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夫人革命逃亡記  作者: 伊阪証
修正版本編

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最終章前編:百万の犠牲

ジャン捕縛の報告が首都へ到着した時、革命政府の会議室には、まだ夜の灯りが残っていた。

窓の外では朝の鐘が鳴り始めていたが、厚い雨雲のため空は暗く、卓上へ並べられた燭台の炎も消されていない。蝋は受け皿から溢れ、机の木目へ白い筋を作っていた。

会議室に集められた者たちは、誰も上着を脱いでいなかった。

軍務委員は濡れた外套の裾を椅子へ巻き込み、財政委員は冷えた茶を何度も口元へ運びながら、一度も飲んでいない。地方行政を担当する委員の前には、南部から届いた報告書が積み上がり、その最上部へ、アーセン軍の捕虜引渡書の写しが置かれていた。

その名は国境を跨いだ結果…DarkAngleという汚名に変わった。

その文字の下には、ジャン本人の特徴、負傷の有無、同行した側近と医師、押収された剣と衣服が記されている。

国内で使われてきた名とは綴りが違った。

だが、政府が確認しなければならないのは呼称ではない。

ジャンが生きたまま国境を越え、アーセンの管理下へ置かれたという事実だった。

ロベルトは報告書を最後まで読み、机の中央へ戻した。

表情は変わらなかった。

ただし、紙を置いた指だけが、そのまま離れずに残った。

「本人の署名はない。」

軍務委員が椅子の背から身体を起こした。

「捕虜引渡書です。本人が同意して署名する書類ではありません。」

「ジャンが捕らえられたという証明にはならない。」

「同行していた医師の名、側近の特徴、剣の意匠まで一致しております。」

「アーセンが、それらを先に調べていた可能性は?」

軍務委員は一度、目を伏せた。

ロベルトの問いが、単なる否認ではないことを理解していた。

戦場では偽情報が使われる。

指揮官を捕らえたと流し、敵軍を分裂させることもある。ジャン本人を捕らえられなくても、剣や命令書だけを奪い、国外へ運んだように見せることは不可能ではない。

しかし今回、ジャン軍は既に分裂していた。

救出先をアーセン領と考える部隊、ラファエルを疑う部隊、レオンが秘密裏に拘束したと主張する部隊が、それぞれ別方向へ動き始めている。誰もジャン本人から命令を受けていない。

「偽報だとしても、ジャン軍は本人を失ったと考えています。」

軍務委員は言葉を選んだ。

「それが、現在の軍事情勢です。」

ロベルトの指が、ようやく紙から離れた。

「部隊ごとの状況は。」

地方行政委員が、別の報告書を開いた。

「北西の二部隊は、元の町へ戻ると通告しました。東側の革命軍出身者はレオンへの復帰を求めています。南西では、ジャン救出を名目として武器庫から火器を持ち出そうとした部隊と、それを止める地方兵が衝突しました。」

「死者は?」

「確認中です。」

「確認中という言葉を、昨日から何度聞いた。」

地方行政委員の唇が固くなった。

「道が塞がれております。報告を運ぶ伝令も、ラファエル、アーセン、レオンのいずれかへ止められる。町から出られない書記も多いのです。」

「ならば、政府の名で三者へ通行を要求しろ。」

軍務委員が小さく息を吐いた。

ロベルトの視線が向く。

「何です。」

「政府の名が、現在どこまで通じるのかという問題です。」

「我々は、まだ政府だ。」

「中央の命令へ従う部隊が、どれだけ残っています。」

「従わせるのが軍務委員の仕事ではないのか。」

「従わせる兵がいません。」

軍務委員は机の下へ置いていた紙束を取り出した。

革命軍の兵籍表である。

赤い線が引かれた部隊は、消息不明、ジャン軍へ合流、レオンの指揮へ移行、あるいは地方防衛を理由に中央命令を拒否している。黒い印は、名簿上は存在するが、実際の兵数を確認できない部隊だった。

中央政府の直接指揮下へ残る兵は、首都警備と収容施設の護衛を合わせても、以前の三分の一に届かない。

「レオンへ命じろ。」

ロベルトは表を見ながら言った。

「元革命軍を回収するなら、政府の指揮下へ戻すべきだ。」

「既に命令を送りました。」

「返答は。」

「ありません。」

「拒絶か。」

「返答がない、と申し上げました。」

軍務委員の声には、以前なら見せなかった硬さがあった。

政府が強かった頃、返答のない部隊は反逆として処理できた。

今は、処理する軍がいない。

沈黙と拒絶の違いを確かめる力すら、政府から失われていた。

ロベルトは卓上の燭台へ視線を落とした。

炎の先端が僅かに揺れ、黒い煙を上げている。

「ダンは。」

財政委員が顔を上げた。

「特別拘留区画におります。」

「聴取は進んだのか。」

「秘密拘束所と印章不正使用については。ただし、マルス銃撃への関与は依然として立証されておりません。」

「協力は?」

「政府から全記録の提出を求めました。」

「何と答えた。」

「正式な起訴内容と、弁護人との接触を認めなければ応じないと。」

ロベルトの口元が僅かに歪んだ。

「拘留されても、まだ手続を盾にするのか。」

「本人が作った手続です。」

財政委員は、言ってから目を逸らした。

咎めたわけではない。

だが、ダンへ適用された手続の多くを、ロベルトも承認してきた。証拠を消す可能性があれば、起訴前に拘束する。証人へ接触する危険があれば、弁護人との面会も制限する。国家の存続が懸かる時には、通常の期限を延長できる。

必要な規則だった。

少なくとも、適用される相手が自分たちの敵である間は、誰も止めなかった。

「マルスの容態は。」

「意識は安定し始めています。演説へ戻れる状態ではありません。」

「本人の声明を出せ。」

軍務委員が眉を寄せた。

「医師が、長い聴取を禁じています。」

「長い必要はない。ジャン捕縛と各地のクーデターへ反対し、政府への服従を求めるだけでよい。」

「マルスが、それを言うと?」

「言わせるのではない。政府の一員として必要な声明を求める。」

財政委員が茶器を置いた。

中身は冷えていたが、器の縁から僅かに音が出た。

「本人は、銃撃犯へ政府が用意した動機を認めませんでした。」

「それと、この声明は別だ。」

「マルスは、ジャンを政府の敵だとも言わなかった。」

「捕縛された今、状況が変わった。」

「変わったのは、こちらの都合です。」

会議室の空気が止まった。

財政委員は、自分がどこまで言ったかに気付き、視線を卓上へ落とした。

ロベルトは怒鳴らなかった。

怒鳴れば、今の発言を反逆として処理する力が自分に残っていないことを、全員へ見せる。

「政府の都合と国家の都合を、同じものと考えるのが我々の仕事だ。」

財政委員は顔を上げた。

「以前は、そう考えておりました。」

「今は?」

「政府を守るために国家を使っているのか、国家を守るために政府を残しているのか、分からなくなっています。」

「分からない者が、財政を預かるのか。」

「分からないから、数字だけは確認しております。」

財政委員は、別の帳簿を開いた。

「首都の穀物価格は、十日前の二倍を超えました。南部へ送る軍用麦が滞り、商人は国外の買い手へ売る方を選んでいます。政府紙幣での取引を拒む市場も増えました。」

「価格統制を。」

「命令は出ています。」

「執行しろ。」

「市場へ送った役人が追い返されました。」

「警備兵を付ければよい。」

「兵士自身が、家族のために麦を買っております。」

財政委員は帳簿の数字を指で押さえた。

「価格を固定すれば、表の市場から麦が消えます。押収すれば、生産者が次の荷を隠す。商人を処刑すれば、輸送を担う者がいなくなる。」

「だから、何もしないのか。」

「いいえ。」

委員は言葉を切らず、ロベルトの問いを受けた。

「何をしても悪化する状況へ、既に入っていると報告しています。」

ロベルトは椅子の背へ身体を預けなかった。

姿勢を崩せば、疲労していると見られる。

その警戒だけが、まだ身体を支えていた。

会議室の扉が開いた。

許可を待たず、一人の若い書記が入ってくる。顔は青ざめ、抱えていた紙束の端が手の震えによって鳴っていた。

「会議中だ。」

ロベルトが言うと、書記は立ち止まった。

「承知しております。しかし、委員会から直ちに提出するよう命じられました。」

「何の委員会だ。」

「国家保全臨時委員会です。」

ロベルトの眉間へ、深い皺が入った。

「そのような委員会を設置した覚えはない。」

若い書記は紙束の最上部を差し出した。

「昨夜、残存する議員と各省の代表によって設置されました。」

「誰の承認で。」

書記は答えられなかった。

ロベルトは紙を受け取らず、卓上を指した。

書記はそこへ置き、一歩下がる。

国家保全臨時委員会設置決議。

ジャン捕縛、連続する行政庁占拠、ダン拘留、マルス負傷によって、革命政府の意思決定能力が著しく損なわれたため、各省と議会の連携を維持する臨時機関を設ける。

文面だけを見れば、ロベルトの権限を奪うとは書かれていない。

しかし、軍務、財政、地方行政、司法監督の緊急決定を、委員会の多数決によって代行できるとある。

ロベルトの署名も承認も必要ない。

「無効だ。」

書記は目を上げなかった。

「会議へ提出するように、とだけ。」

「提出者は。」

「三十二名の署名があります。」

「ここにいる委員も署名したのか。」

誰もすぐには答えなかった。

軍務委員が、やがて上着の内側から眼鏡を取り出した。普段は細かな文字を読む時だけ使うものである。

それを掛け、決議書を見た。

「署名しております。」

ロベルトの目が男へ向いた。

「先ほどまで報告をしていた相手の権限を、昨夜のうちに奪った?」

「権限を奪う決議ではありません。」

「代行できるなら、同じだ。」

「現在の政府機能を維持するためです。」

「私が、機能を止めていると?」

軍務委員は一度、唇を閉じた。

返答を避ければ、恐れていると見える。

正面から認めれば、長年従ってきた指導者へ、自分の口で退陣を求めることになる。

「一人へ決定を集中させる状態を、続けられないと判断しました。」

「今、権力を分散させれば、各省が別々に動く。」

「既に動いています。」

「だから統一する責任者が必要なのだ。」

「その責任者へ、報告が集まらなくなっています。」

軍務委員は兵籍表を指した。

「レオンは返答せず、ラファエルは独自に包囲を動かし、地方軍はジャンの名を使い、アーセンは捕虜を国境の外へ運んだ。あなたの命令を待っている者より、あなたの命令が届かない理由を探す者の方が多い。」

「それを理由に、私を外す?」

「あなたを外すことが目的ではありません。」

「では、誰を中心にする。」

「中心を一人に置かない。」

ロベルトは初めて椅子の背へ身体を預けた。

疲労を隠すより、男の発言を理解することへ意識が向いた。

「一人に置かない政府が、軍を止められると思うのか。」

「一人へ置いた結果が、今です。」

軍務委員の声が僅かに掠れた。

攻撃ではなかった。

自分もその体制を支えてきたため、責める言葉が自分へも返っている。

ロベルトは他の委員を見た。

財政委員は決議書の署名欄へ目を落とし、地方行政委員は報告書を閉じていた。

「全員、署名したのか。」

財政委員が答えた。

「私は、財政権限の臨時移行だけに。」

「同じだ。」

「同じではありません。」

「結果として、私の承認なしに穀物と通貨を動かせる。」

「あなたの承認を待っている間に、相場が一日で変わります。」

「独断で商人と取引するつもりか。」

「これまでも、指示が届かない時には現場が動いていました。」

「それを認めれば、腐敗が広がる。」

「既に広がっております。」

財政委員は茶器を両手で包んだ。

冷えているはずなのに、指先が震えていた。

「違うのは、認めるか、報告書の外へ追い出すかだけです。」

ロベルトは決議書を手に取った。

三十二名の署名。

その中には、彼が若い頃から共に革命運動へ参加した者、恐怖政治の開始時に最後まで慎重論を唱えた者、王党派の処刑へ賛成した者、後から政府へ加わった地方代表が混じっている。

