすぐには上がらなかった。
藁の中で燻り、火薬庫の壁を這い、屋根の隙間から少しずつ外へ漏れ始める。
最初に気付いたのは、塔の外を巡回していた兵だった。
「煙だ!」
叫び声が上がる。
別の兵が鐘楼へ走った。
火事を知らせる鐘が鳴る。
一度。
二度。
三度。
同時に、塔から離れた北側の礼拝堂でも鐘が鳴った。
こちらには火事を知らせる役目はない。
鐘番もいなかった。
縄だけが窓から外へ伸ばされ、路地裏に隠れた子供たちが交代で引いていた。
塔の鐘と礼拝堂の鐘は、僅かにずれて響いた。
二つの音が重なり、どちらから始まったのか分からなくなる。
さらに西側の市場でも、別の鐘が鳴った。
姉が運ばれたという噂を聞いた王党派が、勝手に弔いの鐘を鳴らし始めたのだ。
計画にない鐘だった。
レオンは塔の裏で音を数え、顔を上げた。
「市場の鐘が増えた」
アデルも聞いていた。
「都合がよろしいわ」
「合図が紛れる」
「こちらの合図を変えます」
「今から?」
「鐘が多いなら、鐘を使わなければいい」
アデルは作業小屋の戸口へ立つ少女へ紙を渡した。
「赤い布を、塔の西側の窓へ」
少女は頷き、走った。
レオンはアデルを見た。
「予定では白だ」
「白は聖女に使います」
「聖女?」
「奇跡には、目撃者が必要でしょう?」
「本人は見せないと言った」
「本人は見せません」
アデルは黒い頭巾を外した。
その下から白金の髪がこぼれた。
レオンの顔が変わる。
「自分で出るつもりか」
「まさか」
アデルは髪をまとめ直し、別の白い布を被った。
「わたくしが見えたら、知っている方が多過ぎますもの」
作業小屋の奥から、若い女が一人出てきた。
背丈はアデルより少し低い。
顔には薄い布が掛けられ、白い衣服の上から金糸を縫った古い外套を羽織っている。
王族の服ではない。
聖職者の服にも見えない。
見る者が、自分の知っている聖女へ勝手に近づけられるよう、どちらとも断定できない形に作られていた。
「歩き方をもう一度」
アデルが言った。
女は頷き、作業小屋の端から端まで歩いた。
早過ぎた。
「逃げているように見えますわ」
「怖いんです」
「怖くない顔をする必要はありません。怖くても、逃げない方に見えればいいの」
「どうやって」
アデルは女の肩へ手を置いた。
「見る場所を決めなさい。足元でも、兵でもない。塔の向こう。そこに、あなたが助けたい方がいると思って」
女は塔の上を見た。
「本当に、助けられるんですか」
「そのために、あなたへ助けたように見せていただくのよ」
「私が失敗したら」
「見物人は、失敗も奇跡へ変えます」
アデルは外套の留め具を直した。
「ただし、走らないこと。転んでも立つこと。兵が来たら、北側へ降りる。追われたら、外套を捨てて洗濯女の列へ入る」
女の手が震えている。
アデルはその手へ、細い紐を巻いた。
「塔の中にいる方も、もっと怖いでしょうね」
女は息を吸った。
震えは止まらなかった。
それでも頷いた。
塔の北側で煙が濃くなった。
火薬庫へ兵が集まり、屋根を壊し、水を運び始める。
煙の向こうで、白い人影が古い外壁の上へ現れた。
最初に見た兵は、火事の中から逃げてきた女だと思った。
次の兵は、塔の囚人だと思った。
外にいた民衆の一人は、聖女だと叫んだ。
「見ろ!」
白い人影が外壁の上を歩く。
鐘が鳴っている。
煙が風に押され、人影の後ろへ薄く広がる。
外套の金糸が朝の光を拾い、一瞬だけ強く輝いた。
女はアデルに言われた場所を見続けた。
兵を見なかった。
足元を見なかった。
怖くて呼吸が浅くなり、顔は青ざめていたが、遠くからは静かな表情に見えた。
「姉君だ!」
王党派の誰かが叫んだ。
「聖女が救いに来た!」
別の声が重なる。
「王家を守った!」
革命政府の兵は、外壁へ銃を向けた。
「止まれ!」
女は止まらなかった。
銃声が一発鳴った。
弾は壁へ当たり、石の欠片が飛んだ。
女の足が止まりかける。
それでも、走らなかった。
外壁の端まで進み、煙の中へ消えた。
実際には、壁の裏へ設けた梯子を下り、外套を脱ぎ、煤だらけの洗濯物を抱えて作業路へ入った。
見物人からは、煙の中で消えたように見えた。
兵が外壁へ到着した時には、白い衣服も金糸の外套も残っていなかった。
代わりに、古い壁の亀裂へ仕込まれていた楔が抜かれた。
外壁の一部が、外側へ崩れた。
轟音が塔の周囲を揺らす。
石と煙が広がり、民衆が悲鳴を上げた。
崩れたのは、誰もいない外壁だけだった。
主塔は揺れたが、倒れなかった。
奇跡を見る者には、聖女が壁を開いたように見えた。
革命政府の兵には、王党派が火薬を使って塔を襲撃したように見えた。
どちらも違っていた。
その瞬間、塔の西側では、職人が古い滑車へ新しい縄を掛け終えていた。
赤い布が窓へ出る。
レオンは縄を引いた。
一度。
二度。
滑車は軋んだが、回った。
「行ける」
レイモンが担架を肩へ掛けた。
アデルは彼の前へ立った。
「戻ってきなさい」
「姉を連れて戻る」
「あなたも、です」
「分かっている」
「分かっている顔ではありませんわ」
レイモンはアデルを見た。
「俺が戻らなければ、姉も出せない」
「犬だけ連れて戻ることも許しません」
「分かっている」
「三度目ね」
アデルはレイモンの外套の襟を直した。
処刑人として知られた黒い衣服ではない。
煤と油に汚れた職人の服だった。
それでも手だけは隠せない。
「助ける方へ、勝手に自分を差し出さないこと」
「そんなことはしない」
「妻子を探す時も、同じ顔をなさるのよ」
レイモンの目が僅かに動いた。
アデルはそれ以上言わなかった。
レオンが縦穴を覗き込む。
「先に職人が下りる」
縄へ身体を結んだ細身の職人が、縦穴へ入った。
暗闇の中へ足が消える。
滑車が回り、縄が少しずつ下がる。
暫くして、下から二度引く合図が来た。
足場は残っている。
次に担架。
犬の籠。
薬と水。
最後にレイモンが縄へ身体を結んだ。
「下で三度引けば、すぐ上げる」
レオンが言った。
「姉を先に」
「三度なら、お前を上げる」
「姉を」
「三度なら、お前だ」
レイモンは反論しかけた。
アデルが横から言った。
「助ける方が死ねば、残りの方も死にます」
レイモンは黙った。
縄が下り始める。
縦穴は狭く、肩が石壁へ何度も当たった。
途中には、古い砲弾を置くための棚が残っている。職人が先に外していたが、錆びた金具が壁から突き出し、衣服を引っ掛けた。
下へ行くほど空気が冷たくなる。
湿り気と、古い石と、排泄物と、薬草の匂いが混ざっていた。
レイモンは底へ足を着いた。
職人が小声で言った。
「階段は残っています」
「兵は」
「この下にはいません。上で火事を見ています」
「部屋は」
職人は暗い通路を指した。
「奥から犬の音がした」
吠え声ではなかった。
爪が石を擦る音。
低い唸り。
レイモンは寝具の布を取り出した。
通路の奥には、鉄格子が一つあった。
鍵は新しく、先日作った外門用の偽鍵では開かない。
職人が道具を出す。
「時間が掛かります」
レイモンは格子の向こうを見た。
暗闇の中に、犬の目が二つ光っている。
犬は痩せていた。
大型犬ではない。
だが毛が汚れ、身体が細くなった分、牙だけが大きく見えた。
その後ろに、寝台らしい形がある。
「姉君」
レイモンは格子越しに呼び掛けた。
返事はない。
犬の唸りが強くなる。
「助けに来た」
犬には意味がない。
それでもレイモンは続けた。
「犬も連れて行く。置いていかない」
寝具の布を床へ置き、格子の隙間から押し込んだ。
犬は近づかなかった。
唸りながら、寝台の前へ立ち続ける。
職人が鍵へ細い金具を入れた。
上では外壁が崩れた音がまだ反響している。
塔全体が騒がしい。
だが、騒ぎが大きいほど兵が戻る時刻も読めない。
「急げ」
レイモンが言った。
「急いでいます」
金具が一度滑った。
犬が吠えた。
鋭い声が通路へ響く。
上まで届いた可能性がある。
職人の手が止まりかける。
「続けろ」
レイモンは布をもう少し奥へ押した。
犬が鼻を動かした。
一歩だけ近づく。
布を嗅ぐ。
唸り声が途切れた。
寝台の上から、掠れた声がした。
「……返して」
レイモンは格子へ顔を近づけた。
「何を」
「それは、あの子の」
女の声だった。
弱く、言葉の間が長い。
レイモンは布を引かなかった。
「犬のために持ってきた」
「盗んだ」
「洗濯物から分けてもらった」
「皆、盗む」
寝台の上で何かが動く。
犬がすぐ振り返った。
「水も、火も、名前も」
女は続けた。
「弟も」
レイモンは答えなかった。
弟が死んだことを、今ここで伝えるべきか分からない。
助けに来たと信じてもらうため、都合のよい嘘を使うこともできなかった。
「俺は、あなたをここから出す」
「誰のところへ」
「誰のところにも渡さない」
女の呼吸が止まったように聞こえた。
「嘘」
「復活王朝にも、革命政府にも渡さない」
「では、誰」
「あなたが決められるまで、隠す」
「私が?」
「そうだ」
女は暫く黙った。
「決めなければ」
「決めなくていい」
鍵が小さく鳴った。
職人が手首を返す。
鉄格子が開いた。
犬が飛び出した。
レイモンは腕で顔を庇った。
犬の牙が厚い手袋へ食い込み、身体ごと押される。
職人が道具を落とした。
「離せ!」
「触るな!」
レイモンは犬を殴らなかった。
噛まれた手を引かず、布を持った反対の手を犬の鼻先へ近づける。
「置いていかない」
犬は唸った。
牙がさらに食い込む。
「お前も連れていく」
寝台から、女の声がした。
「やめて」
犬の耳が動く。
「その人を、噛まないで」
犬はすぐには離さなかった。
女がもう一度呼んだ。
今度は犬の名だった。
レイモンには聞き取れなかった。
犬はようやく牙を外し、寝台へ戻った。
手袋には穴が開き、内側へ血が滲んでいる。
職人がレイモンの手を見た。
「治療を」
「後だ」
「噛まれています」
「動く」
レイモンは部屋へ入った。
女は寝台の上で、壁へ背を預けていた。
髪は短く切られ、顔は痩せ、頬へ古い痣が残っている。年齢より老けて見えるが、目だけは異様に鋭かった。
寝具の下から、犬の背を撫でている。
腕は細く、指先が震えていた。
「立てるか」
レイモンが尋ねる。
「立つ必要はない」
「ここを出る」
「どこへ」
「外へ」
女は天井を見た。
鐘と叫び声と、石を運ぶ音が聞こえる。
「また移すの?」
「違う」
「皆、そう言う」
「俺は移送する兵ではない」
「誰」
レイモンは答えに迷った。
処刑人だと名乗れば、恐怖されるかもしれない。
別の名を使えば、最初から嘘になる。
「死刑執行人だ」
職人がレイモンを見た。
女の指が止まる。
犬が再び唸った。
「殺しに来たの?」
「助けに来た」
「処刑人が?」
「そうだ」
女はレイモンの顔を見た。
長く見続けた。
「弟を殺した?」
レイモンの喉が動いた。
「俺ではない」
「王を?」
「殺していない」
「何人」
「千人を超える」
職人が息を呑んだ。
女は目を逸らさなかった。
「なぜ、助けるの」
「助けろと言われた」
「誰に」
「アデルという女に」
女の眉が僅かに動いた。
「知っている?」
レイモンが尋ねる。
「知らない」
「俺も、最初は知らなかった」
「命令だから?」
「違う」
レイモンは噛まれた手を握った。
痛みが遅れて強くなっている。
「助ける方へ回ると決めた」
女は理解した顔をしなかった。
それでよかった。
「犬も?」
「連れていく」
「先に」
「あなたが先だ」
「犬を先に」
「離せない」
「犬を置いていく」
「置かない」
「嘘」
女の声が強くなった。
その強さで咳き込み、身体が前へ折れる。
犬が寝台へ足を掛けた。
レイモンは近づこうとして、止まった。
「犬と一緒に担架へ乗れるか」
女は咳の間から答えた。
「狭い」
「抱けるなら」
「抱く」
「途中で手を離すな」
「離さない」
レイモンは職人へ合図した。
担架を広げる。
女を寝台から移すため、毛布ごと身体の下へ手を入れた。
軽かった。
軽過ぎた。
抱き上げた瞬間、身体の力が抜けた。
女は意識を失ったのではない。
息を殺し、運ばれることへ耐えていた。
「痛む場所は」
レイモンが尋ねる。
「全部」
「一番痛む場所」
「聞いてどうするの」
「触らない」
女は少し考えた。
「右の脚」
レイモンは右脚へ手を入れず、毛布を厚く折った。
犬を胸元へ乗せる。
犬は一度だけレイモンを見たが、女の腕へ頭を押し付けた。
担架の布を締める。
首を固定し、身体が縦穴で傾かないようにする。
「上げる」
レイモンが言った。
「弟は?」
女が尋ねた。
職人の手が止まった。
レイモンは目を逸らさなかった。
「ここにはいない」
「どこ」
「今は答えない」
「死んだの?」
レイモンは黙った。
沈黙が答えになった。
女の顔から何かが消えた。
悲鳴も涙もなかった。
ただ、犬を抱く腕が僅かに強くなった。
「上げろ」
女が言った。
レイモンは縄を二度引いた。
上で滑車が動き始める。
担架がゆっくり持ち上がる。
犬が震えた。
女は動かない腕で必死に抱き続けた。
担架が縦穴へ入る直前、女はレイモンを見下ろした。
「あなたは?」
「後から行く」
「嘘なら」
「犬にもう一度噛ませろ」
女の口元が僅かに動いた。
笑ったのか、痛んだのかは分からなかった。
担架が暗闇へ消えた。
上ではレオンとアデルが縄を引いていた。
担架の重みが滑車へ掛かる。
途中で一度、縄が止まった。
「引っ掛かった」
レオンが言った。
アデルは縄を離さなかった。
「どこ?」
「棚の金具だ」
「下げる?」
「少しだけ」
二人で縄を緩める。
担架が僅かに下がる。
下から職人が角度を変えた。
再び引く。
今度は通った。
縦穴から、最初に犬の頭が見えた。
犬は牙を剥いた。
周囲の職人が下がる。
アデルだけは下がらなかった。
「まあ」
犬へ顔を近づける。
「随分と立派に守りましたのね」
犬は唸った。
「褒めておりますのよ」
担架が床へ下ろされる。
女は目を閉じていた。
呼吸はある。
犬を抱く腕も、まだ動いている。
アデルは顔へ掛かっていた髪を避けようとして、手を止めた。
本人の許可なく触れない。
代わりに毛布を整えた。
「姉君」
女の目が開いた。
「誰」
「アデルです」
「知らない」
「先ほど聞いたでしょう?」
「知らない」
「ええ。ですから、今から覚えてくだされば結構ですわ」
女はアデルの白金の髪を見た。
煤色の布から少しだけ零れている。
「聖女?」
アデルは眉を上げた。
「違います」
「外に」
「偽物です」
周囲の職人が息を止めた。
アデルは隠さなかった。
「あなたを助けるため、別の女性に聖女のような格好をしていただきました」
「偽物」
「ええ」
「奇跡は?」
「作りました」
女は暫くアデルを見た。
「罰が当たる」
「今まで当たった罰より酷いものがあるなら、後で考えますわ」
犬がアデルの匂いを嗅いだ。
唸り声は続いている。
「あなたを王党派へ渡しません」
アデルは言った。
「革命政府にも、国外軍にも。話せるようになり、食べられるようになり、眠れるようになってから、ご自分で決めていただきます」
「王になれと」
「申しません」
「姉だから」
「姉である前に、生きている人でしょう?」
女の目が僅かに揺れた。
「生きている?」
「今のところは」
アデルは犬を見た。
「この方も」
犬が低く唸る。
「非常に元気とは申しませんけれど」
縦穴の下から縄が三度引かれた。
レオンの顔が変わった。
三度は、レイモンを上げる合図だった。
アデルは立ち上がる。
「引きます」
縄へ手を掛ける。
職人たちも加わった。
重い。
担架より軽いはずなのに、途中で何度も止まる。
レイモンは自分で壁を蹴り、身体の角度を変えていた。
縦穴から腕が見えた。
手袋は血で濡れている。
「噛まれましたのね」
アデルが言った。
「後で」
「今です」
「兵が戻る」
「戻る前に巻きます」
「外へ出てからだ」
レオンがレイモンの襟を掴み、床へ引き上げた。
「立てるか」
「立てる」
「なら運べ」
レイモンは担架へ向かった。
女は目を閉じていたが、彼の足音を聞くと犬を抱く力を緩めた。
「戻った」
掠れた声で言う。
「戻った」
レイモンが答えた。
作業小屋の外で、赤い布が二度振られた。
兵が西側へ戻り始めている。
レオンは出口を指した。
「第一経路は使えない」
「なぜ?」
アデルが尋ねる。
「外壁の崩落で、兵が西へ回った」
「第二は?」
「洗濯物の搬出口。荷車まで四十歩」
「見られる」
「煙が残っている」
アデルは担架を覆う布を取った。
白ではない。
汚れた灰色の洗濯布だった。
女と犬を完全に覆う。
「本人は見せません」
レイモンと職人が担架を持つ。
アデルが先へ出る。
洗濯物を抱えた女たちが作業路を歩いていた。
その中へ、担架を積んだ低い荷車を混ぜる。
見張りの兵が止めた。
「何を運んでいる」
アデルは顔を伏せたまま答えた。
「煤を被った寝具です」
「見せろ」
「疫病の部屋から出したものです」
兵の手が止まった。
「疫病?」
「熱と発疹。触るなら、どうぞ」
アデルは布の端へ手を掛けた。
兵は一歩下がった。
「行け」
「ご親切に」
荷車が進む。
犬が布の下で僅かに動いた。
兵が振り返る。
「今、音が」
アデルは咳をした。
一度ではない。
胸を押さえ、身体を折り、激しく咳き込む。
兵の顔色が変わる。
「早く行け!」
荷車は作業路を抜けた。
塔の外へ出る。
最初の乗り換え地点まで、まだ遠い。
市場では第一の荷車が捕まり、毛布の下から人形が見つかっていた。
橋では王党派と政府兵が殴り合いを始めている。
