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夫人革命逃亡記  作者: 伊阪証
修正版本編

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第六章前編:奇跡仕掛けの道化

第五十一話 奇跡を作る前に

「では、奇跡を作りましょう。」

アデルが冷徹な確信を込めてその決断を口にしてからも、狭い密室に会した三人は席を立とうとはしなかった。

薄暗い窓の彼方からは、無名の王を追悼する打鐘と、義義兵を緊急招集する金属音、そして防衛用の城門を閉鎖する地響きが、互いの残響を強引にかき消し合うように執拗に重なり合っている。 (「義勇兵」)

どの指示に従えば破滅を免れるか分からなくなった市民は石畳で歩調を速め、いずれの騒乱も自己の存在とは無関係であると思いたい者は、鎧戸の隙間を固く閉ざして息を潜めていた。

卓の中央には、最後に手に入れた石塔の見取り図が一枚、煤けた炎の光に照らされて広がっている。

その周囲を埋めるのは、防壁が国境警備に供されていた旧時代の古い設計図、輜重兵から内密に聴取した坂道の勾配と城門の防備体制、囚人が消費した洗濯物の推移、搬入された薪の容積や医薬品の明細、および護衛犬に給与された肉骨の記録であった。

これら多様な紙片はすべて幽閉塔の構造を輪郭線のように描き出していたが、最奥に閉じ込められた人物が息をしているかという真実までは教えてくれない。

アデルは揺れる燭台を地図の余白へと移行させ、背筋を伸ばして白金の髪を肩の背後へとしなやかに払った。

「最初に申し上げておきますけれど、石壁を破砕することが最終目的ではありませんわ。」

レオンは卓上に広げた古い砲撃関連の図面から視線を上げることなく、低い声で返した。

「そもそも要塞外壁の崩壊を提案したのはお前だ、アデル。」

「派手に騒動を引き起こすよう求めましたけれど、外壁全体を瓦礫の山にするとまでは申し上げておりませんわ。」

「野次馬の民衆にとっては、外壁の一部が崩落する現象に大した違いはない。」

「内部に幽閉されている当事者にとっては、生命を左右する決定的な相違となりますわよ。」

レイモンは粗末な白パンと投薬の明細書を手元へと引き寄せ、医師としての現実的な懸念を口にした。

「僅かな振動であっても、長期監禁された肉体には致命傷となり得る。長く起立していない脚は荷重を支えられずに破綻し、栄養失調の骨格は極めて脆くなっているため、転倒して頭部を強打すれば、一時的に意識を保てても数刻後には脳内出血で絶命するぞ。」

「ですから、本人が監禁されている空間は直接破壊しませんわ。」

「幽閉されている王の姉の正確な居室が未だに特定できていない。」

「居室の位置が不確定だからこそ、まだ直接突入を敢行する段階ではないのですわ。」

アデルは羊皮紙の見取り図の上へ、細い真鍮のピンを突き立てた。

描かれた三層の防御線のうち、最外壁の門から上り勾配を進み、第二の関門を抜けた地点で通路は極端に狭窄している。

最後の防塁のさらに内奥には、主塔、兵糧庫、廃墟と化した旧火薬庫が描かれていた。

レオンは主塔の西側に位置する壁面へ、煤で汚れた親指を添えた。

「外壁を爆破して突破するのであれば、この部位を狙うべきだ。」

「その特定の部位を選択した技術的な論拠は何かしら。」

「革命の混乱期より前に、外壁の補修がここだけで実施されているからだ。古い組石と新しい修復箇所の境界線が存在し、最小限の火薬量であっても外側へ向けて崩落させられる。」

レイモンが図面を覗き込むように身を乗り出した。

「しかし、爆破による衝撃波が主塔の深部まで伝播し、幽閉者に危害を加えるのではないか。」

「衝撃は伝わる。しかし、東側のより強固な区画に火薬を仕掛けるよりは、伝わる衝撃の強度が低い。」

「強度が低いという不確実な予測に基づいた記述では、患者を保護するための医療的判断を下すことはできない。」

「大地の揺動を一切伴わずに、重厚な石壁だけを崩壊させるような魔法のごとき手法など、この世に存在しない。」

彼らの噛み合わせる言葉が、室内の冷えた大気の中でこわばっていった。

アデルは燭台の芯を指先で微かに潰して炎を減らし、地図の上に伸びていた男たちの黒い影を収縮させた。

「お二人とも、破壊の技術論に没頭するのは控えてくださる? わたくしたちは、あの王の姉がどの監房へ幽閉されているかさえ、まだ掴んでおりませんのよ。」

レオンは指を西側の壁面からゆっくりと離した。

「この見取り図自体が三十年前の代物だ。革命政府によって改築されているなら、通路の閉鎖や階段の新設が随分と行われているはずだ。」

「逆に、通路や監房の構造が簡素化されているという推測はできませんの?」

「暖房用の石炭を節約するために不要な部屋を閉ざし、余剰となった石材や木扉を他の要塞へ転用した可能性は十分にある。」

レイモンは薪の納品伝票を親指で繰りながら、日付を一枚ずつ照合した。

「週ごとの納入数量が著しく不規則だ。」

「厳冬期に入ったことによる需要の増加ではないかしら。」

「単なる気温の低下であれば漸進的に増強されるはずだが、これは二週間前に突然倍加し、三日前から急激に半減している。」

「その幽閉されていた当事者が亡くなられたのかしら。」

アデルは躊躇なく、冷徹な疑問を卓上に投げかけた。

レイモンの運針のように的確な指先が、その言葉で一瞬制止した。

「もし死亡しているなら、医薬品の消費と洗濯の委託も同時に終息するはずだが、実際には薬剤の調達量だけが増大している。」

「では、監獄の管理者が姉の収容室を変更したのね。」

「火気を使用できない狭隘な牢獄へ移されたか、あるいは高熱を発して熱源を近づけられなくなったかだ。」

「高熱に苦しんでいる病患に対し、看守たちが暖房用の燃料を削るという愚行を働くのですの?」

「拉致監禁している看守どもが、適切な医療的保護の知識を備えているとは限らない。」

レイモンは柔らかいパンの給食履歴を示した記録紙を人差し指で叩いた。

兵卒用の硬質な麦飯に混じり、数日に一度の割合で、漂白された軟らかな高級パンがわずかに搬入されている。

その総量は、通常の人間が一日で消費する最低限度にも及ばない。

「咀嚼が困難な容態だ。口腔内に裂傷があるか、歯牙が脱落しているか、あるいは上体を起こして自力で噛むことすら不可能な状態を意味している。」

アデルは傍らに置かれた、番犬に与えられた骨の管理簿へと視線を転じた。

「その監視用の犬だけは、規則的に食事を与えられていますのね。」

「監視用の猛犬が存在するのは事実だ。削り取られた骨の寸法が毎回均一であり、これは厨房の残飯ではなく、特定の個体のために個別に調達されている。」

「その犬は、幽閉された姉を懐柔するための愛玩用として飼育されているのかしら。」

「犬の生存が、姉の生命維持を担保する呪術的な役割を果たしている可能性がある。」

レイモンの声調は平坦であったが、記録を把持する指の関節は白く強張っていた。

アデルはその肉体の微かな硬直を見逃さなかった。

「救出を成功させた後、その犬を現場に置き去りにする意図は、わたくしにはありませんわよ。」

「その意図は承知している。」

「いいえ、あなたは衰弱した人間を背負って逃走するだけで精一杯であり、動物は現場の混乱に乗じて放棄すれば足りると、その瞳で語っていますわ。」

「衰弱した人間と同時に、興奮した大型犬まで担ぐ余裕は私には存在しない。」

「ですから、動物を運送するための専用の籠をあらかじめ用意しますの。」

「不慣れな者が触れれば、犬は激しく吠え立てて守備隊へ急を告げるぞ。」

「処刑人であるあなたが力ずくで抱擁すれば、即座に犬が懐柔されて沈黙するとでも思っていますの?」

「そのような都合の良い結果は想定していない。」

「では、その犬が日常的に触れている匂いを染み込ませた布が、防音のために必要不可欠ですわね。」

アデルはインクを吸わせたばかりの羽根ペンを手に取り、新しい紙面へ必要な物資を次々と書き留めていった。

番犬を収容する蓋のない網籠、姉の私物から回収した寝具の布地、厳寒を凌ぐための毛織の毛布、清水、流動性の高い糧食、身体の輪郭を覆い隠す簡素な外套、頭部を隠蔽する頭巾、および足の寸法に依存せず装着可能な柔軟な短靴。

レオンはその調達目録を覗き込み、片眉を動かした。

「救出対象である王の姉の正確な衣服サイズは不明だろう。」

「寸法の確実性に欠けますので、想定される三パターンの寸法の衣服をすべて携行しますわ。」

「必要のない衣服を携行すれば、無駄に荷物の積載量が増加する。」

「救い出した貴婦人を、冷たい地面へ素足で降ろすような非人道的な真似はいたしませんわ。」

レイモンが対話の間に口を挟んだ。

「そもそも、救出した彼女を自力で歩かせる前提で計画を立ててはならない。」

「長期の拘束で運動能力を失っている以上、立たせることすら危険であり、無理に行動させれば途上で破綻する。」

「なら、彼女を背負うことになるあなたの外套も、緩衝材として厚手のものへ新調しなければなりませんわね、剥き出しの骨が干渉すれば痛みを伴うでしょう?」

レイモンは反論を喉の奥へ飲み込み、沈黙を選択した。

アデルは作成したリストの下部へ、さらに細い行を追記した。

「搬出後の避難先も、単一の拠点では不足していますわ。」

レオンがアデルの提案に対して疑問を呈した。

「複数の避難先を同時に確保する意図は何だ。」

「復活王朝派に奪還されず、革命政府の査問を回避し、かつ国外の勢力にも察知されない安息地が、最初から無条件で安全であるはずがないでしょう?」

「具体的に、どのような機能を持った避難場所を確保しているのだ。」

レオンがアデルの提案に対して疑問を呈した。

「それら三箇所の避難場所の全ての座標を把握しているのは誰だ。」

「わたくし唯一人ですわ。」

レイモンは視線を卓上からアデルの顔へと真っ向から向けた。

「同行する協力者である私に対してすら、避難場所の座標を秘匿するのか。」

「初期の応急手当を施す空間については共有しますわ、その後の退避ルートは必要性が生じてから提示いたします。」

「もし作戦の途中で発案者であるアデルが新政府に捕縛されれば、避難先を失って計画は完全に座礁するぞ。」

「捕縛されない手段を講じるのが前提ですわ。」

「論理的な回答になっていない。」

「あなたが先に憲兵へ確保される可能性も、確率としては同様ですわ。」

対立する二者の眼光が、燭台の微小な炎を挟んで静かに激突した。

レオンは卓上の図面の余白へ、新たな路線の描かれた紙片を滑り込ませた。

レオン「避難場所に関する議論は後回しにしろ。要塞の内部からどのようにして標的を連れ出すのだ。」

「突入の前に、中にいる番兵の方々が自主的に要塞の外部へ退出すればよろしいのよ。」

「要塞を警備している守備隊の全兵力を外部へ移動させるというのか。」

「すべての目を排除する必要はありません、見張る視線の焦点を別の方角へ誘導できれぼ十分ですわ。」 (「十分ですわ」)

アデルは市内の鐘の時刻表を記した一覧表を広げた。

無名の王を弔う打鐘は夜明け、正午、そして日没の計三度。

復活王朝の読み上げ役はその直後に蠢き始め、革命政府は群衆が密集する広場へ監視官を派遣する。

軍の召集の合図は非定時だが、城門の閉鎖と物資搬送車の運行停止が重複すれば、石塔の守備隊からも派遣要員が引き抜かれる可能性が濃厚であった。

「現在の市内においては、一箇所の打鐘が叩かれれば、別の鐘楼も呼応するように連打されます。亡霊が宣告されるや否や政府が兵を集め、軍勢が動けば王朝の残党が義挙を叫ぶ。誰もが主導権を他者へ譲ろうとはいたしません。」

「その警備兵を誘導するための騒乱を、要塞の至近の場所で発生させるつもりか。」

レオンが厳しい声を上げてアデルの提案を質した。

「近接した地点では遅すぎますわ。遠方から順番に連鎖を起こしますの。」

アデルは地図の南端にある集積市場へと針を刺した。

「手始めに広場。王の姉が移送されたという内容の張り紙を散布します。革命派は配った者を捕縛しようと、即座に兵力を動員するでしょう。」

さらに東方に位置する河岸の石橋へ、針の先端を移す。

「続いて、王党派の紋章を偽装した馬車を橋梁の途中で立ち往生させますわ。荷台は空洞で結構。ただ証拠が発見されたという風説のみで、復活王朝派は奪還のために強行軍を開始します。」

最後に、石塔の北側に広がる廃棄された貯蔵庫へ針を向けた。

「塔の付近では、火薬庫から煙幕を発生させます。実際に発火させる必要はなく、煙と音、そして石壁が崩落する轟響だけで効果は十分ですわ。」

レオンの額の筋肉が僅かに引き攣った。

「虚偽の車両に王党派の紋章を付着させれば、製造元から追及されるぞ。」

「所有者が当初から存在しなければ問題ありませんわ。」

「車輪の形状を検査すれば、どの職人の仕事か判別できる。」

「二つの異なる工房から、別々に買い求めますの。」

レオン「偽装用の馬車を牽引するための馬はどうするのだ。」

「中継地点において、用意した予備の馬と順次交換しますわ。」

レオン「馬車を操縦する御者の手配はどうするのだ。」

「誰一人として、疑惑の馬車を終着点まで操縦し続ける者はいませんわ。中継ごとに御者を交代させます。」

レオン「いつの段階から、この偽装工作の構想を温めていたのだ。」

「この都市からの脱出を計画した当初から、警備を撹乱するためのダミー車両は不可欠でしたもの。」

レオン「救出した対象を実際に乗せて逃走するための移動手段は、別に手配してあるのだな。」

レオンは息を低く吐き出し、口角を微かに引き攣らせた。

レイモンはアデルが卓上に書き並べた行動の順序へ視線を這わせた。

「仮に、発生した騒乱に対して塔の防衛部隊が一切反応を示さなかった場合、全体の計画が崩壊するのではないか。」

「その事態に陥ったならば、防衛部隊を動かすための別の誘因を提示すれば足りますわ。」

「具体的に、どのような引因を兵士たちへ提示するのだ。」 (「誘因を」)

「要塞の内部に内通者が潜伏しているという密告状を、外部の革命政府へ送付しますの。」

「塔の指揮官へ伝えるのではなく、あえて外部の革命政府の機関へ密告するのか。」

「外へ偽の情報を流せば、受領した側が勝手に猜疑心を膨らませて中を監視します、塔の兵士は姉の警備よりも、互いの裏切りを警戒し始めるでしょう。」

「その密告によって内通の猜疑を向けられた兵士たちは、確実に過酷な拷問の末に殺害されるぞ。」

レイモンの声音は暗く沈み、警告の意を孕んでいた。

アデルは文字を綴っていたペンの動きを止めた。

「ええ。」

「無実の者が犠牲になると分かっていながら、それでもその策略を遂行するのか。」

「使いませんわ。」

それは一切の躊躇を含まない即答であった。

レイモンは視線を鋭くし、彼女の真意を測ろうとした。

「あなたは今、作戦を成功させるための有効な解決策として、密告の手段を提示したばかりではないか。」

「使用可能な選択肢と、実際に執行する手段は別個の事象です、誰か一人を犠牲者に仕立て上げれば迅速でしょうけれど、あまりに安易な方法であるからこそ破棄しますわ。」

「では、仮に虚偽の騒乱に惑わされず、敵兵がそのまま塔に残留した場合はどうするのだ。」

「その残留した兵力と直接衝突する危険を避けるため、他の代案へとその場で計画を変更するまでですわ。」

「そのような土壇場での変更では、時間的な損失が大きすぎて追手に追いつかれるぞ。」

アデルは内通者と記載しかけた紙片を指先で引き裂き、震える燭台の炎へと静かに投入した。

火熱は紙の端から la い上がるように拡大し、文字列だけを黒い灰へと変えていく。 (「這い上がる」)

レオンは机に残った紙を見た。

「全員を救う計画は失敗する」

「全員を救うとは言っておりません」

「では、どこで切る」

「救出に必要のない死者を増やさないところで」

「曖昧だ」

「人間を数で切る方から見れば、そうでしょうね」

レオンの顔から表情が消えた。

部屋の外で床板が鳴った。三人は同時に口を閉じる。扉を二度、間を置いて一度叩く音がした。

アデルが紙を裏返す。

「入りなさい」

入ってきたのは、袖口へ煤を付けた若い職人だった。片手に細い鉄棒、もう片方に布で包んだ小さな木片を持っている。職人はレオンを見て一瞬立ち止まったが、何も聞かず、鉄棒を机へ置いた。