思想も利害も一致しない者たちが、ロベルト一人へ決定を集中させないという一点だけで名を並べていた。

「これは、政府への反乱だ。」

地方行政委員が、ゆっくり顔を上げた。

「そう呼びますか。」

「他に何と呼ぶ。」

「昨夜までなら、私も同じ言葉を使ったでしょう。」

「今は?」

「政府の命令が町を守らず、軍を止めず、食料を運ばないなら、政府を守る行為と国家を守る行為が別れます。」

「その区別を、誰が決める。」

「我々です。」

委員は言い切った後、自分の手を見た。

怯えている。

それでも、引っ込めなかった。

「あなたが、いつも決めてきたように。」

ロベルトの目が細くなる。

「私一人の判断で処刑を決めたことはない。」

「委員会を通しました。」

「証拠を検討し、必要性を確認した。」

「今も、同じです。」

地方行政委員は決議書を指した。

「あなたへ権限を残すことが国家へ危険かどうかを検討し、三十二名が署名した。」

「私を処刑した者たちと同じにするのか。」

「処刑とは言っておりません。」

「職権を奪い、身柄を押さえ、後から罪を探す。それを何と呼ぶ。」

会議室へ、ダンの名が直接出ないまま、その影が差した。

ダンも、最初は職務停止だった。

証拠保全のため印章を奪われ、証人へ接触できないよう移動を制限され、その後に非常手続で拘留された。

ロベルトは、その過程を承認した。

「決議の次は、何だ。」

軍務委員は答えなかった。

若い書記が抱えていた紙束の二枚目へ、全員の視線が集まる。

ロベルトは自分で最初の決議を退け、次の紙を取った。

革命政府最高責任者ロベルトに対する職務停止及び保護拘束の提案。

理由には、連続する政治的処刑、ダンによる秘密拘束の監督責任、ジャン軍への対応失敗、各省間の命令混乱が記されている。

マルス銃撃への関与は書かれていない。

一つの犯罪を断定せず、国家へ影響を与える情報と権限を持つため、証拠保全が終わるまで身柄を保護する。

ダンへ使われた言葉と、ほとんど同じだった。

ロベルトは紙を読み終え、若い書記へ戻した。

「まだ、提案だ。」

軍務委員が言った。

「議会の緊急採決へ回します。」

「議会が集まるまで、私は職務を続ける。」

「決議には、採決まで臨時委員会が職務を代行すると。」

「私は認めない。」

「認めるかどうかを、あなたの判断から外すための決議です。」

ロベルトは椅子から立った。

軍務委員も反射的に立ちかけたが、途中で動きを止めた。

「警備隊を呼べ。」

ロベルトは扉の側にいる衛兵へ命じた。

二人の衛兵は互いの顔を見た。

「国家保全臨時委員会の設置者を拘束する。署名者全員の出入りを止め、決議書の原本を押収しろ。」

衛兵は動かなかった。

ロベルトの顔へ、初めて明確な怒りが浮かんだ。

「聞こえなかったのか。」

年長の衛兵が、兜を脱いだ。

「命令系統の確認が必要です。」

「私が命じている。」

「軍務委員から、臨時委員会の命令へ従うよう通達を受けました。」

ロベルトは軍務委員へ振り向いた。

「いつ。」

「夜明け前です。」

「会議へ出席しながら、外では私の命令を止めていた?」

「あなたが署名者の拘束を命じると考えました。」

「ならば、なぜここへ来た。」

軍務委員の喉が動いた。

「最後に、あなた自身へ退く機会を渡すためです。」

「恩情のつもりか。」

「違います。」

「では?」

男は言葉を探し、視線を落としかけたが、最後にはロベルトへ戻した。

「私たちが、自分からあなたを見捨てたのではなく、他に選べなかったと思いたかった。」

会議室の誰も、その言葉を否定しなかった。

決議へ署名した者たちは、全員が確信を持ってロベルトを切ったわけではない。

彼を残せば自分たちも処刑されると恐れた者。

軍や市場を動かすため、承認を待てなくなった者。

革命の失敗を一人へ負わせたい者。

本当に権力集中を危険だと考えた者。

理由は違う。

ただ、今までのようにロベルトの下へ残ることだけはできないという結論が一致した。

ロベルトは卓上へ両手を置いた。

「私を外した後、誰が王党派を止める。」

地方行政委員が答えた。

「王党派の組織は、指揮官を失っています。」

「復活王朝の残党は。」

「ジャン軍と革命派によって分断されました。」

「外国軍は。」

「交渉します。」

「誰が。」

「臨時委員会が代表を選ぶ。」

ロベルトは笑わなかった。

「三十二人の政府が、アーセンと一つの条件を決められると思うのか。」

財政委員が、冷えた茶をようやく一口飲んだ。

「一人で決めた結果を、国全体へ押し付けるよりは時間が掛かります。」

「その時間に人が死ぬ。」

「今も死んでおります。」

「私がいなくなれば、止める者が消える。」

地方行政委員の目に、疲労と同情が混じった。

「あなたがいる間も、止まりませんでした。」

その一言で、ロベルトの両手から力が抜けた。

卓上の紙が僅かにずれた。

議論で負けたのではない。

何を命じても実行されず、誰を切っても次の問題が生まれ、勝利を報告した者まで国外へ連れ去られた。事実そのものが、彼の必要性を否定し始めていた。

それでも、ロベルトは自分から席を譲らなかった。

「議会の採決を待つ。」

「その間は、執務室で待機してください。」

「拘束か。」

軍務委員は言い直した。

「保護です。」

ロベルトの口元が、初めて冷たく歪んだ。

「ダンを拘束した時と同じ言葉だ。」

「彼の手続が、まだ有効です。」

「その手続を使い、私を守る?」

「証拠と、あなた自身を。」

「私が殺されると?」

「あなたが自由であれば、支持者が救出を名目に動く可能性があります。」

「支持者が残っていると思うのか。」

軍務委員は答えなかった。

ダンが拘留された時、彼も同じ問いへ行き着いた。

自分を守る者がいないから、法が向きを変えた。

ロベルトには、まだ支持者がいるかもしれない。

だが、政府の中には残っていなかった。

扉の外から、武装した足音が近づいた。

首都警備隊の兵が六人、会議室へ入る。以前ならロベルトの護衛を務めた者たちだった。

隊長は敬礼せず、帽子を胸元へ持った。

「執務室まで、ご同行ください。」

「逮捕状は。」

「職務停止決議と、保護拘束命令です。」

「議会の採決前だ。」

「国家非常時における暫定措置です。」

ロベルトは軍務委員から視線を外さなかった。

「誰が、その条文を提案したか知っているか。」

軍務委員は静かに頷いた。

「あなたです。」

「反革命分子が証拠を消すのを防ぐためだった。」

「現在は、対象が国家へ重大な影響を与える場合へ拡張されています。」

「勝手に読み替えたのか。」

「あなたは以前、国家の存続が文言へ優先すると述べました。」

ダンが逮捕された時と同じだった。

自分たちが必要に応じて広げた条文の意味が、今度は自分たちへ返ってくる。

ロベルトは兵士へ両手を差し出さなかった。

「拘束具を使うのか。」

隊長は一瞬迷った。

「抵抗されなければ、使用しません。」

「抵抗の定義は。」

「同行を拒み、職務命令を出し続け、証拠や通信へ触れようとした場合です。」

「ここに残り、議会の採決を待つと言えば。」

「同行拒否として扱います。」

ロベルトは頷いた。

「既に答えが決まっている質問だな。」

隊長は目を伏せた。

その男も、以前はロベルトの演説を聞き、革命政府へ志願した兵士だった。今、命令へ従うことが裏切りなのか、拒むことが反乱なのか、自分で判断できないままここへ立っている。

ロベルトは外套を手に取った。

袖へ腕を通す時、右手が一度布へ引っ掛かった。

年齢や病ではない。

一晩中続いた会議と、数週間にわたる睡眠不足によって、指が思うように動かなかった。

財政委員が反射的に手を伸ばしかけ、途中で止めた。

助ければ、今さら親しさを見せることになる。

助けなければ、長年同じ机へ座った相手が不格好に外套を纏う姿を見守ることになる。

ロベルトは自分で袖を通した。

「私の机へ、誰を座らせる。」

臨時委員たちは答えられなかった。

彼を退かせる合意はできても、後継者は決まっていない。

ロベルトはその沈黙を見回した。

「ほら、誰もいない。」

軍務委員は顔を上げた。

「座らせないための委員会です。」

「椅子を空にして、国が動くと思うのか。」

「あなたが座っていても、国は動かなかった。」

先ほどと同じ事実が返された。

ロベルトは今度こそ何も言わなかった。

兵士たちに囲まれ、会議室を出る。

廊下には役人、書記、伝令が並んでいた。

誰も歓声を上げず、罵声も浴びせなかった。

ダンが裁判所から運び出された時とは違う。

ロベルトを憎む者も恐れる者も多いはずだったが、今は彼を倒したことを喜べるほど、誰も次の秩序を信じていなかった。

一人の若い書記が、抱えていた命令書を胸元へ寄せた。

ロベルトが通り過ぎると、隣の役人へ小声で尋ねる。

「この書類は、誰へ持っていけばよいのです。」

内容は、南部へ穀物を送る許可申請だった。

上司の署名はある。

最終承認欄だけが空いている。

役人は答えられなかった。

「財政委員会では?」

「臨時委員会の確認が必要だ。」

「臨時委員会の窓口は。」

「まだ決まっていない。」

「今日出さなければ、船が出ません。」

二人の会話は、ロベルトの耳にも届いた。

彼は足を止めなかった。

自分を逮捕した瞬間から、政府の機能が止まり始めている。

だから戻せと叫ぶこともできた。

だが、戻ったところで、自分の署名が船を動かせるかは分からない。

階段の下で、長年ロベルトの身の回りを整えてきた老いた側近が待っていた。

逮捕命令を知らされていなかったのか、上着の釦を一つ掛け違え、片手には朝食の盆を持っている。

薄いパン、冷えた卵、温かい茶。

会議が長引く日は、ロベルトが食事を忘れるため、毎朝同じ時刻に持ってきていた。

側近は兵に囲まれた姿を見て、盆を落としかけた。

「何がございました。」

ロベルトは階段の途中で足を止めた。

「職務を外された。」

「では、執務室へ?」

「拘束される。」

側近の顔から血の気が引いた。

「どの罪で。」

「まだ決まっていない。」

「罪が決まる前に?」

ロベルトは返答せず、兵士たちを見た。

側近はその視線から答えを理解した。

「私も同行します。」

隊長が首を横へ振る。

「許可されていません。」

「身の回りの世話が必要です。」

「保護拘束です。必要な物は管理側が用意します。」

「この方が何を食べ、何を飲めないか、あなた方は知らないでしょう。」

ロベルトが側近を制した。

「よい。」

「よくありません。」

老人は、長年使わなかった強い声を出した。

「ダンが連れて行かれた時も、皆が手続に従えと言いました。その後、誰も会えない。今度はあなたです。次は誰です。」

「ここで騒げば、あなたも拘束される。」

「構いません。」

「私は構う。」

ロベルトの言葉に、老人の口が閉じた。

それは命令ではなく、初めて自分の身近な人間を政治から遠ざけようとする声だった。

「家へ戻れ。」

「戻って、何を。」

「生きろ。」

側近の目が潤んだ。

「今さら、そんなことを仰るのですか。」

ロベルトは返せなかった。

これまで、革命のため、国家のため、平等のために残れと命じてきた。

誰かへ生きろと言う時でさえ、それは革命を続けるための生存だった。

今は、何の役にも立たなくてよいから、自分と共に拘束されるなと言っている。

「朝食は。」

ロベルトは盆を見た。

側近は唇を震わせた。

「まだ、何も召し上がっておりません。」

「そこへ置け。」

「冷めます。」

「もう冷めている。」

老人は笑おうとしたが、顔を歪めただけだった。

盆を階段脇の窓台へ置く。

ロベルトは茶器へ手を伸ばさなかった。

兵士に囲まれたまま、側近の肩へ一度だけ手を置く。

何かを言おうとしたが、適切な言葉を持っていなかった。

感謝すれば別れになる。

戻ると約束すれば、嘘になる。

「釦を掛け違えている。」

老人は自分の上着を見下ろした。

「あなたのことを、急いでおりましたので。」

ロベルトは釦へ触れようとしたが、兵士に囲まれた位置からは届かなかった。

「直してから帰れ。」

「あなたも、外套の襟が折れております。」

側近は一歩近づこうとした。

隊長が止めかけたが、ロベルトが視線を向けると、手を下ろした。

老人は外套の襟を整えた。

以前、演説前や議会へ出る前に、何度も行った動作だった。

「これで。」

「ああ。」

それだけで会話は終わった。

ロベルトは階段を下り、側近を残して廊下の先へ進んだ。

執務室ではなく、外へ通じる扉が開いている。

建物の前には、武装した護送隊と閉鎖された馬車が待っていた。

保護拘束という言葉とは異なり、連れて行かれる場所を本人へ知らせないための車だった。

外には群衆が集まり始めていた。

ロベルトの逮捕を知って来たのではない。

政府からジャン捕縛への声明が出ると聞き、その発表を待っていた者たちである。

馬車へ乗せられるロベルトの姿を見ても、何が起きたかすぐには理解できなかった。

「あれは、ロベルトではないか。」

「どこへ行く。」

「演説か?」

「護衛が多過ぎる。」

誰かが逮捕だと叫んだ。

別の者は、政府内部の暗殺を防ぐため避難させているのだと否定した。

さらに別の者は、ジャンを救出するため秘密交渉へ向かうのだと語った。

誰も真実を知らない。

政府自身も、まだ正式な声明を作っていなかった。

ロベルトは馬車へ乗る前に、建物を振り返った。

上階の会議室では、臨時委員たちが既に次の問題へ移っている。

南部への食料輸送。

ジャン軍残党への処遇。

ダンの起訴。

マルスの声明。

外国軍との交渉相手。

彼を逮捕したことで、それらが解決したわけではない。

ただ、最終承認欄へ署名する者が消えただけだった。

馬車の扉が閉じられる。

鉄格子の付いた小窓から、革命政府の建物が遠ざかっていく。

ロベルトは座席へ背を預けず、揺れの中でも姿勢を保った。

自分がいなくなれば革命が終わるとは思っていない。

自分がいる限り革命が続くとも、もう言えなかった。

会議室では、財政委員が最初の決議書を片付け、南部への輸送許可を手に取った。

「誰が署名します。」

若い書記が尋ねる。

軍務委員、地方行政委員、財政委員が互いの顔を見た。

臨時委員会は多数決で決めると定めたばかりだったが、三人だけでは全委員の意思にならない。残る委員を集めれば、船の出発時刻に間に合わない。

「緊急措置として、財政と地方行政の二名で。」

軍務委員が提案した。

財政委員は首を横へ振った。

「後から権限逸脱とされます。」

「今出さなければ、麦が腐る。」

「署名すれば、別の港が自分たちにも送れと要求する。」

地方行政委員が帳簿を開いた。

「南部だけを優先する理由も、文書へ残す必要があります。」

ロベルトを逮捕する決議には、三十二人が一晩で署名した。

麦を一隻運ぶ許可には、誰も最初の名を書こうとしなかった。

若い書記は紙を抱えたまま、窓の外を見た。

護送馬車は既に角を曲がり、見えなくなっている。

「では、船へ何と。」

財政委員は目を閉じた。

「待て、と。」

「いつまでです。」

誰も答えなかった。

革命政府の最高責任者は逮捕された。

しかし、革命を終えた者も、引き継いだ者もいない。

命令を出す中心だけが消え、役所、委員会、軍隊、地方都市は、それぞれ自分の判断で動き始める。

ジャンの名を巡って軍が分裂したように、今度は革命そのものの名が、残された者たちの間で奪い合われようとしていた。

戸を叩く音がしたのは、夜半を過ぎ、隠れ家の者たちが最後の灯りを落とそうとしていた頃だった。

三度、間を置き、二度。

古い地下組織が使っていた合図に似ていたが、最後の一打だけが弱く、拳ではなく身体そのものを扉へ預けたような鈍い音だった。

寝台の下で眠っていた犬が頭を上げ、低く喉を鳴らした。

無名の王の姉は毛布を胸元へ引き上げ、隣室で書類を整理していたアデルも筆を止めた。レイモンの妻は燭台を持ち上げたが、廊下へ出る前に夫の腕へ触れた。

「決めた合図ではありません。」

レイモンは左耳を戸口へ向けた。

先ほどの音は聞こえていたが、木材を伝う振動と犬の反応から確かめ直す。聴覚へ頼り切れば、声の位置も人数も誤ることがあるためだった。

「古い形には近い。」

「知っている人間が、わざと間違えた可能性もあります。」

妻は燭台を床へ置き、壁際の短銃を取った。

レイモンは止めなかった。

アデルが奥の部屋から出てくる。

深紅の上着の前を閉じながら、犬の首輪へ指を掛けた。

「裏口へ回りますわ。逃げ道へ誰か立っていないか、先に見ます。」

「姉君は?」

「窓のない部屋へ。声を出さないようお願いしております。」

アデルは犬を連れず、細い通路の奥へ消えた。

外では、二度目の合図が来なかった。

代わりに、戸板の向こうで布が擦れ、人間が地面へ滑り落ちる音がした。

妻は短銃の撃鉄を起こした。

「罠なら、随分と辛抱のない罠です。」

レイモンは返事をせず、戸の脇に設けられた細い覗き穴を開いた。

路地には街灯がなく、雨上がりの石畳へ遠くの窓明かりが僅かに反射している。戸口の前には、外套を深く被った人影が蹲っていた。

一人に見える。

ただし、角の先や屋根の上までは確認できない。

「顔を上げてください。」

レイモンが戸越しに言うと、人影はすぐには動かなかった。

片手を壁へ付き、何度か身体を起こそうとして失敗する。

やがて頭巾の下から顔が現れた。

頬は雨と汗で濡れ、唇は血の気を失っている。髪は短く切られ、煤を擦り付けて色を暗くしていたが、レイモンは目元を見て相手を悟った。

マルスを撃った女だった。

「コラソン。」

名を呼ばれた女は、口元だけを動かした。

「開けて。」

「一人ですか。」

「そう見えるでしょう。」

「見えるものを聞いているのではありません。」

コラソンは壁へ付いた手を下ろし、外套の裾を握った。

「途中まで、二人に追われた。川沿いで撒いたと思う。」

「思う、では開けられません。」

「なら、ここで死なせればいい。」

その言葉には投げ遣りな強さがなかった。

扉の前まで辿り着き、立っている力を使い切った者が、交渉の続きを諦めただけだった。

レイモンの妻が、覗き穴の横から尋ねた。

「なぜ、こちらを知っているのです。」

コラソンの瞳が、声の方へ動いた。

「昔、ここは連絡所だった。扉も、地下道も変わっていない。」

「あなたが使っていた頃とは、住んでいる者が違います。」

「知っている。」

「それでも来た?」

「他へ行けば、名前を売られる。」

コラソンは一度、喉を押さえた。

乾いた咳が続き、最後には息を吸うだけで顔を歪める。

「医者へ行けば捕まる。薬屋は、私の顔を覚えている。革命派へ行けば、マルスを撃った英雄にされるか、政府の命令を受けたことにされる。王党派へ行けば、あいつらの報復へ使われる。」

「だから、処刑人へ?」

レイモンが問い返すと、コラソンは僅かに笑おうとした。

「人を切ることに、慣れているでしょう。」

妻の顔が険しくなった。

レイモンは侮辱へ反応せず、覗き穴を閉じた。

「外を確認します。」

「入れるのですか。」

妻の声に、レイモンは戸へ手を掛けたまま答えた。

「まだ決めていません。」

「開ければ、決めたことになります。」

「外へ置いたまま話せば、近所へ声を聞かれます。」

妻は短銃を下ろさなかったが、反対は続けなかった。

アデルが裏口から戻る。

袖へ雨粒を付け、声を低くして告げる。

「路地を一周しましたわ。屋根にも、隣の空き家にも人影はございません。ただし、足跡は三人分ありました。二人は途中で別方向へ分かれています。」

「追われていた話とは一致する。」

妻は言った。

アデルは扉の向こうを見た。

「一致する話だけを用意してきた可能性もございますわ。」

「ええ。」

レイモンは認めた。

「だから、身体と持ち物を確認します。」

閂を外す音に、犬が再び唸った。

扉は、人一人が通れる幅だけ開かれた。

コラソンは自分で入ろうとしたが、一歩目で膝が折れた。

レイモンが肩を支える。

彼女の身体は、雨に濡れているだけではない。外套の下から熱が伝わり、呼吸のたび、左の脇腹から腿へ掛けて筋肉が硬くなる。

「歩けますか。」

「ここまで歩いた。」

「今から歩けるかを聞いています。」

コラソンは返答せず、右脚へ体重を移した。

左脚を床へ付けた瞬間、歯の間から息が漏れる。

妻とレイモンが左右から身体を支え、入口脇の小部屋へ運んだ。

アデルはすぐ扉を閉め、閂を二重に掛ける。床へ落ちた雨水を拭く前に、コラソンが通ってきた跡へ布を被せた。外から覗かれた場合、人が入った直後だと悟らせないためだった。