塔の北側では、聖女が壁の中へ消えたという叫びが広がっている。
誰も、灰色の洗濯布を積んだ小さな荷車を見なかった。
最初の路地で、荷車はパン屋の裏へ入った。
女と犬は別の荷車へ移される。
一台目は洗濯物を積んだまま南へ。
二台目は空樽を乗せ、東へ。
本人を乗せた三台目だけが、北西の狭い道へ進んだ。
途中でさらに乗り換える。
馬も替える。
御者も替える。
アデル、レオン、レイモンも別々の道を使った。
一緒に逃げれば、全員が見つかる。
レイモンは女と犬の荷車へ残った。
手の傷から血が落ち続けている。
「痛む?」
荷台の中で、女が尋ねた。
「痛む」
「犬が」
「守っただけだ」
「怒らないの」
「怒っても傷は閉じない」
女は犬の頭を撫でた。
「処刑人なのに」
レイモンは答えなかった。
荷車が石へ乗り上げる。
担架が揺れ、女の顔が歪んだ。
レイモンはすぐ車体を叩いた。
「ゆっくり」
御者が速度を落とす。
女は目を閉じた。
「本当に、誰にも渡さない?」
「アデルが決めた」
「あなたは?」
レイモンは少し考えた。
「俺も渡さない」
「命令だから?」
「違う」
「なぜ」
「あなたを旗にすれば、また人が死ぬ」
女は目を開けた。
「私のせい?」
「あなたのせいではない」
「皆、そう言う」
「なら、今は信じなくていい」
女は犬へ顔を埋めた。
「信じない」
「それでいい」
救出先は、町外れの染色工房だった。
染料の臭いが強く、薬や血の匂いを隠せる。裏には井戸があり、二階には窓のない小部屋がある。
荷車が到着すると、アデルは既に別の道から入っていた。
湯、寝具、柔らかい食事、犬の水、傷を洗う布が用意されている。
女を寝台へ移す前に、レイモンは部屋の戸口へ立った。
「犬も入れる」
工房の女主人が頷いた。
「分かっています」
「食事は別にする。姉が食べるものを犬へ与えない」
「犬の方が先に食べるかもしれません」
「それでも別だ」
アデルが後ろから言った。
「あなたの手が先ですわ」
「姉を」
「寝台へ移した後、あなたの手」
「時間が」
「ここには兵はおりません」
「追手が」
「今は塔の壁と人形を追っております」
レイモンはようやく椅子へ座った。
手袋を外す。
犬の牙は掌の付け根へ深く入っていた。
アデルは傷を見て顔をしかめた。
「見事ですこと」
「褒めるな」
「犬を褒めております」
「さっきも言っていた」
「守り切ったのですもの」
レイモンは自分で傷を洗おうとした。
アデルが布を奪った。
「片手で何をなさるの」
「できる」
「出来ることと、任せることは別です」
アデルは湯へ布を浸し、傷口を洗った。
レイモンは顔を背けた。
「痛いなら言いなさい」
「痛い」
「素直ですわね」
「言えと言った」
「本当に言うとは思いませんでした」
寝台では、女がその会話を聞いていた。
犬は足元へ丸くなり、まだ誰かが近づくたびに頭を上げる。
女主人が柔らかく煮た穀物を運んだ。
女は匙を見たが、手を伸ばさなかった。
アデルはレイモンの傷へ布を巻きながら言った。
「毒見を?」
「いらない」
女が答える。
「食べない」
「では、犬へ少し嗅がせましょうか」
女の目が動く。
「犬には別の食事があると言った」
「ええ。これはあなたの分です」
「なら、犬には渡さない」
「食べなければ捨てます」
「捨てる?」
「残したものを犬へ与えれば、あなたが食べずに犬へ渡すでしょう?」
女はアデルを睨んだ。
アデルは笑わなかった。
「犬を守りたいなら、ご自分で食べなさい。あなたが倒れれば、この方はまた食べなくなる」
女の指が寝具を掴んだ。
暫くして、匙へ手を伸ばした。
手が震え、器の縁へ当たる。
レイモンが立とうとした。
アデルが肩を押さえた。
「座っていなさい」
女主人が匙を支えようとしたが、女は拒んだ。
自分で一口を運ぶ。
飲み込むまで時間が掛かった。
犬は足元から見ている。
女は二口目を食べた。
「お名前は?」
アデルが尋ねた。
女の手が止まる。
「知っているでしょう」
「知っている名と、呼ばれたい名が同じとは限りませんもの」
「姉」
「それは立場です」
「王女」
「それも立場ね」
「囚人」
「それは昨日まで」
女は器を見た。
「分からない」
「では、決まるまで姉君とお呼びします」
「それは立場だと言った」
「仮の呼び方ですわ。嫌になったら変えましょう」
女は三口目を食べた。
「アデル」
「はい」
「あなたは、何者」
「料理人、高級娼婦、王の愛人、逃亡者。今は奇跡を作る方です」
女主人が思わずアデルを見た。
レイモンは目を閉じた。
女だけが、僅かに口元を動かした。
「多過ぎる」
「一つに決めると、他の方が勝手に利用しますもの」
外で鐘が鳴った。
塔の方角からではない。
町中の複数の鐘が、勝手に鳴り始めていた。
王党派は聖女の出現を告げ、革命政府は反革命の襲撃を警告し、民衆は姉が天へ昇ったと騒いでいる。
アデルは窓のない壁を見た。
計画した鐘は、もう全て止まっている。
今鳴っているものは、誰も命じていない。
レオンが部屋へ入った。
外套には石粉が付き、顔にも細い傷がある。
「広がり過ぎた」
「何が?」
アデルが尋ねる。
「聖女だ」
「偽物の方は?」
「逃げた。無事だ」
「では結構」
「結構ではない。塔の壁が開き、白い女が消え、姉の部屋が空になっている。王党派は奇跡だと断定した」
「革命政府は?」
「大規模な反革命工作。市場と橋で拘束が始まった」
レイモンが顔を上げた。
「処刑は」
「今夜から増える」
部屋の空気が重くなった。
アデルは包帯の端を結んだ。
救出は成功した。
一人の女性と一匹の犬は、塔の外へ出た。
そのために作った奇跡が、別の人間を処刑台へ送ろうとしている。
女が匙を置いた。
「私のせい?」
「違います」
アデルは即座に答えた。
「わたくしの計画です」
「私を助けたから」
「助けなくても、処刑する理由は作られます」
「でも」
「あなたを塔へ置いたままなら、復活王朝は救出を叫び続け、革命政府は見せしめに使い続ける。出しても、出さなくても、彼らは人を殺します」
アデルは姉の顔を見た。
「だからといって、何も選ばない理由にはなりません」
レオンは新しい報告書を机へ置いた。
「南部へ向かっていた政府兵が一部戻された。塔襲撃の捜査へ回る」
「アーセンは?」
「国境の監視が薄くなった。第二の街道へ兵を入れた」
「順調ですのね」
「奇跡のおかげで」
アデルはその言葉を嫌わなかった。
事実だった。
復活王朝は奇跡を神意と呼び、兵をさらに集める。
革命政府は奇跡を陰謀と呼び、処刑を増やす。
アーセンは両者が内側へ目を向けた隙に進む。
ジャンの南部勢力は、復活王朝から戻る兵をさらに吸収する。
誰も、アデルが救った姉本人を見ていない。
それでも、彼女の存在だけが大陸の軍を動かし始めていた。
アデルは姉の器へ少しだけ湯を足した。
「今夜は、これ以上食べなくて結構です」
「さっきは食べろと」
「必要な量を食べましたもの」
「犬は」
「犬には別の器が来ます」
犬は自分の話だと分かったように、頭を上げた。
レイモンが立ち上がる。
「診る」
犬が唸る。
レイモンは止まった。
アデルは笑った。
「まず、もう一度ご挨拶からですわね」
外の鐘は、さらに増えていた。
市場では、聖女が荷車を空にしたと語られた。
橋では、姉が川の上を歩いたという話へ変わった。
塔の近くでは、白い女が壁へ触れた瞬間に石が割れたと証言する者が現れた。
見ていない者ほど、詳しく語った。
復活王朝の読み上げ役は、既に新しい文章を書き始めている。
無名の王の姉は、聖女の導きによって革命政府の牢獄から解放された。
革命政府も新しい布告を用意していた。
反革命勢力は迷信を利用し、市民を混乱させ、国家の囚人を奪った。
協力者は全て処刑する。
どちらの文章にも、姉本人の意思は一行もなかった。
姉は窓のない部屋で、犬の食事を見届けていた。
犬が器へ顔を入れる。
それを確認してから、彼女はようやく寝台へ身体を沈めた。
「眠っても、移されない?」
「今夜は」
アデルが答えた。
「明日は?」
「追手の動き次第です」
「また荷車?」
「必要なら」
「嘘をつかないのね」
「安心させるための嘘は、後で余計に怖くなりますもの」
姉は目を閉じた。
「明日、起きたら」
「おります」
「誰が」
「誰かは」
アデルはレイモンとレオンを見た。
「全員で同じ場所にいれば見つかります。けれど、誰もいなくなることはありません」
姉は返事をしなかった。
暫くして、呼吸がゆっくりになった。
犬も寝台の下へ伏せた。
アデルは毛布を掛け直し、部屋の外へ出た。
レオンが廊下で待っている。
「成功した」
「ええ」
「後悔しているか」
「何を?」
「奇跡を広げたことだ」
アデルは鐘の音を聞いた。
「救出は必要でした」
「処刑が増える」
「止めます」
「どうやって」
「これから考えます」
レオンは呆れたように息を吐いた。
「奇跡は考えてから作った」
「ええ」
「処刑を止める方法は、後から?」
「奇跡より難しいもの」
アデルは真顔で答えた。
「人間に、自分で始めた恐怖を終わらせていただくことですわ」
工房の入口へ、南部からの伝令が到着した。
ジャンの名で発行された共同防衛令が、南部各地へ広がっている。
復活王朝から帰還した部隊が、さらに合流している。
南側の敵国は、撃退された兵を集め直している。
北ではラファエルが国境を越えた。
そしてアーセンは、国境を動かさないまま、国内の第二都市へ続く道へ入った。
アデルは報告を一枚ずつ読んだ。
自分が作った奇跡は、一人を救うための目眩ましだった。
だが、人々は既に、それを国の歴史へ変え始めている。
聖女の末裔。
王家の復活。
外敵の侵入。
南部を守る少年。
過去に一度起きた出来事と似た形が、別の人物によって並び始めていた。
「本人は見せておりませんわ」
アデルが呟いた。
レオンが聞き返す。
「何だ」
「姉君は誰にも見せなかった。計画は守りました」
「そうだ」
「それなのに、皆様には見えている」
窓の外に人影はない。
それでも町中の者が、見たことのない姉と聖女について語っていた。
アデルは報告書を畳んだ。
「次は、見えてしまった歴史をどう使うか考えなければなりませんわね」
鐘は夜まで止まらなかった。
塔から一人の女性が消えた日、誰も彼女の顔を見なかった。
そのために、誰もが好きな顔を彼女へ与えることができた。
アーセン軍が第二都市へ続く街道へ入った朝、沿道の村では三種類の噂が同時に流れていた。
塔の壁を聖女が開いた。
無名の王の姉が天へ昇った。
復活王朝が神意を受け、まもなく革命政府を滅ぼす。
どれも、前日の夜には存在していなかった話だった。
村の広場へ集められた者たちは、どの噂を信じるべきか決められないまま、街道を進む国外軍を見ていた。
先頭には騎兵。
その後ろには歩兵、軽砲、補給馬車。
軍列は長い。
だが、占領地へ入った軍が通常連れてくるはずの徴税官、土地台帳を持つ役人、新しい地方長官の姿はなかった。
兵士たちは道端の国境標へ触れず、村の旗を降ろさず、役所の扉も壊さなかった。
代わりに、村の入口へ一枚の布告が貼られた。
行政官は職務を続ける。
税は従来どおり。
住民の財産は軍用徴発の対象としない。
軍へ物資を提供した場合、必ず記録を残す。
国境標、村境、土地台帳を変更してはならない。
革命政府の軍事命令のみ停止する。
布告を読んだ村長は、何度も最後の行へ目を戻した。
隣にいた粉屋が尋ねる。
「つまり、占領されたのか?」
村長は答えなかった。
「旗はそのままだぞ」
「軍がいる」
「税も変わらん」
「兵がいる」
「役人も変わらん」
「だから何だ」
粉屋は街道を見た。
アーセン軍の兵士が、村の井戸から水を汲んでいる。
桶を持ち去る者はいない。
飲み終えた兵は、井戸の脇へ銅貨を置いた。
「金を払った」
村長が呟いた。
「後から返せと言われる」
「誰に」
「知らん」
「なら拾うな」
「拾わなければ、軍へ協力しなかったと疑われる」
粉屋は銅貨と村長を見比べた。
「拾っても疑われるだろう」
二人は、どちらも銅貨へ触れなかった。
軍列が村を抜けた後も、硬貨は井戸の脇へ残っていた。
昼になる頃、革命政府の役人が村へ戻ってきた。
国外軍へ水を渡した者を調べるためだった。
井戸の脇に置かれた銅貨を見つけた役人は、村長を呼び出した。
「これは何だ」
「軍が置いていきました」
「誰が水を売った」
「誰も」
「では、なぜ金がある」
「勝手に汲み、置いていったのです」
役人は銅貨を拾った。
「国外軍から金を受け取った者は反逆者だ」
「誰も受け取っていません」
「村の井戸を利用させた」
「止められると?」
役人は村長を睨んだ。
村長は目を逸らした。
アーセン軍は何も奪わなかった。
そのために村人は、協力したのか、侵略されたのか、どちらか一方へ逃げることすらできなくなっていた。
第二都市の外周には、三つの砦があった。
南砦は復活王朝の蜂起を警戒し、守備隊の半分が内側へ移されている。
西砦は塔で起きた奇跡の捜査へ兵を出し、残った者も王党派の内通者を探すことに夢中になっていた。
北砦だけは守備隊を維持していたが、砲弾が不足している。
アーセンは都市へ正面から砲撃しなかった。
南砦へ使者を送り、西砦へ別の書状を届け、北砦の補給路だけを騎兵で塞いだ。
南砦へ送った書状には、守備兵が武器を置けば、復活王朝への協力者として扱わないと記されていた。
西砦へ送ったものには、王党派の内通者が砦内にいるという偽りではなく、革命政府が既に守備隊全員を疑っているという事実だけを並べた。
北砦へは何も送らなかった。
食料と砲弾が尽きるまで、正面へ兵を置くだけだった。
参謀が地図を見ながら尋ねた。
「三つとも同時に落とさないのですか」
「落とす必要がない」
「残せば、後方を攻撃されます」
「南砦は先に開く」
「なぜ」
「守備隊の家族が都市の南側にいる。復活王朝の蜂起を警戒して兵を移したため、残った者の多くは地元兵だ」
「西砦は?」
「中央政府が疑い始めている。国外軍より、自分の後ろを恐れている」
「北砦は最後まで抵抗するでしょう」
「補給を止めればいい」
参謀は北砦の背後へ続く細い道を指した。
「夜間なら、山側から荷を入れられます」
「誰が運ぶ」
「地元の荷運び人です」
「止めるな」
参謀が顔を上げた。
「補給を許すのですか」
「食料だけなら」
「砲弾も混ぜられます」
「調べろ。食料と薬は通せ。火薬と弾だけ止める」
「守備隊を長く生かすことになります」
「飢えれば、降伏後に兵を食わせる必要がある」
「戦闘が長引きます」
「砲撃されなければ、こちらの損害は増えない」
参謀は地図からアーセンへ目を移した。
「敵兵を生かすためではありませんね」
「兵を飢えさせれば、砦の外へ出て略奪する。村が逃げ、土地が空になる。空になった場所を占領しても、街道を維持する者がいない」
「我々は、この土地を領有しません」
「領有しなくても、通る間は道が要る」
アーセンは都市を囲む農地へ視線を落とした。
「土地は、兵が踏めば消えるものではない。人間が逃げれば消える」
南砦が門を開いたのは、その日の夕方だった。
守備隊長は武器を置かなかった。
門の前へ出て、剣を腰へ残したままアーセンへ告げた。
「降伏ではない」
「では何だ」
「都市住民を守るため、戦闘を停止する」
「同じことだ」
「違う」
守備隊長は言葉を強くした。
「我々は革命政府への忠誠を捨てていない」
「捨てなくていい」
「国外軍へ道を開くが、従うつもりはない」
「従わなくていい」
守備隊長は返答を失った。
アーセンは砦の門を見た。
「砲と火薬は預かる。銃は兵へ残す」
参謀が驚いて振り返る。
守備隊長も眉を寄せた。
「武装解除しないのか」
「都市の治安を守れ」
「我々が背後から撃てば」
「その時は撃ち返す」
「信用するのか」
「しない」
アーセンは淡々と答えた。
「兵を全員拘束すれば、都市の警備までこちらが行うことになる」
「利用するだけか」
「そちらも、我々を利用して都市への砲撃を避けた」
守備隊長は剣の柄から手を離した。
「革命政府が戻れば、我々は再び戦う」
「戻った時に決めろ」
「今、忠誠を試さないのか」
「試す必要がない」
アーセンは門へ歩いた。
「忠誠は、必要な時に変わる」
南砦へ入ったアーセン軍は、革命政府の旗を降ろさなかった。
その下へ自軍の軍旗を並べただけだった。
守備隊長は二つの旗を見上げた。
「どちらが上だ」
参謀が尋ねる。
「同じ高さだ」
アーセンが答える。
「勝った軍の旗を上へ置くべきでは」
「国境を変えていない」
「砦は占領しました」
「一時的にな」
夜になる前に、西砦から使者が来た。
守備隊内で五人が王党派への内通を疑われ、互いに銃を向けているという。
砦を包囲していたアーセン軍は、一発も撃たずに門が開くのを待った。
西砦の兵は国外軍へ負けたのではなかった。
革命政府に疑われる前に武器を置いただけだった。
北砦だけは門を閉ざし続けた。
灯りは消えず、夜通し銃口が城壁から外へ向けられている。
アーセンは三つの砦を完全に制圧する前に、第二都市へ使者を送った。
市長、商人組合、治安責任者へ、それぞれ別の書状を届ける。
都市行政は維持する。
倉庫を焼くな。
橋を落とすな。
軍用物資だけを提出せよ。
革命政府の役人が逃げる場合、追跡しない。
ただし処刑名簿と徴発記録を持ち出すことは禁止する。
市長は使者へ尋ねた。
「処刑名簿を、何に使う」
「アーセン閣下は、処刑された者を復活させる術を持っていない」