「塔の荷運び人が使っていた鍵です」

「本物?」

アデルが尋ねる。

「本物は戻しました。これは蝋へ押した型から削ったものです。外門には合いますが、中は分かりません」

レオンが鉄棒を取り、歯の形を見た。

「新しい」

「三月前に替えたそうです」

「なぜ?」

「前の鍵を持っていた兵が処刑されました」

レイモンが尋ねた。

「罪状は?」

「王党派への内通です」

「本当に?」

職人は目を逸らした。

「処刑された後、その兵が預かっていた薪の帳面が消えました。今は別の隊が薪を運んでいます」

アデルとレイモンは顔を見合わせた。

「薪が急に増え、その後減った時期と同じですわね」

アデルが言った。

レイモンは頷いた。

「部屋を移しただけではない。人も替わっている」

職人は布包みを開いた。中には、黒く焦げた小さな木片が入っていた。

「荷運び人が、塔の裏で拾ったそうです。古い昇降機の滑車です。火で焼けたのではなく、擦れて黒くなっています」

レオンは木片の丸みを指でなぞった。

「まだ使っている」

「何を上げるために?」

アデルが尋ねた。

「荷だ。主塔の裏には、昔の砲弾を上げる縦穴がある。見取り図では閉じられているが、滑車を使っているなら完全には塞がれていない」

レイモンが主塔の西側を指した。

「部屋まで繋がるのか」

「砲弾庫までは。そこから階段が残っていれば、主塔の下へ出られる」

「人を下ろせる?」

「健康な人間なら」

レオンはレイモンを見た。

「背負っては無理だ」

レイモンは鉄棒を取り上げた。

「なら、担架を吊るす」

「縦穴の幅が分からない」

「測る」

「どうやって」

「滑車を替える職人として入る」

アデルが即座に首を振った。

「あなたは顔を知られ過ぎています」

「塔の兵全員が知っているとは限らない」

「処刑人の顔を知らない方でも、その腕は見ます。職人の手ではありませんもの」

レイモンは自分の手へ目を落とした。剣と斧、縄、処刑台の金具、治療道具を扱ってきた手だった。傷の位置も指の太さも、木工職人のものとは違う。

職人が恐る恐る口を開いた。

「私なら入れます」

アデルは彼を見た。

「駄目です」

「まだ何も」

「あなたは鍵を作った。塔へ入り、戻らなければ、鍵の出所まで辿られます」

「でも、誰かが測らないと」

「測る方と、鍵を作る方は分けます」

「他に入れる職人がいるんですか」

「これから探します」

職人は悔しそうに唇を噛んだ。

アデルは鉄棒を彼の前へ戻した。

「あなたの仕事が足りないと言っているのではありません。十分に役立ったから、これ以上使いませんの」

「役に立つなら、最後まで」

「最後まで使われた方は、最後に死ぬのよ」

職人の顔が強張った。

アデルは声を和らげなかった。

「鍵を戻し、蝋の型も潰しなさい。今夜はいつもの工房へ帰る。塔を見ない。鐘が鳴っても外へ出ない。助かった方の顔を見ようとも思わないこと。それが次のお仕事です」

職人は暫く動かなかったが、やがて鉄棒を布へ包み直した。

「本当に、助けられるんですか」

「その質問へ答えられるなら、もう準備などしておりませんわ」

アデルは職人の煤けた袖口を指で示した。

「ただし、助けるつもりでおります。だからあなたを先に死なせません」

職人は小さく頭を下げ、部屋を出た。

扉が閉まると、レオンは縦穴の位置へ線を引いた。

「使える可能性はある」

「本人を誰にも見せず出せますわね」

アデルが言った。

「出せればな」

「またその言い方」

「奇跡は、成功してから奇跡になる」

「失敗すれば?」

「壊れた塔と死体が残る」

レイモンの手が地図の上で止まった。

レオンは言葉を引っ込めなかった。

「だから調べる」

アデルはレイモンを見た。彼は怒鳴らなかった。木片と薬の記録を見比べ、呼吸を整えている。

「縦穴から出すなら、身体を横にできる担架が要る」

レイモンが言った。

「縄で身体を締めない。頭と首を固定し、犬は別の籠へ入れる。途中で目を覚まして暴れた場合のため、布を噛ませる」

「薬で眠らせるのは?」

アデルが尋ねた。

「状態を見ずに使えない。弱り過ぎていれば、そのまま呼吸が止まる」

「では、声を出されたら?」

「声を出せるなら、まだいい」

レイモンは薬の紙を畳んだ。

「問題は、こちらを理解できるかだ。救出だと分からず抵抗するかもしれない。犬を奪われると思えば、噛みつく。弟が来たと思い込むかもしれない」

「弟は死んでおります」

「本人が知っているとは限らない」

部屋の中が静かになった。

無名の王の姉は、革命政府には監禁すべき王族であり、復活王朝には掲げるべき血統だった。だが、塔の中で何を知り、何を忘れ、誰を待っているのかは、誰にも分からない。

アデルは衣服の紙から、目立つ外套を一つ消した。

「王族らしい服は用意しません」

「なぜ?」

レオンが尋ねた。

「本人が王族として扱われることを望むか分かりませんもの。簡素な服、暖かい服、顔を隠せる服だけにします」

「復活王朝へ渡さないためか」

「本人へ選ばせるためよ」

レイモンがアデルを見た。

「話せる状態まで戻らなければ?」

「戻るまで誰にも渡しません」

「一生戻らなければ?」

「一生、誰かの旗にしません」

アデルは筆を置いた。

「助けた人間を所有する権利など、助けた側にはありませんわ」

レオンは何も言わなかった。

窓の外で、馬の蹄が石畳を叩いた。一頭ではない。速い馬が二頭、通りを抜け、建物の前で止まる。ほどなくして階段を上がる足音が聞こえた。

今度は扉が一度だけ叩かれた。

レオンが紙束を伏せる。

入ってきた使者は外套から雨水を落とし、胸元から二通の報告を出した。一通は南部、もう一通は国境から届いたものだった。

「南では、ジャンの兵が渡河点をさらに二つ閉鎖しました。中央の許可は取っておりません。復活王朝の一隊が通行を求め、揉めております」

アデルは報告を受け取った。

「戦闘は?」

「まだです」

「まだ、という顔ですわね」

「双方、援軍を呼んでおります」

レオンが国境からの紙を開いた。

「アーセンは?」

「越境しておりません。ですが、宣戦した国々へ使者を送り、兵を国境から動かすなと伝えております」

「攻めるな、ではなく?」

「国境から動かすな、と」

使者は地図へ近づき、複数の地点を指した。

「東の国は川を越える準備をしていましたが、止まりました。北東の国も砦を出た部隊を戻しております。西側では革命軍が一度押し返しましたが、アーセンの兵が国境線まで押し戻し、そこで追撃を止めました」

アデルはレオンを見た。

「侵略者が、他国の進軍を止めているの?」

「国境を拡大させていない」

レオンは地図へ線を引かなかった。既に描かれている国境を、指で一つずつなぞった。

「復活王朝が勝つと信じていない」

使者が息を呑んだ。

アデルは椅子へ深く腰掛けた。

「負けた時のために、周りの国を残している?」

「一国でも多く残れば、革命側は戦後も囲まれる。勝ち過ぎた国が土地を奪えば、国境が変わる。蜂起、築城、補給、守備が必要になり、反転攻勢を受ければ維持できない」

「国境を守っているのではなく、包囲を守っているのね」

「同じことだ」

レオンは既存の線から指を離さなかった。

「国境は維持するか、拡大するかしかない。アーセンは維持を選んだ」

レイモンは南部の報告を見た。

「ジャンは?」

「まだ分からない」

レオンが答えた。

「道路を閉じるだけなら維持だ。だが、敵国が南から入れば、あの少年は待たない」

「ラファエルは?」

アデルが尋ねる。

レオンは北方の小国へ視線を移した。

「包囲を壊すなら、拡大するしかない」

三人の間に、塔の地図と大陸の地図が並んだ。

一方では、誰にも見せず一人の女性と一匹の犬を塔から出すため、縄の太さと衣服の寸法を決めている。もう一方では、復活王朝が勝つか負けるかも定まらないうちから、国境を残す者と広げる者が動き始めていた。

アデルは奇跡の準備を書いた紙を、塔の地図へ重ねた。

「実行日は、まだ決めません」

レイモンが頷いた。

「姉の部屋と身体の状態を確かめる」

レオンは国境の報告を自分の側へ寄せた。

「その前に、軍がどの道を使うかも見る。塔から出られても、逃げ道が戦場になれば終わりだ」

「では、明日までに縦穴を測る方を見つけます。衣服を三組、担架を二つ、犬の籠を一つ。救出先には食事ではなく、まず湯と寝床を用意する。鐘を鳴らす者には、何のためか教えない。荷車は二台では足りませんわね」

「何台だ」

「追わせる車が三台、本人を運ぶ車が一台。途中で乗り換える車が二台」

「六台」

「奇跡は意外と場所を取るのよ」

レイモンが小さく息を吐いた。

「本人より荷物が多い」

「本人を荷物のように運ばないための荷物ですわ」

レオンは国境の線を見たまま言った。

「時間は多くない」

「分かっております」

「復活王朝がさらに動けば、アーセンも越境する」

「それでも急いで失敗はしません」

アデルは最後に、紙の最上部へ一行だけ書き加えた。

本人を見せない。

塔から連れ出す方法でも、革命政府から奪う方法でも、復活王朝へ渡さない方法でもなかった。救出された瞬間から再び王族や聖女や旗へ変えられないための、最も重要な条件だった。

窓の外で、また鐘が鳴った。

誰かの死を告げる鐘か、軍を集める鐘かは分からない。三人は今度も窓を閉めなかった。音の数、間隔、鳴った方角を聞き取り、それぞれの紙へ記した。

奇跡を起こす前に、現実がどちらへ動くかを知らなければならなかった。

その夜、アーセンの軍はまだ国境を越えなかった。

代わりに、国境を越えようとしていた全ての国へ、同じ命令が届いていた。

現在の線を動かすな。

夜明け前、国境へ続く街道を三台の馬車が逆方向へ走っていた。

一台目には、川向こうの村から運び出された穀物が積まれている。二台目には負傷兵が横たわり、三台目には昨日まで占領地の役所へ掲げられていた旗が、泥を被ったまま放り込まれていた。

どの馬車も戦利品を持ち帰っているように見えた。

だが、荷台の兵士たちは誰一人として勝った顔をしていなかった。

街道の先では、川を越えた部隊が撤退を始めている。前日の夕刻、東方の小国軍は革命軍の守備隊を破り、橋の向こう側にある三つの村を占領していた。川は長く国境として使われてきた。乾季には歩いて渡れるほど浅くなる場所もあるが、春には雪解け水が流れ込み、渡河できる地点は橋と二つの浅瀬に限られる。

その川を越えたことは、兵士たちにとって勝利だった。

夜のうちに届いた命令は、その勝利をなかったことにした。

現在の線まで戻れ。

橋を渡り、川を国境として維持せよ。

村を接収するな。

徴税するな。

役人を替えるな。

アーセンの命令書には、それだけが記されていた。

東方軍の若い指揮官は、川岸へ建てられた仮設天幕の前で命令書を握り潰しかけていた。

「昨日、ようやく奪ったんだぞ」

向かいに立つアーセン軍の伝令は、答えなかった。

「向こうの砦から撃たれ続けた。橋の上だけで三十人死んだ。俺の弟もだ。それを、朝になったから返せと言うのか?」

「命令は、川まで戻れというものです」

「読めば分かる!」

若い指揮官は命令書を伝令の胸へ押し付けた。

「理由を聞いている! あの男は後ろの天幕で地図を見ているだけだろう。橋を渡ったのは俺たちだ。村を取ったのも、敵を追い出したのも、死んだのも俺たちだ!」

伝令は押し返された紙を拾った。

「直接お尋ねください」

若い指揮官は伝令の顔を睨み、川沿いの街道を歩き始めた。

川向こうでは最後の部隊が村を出ていた。革命軍の旗は既に降ろされているが、代わりの旗も掲げられていない。占領していた東方軍が退き、革命側の兵もまだ戻っていないため、三つの村は一時的にどちらの軍にも守られていなかった。

住民たちは家の戸口へ立ち、撤退する兵士を見ていた。

別れを惜しむ者はいない。追い払おうとする者もいない。

どの軍が残っても食料を取られ、息子を兵へ連れて行かれ、敵に協力したと次の軍から責められる。だから人々は、兵士の顔ではなく荷車の車輪を見ていた。畑を踏んだか、井戸を壊したか、納屋から何を持ち出したか。それだけが、軍隊を見分ける基準になっている。

一人の老人が、川を渡ろうとする穀物馬車の前へ立った。

御者が手綱を引く。

「退け」

老人は荷台を指差した。

「それは、うちの村の麦だ」

「革命軍の倉庫にあった」

「村から集めた麦だ」

「軍のものだ」

「どこの軍のものだ」

御者は答えられなかった。

東方軍が倉庫を奪った時、革命軍の所有物として接収した。だが倉庫へ入っていた麦は、その数日前に村から徴発されたものだった。東方軍が持ち帰れば戦利品となり、革命軍が戻れば再び軍用穀物になる。どちらにせよ、村へは返らない。

御者は老人を避けて進もうとした。

後ろから馬蹄が近づき、列が止まった。

アーセンは馬から降りず、荷台と老人を見比べた。

「その麦はどこへ運ぶ」

御者は背筋を伸ばした。

「東方軍の補給所です」

「命令書を」

御者は胸元から紙を出した。アーセンは受け取り、発行者の名だけを確認した。

「この命令は昨日のものだ」

「はい」

「昨日まで、ここは占領地だった」

「はい」

「今は違う」

アーセンは紙を折り、御者へ返した。

「麦を戻せ」

御者の目が動いた。

「ですが、軍の食料が」

「東方軍の補給は川の手前で行う。越境して持ち帰った食料を前提に兵を置けば、占領を続けなければ軍を維持できなくなる」

「既に積みました」

「下ろせ」

御者は若い指揮官の方を見た。

指揮官はアーセンへ詰め寄った。

「麦まで返すのか」

「返す」

「敵が使うぞ」

「村人が使う」

「革命軍が戻れば奪う」

「その時は革命軍が奪ったことになる。こちらが持ち去る理由にはならない」

「戦争だぞ」

「知っている」

アーセンは馬から降りた。

長い外套の裾が、川辺の泥へ触れた。彼は気にせず、老人の前まで歩いた。

「倉庫の鍵は?」

老人は一歩下がった。

「村長が持っていた」

「村長は」

「昨日、逃げた」

「革命軍と?」

「分からん。兵が来る前に消えた」

アーセンは周囲の家を見た。

「代わりに管理できる者はいるか」

老人は答えなかった。誰かを指名すれば、その者が次の軍から責任を問われる。住民たちは皆、互いを見ないようにしていた。

「では、倉庫の前へ積め」

アーセンは御者へ言った。

「扉を壊すな。鍵が見つかるまで、村の者が見張れ」

若い指揮官が腕を掴んだ。

「勝手に決めるな」

アーセンは掴まれた手を見下ろした。

「離せ」

「俺たちの兵が死んだ」

「だから何だ」

指揮官の顔が歪んだ。

「何だと?」

「死者を理由に、さらに守れない土地を取るのか」

「守れる」

「何人置く」

「百人だ」

「三つの村へ?」

「橋を押さえればいい」

「川向こうから革命軍が来る。南の林から地方軍が出る。村で蜂起が起きれば、家ごとに兵を置く必要がある。橋を守る兵、村を見張る兵、補給を運ぶ兵、その補給路を守る兵。百人では足りない」

「なら二百置く」

「冬までに何人になる」

指揮官は答えなかった。

アーセンは老人の家の脇に積まれた薪を指した。

「この土地では、冬に川が細くなる。橋だけを守っても浅瀬を渡られる。春には逆に水が増え、橋を落とされればこちらの兵だけが川向こうへ残る。新しく砦を築くなら石を運び、兵舎を建て、井戸を掘り、道を直し、守備隊へ給金を払い続ける必要がある」

「三つの村のために、それくらい」

「三つの村ではない」

アーセンは川上を指した。

「ここを取れば、北の国も川向こうの土地を要求する。西の国も昨日奪った丘を返さなくなる。国境が川と山から外れ、村と畑の間へ移る。その全てへ砦が要る」

「勝って広げればいい」

「どこまで?」

「敵が降伏するまでだ」

「復活王朝が勝つと思っているのか」

若い指揮官は言葉を失った。

周囲にいた兵士たちも、荷を下ろす手を止めた。

復活王朝の出陣は、宣戦した国々にとって革命政府を倒す好機だと伝えられていた。王党派が国内から立ち上がり、国外軍が周囲から圧力を掛ければ、革命政府は長く持たない。少なくとも、兵士たちはそう聞かされている。

アーセンだけが、その勝利を前提にしていなかった。

「奴らは準備を終えていない」

アーセンは言った。

「兵を集める前に旗を上げた。補給路を確保する前に進軍し、地方の王党派が同時に動くと信じている。勝つ可能性はある。負ける可能性も同じだけある」

「だから土地を取るんだろう。負けても、こちらが」

「復活王朝が敗れれば、革命軍は国内の敵を片付けた後、外へ兵を向ける」

アーセンは川へ視線を戻した。

「その時、この国境が川のままなら、守る場所は橋と浅瀬で済む。川向こうへ三つの村を持てば、守る場所は村、道、畑、林、全てになる。反転攻勢を受ければ、昨日の勝利で得た土地を守るために本来の国境まで兵を下げられなくなる」

若い指揮官は川向こうの村を見た。

弟が死んだ橋がある。

死体は既に運ばれたが、欄干には血が残っていた。

「では、弟は何のために死んだ」

アーセンは慰めなかった。

「橋を渡るためだ」

「渡った後、戻るためか?」

「そうだ」

指揮官の拳が震えた。

アーセンはその拳を見た。

「死んだ者へ土地を与えても、生き返らない。死を意味のあるものにするため、守れない土地を取り続ければ、次の兵も同じ理由で死ぬ」

「それで納得しろと?」

「納得する必要はない。戻れ」

若い指揮官はアーセンを殴らなかった。

殴れば処罰されるからではない。アーセンの後ろに大軍がいたからでもない。

川向こうの村を守るため、冬までに何人必要になるか、自分でも答えられなかったからだった。

彼は命令書を拾い、背を向けた。

「麦を下ろせ!」

怒鳴り声が川岸へ響いた。

「全てだ! 袋を破るな!」

兵士たちは再び動き始めた。

老人はアーセンへ礼を言わなかった。

アーセンも求めなかった。

この村が次に革命軍へ麦を奪われる可能性は消えていない。村人が東方軍へ感謝する理由も、アーセンを信頼する理由もない。ただ、今日持ち去られるはずだった麦が残った。それだけだった。