「武器を出してください。」

妻が短銃を向けたまま言った。

コラソンは椅子へ腰を落とし、濡れた外套の内側から小さな刃物を一本取り出した。

柄のない薄い刃で、衣服の縫い目へ隠せる大きさだった。

床へ置く。

「他には?」

「ない。」

「銃は。」

「捨てた。」

「マルスを撃った銃ですか。」

コラソンの目が一瞬、妻へ向いた。

「あれは広場に落とした。」

「別の銃を持っていたかと聞いています。」

「持っていない。」

妻はアデルへ合図した。

アデルは布手袋を嵌め、コラソンへ近づいた。

「身体を調べますわ。傷へ触れられたくなければ、先に場所を仰って。」

「左の腿。」

「それだけ?」

「肋骨も痛い。」

「撃たれたのですか。」

「馬車から降りた時に、金具へ引っ掛けた。」

アデルは外套の上から肩、腰、足首を確かめた。襟の内側から細い針が二本、靴底から小さな鍵が一つ見つかる。

「武器はないと仰いましたわね。」

「針は武器ではない。」

「人の喉へ入れれば、縫い物には使えませんわ。」

アデルは針と鍵を刃物の横へ置いた。

「この鍵は?」

「古い倉庫のもの。もう使えない。」

「使えない物を、靴の底へ隠すの?」

コラソンは濡れた髪を額から払おうとしたが、手が途中で震え、膝へ落ちた。

「忘れないため。」

「何を。」

「帰れない場所があったことを。」

アデルはそれ以上尋ねず、持ち物を布へ包んだ。

妻が短銃の撃鉄を戻す。

完全に警戒を解いたわけではないが、発熱した相手へ銃口を向け続ければ、こちらも判断を鈍らせる。

レイモンはコラソンの前へ片膝をついた。

「傷を見せてください。」

「先に、治すか決めて。」

「見なければ決められません。」

「私が誰かは、もう知っているでしょう。」

「名前では、傷の深さは分からない。」

コラソンは視線を逸らした。

「人を殺そうとした女でも?」

「それは治療をするかではなく、この家へ残すかを決める材料です。」

「同じではないの。」

「同じにすれば、私は傷を見て処刑する人間になる。」

妻が僅かに目を伏せた。

レイモンは自分の過去を飾らなかった。

既に多くの人間を処刑へ送り、自ら終わらせてきた。その数を忘れたことも、必要だったと言い張って軽くしたこともない。

だからこそ、治療を拒むことを新しい正義へ見せ掛けるつもりもなかった。

「衣服を切ります。」

レイモンが言うと、コラソンは左腿を手で押さえた。

「縫い直せない。」

「そのままなら、衣服より先に脚が使えなくなります。」

妻が湯を沸かすため隣室へ向かい、アデルも布と器具を取りに行く。

レイモンは鋏を取り、腿へ張り付いた布を少しずつ切った。

最初の一枚を剥がした時、腐った血と膿の臭いが室内へ広がった。

コラソンの左腿には、十数糎ほどの裂傷が斜めに走っている。馬車の側面から突き出た鉄金具へ皮膚と肉を抉られたらしく、端が不規則に裂け、中央部は黒ずんでいた。

自分で縫った痕がある。

糸は均等ではなく、傷の一部だけを強く締め付け、内部へ膿を閉じ込めている。

「何日前です。」

「三日。」

「嘘ですね。」

コラソンの眉が動いた。

「なぜ。」

「三日で、この色にはなりません。」

「日付を数えていない。」

「逃げてから?」

「広場の翌朝に、荷車を降りた。」

マルス銃撃から既に数日が経っている。

それから一度も、まともな治療を受けていない。

「誰が縫った。」

「自分で。」

「糸を取らなかったのですか。」

「閉じれば歩けると思った。」

「中の汚れも一緒に閉じています。」

レイモンは傷の周囲へ指を当てた。

軽く触れただけで、コラソンの脚が反射的に引かれる。

「熱があります。傷を開き、腐った部分を取り除きます。」

「縫った所を、また切るの。」

「開けなければ、脚の中で広がる。」

「切り落とす?」

コラソンの声が僅かに変わった。

死を恐れる声とは違う。

脚を失えば逃げられず、次にマルスへ近づくこともできない。その可能性を先に考えたのだろう。

「今の段階で、脚を切るとは言っていません。」

「必要になれば?」

「その時は、勝手には決めません。」

「意識を失っていれば。」

レイモンは彼女の顔を見た。

「眠らせる前に、決める範囲を聞きます。」

「脚を残せと言えば、死んでも残す?」

「死ぬと判断した時まで従うとは約束できない。」

「随分、正直なのね。」

「嘘をついて安心させれば、切る時に一度余計に裏切ることになります。」

妻が湯を入れた鍋を運んできた。

湯気が上がり、冷えた室内の空気を僅かに曇らせる。

アデルは清潔な布、酒、針、糸、細い刃物を卓上へ並べた。刃物を見たコラソンの瞳が、レイモンの手元から離れなくなる。

「医師ではないでしょう。」

「違います。」

「処刑人。」

「それだけでもありません。」

「では、何。」

レイモンは湯へ器具を入れた。

「今は、あなたの傷を処置する人間です。」

コラソンは乾いた笑いを漏らした。

「そんな都合よく役割を変えられるの。」

「変えられないから、処刑人であったことを否定していません。」

「人を殺した手で、人を治す。」

「手は同じです。」

レイモンは右手を湯気の向こうへ掲げた。

細かな傷と火傷の跡が残り、指の関節は長年刃物と縄を扱ったため僅かに太い。

「何をした手かで、今何をするかまで自動的には決まりません。」

「便利な言葉ね。」

「便利なら、あなたも銃を持った手で助けを求められるでしょう。」

コラソンの唇が閉じた。

妻が横から、酒を含ませた布を差し出す。

「傷を洗います。かなり痛みます。」

「噛む物を。」

アデルが折り畳んだ革を持ってきた。

コラソンは受け取らず、椅子の縁を掴んだ。

「そんな物はいらない。」

「強がりで傷は浅くなりませんわ。」

アデルは革を卓上へ置いた。

「使わなければ、それでも結構。ただし、痛みでレイモンの腕を蹴れば、切る場所を誤ります。」

コラソンは椅子の縁から手を離し、革を取った。

口へ入れる前に、レイモンへ尋ねる。

「治した後、私を政府へ渡す?」

「治療を始める前に、決めておきたいのはそれではありません。」

「何。」

「マルスを、もう一度殺すつもりですか。」

室内にいた三人の動きが止まった。

湯気だけが、燭台の明かりの中で揺れている。

コラソンはすぐに答えなかった。

「答え次第では、治さない?」

「治療はします。」

「では、なぜ聞くの。」

「この家へ置くかを決めるためです。」

「殺すと言えば、傷を閉じた後に追い出す?」

「追い出せば、政府か群衆へ捕まり、あなたの言葉は別の者へ使われます。」

「なら、閉じ込めるの。」

「殺すつもりの人間を、自由に歩かせることもしません。」

コラソンは革を膝へ置いた。

「演説を再開すれば、また人が死ぬ。」

「質問への答えになっていません。」

「答えよ。」

彼女の声が強くなる。

「あなたは、マルスが喋り続けても何もしないの? 名前を出すたび家が焼かれ、誰かを責めるたび群衆が別の者を殺しても、言葉だから仕方がないと見ているの?」

レイモンは、耳の聞こえやすい側を彼女へ向け直した。

怒鳴り声の一部が割れ、意味を取り損ねたためだった。

コラソンは、その動きを無視されたと受け取ったのか、椅子から立とうとした。

傷へ力が掛かり、身体が崩れる。

妻が肩を押さえ、座らせた。

「夫は、あなたの声を聞くために向きを変えたのです。」

コラソンはレイモンの左耳を見た。

「聞こえないの。」

「聞こえにくい。」

「いつから。」

「今、その話をしますか。」

返された言葉に、コラソンは目を逸らした。

先ほどマルスから言われた言葉と同じだった。

今それを聞くのか。

傷を負わせた側が、傷の理由を尋ねる。

「マルスを殺せば、言葉は止まります。」

レイモンは問いへ戻った。

「その後、彼の名前で何人が殺されるかは考えましたか。」

「生きていても死ぬ。」

「だから、先に殺す?」

「他に止め方がなかった。」

「広場で、本人へ何か言いましたか。」

「言える距離へ近づけば捕まる。」

「手紙は。」

「読まれない。」

「仲間へ働き掛けた?」

「皆、あいつの言葉へ酔っている。」

「では、最初から銃しか選ばなかった。」

コラソンの瞳が鋭くなる。

「あなたは、人を何人処刑したの。」

妻が止めようとしたが、レイモンは片手を上げた。

「正確には数えられません。」

「千人を超えた?」

「超えています。」

「その人たち全員へ、他の方法を試したの?」

「いいえ。」

「なら、私だけに選択肢を問う資格がある?」

レイモンはすぐには答えなかった。

コラソンは勝ち誇らなかった。

自分の罪を軽くするため、より多く殺した人間を持ち出していることを、彼女自身も分かっている。

それでも、問わずにはいられなかった。

「資格はありません。」

レイモンは言った。

コラソンの顔に、予想していなかった戸惑いが浮かぶ。

「では――」

「資格がない人間の問いには、答えなくてよいのですか。」

レイモンは酒を含ませた布を、傷の周囲へ当てた。

コラソンの脚が跳ね、妻が膝を押さえる。

「私が千人を殺した事実は、あなたがマルスを撃った事実を消しません。」

「分かっている!」

「私の罪を使えば、あなたは正しくなれる?」

「なれるなんて言っていない!」

「ならば、自分の話をしてください。」

コラソンは息を乱し、革を口へ入れた。

レイモンは古い縫い糸を一本ずつ切る。

糸が抜かれるたび、閉じ込められていた膿が傷口から流れ、酒を含ませた布へ染み込んだ。

コラソンの指が椅子の縁へ食い込み、爪の間から血の気が失われる。

「もう一度、殺すつもりですか。」

レイモンは作業を止めずに尋ねた。

コラソンは革を噛んだまま首を振った。

否定なのか、今は答えられないのか分からない。

レイモンは待った。

最後の糸を抜き、傷を開く。

内部の黒ずんだ肉を確認した後、細い刃物を取った。

「腐った部分を削ります。」

コラソンは革を口から外した。

「今、答えなければ切らない?」

「切ります。」

「本当に、嫌な聞き方をする。」

「痛みで考えが変わるなら、今後も変わります。」

「マルスも、そう言う。」

レイモンの刃が一瞬止まる。

「何と。」

「人は追い詰められた時に本音を出す。だから、群衆を怒らせる。敵を示し、言葉を引き出し、それをまた次の演説へ使う。」

「私が同じに見えますか。」

「今は。」

「ならば、質問を止めます。」

コラソンが顔を上げた。

「止めるの。」

「治療へ必要ではない。」

「答えを聞かなくていい?」

「あなたが自分から話さない答えを、痛みで取っても信用できません。」

レイモンは刃を傷へ入れた。

コラソンの身体が強張り、革越しに声が漏れる。

妻が肩と膝を押さえ、アデルが灯りを近づけた。

刃は、死んだ肉と生きた肉の境を少しずつ削る。

レイモンは処刑台で、どこへ刃を入れれば人間が早く死ぬかを知った。

今は、その知識を逆へ使い、残すべき血管と筋を避けている。

同じ身体を見ている。

目的だけが違う。

「脚を動かさないで。」

妻が言うと、コラソンは革を噛んだまま睨んだ。

「動かしていない……!」

「身体が勝手に逃げています。」

「押さえて!」

アデルが反対側から足首を固定した。

「押さえておりますわ。怒る相手を間違えないで。」

刃が深い部分へ触れた時、コラソンの背が椅子から浮いた。

レイモンは手を止める。

「休みますか。」

彼女は激しく首を振った。

「続けて。」

「一度止めても、悪化はしません。」

「続けて!」

「急いで終わらせたいのですか。」

コラソンは革を吐き出した。

「止まったら、考えるでしょう。」

「何を。」

「マルスの顔を。」

息の合間から言葉が落ちる。

「撃った時、あいつは私を見た。銃を見て、それから私を見た。怖がると思った。兵へ指を差すと思った。それなのに、撃たれた後で……立った。」

妻の手が、コラソンの肩で僅かに動いた。

レイモンは刃を持ったまま、続きを待った。

「私を見て、屋根を指した。二人目がいると嘘をついた。自分を撃った女を、群衆から隠した。」

「知っています。」

「誰から。」

「銃撃後の報告と、広場にいた者の話を繋げました。」

「皆は、あいつが犯人を追ったと思っている。」

「そうでしょう。」

「私だけが知っている。」

コラソンは額へ汗を浮かべ、胸を上下させた。

「私を逃がした。腕を掴み、荷車へ押し込み、追手に北へ行ったと嘘をついた。」

「その理由を、本人へ聞けなかった?」

「聞いた。」

「何と。」

「あの群衆へ渡せば、私を理由に百人捕らえると言った。」

レイモンの目が僅かに細くなった。

マルスは、自分の血が新しい処刑の許可証になることを理解していた。

理解していながら、演壇へ立ち続けていた。

「それで、殺すのをやめたのですか。」

「分からない。」

コラソンは声を荒らげかけ、痛みに顔を歪めた。

「分からないから、ここに来たのよ!」

「治療へ来たと。」

「それだけなら、どこかの倉庫で腐って死んでいた!」

言葉を吐き出した後、自分でも驚いたように口を閉じた。

レイモンは傷へ視線を戻した。

「生きたいのですね。」

「違う。」

「では、なぜ。」

「確かめたい。」

「何を。」

「私を助けたことが、また演説の材料なのか。」

コラソンの声が震えた。

「暗殺者さえ救った慈悲深いマルス。自分を撃った敵へも正義を示した男。そういう話にするためなら、私はもう一度撃つ。」

「まだ、誰にも話していません。」

「後で話すかもしれない。」

「話さなければ?」

コラソンは答えられなかった。

レイモンは腐った肉を最後まで取り除き、傷を酒と湯で洗った。新しい血が傷口へ滲み、黒ずんだ部分は減っている。

「あなたは、マルスが自分を利用したと分かれば殺せる。」

レイモンは清潔な布を当てた。

「利用していなければ?」

コラソンの視線が揺れた。

「それを、確かめる。」

「確かめた後は。」

「まだ分からない。」

「それが、今の答えですね。」

レイモンは傷を完全には閉じなかった。

膿が再び内部へ溜まらないよう、両端だけを緩く縫い、中央へ細い布を入れて排出できる状態にする。

コラソンは縫合の痛みに耐えながら、先ほどより抵抗しなかった。

生きたいと言われたことを否定した。