「なら、不要だろう」
「誰が命じ、誰が財産を接収したか残すためです」
商人組合の代表が顔をしかめた。
「接収された財産を返すのか」
「決めるのは、戦後に残る政府です」
「国外軍が決めない?」
「国外軍は、この都市を所有しません」
市長は窓から外を見た。
城門の向こうには国外軍がいる。
三つの砦のうち、二つは既に戦闘を止めた。
「所有しない軍が、なぜ入る」
使者は一枚の紙を机へ置いた。
「軍事通行権の確保です」
「都市全体を通路にするのか」
「抵抗しなければ」
「抵抗すれば?」
「軍事拠点として制圧します」
「違いは」
「市長が残るか、逃げるかです」
市長は紙を見た。
行政官を残すという言葉は、慈悲ではない。
国外軍が自分たちで都市を管理したくないだけだった。
それでも、役人を殺し、倉庫を焼き、旗を替える軍よりはましだった。
「革命政府へは何と説明する」
市長が尋ねる。
「好きに」
「国外軍へ協力したと処刑される」
「協力しなくても、都市を失った責任で処刑される」
市長は使者を睨んだ。
使者は目を逸らさなかった。
「門を開ければ、我々は生き残れるのか」
「保証はありません」
「では、何を選ばせる」
「砲撃されない可能性です」
市長は長い間、紙を見ていた。
都市の鐘が鳴った。
塔の奇跡を告げる鐘だった。
誰が鳴らしているのか分からない。
復活王朝の読み上げ役は、聖女が王家を救ったと叫んでいる。
革命政府の兵は、その声を聞いた者を捕らえている。
国外軍は門の外で待っている。
市長は、どの勢力も都市を救うために来ていないことを理解した。
「軍用倉庫だけを渡す」
「十分です」
「治安は我々が維持する」
「そうしてください」
「国外兵が住民へ暴行した場合は」
「軍法で裁きます」
「革命政府の兵が、あなたたちを襲った場合は」
「戦います」
「市民が襲ったら?」
「兵を襲えば兵として扱う」
「厳しいな」
「侵略ですから」
使者がそう答えると、市長は初めて乾いた笑いを漏らした。
「そこだけは、随分正直だ」
第二都市の門は、その夜のうちに開いた。
アーセン軍は太鼓を鳴らさず、歓声も上げずに入った。
市民は窓を閉め、戸口から兵を見た。
国外軍の旗が通る。
だが市庁舎には、昨日までの旗が残っている。
革命政府の像も壊されない。
無名の王を罵る壁の文字も、聖女を讃える紙も剥がされなかった。
兵士たちは軍用倉庫を押さえ、橋と城門へ配置され、それ以外の通りへは入らなかった。
夜中、市長はアーセンの前へ呼ばれた。
市庁舎の執務室には、元の机と椅子がそのまま残っている。
アーセンは市長の椅子へ座らず、壁へ掛けられた地域図を見ていた。
「東の関所は」
アーセンが尋ねる。
「閉じています」
「開けろ」
「革命政府の兵が入る」
「検査を続けろ。民間人と商人は通せ」
「国外軍の占領下へ、商人が来ると?」
「国境が閉じれば、都市の食料が減る」
「東の国は、こちらと戦争中です」
「国は戦争をしている。商人まで止める必要はない」
市長は地図の東端を指した。
「東方国は、川向こうの三村を欲しがっている。あなたが撤退させたと聞いた」
「戻した」
「なぜ」
「国境維持のためだ」
「敵国を助けたのか」
「東方国を残した」
市長は理解できない顔をした。
「土地を増やせば、国は強くなる」
「守れればな」
「三村程度なら」
「三村を守るため、川を越えた兵が必要になる。さらに北の浅瀬、西の林道、村へ続く街道へ兵を置く。東方国は小さい。そこまで守れば、別の国境が空く」
「なら、もっと大きな国が取ればいい」
「その国が大きくなれば、包囲は一国減る」
アーセンは地図を指で囲んだ。
「国は土地の広さだけで戦うのではない。政府、軍、国境、徴税、補給を一組として持っている。一国を潰して隣国へ土地を渡せば、その一組が消える」
「小国でも残す?」
「小さいから残す」
「弱い国を、壁にするために」
「そうだ」
市長はアーセンを見た。
「あなたは復活王朝のために来たのではないのか」
「勝たせたいとは思っている」
「思っているだけ?」
「勝つ準備が足りない」
「奇跡が起きた」
アーセンは初めて地図から顔を上げた。
「何が」
「塔から王の姉が消え、聖女が現れた」
「見たのか」
「見ていない」
「なら、起きたことを言え」
「塔の壁が崩れた。白い女が消えた。王の姉がいなくなった」
「それだけか」
「十分だろう」
「戦争には足りない」
市長は呆れた顔をした。
「神意を信じないのか」
「神が国境を守るなら、砦はいらない」
「王朝は、この奇跡で兵を集める」
「兵が増えることと、食料が増えることは違う」
「人が集まれば」
「命令する者も増える」
アーセンは窓の外を見た。
第二都市の鐘も、奇跡を告げるために鳴っている。
復活王朝は、この鐘を勝利の前触れとして利用する。
革命政府は、反革命の陰謀として処刑を増やす。
双方とも、奇跡を理由に予定より早く人を動かしていた。
「復活王朝軍がこちらへ来た場合、門を開けますか」
市長が尋ねた。
「入れない」
「味方では?」
「補給を持たない軍を都市へ入れれば、食料を奪う」
「あなたの軍は入った」
「食料を持っている」
「いつまで」
「次の都市へ進むまで」
「王朝軍と合流しない?」
「しない」
市長は椅子へ座った。
「皆、あなたが王朝を助けるために来たと思っている」
「そう思わせておけ」
「誤解を利用するのか」
「革命政府も同じ誤解をしている」
「王朝軍が突出する」
「既にしている」
「敗れたら?」
「その時のために、国を残している」
翌朝、アーセンの司令部へ三通の急報が届いた。
一通目は東方国から。
革命軍が国境の川へ集まり、前夜返還した三村を再び占拠した。
東方国は、村を取り戻すための援軍を求めている。
二通目は西方国から。
撤退を命じられた王弟が、丘陵地へ再進出する準備を始めた。復活王朝の奇跡が確認された以上、革命政府の崩壊は近く、今こそ古領を回復すべきだと主張している。
三通目は北東国から。
砦の守備隊が、アーセン軍の支援を受けながらも撤退を検討している。革命軍の攻撃が止まらず、政府は首都へ兵を戻したいという。
参謀は三通を机へ並べた。
「全てへ対応すれば、主力が減ります」
「減る」
「第二都市を取った今、中央へ進むべきです」
「進む」
「兵が足りません」
「敵も足りない」
参謀は東方国の急報を持ち上げた。
「川へ一個旅団を送れば、中央へ向かう兵が減る」
「革命軍は川へ二個旅団を置く」
「西方国の再進出を止めるには?」
「補給停止を続ける」
「北東国の砦には」
「政府へ兵を戻すなと伝えろ」
「拒否されたら」
「我々の二個大隊を砦の外へ出す」
参謀の顔が変わった。
「砦を見捨てるのですか」
「北東国政府が、自国の砦を守らないならな」
「落ちます」
「落ちれば、政府は首都へ戻した兵を再び出すしかない」
「その間に革命軍が平地へ」
「だから選ばせる」
アーセンは三通の紙を重ねた。
「国を残すために、こちらが全て守れば、残した意味がない」
参謀は暫く黙った。
「東方国へは援軍を?」
「送る」
「北東国へは送らない?」
「既に送っている」
「違いは」
「東方国は川を守ろうとしている。北東国は、自国軍を首都へ隠そうとしている」
「国が残るなら、政府が何をしても」
「国は政府だけではない」
アーセンは北東国の砦を指した。
「自国の国境を守る意思まで失った国は、旗だけ残しても包囲にならない」
正午、東方国へ一個旅団が出発した。
目的は三村を占領することではない。
革命軍を川の向こう側へ戻し、再び川を国境として維持することだった。
西方国へは、補給停止を解除する条件として丘陵地からの完全撤退を要求した。
北東国へは、砦の守備隊を首都へ戻すならアーセン軍も撤退すると通告した。
夕刻、北東国政府から返答が来た。
自国兵は砦へ残す。
アーセン軍は支援を継続してほしい。
参謀は返書を読んだ。
「脅しただけで戻りました」
「首都の政府に、国境で何が起きているか思い出させた」
「我々を信用したのでは?」
「信用していないから、自国兵を残した」
「それでよいのですか」
「それがよい」
アーセンは第二都市から中央へ続く街道を見た。
「互いに信用しない国が、自分の国境だけは守る。その方が包囲は長く残る」
夜、アーセン軍の主力は第二都市を出た。
市長も守備隊長も見送りには来なかった。
旗も振られない。
沿道に市民の姿もない。
それでも橋は残り、倉庫は焼かれず、街道には商人の馬車が戻り始めている。
都市を通過した軍の後ろで、行政は昨日と同じように動いた。
市庁舎には元の旗。
砦には元の守備隊。
国境標も動いていない。
変わったのは、革命政府の軍が第二都市を自由に使えなくなったことだけだった。
参謀が馬を寄せた。
「領土を得ず、都市を所有せず、国境を動かさず、どこまで進むおつもりですか」
「必要なところまで」
「目的地は」
「革命政府の軍が、包囲と国内反乱を同時に処理できなくなる地点だ」
「首都ではない?」
「首都を取っても、国が終わるとは限らない」
「では、何を取る」
「選択肢を取る」
参謀は意味を尋ねなかった。
前方の街道から、復活王朝の騎兵が一人走ってきた。
騎手は王朝評議会の書状を持っていた。
奇跡の発生により各地の王党派が蜂起し、勝利は確実になった。
アーセン軍は直ちに王朝軍へ合流し、中央への総攻撃へ参加せよ。
書状の末尾には、以前より大きな領土と爵位が約束されている。
アーセンは読み終えると、書状を騎手へ返した。
「合流しない」
騎手の顔が歪んだ。
「聖女が王家を救ったのです!」
「見たのか」
「皆が見ています」
「あなたは」
「私は見ていない。ですが、塔の壁が」
「壁が崩れただけだ」
「王の姉が消えた!」
「どこへ」
騎手は答えられなかった。
アーセンは先へ進んだ。
騎手が馬を並べる。
「神意を疑うのですか」
「神意があるなら、急ぐ必要はない」
「今こそ攻める時です!」
「補給は」
「各地の協力者が」
「何日分だ」
「合流すれば」
「兵数は」
「増えています」
「現在の数だ」
騎手は黙った。
アーセンは街道の先を見た。
「奇跡が起きる前より、何も分かっていない」
「信じる者が増えた」
「食べる者も増えた」
「王朝は必ず勝つ」
「勝つ軍は、必ずという言葉を使わない」
騎手の顔に怒りが浮かぶ。
「あなたは、王家を利用しているだけだ」
「王朝も私を利用している」
「では、どちらが正しい」
「戦後に残った方だ」
騎手は馬を止めた。
アーセン軍は彼を置いて進んだ。
夜半、北方から別の伝令が到着した。
馬は泡を吹き、騎手の外套には泥と血が付いている。
伝令は馬から降りると、地図を開くより先に告げた。
「ラファエル軍が北方国境を越えました」
アーセンは馬を止めた。
「どこへ」
「細長い東側の国です。国境砦を包囲し、主力は東の農道へ向かっています」
参謀が息を呑んだ。
「首都を狙っている」
伝令は頷いた。
「北方国は援軍を求めています」
アーセンは北方の地図を開いた。
ラファエルが攻めた国は、革命政府を囲む包囲網の一角だった。
領土は狭い。
軍も多くない。
だが、その国が消えれば、革命側の国境は北へ広がる。
アーセンが一国でも多く残そうとしている間に、ラファエルは一国ずつ消そうとしている。
参謀が尋ねた。
「北へ兵を戻しますか」
「戻さない」
「このままでは、北方国が」
「アーセン軍が全ての国を守れば、包囲ではなく占領になる」
「では見捨てる?」
「自国軍を動かさせる」
アーセンは伝令へ向いた。
「北方国の政府へ伝えろ。首都守備隊を砦へ送れ。港の兵も陸へ上げろ。隣国へ正式な援軍要請を出せ」
「間に合いません」
「間に合わせろ」
「ラファエルは、国境を広げるつもりです」
「分かっている」
アーセンは地図の北側へ指を置いた。
ラファエルが狙う川。
首都。
港。
国境砦。
その全てを見た後、地図を閉じた。
「私が線を残すたび、あの男は線を広げる」
参謀が低く尋ねた。
「どちらが勝つでしょう」
アーセンはすぐには答えなかった。
南では、ジャンが異なる旗を一つの防衛へ集めている。
国内では、聖女の奇跡が革命派と復活王朝の双方を動かしている。
北では、ラファエルが包囲を破壊するため国境を越えた。
そしてアーセンは、都市を占領しながら国を残し、前へ進んでいる。
誰も同じ勝利を求めていなかった。
「先に相手の目的を潰した方だ」
アーセンは答えた。
「都市を取った数ではない」
軍列は夜の街道を進み続けた。
後方では第二都市の灯りが消えずに残っている。
東では小国が川を守り、西では別の国が丘から退き、北東では砦が持ちこたえている。
アーセンの侵略が進むほど、周囲の国々は自分の国境へ張り付けられていった。
一国でも多く残す。
一つでも多く戦線を残す。
革命政府が、国内の乱闘だけに集中できないようにする。
その包囲の北側へ、ラファエルが初めて手を掛けていた。
翌朝、北方国の国境標が一つ、砲撃で折れた。
アーセンはまだ、それを新しい線とは認めていなかった。
北方国の国境標を折った砲弾は、そのまま土へ深く潜り、爆発しなかった。
石の柱だけが中央から割れ、北方国の紋章を刻んだ上半分が、革命軍側へ倒れた。
周囲の兵士たちは歓声を上げなかった。
砲撃を命じた者はいない。
国境向こうの監視塔が撃った砲弾が短く落ち、偶然標石へ当たっただけだった。
それでも、倒れた標石は両軍から見えた。
北方国の兵にとっては、自国の境界が破壊された光景だった。
革命軍の兵にとっては、これから広げようとしている国境が、戦う前から倒れたように見えた。
ラファエルは馬を降り、標石の前へ歩いた。
参謀長が後ろから言った。
「立て直しますか」
「まだこちらの土地ではない」
「ですが、このままでは兵が」
「触るな」
ラファエルは折れた紋章を見下ろした。
「勝つ前から、自分たちの標石のように扱えば略奪と同じだ」
国境向こうの監視塔から、二発目の砲声が響いた。
今度の砲弾は軍列の手前へ落ち、湿った土を高く跳ね上げた。
兵士たちが散る。
砲兵隊が反撃の準備を始めた。
「砲口を塔へ」
砲兵長が命じる。
ラファエルは手を上げた。
「撃つな」
「照準されています」
「塔を落とせば、砦が異変を知る」
「既に撃たれています」
「監視塔の砲は一門。射程も足りない」
三発目が飛ぶ。
今度は軍列の上を越え、後方の畑へ落ちた。
「先へ進め」
ラファエルは馬へ戻った。
「塔は包囲するだけでいい。伝令を出させるな」
「降伏を求めますか」
「まだ求めない」
「では、何のために囲むのです」
「こちらの主力が、あそこにいると思わせる」
街道を進んでいた革命軍は、国境を越えた直後に二つへ分かれた。
砦へ続く中央街道には、旗を広げ、太鼓を鳴らし、重砲を引く部隊が残った。
誰が見ても、主力に見える。
実際の主力は夜明け前に東へ折れ、畑と農村を縫う細い道へ入っていた。
重砲はない。
荷車も最小限。
歩兵と軽砲、工兵、騎兵だけが、泥の中を北へ進んでいる。
北方国の国境砦は、中央街道の軍列を見て警鐘を鳴らした。
砦の指揮官は首都へ急使を送り、包囲に備えて門を閉ざす。
その伝令は監視塔を避け、西の山道を使った。
ラファエルは、その道だけを開けていた。
砦から出た騎手が見える。
革命軍の斥候は追わない。
伝令は首都へ向かい、革命軍の主力が国境砦へ集まっていると報告する。
その報告どおり、首都守備隊の一部が砦の救援へ動く。
アーセンからは、首都の兵と港の兵を国境へ送れという要請も届いていた。
北方国政府は、国外の侵略者からも、包囲を維持したい同盟軍からも、同じ方向へ兵を動かすよう迫られていた。
首都の宮殿では、軍事会議が開かれていた。
国王の椅子は空だった。
病気を理由に会議へ出ず、実務は宰相と軍務大臣が行っている。
机の中央には、ラファエル軍の位置を示す駒が置かれていた。
全て国境砦の前にある。
「敵の主力は南です」
軍務大臣が言った。
「砦を失えば、首都まで平地しかありません」
港湾都市の代表が反論する。
「港の兵を陸へ動かせば、アーセンの船が入る」
「アーセンには海軍がありません」
「彼自身にはなくても、同盟国にはある」
「現在の敵はラファエルだ」
「だからといって、港を空にすれば別の敵を招く」
宰相はアーセンから届いた書状を机へ置いた。
首都守備隊を砦へ。
港の兵も陸へ。
隣国へ正式な援軍要請を。
国境を維持し、国家を残せ。
「この男は、我々へ命令できる立場ではない」
軍務大臣が言った。
「しかし、砦へ援軍を出さなければ国は残らない」
「港を空ければ国が残らない」
「両方へ兵を置くほど多くない」
会議室の隅で、若い書記が新しい報告を開いた。
「西側の港湾国は、援軍を拒否しました」
全員が振り向いた。
「理由は」
「自国の国境へ革命軍が移動している可能性があり、兵を出せないと」
軍務大臣が机を叩いた。
「革命軍は砦前だ!」
「彼らは、別働隊を警戒しています」
「根拠は」
「アーセンから警告が届いたと」
宰相の顔が僅かに歪んだ。
アーセンは北方国を救おうとしている。
同時に、隣国へも自国を守れと伝えている。
その結果、どの国も他国を救うためには兵を出さなくなった。
包囲を一国でも多く残すための戦略は、各国を国境へ縫い付けていた。
北方国は、自国の兵だけでラファエルを止めなければならない。
「首都守備隊の半分を砦へ」
宰相が決めた。
「港からは一個大隊だけを出す」
港湾代表が立ち上がった。
「一個大隊でも港の防衛が」
「国境砦が落ちれば、港の心配をする前に首都が落ちる」