昼前、アーセンは川を離れ、国境沿いに設けられた司令所へ戻った。

司令所は元々、関税を調べる小さな役所だった。机の上には大陸全体の地図を広げる場所がなく、壁から扉まで、複数の地図が重ねて貼られている。

赤い糸は革命政府の軍。

白い糸は復活王朝。

黒い糸はアーセン自身の軍。

周囲を囲む各国の軍は、それぞれ異なる色の糸で示されていた。

色は多かったが、国境線は一本も描き直されていない。

参謀が二通の報告を持って入った。

「北東国の砦が持ちません」

「何日だ」

「二日。革命軍が砦の正面へ集まり、南の山道から別働隊が入っています。北東国軍は砦を捨て、第二防衛線へ下がる準備をしています」

アーセンは北東部の地図を見た。

砦は山道の出口にある。そこを失えば、革命軍は平地へ出る。第二防衛線と呼ばれている場所には、自然の障害がない。町と町の間へ急いで柵を立てただけの線だった。

「砦へ二個大隊を送る」

参謀は顔を上げた。

「我が軍を?」

「そうだ」

「北上する兵が減ります」

「砦が落ちれば、北東国が戦線から消える」

「まだ首都があります」

「平地へ出られれば、首都まで止める場所がない」

アーセンは山道の出口を指で押さえた。

「国が一つ消えれば、その国が守っていた国境をこちらが引き受けることになる」

「北東国は小国です。軍も少ない」

「だから残す」

「弱い国を?」

「弱い国でも、国境と砦と兵は持っている。消せば全てこちらの負担になる」

参謀は別の報告を開いた。

「西方国は丘陵地を占領したまま動きません。撤退命令を拒んでいます」

「理由は」

「古くは自国領だった、と」

「いつまで」

「七十年前です」

「現在の国境は」

「丘の手前です」

「戻せ」

「王弟が自ら指揮しています。彼は戦後の講和で丘陵地を要求すると」

「戦後まで守れるのか」

「ワインの産地で、税収も」

「丘の向こう側に川はあるか」

「ありません」

「山は」

「さらに六十里先です」

アーセンは参謀を見た。

「六十里の平地を、新しい国境として守るつもりか」

「王弟は、革命政府が崩壊すれば問題ないと」

「復活王朝が勝つと思っている」

「はい」

「信じるのは自由だ。国境を動かす理由にはならない」

アーセンは机へ座り、短い命令書を二枚書いた。

北東国の砦へ援軍を送る。

西方国軍は現在の国境まで撤退せよ。

一方は失いかけた土地を元へ戻す命令。

もう一方は得た土地を返させる命令。

参謀は二枚を並べた。

「同盟国から見れば、我々が勝敗を均しているように見えます」

「均している」

「革命政府を倒すために来たのでは?」

「倒す」

「なら、勝てる国には進ませた方が」

「国境を広げれば、復活王朝が敗れた時に全て崩れる」

アーセンは黒い糸を一本取り、地図の中央へ伸ばした。

「各国には国境を守らせる。革命側は周囲全てへ兵を残さなければならない。我々だけが内側へ進む」

「他国の領土拡大を止め、自軍だけが侵攻するのですか」

「我々も領土は取らない」

「越境はします」

「軍が通ることと、国境を動かすことは別だ」

アーセンは革命政府側の街道を指した。

「都市を占領しても役所は残す。税制を変えない。土地を配らない。国境標も動かさない。軍が去れば元へ戻る形にしておく」

「一時占領ですか」

「戦争は終わる。国境は残る」

参謀は地図を見たまま黙った。

「勝った場合は?」

「復活王朝に国内を統治させる」

「彼らが国境拡大を求めれば」

「認めない」

「援軍を出した国々も、土地を要求します」

「土地以外で払わせる」

「賠償金、通商権、港湾利用ですか」

「どれも国境を動かさない」

参謀はようやく理解した。

アーセンは復活王朝を救うために来たのではない。

革命政府を滅ぼすためだけでもない。

戦争の後に、現在の国家が一つでも多く残るようにしている。

復活王朝が勝てば、周辺国は国境を保ったまま新政府を囲む。

復活王朝が負けても、周辺国は国境を保ったまま革命政府を囲み続ける。

どちらが勝っても包囲は残る。

勝者だけが変わり、地図の線は変わらない。

「北東国への援軍は、我が軍の旗を出しますか」

参謀が尋ねた。

「出す」

「革命政府は、我々が越境したと宣伝します」

「まだ国境は越えない」

「砦は北東国領です」

「だから北東国から正式な要請を取れ」

「既にあります」

「なら問題ない」

「西方国が撤退を拒んだ場合は?」

「補給を止める」

「同盟国です」

「国境を動かすなら同盟ではない」

司令所の外で馬が止まった。

復活王朝の紋章を付けた使者が、泥だらけの外套で入ってきた。使者は息を整えるより先に、封をした書状を差し出した。

「王朝評議会からの要請です」

アーセンは封を切った。

書状には、復活王朝軍が中央へ向けて前進を開始したこと、各地の王党派が蜂起する見込みであること、国外軍も時機を逃さず全面侵攻へ移るべきことが書かれていた。

最後には、新しい王国が成立した後、アーセンと各国へ相応の領地を与えるという約束まで添えられている。

アーセンは書状を机へ置いた。

「評議会は今どこにいる」

使者は少し誇らしげに答えた。

「国境を越え、旧王領へ入りました」

「補給拠点は」

「進軍に合わせて各地の王党派が用意します」

「用意された場所は」

「現在、確認中です」

「兵数は」

「合流を続けています」

「現在の兵数だ」

使者は言葉を濁した。

「正確な数は、毎日増えておりますので」

「減ってもいる」

「何を」

「地元へ戻った部隊がある」

使者の目が動いた。

「一部です」

「エッセン社へ向かっていた部隊だ」

「故郷が戦場になったため、家族を守りに戻っただけです。鎮まれば再び」

「戻らない」

「王への忠誠を疑うのですか」

「王を見たこともない兵が、故郷より王を選ぶと思っているのか」

使者の頬が赤くなった。

「無名の王の死は、全ての者を」

「死後に王と呼んだ男のため、今いる家族を捨てる者ばかりではない」

「それでも、王朝の旗は広がっています」

「広がることと、勝つことは違う」

アーセンは書状を使者へ返した。

「全面侵攻はしない」

「では、何のために軍を集めたのです」

「侵攻はする」

「今すぐ中央へ向かってください。革命政府は内側から崩れています。ここで全軍が」

「各国軍は国境を維持する」

「維持?」

「越境を許さない。奪った土地は返させる。崩れそうな国には援軍を送る」

使者は理解できない顔をした。

「王朝のために戦う国々へ、勝つなと命じるのですか」

「国境を越えて勝つなと言っている」

「革命政府を包囲したまま、攻めないと?」

「包囲したまま、私が攻める」

使者はアーセンの地図を見た。

黒い糸だけが国境から中央へ伸びている。

周辺国の色は、全て現在の線で止まっていた。

「王朝軍との合流は?」

「しない」

「なぜです」

「勝つ準備がない軍へ補給を預けない」

「我々を見捨てるのですか」

「見捨ててはいない。周囲の国を残している」

「王朝が勝てば、その国々も従います」

「負けた時の話をしている」

使者は机を叩いた。

「負けません!」

司令所の兵が一斉に振り向いた。

アーセンだけは声を上げなかった。

「負けない軍は、負けた場合の準備をする」

使者の手が机から離れた。

「王朝評議会へ伝えろ。現在の補給線を確保し、突出した部隊を戻せ。地元へ帰った兵を裏切り者として処罰するな。各地の蜂起が同時に起こるという前提を捨てろ」

「命令なさるおつもりですか」

「忠告だ」

「従わなければ?」

「私は国境を残す。王朝が残るかは、王朝が決める」

使者は書状を掴み、礼もせず出ていった。

参謀が扉の閉まる音を聞いた。

「彼らは、我々が全面支援へ入ったと各地へ触れ回っています」

「訂正する必要はない」

「誤解させたままに?」

「革命政府も誤解する」

アーセンは復活王朝を示す白い糸を見た。

「我々が王朝軍と合流すると考えれば、中央へ兵を集める。国境の守備が薄くなる」

「その隙に越境する」

「そうだ」

「王朝軍は、さらに前へ出ます」

「止めても聞かない」

「敗れれば?」

「だから国を残している」

午後、北東国から正式な援軍要請が届いた。

同時に、西方国の王弟からは撤退命令を拒否する返書が来た。

アーセンは北東へ二個大隊を送り、西方国へ向かう補給馬車を全て停止させた。

夕方には西方軍から、食料が尽きる前に撤退するという報告が入った。

日が沈む頃、川向こうの三つの村では、東方軍が持ち出そうとした麦が倉庫の前へ戻されていた。

北東の砦にはアーセン軍の旗が上がり、革命軍の進撃が止まった。

西方の丘からは占領軍が退き、国境標が元の位置へ戻された。

一日の間に、三つの戦場で兵が動いた。

それでも地図の線は一本も変わらなかった。

夜、アーセンは司令所を出た。

黒い軍列が街道へ並び、松明を消したまま出発を待っている。周辺国の軍はそれぞれ自国の国境へ残り、革命軍の兵力を外周へ縛り付けていた。

アーセンの軍だけが、その間を通って内側へ進む。

参謀が馬を寄せた。

「越境地点は、中央街道でよろしいですか」

「予定通りだ」

「国境標はどうします」

「触るな」

「占領した町の旗は」

「軍旗だけを置く。国旗は替えない」

「役人は」

「逃げなければ残す」

「抵抗した場合は?」

「軍だけを排除する」

参謀は前方を見た。

暗闇の先には、革命政府の支配地域が広がっている。

「侵略なのに、何も自分たちのものにしないのですか」

アーセンは馬を進めた。

「自分のものにした瞬間から、守る責任が生まれる」

「勝利した後も?」

「勝利した後こそだ」

先頭の兵が国境へ到着した。

道の脇には、苔の付いた古い標石が立っている。片側には周辺国の紋章、反対側には革命以前から使われてきた土地の印が刻まれていた。

兵士は標石を避け、街道だけを進んだ。

一人、また一人と国境を越える。

誰も標石を倒さなかった。

誰も新しい線を引かなかった。

その夜、アーセンの侵略は始まった。

そして大陸を囲む国境は、昨日と同じ場所に残された。


夜明け前、ラファエルの司令所へ届けられた地図には、新しい国境線が一本も引かれていなかった。

前日までに東方の川を越えた軍は元の岸へ戻り、西方の丘を占領した軍も撤退した。北東の砦だけは援軍を得て持ちこたえ、革命軍の前進が止まっている。

アーセンの兵は国境を越えた。

それでも、周囲の国々は昨日と同じ形で残っていた。

ラファエルは机へ両手を置き、複数の報告書を順番に読んだ。

東方軍、占領地から撤退。

西方軍、獲得した丘陵地を放棄。

北東国、アーセン軍二個大隊の支援を受け、防衛線を維持。

アーセン主力、中央街道から越境。

占領地の国境標、行政官、徴税制度に変更なし。

最後の一文だけを、もう一度読んだ。

「国境標に変更なし」

政治委員が窓際から言った。

「侵略者が、随分と礼儀正しいものです」

ラファエルは紙から顔を上げなかった。

「礼儀ではない」

「では、臆病ですか」

「計算だ」

政治委員は机へ近づいた。

「敵将を賢く見積もり過ぎる癖は、まだ治りませんか」

「敵を愚かだと決めて負ける癖よりはましだ」

政治委員の口元が固まった。

司令所には参謀長、補給官、騎兵隊長、工兵隊長、それから中央政府から送られた二人の書記がいた。書記たちは軍議へ口を挟まない代わりに、誰が何を言ったかを一言ずつ紙へ残している。

軍を動かせば記録される。

動かさなくても記録される。

成功すれば中央の命令を正しく実行したことになり、失敗すれば現場の独断として残る。

ラファエルは書記の筆先を見た。

「今の言葉も書いたか」

若い書記が顔を上げた。

「職務です」

「何と」

「敵を愚かと決めて負ける癖よりまし、と」

「主語を足せ」

書記の手が止まった。

「主語ですか」

「政府が、だ」

室内の空気が変わった。

政治委員が低い声を出した。

「発言を訂正してください」

「政府が敵を愚かと決め、現場へその判断を押し付ける癖よりはましだ」

ラファエルは書記へ視線を戻した。

「今度は正確に書け」

書記は政治委員を見た。

政治委員は何も命じなかった。書記は迷った末、紙へ筆を落とした。

参謀長が咳払いをした。

「アーセンの意図について、続きを」

ラファエルは机の中央へ大陸図を広げた。

革命政府の支配地域を囲み、北、北東、東、西に小国が並んでいる。南部だけは国内の街道が複雑に伸び、ジャンが複数の渡河点と街道を閉じ始めていた。

ラファエルは国境を指でなぞった。

「アーセンは国境維持を選んだ」

政治委員が鼻で笑った。

「侵略者が越境しているのに?」

「軍が国境を越えたことと、国境を拡大したことは同じではない」

「占領している」

「土地を自国へ編入していない。国境標を動かさず、周辺国にも動かさせていない」

ラファエルは東方の川を指した。

「ここを越えた同盟国を戻した」

次に西方の丘へ指を移した。

「ここを奪った軍も下げた」

最後に北東の砦へ指を置いた。

「落ちそうな国には兵を送った」

補給官が地図へ身を寄せた。

「周辺国を残すためですか」

「一国でも多く残れば、それぞれが国境と兵と砦を維持する。こちらは全方位へ兵を置かなければならない」

「復活王朝が勝てば?」

参謀長が尋ねた。

「新しい政権を、今と同じ国々が囲む」

「復活王朝が負ければ?」

「革命政府を、今と同じ国々が囲み続ける」

政治委員は腕を組んだ。

「つまり、あの男はどちらが勝ってもよいと?」

「どちらでもよいのではない。復活王朝の勝利を信用していない」

ラファエルは復活王朝の進路を示す白い駒を動かした。

駒は国境を越え、補給拠点から離れ、複数の地方部隊が合流する予定の地点へ向かっている。しかし、そのうち南へ進んでいた一部は、既に地元へ戻り始めていた。

「奴らは兵数が確定する前に進んだ。食料を地元の王党派へ任せ、蜂起が一斉に起こると考えている。アーセンは負ける可能性を見ている」

「王党派の失敗を、我々が恐れる必要がありますか」

政治委員が言った。

「復活王朝が負ければ、その兵はどこへ行く」

「捕虜になります」

「全員が?」

「処刑される者もいるでしょう」

「残りは逃げる」

ラファエルは白い駒を南、北、西へ散らした。

「軍旗を失った兵、傭兵、地元へ戻る者、略奪を始める者、革命側へ寝返る者。敗北した軍は消えない。形を失って各地へ流れる」

政治委員は答えなかった。

「アーセンは、復活王朝が敗れても包囲だけは残す。そのために国境を維持している」

「なら、こちらも国境を守ればよい」

参謀長が慎重に言った。

「敵が内側へ入った以上、守備を固め、復活王朝を鎮圧し、アーセンの補給が尽きるまで」

「それでは負ける」

ラファエルは即答した。

「なぜです」

「アーセンは周辺国へ側面を任せている。こちらは外周全てに兵を置き、国内では復活王朝を追い、南ではジャンと中央軍が道路を奪い合っている。維持を選べば、兵力差ではなく方向の数で負ける」

ラファエルは北方の二国へ手を置いた。

一つは山麓から海まで伸びる細長い国。

もう一つはその西側で、大きな港と河口を持つ小国だった。

どちらも領土は狭い。

しかし北側から革命政府を圧迫し、兵と物資を継続して送り込める位置にある。

「国境は維持するか、拡大するかしかない」

ラファエルは言った。

「アーセンが維持を選んだなら、こちらは拡大する」

補給官の顔が強張った。

「北へ侵攻するのですか」

「北の国を残せば、包囲は残る」

「アーセン主力は中央街道です」

「だから北へ行く」

政治委員が机を叩いた。

「中央政府の命令は、現在地の防衛です」

「現在地を守って包囲されたまま死ねと?」

「南部の反乱勢力を抑え、復活王朝の掃討を優先するようにと」

「南部のどこへ兵を送る」

ラファエルは南部の地図を引き寄せた。

「ジャンは三つの渡河点を閉じ、地方軍は中央からの命令を拒み始めている。復活王朝の部隊も地元へ戻っている。そこへアーセンが北上すれば、誰が誰と戦う」

「ジャンを反逆者として処理すればよい」

「誰が」

「中央軍が」

「中央軍のどの部隊だ」

政治委員は言葉に詰まった。

南へ向かわせられる部隊は、既に互いに異なる命令を受けていた。ある部隊はジャンの道路封鎖を支援し、別の部隊は解除を命じられ、さらに別の部隊は復活王朝の追跡へ回されている。