だが、傷を処置され、明日以降も歩ける形へ戻されることを拒まなかった。

治療が終わる頃には、夜明け前の薄い光が窓の高い位置へ差し始めていた。

妻は汚れた布と器具を片付け、アデルはコラソンの濡れた外套を別の袋へ封じた。血と膿の臭いが残れば、犬や追跡者に気付かれる。

レイモンは新しい包帯を巻き終え、結び目を腿の外側へ置いた。

「毎日、傷を開いて洗います。」

コラソンは椅子の背へ頭を預けた。

「閉じたのに、開くの。」

「中央は閉じていません。膿が出る道を残しました。」

「歩ける?」

「今日は無理です。」

「明日は。」

「熱が下がれば、少し。」

「外へ出る必要がある。」

「ありません。」

コラソンは重い瞼を開いた。

「私が決める。」

「扉は開けます。」

レイモンは器具を布で拭きながら答えた。

「出れば、この家へは戻れません。」

「脅し?」

「条件です。」

「監禁しないのに、外へ出るなと。」

「あなたが出れば、追跡者がここまで来る。隠れているのは、あなた一人ではありません。」

コラソンは部屋の奥へ視線を向けた。

閉ざされた戸の向こうに誰がいるか、彼女は知らない。

しかしアデルがここにいる時点で、革命政府や王党派が欲しがる者が他にもいると理解した。

「私を置けば、同じでしょう。」

「違います。」

「どこが。」

「今なら、誰もあなたがここへ入ったと知らない。外へ出て捕まり、この家を知っていたと調べられれば、話は変わる。」

「拷問されても話さない。」

アデルが、濡れた布の袋を持ったまま振り返った。

「話すつもりがなくても、連れて来られた道、服に付いた泥、靴底の灰、空腹の時間から、居場所は絞られますわ。」

「脅しには屈しない。」

「あなたの意志の強さを疑っているのではありません。」

アデルは袋の口を縛った。

「人間の身体が残す証拠は、意志へ相談いたしませんもの。」

コラソンは包帯を巻かれた腿へ手を置いた。

「いつまで。」

レイモンが答える。

「熱が下がり、自分で傷を洗え、追跡を避けて歩けるまで。」

「その後は、政府へ渡す?」

「決めていません。」

「マルスへ?」

「物のように渡すつもりもありません。」

コラソンは暫く彼の顔を見た。

「あなたは、私をどうしたいの。」

レイモンの手が、器具を包む布の上で止まった。

「治療を終えたい。」

「その後を聞いている。」

「その後は、あなたが何をするかで変わります。」

「赦すかどうかではなく?」

「私が赦す罪ではありません。」

コラソンの顔に、苛立ちが浮かんだ。

「皆、そう言う。自分には決められないと言いながら、最後には私をどう使うか決める。」

「だから、決めていないことを決めたとは言いません。」

「信じろと?」

「信じなくてよい。」

レイモンは包んだ器具を妻へ渡した。

「こちらも、あなたを信じていません。」

その言葉へ、コラソンは反発しなかった。

信頼していると偽られるより、理解できる態度だった。

隠れ家の奥から、控え目に戸を叩く音がした。

アデルが振り返り、短い合図を返す。

隣室から入ってきたのは、早朝の情報を運ぶ少年だった。市場の手伝いを装い、夜明け前に張られた布告や役人の動きを見て戻ってくる役目を担っている。

少年は小部屋のコラソンを見て足を止めた。

顔を知らないのか、気付いても声へ出さないよう訓練されているのか、すぐアデルへ視線を移した。

「首都から、新しい布告です。」

「ロベルトの件?」

アデルが尋ねる。

「逮捕されたと。政府は臨時委員会へ移りました。それから、マルスの容態についても。」

コラソンの身体が、椅子の上で僅かに起きた。

少年はその反応を見て、口を閉じる。

アデルが続けるよう促した。

「命は助かる見込みだそうです。政府が声明を求めていますが、医師がまだ長く話させていないと。」

コラソンの手が包帯の上で固まった。

マルスが死んだとは思っていなかった。

撃った位置も、血の量も見た。

それでも、誰かの口から生存を確定されると、胸の奥へ別の重さが落ちた。

「演説は。」

声が掠れた。

少年は彼女が誰か分からず、アデルを見る。

「答えて差し上げて。」

「今のところ、していません。ただ、回復すれば再び市民の前へ出るという噂があります。」

コラソンは椅子から立とうとした。

左脚へ力を掛けた瞬間、傷が引き攣り、身体が前へ倒れる。

レイモンが肩を支え、再び座らせた。

「どこへ行くつもりです。」

「確かめる。」

「今歩けば、傷が開きます。」

「演説を始める前に。」

「何をする。」

コラソンは答えず、包帯の結び目へ指を掛けた。

レイモンがその手首を押さえる。

「治療を壊してまで行くなら、先ほどの話は嘘になります。」

「何が。」

「確かめたいのではなく、考える前に撃ちたいだけになる。」

「銃はない。」

「手に入れるでしょう。」

「止める必要があれば。」

レイモンの手が強くなった。

「誰が、必要だと決める。」

「また、その話?」

「答えが変わっていないからです。」

コラソンは腕を引こうとしたが、熱と疲労で力が入らない。

「放して。」

「包帯から手を離せば。」

「命令するの。」

「治療した傷を、自分で開かせない。」

妻が二人の間へ入り、コラソンの手を包帯から外した。

「今のあなたは、マルスへ近づく前に路地で倒れます。」

「だから何。」

「捕らえた者が、あなたの代わりに動機を作ります。」

コラソンの呼吸が止まった。

王党派の暗殺。

ジャン派の口封じ。

政府内部の陰謀。

誰に捕らえられても、彼女の言葉より先に筋書きが用意される。

それを最も恐れて、ここへ来たはずだった。

「演説を始めたら。」

コラソンはレイモンへ向き直った。

「あなたは、何もしないの。」

「何をしてほしい。」

「止めて。」

「どのように。」

「話して。あいつが、まだ人の言葉を聞くなら。」

「私の言葉を聞く理由がない。」

「私よりはあるでしょう。」

レイモンは妻へ一度視線を向けた。

マルスへ接触することは、隠れ家の危険を増やす。

コラソンの生存を知らせれば、政府は彼女を引き渡すよう求めるかもしれない。知らせずにマルスへ近づけば、レイモン自身が銃撃事件へ関与したと疑われる。

「あなたが話すべきです。」

「会わせるの。」

「今は会わせません。」

「では、いつ。」

「立って歩けるようになり、撃つ以外の言葉を用意できた時です。」

コラソンは皮肉に口元を歪めた。

「言葉で人を殺す相手へ、言葉だけを持って行けと。」

「だから難しい。」

「綺麗に返したつもり?」

「いいえ。」

レイモンは、彼女の手首から指を離した。

「銃なら、考えずに済む。撃った後は、相手が何を答えるか聞かなくてよい。あなたが怖いのは、マルスが正しかったと分かることですか。」

コラソンの顔が強張る。

「正しいはずがない。」

「では、間違っていると本人へ言えばよい。」

「聞かない。」

「それを確かめる前に撃った。」

「広場で見たでしょう! 誰の言葉も聞かず、自分が正しいと思ったことを叫び続けた!」

レイモンは彼女の怒りが収まるのを待った。

「それでも、あなたを逃がした。」

コラソンの唇が震えた。

「だから困っているのよ。」

声は、先ほどまでの怒鳴り声より小さかった。

「完全に間違った人間なら、撃ったことを後悔しなくて済んだ。私を群衆へ渡していたら、次は外さなかった。なのに、あいつは……私の知っていた頃と同じ顔で、逃げろと言った。」

レイモンは彼女の前へ椅子を置き、座った。

立ったまま見下ろせば、審問に見えるためだった。

「昔のマルスを、まだ残っていると思った?」

「一瞬だけ。」

「その一瞬が、本物か確かめたい。」

コラソンは頷かなかった。

否定もしなかった。

「確認した結果、残っていなければ。」

レイモンが尋ねる。

「その時、考える。」

「殺す、と言わないのですね。」

「言えば、ここへ置かないでしょう。」

「こちらへ合わせた答えですか。」

コラソンの目が、疲労の中でも鋭くなる。

「違う。」

「では。」

「今は、本当に分からない。」

その答えには、正しさも覚悟もなかった。

以前の彼女なら、迷いを弱さとして隠しただろう。

今は、撃った相手へ救われた事実によって、簡単な結論へ戻れなくなっている。

レイモンは立ち上がった。

「傷が塞がるまで、ここにいてください。」

妻が彼を見る。

「決めたのですか。」

「外へ出せば、彼女も、この家も使われます。」

「中へ置いても危険です。」

「分かっています。」

レイモンは妻から目を逸らさなかった。

「武器は全て預かる。部屋から出る時は、誰かが付く。外部へ手紙を出さない。隠れ家の他の者へ、自分から近づかない。」

コラソンが眉を寄せる。

「囚人と同じね。」

「扉の鍵は閉めません。」

「逃げれば?」

「追いません。」

「戻れば。」

「入れません。」

「ずっと監視するの。」

妻が答えた。

「信頼される行動をなさるまで。」

コラソンは彼女を見た。

「私を憎んでいる?」

「マルスを撃ったからではありません。」

妻は汚れた布を入れた桶を持ち上げた。

「夫と、この家の者たちを危険へ近づけたからです。」

「私は、ここへ来ただけ。」

「危険な人間は、来ただけで危険を運びます。」

言葉は冷たかったが、妻はコラソンの身体を起こすため、桶を置いて肩を貸した。

感情と行動を同じにしない。

嫌っていても、歩けない人間を床へ放置しない。

コラソンはその矛盾へ戸惑いながら、支えを拒まなかった。

「寝台へ移します。」

妻が言う。

「熱が下がるまでは、水と薄い食事だけです。吐き気がなければ、後で少し増やします。」

「私を殺すなら、今の方が簡単でしょう。」

「簡単なことを選ぶために、治療を手伝ったのではありません。」

コラソンは数歩進み、扉の前で振り返った。

レイモンは卓上の刃物を洗い直している。

「なぜ、治したの。」

「先ほど答えました。」

「役割の話ではなく。」

レイモンは布から目を上げた。

「あなたが死ねば、マルスを撃った理由まで、残った者たちが好きに作る。」

「政治のため?」

「それだけではありません。」

「では。」

彼は洗った刃物を光へ掲げ、汚れが残っていないか確かめた。

「傷を見て、治せると思ったからです。」

コラソンは返事を待った。

「それだけ?」

「それだけでは、足りませんか。」

「処刑した人にも、同じことを思わなかったの。」

レイモンの手が静かに下りた。

「思ったことはあります。」

「それでも殺した。」

「ええ。」

「なら、今回だけ治す理由にならない。」

「理由にはなりません。」

レイモンは否定しなかった。

「だから、これは過去を償う行為ではない。あなたを治せば、殺した人々が戻るとも思っていません。」

「では、本当に何なの。」

「今、目の前で私が手を動かさなければ、あなたは死ぬか、脚を失う。」

レイモンは布で刃物を包んだ。

「その結果だけは、私が選んだことになる。それが嫌でした。」

コラソンは長く彼を見た。

「自分のため?」

「人を助ける理由から、自分を完全に外せる人間はいません。」

その言葉には、善人として見られたい願いも、処刑人であった自分を軽くしたい祈りもなかった。

ただ、何もしなかった結果まで他人の罪へ任せたくないという、頑固な責任だけがあった。

コラソンは妻の肩へ体重を預け、寝室へ入った。

小さな寝台へ横たえられ、毛布を掛けられる。

傷の痛みは治療前より鋭くなっていたが、内部へ溜まっていた圧迫感は僅かに減っている。

妻が水を置き、窓のない部屋を出ようとした時、コラソンが呼び止めた。

「マルスへ、私が生きていると伝える?」

妻は戸口で振り返った。

「夫が決めます。」

「あなたは、どうしてほしい。」

妻は暫く考えた。

「今は、伝えたくありません。」

「なぜ。」

「彼があなたを逃がした理由を、本人へ言葉にさせたくないからです。」

コラソンの目が細くなる。

「どういう意味。」

「言葉にすれば、それは演説へ使える形になります。」

妻は戸口へ手を掛けた。

「マルスが本当にあなたを一人の人間として逃がしたのなら、少なくとも今しばらくは、誰にも説明させない方がよいと思います。」

コラソンは答えなかった。

その考えは、彼女が最も恐れているものと同じだった。

救出が美談へ変わり、自分がマルスの正しさを証明する道具になる。

しかし妻は、マルスを疑っているからではなく、彼が行った一つの行為を政治から守ろうとしていた。

「それでも、いつか聞く。」

「ええ。」

妻は僅かに頷いた。

「その時、撃つための手ではなく、聞いた後も立っていられる身体を持って行ってください。」

戸が閉じられた。

鍵は掛からなかった。

コラソンは毛布の上へ片手を置き、遠ざかる足音を聞いた。

外へ出ようと思えば、這ってでも出られる。

だが今出れば、傷は開き、路地で倒れ、政府か群衆の物語へ回収される。

ここへ残れば、処刑人とその妻、アデル、顔も知らない隠れ家の者たちへ監視される。

どちらも自由ではなかった。

それでも、初めて自分で選べる余地が僅かに残っていた。

マルスを殺す者へ戻るのか。

助けられた恩を返す者になるのか。

その二つへ急いで自分を押し込めず、なぜ逃がしたのかを本人へ問うまで、答えを持たずに生きる。

コラソンは、その曖昧さを最も嫌っていた。

銃を持てば、一度の引き金で終わらせられた。

今は、傷が塞がるのを待ち、相手の言葉を聞き、それでも自分の判断を選ばなければならない。

眠りへ落ちる直前、彼女はマルスが最後に見せた顔を思い出した。

血を流し、怒り、息を切らしながら、それでも群衆へ渡すことを拒んだ顔だった。

コラソンは毛布を握った。

赦されたとは思わなかった。

自分も赦すつもりはなかった。

ただ、次に彼の前へ立つ時まで、銃弾だけで終わらせた問いを、言葉へ戻さなければならなくなった。

首都のパン屋から最初に消えたのは、小麦ではなかった。

焼き上がったパンを棚へ並べるための木籠だった。

店主たちは夜明け前に焼いたパンを表へ出さず、裏口から予約客や顔馴染みへ渡し始めた。棚が空であれば、役人に価格を確認されても、売る物がないと答えられる。木籠まで店内へ残しておけば、隠していると疑われるため、物置や知人の家へ移された。