「敵主力が本当に砦へいる保証は?」
宰相は答えなかった。
保証などない。
しかし砦の指揮官が敵軍を見ている。
太鼓も旗も重砲もある。
それを偽装だと判断する材料は、会議室には届いていなかった。
首都の北門が開き、守備隊が南へ出発した。
その頃、ラファエルの主力は首都の東にある農村地帯へ入っていた。
前夜から降り続いた雨で、道は膝近くまで沈む場所もある。
兵士たちは靴を泥へ取られ、軽砲の車輪を押し、荷物を捨てながら進んだ。
工兵隊長が馬を寄せる。
「予定より遅れています」
「分かっている」
「首都守備隊が砦へ動くまでに、東門へ到達する予定でした」
「まだ動いていない可能性は」
「斥候が土煙を確認しました」
「なら間に合っている」
「こちらが間に合っていません」
ラファエルは前方を見た。
道の中央で、軽砲の車輪が泥へ沈んでいる。
十人以上が縄を引いているが、動かない。
周囲の畑は既に耕され、麦の芽が出ていた。
畑へ車輪を入れれば進める。
その代わり、作物を潰す。
砲兵長が農民の柵を外そうとしていた。
ラファエルは馬を止めた。
「畑へ入れるな」
「道が使えません」
「板を敷け」
「板は砦包囲へ回しました」
「村から買え」
「時間が」
「奪うな」
砲兵長が苛立った声を出す。
「首都を取れなければ、畑も敵のものです」
「勝った後、その畑から食料を取る」
「収穫は先です」
「農民は今いる」
ラファエルは近くの村を指した。
「家の床板まで取る必要はない。納屋の古材を買え」
「金を払っている時間など」
「領収書を書け」
「それで板が出ますか」
「出なければ、砲を置いていく」
砲兵長は信じられない顔をした。
「軽砲を?」
「首都へ着くことが目的だ。砲を全て連れて行くことではない」
「攻城戦になれば」
「首都を攻城しない」
ラファエルは泥へ沈んだ車輪を見た。
「門を開かせる」
村へ入った補給兵は、納屋の古材と荷車の板を集めた。
領収書を渡すと言っても、農民たちは最初は扉を開けなかった。
国外軍を囲む革命軍へ物を売れば、北方国政府から裏切り者とされる。
拒めば革命軍に奪われる。
村長は戸口から言った。
「紙を受け取った者の名が残る」
補給士官が答える。
「こちらにも残ります」
「だから困る」
「では、村長名ではなく村名で書く」
「戦後、誰が払う」
「革命政府」
農民たちから笑いが漏れた。
「今も兵の給金を払えていない政府が?」
補給士官は言い返せなかった。
後ろからラファエルが歩いてきた。
村人たちは扉の隙間を狭めた。
「革命政府が払わなければ、私の軍費から払う」
村長が顔を出す。
「あなたの軍費も政府の金だろう」
「今はな」
「負けたら?」
「敵国の捕虜になる」
「勝ったら?」
「政府が私を処刑するかもしれない」
村人たちは黙った。
冗談には聞こえなかった。
ラファエルは紙へ自分の名を書いた。
「どちらでも、債務者の名だけは残る」
村長は紙を受け取った。
「将軍が死んだら、誰へ請求する」
「中央政府へ」
「払わない」
「その時は、この紙を燃やせ」
「意味がないではないか」
「今、奪わなかった記録にはなる」
村長は長く紙を見た。
「板を出す」
納屋の古材が道へ敷かれた。
農民も砲兵と一緒に車輪を押した。
作物を守るためだった。
革命軍を助けたいわけではない。
ラファエルを信じたわけでもない。
それでも、畑を踏み潰されるよりは、自分たちで板を置いた方がましだった。
軽砲が泥から抜ける。
軍列は再び進み始めた。
昼過ぎ、首都の東門から見える丘へ革命軍の斥候が現れた。
守備兵は最初、数人の騎兵だと思った。
その後ろから歩兵。
さらに軽砲。
泥だらけで旗も畳まれているため、どこの部隊か分からなかった。
望遠鏡を覗いた兵が叫ぶ。
「革命軍だ!」
東門の鐘が鳴った。
首都の守備隊は既に半数以上が国境砦へ向かっている。
残った兵は港から来る一個大隊と、宮殿警備、都市警備隊だけだった。
東門の指揮官は砲撃を命じようとした。
しかし、革命軍の前から白旗を持つ騎手が一人進み出た。
「使者です!」
門上の兵が怒鳴る。
「止まれ!」
騎手は射程の外で馬を止め、書状を地面へ置いた。
そのまま後退する。
都市警備隊の兵が書状を回収した。
内容は短かった。
国境砦は包囲されている。
首都守備隊は南へ移動した。
革命軍主力は東門へ到達した。
市門を開き、政府と軍は降伏せよ。
都市行政、住民財産、宗教施設、商人組合は維持する。
国境軍と政府高官のみ武装解除し、拘束する。
拒否する場合、首都を包囲する。
東門の指揮官は書状を宰相へ送った。
宮殿では再び会議が開かれる。
今度は空席だった国王の椅子へ、病衣の国王が座っていた。
顔色は悪く、毛布を膝へ掛けている。
「砦前の軍は」
国王が尋ねた。
軍務大臣が答える。
「主力ではありませんでした」
「では、我々は」
「誘い出されました」
「守備隊を戻せ」
「間に合いません」
「港の兵は」
「まだ街道上です」
「西方国へ援軍を」
「拒否されました」
国王はアーセンの書状を見た。
「この男は、我が国を残すと言ったのではないか」
宰相は答えなかった。
アーセンは残そうとしている。
だが、自国の軍を自国の国境へ置けとも言った。
北方国政府は、その警告を受けながら、ラファエルの偽装へ兵を動かした。
「アーセン軍は来るのか」
「中央へ進軍中です」
「我々を見捨てた?」
「一国を救うために主力を戻せば、包囲全体が崩れます」
国王は咳き込んだ。
「包囲のために、我が国を犠牲にするのか」
軍務大臣が声を落とす。
「包囲を作る国の一つでしかないのでしょう」
国王は東門から届いた降伏条件を読んだ。
「国を奪うと書いていない」
宰相が言う。
「ラファエルは国境を川まで拡大するつもりです」
「我が国は消える?」
「政府としては」
「住民と役人は残すと」
「国名と軍と外交権を奪います」
国王は紙を握った。
「それを、国が消えると言う」
会議室の外で銃声がした。
東門ではない。
宮殿前の広場だった。
市民が降伏を求め、警備兵が威嚇射撃を行っている。
国境砦へ兵を出したことが知られ、政府が首都を空にしたと噂が広がっていた。
「門を開ければ、革命軍に殺される」
軍務大臣が言った。
「閉じれば、市民が内側から開けます」
宰相が答える。
「国王だけでも港へ」
港湾代表が提案した。
「港の兵は、まだ到着していない」
「船はあります」
「国王が逃げれば、降伏条件は破棄される」
「捕虜になるよりは」
国王は立ち上がろうとした。
脚に力が入らず、椅子へ戻る。
「逃げない」
「陛下」
「軍を砦へ出したのは、私の政府だ」
「決定したのは会議です」
「国王の名で行った」
国王は降伏条件を机へ置いた。
「ラファエルへ、会談を求める」
東門の外へ出た北方国の宰相は、武器を持たず、従者も二人だけだった。
ラファエルは丘の上で待っていた。
外套も軍靴も泥に覆われ、華々しい侵略者には見えない。
宰相は馬車から降りると、丘の下に並ぶ革命軍を見た。
「国境砦を本当に包囲しているのか」
「している」
「攻めては」
「いない」
「救援へ向かった我が軍は」
「砦へ入る前に、道を閉じる」
宰相の顔が強張った。
「挟み撃ちにする?」
「降伏させる」
「拒めば」
「戦う」
「首都へ砲撃は」
「しない」
「門を閉ざしても?」
「包囲する」
「どれほど」
「食料が尽きるまで」
宰相は首都の城壁を見た。
市内には住民が多い。
兵より先に市民が飢える。
「卑劣だな」
「砲撃よりはましだ」
「住民を人質にする」
「政府が住民の中へ隠れている」
宰相はラファエルを睨んだ。
「あなたは、我が国を併合するつもりだ」
「国境を北の川まで拡大する」
「我々の国名は」
「消える」
「王家は」
「国外へ退くなら追わない」
「国王は逃げない」
「なら捕虜になる」
「処刑するのか」
「しない」
「革命政府が許すと?」
ラファエルは僅かに黙った。
「私の管理下に置く」
「あなたが処刑された後は?」
ラファエルの目が動いた。
北方国にも、中央政府が彼の独断を記録しているという情報が届いている。
「先のことまで保証できない」
「随分正直な侵略者だ」
「嘘をつけば降伏するのか」
「しない」
「なら同じだ」
宰相は降伏条件を取り出した。
「地方行政を残す。宗教を変えない。土地を没収しない。徴税も急に変えない。自警団の武器も一部残す」
「そうだ」
「それでは、革命政府が我が国を管理できない」
「管理する必要はない」
「併合するのに?」
「国境と外交権だけを取る」
「国家の首を切り、身体だけ働かせるのか」
ラファエルはその言葉を否定しなかった。
「こちらには、行政を全て入れ替える余裕がない」
「余裕がないから、我々自身に占領を手伝わせる」
「そうなる」
「恥を知らないのか」
「知っている」
宰相は一瞬、返す言葉を失った。
「なぜ、そこまでして北へ来た」
「包囲を破壊するためだ」
「アーセンの?」
「そうだ」
「我が国が一つ消えれば、彼の戦略は崩れる」
「北側に穴が開く」
「その穴から、革命政府が外へ広がる」
「広がらなければ包囲される」
宰相は低く笑った。
「あなたも、アーセンも、我々を国ではなく線として見ている」
「軍事では、そうなる」
「国境の内側に人がいる」
「知っている」
「知っていて消す?」
ラファエルは首都を見た。
城壁の向こうでは、市民が門を開けろと叫んでいる。
「だから砲撃しない」
「慈悲のつもりか」
「負担を減らしているだけだ」
「誰の」
「双方の」
宰相は降伏条件を折った。
「国王との会談を」
「門を開ければ行く」
「武装兵を連れず?」
「護衛は連れる」
「何人」
「六人」
「軍を市内へ入れず?」
「会談中は」
宰相は暫く考え、頷いた。
東門が開いたのは、日没の直前だった。
最初に出てきたのは北方国の兵ではなく、市民だった。
政府が門を開けると決めた途端、包囲を恐れていた者たちが外へ逃げようとした。
門前が混乱する。
革命軍の兵は道を空け、逃げる者を止めなかった。
逆に、地方から首都へ避難していた者の中には、家へ戻ろうとして南へ向かう者もいた。
ラファエルは六人の護衛だけを連れ、東門を通った。
城壁上の北方兵は銃を下ろさない。
革命軍の将軍が射程へ入っている。
一発撃てば殺せる。
だが、撃てば門外の軍が市内へ入る。
兵士たちは引き金へ指を置いたまま、彼を見送った。
宮殿の会議室で、国王は立って待っていた。
毛布は外され、正装へ着替えている。
病弱な身体を隠せてはいなかった。
「ラファエル」
国王が名を呼ぶ。
「陛下」
「臣下の礼は取らないのか」
「私は共和国軍の将軍です」
「なら、市民と呼ぶ?」
「捕虜になる前の国王です」
国王は椅子を指した。
「座れ」
「立ったままで」
「私が見上げるのが嫌なのか」
ラファエルは椅子へ座った。
国王も向かいへ腰を下ろす。
二人の間には降伏条件が置かれている。
「我が国は消える」
国王が言った。
「はい」
「私が署名すれば」
「軍は武器を置き、国境は北の川へ移る」
「署名しなければ」
「首都を包囲する」
「国境砦は?」
「救援軍を止め、降伏を勧告する」
「砦が戦い続ければ」
「落とす」
「国民は?」
「行政は維持します」
「私の国民ではなくなる」
「革命政府の市民になります」
国王は苦い顔をした。
「それを慰めだと思うか」
「思いません」
「ならば、なぜ何も飾らない」
「飾れば国が残るのですか」
「残らない」
「では、署名を」
国王は紙へ手を伸ばさなかった。
「あなたは、革命政府へ忠実なのか」
「軍を離れていません」
「答えになっていない」
「今離れれば、軍が分裂する」
「ロベルトへ従う?」
「必要な間は」
「恐怖政治を支持する?」
「終わらせる準備をしています」
同席した宰相と軍務大臣が顔を上げた。
国王だけは驚かなかった。
「我が国を滅ぼして?」
「北方の包囲を破壊する。戦争全体で敗れても、交渉材料が残る」
「我が国が材料か」
「そうです」
「その勝利を、あなたは自分のものにする?」
ラファエルは別の紙を机へ置いた。
北方国は、革命政府上層部の断固たる外交交渉と、ロベルトの一貫した指導により講和へ応じた。
国王は一行を読み、もう一度読んだ。
「あなたの名がない」
「必要ありません」
「軍を率いたのは」
「私です」
「国を奪うのも」
「私です」
「では、なぜ」
「ロベルトの勝利にする」
国王は紙から顔を上げた。
「処刑を終える言い訳を与えるためか」
「敗北を認めず、非常措置を解除できる」
「その男が使うと思う?」
「可能性はある」
「あなたを処刑し、勝利だけ奪う可能性は」
「ある」
「それでも渡す?」
「私の名を残すために、処刑を続けさせる方が無意味だ」
国王は暫くラファエルを見た。
「あなたは、我が国を奪う敵だ」
「はい」
「国王としては、憎むべきだろう」
「当然です」
「だが、あなたの政府よりは話が通じる」
ラファエルの眉が僅かに動いた。
「褒めていません」
「分かっています」
国王は署名欄へ視線を落とした。
「私が署名すれば、兵は帰れる?」
「武器を一部預かり、部隊を解散させます。地方の警備へ必要な者は自警団へ戻す」
「将校は」
「忠誠を強制しない。国外へ出るか、職を辞めるか、共和国軍へ入るか選ばせる」
「王党派として処刑しない?」
「私の軍が管理している間は」
「また、その後は保証しない」
「できません」
国王はペンを取った。
手が震えている。
「病気だからではない」
「聞いていません」
「国を消す署名だからだ」
「分かっています」
「分かると言うな」
国王は声を荒らげた。
「国を消す側に、分かるものか」
ラファエルは黙った。
言い返す言葉はなかった。
国王は署名した。
名前の最後が大きく歪んだ。
宰相と軍務大臣も続く。
降伏条件が成立した瞬間、部屋の外で鐘が鳴った。
聖女の奇跡を告げる鐘ではない。
北方国の政府が、戦闘停止を市民へ知らせる鐘だった。
国王は音を聞いた。
「最後の国鐘だ」
「鐘楼は残ります」
「国の鐘ではなくなる」
ラファエルは紙を受け取った。
「陛下は、国外へ?」
「残る」
「捕虜になります」
「国が消える日に、国王だけ逃げれば、私は何だったことになる」
「生き残る者です」
「それを、あなたの敵から言われるとはな」
国王は椅子へ深く座った。
「行け。あなたの勝利を、ロベルトへ渡せ」
ラファエルは立ち上がった。
「勝利ではありません」
「国を一つ消しておいて?」
「戦争を終える材料です」
「勝者は皆、そう呼ぶ」
東門から革命軍が市内へ入った。
略奪は禁止された。
国庫、軍需倉庫、門、橋、伝令所だけが接収される。
市庁舎の役人は職務を続け、商人組合も解散させられない。
北方国の旗はその日のうちには降ろされなかった。
住民が混乱するという理由で、三日間だけ残すことになった。
その下へ革命政府の旗が並べられる。
南の第二都市でアーセンが行ったことと似ていた。
違うのは、三日後に北方国の旗が降りることだった。
国境砦へ向かっていた救援軍は、首都降伏の報告を受けて止まった。
兵士たちは街道上で武器を置いた。
国境砦の指揮官は、最初の降伏勧告を破り捨てた。
二通目には国王の署名が付いていた。
指揮官は長く紙を見た後、門を開いた。
「国王は捕虜か」
革命軍の使者へ尋ねる。
「そうだ」
「脅されて署名した?」
「首都を包囲すると伝えた」
「なら、無効だ」
「戦うのか」
砦指揮官は城壁の兵を見た。
救援軍は来ない。
首都は降伏した。
国そのものが消える。
ここで戦えば、名誉は残るかもしれない。
兵は死ぬ。
「一日待て」
「何のために」
「兵へ話す」
翌朝、砦も門を開いた。
北方国軍は解散した。
三日目、北の大河沿いへ新しい国境標が運ばれた。
古い標石を抜き、革命政府の印を刻んだ新しい石を置く。
作業を見ていた地元住民は、誰も手を貸さなかった。
革命軍の工兵だけが穴を掘り、石を立てた。
ラファエルは少し離れた場所から見ていた。
参謀長が尋ねる。
「これで国境拡大は完了です」
「西側の港湾国が残っている」
「孤立しました。講和の使者も来ています」
「軍港を閉じさせる」
「領土は取らない?」
「取れば港の維持まで必要になる」
「川の向こう側へ国境を広げれば」
「アーセンと同じ間違いをする」
参謀長が首を傾げた。
「アーセンは広げていません」
「だからだ」
ラファエルは新しい標石を見た。
「こちらは既に一国分の行政と守備を抱えた。これ以上広げれば、包囲を壊すための拡大が、維持するための拡大へ変わる」
「ここで止まる?」
「川で止まる」
「港湾国は独立国として残す」
「軍港と通行権を奪い、包囲から外す」
「アーセンは許さないでしょう」
「許可を求めていない」
北の川に新しい国境標が立った時、南の旧国境では別の石が引き抜かれた。
革命政府の地図係が、これまでの線を消し、新しい線を北へ引く。
一本の線が動いた。
アーセンが守ろうとしていた包囲網から、一国が消えた。
ラファエルの司令所へ、中央政府から二人の使者が到着した。
一人は祝賀文を持っていた。
もう一人は逮捕状を持っていた。
祝賀文には、ロベルトの的確な指導と政府の外交努力により北方国が降伏し、革命は歴史的勝利を収めたと記されている。
ラファエルの名は、最後に小さく一度だけ出ていた。
現地軍司令官として政府方針を遂行した。
逮捕状には、政府命令への違反、独断越境、国外政府との無許可交渉、国境変更、軍費の私的使用、敵国王の不当な保護が並んでいる。
参謀長は二枚を見比べた。