同じ制服が、同じ橋の両側に立ち始めていた。

ラファエルは南部から手を離した。

「南へ主力を入れれば、こちらまで分裂する」

「では放置すると?」

「ジャンとアーセンが争うなら、争わせる」

政治委員の目が細くなった。

「敵に国内を渡すおつもりですか」

「ジャンは国内の道路を守ろうとしている。アーセンは北へ進もうとしている。目的が衝突するなら、命令しなくても戦う」

「ジャンを信用するのですか」

「していない」

「なら」

「信用と利用を混同するな」

ラファエルは北方の地図を開いた。

「南で二つの軍が止まる。その間に、北の包囲を消す」

参謀長が地図を見た。

「一国を降伏させるだけでは、隣国が残ります」

「一国目を潰せば、国境を北へ出せる」

「併合するのですか」

「そうだ」

室内の誰も、すぐには次の言葉を出さなかった。

革命政府はこれまで、旧王国の侵略を批判し、民族と民衆の解放を掲げてきた。その軍が他国を潰し、土地を国境の内側へ入れる。

政治委員はゆっくりと尋ねた。

「革命の名で、他国を奪うと?」

「革命の名を使う必要はない」

「何の名で侵攻するのです」

「戦争の名だ」

「民衆へ説明できません」

「説明するのは中央だ」

政治委員の顔が僅かに動いた。

ラファエルは北方二国の間を流れる河川へ線を引いた。

「東側の国を潰し、国境をこの川まで拡大する。西側の港湾国は孤立する。港を閉じるか、講和へ引き出す」

「二国とも占領するのでは?」

補給官が尋ねた。

「最初から二国を抱えれば兵が足りない。東を消し、川を国境にする。西は港を残したまま戦線から外す」

「港を残せば、再び国外軍が入ります」

「講和条件に軍港の使用停止を入れる」

「守ると思いますか」

「破れば再び攻める」

補給官は地図へ置いた指を動かした。

「東側の国は平地が多い。首都までの距離は短いですが、三本の街道があります」

「三本とも使わない」

「では?」

「中央の街道を見せる。主力は東の農道へ回す」

工兵隊長が口を開いた。

「春の雨で沈みます」

「馬車は通さない。歩兵と軽砲だけだ」

「重砲なしで砦を落とすのですか」

「砦は落とさない」

ラファエルは敵国最南端の砦を指した。

「ここを囲み、救援を呼ばせる。敵の主力が砦へ向かう間に、東から首都へ入る」

「首都を取った後、砦が残ります」

「政府が消えれば、砦は誰の命令で戦う」

政治委員が鼻で笑った。

「敵国にも愛国心くらいあるでしょう」

「ある」

ラファエルは否定しなかった。

「だから政府を捕らえた後、降伏条件を出す。兵の帰郷、地方行政の維持、土地の接収禁止。拒めば砦を落とす」

「先ほど、併合すると」

「行政を壊さず、国境だけを拡大する」

「言葉を変えただけでは?」

「行政を壊せば、こちらが全て作り直すことになる」

アーセンが占領地の役人を残した理由を、ラファエルも理解していた。

土地を得ることと、土地の全てを自分で動かすことは違う。

だがアーセンが国境を動かさず責任を増やさないのに対し、ラファエルは責任が増えることを承知で線を前へ出す。

それ以外に包囲を壊す方法がなかった。

参謀長が低い声で尋ねた。

「長期維持は可能ですか」

「不可能かもしれない」

政治委員が勝ち誇ったように顔を上げた。

「ならば無謀です」

「長期維持が目的ではない」

ラファエルは北方の国境から、中央政府へ伸びる道を指した。

「講和まで持てばいい」

「講和?」

「この戦争に完全勝利はない」

政治委員が口を開きかけたが、ラファエルは続けた。

「復活王朝が準備不足で出た時点で、国内だけでは終わらなくなった。アーセンは周辺国を残し、こちらを包囲する。南ではジャンが中央の命令を待たずに動く。全てを軍事的に片付けようとすれば、国が残らない」

「敗北を認めるのですか」

「敗北した時の話をしている」

「軍人が、戦う前から?」

「戦う前に敗戦を考えない軍人は、兵士へ死ぬ順番しか与えられない」

政治委員は書記を見た。

若い書記の筆は止まっていた。

「今の発言を記録しなさい」

政治委員が命じた。

書記はラファエルを見た。

「敗戦を前提に作戦を立案した、と?」

ラファエルは頷いた。

「その通りだ」

参謀長が一歩出た。

「閣下」

「書かせろ」

「反逆の証拠にされます」

「既に集めている」

机の端には、中央から届いた質問状が積まれていた。

アーセンへ軍印で宣告文を送った理由。

南部で命令を拒んだ部隊を即時処刑しなかった理由。

復活王朝の捕虜へ食料を与えた理由。

中央の許可なく住民を避難させた理由。

どの問いも、答えを求めていない。

後から有罪を説明するため、紙を揃えているだけだった。

ラファエルはその束を指で押した。

「北へ動かなくても、私は裁かれる」

政治委員は目を逸らさなかった。

「政府への忠誠を示せば、誤解は解けます」

「何をすれば忠誠になる」

「命令に従い、現在地を守り、南部の反逆を鎮圧する」

「その間に北から攻め込まれたら?」

「中央が責任を負います」

ラファエルは笑わなかった。

「中央が責任を負った例を一つ言え」

政治委員は答えられなかった。

「負ければ現場の裏切り。勝てば中央の指導。処刑すれば革命の防衛。処刑し過ぎれば地方の暴走。便利な政府だ」

「ロベルトを侮辱するおつもりですか」

ラファエルの顔から、僅かに残っていた苛立ちが消えた。

「ロベルトは馬鹿ではない」

「なら」

「馬鹿ではないから、始末が悪い」

司令所の外で号令が響いた。

二つの部隊が同じ広場を使い、片方が整列している間に、もう片方が荷車を通そうとして怒鳴り合っている。以前なら一人の指揮官が決めれば済んだ。今は所属する派閥、受け取った命令書、政治委員の承認が別々に存在し、兵士は自分に都合のよい命令だけを選び始めていた。

ラファエルは窓の外を見た。

「ロベルトは国を一つにしようとした」

政治委員は何も言わなかった。

「法を揃え、税を揃え、軍を揃え、身分で変わっていた判決を揃えた。必要だった」

参謀たちは静かに聞いていた。

「だが、揃わないものが出るたびに首を切った。命令が届かなければ怠慢。食料が足りなければ横流し。負ければ裏切り。処刑すれば、書類だけは正しくなる」

「革命を守るには、例外を許せません」

政治委員が言った。

「例外を全て殺した結果が、外の軍だ」

ラファエルは地図を指した。

「王党派は処刑される前に武器を取る。地方軍は中央へ疑われる前に道路を閉じる。周辺国は革命が自国へ来る前に宣戦する。アーセンは復活王朝が敗れた後まで囲いを作っている」