通りから見えるのは、火を落とした窯と、磨かれ過ぎた空の棚だけだった。

夜明け前から店先へ並んでいた者たちは、扉が開かない理由を知らされなかった。

雨除けの軒下へ肩を寄せ、昨日までの価格を書いた札を見上げる。札には一斤当たりの金額が残されていたが、その値段で買えるパンは存在しない。

列の前方にいた女が、赤子を胸へ抱き直した。

背中には、四、五歳ほどの男児が布で括り付けられている。眠っていた子供は空腹で目を覚まし、母親の肩越しに店の扉を見た。

「今日は、まだ焼けていないの?」

女は答えず、赤子の頭を外套の内側へ入れた。

前夜から何も食べていないとは言えなかった。

子供へ空腹を認めれば、食べ物を用意できない自分が母親ではなくなるように感じたためだった。

列の後方では、軍服を着た男が何度も懐へ手を入れていた。

給金として渡された政府紙幣が入っている。昨日までならパンを二つ買えた額だが、今朝、別の店では一つにも足りないと言われた。

兵士が列から外れ、扉へ拳を当てた。

「中にいるのは分かっている。開けてくれ。」

返答はなかった。

「押収に来たのではない。買いに来ただけだ。」

二階の鎧戸が僅かに動いた。

店主の妻が隙間から外を確認している。

兵士は政府紙幣を取り出し、見えるように掲げた。

「子供が三人いる。昨日から、粥しか食べていない。」

鎧戸の向こうで、女の顔が一度消えた。

暫くして裏口が開き、店主が表へ回ってきた。

粉まみれの前掛けを着けたまま、両手には何も持っていない。

列の人間が一斉に動いた。

「パンは?」

「いくらなら売る!」

「政府の価格で出しなさい!」

店主は両腕を上げ、押し寄せる者を止めようとした。

「麦がありません。」

兵士が紙幣を握ったまま近づいた。

「昨日、荷車が入ったのを見た。」

「あれは、注文済みの粉です。」

「なら、焼いたのだろう。」

「焼きました。」

列の中から怒鳴り声が上がった。

店主は逃げず、兵士へ顔を向けた。

「窯へ入れた薪、塩、酵母、粉、全部が昨日より上がった。政府の価格で売れば、今日の分を売り切った後、次の麦を買えません。」

「価格統制に従え。」

「従って、店を閉めろと?」

兵士の顎が硬くなった。

「命令だ。」

「今は、客として来たのでしょう。」

店主の言葉に、兵士は政府紙幣を持った手を下ろした。

軍服を着ている限り、買い物と命令を分けられない。

自分は家族へ食べ物を持ち帰りたいだけでも、店主から見れば、拒めば武器を使える政府の兵士だった。

「裏から、誰へ渡した。」

店主は答えなかった。

兵士の視線が裏口へ向く。

そこへ入れば、隠されたパンが見つかるかもしれない。

見つければ押収できる。

自分の子供へ一つ持ち帰ることもできる。

だが、押収すれば店主は明日から焼かない。

「金持ちへ売ったのか。」

母親の一人が声を上げた。

店主は彼女へ向き直った。

「粉を持ってきた者へ、代金の一部として渡しました。」

「私たちには売らないで、商人へ?」

「商人へ返さなければ、次は来ません。」

「次が来るまで、今日の子供は何を食べるの!」

女の背中で、男児が泣き始めた。

店主はその顔を見られず、前掛けへ視線を落とした。

「私にも、子供がいます。」

「だから何。」

「だから、今日だけ全部売って、明日から何も焼けなくなることができない。」

母親は言い返そうとしたが、背中の子供が泣きながら髪を掴み、言葉が途切れた。

店主の判断は正しくも、優しくもなかった。

自分の家族と店を残すため、列へ並ぶ別の家族を今日飢えさせている。

列の後方から石が投げられた。

店の扉へ当たり、木片が僅かに飛ぶ。

誰が投げたかは分からない。

二つ目の石が窓へ向かった時、兵士が腕を伸ばして受け止めた。掌へ角が当たり、皮膚が裂ける。

「やめろ!」

軍人としての怒声が出た。

列の者たちは一歩下がった。

兵士自身も、自分の声へ驚いたように手を見た。血が紙幣へ落ち、印刷された数字を濡らしている。

「店を壊せば、パンは増えない。」

誰かが低く言い返した。

「壊さなくても、出てこない。」

「だからって――」

兵士は続きを言えなかった。

正しい説得を続けるほど、自分の子供も空腹のまま待っている。

店主が、外套の内側から小さな包みを出した。

パンではなく、焼く前に残った固い生地を薄く伸ばしたものだった。

「これしかない。」

兵士は包みを見た。

「いくらだ。」

「金はいらない。」

「施しを受けるつもりはない。」

「では、明日、店を守ってください。」

店主の声は小さかった。

「価格統制の役人か、麦を探す群衆か、どちらが来ても。」

兵士の顔が歪んだ。

店主はパンを売っているのではない。

食べ物と引き換えに、政府の兵士を自分の店へ付けようとしている。

「それは、賄賂になる。」

「なら、買わないでください。」

兵士は包みを受け取れず、手を下げた。

背後では子供たちが泣いている。

店主も、母親も、兵士も、誰か一人を悪者にすれば済む場所には立っていなかった。

その通りから三本離れた市場では、麦の価格を書き換える役人が、古い札を板から剥がしていた。

政府の価格統制令は前夜に出されている。

小麦、裸麦、豆、塩、油について、十日前の価格を基準に上限を定め、それ以上で販売した者は財産没収と拘束の対象になる。

役人は新しい札を掲げたが、露店の半分は開かなかった。

開いている店も、籠には豆が一握り、油壺には底が見えるほどしか残っていない。

「在庫を出してください。」

役人が穀物商へ命じると、男は帳簿を開いた。

「昨日のうちに売却済みです。」

「誰へ。」

「国外の商社へ。」

「荷は、まだ倉庫にある。」

「所有権は向こうへ移っています。」

「国内にある穀物へ、外国の所有権を認めろと?」

商人は帳簿の頁を指で押さえた。

「代金は銀貨で受け取っています。政府紙幣ではありません。」

「持ち出しを禁止する。」

「契約違反になります。」

「国家非常時だ。」

「契約を破るなら、次から誰も銀貨を持ってきません。」

役人は商人の顔から帳簿へ視線を戻した。

「銀貨で買ったのは、アーセンの商人か。」

「商人の国籍を、全て確認しておりません。」

「取引先の名は。」

「提出命令書を。」

役人は懐から紙を出した。

商人は印章を確認し、首を横へ振った。

「旧政府の印です。」

「臨時委員会が継承している。」

「その決議文は、まだ市場へ届いていません。」

「今、私が説明した。」

「説明と法令は別です。」

役人の頬が赤くなった。

つい数日前までなら、政府の役人が口頭で命じるだけで倉庫を開けさせられた。

今は、ロベルトが逮捕され、臨時委員会の窓口も署名権者も定まらない。その空白を、商人は知っている。

「倉庫を確認する。」

「鍵は、所有権を持つ商社へ渡しました。」

「国内の倉庫の鍵を、国外へ?」

「代理人が持っています。」

「どこにいる。」

「今朝、出発しました。」

役人は市場の出口へ目を向けた。

荷車が一台、遠ざかっている。

止めようと手を上げたが、連れてきた警備兵は二人しかいない。荷車の周囲には私兵が六人付き、胸元へ外国商社の印を付けていた。

役人は追わなかった。

止めれば、商人同士の争いではなく、外国資産への政府による襲撃として扱われる。

「麦は、いつ運び出す。」

商人は帳簿を閉じた。

「運び出すとは限りません。」

「では、何のために買った。」

「値上がりを待つのでしょう。」

倉庫の中に麦はある。

だが、国内市場へは出ない。

所有者が変わり、値段が上がるまで扉を閉ざされた穀物は、焼かれた穀物より市民へ届きにくかった。

政府の財政会議では、その報告が昼前に届いた。

財政委員は市場役人の書面を読み、机へ伏せた。

「倉庫を封鎖します。」

地方行政委員が顔を上げる。

「既に封鎖されています。外国商社の私兵が。」

「政府が封鎖するのです。」

「違いは、誰が鍵を持つかだけです。」

「政府が鍵を持てば、配給へ回せる。」

「誰が運ぶ。」

財政委員の手が止まった。

馬車、荷車、船。

穀物を移動させる道具の多くも、同じ商人たちに押さえられている。

政府が倉庫を接収しても、袋を運ぶ人夫、荷車を引く馬、粉にする水車、焼く薪がなければ、麦は倉庫の床へ積まれたままだった。

「軍を使う。」

軍務委員は首を横へ振った。

「首都警備隊は、配給所と拘留施設で手一杯です。」

「ジャン軍から戻った兵を。」

「レオンの下へ集まっています。」

「政府軍だろう。」

「本人たちは、そう考えていません。」

財政委員が椅子から立ち、窓へ向かった。

政府庁舎の前には、パンと穀物を求める市民が集まっている。

まだ暴徒にはなっていない。

誰かが責任者を出せと叫び、別の者が子供を肩へ乗せ、空の籠を掲げている。

「値上がりは、商人の強欲だけではありません。」

市場役人が会議室の端から言った。

彼は報告を届けた後も、帰る許可を得られず立っていた。

「軍の買い付け、地方都市の備蓄、国外商社の契約が重なっています。」

財政委員が振り返る。

「アーセンが買っているのか。」

「直接の名は出ません。ですが銀貨の型、契約書の書式、運送保険の印が、国境側の商社と同じです。」

「証拠は。」

「契約書を押収できておりません。」

「ならば、推測だ。」

市場役人は反論しなかった。

政府は、証拠がないという理由で動かなければ、全ての麦を買われる。

推測だけで商人を捕らえれば、残った商人も市場から消える。

「アーセン軍は、進んでいない。」

軍務委員が地図を見た。

「ジャンを捕らえた後、国境側へ部隊を戻している。」

「軍を動かさずに、穀物を取っている。」

財政委員の言葉に、地方行政委員が帳簿を開いた。

「穀物だけではありません。南部で荷車の車輪、麻袋、綱、馬具、塩が買い占められています。」

「食料を高く売るためか。」

「軍を動かすものです。」

軍務委員は、自分の前の兵站表へ視線を落とした。

兵士が銃を持っていても、馬がいなければ移動できない。

麦があっても袋がなければ配れない。

車輪がなければ砲も食料も運べない。

塩がなければ肉を保存できず、薬草がなければ傷病者を維持できない。

アーセンが買っているのは、市民の食料であると同時に、軍隊の時間だった。

「国内の軍を再編できなくするつもりです。」

軍務委員は言った。

「侵攻の前準備か。」

財政委員が問い返すと、男は首を横へ振った。

「侵攻しなくて済むようにするのかもしれない。」

「市民を飢えさせ、こちらから軍を解散させる。」

「軍だけが飢えるわけではありません。」

「アーセンも、分かっているはずだ。」

軍務委員は答えなかった。

理解していなければ無能であり、理解して実行しているなら、軍事的には合理的であるほど残酷だった。

地方の穀倉地帯では、価格上昇が首都とは別の形で現れていた。

麦を作る農家の倉庫には、まだ穀物がある。

しかし地方兵、革命軍残党、町の配給係、外国商人の代理人が、同じ荷へ別々の権利を主張していた。

ある村の粉挽き場へ、元ジャン軍の部隊が到着した。

兵士は二十人ほど。

旗は下ろしていたが、武器を置いていない。

隊長は水車小屋の前で、帳簿を持つ老女へ徴発書を差し出した。

「小麦を四十袋、軍の配給へ回していただきます。」

老女は紙を受け取らず、隊長の顔を見た。

「どこの軍です。」

男の口が一度止まった。

「南部防衛に参加した部隊です。」

「今は、誰の命令で動いているの。」

「元の町へ戻る途中です。」

「戻る兵が、なぜ四十袋も必要なのです。」

「負傷者と家族がいます。」

老女は水車小屋の後ろを見た。

兵士たちの荷車には、包帯を巻いた者と、幼い子供が乗っている。

嘘ではない。

「この麦は、村の冬越しです。」

「代金は払います。」

隊長は政府紙幣を出した。

老女は紙へ目を落とした。

「昨日、塩を買おうとしたら断られました。」

「政府が保証しています。」

「その政府は、今誰が動かしているのです。」

隊長は紙幣を持つ手へ力を込めた。

兵士たちの前で、価値がないと認めることはできない。

「私たちは、村を守るために戦った。」

「ええ。」

老女は否定しなかった。

「この水車で挽いた粉を、何度も持っていきましたね。」

「だから、また協力を。」

「戻ってきたのは、空の袋だけでした。」

老女の声は責める調子ではない。

長く待ち、誰も返さなかった事実を確認しているだけだった。

「兵士を食べさせた麦は、消えたのではありません。町を守るために使われた。それは分かっています。」

隊長の表情が僅かに緩んだ。

「なら――」

「ですが、今度は村を守る麦です。」

言葉を拾われた後で拒まれ、男の顔が再び硬くなる。

「我々の家族も、村人です。」

「この村の人間ではない。」

「同じ国の人間でしょう。」

「国が、この倉庫へ麦を戻してくれますか。」

兵士たちの中から、一人の若者が前へ出た。

「ここで渡さなければ、外国商人に買われるだけだ。」

老女は彼へ向き直った。

「外国商人は銀貨を出します。」

「国を売るのか。」

「銀貨なら、別の土地から豆を買える。」

「敵の金だ。」

「子供は、金の紋章を食べません。」

若い兵士の手が銃帯へ動いた。

隊長が腕を伸ばし、止めた。

「武器へ触るな。」

「ですが――」

「触るな。」

男は老女へ顔を戻した。

「四十袋が無理なら、二十袋を。」

「五袋。」

「それでは、二日も持たない。」

「村も、余っているわけではありません。」

「十袋。」

老女は倉庫の扉へ目を向けた。

「負傷者と子供の人数を見せてください。」

「兵士には渡さないと?」

「兵士へは、自分たちの町まで歩ける分を。負傷者と子供には、到着するまで必要な分を。」

若い兵士が反発した。

「我々が戦えなくなれば、道中で奪われる!」

「あなた方が戦えるだけ食べれば、村の子供が冬に食べられなくなります。」

「それを選べと?」

老女は男の顔を見た。

「あなた方は、選ぶ銃を持って来たのでしょう。」

兵士は言葉を失った。

隊長は徴発書を折り畳んだ。

命令書を持ち、武器を持ち、数でも勝っている。

四十袋を奪うことはできた。

だが奪えば、ジャン軍の暴走を止めるため元の町へ戻るという自分たちが、道中の村を荒らす軍へ変わる。

「負傷者と家族を、全員見せます。」

隊長は言った。

「兵士の分も、三日ではなく、一日分で構いません。」

老女はすぐに同意しなかった。

「武器を水車小屋の外へ置いてください。」

若い兵士が息を呑む。

「村の者に囲まれたら。」

「囲みません。」

「信じろと?」

老女は水車小屋の扉へ手を掛けた。

「こちらも、あなた方が五袋で帰ると信じなければ開けられません。」

隊長は部下たちを見た。

「銃は荷車へ置け。二人だけ見張りに残す。」

不満は出たが、誰も命令へ逆らわなかった。

武器を置いて初めて、倉庫の扉が開かれた。

中には麦袋が並んでいる。

四十袋どころか百袋以上あるように見えた。

若い兵士の目へ、怒りと空腹が同時に浮かぶ。

老女はその視線を見て、扉の前から動かなかった。

彼女が守っているのは余剰ではない。

数か月先まで生きるための時間だった。

同じ日の午後、その倉庫へ外国商社の代理人が到着した。

銀貨を積み、全量を現在価格の二倍で買うと提示する。

老女は契約書へ手を伸ばさなかった。

「軍にも五袋しか渡さなかった。」

代理人は笑わず、銀貨箱を開いた。

「五袋を売ってください。残りは、倉庫に置いたままで構いません。」

「買って、運ばない?」

「所有権だけを移します。」

「その後は。」

「価格が上がれば売ります。」

「誰へ。」

「最も高く買う者へ。」

老女は銀貨を見た。

これだけあれば、豆、芋、塩、家畜の餌を買える。

だが売れば、倉庫の麦へ自分たちが触れられなくなる。

村の中にありながら、冬の食料が他人の物になる。

「どこの商社です。」

代理人は会社名を答えた。

表面上は中立国の商社だった。

契約書の保証欄には、アーセン領内の銀行印が押されている。

「アーセンの金ですか。」

代理人は肩を竦めた。

「銀貨に、誰の命令かは刻まれておりません。」

「刻まれていなくても、流れてきた道はあります。」

「拒めば、別の村が売ります。」

「売らせればよい。」

「その村の麦がなくなれば、兵士は次にこちらへ来ます。」

老女の指が、倉庫の鍵を握った。

売っても危険。

売らなくても危険。

アーセンの買い付けは、穀物を奪うだけではなかった。

売らない者へ、隣人が先に売れば自分の負担が増えるという恐怖を与えていた。

国境の外では、その仕組みを作った帳簿が、アーセンの卓上へ集められていた。

商社ごとの買い付け量、倉庫の位置、輸送契約、現地価格、銀貨の残額。

参謀は、首都の穀物価格が予想より速く上がっている報告を読み、眉間へ皺を寄せた。

「予定値を三割超えています。」

アーセンは買い付け表から目を上げた。

「復活王朝の敗走で、商人が政府紙幣を見限った。」

「我々の買い付けだけが原因ではないと?」

「原因の一つだ。」

「価格上昇を止めますか。」

「止めれば、軍が買う。」

参謀は次の頁を開いた。

「市民も買えなくなっています。」

「分かっている。」

「餓死者が出ます。」

アーセンの指が、帳簿の余白へ置かれた。

「分かっていると言った。」

参謀は黙らなかった。

「ならば、確認いたします。目的は、敵軍の再編阻止です。市民の飢餓ではない。」

「そうだ。」

「結果として市民が飢える場合、どこまで許容するのです。」

アーセンは椅子の背へ身体を預けず、男を見た。

「許容という言葉を使えば、誰かが決めた範囲までなら死んでよいことになる。」

「実際には、範囲を決めなければ作戦を続けられません。」

「だから、数字を出せ。」

参謀は別の紙を差し出した。

首都への穀物流入量。

軍の保有量。

地方都市の備蓄。

人口推定。

現在の買い付け速度が続けば、首都の市場在庫は二週間以内に底を突く。地方からの供給が止まれば、配給だけで全住民を支えることはできない。

「二週間。」

アーセンは数字を見た。

「軍が再編される時間より短い。」

「市民が耐えられる時間も短い。」

「軍が食料を持てば、先に市民から取る。」

「だから、全てを買う?」

「全てではない。」

アーセンは表の一部を指した。

「種麦、孤児院、施療所、村ごとの冬備蓄は対象外と命じた。」

「商人が守っている保証はありません。」

「破った商社は、次の契約から外せ。」

「既に買った穀物は戻りません。」

「ならば、現地へ売り戻させる。」

「値上がり後の価格で?」

「購入価格で。」

参謀はアーセンの顔を見た。

「損失は、こちらが負担するのですか。」

「命令を破った商人へ負わせろ。」

「商人は、最初から施療所用だったと知らなかったと主張します。」

「契約書へ用途確認を加えた。」

「後からです。」

アーセンの指が止まった。

買い付け網を広げた時、速さを優先した。

どの倉庫が誰の冬を支え、どの袋が種麦であるかまで調べていれば、革命政府が立て直す時間を与える。

軍の再編を止めるには、兵站全体を一度に揺らす必要があった。

その結果、軍と市民の食料を完全には区別できなかった。

「知らなかったとは言わない。」

アーセンは低く言った。