「同じ政府から、同じ日に?」
使者の一人が答えた。
「祝賀文は民衆向けです」
「逮捕状は?」
「軍内部向けです」
ラファエルは祝賀文を先に読んだ。
自分が用意した文章と、ほとんど同じだった。
ロベルトの指導。
上層部の交渉。
北方の脅威除去。
共和国の勝利。
非常措置を解除できるだけの成功が、紙の上では完成している。
「正常化命令は」
ラファエルが尋ねた。
使者は答えなかった。
「非常裁判の停止。即時処刑の禁止。政治係の処刑権剥奪。送ったはずだ」
「審議中です」
「祝賀文は、もう刷ったのに?」
「勝利と制度変更は別問題です」
「別にしたら、何のための勝利だ」
逮捕状を持つ使者が一歩出た。
「武器をお預けください」
周囲の兵が動いた。
参謀長が剣へ手を掛ける。
使者の護衛も銃を構えた。
ラファエルは手を上げ、双方を止めた。
「今、逮捕するのか」
「命令です」
「軍は、まだ敵地にいる」
「既に共和国領です」
「三日前まで敵国だった土地だ」
「国境は変更されました」
「行政は不安定。国王と将校は捕虜。西側の港湾国との講和も終わっていない」
「後任が処理します」
「誰だ」
使者は名前を出した。
ラファエルは一度だけ目を閉じた。
後任は中央政府への忠誠で知られる将軍だった。
戦場経験は少ない。
政治委員の命令を拒まない。
「この土地の村名を一つでも知っているか」
「資料で確認します」
「川が増水した時に使える橋は」
「工兵が」
「港湾国から軍が入った時、どの道を止める」
「後任が判断します」
使者は逮捕状を前へ出した。
「武器を」
ラファエルは受け取らなかった。
「拒否する」
兵たちの空気が変わった。
「反逆となります」
「今ここで逮捕されれば、軍が割れる」
「既に命令拒否です」
「私へ従う部隊と、中央へ従う部隊が互いへ銃を向ける」
「あなたが命じなければ起きません」
ラファエルは参謀長を見た。
彼は既に剣を半分抜いている。
少し離れた場所では、中央政府から付けられた政治委員が、逮捕状の使者側へ立っていた。
軍は本当に二つへ割れかけている。
「逮捕を拒否する」
ラファエルは繰り返した。
「ただし、逃げない」
「何を」
「港湾国との講和が成立し、国境守備の配置が終わった時点で中央へ出頭する」
「期限は」
「七日」
「認められません」
「では今、拘束してみろ」
使者の顔が固まった。
ラファエルは脅していなかった。
抵抗を命じる必要すらない。
逮捕しようとすれば、周囲の兵が勝手に動く。
彼らはラファエルを愛しているわけではない。
だが、知らない後任へ命を預けるより、ここまで連れてきた将軍を選ぶ。
「七日後に出頭するという証文を」
使者が言った。
「書く」
「軍印ではなく私印で」
「私印でいい」
「その間、部隊移動には中央の承認を」
「港湾国が攻めてきても?」
「緊急時は」
「誰が緊急と決める」
使者は答えられなかった。
ラファエルは皮肉に笑うこともできなかった。
同じやり取りを、何度繰り返したか分からない。
「私が決める」
「また独断を?」
「七日後の罪状へ足せ」
ラファエルは出頭証文を書いた。
七日後、中央政府へ出頭する。
逃亡しない。
国外勢力へ寝返らない。
軍を政府へ反乱させない。
ただし、北方国境の安定と港湾国との講和成立まで、現地指揮権を維持する。
使者は文面を読み、政治委員と相談した。
逮捕は延期された。
祝賀文だけが、その日のうちに各地へ送られた。
首都では、北方勝利を祝う鐘が鳴った。
ロベルトの肖像を掲げた行列が街を歩き、演説者は、革命政府の一貫した指導が国外の包囲を打ち破ったと叫んだ。
同じ広場の端では、ラファエルが独断で国境を越え、多くの兵を危険に晒したという刊行物が配られていた。
一方では英雄的政府の忠実な将軍。
もう一方では軍を私物化した危険な野心家。
どちらも、同じ印刷所から刷られていた。
ロベルトの執務室には、祝賀文と逮捕状の写しが並んでいた。
彼は祝賀文を読んだ後、正常化命令の草案を開いた。
非常裁判の停止。
即時処刑の禁止。
地方政治係の処刑権剥奪。
戦時徴発の期限設定。
ダンが向かいに座っていた。
「今、これを出せば」
ロベルトが言った。
「政府が恐怖に屈したと思われる」
「戦争に勝った直後です」
「だからこそ、裏切り者が安心する」
「北方の包囲は一つ消えた」
「南ではジャンが勝手に軍を集め、アーセンは国内へ進み、王党派は奇跡を叫んでいる」
ロベルトは草案を閉じた。
「終わっていない」
ダンは眼鏡を外した。
「いつなら終わる」
「全ての敵が消えた時だ」
「敵が消えるたび、別の敵を見つけている」
ロベルトの視線が鋭くなる。
「ラファエルを庇うのか」
「裁判の前だ」
「既に命令違反は明白だ」
「勝利も明白だ」
「勝てば法を破ってよい?」
「負けた時だけ法を使うのか?」
二人の間に沈黙が落ちた。
机の外では、祝勝の鐘が鳴っている。
ロベルトは正常化命令を引き出しへ入れた。
「保留する」
「いつまで」
「国内が統一されるまで」
ダンは立ち上がった。
「統一のために恐怖を使い、恐怖を終えるために統一を待つ。それでは終わらない」
「終わらせれば国が割れる」
「もう割れている」
ロベルトは返さなかった。
ダンが部屋を出た後、ロベルトは逮捕状を手に取った。
ラファエルを止めなければ、軍が政治より先に戦争を終わらせる。
ラファエルを処刑すれば、北方勝利を作った軍が政府へ何を思うか分からない。
どちらも危険だった。
だから七日間だけ、決断は先へ送られた。
北方の川では、ラファエルが新しい国境の配置を確認していた。
兵士が標石の周囲へ土を戻している。
川向こうには西側の港湾国の斥候が見える。
まだ講和は成立していない。
参謀長が中央から届いた刊行物を渡した。
「あなたは英雄だそうです」
ラファエルは一枚目を読んだ。
「こちらでは反逆者です」
二枚目も読む。
「どちらを信じますか」
「どちらも政府が必要としている」
ラファエルは二枚を折り、同じ懐へ入れた。
「正常化命令は?」
「保留です」
ラファエルの手が止まった。
「理由は」
「国内が統一されていない」
「勝利を渡しても足りないか」
「ロベルトは、まだ戦争が終わっていないと」
「終わらせるための勝利だ」
ラファエルは川向こうを見た。
港湾国の軍旗が遠くで動いている。
アーセンは包囲を維持するため、あの国を戦線へ残そうとする。
ラファエルは軍港を閉じ、講和へ引き出し、包囲から外そうとしている。
まだ七日ある。
「港湾国へ、明日もう一度使者を出す」
「条件は変えますか」
「変えない。独立は維持。領土も取らない。軍港の閉鎖、国外軍の通行禁止、革命政府との休戦」
「拒否すれば」
「港を封鎖する」
「七日では終わりません」
「終わらせる」
「その後、中央へ?」
「出頭する」
参謀長は何か言いかけた。
ラファエルが先に言った。
「軍を連れて反乱はしない」
「政府は、あなたを殺します」
「まだ決まっていない」
「逮捕状が出ています」
「裁判はある」
参謀長の顔が歪んだ。
「今の裁判を信じるのですか」
「信じていない」
「なら、なぜ戻る」
ラファエルは新しい国境標へ手を置いた。
石はまだ濡れている。
「戻らなければ、軍を持った将軍が政府へ逆らい、他国を奪い、そのまま自分の国を作ったことになる」
「それの何が」
「次の将軍も同じことをする」
「生きるためです」
「皆が生きるために軍を使えば、国は軍の数だけ割れる」
参謀長は声を抑えた。
「死ねば何も残りません」
「国境は残る」
「あなたの話です」
ラファエルは答えなかった。
川を流れる水は、国境標が変わっても同じ方向へ進んでいる。
昨日まで北方国だった土地と、以前から革命政府だった土地を、水は区別しない。
人間だけが石を立て、線を引き、守るために死ぬ。
「七日後までに、終わらせる条件を揃える」
ラファエルは言った。
「ロベルトが使わなくても?」
「使える状態へしておく」
「それで処刑されたら」
「次に恐怖政治を終わらせる者が使う」
参謀長は黙った。
遠くで鐘が鳴っていた。
北方国が消えたことを知らせる鐘か、共和国の勝利を祝う鐘か、港湾国が兵を集める鐘かは分からない。
ラファエルの軍が北へ移動したことで、中央と南部では空いた道路、倉庫、指揮権を巡る争いが激しくなっていた。
南部ではジャンの名で複数の旗が動き、アーセンはその勢力を避けて北へ続く経路を探している。
塔から消えた姉を巡る奇跡は、聖女の再来として各地へ広がっていた。
ラファエルはまだ、その三つが一つの歴史へ結び付こうとしていることを知らなかった。
彼が知っているのは、自分が一国を消し、国境を広げ、勝利をロベルトへ渡しても、恐怖政治は終わらなかったという事実だけだった。
新しい国境標の根元へ、最後の土が掛けられた。
工兵が槌で周囲を固める。
石は動かなくなった。
ラファエルは七日後の日付が書かれた出頭証文を見た。
国境は広がった。
自分が戻れる場所は、狭くなっていた。
首都の印刷所へ四枚の報告書が届いたのは、北方勝利を祝う刊行物が刷り終わる前だった。
一枚目には、塔の外壁が崩れ、白い女が煙の中へ消え、無名の王の姉が監房からいなくなったと書かれている。
二枚目には、南部でジャンが国外軍を撃退し、革命軍、地方兵、復活王朝から戻った兵を同じ防衛線へ集めたとあった。
三枚目は、アーセン軍が国境を変えないまま第二都市を通過し、さらに中央へ近づいているという報告だった。
最後の一枚には、ラファエルが北方国を降伏させ、国境を大河まで拡大したこと、その勝利と同じ日に逮捕状を出されたことが記されていた。
印刷職人は四枚を並べ、インクで汚れた指を頭髪へ入れた。
「どれを一面へ出す?」
政府から派遣された書記は、北方勝利の版木を指した。
「これは既に決まっている。ロベルトの指導による包囲突破だ」
「塔の奇跡は?」
「奇跡と書くな。反革命勢力による偽装工作だ」
「南部では、聖女の末裔が現れたと」
「ジャンは聖女の末裔ではない」
「違うと確認したのか?」
書記が職人を睨んだ。
「確認する必要はない。革命政府が血統を認めれば、復活王朝へ正統性を渡すことになる」
印刷職人は報告書を一枚持ち上げた。
「では、何と書く?」
書記は答えなかった。
机の端には、印刷所の主人が古書店から持ち込んだ戦記が開かれていた。
王国がまだ複数の領主へ割れていた頃の記録である。
国外の大軍が北から入り、別の敵国が南を荒らし、国内では王位を巡る争いが続いていた。
その時、聖女の血を引くと称された若者が南側の敵を退けた。
若者は敵国の領土へ入らず、国境で兵を止めた。
互いの旗を降ろさせず、誰が王へ忠誠を誓うかも決めないまま、国外軍と戦うための道と食料だけを一つにした。
北から侵入した国外軍を前に、争っていた諸勢力も内戦を止め、同じ戦線へ加わった。
古い戦記ごとに、聖女の末裔の年齢も、性別も、名前も違っていた。
王家へ仕えたとする本もあれば、王冠を拒絶したとする本もある。
最後には戦死したと書かれた版も、戦後に姿を消したと書かれた版もあった。
細部は残っていない。
それでも、南から現れた聖女の血と、北から侵入した国外軍によって、割れていた国が一時的にまとまったという筋だけは、どの本にも共通していた。
印刷職人は本と報告書を見比べた。
「似ている」
書記が本を閉じた。
「似せている者がいる」
「誰が?」
「復活王朝だ。王政を戻すために、古い歴史を利用している」
「ジャンは王朝の部隊を自分の下へ入れたが、王の旗を掲げていない」
「だから危険だ」
書記は強く言った。
「王を掲げず、政府の命令も待たず、南部の軍が一人へ集まった。民衆が自分たちで聖女の末裔だと決めれば、本人が否定しても止められない」
印刷所の主人が奥から出てきた。
「政府は、否定するのか?」
書記は古い戦記へ手を置いた。
「否定しない」
「今、末裔ではないと」
「血統は否定する。行動は利用する」
書記は白紙を一枚取り、見出しを書いた。
聖女の血ではなく、革命の民が南部を救った。
「ジャン個人を聖人にするな。南方軍を退けたのは、農民、職人、兵士、市民の協力だと書け」
印刷職人が首を傾げた。
「それでは、古い歴史と違う」
「同じにする」
書記は次の一文を加えた。
かつて聖女の末裔が諸勢力を一つにしたように、今度は革命が全市民を一つにする。
「国外軍はアーセン、聖女の役割はジャン、王家を救った奇跡は民衆の蜂起へ置き換える」
主人が尋ねた。
「復活王朝は?」
「国外軍へ道を開いた裏切り者として置く」
「復活王朝の兵が、ジャンの軍へ合流している」
「王朝を捨て、祖国へ戻った兵だと書け」
「捨てていない者もいる」
「紙の上では捨てさせる」
印刷職人は版木を削り始めた。
事実を一つも変えずに、意味だけが変えられていく。
ジャンは聖女の末裔ではない。
だが、聖女の末裔がしたとされる行動を繰り返した。
復活王朝の兵は王への忠誠を捨てていない。
だが、革命政府の刊行物では祖国を選び直した兵になる。
アデルが作った偽の聖女は王族を救った。
しかし政府の紙では、迷信を利用した敵の工作と、それを見破った民衆の覚醒へ書き換えられる。
アーセンは復活王朝の勝利を信用していない。
それでも、国内へ侵入した国外軍であることだけは変わらない。
印刷機が動き始めた。
紙へ同じ文字が何度も押し付けられる。
最初の百枚が乾く前に、中央政府の会議室では別の戦いが始まっていた。
壁には国内全域の地図が掛けられている。
北では、ラファエルが新しい国境を大河まで広げた。
中央では、アーセン軍が第二都市を抜けた。
南では、ジャンの共同防衛へ参加する部隊が増え続けている。
復活王朝は複数の地域で兵を集めたが、進む方向も指揮官も統一できていなかった。
革命政府の軍も同じだった。
中央軍、地方軍、政治係が集めた部隊、ラファエルの残留部隊、ジャンへ加わった部隊が、それぞれ異なる命令で動いている。
ロベルトは南部から届いた共同防衛令を読んでいた。
目的は国外軍の侵入阻止。
各部隊は従来の旗と内部指揮権を維持する。
戦闘地域では現地責任者の命令を優先する。
住民への無断徴発、政治的拘束、他派閥の旗への攻撃を禁ずる。
最高責任者の欄には、ジャンの名がある。
「国家の中へ、別の国家を作った」
政治委員の一人が言った。
「即時解散を命じるべきです」
別の委員が反論した。
「解散させれば、南方国軍が再侵入する」
「中央軍を送る」
「ラファエルが北へ連れて行った」
「北方の部隊を戻せば」
「アーセンが中央へ入る」
「なら、復活王朝の掃討を遅らせる」
「遅らせた間に、兵がジャンへ流れる」
言葉を重ねるたび、政府が動かせる兵が減っていく。
地図の上には多くの革命軍がいる。
だが、命令を出せば動く軍は少なかった。
ロベルトは共同防衛令を机へ置いた。
「解散はさせない」
政治委員たちが一斉に彼を見た。
「ジャンの独断を認めるのですか」
「認めるのではない。使う」
「ラファエルと同じです。命令違反へ勝利を与えれば、誰も政府へ従わなくなる」
「ラファエルは国境を拡大した。ジャンは国境を維持した」
「違いが?」
「ある」
ロベルトは南側の国境を指した。
「ジャンは敵を退けた後、追撃を国境で止めた。南部へ戻った復活王朝兵の旗も奪わず、革命政府への忠誠も強制していない」
「それこそ反逆です」
「それでも国外軍を入れていない」
「政府ではなく、ジャン個人へ兵が集まっています」
「だから政府が利用する」
政治委員の一人が声を強めた。
「利用できる保証はありません」
「既に、あの名がなければ南部の食料も道路も動かない」
「政府より強い名を、公認するのですか」
ロベルトは新しく刷られた刊行物を持ち上げた。
「ジャンの勝利を、革命の勝利として公認する」
「本人が拒めば?」
「拒ませない」
「逮捕を?」
「英雄にする」
会議室が静まり返った。
ダンは窓際で腕を組んだまま、刊行物を読んでいた。
「英雄にすれば、なおさら政府より強くなる」
ロベルトが彼を見る。
「今、処刑すれば南部全域が敵になる」
「処刑の話はしていない」
「逮捕しても同じだ」
「なら、放置すれば?」
「南部だけの英雄になる」
ロベルトは地図の中央へ刊行物を置いた。
「国全体の英雄に変える」
ダンは眼鏡を外した。
「本人の意思を無視して?」
「国家が割れている時に、象徴へ許可を求めるのか」
「無名の王と同じことをするつもりか」
政治委員たちが息を止めた。
死後に王とされた男。
本人の意思を誰も知らないまま、復活王朝が王冠を載せ、兵を集めるために使った。
今度は革命政府が、生きている少年へ聖女の歴史を重ねようとしている。
ロベルトの声は変わらなかった。
「無名の王は、王政復古の血統へ使われた。ジャンは国外軍から国を守った」
「利用する側の理屈が違うだけだ」
「結果も違う」
「本人にとっては?」
「本人一人の問題ではない」
ダンは刊行物を机へ戻した。
「それを言い始めたから、恐怖政治になった」
政治委員が怒鳴った。
「国外軍が中央へ迫っている時に、また処刑批判ですか」
「ジャンを利用する話をしている」
「革命を守るためだ」
「皆、そう言う」
ロベルトは二人を止めなかった。
会議室の外では、北方勝利と南部勝利を同時に告げる鐘が鳴っている。
一つの鐘はロベルトを讃え、別の鐘はジャンを讃え、さらに別の鐘は聖女の奇跡を告げていた。
誰のための鐘か分からない。
それでも音だけは重なっている。
「歴史を読め」
ロベルトが言った。
会議室の机へ、印刷所から運ばれた古い戦記を置く。