「だからこそ、さらに強く統一する必要が」

「恐怖で統一した軍は、恐怖の向きが変われば互いを撃つ」

外から銃声が一発聞こえた。

軍議の全員が窓へ顔を向けた。

続く発砲はなかった。

暫くして兵が一人、扉を叩いた。

「何があった」

参謀長が尋ねる。

「補給隊の伍長が、命令書の確認を求めました。政治係が拒否と判断し、拘束しようとしたところ、伍長が銃を抜きました」

「誰を撃った」

「空へです」

「伍長は」

兵は政治委員を見た。

「処刑命令が出ています」

ラファエルは椅子から立った。

「誰が出した」

「政治係です」

「止めろ」

政治委員が前へ出た。

「武器を向けた者を放置するのですか」

「空へ撃った」

「反抗です」

「命令書を確認しただけだ」

「政治係の拘束へ抵抗しました」

「理由を聞く」

「兵士が命令を選ぶようになれば軍ではありません」

ラファエルは扉へ向かった。

「命令を出す者が四人いれば、選ばなければ動けない」

政治委員が腕を掴んだ。

「ここで処刑を覆せば、政治係への反抗を認めることになります」

ラファエルは掴まれた腕を見た。

「離せ」

「政府の権威が」

「離せ」

政治委員は手を放した。

ラファエルは司令所を出た。

広場の端で、伍長は両腕を後ろへ縛られ、膝をつかされていた。銃は地面へ置かれ、周囲を十人ほどの兵が囲んでいる。

政治係の男が紙を読み上げていた。

「軍命への反抗、武器による威嚇、革命政府代理人への攻撃未遂」

「攻撃していない!」

伍長が叫んだ。

「命令書が二枚あった! 一つは北へ運べ、もう一つは南へ運べと! どちらか聞いただけだ!」

政治係は紙から顔を上げなかった。

「拘束へ抵抗した」

「荷を腐らせるなと言ったんだ!」

「銃を抜いた」

「撃っていない!」

「発砲した」

「空だ!」

ラファエルは兵の輪へ入った。

「縄を解け」

政治係が振り返った。

「処刑命令が出ています」

「誰の名で」

「革命政府の名で」

「紙を見せろ」

政治係は一瞬ためらい、命令書を渡した。

ラファエルは印章を見た。

軍司令部のものではない。

中央政府のものでもない。

地方政治係が使用を許された簡略印だった。

「政府の名ではない」

「政府から委任されています」

「処刑権まで?」

「緊急時には」

「緊急事態の認定は誰がした」

「私です」

ラファエルは命令書を二つに裂いた。

政治係の顔色が変わった。

「何を」

「これは処刑命令ではない」

「革命政府への反抗です」

「書け」

ラファエルは後ろから付いてきた書記へ言った。

「地方政治係が、自ら緊急事態を認定し、自ら捜査し、自ら有罪を決め、自ら処刑を命じた」

政治係が声を荒らげた。

「軍の規律を守るためです!」

「なら軍法会議へ出せ」

「時間がありません」

「人を殺す時間はあるのか」

周囲の兵士たちは誰も動かなかった。

ラファエルは伍長の縄を自分で解いた。

「銃を拾え」

伍長は手首を押さえたまま、地面の銃を見た。

「処罰は」

「発砲した。三日間の拘禁だ」

「三日?」

政治係が叫んだ。

「処刑されるはずの者へ、それだけですか」

ラファエルは伍長の方を見た。

「空へ撃った理由は」

「誰も話を聞かなかった」

「次は銃を抜く前に、上官を殴れ」

伍長が思わず顔を上げた。

周囲の兵士から、僅かな笑いが漏れた。

ラファエルは続けた。

「殴れば拘禁で済む。銃を抜けば、誰かが恐怖を理由にお前を殺す」

伍長の口元が一瞬だけ動いたが、すぐに引き締まった。

「はい」

「拘禁後、補給隊へ戻れ。二枚の命令書は両方持ってこい」

政治係がラファエルの前へ立った。

「この件は中央へ報告します」

「しろ」

「政治係の権限を否定したと」

「自分で作った死刑命令を破った、と正確に書け」

「あなたは、いつまで政府の邪魔を続けるおつもりですか」

ラファエルは政治係を見た。

「政府が国を邪魔するのをやめるまでだ」

書記の筆が紙の上を走った。

その音が、妙に大きく聞こえた。

軍議へ戻ると、机の上には中央政府から新しい命令書が届いていた。

南部へ二個師団を移動。

ジャンによる道路封鎖を解除。

復活王朝への協力者を逮捕。

アーセン軍との正面衝突を回避。

北方国境は現状維持。

ラファエルは最後の一文を指で押さえた。

「北方国境は現状維持」

政治委員は戻ってこなかった。代わりに別の中央書記が、命令の受領確認を待っている。

参謀長が低い声で言った。

「署名すれば、北へ動けません」

「署名しなくても、命令は有効です」

書記が言った。

「では、なぜ署名が要る」

「受領した証明です」

「従う証明ではないのか」

書記は答えなかった。

ラファエルは命令書の余白へ、受領時刻だけを書いた。

署名はしなかった。

「返送しろ」

「受領印がありません」

「時刻を書いた」

「署名を」

「拒否する」

書記の顔が青ざめた。

「命令拒否として記録されます」

「記録しろ」

「理由は」

ラファエルは北方の地図を見た。

「国境を維持すれば包囲が残るため」

書記は筆を取った。

「国境を拡大するおつもりですか」

「そうだ」

「政府の許可なく?」

「許可を待てば、アーセンが中央へ到達する」

「南部は」

「ジャンとアーセンが互いに止める」

「根拠は」

「目的が衝突する」

「ジャンが敗れれば?」

「その時は南へ戻る」

「間に合いません」

「北へ行かなくても間に合わない」

書記はそれ以上尋ねなかった。

ラファエルは参謀長へ向き直った。

「北方作戦の準備を始める」

「何人動かします」

「主力の半分」

「残りは」

「中央街道と南部への入口を守らせる」

「南部鎮圧の命令は」

「実行しない」

「中央は、ジャンを反逆者と」

「まだ反逆していない」

「道路を閉じています」

「国外軍を入れないためだ」

「中央軍も止めた」

「中央軍が国外軍と同じ道を使おうとした」

参謀長は口を閉じた。

「北へ動く名目は?」

補給官が尋ねた。

ラファエルは少し考えた。

「国境防衛」

書記が顔を上げた。

「侵攻するのに?」

「敵国が包囲へ参加し、既に宣戦している。国境を守るため、国境を前へ出す」

「詭弁です」

「戦争の布告文は、全て詭弁だ」

ラファエルは白紙を三枚取り出した。

一枚目には北方軍への作戦命令。

二枚目には北方国へ送る降伏条件。

三枚目には、まだ戦ってもいない勝利後の声明を書き始めた。

参謀長が三枚目を覗き込んだ。

「早過ぎませんか」

「遅ければ中央が別の文を書く」

「何を発表するつもりです」

ラファエルは筆を止めずに答えた。

「北方諸国は、革命政府上層部の断固たる外交交渉と、ロベルトの一貫した指導により講和へ応じた」

室内が静まり返った。

補給官が聞き返した。

「ロベルトの?」

「そうだ」

「軍を動かすのは、あなたです」

「勝った後に私の名を出せば、独断の侵略になる」

「事実です」

「中央の指導による防衛戦に変える」

「功績を渡すのですか」

「渡す」

参謀長はラファエルの横顔を見た。

「なぜ」

ラファエルは三枚目の紙へ、講和、国境、正常化という言葉を書いた。

「恐怖政治を終わらせるためだ」

誰もすぐには答えなかった。

その言葉は、軍議で口にするには危険過ぎた。

政治委員がいないとしても、書記は二人いる。壁にも扉にも耳があり、兵士は食事一皿のために上官の言葉を売る。

若い書記の筆が止まった。

ラファエルは顔を上げた。

「書かないのか」

「書けば」

書記の喉が動いた。

「あなたは処刑されます」

「書かなくても、される」

「なら、なぜ」

「終わらせる準備まで処刑される必要はない」

書記は紙を見た。

「本当に終わるのですか」

「今は終わらない」

ラファエルは明確に言った。

「復活王朝は動き、アーセンは越境し、中央では処刑が増えている。ここで止めれば、政府が弱ったと見られ、さらに軍が割れる」

「では」

「戦争を収めた功績を政府へ与える」

ラファエルは勝利声明の一文を指した。

「北方の包囲を破り、国境を拡大し、敵国を講和へ入れる。敗戦しても完全敗北ではない。政府は、ロベルトの指導と上層部の交渉によって国を救ったと言える」

補給官がゆっくりと理解した。

「勝利宣言を作る」

「実質的な勝利を残す」

「その代わりに」

「非常措置を終わらせる」

ラファエルは別の紙を取り出した。

そこには、まだ誰にも見せていない条件が記されていた。

非常裁判の停止。

軍による即時処刑の禁止。

地方政治係の処刑権剥奪。

軍法会議の再開。

捕虜と国内反対派の区別。

戦時徴発の期限設定。

「これを、講和後の正常化命令として出させる」

参謀長は紙を読んだ。

「ロベルトが受け入れますか」

「自分の勝利として終えられるなら、受け入れる可能性がある」

「拒めば?」

「戦争を終えた後も処刑を続ける理由を、自分で作らなければならなくなる」

「理由など、いくらでも作ります」

「今より作りにくくする」

ラファエルは紙を折った。

「恐怖政治は正しさだけでは終わらない。終わっても負けではなかったと言える形が要る」

若い書記が小さく尋ねた。

「あなたは、ロベルトを救いたいのですか」

ラファエルは答えるまでに少し時間を置いた。

「国を救うために、あの男が生きたまま退ける道を作る」

「それは同じでは」

「違う」

声は冷たかった。

「ロベルト一人を殺しても、恐怖政治を覚えた者は残る。次の者が処刑を続けるだけだ」

「では、あなたが政権を」

「取らない」

「なぜです」

「軍を率いた者が政府を奪えば、次の反対者は軍で処理される」

書記は黙った。

「私が欲しいのは、ロベルトの椅子ではない」

ラファエルは北方の地図を畳んだ。

「椅子へ座る者が、人を殺さず失敗を認められる時間だ」

軍議が終わる頃には、外は暗くなっていた。

しかし司令所の周囲では、兵士たちが松明を覆い、荷車へ食料と火薬を積み始めている。南へ向かうと聞かされていた部隊へ、北方用の厚い外套が配られた。

騎兵隊長が馬の鞍を確かめながら尋ねた。

「兵には、どこへ行くと?」

「北だ」

「目的は」

「国境拡大」

隊長はラファエルの顔を見た。

「防衛ではなく?」

「兵には正確に伝えろ。国境を守るためという言い訳は、中央へ送る紙だけでいい」

「負けた場合は」

「退路を三本作る」

「勝った場合は」

「川まで進み、止まる」

「港は」

「取らない」

「西の国が抵抗すれば?」

「港を封鎖し、講和させる」

「併合した東の土地で蜂起が起きたら?」

「現地兵を武装解除し過ぎるな」

隊長が眉を寄せた。

「武器を残すのですか」

「村の自警団には残す。こちらが全て守る兵力はない」

「反乱に使われます」

「全て奪えば必ず反乱に使われる」

ラファエルは荷車の列へ歩いた。

「役人も残す。税も急に変えるな。軍へ必要な分だけ徴発し、領収書を出せ」

「後から払われますか」

「政府が残ればな」

「残らなければ?」

「紙だけでも、奪った者と払うべき者が分かる」

騎兵隊長は苦い顔をした。

「そんなものを信じる住民が」

「信じなくていい。記録がなければ、こちらは奪っていないと言い始める」

荷車の脇では、先ほど処刑を免れた伍長が手首へ布を巻き、二通の命令書を持って立っていた。

ラファエルに気付くと、姿勢を正した。

「拘禁は」

「出発後です」

「誰が許した」

「補給隊長が、今抜ければ荷の配分が分からないと」

「銃を抜いた者へ、随分と信頼がある」

伍長は気まずそうに目を伏せた。

「命令書を持ってきました」

二通とも同じ時刻に出され、一つは食料を南へ、もう一つは北へ運べと書かれている。印章も同じだった。

ラファエルは二枚を見比べた。

「どちらへ運んだ」

「半分ずつです」

「なぜ」

「どちらか一方へ送れば、後から片方の命令違反になります」

「賢い」

「褒められるとは思いませんでした」

「半分ずつなら、両方から半分足りないと処罰される」

伍長の顔が引きつった。

ラファエルは二枚を破らず、参謀へ渡した。

「この命令を出した部署を調べろ」

「処罰しますか」

「先に、何のために二つ出したか聞く」

「間違いなら?」

「直す」

「故意なら?」

ラファエルは伍長を見た。

「その時は軍法会議へ出す」

伍長は少しだけ肩の力を抜いた。

即時処刑ではない。

それだけで、許されたような顔になる。

ラファエルはその表情を見て、自分たちがどこまで壊れているかを思い知った。

夜半、北方へ向かう部隊が司令所を出た。

旗は巻かれ、太鼓も鳴らさない。革命政府の主力が南へ向かうと考えている北方諸国へ、移動を知られないためだった。

最初の街道分岐で、南を示す標識の前に政治委員が立っていた。

昼間の男ではない。

中央から新たに来た、まだ若い政治委員だった。

「命令では南です」

彼は書状を掲げた。

「北へ行けば反逆になります」

先頭の兵士たちが止まった。

ラファエルは馬を進め、政治委員の前へ出た。

「退け」

「受領拒否、命令違反、政府代理人への威圧。既に三件です」

「数えるのが仕事か」

「革命への忠誠を確認するのが仕事です」

「なら一緒に来い」

政治委員の顔に迷いが走った。

「北へ?」

「私が何をするか見ろ。反逆なら、戦場で証拠を集めればいい」

「逃亡する可能性が」

「逃げるなら軍を半分も連れて行かない」

「外国へ寝返る可能性も」

「その時は近くで撃て」

ラファエルは腰の拳銃を抜き、銃床を政治委員へ向けた。

周囲の兵が息を呑んだ。

「持て」

政治委員は受け取らなかった。

「私を試しているのですか」

「自分で監視すると言ったのは中央だ。安全な司令所で紙だけ書くな」

若い政治委員は暫く拳銃を見つめ、やがて受け取った。

「弾は」

「入っている」

「逃げれば撃ちます」

「命令どおりだ」

政治委員は馬を用意させた。

街道の標識は、南と北へ道を分けている。

中央からの命令は南。

ラファエルの軍は北。

先頭の兵が標識の前を通り、北の道へ入った。

一人、また一人と続く。

誰も歓声を上げなかった。

勝利を信じている者も少ない。

自分たちが正しい側にいると思っている者など、さらに少なかった。

それでも兵は歩いた。

南へ行けば、同じ革命軍と道路を奪い合う。

現在地へ残れば、アーセンが残した包囲の中で削られる。

北へ行けば、他国を潰し、国境を拡大し、敗戦後の交渉材料を作る。

どの道にも死者がいる。

ラファエルは、その中で戦争を終わらせられる可能性が最も残る道を選んだ。

夜明け前、北方国境の監視塔に革命軍の先頭が到着した。

向こう側の国境標には、細長い北方国の紋章が刻まれている。

参謀長が馬を寄せた。

「国境標はどうします」

ラファエルは標石を見た。

前夜、アーセンの兵は国境標へ触れず、そのまま越境したという。

彼は維持を選んだ。

ラファエルは馬から降り、標石へ手を置いた。

「まだ動かすな」

参謀長が顔を上げた。

「侵攻後に?」

「勝ってからだ」

「どこまで」

ラファエルは北の暗闇を見た。

地図の上では、敵国の向こうに大きな川がある。

「川まで進む」

「そこへ新しい標石を?」

「置く」

ラファエルは手を離した。

「アーセンは線を残した。こちらは線を広げる」

国境の門が開いた。

兵士たちは銃を肩へ掛け直し、まだ敵の見えない北の街道へ入っていく。

その背後では、中央政府へ送る二つの書状が用意されていた。

一通には、ラファエルが命令へ違反し、独断で北進したこと。

もう一通には、ロベルトの指導と上層部の外交によって北方の包囲を破壊し、共和国を救ったこと。

どちらが歴史になるかは、まだ誰にも分からない。

ラファエルだけは、どちらになっても恐怖政治を終わらせる道が残るように、軍を進めていた。


南部国境へ最初の砲声が届いた時、ジャンはまだ靴を履いていた。

借りた宿舎の床には、片方だけ紐を通した靴と、昨夜脱いだままの外套と、三枚の地図が散らばっている。机へ広げる場所が足りなかったため、最後の一枚は寝台の上に置かれていた。

一発目の砲声から、二発目までの間が短い。

威嚇ではない。

ジャンはもう片方の靴へ足を押し込み、紐を結ばないまま廊下へ出た。

階段の途中で、南部軍の士官とぶつかった。

「敵が川を越えました」

士官は息を切らしていた。

「どこから」

「閉鎖した二つの渡河点ではありません。東側の古い堤道です」

「あそこは馬車が通れないと聞いた」

「昨日までは」

ジャンは階段を下りながら振り返った。

「昨日まで?」

「敵が夜のうちに石を入れました。浅瀬まで道を延ばし、歩兵を通しています。騎兵も後から来ます」

宿舎の外では、既に兵が走っていた。

鐘は鳴っていない。

鳴らせば周辺の村へ敵襲を知らせられるが、同時にこちらの混乱も敵へ伝わる。その判断をする者が見つからないまま、鐘楼の下では三人の役人が互いに命令書を見せ合っていた。

一人は中央政府の印を持ち、鐘を鳴らせと命じている。

一人は南部評議会の印を持ち、避難が終わるまで鳴らすなと言う。

最後の一人は昨日ジャンが閉鎖した街道の管理者で、敵兵が入った以上、鐘ではなく橋を落とせと叫んでいた。

誰の印が一番強いかを決めている間にも、砲声は近づいていた。

ジャンは鐘楼の縄を掴んだ。

三人が同時に振り向く。

「待ってください!」

「まだ避難が」

「橋を先に」

ジャンは縄を引いた。

鐘が一度、低く鳴った。

もう一度引く。

今度は町全体へ音が広がった。

「敵が来たなら鳴らす。ほかに何を決める必要がある」

中央政府の役人が前へ出た。

「誰の許可で」

「今、私が引いた」

「許可を聞いています」

「鐘に聞け」

ジャンは縄から手を離した。

三度目の鐘は、鐘楼番が引いた。

役人はジャンを睨んだが、町の各所で扉が開き、人々が動き始めると、もう止められなかった。

ジャンは宿舎前へ置かれた馬へ乗ろうとした。

片方の靴紐が踏み板へ引っ掛かり、足が滑った。

士官が慌てて腕を支える。

「結んでください」

「後でいい」

「戦場で転びます」

「馬の上なら歩かない」

「降りるでしょう」

ジャンは舌打ちし、馬の腹へ片足を乗せたまま靴紐を結んだ。

その姿を見ていた兵士たちの何人かが笑った。

敵襲の最中に笑ったことへ気付き、すぐ顔を強張らせる。

ジャンは笑った者を見た。

「今のうちに笑っておけ。後ではそんな暇がない」

誰かが再び小さく笑った。

恐怖が消えたわけではない。

それでも、息は少しだけ戻った。

南部軍の司令所は、国境から続く三本の街道が交わる宿場町に置かれていた。

地図の上では、南方国軍は東側の堤道から川を越え、そのまま北西へ進んでいる。

敵の兵力は、南部に集まった兵の少なくとも三倍。

敵には騎兵と重砲があり、こちらの砲は古く、火薬も不足している。

南部軍には正規兵がいたが、北部の革命軍と同じ指揮系統では動いていない。地方の自警団、街道を閉鎖した若者、革命政府から派遣された部隊、王党派を嫌って地元へ戻った兵まで混ざっている。

同じ地図を見ていても、誰が命令できるのか分からなかった。

南部軍の老将は、ジャンが入る前から撤退案を出していた。

「敵の目的は宿場町ではない」

老将は地図の北側を指した。

「ここを通り、中央へ続く街道へ入ることだ。町の西にある城壁都市まで退けば、兵力差を埋められる」

中央政府から派遣された将校が頷いた。

「籠城し、北から援軍を待つべきです」

「援軍は来るのか」

ジャンが尋ねた。

将校は答えを避けた。

「要請は出しています」

「どこから」

「中央からです」

「ラファエルの軍は北へ動いた」

司令所の中が静かになった。

その情報は、まだ正式には発表されていない。

南へ来るはずだった中央軍の一部が、命令とは別の方向へ進んだという噂だけが届いていた。

将校は声を落とした。

「確定した情報ではありません」

「南へ来ていないことは確定している」

ジャンは地図の城壁都市を見た。

「そこまで退けば、今いる町はどうなる」

「放棄します」

「その間の村は」

「住民を避難させる」

南部評議会の役人が口を挟んだ。

「全員は間に合いません」

「残った者は?」

ジャンが聞く。

誰も答えなかった。

老将が代わりに言った。

「戦争では、全てを守ることはできない」

「それは知っている」

ジャンは怒らなかった。

「退けば勝てるのか」

老将は地図へ指を置いた。

「勝てるとは言わない。負けにくくなる」

「城壁都市で包囲される」

「そうなる」

「敵は街道と村と倉庫を取る」

「そうなる」

「食料を持って城壁の外に立つ敵と、逃げてきた住民を抱えた城壁の中の私たちで戦う」

老将の指が止まった。

「それでも、ここで戦うよりは長く持つ」

「長く負けるだけだ」

中央政府の将校が眉を寄せた。

「なら、ここで勝つ方法を示してください」

ジャンは地図を見た。

敵の数。

重砲。

騎兵。

堤道。

こちらの部隊の位置。

足りない火薬。

北から来ない援軍。

どれを見ても、勝てる要素はなかった。

「分からない」

将校が聞き返した。

「何と?」

「勝つ方法は分からない」

司令所の空気が凍った。

老将だけが、ジャンの顔を見続けていた。

「分からないのに、退かないと?」

「退いた後に勝つ方法も、今の説明にはなかった」

「それは」

「ここで負けるか、城壁の中で負けるかだろう」

ジャンは城壁都市へ続く道を指した。

「なら、まだ村も倉庫も街道もこちらにある場所で戦う」

中央政府の将校が机を叩いた。

「無謀です!」

「そうだ」

ジャンは否定しなかった。

「兵力差を理解しているのですか」

「三倍以上」

「騎兵も砲も敵が上です」

「見れば分かる」

「こちらは指揮系統すら統一されていない!」

「それも知っている」

「では、何を根拠に」

「根拠はない」

ジャンは将校を真っ直ぐ見た。

「だから、勝てると言って兵を騙すつもりもない」

将校は言葉を失った。

ジャンは司令所の扉を開けた。

外では、集められた兵たちが命令を待っている。

槍の長さも、制服の色も、立ち方も揃っていない。

若い者が多かった。

北部で何が起きているか詳しく知らない者もいる。革命政府のためではなく、自分の村へ国外軍を入れないために来た者もいる。

ジャンは階段を下りた。

「全員を広場へ集めてくれ」

老将が後ろから尋ねた。

「何を命じる」

「先に聞く」

「何を」

ジャンは振り返った。

「この土地のことを知っている者が、何をすれば敵が嫌がるか」

広場へ集まった兵と住民を前に、ジャンは台へ上らなかった。

台の上には中央政府の布告を読むための演台があったが、そこへ立てば、自分まで遠くから命令を読む人間に見える気がした。

代わりに井戸の縁へ片足を乗せた。

人々の後ろまで顔は見えない。

声も全員には届かない。

それでも話し始めた。

「敵は私たちより多い。砲も騎兵もある。こちらには、勝てるという報告は一つもない」

兵士たちが互いを見た。

中央政府の将校が目を閉じた。

士気を上げるどころか、自分で敗北を伝えている。

「城壁のある町まで退けば、今いる村と畑と倉庫を敵へ渡すことになる。そこで勝てるという保証もない。だから、私はここから退かない」

後方から声が飛んだ。

「死ねと言うのか!」

「言わない」

ジャンは声の方向を探した。

「死にたい者などいない。私も嫌だ」

「なら退け!」

「退いた先にも敵が来る」

返事はすぐには来なかった。

ジャンは続けた。

「私は、この土地の川も畑も、どの道が雨で沈むかも知らない。敵の将軍より知らないかもしれない。だから、知っている者に聞く」

井戸の周りにいた者たちが顔を上げた。

「川を知っている者は?」

暫くして、荷運び人のような男が手を上げた。

その隣で、渡し守の老人も手を上げた。

「敵の騎兵が嫌がる場所は?」

渡し守が答えた。

「古い水路の北側だ。草で隠れているが、底が柔らかい。馬を入れれば脚を取られる」

「こちらの兵は通れる?」

「板を置けば歩兵は通れる」

「板はあるか」

「倉庫の床を外せば」

倉庫の持ち主らしい男が叫んだ。

「勝手に外すな!」

ジャンはその男を見た。

「後で戻す」

「戻せる保証は」

「私が生きていれば戻す」

「死んだら?」

「敵が倉庫ごと使う」

男は口を開けたまま黙った。

周囲から低い笑いが起きた。

「外していい」

倉庫の男は不満そうに言った。

「ただし、釘を抜け。割るな」

ジャンは頷いた。

「畑を知っている者は?」

今度は複数の農民が手を上げた。

「敵の砲を置かせたくない場所は?」

「南の麦畑は駄目だ。地面が固い」

「では、置かせたい場所は?」

農民たちは顔を見合わせた。

一人の女が前へ出た。

「葡萄畑の下」

「柔らかい?」

「地下に古い貯蔵穴がある。上から見えない。重い砲を入れれば、どこかが落ちる」

「敵へ教えず、そこへ誘導できるか」

「街道の柵を開けて、麦畑の入口を荷車で塞げば、砲は葡萄畑へ回る」

別の農民が言った。

「だが、砲が落ちれば葡萄も潰れる」

女はその男を睨んだ。

「敵に踏まれても同じでしょう」

ジャンは二人の顔を見た。

「終わった後、植え直す」

「誰が」

「生きている者で」

その答えを聞き、女は手を下ろした。

「森を知っている者は?」

炭焼き、猟師、薪を運ぶ少年たちが手を上げた。

「敵の補給馬車が通る道は?」

「南東の林道」

「止められる?」

猟師が首を振った。

「兵がいれば無理だ」

炭焼きの男が言った。

「木を倒せば止まる」

「切る音で気付かれる」

「昨日の風で倒れかけている木がある。縄を掛けておけば、一度で倒せる」

「誰がやる」

炭焼きたちは互いを見た。

一番若い男が手を上げた。

「俺たちが」

「兵は付ける?」

「いらない。兵が歩けば枝が鳴る」

中央政府の将校が耐えきれず前へ出た。

「待ってください。作戦を民間人へ勝手に分ければ、連絡が取れなくなります」

ジャンは将校を見た。

「今は取れているのか」

「統一しなければ、なおさら」

「統一するまで敵が待ってくれる?」

将校は歯を食いしばった。

ジャンは再び人々へ向いた。

「馬を扱える者は?」

南部軍の騎兵だけでなく、牧場の者、荷馬車の御者、郵便を運んでいた若者が手を上げた。

「敵の騎兵と戦えるか」

騎兵隊長が答えた。

「正面からは無理だ」

「なら戦わなくていい。水路へ入った敵を外へ出さないようにしてくれ」

「こちらの騎兵も泥へ入る」

「入らない方法を、渡し守から聞け」

騎兵隊長は渡し守の老人を見た。

老人は少し驚いた顔をした。

軍の将校から意見を求められたことなどなかった。

「板を置く道は二本作れる」

老人が言った。

「一本は歩兵。もう一本なら馬も通れる。ただし一列ずつだ」

「十分だ」

騎兵隊長は頷いた。

ジャンは最後に、広場全体へ聞いた。

「戦える者は?」

多くの兵が槍や銃を上げた。

「戦えない者は?」

誰も手を上げなかった。

ジャンは眉を寄せた。

「怪我人を運べる者、食事を作れる者、水を運べる者、子供を町から出せる者は?」

今度は兵ではない者たちが手を上げた。

女、老人、少年、商人、職人。

「戦えない者はいない」

ジャンは言った。

「武器を持たなくても、こちらへ残れる」

広場の端にいた年老いた女が声を張った。

「少年が偉そうに言うんじゃないよ。あんたは何をするんだい」

人々の視線がジャンへ集まった。

ジャンは敵が来る南側を指した。

「一番先に見える場所にいる」

中央政府の将校が低く言った。

「それでは指揮ができません」

「私が後ろにいても、全員は私の命令を聞かない」

「だからこそ統一を」

「聞かない者を処刑する時間はない」

南部軍の老将が、司令所から広場へ出てきた。

「先頭に立てば、死ぬぞ」

「後ろにいても砲弾は来る」

「少年一人が死んでも、戦況は変わらん」

「なら、前にいても困らない」

老将は何も言わなかった。

ジャンは井戸から足を下ろした。

「勝てるとは言わない。ただ、ここを通せば確実に負ける。それだけは分かる」

兵士たちは歓声を上げなかった。

立派な誓いもなかった。

渡し守は倉庫へ板を取りに向かい、農民は荷車を動かし、炭焼きたちは縄と斧を持って林へ走った。南部軍の騎兵隊長は老人から水路の位置を聞き、中央政府の将校は止めるべき相手を失ったまま、部下へ弾薬を配り始めた。