「軍用麦を買えば、市場の麦が減る。荷車を押さえれば、病人の食料も動かなくなる。最初から分かっていた。」

参謀は帳簿を閉じなかった。

「それでも実行した。」

「国境へ再び数万の兵が集まるより、自国の損害は少ない。」

「自国の。」

「私は、自国の軍を預かっている。」

アーセンは言葉を誤魔化さなかった。

「敵国の子供と、自国の兵士のどちらを守るか問われれば、自国を選ぶ。」

「敵国の子供を殺すことも、選択に含まれるのですか。」

アーセンの目が僅かに細くなった。

「質問を、正義の形へ整えるな。」

「では、どう尋ねれば。」

「我々が買わなければ、革命軍か復活王朝の残党が買う。金がなければ徴発する。その軍が国境へ来れば、こちらの村が焼かれる。」

「だから、先に向こうの村を飢えさせる。」

「そうなる。」

参謀は反論を続けなかった。

言い換えによって軽くならない答えだった。

アーセンは買い付け表の端へ、新しい命令を書かせた。

「首都の施療院、孤児院、冬備蓄へ指定された倉庫は、買い付けを停止する。既に契約した分は、所有権を保持したまま現地配給へ回す。」

参謀が眉を上げた。

「所有権は、こちらのまま?」

「政府へ返せば軍が取る。」

「我々が配給を管理すれば、内政干渉と見なされます。」

「商社へやらせる。」

「商社が、市民を選ぶ?」

「現地の町会と施療所へ名簿を作らせる。」

「その名簿へ革命派が入る可能性は。」

「食べるだけなら構わない。」

参謀は僅かに息を吐いた。

「兵士は?」

「武器を持ったままなら除外する。」

「武器を置けば。」

「家族の人数分だけ。」

アーセンの命令は、飢餓を止めるものではなかった。

軍が食料を奪えない形で、市民の死亡速度を遅らせるだけだった。

買い付けそのものを止めれば、敵軍が再び補給を得る。

続ければ市民が死ぬ。

その中間へ、誰を食べさせ、誰を除外するかという新しい支配が生まれる。

「撤退交渉を求める者が来ると思いますか。」

参謀が尋ねた。

「来なければ、国として終わる。」

「誰が代表に。」

アーセンは国境の向こうへ視線を向けた。

「それがいないから、ここまで崩れた。」

買い付けによる圧力が広がる一方、周辺国は軍隊を動かし始めていた。

復活王朝が健在であれば、王政復古の正統性を巡って交渉しなければならない。

革命政府が統一されていれば、宣戦と報復を覚悟する必要がある。

今は、そのどちらも存在しない。

東側の国境では、隣国軍が川の流路変化を理由に測量隊を送り込み、従来より西へ新しい境界杭を打った。

兵士は砲を持たず、測量具と護衛だけで入っている。

現地の村人が抗議すると、隊長は古い地図を開いた。

「川が境界です。」

村の代表が、現在の川筋を指した。

「その川は、洪水で去年動いた。」

「だから、現在の川を基準にする。」

「去年まで畑だった場所が、あなた方の国になるのですか。」

隊長は杭を打つ兵へ止めろとは言わなかった。

「政府間で異議を申し立ててください。」

「どの政府へ?」

村人の問いに、隊長は答えなかった。

北側では、亡命貴族を伴った外国軍が、革命時に没収された領地の返還を名目に農園へ入った。

貴族は、生き残った使用人へ屋敷の鍵を求めた。

「これは、私の父の土地だ。」

使用人は背後の兵士を見た。

「革命後、村へ分けられました。」

「不法な没収だ。」

「村人が耕しています。」

「借りているだけだ。」

「何年も税を払いました。」

「反乱政府へ払った金が、所有権になると思うのか。」

使用人は鍵を渡さなかった。

外国兵の将校が前へ出る。

「財産紛争は、占領後に審理する。」

「占領?」

貴族の顔が一瞬強張った。

彼は救済と返還を求めていたが、自分の領地が外国軍の占領地へ組み込まれるとは聞いていなかった。

「保護地域と言い直しましょう。」

将校は穏やかに答えた。

言葉を変えても、兵士が屋敷の門へ立つ事実は変わらなかった。

南東の修道院には、宗教施設の保護を掲げる別の国の兵が入った。

革命政府による聖職者迫害から守ると宣言し、鐘楼へ自国旗を掲げる。

修道士の一人が、旗を下ろすよう求めた。

「ここは、軍営ではありません。」

将校は礼拝堂の天井を見上げた。

「だから守ります。」

「兵士が入れば、攻撃の目標になります。」

「我々がいなければ、革命派に奪われる。」

「革命派は、もうここへ来ていません。」

「今後も来ない保証は?」

修道士は答えられなかった。

保証できる政府も、軍もない。

保護という言葉で入った兵を追い出すには、別の兵が必要だった。

その頃、首都の臨時委員会では、三つの国から届いた通告書が同じ机へ積まれていた。

境界確認。

亡命貴族の財産保護。

宗教施設への一時駐留。

どの文書にも、侵攻とは書かれていない。

軍務委員は通告書を一枚ずつ読み、最後に机の端へ置いた。

「宣戦布告がない。」

地方行政委員が言った。

「ない方が悪い。」

「なぜ。」

「戦争なら、相手国と交渉できる。これは、土地ごとに別の理由を付けて入っている。」

軍務委員は地図へ印を増やした。

「一つを認めれば、他国も同じ権利を主張する。全てを拒めば、三方向で戦うことになる。」

「アーセン軍は?」

「国境から大きく進んでいない。」

財政委員が苦い顔をした。

「進まずに、こちらの麦と馬車を取っている。」

「抗議文を送る。」

地方行政委員が紙を取った。

「誰の名で。」

再び、筆が止まった。

臨時委員会。

残存議会。

革命政府。

地方代表連合。

どの名を使っても、相手から国内全体を代表する権限を問われる。

ロベルトを逮捕した時、彼一人へ権限が集中することを否定した。

今は、一人でない政府が、一つの署名を作れずにいる。

「アーセンへ、交渉団を送る必要があります。」

財政委員が言った。

軍務委員は頷かなかった。

「条件を提示できる者がいない。」

「停戦と買い付け停止を求めるだけなら。」

「代わりに何を渡す。」

「国境の不可侵。」

「レオンが守ると保証できるか。」

「軍備縮小。」

「地方軍が従うか。」

「関税か、賠償を。」

「国庫に銀貨がない。」

財政委員は額へ手を当てた。

交渉とは、被害を訴えることではない。

相手が軍を退き、金を使い、国内の反対者へ説明できるだけの材料を渡す必要がある。

臨時委員会には、そのどれもなかった。

隠れ家へ届く報告も、日を追うごとに食料の話ばかりになっていた。

コラソンの熱は下がり始めていたが、まだ寝台から長く起き上がれない。無名の王の姉も、塔で衰えた身体を戻し切れておらず、食事量を急に減らせば再び寝込む危険がある。

アデルは台所で、残った豆と麦を別々の皿へ広げていた。

虫に食われた粒、湿気で黒ずんだ粒、まだ煮れば食べられる粒を、指先で一つずつ分ける。

以前なら捨てていたものまで残していた。

レイモンの妻は、市場から戻った袋を卓上へ置いた。

中には、固い黒パンが一つ、乾燥豆が一握り、塩が僅かに入っているだけだった。

「昨日の倍です。」

アデルは黒パンを持ち上げ、重さを確かめた。

「大きさは、昨日より小さいですわね。」

「政府紙幣では売らないと言われました。」

「銀貨を使ったの?」

「ええ。」

妻は外套の袖を捲った。

手首に、小さな擦り傷がある。

レイモンが気付き、近づいた。

「市場で何かありましたか。」

「パン屋へ押し込む人に、巻き込まれただけです。」

「転んだ?」

「壁へ当たりました。」

「見せてください。」

「治療するほどではありません。」

「傷の大きさは、あなたが決めることではないと、昨日コラソンへ言ったでしょう。」

妻は言い返そうとし、口元を僅かに緩めた。

「夫婦間でも、同じ規則を使いますの?」

「相手によって変えれば、規則ではありません。」

レイモンは手首を取り、皮膚の状態を確認した。

骨に異常はない。

妻は夫の指が離れるのを待ち、市場で見たものを話した。

パン屋の空の棚。

政府紙幣を持った兵士。

倉庫の前へ立つ外国商社の私兵。

穀物ではなく、荷車の車輪まで買われていたこと。

「アーセンですわね。」

アデルは豆を分ける手を止めなかった。

「おそらく。」

妻は答えた。

「兵を進めず、軍を養えない国にする。革命軍も、王党派も、レオンも、食べ物がなければ動けません。」

無名の王の姉が隣室から出てきた。

壁へ手を添え、ゆっくり卓まで歩く。

「市民も動けなくなる。」

「ええ。」

妻は否定しなかった。

姉は黒パンを見た。

「アーセンへ、止めるよう言えないの?」

アデルが妻へ視線を向ける。

答えを求められた本人は、すぐに口を開かなかった。

「誰が言うのです。」

姉は椅子へ座った。

「臨時政府が。」

「臨時委員会には、撤退後の国境を保証する軍がありません。」

「レオンは?」

「彼は革命軍をまとめております。アーセンから見れば、撤退した後に最も攻めてくる可能性がある人物です。」

「ラファエル。」

「国内の包囲を解いたばかりで、国全体を代表しておりません。」

「アデルは。」

妻がアデルを見る。

アデルは虫に食われた豆を皿の端へ移した。

「わたくしが生きていると出れば、交渉より先に国中が騒ぎますわ。」

「それでも、他の者よりは。」

姉の声に、アデルは顔を上げた。

「支持があることと、約束を守らせられることは別ですの。わたくしが国境を侵しませんと申し上げても、レオンや地方軍が従わなければ、アーセンは撤退いたしませんわ。」

妻は黒パンを半分に切った。

刃を入れると、固い皮が割れ、細かな欠片が卓へ散る。

「交渉へ行く者は、最初から成功させられないでしょう。」

レイモンが妻の横顔を見た。

「何を考えています。」

「アーセンが、何を条件にしているか聞きます。」

「臨時委員会の代表として?」

「違います。」

「では、誰として。」

妻は刃物を置いた。

「何の権限も持たない人間として。」

レイモンの眉が寄った。

「説得材料がないと、自分で言ったばかりです。」

「ええ。」

「ならば、断られます。」

「断る理由を聞けます。」

「それだけのために、アーセン軍へ行くのですか。」

妻は、卓上の僅かな食料を見た。

「何を渡せば止まるかも知らず、ここで正しい条件を作ることはできません。」

「捕らえられる可能性があります。」

「レイモンの妻であることは、相手も調べるでしょう。」

「だからこそ、人質に使われます。」

「あなたは、今さら国外へ出られません。」

「私が行くと言っているのではない。」

レイモンの声が僅かに強くなった。

「あなたを行かせないと言っています。」

妻は彼の言葉を受け、怒らずに問い返した。

「では、誰を行かせますか。」

レイモンは答えられなかった。

アデルは生存を隠している。

無名の王の姉を出せば、王族保護の名目を与える。

レオンが出れば軍事交渉になる。

ラファエルは別の勢力を代表する。

臨時委員会の使者には、履行できる約束がない。

「あなたである理由は。」

レイモンは、止めるだけでは会話にならないと理解し、問いを変えた。

妻は半分にした黒パンを、さらに人数分へ切り分け始めた。

「アーセンは、あなたのことを知っています。」

「処刑人として。」

「法と革命の内側を知る者としても。」

「それが、あなたへ何を与える。」

「あなた本人が出れば、拘束か復讐の対象になります。私なら、話を聞く価値だけは残り、捕らえる価値は低い。」

「人質として高い。」

「あなたが、わたくし一人のために軍を動かすと思いますか。」

レイモンの顔が強張った。

「動かさないと?」

妻は刃物を止めた。

「動かしてほしくありません。」

「それと、動かないことは別です。」

「だから、あなたへ先に約束させます。」

「何を。」

「私が捕らえられても、助けるために誰かを処刑へ送らないこと。」

レイモンは妻の手から刃物を取った。

強く奪ったのではない。

ただ、これ以上パンを細かく切れば、粉になってしまうためだった。

「私は、あなたを見捨てる約束をしません。」

「助けないことと、見捨てることは同じではありません。」

「私には同じです。」

妻は夫の指へ自分の手を重ねた。

「以前のあなたなら、私一人を救うため、多くの人間を裁いたでしょう。」

「今も、必要なら動きます。」

「だから止めています。」

「私へ、何もしない人間になれと?」

「違います。」

妻は彼の言葉を拾い、首を横へ振った。

「私一人を理由に、また人間を数字へ戻さないでほしいのです。」

レイモンの指が、固いパンの上で動かなくなった。

過去に彼が処刑した者にも、妻や夫、子供、親がいた。

誰か一人を守るためではなく、国家や秩序のためと説明してきた。

今、自分の妻だけは例外にしたいという感情が、当時の被害者へ向けなかった想像まで連れてくる。

「交渉が失敗すれば。」

レイモンは低く尋ねた。

「戻ります。」

「戻れなければ。」

「その可能性を減らす準備をします。」

「誰と行く。」

「一人では行きません。商人の経路を借り、ラファエル側にも通行だけは知らせます。」

アデルが妻の顔を見た。

「もう、考えていたのですわね。」

「市場で、アーセン側の保証印を見ました。」

妻は頷いた。

「穀物商へ話を聞けば、国境まで荷を運ぶ者へ繋がるでしょう。」

「相手は、こちらの情報を売りますわ。」

「売られることを前提に、伝える情報を選びます。」

無名の王の姉は、切り分けられた黒パンへ手を伸ばさなかった。

「私も行きます。」

室内の全員が彼女を見た。

妻はすぐに否定しなかった。

「理由を伺っても?」

「アーセンは、王族救出を理由に国へ入れる。」

「それを与えることになります。」

「だから、出るかどうかは、彼の条件を聞いてから決める。」

姉は自分の膝へ両手を置いた。

「あなた一人では、条件を聞けても、渡せるものがないのでしょう。」

「あなた自身を、渡す物へしないでください。」

アデルの声が強くなった。

姉は彼女へ目を向けた。

「塔から出た時、あなたも言いました。助けた人間を所有する権利はないと。」

「ええ。」

「ならば、私が自分を政治へ使うことも、止められない。」

「止める権利がなくても、反対する権利はございますわ。」

「反対して。」

姉の声は静かだった。

「それでも、最後は私が決めます。」

アデルは何も言わず、豆の皿へ視線を落とした。

救出後、姉が自分で決める権利を守ると約束した。

その権利が危険な選択へ使われる時だけ取り上げれば、塔の看守と変わらない。

妻は二人の間へ入らず、黒パンを皿へ分けた。

「明日、まず私が向かいます。」

「一人で?」

姉が尋ねる。

「アーセンが何を求めているか、最初に聞きます。あなたの存在も、アデルの生存も、こちらからは出しません。」

アデルの指が止まった。

妻は続けた。

「それらを知らずに交渉できるなら、その方がよい。できないと分かってから、次の材料を考えます。」

「材料。」

アデルが言葉を繰り返した。

「人を、交渉材料と呼ぶのですね。」

「呼びたくありません。」

妻は目を逸らさなかった。

「ですが、アーセンが人ではなく軍と国境しか見ないなら、こちらも彼が理解する形へしなければ話が始まりません。」

「あなた自身も、材料になりますわ。」

「ええ。」

「それでも行く?」

妻は市場で見た子供の顔を思い出した。

パン屋の扉。

血で濡れた政府紙幣。

店を守ることと引き換えに生地を差し出した店主。

「兵が進んでいないから、まだ戦争ではないと思っている者がいます。」

彼女は答えた。

「ですが、今日パンを買えなかった子供にとっては、もう始まっています。」

レイモンは妻の隣へ立ったまま、止める言葉を探した。

危険だから行くな。

自分が耐えられないから行くな。

妻であるから行くな。

どの言葉も、彼女の判断より自分の恐れを優先するものだった。

「戻る道を、先に決めてください。」

ようやく出た言葉は、禁止ではなかった。

妻の肩から、僅かに力が抜けた。

「決めます。」

「会談場所は、アーセン軍の本営へ入らない。」

「国境近くの商社か、中立の宿場を求めます。」

「同行者は二人以上。」

「一人は商人、もう一人はラファエル側の通行保証を持つ者。」

「日没までに戻れなければ。」

「予定の変更を知らせる伝令を出します。」

「伝令がなければ。」

妻は夫の目を見た。

「あなたは来ないでください。」

レイモンの顎が固くなった。

「その条件だけは、今は受け入れません。」

「では、誰を送るの。」

「アデルと相談する。」

妻は僅かに笑った。

「少しは任せられるようになりましたね。」

「あなたが戻る前提です。」

「ええ。」

「それ以外の前提では話していない。」

妻は頷いた。

アデルは卓上の豆を、人数分の器へ分け直した。

コラソンの分には少し多く入れる。

熱が下がり始めた身体へ、食事を戻す必要があるためだった。

「アーセンが求めるものは、分かり切っているようにも思えますわ。」

アデルが言った。

妻は器を受け取る。

「国境の安全、軍の解体、撤退後に再侵攻しない保証。」

「それを与えられる者がいない。」

「だから、彼が誰なら認めるのかを聞きます。」

無名の王の姉は、自分の器へ視線を落とした。

アデルも、返答しなかった。

この隠れ家には、死んだと思われている者、正統性を利用される者、過去の処刑によって表へ出られない者が集まっている。

国を代表する資格を持たないから、ここへ隠れている。

だが、表に残った政府が崩れたため、隠れている者の方が、交渉へ使える生存者になり始めていた。

外では、軍隊を動かさない侵攻が続いている。

倉庫の扉は閉まり、荷車は国外商社の印を付け、国境では保護と測量の名で兵が土地へ入る。

砲声はない。

城壁も崩れていない。

それでも、国は一日ごとに、食料、土地、署名する権限を失っていた。

レイモンの妻は、翌朝使う外套を取り出した。

目立たない色で、裾が馬車の乗降へ邪魔にならないものを選ぶ。

内側へ小さな紙片を縫い込み、連絡先と帰還経路を記した。捕らえられた時に読まれれば、隠れ家へ繋がらない偽の経路だけが残るよう、途中から別の道へ書き換える。

レイモンは、その作業を手伝わなかった。

止めもしなかった。

妻が自分で選んだ準備へ、夫の手を入れれば、後から自分の計画だったと思い込みかねないためだった。

「明日、行きます。」

妻が最後に告げた。

誰も、成功すると言わなかった。

説得材料はない。

国境を保証する軍も、約束を履行する政府も、賠償に使える国庫もない。

彼女が持って行けるのは、国内がどれほど壊れているかという事実と、それでも止めなければ市民が先に死ぬという訴えだけだった。

それでは、アーセンは動かない。

本人も分かっていた。

それでも、何を持たなければ動かないのかを聞く者が必要だった。

兵を動かさずに侵攻する相手へ、兵を持たない者が会いに行く。

勝つためではない。

次に、誰を、何を、どの名で交渉の席へ連れて行けばよいかを知るためだった。

国境近くの中立宿場には、どの国の旗も掲げられていなかった。

以前は街道税を徴収する関所であり、戦争が始まってからは捕虜交換、商人同士の訴訟、軍使の会談へ使われている。石造りの建物を囲む柵には新しい修繕痕が残り、門前に立つ兵士も、自分たちがどの勢力に属するか分からせないため、軍章を布で覆っていた。