「この国は、同じ形で一度まとまった」
政治委員が頁を開いた。
「聖女の末裔と国外軍」
「当時も国内は割れていた。王位、土地、宗派、税を巡って互いを殺していた」
ロベルトはアーセン軍の位置へ駒を置いた。
「国外軍が内側へ入った」
次にジャンの位置へ別の駒を置く。
「南では、聖女の血を引くとされた者が敵を国境で退け、異なる旗を同じ道へ置いた」
「今回は聖女の血ではありません」
「関係ない」
ロベルトは断言した。
「歴史は血を確認しない。人間が似ていると思えば、同じものになる」
ダンが尋ねた。
「奇跡も利用する?」
「利用しない理由がない」
「偽物だ」
「証拠は」
ダンは答えなかった。
塔の奇跡がアデルによるものだと疑っている。
だが、誰が白い女を用意し、誰が壁を崩し、誰が姉を連れ出したか、政府はまだ確定できていない。
「偽物だから利用しない、では政治にならない」
ロベルトは言った。
「信じられているものを、誰が使うかだ」
「復活王朝と同じだな」
「復活王朝より先に使う」
ロベルトは命令書を三枚用意させた。
第一に、南部共同防衛を共和国の臨時防衛組織として承認する。
第二に、ジャンが発行した通行証と物資命令を、国外軍との戦闘が続く間に限り、全革命軍で有効とする。
第三に、南部共同防衛へ参加した復活王朝兵について、国外軍との戦闘中は過去の所属を問わない。
政治委員が三枚目を見て声を上げた。
「王党派を赦免するのですか」
「赦免ではない。審査を延期する」
「戦後に逮捕する?」
「必要なら」
「必要の基準は」
「行動を記録しろ」
ダンが命令書を取った。
「前線では味方として使い、後方では名簿を作る」
「敵が内側にいる可能性を捨てない」
「それでは一枚岩ではない」
「軍事だけ一つなら十分だ」
ロベルトは第四の命令を加えた。
国外軍との戦線で、革命軍同士の政治的拘束を禁止する。
ただし、命令拒否、敵との接触、戦意を損なう発言は記録し、後方へ報告せよ。
ダンは文章を最後まで読んだ。
「処刑を止めるのではなく、戦場の外へ移すのか」
「前線で互いを捕らえれば負ける」
「後ろへ戻った後なら殺す?」
「裁判を行う」
「今の裁判で?」
ロベルトは答えなかった。
命令書には、法を戻すとも、非常裁判を止めるとも書かれていない。
兵士は前線でだけ味方になる。
戦闘が終われば、昨日までと同じように疑われる。
それでも、今まで同じ橋の両側で銃を向けていた部隊が、少なくとも同じ方向へ撃てるようになる。
「ラファエルの正常化命令は保留したまま、軍事統一だけ進める」
ダンが言った。
「戦争が終わっていない」
「終わらせるための制度を保留し、戦争を続ける制度だけ作る」
「今、必要なのは勝つことだ」
「恐怖政治を終わらせるために勝つのではなかったのか」
「負ければ終わらせる国がない」
「勝てば、まだ敵がいると言う」
ロベルトの顔が固くなった。
「アーセンがいる」
「彼を追い出したら?」
「復活王朝がいる」
「復活王朝を倒したら?」
「ジャンの軍が政府へ従わなければ」
会議室が再び静まった。
ロベルト自身が、次の敵を口にしていた。
まだ国外軍とも復活王朝とも戦っている最中に、ジャンの軍を疑っている。
ダンは眼鏡を掛け直した。
「その時も、恐怖政治を終わらせない理由は作れる」
「必要ならな」
「必要なのは国か、恐怖か?」
ロベルトは答えなかった。
署名した命令書だけを、伝令へ渡した。
命令は、その日のうちに中央から南へ走った。
最初に届いたのは、中央街道と南部街道が交わる小さな関所だった。
関所の北側には中央軍。
南側にはジャンの共同防衛へ参加した地方兵と、復活王朝から戻った兵がいる。
中央軍は、王朝兵を拘束するため関所を閉じていた。
南側は、アーセン軍の斥候を止めるため道を開けろと要求している。
両者は朝から銃を向け合っていた。
捕らえられていた王朝兵の一人は、両手を縛られ、関所小屋の柱へ繋がれている。
中央軍の指揮官は、彼が無名の王の印を付けていたことを理由に、後方へ送ろうとしていた。
南部兵の指揮官は、その男が東側の小道を知っており、国外軍の迂回を防ぐため必要だと主張していた。
「道案内を終えた後に拘束すればいい」
中央軍指揮官が言った。
「それを聞いて、誰が案内する」
南部兵が返した。
「反逆者へ選択権はない」
捕虜の男が柱の前から叫んだ。
「俺は、南方国軍と戦った!」
「王朝軍へ加わった」
「故郷へ戻った!」
「王への忠誠を捨てたのか」
男は答えに詰まった。
捨てていない。
無名の王を信じ、王朝の復活を望んでいる。
それでも、故郷を守るためジャンの側へ戻った。
中央軍指揮官は、その沈黙を有罪の証拠と見た。
「後方へ送る」
南部兵が銃を上げた。
「その前に国外軍が来る」
「政府命令だ」
「政府はここにいない」
「だから我々が執行する」
関所へ馬が一頭走り込んだ。
伝令は馬から飛び降り、政府の印が付いた命令書を掲げた。
「国外軍との戦線における政治的拘束を停止! 南部共同防衛の通行証を承認する!」
両側の兵が動きを止めた。
中央軍指揮官は命令書を奪うように取った。
何度も読み返す。
「王党派を解放しろと?」
伝令が答える。
「国外軍との戦闘中は、過去の所属を問わない」
「戦闘後は」
「記録を残せと」
柱へ繋がれた男が笑った。
「今日は味方で、明日は処刑か」
誰も笑い返さなかった。
中央軍指揮官は縄を解いた。
「東の小道へ案内しろ」
男は痺れた手首を押さえた。
「終わった後は?」
「知らん」
「名簿へ書いたか」
指揮官は答えなかった。
書いている。
男の名前、所属した王朝部隊、ジャン軍へ合流した日、王への忠誠を否定しなかったこと。
全て後方へ送る紙へ記録されていた。
「今は案内しろ」
指揮官は繰り返した。
男は関所の外へ出た。
南部兵が銃を下ろす。
中央軍の兵も続いた。
互いに握手はしない。
謝罪もしない。
弾薬の不足数だけを伝え、東側の小道へ向かう部隊を決めた。
中央軍の若い兵が、王朝兵へ銃を一丁渡した。
「返せよ」
「明日、処刑する相手へ?」
「今日は返せ」
王朝兵は銃を受け取った。
「明日まで生きていればな」
二人は同じ道へ入った。
政治的な和解ではなかった。
恐怖政治が終わったわけでもない。
ただ、林の向こうにアーセン軍の斥候がいる間だけ、互いの背中ではなく同じ敵を見ることにした。
同じ命令は、各地の街道、倉庫、橋へ届いた。
昨日まで中央政府の印がなければ開かなかった倉庫が、ジャンの通行証で開く。
南部軍が止めていた中央軍の馬車が、共同防衛の標識を付けて通る。
復活王朝から戻った砲兵が、革命軍の火薬を使って国外軍へ砲を向ける。
地方兵が中央軍の負傷者を運び、中央軍の医師が王朝兵の傷を縫う。
誰も相手の旗を認めていない。
それでも、旗を降ろさせる時間だけはなくなった。
南部の共同防衛本部へ中央政府の命令が届いた時、ジャンは三人の兵站責任者から同時に食料不足を訴えられていた。
机には地図より多くの帳簿が積まれている。
肩はまだ固定され、右手だけで署名を続けていた。
「中央が共同防衛を承認しました」
伝令が読み上げる。
ジャンの筆が止まった。
「誰の許可で」
伝令は返答に困った。
「政府の許可です」
「違う。誰の許可で、私たちを政府の組織にした」
南部評議会の代表が口を挟んだ。
「承認された方が物資を得やすくなります」
「命令も来る」
「既に来ています」
中央軍の将校が別紙を開いた。
「国外軍との戦線で、あなたの通行証が全革命軍へ有効となりました。各地の部隊も、共同防衛へ参加できます」
「参加したくない部隊は?」
「命令拒否として記録されます」
ジャンは伝令を見た。
「参加は自由ではないのか」
「国家防衛です」
「昨日まで、私たちを反逆者と呼んでいた」
「状況が変わりました」
「私たちは変わっていない」
伝令は新しい刊行物を机へ置いた。
見出しには、革命が生んだ南部の救国者とある。
その下には、白い衣を着た聖女の影と、旗を持つ少年の絵が並べられていた。
少年の顔はジャンに似ていない。
実際より年上で、傷も泥もなく、左手には立派な剣を持っている。
負傷した左肩も描かれていない。
「誰だ、これは」
ジャンが尋ねた。
誰も答えられなかった。
復活王朝から戻った年嵩の兵が、刊行物を覗き込んだ。
「お前だそうだ」
「違う」
「随分、立派になったな」
「剣を左手に持っている。動かない」
「絵描きは知らん」
ジャンは紙を裏返した。
そこには古い戦記から引用された文章が載っていた。
聖女の血を引く若者は南の敵を退け、敵国へ入らず、国境で剣を止めた。
異なる旗を奪わず、争っていた者たちへ同じ道を守らせた。
北から侵入した国外軍を前に、国は一つになった。
ジャンは最後まで読んだ。
「私の話ではない」
年嵩の兵が言った。
「似ている」
「私には聖女の血などない」
「聖女も、自分では知らなかったという話がある」
「作り話だ」
「昔のことだ。誰にも分からん」
ジャンは紙を握り潰した。
「私は聖女の末裔ではない」
本部の外にいた兵たちへ、その声が聞こえた。
誰かが言った。
「昔の末裔も、最初は否定したそうだ」
ジャンは扉の方を睨んだ。
「誰だ!」
返事の代わりに、笑いが起きた。
悪意のある笑いではなかった。
だからこそ、止めにくい。
復活王朝の騎手が机へ近づいた。
「聖女の末裔なら、王朝へ」
「違う」
「仮に」
「仮にもない」
中央軍の将校も言った。
「政府の刊行物では、血統ではなく革命が生んだ救国者と」
「それも違う」
「南方国軍を退けたのは事実です」
「皆で退けた」
「異なる部隊をまとめた」
「まとめていない。別々の旗のままだ」
「だから聖女の末裔と同じなのです」
何を否定しても、別の理由で歴史へ近づけられる。
ジャンは紙を机へ叩き付けた。
「私は、勝てる方法も知らなかった!」
部屋が静かになった。
「退けば負けるから残った。土地を知っている人に聞いた。旗を奪えば中で戦うから残した。敵を国境の外まで追えば、また戦争が増えるから止めた。それだけだ」
南部評議会の代表が静かに答えた。
「古い戦記の若者も、同じことをしたと書かれています」
「知らない」
「知らずに同じことをしたから、皆が信じるのです」
ジャンは返せなかった。
歴史を真似たつもりはない。
聖女の末裔を演じた覚えもない。
それでも、古い物語と同じ行動を選んでいた。
王冠を求めず、国境を越えず、違う旗を残し、国外軍へ向けて道だけを一つにした。
本人が知らなかったことまで、神意の証拠に変えられる。
「この呼び方をやめさせろ」
ジャンが伝令へ言った。
「政府の刊行物では、末裔とは断定していません」
「絵を並べている」
「歴史的な類似を」
「やめさせろ」
「既に各地へ配られています」
ジャンは右手で額を押さえた。
「燃やせば?」
復活王朝の騎手が言った。
「聖女の証拠を恐れたと思われる」
「残せば認めたと思われる」
「そうなる」
「どうすればいい」
年嵩の兵は肩を竦めた。
「何をしても聖女らしくなる」
ジャンは机へ顔を伏せかけ、痛む肩を思い出して止めた。
本部へ新しい伝令が入ってきた。
「中央街道の二部隊が共同防衛へ参加します。北西の地方軍も、ジャンの命令に従うと」
「私の命令ではない」
「現地責任者を指定してください」
「そこの将校が決めればいい」
中央軍の将校が首を振った。
「私の命令では、地方兵が従いません」
復活王朝の騎手も言う。
「俺の命令では中央軍が動かない」
南部軍の老将が遅れて部屋へ入り、机上の刊行物を見た。
「随分、神々しくなったな」
「笑うな」
「では、現地責任者を決めろ」
「誰を」
「お前が信用できる者を」
「全員を知っているわけではない」
「知っている者へ聞け」
「また、それか」
老将は笑みを消した。
「それで勝った」
ジャンは地図を開いた。
アーセン軍は中央へ近づいている。
北ではラファエルが国境を広げたが、軍は北方へ留まり、中央と南を結ぶ街道が空いている。
革命政府の軍は、その空いた道を巡って争っていた。
今、政府の命令によって、争っていた部隊が共同防衛へ参加し始めた。
「中央街道は、中央軍の指揮官に任せる」
ジャンは言った。
「地方兵から副官を一人付ける。北西は、倉庫を守っていた復活王朝の騎手と南部軍を半分ずつ。南の国境は老将」
「お前は?」
老将が尋ねる。
「どこか足りない場所へ行く」
「それでは全体を見られない」
「今も見られていない」
「全体がお前の名前で動いている」
「私が全部決めれば止まる」
ジャンは地図の各地点へ小さな紙を置いた。
「現場で決められることは現場で決める。食料と道だけ、ここで合わせる」
「政府命令と違えば?」
中央軍の将校が尋ねる。
「国外軍を止める方を選ぶ」
「それを、誰が判断する」
「その場所にいる人」
将校は苦い顔をした。
「中央政府が嫌う仕組みです」
「だから今まで止まっていた」
ジャンは顔を上げた。
「一枚岩になれと言われても、一人の頭で全部を動かすことではない。違う旗のまま、同じ相手を止めればいい」
その言葉も、すぐに本部の外へ伝わった。
兵士たちは、ジャンが全軍の支配者になることを拒みながら、全軍を動かす言葉を出したと受け取った。
聖女の末裔は王冠を拒んだ。
古い戦記の一文が、また現実へ重ねられる。
ジャンが否定するほど、異質なカリスマは強まっていった。
同じ日の夕方、アーセンの司令所へ、各地の街道が突然動き始めたという報告が届いた。
革命軍同士の関所が開いた。
地方軍が中央軍へ食料を渡した。
復活王朝の印を付けた部隊が、革命軍と並んでアーセン軍の斥候を追い返した。
南部でしか有効でなかったジャンの通行証が、中央近くでも使われ始めている。
参謀は地図へ新しい駒を置いた。
「昨日まで、互いに拘束し合っていた部隊です」
「今日は?」
「同じ街道を守っています」
「指揮官は誰だ」
「場所ごとに違います」
「中央の統一指揮ではない?」
「ジャンの共同防衛方式を、そのまま広げています」
アーセンは地図を見た。
革命政府の軍は一つの巨大な部隊へ統合されたわけではない。
旗も命令系統も残っている。
中央軍、地方軍、ジャン軍、復活王朝から戻った兵。
互いを嫌ったまま、それぞれの場所を守っている。
その間を、食料、弾薬、情報が流れ始めた。
「政府がジャンを認めた」
アーセンが言った。
「利用した、と見るべきかと」
「違いはない」
「ジャン本人は、聖女の末裔という噂を否定しています」
「否定すればするほど、信じられる」
参謀は古い戦記の写しを開いた。
「当時と同じだと、各国でも噂になっています」
「国外から軍が入り、南に聖女の血が現れ、内戦が止まる」
アーセンは地図の外周へ手を置いた。
自分は周辺国を一国でも多く残し、包囲を維持しようとした。
そのため革命政府は外側の全てへ兵を置き続けなければならない。
国内では復活王朝、ジャン、中央軍が争い、内側から崩れるはずだった。
だが、国外軍である自分が深く入ったことで、分裂していた勢力へ共通の敵を与えた。
「私たちが、最後の一つを揃えた」
参謀が尋ねた。
「何をです」
「歴史だ」
アーセンは聖女の挿絵と、ジャンの位置を示す駒を並べた。
「偽の奇跡だけなら、王党派の宣伝で終わった。ジャンの勝利だけなら、南部の英雄で終わった。私が侵入しなければ、革命軍は互いを処刑し続けた」
「侵略を止めますか」
「止めれば、復活王朝が敗れた後に革命政府が外へ出る」
「進めば、国内統一が強まる」
「そうだ」
「どちらを」
アーセンは北方の地図を見た。
ラファエルによって一国が消え、包囲には既に穴が開いている。
後退すれば、その穴から革命軍が外へ広がる。
進めば、ジャンを中心に国内軍がまとまる。
「進む」
アーセンは答えた。
「一枚岩になったなら、割れ目を探し直す」
「ジャンを攻撃しますか」
「まだだ」
「彼が軍事統一の中心です」
「殺せば聖人になる」
「既に聖人です」
「生きて否定している間は、人間だ」
アーセンはジャンの駒を指で押さえた。
「本人が自分の神話を嫌っている。それが唯一の割れ目だ」
首都では、刊行物が夕方までに全区画へ配られた。
南部の救国者。
革命が生んだ聖女の再来。
国外軍へ立ち向かう全市民の共同防衛。
広場では、朝まで互いを罵っていた演説者が、同じ壇上からアーセンを国外の侵略者と呼んだ。
王党派の印を持っていた者まで、国外軍と戦うなら祖国の兵として迎えると宣言される。
群衆は歓声を上げた。
同じ広場の裏側では、刊行物を受け取らなかった男が拘束されていた。
「なぜ取らなかった」
政治係が尋ねる。
「字が読めない」
「では、読み上げを聞けばよい」
「仕事へ行く途中だった」
「国外軍が迫っている時に、仕事を優先した?」
「子供へ食べさせなければ」
「共同防衛へ反対しているのか」
「違う」
「聖女の再来を嘲笑したと証言がある」
「笑っていない」
「ジャンを子供だと言った」
「子供だろう」
政治係は書記へ目を向けた。
男の名が記録される。
その隣では、復活王朝から戻った兵の家族が、共同防衛への協力者として食料を受け取っていた。
昨日なら反逆者として捕らえられていた。
今日だけは英雄の家族として扱われる。
だが、兵の所属と王への忠誠は別の紙へ記録されている。
戦争が終わった後、同じ政府がその紙を使うかもしれない。
前線では手を結ぶ。
後方では互いの名を記す。
革命勢力は一枚岩になった。
石の中から亀裂が消えたのではない。
亀裂へ血と恐怖が流れ込み、外から押されて動かなくなっただけだった。