誰も、ジャンが勝ち方を示したとは思っていなかった。

それでも、自分が何をすべきかだけは分かった。

昼前、南方国軍の先頭が宿場町の南へ到達した。

敵の重砲は、開けた麦畑へ入ろうとして、横倒しにされた荷車に進路を阻まれた。

荷車を退かそうとすれば、北側の家並みから銃撃を受ける。

砲兵隊は東へ迂回し、葡萄畑へ車輪を入れた。

最初の二門は問題なく進んだ。

三門目の重さで、地面が沈んだ。

車輪が古い貯蔵穴の天井を踏み抜き、砲架が大きく傾く。後続の馬が驚いて横へ跳び、二門目の車輪へ衝突した。

葡萄畑の中で砲列が詰まった。

農民たちは遠くからその音を聞いた。

喜ぶ者はいなかった。

自分たちの畑が潰れる音でもあった。

だが、敵の砲撃開始は遅れた。

その間に南部軍の歩兵は、水路の北側へ板を敷き、細い道を渡って配置についた。

敵の斥候から見れば、草地の向こうに不揃いな兵が並んでいるだけだった。

中央には若者。

左右には地方兵と自警団。

旗も統一されていない。

敵将は、正規軍が到着する前に集まった群衆だと判断した。

騎兵が前へ出た。

ジャンは最前列にいた。

老将から借りた馬は、砲声へ慣れていなかった。耳を伏せ、何度も首を振る。

「降りろ!」

老将が後方から怒鳴った。

「その馬では持たん!」

ジャンは馬の首を撫でた。

「私も慣れていない」

「馬へ言ってどうする!」

「聞いているかもしれない」

敵の騎兵が速度を上げた。

地面が震える。

前列の若い兵が銃を構えた。

銃身が目に見えて揺れている。

「まだ撃つな」

ジャンが言った。

「近過ぎれば逃げられません!」

「遠ければ当たらない」

「もう来ています!」

敵騎兵の顔が見える距離まで近づいた。

ジャンは剣を抜いた。

剣先も僅かに震えていた。

それを見た隣の兵が、なぜか息を吐いた。

ジャンも怖がっている。

怖くない人間が、自分たちを使い捨てにしているわけではない。

敵騎兵が草地へ入った。

先頭の馬の脚が沈んだ。

次の馬が避けようとして横へぶつかる。

乾いて見えた草の下には、昨日まで使われていた古い水路があり、底へ溜まった泥が馬の蹄を呑み込んだ。

速度を失った騎兵へ、銃撃が浴びせられた。

全てが命中したわけではない。

恐怖で早く引き金を引いた者もいる。

火薬が湿って不発になった銃もある。

それでも、密集した騎兵へ向けた一斉射撃は、先頭を崩すには十分だった。

敵騎兵は左右へ逃れようとした。

西側には、渡し守が示した狭い板道がある。

そこを南部軍の騎兵が一列で進み、泥へ入らず敵の側面へ出た。

正面から勝てない騎兵が、動けなくなった相手だけを押し戻す。

敵の第一撃は止まった。

兵士たちから声が上がった。

「追うな!」

老将の声が飛ぶ。

若い兵の一部は聞かなかった。

逃げる騎兵を見て、自分たちが勝ったと思い、水路を越えようとする。

ジャンは馬を前へ出した。

借りた馬が泥の手前で怯え、急に横へ跳ねた。

ジャンの身体が鞍から落ちた。

肩から地面へ叩きつけられ、剣が手を離れる。

周囲の兵が悲鳴を上げた。

「ジャンが倒れた!」

その声は、敵の第二列にも届いた。

南方国軍の歩兵が前進を始める。

南部軍の若者たちは動揺した。

勝ったと思った直後、中心にいた少年が落馬した。

後方へ運ぶべきか。

敵を迎えるべきか。

命令を待つべきか。

ジャンは泥の中で息を詰まらせていた。

肩が動かない。

口の中へ土が入り、咳き込む。

兵が二人、腕を掴もうとした。

「触るな」

「骨が」

「立てる」

「退いてください!」

ジャンは片膝をついた。

敵の歩兵が近づいている。

先ほど騎兵を止めた水路は、歩兵なら越えられる。板道を奪われれば、こちらの配置が崩れる。

ジャンは落とした剣を探した。

見つからない。

代わりに、隣の兵が持っていた長槍を掴んだ。

「何を」

「貸せ」

「肩が」

「片手で持つ」

ジャンは槍を杖にして立った。

左肩は上がらなかった。

右手だけで槍を支え、前へ向ける。

敵の歩兵が水路へ入った。

「撃て!」

誰の命令だったか分からない。

中央政府の将校か、南部軍の老将か、前列の兵か。

複数の声が重なり、銃撃が始まった。

一度目より揃っていない。

硝煙で前が見えなくなる。

敵も撃ち返した。

ジャンの近くにいた兵が、胸を押さえて倒れた。

その隣の兵は一歩下がった。

ジャンは倒れた兵を見た。

助け起こす余裕はない。

名前も知らなかった。

「退くな」と叫ぼうとして、言葉が喉へ詰まった。

退くなと言えば、次に倒れるのは隣の兵かもしれない。

自分には、それを命じるだけの勝算がない。

ジャンは槍を地面へ突き、倒れた兵の銃を拾った。

片手では構えられない。

銃床を石垣へ乗せ、引き金を引いた。

弾が誰に当たったかは分からなかった。

ただ、その姿を見た隣の兵が戻った。

さらに後ろの若者が前へ出た。

「弾を!」

誰かが叫んだ。

「ここへ持ってこい!」

後方で弾薬を配っていた女たちが、籠を抱えて走った。

中央政府の将校が止めようとした。

「前へ出過ぎるな!」

女の一人が怒鳴り返した。

「なら、あなたが運びなさい!」

将校は一瞬固まり、籠を一つ奪い取るように持った。

「貸せ!」

自分で前線へ走り始める。

命令を統一しようとしていた男が、命令を諦めたわけではない。

だが、今は弾を届ける方が先だった。

東側の林では、敵の補給馬車が動き始めていた。

砲列の混乱を避け、林道から弾薬と食料を前へ送ろうとしている。

炭焼きたちは、倒れかけた木へ掛けた縄を握っていた。

敵の護衛兵が見える。

若い炭焼きが小さく数えた。

「まだだ」

馬車の先頭が木の横を通る。

「まだ」

二台目。

三台目。

一番大きな火薬馬車が林へ入った。

「今だ!」

全員で縄を引いた。

木はすぐには倒れなかった。

根元が軋み、枝だけが揺れる。

護衛兵が音へ気付き、林を見た。

「もう一度!」

炭焼きたちは足を滑らせながら引いた。

木が道へ倒れた。

先頭の馬車と二台目は抜けたが、火薬馬車は急停止し、後続が次々に衝突する。

護衛兵が林へ入った。

炭焼きたちは戦えない。

弓も銃もない。

木を倒した若者が逃げ遅れ、腕を掴まれた。

その時、林の奥から猟銃が鳴った。

猟師たちは敵兵を倒すためではなく、枝の上を撃った。

乾いた枝が落ち、驚いた馬が暴れた。

護衛兵が馬車へ戻ろうとする。

炭焼きの若者は腕を振りほどき、林へ飛び込んだ。

補給馬車は焼けなかった。

奪われもしなかった。

ただ、前線へ届かなかった。

南方国軍の歩兵は、砲撃の支援も弾薬の補充もないまま水路を越え続けた。

数では勝っている。

押し込めば南部軍は崩れる。

敵将はそう判断し、さらに兵を入れた。

南部軍の中央は何度も下がった。

ジャンも下がった。

退かなかったのではない。

押されて後ろへ進んだ。

最初に立っていた水路から、家一軒分。

さらに石垣まで。

勝ててはいない。

敵を止めてもいない。

それでも、崩れなかった。

一つの部隊が下がれば、その後ろにいた自警団が横へ広がった。

自警団が弾を失えば、中央政府の兵が余った弾を渡した。

負傷者が増えれば、武器を持たない者が引きずって後ろへ運んだ。

命令書はなかった。

誰が責任を負うかも決まっていない。

目の前で足りなくなったものを、近くにいた者が埋めただけだった。

老将は後方の小高い場所から、その動きを見ていた。

「予備隊を出します」

副官が言った。

老将は首を振った。

「まだ早い」

「中央が持ちません」

「敵の主力もまだ動いていない」

「ジャンが死にます」

「一人のために予備を出せるか」

副官は黙った。

老将の言葉は正しい。

予備隊は戦線全体を救うためにある。少年一人を助けるためではない。

それでも老将の視線は、槍を杖にして立つジャンから離れなかった。

ジャンの周囲には、最初より多くの兵がいる。

命令されて集まったのではない。

あの少年がまだ立っている場所なら、戦線が残っていると考えて集まっている。

敵将も同じ場所を見ていた。

不揃いな軍の中央に、明らかな旗はない。

将軍らしい鎧もない。

それでも兵が何度もそこへ集まる。

敵将は、そこが指揮所だと判断した。

「中央へ砲を向けろ」

葡萄畑で動ける砲は、まだ二門残っていた。

砲兵が車輪を固定し、ジャンのいる石垣へ照準を合わせる。

農民の女が高台からその動きを見つけた。

「砲が向いた!」

叫びは前線まで届かない。

女は近くにいた少年へ言った。

「鐘を鳴らして!」

「何の鐘?」

「何でもいい!」

少年は小さな礼拝堂へ走った。

鐘の意味は決められていない。

敵の砲撃を知らせる合図でもない。

それでも、甲高い鐘が連続して鳴った。

前線の兵たちが振り向く。

ジャンも音の方を見た。

何かを知らせようとしている。

敵の砲口から煙が上がった。

「伏せろ!」

ジャンは叫んだ。

砲弾が石垣へ当たった。

石が弾け、ジャンの身体が再び地面へ投げ出された。

周囲の兵も倒れた。

鐘は鳴り続けている。

硝煙が晴れる前に、敵歩兵が突撃した。

南部軍の中央に穴が開いた。

老将は予備隊を見た。

まだ敵の主力は残っている。

ここで出せば、次の攻撃を防げない。

出さなければ、中央が破られる。

老将は歯を食いしばった。

「予備隊を出せ」

副官が息を呑む。

「全てですか」

「全てだ」

「敵の主力が」

「中央を抜かれれば、主力が来る前に終わる」

「ジャンのためでは」

老将は副官を睨んだ。

「戦線のためだ」

副官は号令を出した。

しかし予備隊は、号令が終わる前に動き始めていた。

鐘と砲撃を見て、ジャンのいる中央が崩れたと知った兵たちが、命令を待たず前へ出ていた。

老将はその背中を見た。

「軍紀も何もないな」

隣の士官が答えた。

「止めますか」

老将は首を振った。

「今だけは、後で叱る」

予備隊が中央へ入った。

砲撃で崩れた石垣を越え、敵歩兵と衝突する。

ジャンは石の下から腕を引き抜こうとしていた。

左肩は動かず、額から血が流れている。

兵士が石を退かした。

「生きていますか!」

「見れば分かる」

「分かりません!」

「なら、起こせ」

「後ろへ運びます」

「立たせろ」

「また倒れます!」

ジャンは兵士の襟を右手で掴んだ。

「私が後ろへ行けば、あの人たちも後ろを見る」

兵士は返せなかった。

二人でジャンを立たせた。

彼は剣も銃も持てなかった。

旗を持つ兵が近くで倒れている。

南部軍の旗ではない。

小さな町の自警団が持ってきた、紋章も何もない布だった。

ジャンはその旗竿を右手で掴んだ。

「これなら片手で持てる」

「戦えません」

「立てる」

ジャンは石垣の残骸へ上がった。

敵兵からも見える。

味方からも見える。

賢い位置ではなかった。

狙われるだけだった。

それでも、硝煙の中で旗が立った。

後ろへ下がりかけていた兵が止まった。

別の部隊が横から入った。

さらに別の自警団が、隙間を埋めた。

敵将は高台からその光景を見た。

革命政府の旗。

南部の地方旗。

町の自警団。

王政時代から使われていた古い軍旗。

旗の種類が増え続けている。

敵将には、どれが同じ軍なのか分からなかった。

援軍が到着したように見えた。

実際には、町の中で別々に待機していた部隊が、ジャンの立つ場所へ勝手に集まっただけだった。

「北から新手か」

敵将が尋ねた。

参謀は望遠鏡を覗いた。

「確認できません」

「旗が増えている」

「地方兵かと」

「どの地方だ」

「複数です」

敵将は林道から補給が届かないことを知った。

葡萄畑の砲列も半分が沈み、騎兵は水路で動けない。

正面の兵は押している。

だが、押すたびに異なる部隊が出てくる。

敵将には、それが最初から用意された予備なのか、北部から来た援軍なのか判断できなかった。

「復活王朝の部隊が南へ戻ったという報告があったな」

参謀が頷いた。

「一部です」

「既に合流したのではないか」

「旗は確認できません」

「隠している可能性は」

否定できなかった。

敵将は、勝っている戦場で初めて周囲を見た。

正面へ兵を入れ過ぎている。

補給は止まり、騎兵は分断され、重砲は動かない。

もし北側から新手が回り込めば、渡河点まで戻れなくなる。

ジャンは敵将の迷いを知らなかった。

自分たちが援軍と誤認されていることも知らない。

旗竿を握る右手が滑り始めていた。

血か汗かも分からない。

隣へ老将が来た。

「下がれ」

ジャンは旗を持ったまま顔を向けた。

「またそれか」

「もう役目は済んだ」

「勝った?」

「まだだ」

「なら済んでいない」

老将は敵陣を見た。

「奴らが迷っている」

「なぜ」

「こちらが何人いるか、向こうも分からなくなった」

「こちらも分かっていない」

「だから都合がいい」

老将は初めて笑った。

「追撃の準備をする」

ジャンの顔から僅かな笑みが消えた。

「川を越えるな」

「敵を崩せる」

「国境の外まで追えば、向こうの増援と戦うことになる」

「今なら」

「ここを守るために戦っている」

ジャンは敵軍の背後にある南の土地を見た。

「あちらを取るためではない」

老将はジャンを見た。

アーセンの国境維持も、ラファエルの国境拡大も、ジャンは知らない。

土地を得た後の築城や講和や包囲を計算したわけでもない。

ただ、自分が守ると言った場所がここまでだった。

「国境まで押す」

老将は言った。

「越えたら止める」

敵軍の中央で、撤退を知らせる角笛が鳴った。

最初は一部隊だけ。

次に騎兵。

葡萄畑の砲兵は、沈んだ砲を捨て、動かせる二門だけを引き始めた。

南部軍の前列が歓声を上げた。

ジャンは旗竿を杖にしながら叫んだ。

「走るな! 隊列を崩すな!」

誰も聞いていなかった。

若い兵たちは逃げる敵を追い始める。

中央政府の将校が馬を走らせ、横から怒鳴った。

「国境で止まれ! 追い越した者は自分で戻ってこい!」

騎兵隊長も水路を抜け、敵の側面へ出た。

ただし斬り込まず、渡河点へ向かう道を一本だけ空けた。

完全に囲めば、敵は死ぬまで戦う。

逃げ道を残せば、撤退する。

誰が決めた作戦でもなかった。

渡し守が、追い詰めた獣は人を噛むと言った。

騎兵隊長がそれを聞き、敵へ道を残しただけだった。

敵軍は川へ戻った。

堤道へ兵が集中し、渡り切れない者が浅瀬へ入る。

南部軍は岸まで押した。

銃撃は続いた。

川向こうからも撃ち返される。

ジャンはようやく追撃部隊へ追いついた。

自分で馬へ乗れず、兵二人に支えられていた。

「ここまでだ!」

彼は国境標の前で叫んだ。

兵たちはすぐには止まらなかった。

老将が同じ命令を出し、中央政府の将校も続け、各部隊の指揮官がようやく声を重ねた。

追撃が止まった。

川向こうの敵軍は、砲を一部捨て、負傷者を抱えたまま南へ退いていく。

誰かが国境標へ登り、旗を立てようとした。

ジャンが怒鳴った。

「そこへ立てるな!」

兵が驚いて手を止めた。

「勝った印です!」

「ここから向こうは、向こうの土地だ」

「敵の国です」

「だから何だ」

「旗くらい」

「自分の家へ敵の旗を立てられたくないなら、立てるな」

兵は不満そうに降りた。

ジャンは国境標へ背を預けた。

立っているためだった。

勝利を示す姿には見えなかった。

外套は泥と血で汚れ、左腕は動かず、額へ巻かれた布も赤く染まっている。

それでも、川のこちら側には敵兵が一人も残っていなかった。

夕方、宿場町へ戻った兵たちは、ようやく勝ったことを知った。

朝には、誰も勝てると思っていなかった。

ジャン自身も思っていなかった。

軍議で示された兵力差は間違っていない。

敵の重砲も騎兵も、こちらより強かった。

城壁都市まで退く判断も、軍事的には正しかった。

それでも敵は退いた。

渡し守が水路を教えた。

農民が葡萄畑を潰した。

炭焼きが補給を止めた。

猟師が馬を驚かせた。

女たちが弾を運んだ。

中央政府の将校が自分で籠を持った。

老将が予備を早く出した。

異なる部隊が、命令もないまま同じ場所へ集まった。

誰か一人の作戦ではない。

誰か一人が全てを動かした勝利でもない。

だが、ジャンが退かなければ、誰も自分の知っていることを持ち寄ろうとはしなかった。

町の施療所では、廊下まで負傷者が横たわっていた。

勝利を祝う声より、痛みを訴える声の方が多い。

ジャンは治療を拒み、先に運び込まれた兵を見て回ろうとした。

治療役の女が胸を押した。

「座りなさい」

「歩ける」

「歩ける人は、壁へ寄り掛かって息をしていません」

「先に」

「肩が外れています」

「戻せばいい」

「戻します。座りなさい」

ジャンは椅子へ押し込まれた。

外れた肩を戻される瞬間、声を上げた。

廊下の負傷兵たちが一斉にこちらを見た。

ジャンは歯を食いしばり、目に涙を浮かべたまま怒鳴った。

「見るな!」

負傷兵の一人が笑った。

「勝った人が泣いてるぞ」

別の者も笑った。

ジャンは涙を袖で拭った。

「痛ければ泣くだろう!」

笑い声が廊下へ広がった。

笑った者の中には、腕を失った兵もいた。

腹へ布を巻かれ、夜を越えられるか分からない者もいた。

勝利は、その痛みを消さなかった。

ジャンは肩を固定されると、椅子から立った。

治療役が再び止めようとする。

「どこへ行くの」

「名前を聞く」

「誰の」

ジャンは廊下へ並ぶ負傷者を見た。

「倒れた人の」

「全員?」

「私の近くで死んだ人の名前を知らない」

声が小さくなった。

「勝ったと言われても、誰がいなくなったのか分からない」

治療役はジャンの顔を見た。

少年だった。

戦場で旗を持って立っていた時より、肩を固定され、知らない兵の名前を聞こうとしている今の方が、ずっと幼く見えた。

「書記を付ける」

女は言った。

「一人では朝になる」

「朝まで掛かっても」

「明日も仕事があるでしょう」

ジャンは反論しかけ、廊下を見た。

負傷者へ水を運ぶ者が足りない。

包帯を洗う者も、家族へ知らせる者も足りない。

「分かった」

珍しく素直に頷いた。

「書記を二人。名前と、どこの人かと、家族がいるか」

「生きている人から?」

ジャンは少し考えた。

「生きている人から」

夜、南部軍の老将が施療所へ来た。

ジャンは寝台の間へ置かれた机で、負傷者の名簿を読んでいた。

「勝利報告へ署名しろ」

老将は紙を置いた。

ジャンは一行目を読んだ。

南部軍は、ジャンの卓越した指揮のもと、南方国軍を撃退した。

「これは違う」

「何が」

「卓越していない」

「勝った」

「渡し守と農民が決めた」

「軍の報告へ全員の名は書けん」

「なら、私の名も要らない」

「旗が要る」

「旗?」

老将は椅子へ座った。

「今日、兵が集まった場所を見ただろう」

「私が倒れた場所」

「そうだ」

「縁起が悪い」

「それでも集まった」

老将は勝利報告を指した。

「南部には、中央政府を信用しない者が多い。復活王朝も信用していない。地方の役人も互いを疑っている。それでも、今日だけはお前のいる場所へ集まった」

「勝ちそうだったから」

「最初は負けていた」

ジャンは黙った。

「お前が優れた作戦を立てたとは言わん」

老将は続けた。

「無謀だった。二度も倒れた。指揮所から離れ、予備を動かす時機も私へ任せた。軍人として褒めるところは少ない」

「なら書かなくていい」

「だが、お前が退かなかったから、渡し守も農民も、自分の知恵を出した」

「私が命じたわけではない」

「命じなかったからだ」

ジャンは老将を見た。

「私たちは、北から来る命令に疲れていた」

老将の声は静かだった。

「何を守るか知らない者が、正しい言葉だけ送ってくる。お前は勝ち方を知らないと言った。そして、知っている者へ聞いた」

「知らなかったから」

「知らないと言える者が、今はいない」

老将は立ち上がった。

「報告の文章は変えてもいい。だが署名はしろ。明日から、お前の名前でしか動かない部隊が出る」

ジャンの眉が寄った。

「困る」

「知っている」

「私は中央の人間ではない」

「だから集まる」

「王党派でもない」

「だから集まる」

「軍人でもない」

老将は少し笑った。

「今日から、それは通らん」

老将が帰った後、ジャンは勝利報告を何度も書き直した。

卓越した指揮という言葉を消し、南部の住民と各部隊の協力によって撃退した、と変えた。

自分の名前は最後の署名にだけ残した。

深夜、宿場町の南門へ一人の騎手が到着した。

馬は汗で濡れ、騎手の外套には復活王朝の古い印が縫い付けられている。

門兵が銃を向けた。

「止まれ!」

騎手は両手を上げた。

「戦うために来たのではない!」

「所属は」

騎手は答えるのをためらった。

「復活王朝軍だ」

門兵たちが互いを見た。

「武器を捨てろ」

「使者だ」

「武器を」

騎手は剣を外し、地面へ置いた。

「エッセン社へ向かっていた部隊から来た」

「なぜ南にいる」

「地元が攻められたと聞いた」

門兵の一人が、施療所へ続く道を見た。

「戦いは終わった」

「知っている」

騎手は息を整えた。

「南方国軍を退けた少年がいると聞いた」

「ジャンのことか」

「その人に会いたい」

「王朝へ勧誘するつもりなら帰れ」

騎手は首を振った。

「勧誘ではない」

「では何だ」

南の街道から、松明が一つずつ現れた。

一つではない。

長い列だった。

復活王朝の印を外套へ残した兵。

故郷の村旗を持つ者。

荷車へ家族を乗せた者。

エッセン社へ向かうはずだった部隊の一部が、進路を変えて南へ戻ってきていた。

騎手はその列を振り返った。

「帰ってきた」

門兵は松明の数を見た。

「どこへ」

「地元へだ」

騎手は宿場町の中へ視線を戻した。

「だが、地元を守っていたのは、俺たちの王朝ではなかった」

施療所の小窓には、まだ灯りが残っている。

ジャンはその中で、死者と負傷者の名前を読んでいた。

自分の勝利が、別の軍をこちらへ向かわせていることを、まだ知らなかった。


南門の外へ並んだ松明は、夜が深くなるほど増えていった。

最初に到着したのは、復活王朝の印を外套へ残した騎兵だった。その後ろから歩兵、荷車、負傷者、馬を失った騎手が続き、さらに兵士の家族、途中の村から連れてきた避難民、鍛冶道具を積んだ職人まで現れた。

