第20話 長官に『私の女だ』と紹介した
ソフィーが上の階に戻ったのを見届けると、大佐は自室に戻った。午前中の休暇申請をしたついでに、本棚の書類を整理しようと思っていたのだが——その時、玄関の方から、誰かがドアをノックする音が聞こえてきた。
コン、コン、コン。
(いつもの合図のノックではないな。いったい、誰だ?)
大佐が、ソフィーとジャッキーに二階に隠れるよう伝えようとした、まさにその時だ。ドアの向こうから、声が聞こえてきた。
「ジュリアン大佐、私だ。開けてくれ」
(シンクレア中将……? なぜ、こんなところに?)
相手は自分の上官である。返答を渋れば、かえって疑いを招き、面倒なことになるのは火を見るより明らかだった。大佐はドアを開けて外に出ると、すぐにそのドアを後ろ手で閉めた。そして、直立不動の姿勢を取る。中将が手を挙げて敬礼し、大佐もまた、それに敬礼で応えた。互いの敬礼が終わると、二人の表情と姿勢は、すぐに和らいだ。何しろ部隊の中では、固い師弟の契りを結んだ戦友同士であり、中将がこの家を訪ねるのも、今日が初めてではない。いつまでも堅苦しくしている理由など、なかったのだ。
「シンクレア中将。どのようなご用件でしょうか?」
中将は一つ咳払いをしてから、言った。
「ジュリアン大佐。先月は、風邪をひいてでも職務に就いていた君が、今朝は、なんの前触れもなく休暇を取った。何か面倒に巻き込まれているのではと心配になってな。通りがかりに、ちょっと様子を見に来た」
——その時、家の中では、再び階下に降りてきたソフィーが、大佐の部屋のドアが少し開いていて、中に脱ぎ捨てられた軍用外套が置かれていることに気がついた。彼女はあわててそれを持って外に飛び出すが——
そして、飛び込んできた光景に、ギョッとして立ちすくむことになった。
二人の軍人もまた、ソフィーの思いがけない出現にギョッと驚いた。が、いかにも職業軍人らしく、彼らは即座に平静を取り戻すと、同時に彼女のことをまじまじと見つめた。
先に口を開いたのは、中将の方だった。
「そちらのご婦人は、どなたかな? 確か、登録書類には、この年頃のご婦人はいなかったはずだが」
事の重大さを察したソフィーは、自分の存在が大佐の仕事に差し障ることを恐れ、咄嗟に嘘をついた。
「わ、私は、こちらで新しく雇われた、使用人です」
(しまった! よりにもよって、使用人などと! そうなれば、他の軍人が彼女を捕まえに来てしまい、もっと酷いことになるだけだ)
そう判断した大佐は、咄嗟に左手を彼女の腰に回して引き寄せ、言い放った。
「彼女は私の女だ。名前はソフィーという」
「私の女」——その三文字が、ソフィーの胸の内を、甘くくすぐった。と、その時、彼女は気がついてしまった。自分の腰に置かれた彼の手が、小刻みに震えていることに。
(この手を、こうやって私の腰に置いてる時の格好は、初めて会ったあの日と、まるで同じなのに)
(あの時は、私があんまり怖くて。それで、この人が守ってくれた)
(でも、今は——この人の方が怖いんだ。じゃあ、今度は、私が守る番)
そう覚悟を決めたソフィーは、自分の右手を、腰に置いている手の上に、そっと重ね、ぎゅっと握った。彼女も怖かった。それでも、自分の男を守るためなら、強くならなければ。幸運なことに、ソフィーがその手を通して送り続けた慰めのおかげで、大佐は心の平静を徐々に取り戻し、手の震えも嘘のように止まった。
大佐が、ソフィーに言った。
「ソフィー。こちらは、部隊での私の師匠、シンクレア中将閣下だ。閣下のおかげで、今日の私がある」
中将は、ソフィーを見つめながら言った。
「ソフィー。うむ、良い名だな。歳の頃も、私の娘と同じくらいか。君を見ていると、故郷の娘のことを思い出してしまったよ」
何気ない世間話だったが、ソフィーはそれを聞いて、緊張が少しだけ和らいだ。
「シンクレア中将閣下。光栄です。お嬢様もきっと閣下に会いたがってると、私はそう思います」
中将は満足そうに笑みを浮かべた。どうやらソフィーの返答は、いたく彼の心にかなったらしい。
それを見計らって、大佐はソフィーに言った。
「すまない。これから閣下と、少し話がある。先に家に入っていてくれ」
ソフィーは素直に従い、ドアを開けて中に入った。そのまま二階へ上がろうとしたが、大佐の身の上が心配で、彼女は足音を忍ばせると、ドアのすぐ後ろに戻り、彼らの会話を盗み聞いた。
大佐は、彼女が階段を上がる足音を聞いて、少しだけ安心していた。ところがそんな大佐に対し、中将が最も直截な魂の問いを、浴びせかけてきたのだ。
「この娘のことが、好きなんだな?」
大佐は、師である中将には嘘がつけないのをわかっていた。おまけに、当のソフィーはもう階上であり、ここにはいない。だから彼は警戒心を解き、中将に自分の本心を明かした。
「……はい。私は彼女を愛しています」
「本当に、本気で愛しているんだな?」中将は畳み掛ける。
大佐は、深く一つ息を吸い込んだ。それから、確かめるように深く頷いた。
「はい。本気です。心の底から、ソフィーを愛しています」
ドアのすぐ向こうに隠れていたソフィーは、驚きの声を上げそうになった。今の自分は、世界で一番幸せな女だと、そう思った。もし、今の状況でなかったら、きっと歓声を上げていたに違いない。しかし彼女は、それが叶わぬ代わりに、自分の両手で口を塞ぎ、湧き上がる喜びを必死に抑え込んだ。少しでも気を緩めれば、自分の男に、余計な厄介事を増やしてしまうのだ。彼女は、そっと忍び足で、二階へと上がっていった。
中将は、この飾り気のない、率直な応答に、それ以上は何も追求しなかった。彼は大佐に歩み寄り、その耳元に顔を近付けて、囁いた。
「私は、ソフィー嬢がスパイだとは思っていない。しかし、念には念を入れて、くれぐれも、お前の部屋に彼女を入れてはならんぞ。いいな?」
この言葉は実質、中将がソフィーの存在を、暗に認めたと確信した大佐は、ただちに答えた。
「了解しました、閣下」
最後に、中将は真剣な顔つきで、そう言い添えた。
「部隊の中だ。常に身辺に気を配れ」
「はい、かしこまりました」