染色工房の窓のない部屋へも、外の演説は届いた。
無名の王の姉は寝台へ身体を起こし、足元の犬を撫でていた。
食事は前日より少し増えたが、まだ器の半分も食べられない。
アデルは新しい刊行物を持って部屋へ入った。
姉は紙の挿絵を見た。
白い聖女。
その下に立つ、顔の違う少年。
背後には国外軍と、複数の旗を持つ民衆。
「これは、私?」
姉が白い女を指した。
「違います」
「塔に出た女?」
「それとも違います」
「では誰」
「皆様が見たかった聖女ですわ」
姉は紙を近くへ寄せた。
「顔がない」
聖女の顔は光と布で隠され、細部が描かれていない。
「誰にでも出来るようにしたのでしょうね」
「私にも?」
「姉君にも、塔へ出た女性にも、昔の聖女にも。顔がなければ、全て同じ方にできますもの」
「少年は」
「ジャンです」
「知っている?」
「会ったことはありません」
「聖女の子?」
「違います」
姉はアデルを見た。
「本人が違うと言っても?」
「信じたい方は、否定まで証拠にします」
「私が王女ではないと言っても?」
アデルは返答を急がなかった。
「王女であったことは消えません」
「では、逃げられない」
「王女として使われることからは逃げられます」
「どうやって」
「見せない」
アデルは紙を折った。
「本人を見せなければ、皆様は勝手に作る。けれど、作ったものは本人ではありません」
姉は犬の背を撫でた。
「外の人は、それで国を一つにした」
「ええ」
「あなたが作った奇跡で」
「奇跡だけではありません」
アデルは机へ大陸図を広げた。
「ジャンが南で勝った。アーセンが国外から入った。ラファエルが北へ動いたため、中央と南部の指揮が混乱した。復活王朝が急いで兵を出した。全てが、古い歴史と似た位置へ並びました」
姉は地図を見た。
「偶然?」
「半分は」
「残りは?」
「人間は、知っている物語へ現実を押し込むのがお好きなのよ」
部屋の外では、レオンが各地から届いた通行記録を並べていた。
前日まで止まっていた道路で、食料馬車が動き始めている。
中央軍と地方軍の命令書が、同じ倉庫で処理されている。
ジャンの署名を写した仮通行証まで出回っていた。
レイモンは施療所から戻ったばかりだった。
外套には血と泥が付いている。
「負傷者が増えた?」
アデルが尋ねる。
「運ばれる場所が一つになった」
「数ではなく?」
「今まで、中央軍は中央軍の施療所、地方兵は教会、王朝から戻った兵は民家へ運ばれていた」
レイモンは手を洗いながら答えた。
「今日から同じ建物へ来る。寝台が足りない」
「治療はしやすくなった?」
「傷は同じだ」
「人間は?」
「違う」
レイモンは布で手を拭いた。
「隣の寝台に王朝兵がいると知って、中央軍の兵が出ていこうとした。だが立てなかった。王朝兵が水を渡した」
「仲良くなりました?」
「明日には互いを告発するかもしれない」
「今日は?」
「同じ国外軍に撃たれた話をしていた」
アデルは椅子へ座った。
「恐ろしいほど、上手くいきましたわね」
レオンが地図から顔を上げる。
「何が」
「目眩ましです」
「姉は救えた」
「ええ。皆様の視線は、完全に逸れました」
「逸れた先が同じだった」
レオンはジャンの勢力圏、アーセンの進路、中央軍の配置を指した。
「革命政府、地方軍、復活王朝から戻った兵。全てがアーセンへ向き始めている」
「一人を誰にも見せず救うため、国全体へ同じものを見せてしまった」
アデルは折り畳んだ刊行物を見た。
白い聖女。
南部の少年。
国外の侵略者。
古い戦記と同じ配置。
「わたくしは奇跡で注意を散らすつもりでしたのに」
レイモンが言った。
「散らなかった」
「ええ」
アデルは苦く笑った。
「国中が同じ方向を見ましたわ」
姉が寝台から尋ねた。
「悪いこと?」
誰もすぐには答えなかった。
国外軍へ対抗するには、軍事統一は必要だった。
分裂したままなら、アーセンはさらに容易に進む。
南側の敵国も再び侵入する。
復活王朝と革命軍が戦い続ければ、民間人だけが道路と食料を失う。
一つになったことで救われる者はいる。
同時に、ロベルトは共同防衛へ反対する者を国外軍の協力者として処理できる。
王朝兵を前線で利用し、戦後には名簿を使って裁ける。
ジャンを英雄にし、その名で軍を動かしながら、本人が政府へ逆らえば反逆者へ変えられる。
「悪いことではありません」
アデルが答えた。
「良いことでもない?」
姉が重ねる。
「それを決めるには、誰が一つにしたかではなく、一つになった後に何をするかを見なければ」
外から鐘が鳴った。
北方勝利。
南部勝利。
共同防衛。
聖女の再来。
同じ鐘へ、四つの意味が与えられていた。
その鐘の音に重なり、遠くで処刑台の刃が落ちた。
共同防衛を疑った男が、国外軍への内通者として処刑された。
前線では、昨日まで敵だった兵が同じ銃眼へ並んでいる。
後方では、同じ旗の下に立たなかった者が処刑される。
国は一つになったのではなかった。
同じ恐怖へ、全員が同時に顔を向けただけだった。
中央街道へ集まった軍旗は、朝霧の中で互いの色を奪い合っていた。
革命政府の旗。
南部各地の旗。
復活王朝から戻った兵が、まだ外していない王冠の印。
町の自警団が持ち込んだ、紋章すらない布。
旗だけを見れば、同じ戦場へ並ぶ理由など一つもなかった。
それでも、兵士たちは同じ街道へ土嚢を積み、同じ斜面へ銃眼を掘り、同じ橋の板を外していた。
橋を完全に落とせば、撤退にも使えない。
残せば、アーセン軍が渡る。
そのため中央の板だけを外し、両端の梁を残すという半端な壊し方が選ばれた。
決めたのはジャンではない。
橋を造った職人だった。
「全部落とせば、後で作り直すのに二月掛かる」
職人が言った。
中央軍の士官は橋脚を見下ろした。
「敵が渡れば、二月どころか国がなくなる」
「梁が残れば、板は三日で戻せる」
「敵も三日で戻す」
「だから中央だけではなく、三箇所外す」
「馬で跳び越えられる」
「川底へ杭を入れる」
南部軍の兵が口を挟んだ。
「杭なら、川上の製材所にある」
復活王朝から戻った騎兵が首を振った。
「長さが足りない」
「二本繋げばいい」
「水の中で外れる」
橋を囲んでいた全員が、同時に別の意見を出した。
昨日までなら、誰の命令が上かを決めるだけで日が暮れていた。
今は、橋を渡らせないという目的だけが共有されている。
ジャンは少し離れた場所で、その言い争いを聞いていた。
左肩はまだ固定され、外套の片側だけが不自然に持ち上がっている。
共同防衛本部では、最高責任者と呼ばれるようになった。
だが橋の壊し方について、彼は何も知らない。
職人の「板を三箇所外し、川底へ杭を打てば一番早いが、戻す手間は同じだ」という報告を、泥の気配とともに重く受け止める。
ジャンは即座に決断した。
「なら、それでいけ。川を知らない中央軍が吠える前に、渡れる場所をすべて消す。責任の逃げ道なら、俺の名前一つで足りる」
最高責任者としての切断の判断が、技術的な逡巡を黙らせた。中央軍の士官が顔をしかめる。
「敵が小舟を使えば」
渡し守が後ろから言った。
「この流れでは、上流から下る舟しか使えない。川上を見張ればいい」
「見張りを誰が」
「舟を持っている者がやる」
「兵ではなく?」
「兵は川を知らん」
士官は反論しかけ、止めた。
前日の刊行物には、ジャンが異なる旗を一つにまとめたと書かれていた。
実際には、一つにしていない。
橋を知る者へ橋を任せ、川を知る者へ川を任せ、誰も知らない場所だけをジャンの名で決めている。
それでも、外から見れば全てがジャンの指揮に見えた。
斥候が馬を走らせてきた。
「国外軍が動きました!」
周囲の兵が一斉に振り向く。
「どこから」
ジャンが尋ねた。
「中央街道を北上。先頭は騎兵、後ろに歩兵。砲は少数です」
中央軍の士官が地図を開いた。
「橋を強行突破するつもりだ」
復活王朝の騎兵が眉を寄せる。
「重砲が少ないなら、見せかけでは?」
「第二都市へ重砲を残したのかもしれない」
「アーセンは砦を砲撃していない」
「ここでも同じとは限らない」
意見が割れた。
ジャンは斥候へ尋ねた。
「荷車は」
「少ないです」
「食料は?」
「二日分ほどに見えます」
「後ろから来る?」
「第二都市との街道は動いています」
南部軍の老将が地図を見た。
「橋を取るための軍ではない」
「では、何のために」
中央軍の士官が尋ねる。
「こちらが橋へ集まるかを見る」
老将はジャンを見た。
「どうする」
「集めない」
「既に集まっている」
「これ以上は」
ジャンは地図の東と西へ指を置いた。
「アーセンは一つの道だけを使わない。橋へ全員を置けば、別の道を通る」
復活王朝の騎兵が言った。
「それなら兵を分けるべきだ」
「分ければ、橋を抜かれる」
中央軍の士官が反対する。
「だから、橋は人で守らない」
ジャンは橋の上で杭を運んでいる職人たちを見た。
「壊して、少ない兵で止める。残りは別の道へ」
士官はジャンの顔を見た。
「アーセンが橋を直し始めたら」
「時間が掛かる」
「その間に別の場所へ行ける」
老将が言った。
「橋を守るためではなく、時間を買う」
ジャンは頷いた。
「橋を取られても、すぐには渡れない形にする」
「取られる前提か」
復活王朝の騎兵が尋ねる。
「全部を守れる?」
誰も答えなかった。
ジャンは地図から顔を上げた。
「守れない場所があるなら、敵がそこで使う時間を増やす。人は、必要な方へ動かす」
それは勝利を約束する言葉ではなかった。
だが、兵士たちは自分たちが何をすべきか理解した。
橋を守る兵は減らされた。
中央軍の一部は東の林道へ。
南部兵は西の丘へ。
復活王朝から戻った騎兵は、街道同士を繋ぐ細い道へ配置された。
全ての部隊がジャンの指揮下へ入ったわけではない。
現地責任者だけを決め、それぞれが別の命令系統を残したまま動いた。
昼前、アーセン軍の先頭が中央街道へ現れた。
国外軍の騎兵は橋の手前で止まった。
橋上に守備兵は少ない。
旗も三本しか見えない。
それでも、中央の板は外され、川底には尖った杭が並び、対岸の斜面には複数の銃眼が開いていた。
アーセンは馬上から橋を見た。
「兵を減らした」
参謀が望遠鏡を覗く。
「東と西へ移動しています」
「こちらの迂回を警戒している」
「見抜かれました」
「最初から隠していない」
アーセンは橋の上へ残された板の位置を確認した。
完全に破壊されていない。
戦後に戻すことを考えた壊し方だった。
「ジャンの命令ですか」
参謀が尋ねる。
「本人は橋の構造を知らない」
「では」
「知っている者に決めさせた」
アーセンは対岸の旗を見た。
革命政府。
南部。
復活王朝。
一本も降ろされていない。
「一つにしないことで、一つにした」
参謀は意味を理解できず、聞き返した。
「どの部隊を攻めますか」
「攻めない」
「橋を前にして?」
「ここを越えれば、全ての旗が我々へ向く」
「既に向いています」
「まだ同じ命令へ従っているだけだ」
アーセンは東側の林を見た。
「損害が出れば、誰の判断で死んだかを巡って割れる可能性はある」
「なら正面攻撃を」
「こちらも死ぬ」
「軍事的には」
「ジャンを勝たせる」
参謀が眉を寄せる。
「橋を守れば、どちらにせよ勝利と宣伝します」
「正面攻撃を退ければ、事実になる」
アーセンは騎兵へ後退を命じた。
橋の対岸で、革命軍の兵がざわめく。
国外軍が一度も攻撃せず下がり始めた。
中央軍の若い兵が銃を上げた。
「逃げるぞ!」
指揮官が腕を掴む。
「撃つな」
「追撃を」
「橋がない」
「直して」
「敵が待っている」
それでも、兵の間から歓声が起きた。
南方国軍を退けた時と同じだった。
敵が退けば、勝ったように見える。
ジャンは橋の後方で、アーセン軍の動きを見ていた。
「勝ったのか」
近くの兵が尋ねる。
「戦っていない」
「敵は退いた」
「別の道へ行く」
歓声は止まらなかった。
古い戦記を持った読み上げ役が、橋を守った聖女の末裔と叫び始める。
ジャンは顔をしかめた。
「まだ何も終わっていない!」
彼の声は歓声に消えた。
アーセン軍は中央街道から東へ折れた。
橋を諦めたのではない。
ジャンの軍を街道へ集め、その間に別の経路を使うつもりだった。
だが東の林道には中央軍がいた。
西の丘には南部兵。
さらに北へ抜ける細道には、復活王朝から戻った騎兵が配置されている。
どの道にも大軍はいない。
代わりに、それぞれの土地を知る部隊が待っていた。
東の林道では、革命軍の兵が木を切り倒し、道を塞いでいる。
西の丘では、雨で崩れやすい斜面へ水を流し、騎兵が登れない泥へ変えていた。
細道では、地元出身の王朝兵が、軍列一つしか通れない曲がり角へ荷車を横倒しにしている。
アーセンは一つずつ報告を受けた。
「全てを塞いだのか」
参謀が言った。
「違う」
アーセンは地図を見た。
「通れる道も残している」
「どこです」
「南東」
「南方国軍が撃退された方角です」
「国境へ戻る道だ」
ジャンは、アーセン軍を完全に囲んでいない。
国外へ戻れる道を一つ残している。
南方国軍を追撃した時と同じだった。
逃げ道を塞げば、敵は死ぬまで戦う。
道を残せば、退く可能性がある。
参謀は地図を睨んだ。
「我々を国外へ押し戻すつもりです」
「そうだ」
「このまま退けば、侵攻は失敗です」
「退かない」
アーセンは北側へ指を移した。
「南東へ進むように見せる」
「撤退を偽装して」
「追わなければ、そのまま国境へ近づく」
「追えば?」
「空いた道を別働隊が北へ抜ける」
参謀はアーセンの顔を見た。
「ジャンを倒さず、兵だけ動かす」
「今の軍は、ジャンがいるから一つなのではない」
「彼の名で動いています」
「名が道を開き、物資を動かしている。だが戦場では、現地の人間が決める」
「なら、ジャンを殺しても」
「止まらない」
アーセンは橋の方角を振り返った。
「それどころか、聖女の末裔を国外軍が殺したという歴史が完成する」
参謀は黙った。
「生かしたまま、選ばせる」
「何を」
「どの道を守り、どの町を捨てるか」
アーセン軍は南東へ進み始めた。
それを見たジャン側の斥候は、国外軍が国境へ退き始めたと報告した。
共同防衛本部では、追撃すべきかを巡って意見が割れた。
「今なら国外へ押し返せる」
中央軍の士官が言う。
復活王朝の騎兵は反対した。
「追えば、別働隊が北へ出る」
「確証は」
「アーセンが簡単に退くわけがない」
南部軍の老将はジャンを見た。
「どちらへ兵を置く」
ジャンは地図を見た。
南東へ進むアーセン軍。
中央街道の橋。
東西の道。
その全てを守る兵はいない。
「追わない」
中央軍の士官が声を上げた。
「国外軍を逃がすのか」
「逃げるなら、戻ればいい」
「再び来る」
「今追えば、北へ兵が入る」
「北を守れば、南東から戻る」
「だから追わない」
ジャンはアーセン軍の進路へ指を置いた。
「国境まで見送る。兵を動かさない」
復活王朝の騎兵が頷く。
「別働隊も動けない」
「勝利を捨てるのか」
中央軍の士官が尋ねる。
ジャンは彼を見た。
「追い払うことが勝利なら、向こうへ戻った時に勝ったことになる」
「敵兵を減らさなければ」
「敵国へ入ってまで減らす?」
「そこまでは」
「なら、ここで待つ」
アーセンの偽装撤退は、ジャンが追わなかったことで成立しなかった。
別働隊は北へ出る機会を失い、主力も国境まで退けば本当に侵攻前の位置へ戻る。
参謀が尋ねた。
「止まりますか」
「止まらない」
アーセンは街道の途中で軍を東へ向けた。
国境へ戻るのではなく、革命政府と南方国の国境に沿って北東へ進む。
「領内を進むのですか」
「国境線に沿う」
「ジャン軍は?」
「内側から並走する」
「どちらも国境を越えないまま」
「互いを縛る」
アーセン軍が国境沿いへ進んだことで、ジャンは南部の兵を動かし続けなければならなくなった。
一つの戦場へ集めれば、別の道から抜けられる。
分散すれば、各部隊の連絡と食料が必要になる。
アーセンは領土を取らない。
国境も動かさない。
ただ、軍を動かすだけで、ジャンの巨大勢力を南部へ縫い付けた。
中央へ向かう侵攻は止まった。
だが包囲は残った。
アーセンは国境維持に成功した。
ジャンは南部への侵入を止めた。
双方が同じ日に勝ち、どちらも相手を倒していなかった。
北方の川では、西側の港湾国から白旗を掲げた船が現れた。
船には武器を持たない使節団が乗っている。
ラファエルは河岸へ机を置かせ、屋外で会談を始めた。
港湾国の代表は、独立維持を最初の条件として出した。
「領土を取らないという約束を、条文へ入れていただきたい」
「入れる」
ラファエルは即答した。
「国境も動かさない?」
「動かさない」
「北方国のように、国名を消さない?」
「消さない」
「では、何を求める」
「軍港の閉鎖。アーセン軍および同盟国軍への通行権停止。革命政府との休戦。北方国の旧領を巡る請求権放棄」
代表の顔が歪んだ。
「最後は、あなた方の併合を認めろという意味だ」
「そうだ」
「我々は、隣国を見捨てたと記録される」
「既に見捨てた」
「援軍を出さなかったのは、自国防衛のためだ」
「その結果、隣国は消えた」
代表は言葉を失った。
ラファエルは非難していなかった。
事実を言っただけだった。
「軍港を閉じれば、我が国の経済は」
「商港は残す」
「国外軍の船と商船を、どう区別する」
「武器と兵を積んだ船だけを止める」
「検査権は」
「自国で行え」
「信用するのか」
「違反すれば攻める」
「簡単に言う」