軍だけが戻ってきたのではなかった。

戦争へ出た者が、戦争に巻き込まれた故郷を背負って帰ってきた。

門兵は扉を閉ざしたまま、城壁の上から松明の列を数えていた。

「まだ後ろにいる」

若い兵が呟いた。

「どこまで続いている?」

「林の曲がり角より向こうは見えない」

「復活王朝軍なら、敵だろう」

隣に立つ年嵩の兵が答えなかった。

つい数時間前まで、彼らは南方国軍と戦っていた。門外にいる復活王朝の兵も、同じ敵国軍が故郷へ入ったと聞いて戻ってきた者たちだ。

だが、同じ敵を持つことと、味方であることは違う。

城壁の下では、最初に来た騎手が何度も門を叩いていた。

「負傷者だけでも入れてくれ!」

門番が小窓を開いた。

「武器を置け!」

「置けば、後ろから南方軍が戻った時に戦えない!」

「武器を持ったまま王党派を入れられるか!」

「俺たちは地元の人間だ!」

「王朝の印を付けている!」

騎手は自分の外套を見た。

胸元には、死後に王とされた男を示す簡素な紋章が縫い付けられている。

彼は布を掴み、引き裂こうとした。

糸は強く、片手では外れなかった。

「これを外せば入れるのか!」

「印の問題ではない!」

「今、印だと言っただろう!」

門の外にいた兵たちが騒ぎ始めた。

後方の荷車から、子供の泣き声が聞こえる。

負傷者を乗せた車では、布へ染みた血が車輪の轍へ落ちていた。

門内では南部軍の兵が集まり、銃を構え始めている。

騎手は門を見上げた。

「ジャンを呼んでくれ!」

城壁の兵たちが顔を見合わせた。

「会ったことがあるのか」

「ない!」

「なら、なぜ」

「南方軍を追い返したのは、その人だろう!」

門番は小窓を閉じた。

施療所では、ジャンが死者の名簿を読んでいた。

動かない左腕は胸元へ固定され、額の傷には新しい布が巻かれている。名簿を押さえる手は右手しか使えず、紙をめくるたびに端がずれた。

廊下へ横たわる負傷者の声は、夜になっても途切れなかった。

痛みを訴える者、水を求める者、眠ったまま呼吸だけを続ける者。治療役たちは寝台の間を走り、血で汚れた布を次々に桶へ投げている。

ジャンの前に置かれた名簿には、既に百を超える名があった。

生存。

重傷。

行方不明。

死亡。

書記は一人の名を書くたび、どの欄へ入れるか迷った。戦場から運ばれた時には息をしていても、名を書き終える前に死ぬ者がいた。

ジャンは、死亡の欄へ移された名を一つずつ読み直していた。

「休みなさい」

治療役の女が、濡れた布を絞りながら言った。

「まだ終わっていない」

「終わりません」

「なら、なおさら」

「朝まで続きます。あなたがここで倒れても、名簿は終わりません」

ジャンは紙から顔を上げなかった。

「倒れない」

「今日だけで二度倒れました」

「一度目は馬から落ちた。二度目は砲弾だ」

「倒れたことに違いはありません」

扉が開き、南門の兵が入ってきた。

泥の付いた靴で施療所へ入ろうとして、治療役に睨まれる。

兵は慌てて入口で靴を脱いだ。

「ジャン」

「何だ」

「南門へ、復活王朝の部隊が来ています」

ジャンの指が名簿の上で止まった。

「何人」

「分かりません。軍だけではありません。家族と避難民もいます」

「エッセン社へ向かっていた部隊か」

「そう名乗っています」

「なぜ戻った」

「南方国軍が入ったと聞いたからだと」

ジャンは椅子から立とうとした。

左肩へ痛みが走り、顔が歪む。

治療役が正面へ回った。

「行かせません」

「門の外に人がいる」

「ここにもいます」

「武器を持っている」

「あなたは左腕が動きません」

「右腕は動く」

「何をするつもりです?」

ジャンは答えなかった。

治療役は彼の外套を取り上げ、右肩へ掛けた。

「戻ったら固定し直します」

「行かせないのでは?」

「行くのでしょう」

「そう言った」

「だから、早く戻りなさい」

ジャンは外套へ左腕を通せず、右側だけを羽織った。

施療所を出る時、寝台にいた兵が声を掛けた。

「王党派を入れるなよ」

別の負傷者が反対側から言った。

「俺の村の連中かもしれない」

「王党派だぞ」

「俺の兄も王党派に入った」

「なら兄ごと入れるな」

「今、外で死ねと言うのか」

寝台の間で言い争いが始まった。

ジャンは立ち止まらなかった。

南門へ近づくにつれ、兵の数が増えていった。

南部軍の正規兵、町の自警団、中央政府から派遣された部隊が、それぞれ別の位置へ集まっている。

誰も門を開けようとしない。

誰も最初に撃とうともしない。

門前では、南部軍の老将と中央政府の将校が既に口論していた。

「入れれば、町の中で反乱を起こします」

中央政府の将校が言った。

「外へ置けば、朝までに死人が出る」

老将が返した。

「武装解除すればよい」

「門を開ける前に、どうやって」

「代表だけを入れ、降伏を要求する」

「奴らは降伏しに来たのではない」

「復活王朝へ加わった者は反逆者です」

「南方国軍から故郷を守るため戻った者まで処刑するのか」

「所属を選んだのは本人です」

ジャンが二人の間へ入った。

「門を開けろ」

中央政府の将校が振り向いた。

「できません」

「負傷者がいる」

「兵を入れる口実です」

「子供もいる」

「王党派は子供を盾に使います」

ジャンは将校を見た。

「今、見たのか」

「可能性の話です」

「可能性で子供を外へ置くのか」

「可能性で武装兵を町へ入れる方が危険です」

老将がジャンの左肩を見た。

「ここへ来る身体ではない」

「それは治療役にも言われた」

「なら戻れ」

「門を開けた後に戻る」

中央政府の将校が一歩前へ出た。

「あなたに開門権限はありません」

「誰にある」

「南部軍司令部と中央政府代理人です」

「二人の意見が違う」

「だから協議しています」

ジャンは門外から聞こえる泣き声へ顔を向けた。

「いつまで」

将校は答えなかった。

「協議が終わるまで、負傷者は待てるのか」

「敵兵もいます」

「なら、先に負傷者と子供を入れる」

「兵が付いてきます」

「門の前で分ける」

「誰が」

「私が」

将校はジャンの固定された腕を見た。

「あなた一人で?」

「一人で始める。他の人が手伝うかは知らない」

ジャンは門番へ歩いた。

老将が溜息を吐き、後ろへ続いた。

「南部軍から二十人出す」

中央政府の将校は二人を見比べた。

「勝手な開門は認められません」

「なら止めろ」

老将が言った。

「銃を向ける相手を間違えるなよ。門の外にも中にも、今日お前と一緒に戦った兵がいる」

将校の部下たちが視線を逸らした。

今日の戦場で、中央政府の兵は南部軍や自警団と同じ水路を守った。今さら、誰の命令が上かという理由だけで銃を向けることはできなかった。

ジャンは門の小窓を開いた。

外にいた騎手の顔が見えた。

汗と泥と、乾いた血が頬へ貼り付いている。

「あなたがジャンか」

「そうだ」

「思ったより子供だな」

「あなたも思ったより汚い」

騎手の後ろで、誰かが笑った。

緊張した笑いだった。

騎手自身も一瞬だけ口元を緩め、すぐ元へ戻した。

「中へ入れてくれ」

「負傷者、子供、武器を持たない人からだ」

「兵は?」

「門外へ残る」

「夜明け前に南方軍が戻れば」

「こちらの兵も外へ出す」

「俺たちを囲むために?」

「一緒に見張るために」

騎手は小窓の奥にいる老将と中央政府の将校を見た。

「武器を捨てろと言われた」

「捨てなくていい」

中央政府の将校が声を上げた。

「ジャン!」

ジャンは振り返らない。

「町の中へは持ち込ませない。門外でまとめ、あなたたち自身の兵とこちらの兵が一緒に見張る」

騎手の目が細くなった。

「人質を中へ入れ、武器を外へ置けと?」

「家族を人質だと思うなら、連れてきたのはあなたたちだ」

騎手の顔に怒りが浮かんだ。

ジャンは続けた。

「中へ入れた人を捕まえない。外の兵を襲わない。代わりに、町の中で誰かを王党派だと捕らえたり、王朝の名で食料を取ったりするな」

「俺たちの旗は」

「持っていていい」

中央政府の将校が再び言った。

「認められません!」

ジャンは小窓から離れ、将校を見た。

「旗を燃やせば、この人たちは別の人間になるのか」

「反逆の象徴です」

「布だ」

「その布のために人が殺されています」

「だから、今ここで奪えば殺し合いになる」

「革命政府の旗へ従わせるべきです」

「南方国軍と戦った時、あなたの旗だけで皆が動いたのか」

将校は黙った。

戦場には南部軍の旗、自警団の布、昔の王国軍の軍旗、中央政府の三色旗が混在していた。どれか一つへ統一する時間はなかった。

それでも戦った。

ジャンは門外へ向き直った。

「旗は持っていていい。ただし、旗の名前で命令するな。ここでは、南部を守るための命令だけを使う」

騎手は暫く答えなかった。

「王への忠誠を捨てろと言うのか」

「知らない王へ何を誓ったかは、私に関係ない」

「無名の王を侮辱するな」

「名前がないのに、どう呼べばいい」

外の兵たちがざわめいた。

騎手は怒鳴り返しかけたが、ジャンの顔を見て止まった。

嘲笑しているのではない。

本当に分からない顔をしていた。

「俺たちは、王朝を復活させるために出た」

騎手は言った。

「それでも、南方国軍が村へ入ったと聞いて戻った」

「なら、今はどちらを守る」

「村だ」

「それでいい」

「王朝への忠誠は」

「村を守った後に考えろ」

騎手は後ろの松明を見た。

兵士たちの間には、荷車へ寄り掛かる老人、泣き疲れて眠る子供、腕を吊った負傷兵がいる。

王朝へ向かう途中で拾った者もいた。

地元から逃げてきた者もいた。

この列を連れたまま、再びエッセン社へ向かうことはできない。

「門を開けろ」

ジャンが命じた。

中央政府の将校は動かなかった。

老将が門番へ頷いた。

閂が外される。

重い扉が、人一人通れる幅だけ開いた。

最初に入ってきたのは、兵ではなかった。

毛布に包まれた小さな子供を抱いた女だった。女は門を越えた瞬間、周囲の銃を見て立ち止まった。

ジャンは道を空けた。

「施療所は真っ直ぐ。子供は?」

「熱がある」

「右の建物にも寝床を作らせる。施療所が一杯なら、そちらへ」

女は礼を言わず、早足で通り過ぎた。

次に、荷車へ乗せられた負傷者が入る。

車輪が門の段差へ当たり、傷ついた兵が呻いた。

南部軍の兵が車体を持ち上げた。

荷車を押していた復活王朝兵と目が合う。

二人は何も言わず、同じ車輪を支えた。

負傷者と家族が入り終わるまで、長い時間が掛かった。

門外へ残った復活王朝兵は、武器を一箇所へ集めた。ただし、銃も剣も彼ら自身が積み、南部軍と自警団が周囲を囲む形にした。

誰かが武器へ触れれば、すぐ争いになる。

誰も触れなかった。

騎手は最後まで門外へ残った。

「代表を三人、中へ」

ジャンが言った。

「俺だけでいい」

「一人なら、帰った後に勝手なことを言ったと疑われる」

「三人なら?」

「三人で疑い合える」

騎手の後ろにいた年嵩の兵が笑った。

「その少年、王朝評議会より話が早いぞ」

騎手は嫌そうな顔をしたが、年嵩の兵と、荷車を指揮していた女を連れて門を越えた。

会議は南門近くの倉庫で行われた。

司令所まで連れて行けば、復活王朝兵が町の中心へ入ったと噂になる。そのため穀物袋を端へ寄せ、樽を椅子代わりにして話し合うことになった。

南部軍の老将、中央政府の将校、町の役人、ジャン。

復活王朝側からは三人。

机の代わりに、空箱の上へ南部の地図が置かれている。

騎手は地図より先にジャンを見た。

「俺たちをどうする」

「何ができる」

「処分の話だ」

「何ができるかを聞いている」

「兵だ。戦える」

「何人」

騎手は正確な数を言わなかった。

「部隊ごとにばらばらだ。後ろからまだ来る」

「馬は」

「騎兵用は少ない。荷馬はある」

「砲は」

「軽いものが二門。弾は少ない」

「食料は」

「五日分」

町の役人が顔を上げた。

「その人数で五日?」

「途中で補給する予定だった」

「どこから」

騎手は答えなかった。

復活王朝は、エッセン社へ続く道で協力者から食料を受け取る予定だった。だが、地元へ進路を変えたことで、その補給路から外れている。

ジャンは荷車を指揮していた女へ尋ねた。

「武器以外に何がある」

「鍛冶道具、車輪の予備、布、薬草、塩、麦。家族が持ち出した物も混ざっている」

「鍛冶職人は」

「十二人。見習いを入れれば、もっと」

町の役人が身を乗り出した。

「十二人?」

「皆、復活王朝軍の武器を直すために連れて行かれた」

年嵩の兵が訂正した。

「雇われた」

女は彼を睨んだ。

「家族を置いて行けば、王党派へ協力しなかったと疑われるから付いてきたのよ」

「給金は出ていた」

「二度しか」

二人の言い争いを、ジャンは止めなかった。

中央政府の将校が苛立ったように地図を叩いた。

「兵力を確認する前に、所属を確定すべきです。この者たちは復活王朝軍です。武装解除し、指揮官を拘束し、兵士一人ずつを審査する」

騎手の手が剣のない腰へ動いた。

「やってみろ」

「反逆者が」

「中央は俺たちの村を守ったのか!」

「王朝軍が先に国を割った!」

「処刑を始めたのはそちらだ!」

倉庫の外にいる兵たちが、声を聞いて動き始めた。

ジャンは空箱へ右手を置いた。

「ここで争うなら、全員外へ出ろ」

騎手と将校が同時に彼を見た。

「外で続きをして、残った方だけ戻ってくればいい」

「何を」

「その間に南方国軍が戻ったら、勝った方が一人で戦え」

老将が口元を押さえた。

笑いを隠したのか、呆れたのかは分からない。

中央政府の将校は顔を赤くした。

「敵と反逆者を同列に扱うのですか」

「今、南から戻ってくる敵と戦える人間を数えている」

ジャンは地図の南側を指した。

「今日追い返した軍は、全滅していない。砲も一部残っている。川向こうで増援を受ければ、また来る」

「だからこそ、内部の反逆者を先に」

「この人たちを捕まえれば、門外の兵が戦う」

「制圧します」

「誰が」

将校は南部軍の老将を見た。

老将は首を振った。

「今日戦った兵へ、今夜また別の兵を撃たせるつもりはない」

「政府命令です」

「命令書は来ていない」

「革命政府の原則です」

「原則では兵を動かせん」

町の役人が割って入った。

「それより食料です。町には避難民と負傷者が増えています。外の部隊まで入れば、三日で倉庫が空になる」

復活王朝側の女が言った。

「私たちの麦を使う」

「五日分しかないのでしょう」

「軍だけなら」

「家族は?」

女は黙った。

ジャンは地図の北西へ指を移した。

「この村に倉庫がある」

町の役人が眉を寄せた。

「中央軍向けの備蓄です」

「中央軍は来ない」

「勝手に使えば処罰されます」

「使わず奪われれば?」

「南方国軍は川向こうへ」

「戻ってくる」

「確実では」

「戻らないと決める理由もない」

ジャンは復活王朝の騎手へ向き直った。

「北西の街道を知っている者は?」

「俺たちの部隊に、あの辺りの出身者がいる」

「倉庫までの道を守れるか」

「守れる」

「食料を奪うな。倉庫番と話し、必要な分だけ運ぶ。領収書を残す」

騎手は目を細めた。

「俺たちへ命令するのか」

「できないなら、できないと言ってくれ」

「従うとは言っていない」

「従わなくていい」

ジャンは別の街道を指した。

「あなたたちが地元へ戻るなら、この道を守る必要がある。守らなければ家族へ食料が届かない。私のためではない」