レイモンの妻を乗せた馬車は、正午より少し前に門を通った。

御者台には国境商人が座り、荷台には商談用の帳簿と、実際には売る予定のない麻袋が積まれている。同行したもう一人はラファエル側の通行保証を預かった男で、武器は短剣一本だけだった。

妻は馬車の小窓から外を見ていた。

建物の周囲に砲はない。

騎兵も少ない。

それでも、街道の奥に置かれた荷車の向き、屋根の上へ立つ見張り、厩舎へ繋がれた替え馬の数から、何か起きれば短時間でアーセン軍が集まれるよう整えられていると分かった。

兵を見せずに、逃げ道だけを塞いでいる。

穀物の買い付けと同じだった。

表へ出ている力より、既に押さえられている道の方が多い。

馬車が止まると、商人が先に降りた。

「会談は一刻です。それを過ぎれば、向こうは席を立ちます。」

妻は外套の内側へ縫い付けた紙片を指で確かめた。

帰還経路と連絡先の一部だけが書かれ、途中から偽の道へ繋がっている。

「一刻で終わる話なら、こちらまで来ておりません。」

「長く話せば譲る方ではありません。」

商人は声を潜めた。

「話が長くなるほど、何も持っていないと分かります。」

妻は反論しなかった。

彼女自身、それを確かめるために来ている。

正面入口ではなく、建物の裏手にある小さな会議室へ通された。室内には長机が一つ、椅子が四脚、壁際に水差しと暖炉がある。窓には厚い鎧戸が取り付けられ、外から人影を数えられないよう閉ざされていた。

アーセンは、既に机の向こうへ座っていた。

軍服ではあるが、剣は壁際の兵士へ預けている。机には国境地図、穀物価格の推移、各地の軍隊を示す小さな印が並び、妻のために空けられた場所だけ、紙も筆も置かれていない。

発言を記録する書記は、部屋の隅に一人。

護衛は扉の外にいる。

妻が席へ着くと、アーセンは挨拶を省かなかった。

「遠いところを、お越しいただいた。」

「兵を動かさず、こちらを歩けなくなさった方から労われると、何と返せばよいか迷います。」

アーセンの目が、僅かに細くなった。

怒ったのではない。

最初から感情へ訴えるだけの交渉者ではないと見直したようだった。

「迷ったままで構いません。私は、礼を求めておりませんので。」

妻は外套を脱がず、膝の上で両手を重ねた。

「穀物と輸送具の買い付けを止め、国境から軍を退いてください。」

「理由を伺いましょう。」

「市民が飢えています。」

「知っています。」

あまりに早い返答だった。

妻は相手の表情を見た。

アーセンは視線を逸らさず、知らなかったとも、商人が勝手にしたとも言わない。

「知っていて、続けているのですね。」

「軍を再編できなくするためです。」

「軍と市民の食料を、分けられないことも?」

「最初から分かっていました。」

妻の指が、自分の手の甲へ沈んだ。

怒鳴ることはできた。

子供が泣いていたと、政府紙幣を握った兵士がパンを買えなかったと、施療所の食料まで減っていると訴えることもできる。

しかしアーセンは、被害を知らないのではない。

残酷さを隠してもいない。

「では、市民が死ねば軍を止められると。」

「市民を殺すことが目的ではありません。」

「目的でなければ、死んでもよい?」

アーセンはすぐには返さなかった。

机の上に置かれた穀物価格の表へ視線を落とし、数字の一つへ指を置く。

「その問いへ、死んでもよいとは答えません。」

「ならば、止めてください。」

「止めた穀物を、誰が受け取ります。」

妻の口が閉じた。

アーセンは指を表から離した。

「革命政府ですか。レオンの軍ですか。地方の自警団ですか。ラファエルの管理下へ入れますか。それとも、ジャンの名を使っていた部隊へ分ける?」

「町と施療所へ。」

「誰が町を選び、施療所の名簿を確認する。」

「地方の役人が。」

「ロベルトを逮捕した委員会へ、全ての地方役人が従っていますか。」

妻は答えられなかった。

首都ですら、臨時委員会の命令窓口が定まっていない。

地方では、革命政府、レオン、ラファエル、元ジャン軍、町会が、それぞれ別の命令を出している。

「我々は、既に孤児院と施療所への買い付けを止めました。」

アーセンは続けた。

「所有権を保持したまま、現地へ配給させている。」

「外国商社が、市民を選ぶのですか。」

「国内政府が軍へ渡すよりは、死者が少ない。」

「それを、統治と呼ぶつもりですか。」

「呼びません。」

アーセンの声は平らだった。

「統治する意思があるなら、軍を進め、役所を取ります。」

「役所を取らず、食料だけを握る。」

「撤兵後に、こちらへ再び軍が来ない状態を作っています。」

妻は机に広げられた地図を見た。

アーセン軍の印は国境へ寄っている。

進軍ではなく後退に見える。

その代わり、穀倉、街道、水車、荷車工房へ商社の印が付いていた。

軍の代わりに、契約書が土地へ入っている。

「ジャンは、あなたが捕らえました。」

「生きています。」

「ジャン軍は分裂した。復活王朝も敗れ、革命政府も指導者を失いました。まだ、何を恐れているのです。」

アーセンは妻の問いを侮辱とは受け取らなかった。

地図の首都側へ置かれた印を一つ動かす。

レオンの軍だった。

「この人物です。」

「レオンは、国内統一を優先しています。」

「統一した後は?」

妻は言葉を止めた。

アーセンは答えを急かさず、彼女が自分で辿り着くのを待った。

レオンが革命軍を再編し、国内の武器庫、砲、兵籍を一つへ戻せば、次に行うことは国境の回復である。現在アーセン側が押さえた地域、境界杭を動かした周辺国、亡命貴族を連れて入った外国軍へ、軍事的圧力を掛ける。

国を守るためには当然の行動だった。

アーセンから見れば、自軍を退いた直後に攻め返される準備となる。

「レオンが攻めないと、約束させます。」

妻は言った。

「あなたが?」

「本人へ伝えます。」

「従わなければ。」

「アデルやラファエルからも――」

「誰かへ頼む話ではありません。」

アーセンは声を強めなかった。

それでも言葉が、妻の持つ曖昧な希望を一つずつ机から落とした。

「あなたがここで結んだ約束を、国内の軍へ履行させられるのかと尋ねています。」

「私には、軍を命じる権限はありません。」

「では、約束にならない。」

「それでも、あなたの作戦で市民が死んでいる事実は変わりません。」

「変わりません。」

「その責任を、こちらの政府がないことだけへ押し付けるのですか。」

アーセンの指が、机の木目を一度なぞった。

「押し付けません。買い付けを命じたのは私です。」

「ならば――」

「ですが、撤退を命じた後、自国の村が焼かれれば、その責任も私です。」

妻の言葉が止まった。

アーセンは地図の国境を指した。

「先の戦闘で、私の兵も死にました。荷車も馬も失い、国境の村へ負傷者が戻っている。彼らへ、敵国の市民が飢えていたため、再び攻めて来る可能性を残して撤退したと説明できますか。」

「相手の子供を飢えさせたと説明する方が、正しいのですか。」

「正しいとは言いません。」

「では、何です。」

「選んだ、と説明します。」

アーセンは視線を妻へ戻した。

「敵国の軍を養える市場を残すか、自国の国境を守るか。その二つしかない状態へ追い込まれ、後者を選んだ。」

「二つしかない状態を作ったのも、あなたです。」

「一部は。」

「一部?」

「革命政府、復活王朝、ジャン軍、レオン、ラファエル、周辺国。全てが同じ穀物と道を奪い合っている。私一人が手を引けば、市場が元へ戻ると思いますか。」

妻は答えなかった。

買い付けを止めても、レオン軍が再編のため穀物を集める。

地方軍は帰郷までの食料を求める。

周辺国は冬備蓄を買い、亡命貴族は旧領の収穫を自分の物だと主張する。

アーセンの作戦は最も大きな圧力である。

しかし、それだけを取り除いても、国は元の形へ戻らない。

「それでも、あなたが止めれば死ぬ者は減ります。」

妻は言った。

「ええ。」

「認めるなら。」

「代わりに、撤退後の保証をください。」

同じ場所へ戻った。

妻が市民被害を訴える。

アーセンは否定せず、履行できる保証を求める。

彼女には、それがない。

「臨時委員会を、交渉相手として認めてください。」

「何を代表している。」

「残存する議員と役所を。」

「軍は?」

「レオンと交渉します。」

「地方は?」

「行政委員が。」

「王党派は?」

「復活王朝は崩れています。」

「崩れた軍が、消えたわけではない。」

妻は膝の上の手を解いた。

指先に、爪の跡が残っている。

「では、あなたは誰なら認めるのです。」

アーセンはすぐに答えなかった。

書記の筆も止まる。

この問いへ具体的な名を出せば、アーセン自身が他国の代表者を選ぶことになる。選んだ人物が後に政権を取れば、傀儡を立てたと見なされる。

「国内で、命令を履行させられる者です。」

「それは、誰です。」

「今はいません。」

妻は椅子から立ちかけた。

「いない者を連れて来なければ、撤退しない?」

「いないなら、撤退後に戦争が再開します。」

「その者が現れるまで、市民を飢えさせる。」

アーセンの顔には、怒りも冷笑もなかった。

「私が手を止めて待つ間に、レオンが軍をまとめれば、こちらは戦う。市民は、その戦争でも死にます。」

「あなたは、どの道でも死ぬと仰る。」

「死なない道を、こちらだけへ作れと求めているのはあなたです。」

妻は立ち上がらず、椅子へ深く座り直した。

相手が残酷だから交渉できないのではない。

彼女が、撤退後を保証できないから動かない。

誠実であることも、市民の被害を知っていることも、国家間の約束を履行する力にはならなかった。

「私を人質として置けば。」

思わず出た言葉に、アーセンの眉が僅かに動いた。

「誰へ対する?」

「レイモンへ。」

「彼が軍を持っていますか。」

「持っていません。」

「ならば、人質ではない。」

「アデルやレオンへ影響を。」

「あなたを救うため、彼らが国境を侵さないと?」

妻は答えられなかった。

アデルがどう動くかも、レオンが一人の妻のために軍事判断を変えるかも、彼女には決められない。

「あなた自身を軽く見ているわけではありません。」

アーセンは言葉を選んだ。

「あなたの命を差し出されても、受け取れば私が悪人になるだけで、国境は安全にならない。」

妻の顔に、疲れた苦笑が浮かんだ。

「既に、十分悪人でしょう。」

「そうかもしれません。」

否定しないため、責める言葉が行き場を失った。

壁際の時計が、会談開始から半刻を告げた。

商人から聞いた一刻の半分が過ぎた。

妻は、外套の内側へ手を入れた。

隠れ家の場所を示さない連絡紙。

市場役人から聞いた価格表。

首都の施療所と孤児院の食料不足を記した一覧。

どれも被害の証明にはなる。

撤退の保証にはならない。

それでも、何も出さずに帰ることはできなかった。

「施療所と孤児院の一覧です。」

紙を机へ置く。

「あなた方の商社が対象外とした場所へも、食料が届いていません。」

アーセンは紙を取り、書記へ渡さず自分で読んだ。

「買い付けの対象から外しただけで、輸送を保証したわけではない。」

「所有権を持ったまま配給すると。」

「現地の荷車が動かなければ届かない。」

「車輪も、あなた方が買っています。」

アーセンの指が紙の途中で止まった。

「全ての車輪を買う命令は出していない。」

「商人は、軍需品なら何でも値上がりすると考えます。」

妻は市場で聞いた話を伝えた。

麻袋、綱、車軸、蹄鉄。

アーセンが直接指定していない物まで、商社が利益を求めて買い集めている。

「命令を外へ広げた者を調べます。」

「それで、明日食べられますか。」

「止めなければ、明後日も届かない。」

その返答だけは、妻の持ってきたものが一つ動かした。

アーセンは別紙へ、車輪、麻袋、施療所向け輸送具の買い付け停止を命じる文を書かせた。

「これは、撤退ではありません。」

「分かっています。」

「交渉の成果として持ち帰りますか。」

「いいえ。」

妻は首を横へ振った。

「あなたが、自分の命令から広がった被害を少し戻しただけです。」

アーセンの口元が、僅かに動いた。

不快ではなく、評価に近い変化だった。

「その通りです。」

時計が、さらに針を進める。

妻は残った紙を膝へ戻した。

「今日は、何を持てば動くかを聞きに来ました。」

「聞けたでしょう。」

「国内で命令を履行させられる者。」

「それだけではありません。」

アーセンは地図の上へ、三つの印を置いた。

「レオンの軍を止められること。王党派残党が救出を名目に再編しないこと。革命政府の拘束者を奪還させないこと。」

「三つとも、一人で?」

「一人で命じる必要はない。」

「では。」

「異なる勢力が、その人物を利用できると思えばよい。」

妻は眉を寄せた。

「支持ではなく、利用。」

「同じ人物を認める理由が、全員同じである必要はありません。」

アーセンは印を一つの場所へ寄せた。

「軍は戦争を終える名目として使い、貴族は財産と身分を守る名目として使い、市民は配給を再開する窓口として使う。本人が全てを支配する必要はない。少なくとも、本人を通さなければ交渉できない状態を作れればよい。」