代表は河岸の向こうに立つ革命軍を見た。
北方国を三日で降伏させた軍である。
港湾国は狭い。
海へ逃げられるが、陸から首都へ入られれば長く持たない。
「期間は」
代表が尋ねた。
「戦争終結まで」
「誰が終結を決める」
「講和条約で決める」
「革命政府が恐怖政治を続け、永遠に戦争状態を宣言すれば?」
ラファエルの手が止まった。
「その可能性を、あなたも分かっているのか」
「国境を接する以上、分かる」
代表は新しい紙を出した。
「休戦期間を六ヶ月とする。その間に全体講和が成立しなければ、再交渉。軍港閉鎖も六ヶ月」
「短い」
「無期限よりはましだ」
「一年」
「八ヶ月」
「十ヶ月」
「九ヶ月」
「それでいい」
参謀長が驚いてラファエルを見た。
代表も、もう少し争うつもりだった顔をしている。
「随分早い」
「時間がない」
「中央からの逮捕状か」
ラファエルは否定しなかった。
代表は署名欄へ名を書いた。
ラファエルも続く。
港湾国は独立を維持した。
国境も動かない。
だがアーセンの包囲網から外れ、革命政府との休戦へ入る。
北方の包囲は、二箇所で崩れた。
一国は消え、一国は戦線から降りた。
ラファエルは国境拡大と講和に成功した。
「これで北方作戦は終了です」
参謀長が言った。
「中央へ戻る」
ラファエルは出頭証文を取り出した。
七日の期限まで、まだ二日ある。
「軍は?」
「現地へ半分残す。残りは南へ」
「あなたの護衛は」
「六人」
「少な過ぎます」
「軍を連れて帰れば、反乱に見える」
「逮捕されます」
「出頭するために戻る」
参謀長は低い声を出した。
「正常化命令は、まだ保留です」
「分かっている」
「勝利を渡し、包囲を壊し、港湾国も戦線から外した。それでもロベルトは恐怖政治を終わらせなかった」
「まだアーセンがいる」
「復活王朝も」
「ジャンもいる」
参謀長の顔が険しくなる。
「ジャンまで敵に数えるのですか」
「ロベルトなら数える」
ラファエルは河岸から新しい国境を見た。
北方国の旧領では、革命政府の役人が到着し始めている。
自分が残した地方行政へ、中央の政治係が上から重なろうとしていた。
「戻らなければ、終わらせる道をロベルトへ渡せない」
「既に渡しました」
「使わせる」
「どうやって」
「直接話す」
参謀長は笑わなかった。
「話を聞く相手なら、恐怖政治になっていません」
「聞かせる材料は増えた」
ラファエルは講和条約を掲げた。
「北方の勝利。国境拡大。港湾国の休戦。敗戦しても交渉できる」
「あなたの命と引き換えですか」
「引き換えにするつもりはない」
「政府は、そのつもりです」
「なら、裁判で話す」
「裁判?」
参謀長の声に怒りが混じった。
「今の裁判所で、何を信じるのです」
「裁判所は信じていない」
「では」
「軍を持って政府へ戻り、自分で無罪を決める方を信じない」
ラファエルは馬へ乗った。
「恐怖政治を終わらせるため、次の軍事政権を作るつもりはない」
参謀長は止められなかった。
ラファエルは六人の護衛だけを連れ、南へ出発した。
北方で勝利した将軍は、勝利した軍を置いて、逮捕状の待つ首都へ戻り始めた。
染色工房では、レオンが大陸図へ四本の線を引いていた。
一本目は、アーセンが維持した外周の国境。
二本目は、ラファエルが北へ拡大した新しい国境。
三本目は、ジャンが兵を動かしている南部の防衛線。
最後は、塔から姉を運び出した六台の荷車の経路だった。
アデルは姉の食事を作っていた。
前日より柔らかいパンを増やし、煮た豆を潰し、塩を僅かに落としている。
火の前へ立つ姿は、王の愛人でも、奇跡を作った策士でもなかった。
料理の濃さを何度も確かめる、昔の料理人だった。
レイモンは隣の部屋で犬の脚を診ていた。
犬はまだ唸る。
だが噛みつかなくなった。
「右の後ろ脚を庇っている」
レイモンが言った。
姉は寝台から犬を見た。
「塔で蹴られた」
「いつ」
「分からない」
「骨は折れていない。傷が化膿している」
「治る?」
「洗って薬を使えば」
「痛い?」
「痛い」
姉は犬の頭を撫でた。
「嘘をつかないのね」
「アデルにも言われた」
「何を」
「安心させるための嘘は、後で怖くなる」
姉は少しだけ笑った。
その笑いは、塔から出て初めて見せたものだった。
アデルは食事の器を運び、姉の前へ置いた。
「今日は半分」
「昨日より多い」
「食べられるようになりましたもの」
「食べたくない」
「では、三分の一」
「減らすのが早い」
「交渉ですから」
姉は匙を持った。
犬の治療を見ながら、ゆっくり食べ始める。
レオンは三人のいる部屋へ地図を持ってきた。
「アーセンとジャンが接触した」
アデルが振り返る。
「戦いましたの?」
「ほとんど戦っていない」
「では、どちらが勝ったの?」
「両方だ」
姉が匙を止めた。
「二人とも?」
レオンは地図を机へ置いた。
「ジャンは中央街道を守り、アーセンを南部から中央へ通さなかった。アーセンは正面戦闘を避け、国境沿いへ軍を動かし、ジャンの軍を南部へ縛った」
「敵を追い出していない?」
アデルが尋ねる。
「アーセンは領内にいる。だが進めない。ジャンも追撃していない」
「勝っていないように聞こえますわ」
「目的は達成している」
レオンは別の紙を開いた。
「ラファエルは港湾国と九ヶ月の休戦を結んだ。北方の包囲は崩れた」
「恐怖政治は?」
レイモンが尋ねる。
「終わっていない」
「逮捕は」
「出頭のため、首都へ戻っている」
アデルの手が止まった。
「軍を連れずに?」
「六人だけ」
「処刑されますわ」
「本人も分かっている」
レイモンは犬の脚へ包帯を巻き終えた。
「止める者はいないのか」
「軍を連れれば、政府への反乱になる」
「死ぬよりは」
「ラファエルは、軍で恐怖政治を終わらせれば次も軍が政府を決めると考えている」
レイモンは返答を失った。
理屈は分かる。
それでも、正しい理屈が人を処刑台へ送ろうとしている。
アデルは鍋の火を弱めた。
「四人とも勝ちましたのね」
レオンが彼女を見る。
「四人?」
「アーセンは国境と包囲を残した。ラファエルは国境を広げ、北方包囲を崩した。ジャンは南部を守り、異なる軍を動かした」
アデルは姉と犬を見た。
「わたくしは、この方々を塔から出した」
姉は匙を持ったまま、少し居心地の悪そうな顔をした。
「私も勝利なの?」
「あなたが勝ったのではありませんわ」
アデルは即座に答えた。
「わたくしが勝手に、あなたを自分の勝利へ数えました」
「なら、嫌」
「そう言われると思いました」
「勝利ではなくて」
姉は犬の背を撫でた。
「生きているだけ」
アデルは少し黙り、頷いた。
「では、救出だけをわたくしの勝利にします」
レオンは四本の線を見た。
「全員が勝った。それでも戦争は終わらない」
「勝ち方が違うから?」
姉が尋ねる。
「終わった後に残したいものが違う」
レオンは外周の線を指した。
「アーセンは国を一つでも多く残し、国境を維持して包囲を続けたい」
北方の新しい線へ指を移す。
「ラファエルは国境を拡大し、包囲を破壊して、敗戦しても有利に交渉できる状態を作りたい」
南部へ移る。
「ジャンは、国外軍を入れず、今いる人間と土地を守りたい。国家の形や戦後の国境より、目の前で捨てる人間を減らす方を選ぶ」
最後に、塔から伸びた細い経路を見る。
「アデルは、国家へ利用される前に一人を奪った」
アデルが眉を上げる。
「奪ったとは失礼ね」
「政府と王朝から見れば、そうなる」
「姉君から見れば?」
レオンは姉を見た。
姉は犬の包帯を指先で確かめていた。
「まだ分からない」
「それでいい」
レオンは答えた。
「決めるまで守る」
レイモンは手を洗い、地図の前へ来た。
「お前の勝利は?」
レオンへ尋ねる。
「ない」
「分析しただけか」
「現実的な落としどころは見えた」
アデルは椅子を引いた。
「お聞きしましょう」
レオンはラファエルが拡大した北方領を指した。
「この土地は、そのまま持てない」
「勝った土地ですわよ」
「港湾国と北方旧領は、貿易へ依存している。海上を封鎖されれば、生産物を売れず、必要な物も入らない。港を取っても海を支配できない」
「陸から運べば?」
「道路と後背地が要る。さらに隣国を取り、その隣も取る。経済を維持するには、大陸全体を支配するところまで拡大しなければ採算が合わない」
「ナポレオンみたいな話だな」
レイモンが言った。
レオンは彼を見た。
「誰だ」
「知らない。口から出た」
アデルは気にせず先を促した。
「では、ラファエルの国境拡大は失敗?」
「短期では成功だ。土地を持つためではなく、交渉材料にするなら」
「返す?」
「一部を返す。北方旧領の独立を戻すか、自治を認める代わりに、包囲参加の停止と国境承認を取る。港湾国の休戦を恒久化し、海上封鎖を避ける」
「勝って取った土地を返せば、ロベルトは敗北と見なしますわ」
「だから恐怖政治を止めなければならない」
レオンは首都へ指を置いた。
「今の政府は、土地を返す決定をした者を裏切り者として処刑する。講和しても、交渉担当者が殺されるなら、他国は条約を信用しない」
「先に国内を統一する」
レイモンが言った。
「そうだ。ただし、ロベルトが作った軍事統一ではない」
「違いは?」
姉が尋ねる。
「今は、国外軍への恐怖だけで一つになっている」
レオンは各部隊を示す駒を中央へ集めた。
「アーセンが退けば、また互いを疑う。復活王朝兵の名簿も、地方軍の命令違反も残っている。恐怖政治は、戦場で一時止めただけだ」
レイモンは前日まで治療した負傷者を思い出した。
「中央軍の兵が、同じ部屋の王朝兵へ水を渡した」
「戦争が終われば?」
アデルが尋ねる。
「政治係は、王朝兵の名を既に書いている」
「助けた相手を、後で処刑する?」
「命令が来れば」
レイモンは自分の噛み傷を見た。
包帯の下で熱を持っている。
「今日、施療所から二人連れて行かれた」
アデルが顔を上げた。
「誰を」
「一人は中央軍の伍長。ジャンの通行証を先に認めた。もう一人は復活王朝から戻った兵。国外軍との戦闘中に王の歌を歌ったと」
「負傷者を?」
「歩けないから、担架で」
姉の匙が器へ落ちた。
小さな音だった。
「どこへ」
「政治係の拘束所」
「処刑?」
「まだ分からない」
レイモンは嘘をつかなかった。
「止めなかったの?」
姉が尋ねる。
「俺は医者ではない。死刑執行人だ」
「今は助ける方へ回ったと言った」
レイモンの顔が強張る。
アデルが口を挟もうとしたが、姉はレイモンだけを見ていた。
「助ける方なら、なぜ」
「止めれば、俺も拘束される」
「怖かった?」
レイモンは暫く黙った。
「そうだ」
姉は目を逸らさなかった。
「それなら分かる」
責めなかった。
許しもしなかった。
ただ、怖かったという答えだけを受け取った。
レイモンは椅子へ座った。
「次は止める」
アデルが彼を見る。
「一人で?」
「一人では無理だ」
「珍しく、正しく頼りますのね」
「褒めるな」
「褒めております」
レオンは首都からラファエルの帰路へ線を引いた。
「止めるべき相手は政治係ではない」
「ロベルト?」
アデルが尋ねる。
「ロベルトを止める」
姉が小さく息を呑んだ。
「殺すの?」
レオンは首を振った。
「殺せば、次の者が恐怖政治を続ける」
ラファエルと同じ結論だった。
「では、どうする」
「国内統一の功績を、ロベルトから奪う」
アデルが興味深そうに身を乗り出した。
「ジャンを使う?」
「利用すれば、ロベルトと同じだ」
「では本人へ選ばせる?」
「選べる状態にする」
レオンはジャンの通行証、ラファエルの講和条約、アーセンが残した各国の国境を並べた。
「ジャンの共同防衛は、違う旗を残したまま物資と道路だけを共有している。ラファエルは、勝利を政府へ渡して恐怖政治を終える材料を作った。アーセンは周辺国を残したため、講和相手がまだ存在する」
「全部使える」
アデルが言った。
「ロベルトだけが、全てを恐怖政治の勝利へ変えようとしている」
「だから先に止める」
レオンはラファエルの帰路へ指を置いた。
「ラファエルが首都へ着く前に」
レイモンが顔を上げる。
「処刑を止めるためか」
「ラファエルを救うだけではない」
「それでも救う?」
「本人が逃げないなら、勝手に連れ出せない」
アデルが微笑んだ。
「救出された方の意思を無視しない。よく学びましたわね」
「姉の話ではない」
「同じです」
レオンは否定しなかった。
「ラファエルが裁判へ出るなら、裁判を恐怖政治の処刑手続きではなく、戦争を終わらせる場所へ変える」
「どうやって」
レイモンが尋ねる。
「ラファエルの勝利を、ロベルト一人の功績にさせない。講和条件、北方の行政記録、兵士の証言、中央が同じ日に祝賀文と逮捕状を出した事実を公開する」
「公開すれば、印刷した者が処刑されますわ」
アデルが言った。
「だからジャンの共同防衛へ流す。中央だけでは止められない場所へ」
「南部から全国へ?」
「道路と食料が動くなら、紙も動く」
アデルは少し考えた。
「奇跡より地味ですわね」
「だから信じられる」
「奇跡を作った方へ、その言い方は失礼よ」
「同じことをもう一度すれば、今度は本当に国が壊れる」
「分かっております」
アデルは姉の空いた器を取った。
三分の一より多く食べていた。
「では、次は奇跡ではなく裁判を作りましょう」
レオンの顔が曇る。
「裁判は作るものではない」
レイモンが言った。
「今の裁判は、結論から作っている」
「なら、こちらは結論を作らない裁判にする」
アデルは器を盆へ置いた。
「難しい方を選ぶのがお好きですこと」
外から、新しい鐘が鳴った。
アーセン軍が中央街道から退いたという報せ。
ジャンが国外軍を止めたという勝利の鐘だった。
その直後、北方の講和成立を告げる鐘も重なった。
首都ではロベルトの指導を讃える演説が始まり、南部では聖女の末裔が国を守ったと叫ばれ、復活王朝は塔の奇跡を王家復活の証として兵を集め続けている。
四つの勝利が、四つの物語へ変わっていく。
誰も敗北を認めない。
だから誰も戦争を終わらせられない。
同じ頃、ラファエルは首都へ続く街道を六人の護衛と進んでいた。
途中の村で、北方勝利を祝う刊行物を受け取る。
見出しにはロベルトの名が大きく刷られ、ラファエルの名は小さかった。
その裏面には、軍を私物化した将軍を裁けという文章が載っている。
護衛の若い兵が紙を破ろうとした。
ラファエルが止めた。
「残せ」
「侮辱です」
「両方とも、政府が勝利と罪を同時に必要としている証拠だ」
前方から、中央政府の騎兵が現れた。十人。その後ろに囚人護送用の馬車が続く。
ラファエルの護衛たちが剣の柄にかける手が、怒りで微かに震えた。
中央の騎兵隊長は馬を止め、冷酷に逮捕状を開いた。
「ラファエル。政府命令により、逃亡の嫌疑でここから身柄を拘束します」
「出頭を一日前倒しにするほど、中央政府は勝利の責任(首)を急いでいるわけだ。よろしい、武器を。……僅か六人の逃亡を恐れる兵士たちに、わざわざ無駄な血を流させる必要はない」
ラファエルのすべてを見切った呆れと皮肉の一撃が、隊長の宣告を完全に黙らせた。護衛たちは悔しげに唇を噛みながら剣から手を離した。
「軍を連れなかった意味がなくなる」
ラファエルは剣を外し、騎兵隊長へ渡した。
「手枷は」
隊長が尋ねる。
「必要なら」
護衛の一人が声を荒らげた。
「必要なわけがない!」
ラファエルが振り返る。
「戻れ」
「できません」
「北方へ戻れ。参謀長へ、講和条約を守らせろ」
「あなたを置いて?」
「護衛の任務は終わった」
若い兵の目が赤くなった。
「勝ったのに」
ラファエルは何も答えなかった。
勝ったから拘束される。
勝利を政府へ渡したから、本人だけが不要になる。
隊長が手枷を出した。
ラファエルは両手を前へ出した。
鉄が閉じる。
「後ろではなく?」
「逃げにくいだけで十分です」
騎兵隊長の声には、僅かな躊躇があった。
彼も北方勝利を祝う刊行物を読んでいる。
目の前の将軍を英雄と呼ぶ紙と、反逆者と呼ぶ紙の両方を持っている。
「馬車へ」
ラファエルは囚人用の馬車へ乗った。
扉が閉じる。
護衛たちは道端へ残された。
馬車が動き始めた時、若い兵が叫んだ。
「必ず迎えに行きます!」
ラファエルは格子窓から顔を出さなかった。
代わりに、手枷の掛かった手で壁を一度叩いた。
戻れという合図だった。
首都の門では、北方勝利を祝う群衆が待っていた。
ラファエルが到着するという知らせを聞き、英雄を見ようと集まっている。
門の外側では歓声。
門の内側には政治係と拘束所の兵。
囚人馬車が通ると、群衆は最初、捕虜の北方国王が乗っていると思った。
誰かが格子の奥にラファエルを見つけた。
歓声が止まる。
「なぜ馬車に?」
「将軍だ」
「逮捕されたのか?」
政治係が大声を上げた。
「政府命令へ違反した容疑者である! 裁判により真実は明らかになる!」
群衆は、すぐには罵らなかった。
すぐに助けようともしなかった。
北方勝利を作った将軍。
恐怖政治を終わらせる材料を持ち帰った男。
政府が同じ日に英雄と反逆者へした人物。
ラファエルは、その沈黙の中を拘束所へ運ばれた。
鐘だけが鳴り続けていた。
アーセンの国境維持。
ラファエルの国境拡大。
ジャンの南部防衛。
アデルの救出。
四つの勝利は、一つも戦争を終わらせなかった。
それでも、次に何を止めなければならないかだけは、初めて明確になった。
国外軍でも、復活王朝でも、南部の少年でもない。
勝利を受け取ってなお、恐怖を手放さない政府だった。