騎手は地図を見た。

命令ではない。

忠誠も求められていない。

それでも、断れば自分たちが困る。

「誰の名で領収書を書く」

「南部軍」

老将が答えた。

中央政府の将校が反発した。

「中央政府の名を」

「支払うのか」

老将が尋ねる。

「正式な手続きを経れば」

「いつ」

「戦後です」

町の役人が乾いた笑いを漏らした。

「どの政府が残った後です?」

将校は黙った。

ジャンは言った。

「私の名前で書いていい」

全員の視線が集まった。

「あなたの?」

町の役人が聞き返す。

「南部軍でも中央政府でも復活王朝でも、後で払わないと言うなら、私が借りたことにする」

「払えるのか」

「今は無理だ」

「では意味がない」

「誰が取ったかは残る」

ジャンは前日の戦いでラファエルから受け取ったわけではないが、ラファエルが領収書を残すとした思想に似た現実感を自然に持つ?

町の役人は紙を見た。

「あなたが死ねば?」

「借金が残る」

「誰へ」

「私の名前へ」

年嵩の兵が笑った。

「名前だけは、もう随分高く売れそうだ」

ジャンは意味が分からず、眉を寄せた。

会議は所属を決めないまま、仕事だけを決めていった。

復活王朝の帰還兵は、北西の街道と倉庫を守る。

南部軍は南方国軍が戻る可能性のある渡河点へ配置される。

自警団は町と避難民を守る。

中央政府の部隊は、他の部隊と争わず、砲と火薬の管理を担当する。

鍛冶職人は、壊れた銃と車輪を修理する。

荷車を持つ者は、負傷者と食料を運ぶ。

誰が誰へ忠誠を誓うかは、決まらなかった。

旗も統一されなかった。

それでも、翌朝までに必要なことだけは決まった。

会議が終わる頃、門外から新しい騒ぎが聞こえた。

復活王朝の別の一隊が到着していた。

最初の部隊とは違う旗を持ち、指揮官も別だった。

後から来た指揮官は、自分の方が階級が上だと主張した。

「先に着いた部隊の指揮権も、こちらへ移す」

騎手が立ち上がった。

「王朝軍を離れていないのだから当然だ」

年嵩の兵が鼻で笑った。

「補給もないまま俺たちをエッセン社へ送った連中が、今さら何を命じる」

「任務を放棄したのはそちらだ」

「故郷が攻められた」

「王朝が勝てば、故郷も救われる」

「勝つまで何人死ぬ」

倉庫の外で、復活王朝兵同士が睨み合った。

南部軍の兵は銃へ手を置いた。

ジャンは外へ出た。

新しく来た指揮官は、彼の姿を見ると露骨に眉を上げた。

「この子供が?」

「ジャンだ」

最初の騎手が答えた。

「南方国軍を撃退したというのは、本当か」

新しい指揮官が尋ねる。

「皆で追い返した」

「あなたの指揮ではないと?」

「私だけでは無理だった」

指揮官は小さく笑った。

「正直なのか、自分の価値を分かっていないのか」

「どちらでもいい」

ジャンは門外へ続く列を見た。

「あなたたちも地元へ戻るのか」

「王朝軍として南部を確保する」

最初の騎手の顔が険しくなった。

「確保?」

「復活王朝の統治下へ置く。革命政府の部隊を武装解除し、町の行政を接収する」

南部軍の兵たちが一斉に動いた。

中央政府の将校が剣へ手を掛ける。

ジャンは新しい指揮官へ尋ねた。

「南方国軍は?」

「再び来れば、王朝軍が排除する」

「今夜は?」

「部隊を休ませる」

「渡河点は誰が守る」

「既にいる南部兵へ命じる」

「従わなければ?」

「反逆者として処理する」

ジャンは新しい指揮官の後ろにいる兵を見た。

疲れていた。

泥に汚れ、靴底が剥がれ、何人かは立ったまま眠りかけている。

彼らも命令を出したい顔ではなかった。

地元へ帰りたい顔だった。

「あなたの兵に聞く」

ジャンは言った。

指揮官の顔色が変わる。

「軍の命令は指揮官が決める」

ジャンは兵たちへ向けて声を上げた。

「王朝のために町を取る人は、そのまま指揮官の後ろへ残ってくれ。地元を守るために帰った人は、門の右へ」

兵たちは動かなかった。

新しい指揮官が怒鳴った。

「動くな!」

ジャンは待った。

最初に動いたのは、荷車を引いていた若い兵だった。

彼は門の右へ歩いた。

次に、その弟らしい少年兵が続いた。

三人。

十人。

一隊の半分近くが、指揮官の後ろから離れた。

残った兵も、忠誠のために残ったというより、動く勇気がなかった者が多かった。

指揮官は剣を抜いた。

「脱走だ!」

最初の騎手も剣のない腰へ手をやった。

門内の兵が銃を構える。

ジャンは指揮官の前へ立った。

「斬れば、あなたの兵が減る」

「規律を守るためだ」

「南方国軍は喜ぶ」

「黙れ」

「私を斬っても、右へ動いた兵は戻らない」

指揮官の剣先が、ジャンの胸元へ向いた。

左腕は固定されている。

右手にも武器はない。

老将が後ろから一歩出たが、ジャンは振り返らなかった。

「私たちの町へ入って、私たちと戦うのか」

指揮官の剣は動かなかった。

「王朝への反抗を放置できない」

「王朝は今、ここを守っていない」

「我々が守る」

「なら、南を向け」

ジャンは川の方角を指した。

「敵はあちらだ」

指揮官の視線が、剣先から南へ動いた。

南方国軍は今夜すぐには来ないかもしれない。

だが戻る可能性はある。

自分の部下を斬り、南部軍と争い、町を占領した後に敵が来れば、王朝軍は地元を守るどころか敵を助ける。

指揮官は剣を下ろした。

「王朝の旗は降ろさない」

「降ろさなくていい」

「指揮権も渡さない」

「必要な場所を守れるなら、それでいい」

「あなたの命令には従わない」

「聞いてから決めればいい」

指揮官はジャンを睨んだ。

勝ったとも負けたとも言えない顔だった。

翌朝、町の外には、昨日まで存在しなかった軍営ができていた。

南部軍の旗。

中央政府の旗。

復活王朝の旗。

町ごとの小さな布。

紋章を持たない自警団。

どの旗も隣の旗へ頭を下げていない。

それでも、兵士たちは同じ鍋から食事を受け取り、同じ鍛冶場で武器を直し、同じ地図を見て守備位置を確認していた。

復活王朝の鍛冶職人が、南部軍の壊れた銃を修理する。

中央政府の砲兵が、王朝軍の軽砲へ使える弾を選ぶ。

自警団が、戻ってきた兵の家族へ寝床を作る。

昨日なら、互いを告発していた者たちだった。

今も信用してはいない。

ただ、南方国軍が再び来れば、隣にいる者と一緒に戦うしかなかった。

ジャンは朝から、複数の代表に囲まれていた。

「北西倉庫へ向かう通行証を」

「南の渡河点へ送る兵の順番を」

「避難民の配給を増やしてくれ」

「復活王朝兵が町で王の刊行物を配っています」

「中央政府の兵が、その紙を持った住民を拘束しました」

「鍛冶場の炭が足りません」

「軽砲の馬がありません」

「負傷者の薬が」

「待ってくれ」

ジャンは右手で額を押さえた。

左肩の痛みは、朝になって強くなっていた。

「一つずつ」

代表たちは黙らなかった。

老将が笑いながら近づいた。

「昨日まで、一部隊の指揮すらしていなかった男の顔ではないな」

「誰がこの人たちを呼んだ」

「お前だ」

「呼んでいない」

「門を開けた」

「負傷者と家族を入れただけだ」

「兵へ仕事を与えた」

「必要だった」

「旗を奪わなかった」

「奪えば争う」

「指揮官を拘束しなかった」

「拘束すれば兵が戦う」

老将はジャンの前へ紙束を置いた。

「だから集まった」

紙には、南部各地から届いた報告が記されていた。

南方国軍撃退の知らせを受け、複数の町が守備隊をジャンの側へ送る。

北部の混乱を避けていた地方部隊が、南部の共同防衛へ参加。

復活王朝へ加わった地元兵の一部が帰還中。

中央政府の命令を待っていた部隊が、独自に南へ移動。

「多過ぎる」

ジャンは呟いた。

「兵が増えるのが嫌か」

「食料が足りない」

「現実的だな」

「指揮官も多過ぎる」

「それぞれ、自分が上だと思っている」

「一つにしなければ」

「誰の下へ」

ジャンは紙束を見た。

革命政府の下へ戻せば、復活王朝兵が離れる。

復活王朝の下へ置けば、南部軍と中央政府の部隊が反発する。

南部評議会へ渡せば、北部から来た者は従わない。

老将が答えを待っている。

ジャンは紙束を閉じた。

「一つにしない」

「何?」

「敵が来る場所ごとに、必要な人を置く」

「指揮系統は」

「渡河点の責任者、倉庫の責任者、町の責任者を決める。その場所では、その人の命令を聞く」

「政府や王朝の階級は?」

「場所の外で使えばいい」

老将は少し考えた。

「戦場ごとに軍を作るのか」

「軍を作るつもりはない」

「もうできている」

ジャンは周囲を見た。

昨日まで別々に動いていた兵が、町の外へ長い陣地を作っている。

南の渡河点には南部軍と復活王朝の帰還兵。

北西の倉庫には自警団と王朝軍の騎兵。

町には中央政府の砲兵と地元の若者。

敵がどこから来ても、一つの勢力だけでは突破できない配置になり始めていた。

誰かが全体を設計したわけではない。

必要な場所へ、必要な者が集まった結果だった。

南部評議会の代表が、印章を持って現れた。

「共同防衛令を出したい」

「出せばいい」

ジャンが答える。

「署名が必要です」

「評議会の印がある」

「それだけでは、復活王朝兵が従わない」

中央政府の将校も来た。

「政府印も押せます」

復活王朝の騎手が首を振った。

「政府の命令なら従わない部隊がある」

「王朝の印を」

「中央軍が拒む」

全員がジャンを見た。

彼は嫌な予感がした。

「私の名前は印章ではない」

老将が言った。

「今は、印章より役に立つ」

「昨日の勝利だけだ」

「その昨日まで、誰も南方国軍を追い返していない」

「皆で勝った」

「なら、皆が従える名を一つ出せ」

ジャンは答えられなかった。

革命政府の名では、処刑された者の家族が従わない。

復活王朝の名では、王政を拒む者が従わない。

南部の名では、北から戻った兵が自分たちを切り離されたと感じる。

誰もが自分の旗を捨てず、他人の旗だけを嫌っている。

ジャンの名だけが、まだどの旗にもなっていなかった。

南部評議会の代表が紙を差し出した。

「期限を付けます」

「期限?」

「南方国軍の脅威がなくなるまで。共同防衛に関する命令だけ。行政、裁判、徴税には使わない」

中央政府の将校が反対した。

「政府の権限を越えます」

「政府の命令は、いつ届きます?」

代表が尋ねた。

「連絡路が」

「届いた時、南方国軍が門前にいれば?」

将校は紙を見た。

復活王朝の騎手が言った。

「王朝への忠誠は変えない」

「変えなくていい」

ジャンは答えた。

「政府へ戻る部隊も止めない。南部へ残る者だけ、この紙に従う」

「あなたが王朝と戦えと命じたら?」

「共同防衛と関係ない」

「革命政府の兵を捕らえるなと命じたら?」

「町の中で争うなとは命じる」

「それでも従わない部隊がいたら?」

ジャンは地図を見た。

「食料を渡さない」

老将が笑った。

「随分、軍人らしくなった」

「食料がなければ残れないだけだ」

「軍とは、大体そういうものだ」

ジャンは紙を受け取った。

右手で署名する。

文字は乱れた。

肩の痛みと寝不足で、最後の線が大きく曲がった。

その一枚を元に、複数の写しが作られた。

南部共同防衛。

目的は、南方国軍および国外勢力の侵入阻止。

各部隊は従来の旗と内部指揮権を維持する。

戦闘地域では、配置された現地責任者の命令を優先する。

住民への無断徴発、政治的拘束、他派閥の旗への攻撃を禁ずる。

期限は、国外軍の脅威が除かれるまで。

最高責任者の欄には、ジャンの名だけが書かれた。

本人が望んだ軍ではなかった。

国家を奪うために集めた軍でもない。

少年の思想へ感銘を受け、一斉に忠誠を誓った者たちでもなかった。

革命政府を恐れる者。

復活王朝を信じる者。

どちらも信じない者。

家族を守りたい者。

故郷へ帰りたい者。

北部の乱闘へ巻き込まれたくない者。

昨日、ジャンが敵を追い返したという一つの事実だけを頼りに、互いを嫌ったまま集まってきた。

正午には、南部各地へ共同防衛令の写しが運ばれた。

夕方には、街道を閉じていた地方兵がジャンの名で通行証を発行し始めた。

夜には、北部から逃げてきた商人が、南部へ入るにはジャンの許可が必要だと話した。

翌朝には、国外の斥候が、南部全域を一人の少年が掌握したと報告した。

どれも正確ではなかった。

ジャンは南部全域を見たことすらない。

自分の軍が何人いるかも知らない。

各部隊は、今も別々の旗へ従っている。

それでも、彼の名を通さなければ道が開かず、食料が動かず、兵が配置できなくなった。

意図せず、南部の中心へ置かれていた。

夜、ジャンはようやく施療所へ戻った。

治療役は、固定の緩んだ肩を見ると何も言わず、布を全て外した。

「痛い」

「知りません」

「さっきより強く締めていないか」

「門へ行かなければ、締め直す必要もありませんでした」

「戻ってきた」

「一日遅い」

ジャンは椅子へ座り、机へ積まれた新しい紙束を見た。

共同防衛令への参加願い。

食料の要求。

兵の配置。

復活王朝兵の身元確認。

中央政府から届いた、王党派を拘束せよという命令。

南部評議会から届いた、ジャンを臨時軍司令官として認めるという通知。

「全部、明日でいい?」

ジャンが尋ねた。

「明後日でも構いません」

治療役は肩の布を強く引いた。

「痛い!」

「死ななければ、書類は逃げません」

「兵は逃げる」

「逃げたい兵まで、止めるのですか」

ジャンは答えなかった。

治療役は固定を終え、彼の前へ水を置いた。

「随分、大きな軍を作ったそうですね」

「作っていない」

「町では、もうジャン軍と呼ばれています」

「やめさせてくれ」

「私に軍を止める権限はありません」

「私にもない」

治療役は初めて小さく笑った。

「皆は、あると思っています」

窓の外では、複数の軍旗が夜風に鳴っていた。

そのどれもジャンの旗ではない。

だが、旗の下にいる兵たちは、明日の配置を知るためジャンの署名を待っていた。

南部の勝利と、帰還した復活王朝部隊の合流は、まだ中央へ正確に伝わっていなかった。

伝令の一人は、南部勢力が革命政府へ反旗を翻したと書いた。

別の者は、復活王朝が南部を奪ったと報告した。

国外の斥候は、聖人のような少年将軍が敵対勢力を一つにまとめたと記した。

どれも違っていた。

ただ一つだけ、全ての報告に共通していることがあった。

南部へ、新しい巨大勢力が出現した。

ジャンはその報告を知らないまま、机へ伏せた。

眠ったのではなかった。

肩が痛み、紙を読む力が尽きただけだった。

その頃、遠く離れた部屋では、アデルが塔から届いた新しい搬入記録を開いていた。

南部へ兵と密告者の視線が集まり、塔の守備隊からも数人が移動したと記されている。

レオンは南部から届いた別の紙を読み、地図へ新しい印を置いた。

「ジャンの勢力が、予想より早く膨らんだ」

レイモンは塔へ運ばれた薬の量を見ていた。

「守備は減ったが、薬がまた増えている」

アデルは二枚の紙を並べた。

南では、誰も計画しなかった巨大な軍が生まれた。

塔では、誰にも見せてはならない一人の女性が、さらに弱っている。

「皆様が南を見ている間に進めますわ」

アデルは、第一の荷車を動かす時刻へ印を付けた。

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