妻は、その条件を聞きながら一人の顔を思い浮かべた。

だが、口へ出さなかった。

アデルの生存は、まだ外へ出してよい情報ではない。

彼女を交渉の席へ差し出せば、王党派、革命派、外国軍が一斉に動く。

「そのような人物が、実際にいると?」

妻が尋ねると、アーセンは肩を僅かに動かした。

「いないから、あなた方は代表を作れない。」

「死者なら、いくらでもいます。」

「死者は便利です。」

アーセンの声に、乾いたものが混じった。

「反論せず、約束を破らず、誰もが自分に都合のよい言葉を語らせられる。」

「生存説も。」

「死者へ戻れと命じられない者が、作ります。」

妻は、自分の膝へ視線を落とした。

無名の王。

王妃。

処刑された王族。

行方不明の貴族。

生きているという噂が、各地で勝手に作られている。

実際には死んでいる者が多い。

それでも、生存説を掲げれば軍を集められる。

生きているアデルが姿を見せれば、その力は噂より大きい。

同時に、本人の人生を国へ奪わせることになる。

会談終了を告げる時刻まで、残り僅かとなった。

アーセンは書類を閉じた。

「あなたの誠実さを疑ってはおりません。」

「最も役に立たない褒め言葉ですね。」

妻は椅子から立った。

「誠実な人間が、履行できない約束をすれば、嘘をつく人間より厄介です。」

「ええ。今日、よく分かりました。」

扉の外で、兵士が動く気配がした。

会談を終える準備だろう。

その時、廊下の反対側から、杖の先が床へ触れる音が近づいた。

一度。

間を置いて、もう一度。

妻の顔が変わる。

その歩き方を知っていた。

扉が外側から開かれ、護衛兵が入室を止めようと腕を広げる。

その背後に、無名の王の姉が立っていた。

灰色の外套を深く被り、片手を杖へ置き、もう一方の腕を同行した女へ支えられている。塔から救出された後も、長い距離を自力で歩けるほど身体は戻っていない。

それでも、顔を隠さなかった。

「会談は終わっておりません。」

アーセンの護衛が告げると、姉は息を整えてから答えた。

「終わりかけているから、来ました。」

妻は椅子から離れ、彼女へ近づいた。

「ここへ入るとは決めておりませんでした。」

「あなたが戻って来なければ、条件を聞けないと思った。」

「捕らえられる可能性があります。」

「外で待っていても、見つかれば同じです。」

姉は妻の顔を見た。

「何も渡せなかったのでしょう。」

妻は否定しなかった。

アーセンは護衛へ目を向け、腕を下ろさせた。

「お名前を伺っても?」

姉は会議室の中へ入り、椅子へ辿り着くまで杖を使った。

「名前で軍を動かせる人間ではありません。」

「それでも、誰と話しているかは必要です。」

彼女は短く息を吐いた。

「無名の王と呼ばれた男の姉です。」

書記の筆が止まった。

アーセンの目が、初めて明確に変わる。

驚きではない。

報告書の中にしかいなかった人物を、政治的価値へ置き換える目だった。

姉は、その視線を受けても顔を背けなかった。

「私を王族として救出する名目が欲しいのなら、何も差し上げられません。」

「こちらから求めておりません。」

「今は。」

「あなたを救出したと主張して軍を進める利益より、国内をまとめられない人物を抱える負担の方が大きい。」

姉は僅かに笑った。

「正直で助かります。」

妻が椅子を引き、彼女を座らせる。

姉は手を膝へ置いたが、指先には長い移動による震えが残っていた。

「この方へ、何を条件として示しました。」

アーセンは、妻へ話した内容を繰り返さなかった。

「国内で異なる勢力が認め、撤退後の軍事行動を抑え、拘束者の処遇を実行できる代表です。」

「正統な王を求めているのではない?」

「正統性だけでは、兵も穀物も動きません。」

「では、正統ではない王でも。」

妻が姉を見る。

言葉が先へ進むのを止めたい気持ちが、表情へ現れていた。

姉は彼女へ一度だけ頷き、アーセンへ戻る。

「王である必要もないでしょう。」

「ええ。」

「人々が、その人物を王として扱う利益を持てば。」

アーセンは答えず、続きを待った。

姉は外套の内側へ手を入れた。

護衛が動きかけたが、出されたのは短い書簡だった。

封蝋はない。

王家の印章も、公的な署名もない。

妻は、その紙を見て息を止めた。

アデルの筆跡だった。

「彼女の許可を得たのですか。」

姉は紙を持ったまま答えた。

「表へ出る許可ではありません。」

「では、何を。」

「彼女の生存を、交渉へ使う許可です。」

妻は紙を受け取らなかった。

「同じことになります。」

「違います。」

「生きていると伝えれば、姿を求められる。」

「だから、条件を書いてもらいました。」

姉は書簡をアーセンへ差し出した。

護衛が先に受け取り、武器や毒が仕込まれていないことを確認して机へ置く。

アーセンは紙を開いた。

そこには長い政治的宣言ではなく、僅かな文章だけが記されていた。

自分の生存を、外国軍の救出や王朝復活の功績へ使わせないこと。

外国軍の旗を伴って首都へ入らないこと。

自分を正統な王として認める代わりに軍事支援を要求しないこと。

それらが守られるなら、国内で戦争を終わらせるため表へ出る用意がある。

アーセンは最後まで読み、紙を机へ置いた。

「アデル。」

妻は、名前が相手の口から出た瞬間、扉の外へ注意を向けた。

生存を知る者を増やす危険が、もう始まっている。

姉は姿勢を崩さなかった。

「生きています。」

「証明は、この筆跡だけですか。」

「あなたが以前、彼女へ贈られた青い宝石の裏に、どの傷があるか説明できます。」

アーセンの眉が僅かに上がった。

「私が贈った?」

「あなたの使者を通じ、貴族間の取引品として渡った物です。正式な贈答記録には残っておりません。」

姉は宝石の裏側へ残る小さな欠け、留め具を一度交換した痕、アデルが身に着けた際に肌へ青い跡が残った位置まで述べた。

妻は、その詳細を初めて聞いた。

アーセンは書記へ視線を向けた。

書記も知らない情報である。

「それだけでは、本人が生きている証明になりません。」

「ええ。」

姉は認めた。

「ですから、信じるかどうかではなく、彼女が生きていると発表された時、誰が信じる利益を持つかを考えてください。」

アーセンは黙った。

姉は続ける。

「王妃も、処刑された王族も、生存説だけならいくらでもある。偽の血統も、拾われた子供も、遠い親戚を名乗る者も。ですが、その多くは、実際には死んでいるか、誰も顔を知らない。」

「アデルは違う。」

妻が、姉の意図を理解し始めた。

姉は頷いた。

「多くの貴族が顔を知っている。王の寵愛を受け、宮廷で名を持ち、平民から上がったため、市民も物語を作りやすい。血縁は改竄されているけれど、その改竄を受け入れた貴族が既にいる。」

「虚偽を正統性へ使うのですか。」

アーセンの問いに、姉は目を逸らさなかった。

「正統な王族を探している間に、国が残らなくなります。」

「アデル本人は、王位を求めていない。」

「だから使える。」

姉の声が、僅かに掠れた。

「王位を欲しがる者を置けば、周囲は奪われると恐れる。彼女は、革命が終われば退くと約束できる。」

妻が口を挟んだ。

「本人の意思だけでは、退けません。周囲が残そうとします。」

「それも分かっている。」

姉は妻へ向き直った。

「だから、王ではなく暫定の代表として出す。」

「人々は、勝手に王と呼びます。」

「呼ばせればよい。」

「本人が望まなくても?」

姉の指が、杖の柄を強く握った。

「望まない人間を利用しようとしていることは、分かっています。」

言葉の後へ、長い沈黙が落ちた。

彼女はアデルを道具として見ているのではない。

救出され、選ぶ権利を取り戻したアデルへ、再び国のため自分を差し出してほしいと求めている。

その痛みを理解した上で、他に国を止める人間がいないと判断している。

「彼女へ、断る余地を残したのですか。」

妻が尋ねる。

「書簡を書いた後でも、出ないと決められる。」

「その場合は。」

「今日の話は、全て終わります。」

姉はアーセンを見た。

「彼女を捕らえ、無理に表へ出すなら、私は居場所を明かしません。」

「こちらが探す可能性は?」

「探せば、撤退交渉はなくなる。」

アーセンは椅子の背へ、初めて身体を預けた。

机の上の印を見ながら、アデルの名がどの勢力へ作用するかを考える。

宮廷に残った貴族。

亡命貴族。

王党派残党。

革命政府に失望した市民。

処刑された者の家族。

地方の商人。

レオン軍。

誰も同じ理由では支持しない。

それでも、彼女を通さなければ新しい決定へ参加できないと考えれば、暫定的な交渉窓口にはなる。

「レオンは従いますか。」

アーセンは妻へ尋ねた。

「従わせるとは約束できません。」

「同じ回答ですか。」

「ええ。」

妻は誠実さを武器にしなかった。

「ただし、アデルが表へ出れば、レオンが彼女を無視して軍を動かす政治的な代価は、今より大きくなります。」

「ラファエルは。」

「彼は、戦争を終える条件が明確なら交渉へ入ります。」

「王党派は。」

姉が答えた。

「正統な王族ではないと攻撃する者もいるでしょう。ですが、彼女を否定すれば、自分たちが救えなかった王族や、死んだ者の生存説だけへ戻る。少なくとも一部は、利用するため支持します。」

アーセンは書簡へ指を置いた。

「利用されることを、本人も承知している?」

妻が答える。

「人から利用されることを、最もよく知る人です。」

「それでも出る。」

「戦争を終えるためなら。」

アーセンは暫く書簡を見つめた。

「条件があります。」

妻と姉は、同時に姿勢を正した。

「我が軍を、王族救出へ一切関与させない。」

姉の目が細くなる。

アーセンは言葉を続けた。

「アデルを救った、保護した、王位へ戻したという名目を、こちらへ与えない。我が軍は彼女の護衛として首都へ入らず、王朝復活の宣言にも署名しない。」

「こちらから求めません。」

姉は答えた。

「王族の救出も、国内で行う。」

「アデルは、既に自由です。」

妻が言うと、アーセンは首を横へ振った。

「本人だけではない。残る王族、生存説を利用される者、王党派が保護を求める者。今後も、我が軍を救出の道具へしない。」

「見捨てろと?」

姉の声へ、硬さが混じった。

「こちらの兵へ救わせるなと言っています。」

「目の前で殺されていても?」

「軍としては動かさない。」

アーセンは姉の感情から逃げなかった。

「個人が助けることまでは止められない。だが、王族保護を理由に部隊を国内へ残せば、撤退は終わらない。」

姉は杖の柄を握ったまま、目を閉じた。

塔へ閉じ込められた自分を救った者がいなければ、今ここにはいない。

同じ場所に残る誰かへ、外国軍は助けに行かないという条件を認めることは、自分だけ逃げたように感じられた。

妻は彼女へ手を伸ばさなかった。

この判断を、慰めによって軽くしてはならない。

「救出を、国内の者だけで行える道を残してください。」

姉は目を開いた。

「あなたの軍が妨害しないこと。救出した者を国境で捕らえず、王族を保護したという理由だけで国内部隊へ攻撃しないこと。」

アーセンは考えた。

「救出行動が我が軍への攻撃や、王朝軍の再編へ使われない限り、妨害しません。」

「書面へ。」

「記します。」

完全な救済ではない。

外国軍を使わず、自分たちの力だけで助けなければならない。

だが、助けようとする行為まで敵視されない条件は得た。

姉は、ゆっくり頷いた。

「受け入れます。」

妻が彼女を見る。

「あなた一人で、決めてよいのですか。」

「王族全員を代表してはいません。」

姉は答えた。

「だから、私が約束するのは、アーセン軍へ救出を要求しないことだけです。他の者が頼む権利まで奪いません。」

アーセンの口元が僅かに動いた。

「言葉を狭く残しましたね。」

「あなた方から学びました。」

次の条件は、撤兵の順序だった。

アーセン軍は国境側から段階的に部隊を戻し、穀物と輸送具の買い付けを停止する。ただし、アデルの生存が公表され、国内の複数勢力が彼女を暫定的な交渉代表として認めるまで、完全撤退は行わない。

さらに、革命政府の中枢にいた拘束者を国内へ残さないことが求められた。

「ロベルト、ダン、主要委員、武装蜂起を命じた者。」

アーセンは名簿を机へ置いた。

「彼らを、我が軍へ引き渡してください。」

妻は名簿へ目を通した。

「ダンは、既に処刑前の拘留区画です。」

「だから、救出の対象になる。」

「外国へ渡せば、あなたが処刑するのですか。」

「裁判へ掛けます。」

「どの法で。」

「我が国の法と、戦時捕虜に関する規定で。」

姉が名簿の一部を指した。

「彼らは、あなたの国で罪を犯していない者もいる。」

「国境戦、外国軍への攻撃、捕虜の不法処刑へ関与した者はいます。」

「それ以外は。」

「国内へ残せば、奪還、暗殺、復権の中心になる。」

妻はアーセンの意図を理解した。

処刑を目的とするだけではない。

革命の象徴となる拘束者を国外へ出し、国内で彼らの処遇を巡る新しい戦争が起きないようにする。

「マルスは含まれません。」

妻は名簿の末尾まで確認して言った。

「逮捕されておらず、治療中だと聞いています。」

「彼を引き渡せば、銃撃犯の証言も必要になります。」

「コラソンの所在を知っているのですか。」

妻の声は変えなかった。

アーセンは彼女の反応を見たが、追及しなかった。

「知りません。マルスは、今回の対象から外します。」

「他の拘束者も、実際の生存を確認する必要があります。」

「名簿と現物が一致しない?」

「ダンの記録です。」

妻は短く答えた。

「処刑済みとされた者が生き、拘留中の者が別名へ移されている可能性があります。」

アーセンは名簿を閉じた。

「では、記録より人間を優先してください。」

次の一文は、妻の記憶へ強く残った。

ダンや革命政府が、何度も逆へした順序だった。

「移送は、一夜で行う必要があります。」

アーセンは地図の首都側へ指を置いた。

「一箇所ずつ動かせば、残る者が救出か口封じへ動く。」

「レオンへ頼むことになります。」

「軍事経路は、彼にしか作れない。」

「アデルも同行すると?」

「それは、あなた方が決めることです。」

アーセンは書簡を姉へ戻した。

「ただし、本人が表へ出る前に、拘束者の引渡しを終えてください。生存が広まれば、全ての勢力が先に動く。」

妻は、机の上の条件を見た。

アデルの生存を示す。

王族救出へ外国軍を使わない。

革命派の拘束者を一夜で国外へ引き渡す。

それが行われれば、アーセン軍は撤兵し、経済圧力を止める。

どの条件も、彼女一人には実行できない。

それでも、朝ここへ来た時とは違う。

何を持たなければ動かないかは分かった。

「合意文へ、暫定と明記してください。」

妻は言った。

「アデルを正統な王と認定するものではないこと。王朝復活への支持でもないこと。国内の軍事行動を終えるまでの交渉代表として扱うだけだと。」

「本人を守るためですか。」

アーセンが尋ねる。

「後から、あなたが王を立てたと言われないためでもあります。」

「こちらの利益まで考えていただけるとは。」

「同じ文へ署名する以上、片方だけが嘘をついた形では続きません。」

書記が合意文を書き始めた。

長い文章ではなかった。

短いほど、後から異なる意味へ読まれる余地が増えるため、妻とアーセンは一文ずつ確認し、曖昧な語を削った。

救出へ関与しない。

救出を妨害しない。

王として承認しない。

暫定代表として交渉する。

拘束者を引き渡す。

引渡し後、段階的に撤兵する。

指定施設への食料輸送を再開する。

完全撤退後も、国境への再侵攻があれば停戦は失効する。

最後の署名欄へ、妻の名は置かれなかった。

彼女には国家を代表する権限がない。

無名の王の姉も、王族全体の署名者とはならなかった。

二人は、合意条件を国内へ持ち帰る証人として名を残した。

正式な履行署名は、アデルが表へ出た後に行う。

「何も持たずに来たと思っていました。」

アーセンが書類を閉じた後、妻へ言った。

彼女は椅子から立ちながら答えた。

「実際、何も持っておりませんでした。」

「帰る時には、国を動かす条件を持っている。」

「条件は、国ではありません。」

「では?」

妻は無名の王の姉へ手を貸し、立ち上がらせた。

「これから、条件へ人間を押し込めなければならない。」

勝利した者の顔ではなかった。

市民が飢える時間を止めるため、アデルを表へ出し、拘束者を外国へ渡し、王族救出へ外国軍を使わないと約束する。

何一つ、喜べる成果ではない。

姉は杖へ体重を預け、扉へ向かう前にアーセンを見た。

「アデルを王にするつもりはありません。」

「人々が、そう呼ぶでしょう。」

「その時は、本人が否定します。」

「否定するほど、支持されることもある。」

ジャンの名がそうだった。

拒絶が謙虚さへ変わり、命令しないことが秘密の命令として読まれた。

姉の顔に、痛みが浮かぶ。

「ならば、周囲が止めます。」

「止められる者を用意してください。」

アーセンの言葉は、最後まで同じ場所へ戻った。

一人の善意でも、正しい血統でもない。

本人が拒んだ時、その拒絶を政治へ利用させず、実際に軍と役所を動かせる周囲が必要だった。

妻は扉の前で振り返った。

「撤兵を始めるまで、買い付けを続けますか。」

「軍需用は。」

「市民用は。」

「本日の合意を受け、施療所、孤児院、町会の冬備蓄は停止させます。」

「実行を確認します。」

「してください。」

会談は終わった。

宿場の外へ出ると、午後の光が街道を白く照らしていた。

姉を待たせていた別の馬車が裏門へ回され、二人は同じ荷台へ乗った。

商人が御者台から振り返る。

「まとまりましたか。」

妻は合意文を外套の内側へ入れた。

「まとまったのではありません。」

「では。」

「崩れる順番を変えました。」

馬車が動き出す。

遠くの街道では、国外商社の印を付けた荷車が、首都とは反対の方向へ進んでいる。今日の命令が届けば、その一部は止まり、施療所や町へ戻されるかもしれない。

全てではない。

間に合わない場所もある。

それでも、何も変わらなかった朝よりは、僅かに時間を買えた。

姉は馬車の揺れに耐えながら、窓の外を見ていた。

「アデルへ、何と話せばよいでしょう。」

妻は、すぐに答えなかった。

あなたしかいない。

国のために出てほしい。

王ではなく、王と呼ばれる役目を引き受けてほしい。

どの言葉も、選択を残すように見せながら、断れば市民が死ぬと伝える脅迫になる。

「条件を、全て話します。」

妻は言った。

「出なければ何が起きるかも、出れば何を失うかも。」

「それで、断られたら。」

「受け入れます。」

「国が崩れても?」

妻は姉を見た。

「受け入れなければ、彼女へ選ばせたとは言えません。」

姉は目を伏せた。

自分がアデルを利用していることを、否定できなかった。

「私は、出てほしい。」

「ええ。」

「断られたら、説得すると思います。」

「それも、隠さず伝えましょう。」

「残酷ですね。」

「選択を奪わず、結果まで伝えることは、優しくはありません。」

馬車の床には、商談用の空の麻袋が積まれている。

国境へ来る時、妻は本当に何も持っていなかった。

帰りには、撤兵合意の条件と、アデルへ渡すには重過ぎる役目を持っている。

隠れ家へ戻った後、すぐにレオンへ連絡しなければならない。

複数の牢獄、異なる名で拘束された革命派、処刑済みとして消された生存者を、一晩で拾い上げる。

その全てを終える前に、アデルの生存が漏れれば、王党派も革命派も外国軍も動く。

時間は、もう一夜分しかなかった。

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