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イヴィ・フレグランズの使命 その4

「イ……~~~~~~~ッ!!!!」


 私の叫びは声にならなかった。


 仰向けに吹っ飛んだイヴィは、氷床に倒れたままぴくりとも動かない。


 出血は? 目に入る限りは見当たらない。


 ギリギリの所で防御魔法に護られた?


 ううん、一瞬だったけど、棘はイヴィの体を貫いているように見えた。


 でも見たのは彼女が身に着けているローブ越しだ。


 運良くイヴィの体を逸れてくれた可能性だって……!


 希望的観測だって、頭の中の冷静な部分ではわかってる。


 無事でいて欲しいと願う気持ちが、私を一縷(いちる)の望みに縋りつかせているだけだとも。


 私は全身の痛みも忘れて、必死にイヴィの元へ這い寄った。


 間近で見下ろして彼女の状況を確認した時、私は目の当たりにした現実に心を打ち砕かれた。


 体を逸れていてくれたらという、私の望みは叶っていた。


 でもそれはたった1本だけの話で、2本はイヴィの右腕の二の腕と左わき腹の肉をかじり取り、あとの2本は左足の内ももと――イヴィの右胸を貫いていた。


「イヴィ……なんで……!」


「は……はは……。つい……体が動いちまった……よ……。まったく、私としたことが……ヤキが回ったねぇ」


 イヴィは目だけ動かして私を見ると弱々しく微笑んだ。


 彼女の瞳に宿る活力の光が鈍い。


 その事が私に冷静さを取り戻した。


「気をしっかり持って! 大丈夫だから……。血だってほとんど出てないし、致命傷なんかじゃない。きっと助かるから!」


 そうだ……!


 太ももの傷は大きな血管を傷つけていないかもしれない。


 胸の傷だって、もしかしたら臓器をギリギリ避けているかもしれない。


 例え奇跡に近い可能性だったとしても、ゼロじゃない。


 もう駄目だと諦めるには、まだ早い!


 幸か不幸か、氷の棘の魔法効果によって接触部分が凍結しているおかげで、いまのところ出血が抑えられている。


 とにかく今のうちに急いで止血の方法を……!


「無駄な事は……およし。もう……助からん」


「なに言って……!」


「棘が体を貫いた時……いくつものデジャヴを見た。私の死は……やはり免れない運命だったのさ」


「そんな運命なんて、私は信じない! 信じたくなんか……ないよ……っ」


 本当はわかってた。


 ここは標高9000m近い空気の薄い僻地で、肺を凍らせるような冷気に包まれた、自然が猛威を振るう過酷な場所だ。


 仮に応急処置で一命をとりとめたとしても、まともな治療なんて望むべくもない。


 かといって山を下りて街へ向かうにしても、そこまでイヴィの体力が持つはずがない。


 若くてタフなカブトにいちゃんだったとしても無理だ。


 問題は他にもたくさんある。


 既に詰んでいたんだ。


 無力な私にはもう、イヴィを助ける事は出来ない。


 なんで……どうしてこうなったの?


 タイガの躯体の封印を解かなければ、イヴィは助かるんじゃなかったの?


 くやしいよ……!


 こんな結末を避けるためには、私はいったいどうすればよかったの?


 抑えていた感情が両目に溢れて、景色がぼやけた。


「拍子抜け……だった」


「え……?」


「お前の……第一印象さね」


「なによ……それぇ」


 泣きながら口を尖らせる私に、イヴィはやさしく微笑んだ。


「まったく……どんな悪魔が現れるのかと思えば……お前はどこにでもいる……ような、普通の女の子で……人を思いやることもできる……やさしい子だったんだからねぇ」


「むぅ。悪魔なんてひどいっ」


「はは……は……」


 抑えるように笑ったイヴィは、直後に苦しそうに咳き込んだ。


 咳のたびに吐き出される血が、彼女の手と口の周りを赤く染めていく。


 喀血(かっけつ)……。


 やっぱり氷の棘は、イヴィの肺を貫いている。


 そんな重傷、設備があったとしても私には処置できない。


 もう本当に、どうにもならないんだ……。


 イヴィの顔からみるみる血の気が引いていくのがわかる。


 おそらく体温の高い体内から氷が解け始めていて、出血が加速しているんだ。


 私は無理やり上体を起こすと、横からイヴィの身体を抱き寄せた。


 イヴィの防御魔法はとっくに砕けている。


 彼女は魔法で防寒対策するつもりだったから、私と違って軽装だ。


 胸に刺さった氷も解け始めているのなら、せめて少しでも温かくして最後を迎えさせてあげたい。


「あたたかい……少し……楽になったよ……」


「イヴィ……うぅ……っ」


 イヴィの背中を伝って流れ落ちる血が、深紅の氷となって氷床を染めていく。


 涙腺から次々と湧いてくる涙にイヴィの顔が沈んでしまって、彼女の表情がよく見えない。


 そうしている間にも、私の両腕に伝わる彼女の苦しそうな息遣いは、次第に弱々しくなっていった。


 イヴィは私の顔を見上げると、ぼんやりとした声で呟いた。


「ああ……見える……。そう……か……お前は……。そう……だった……んだねぇ……」


「イヴィ……? 見えるって、そうって何が?」


「覚え……てるかい……魔力の本質……。意思を……決して……飲ま……れる……で……な…………」


 イヴィの瞳から輝きが完全に消え失せると、彼女の体が僅かに軽くなったような気がした。


 今しがたまで伝わっていたイヴィの息遣いも感じない。


「イヴィ……? イヴィ!?」


 いくら声をかけても返事は返って来なかった。


 凍てつく空気が、まだ温かかったイヴィの身体を残酷なほど急速に冷やしていく。


 それは私の両腕に、ついちょっと前まで元気に話していたイヴィが、今はもう亡骸へと変わってしまったのだという現実を生々しく感じ取らせた。


 私は子供のように泣き叫んだ。


 『神の一滴の涙』の伝承って、一体なんなの?


 どうしてイヴィが死ななくてはならないの?


 ここで死ぬことが、イヴィの使命だったっていうの?


 そんな使命に、運命に、どんな意味があるっていうの……?


「うぅ……~~~~っ」


 くやしくて、悲しくて、心が重い。


 エンリ……私はどうしたらよかったのかな。


 どうすれば彼女を死なせずに済んだんだろう……。


 悲しみは涙になって私の中から零れていっているはずなのに、胸の痛みは少しもやわらぐ気配がない。


 その時ふいに、タイガらしき黒い影が視界を横切った。


 私は顔を上げると影を目で追いかけた。


 タイガは涙で曇った目でもわかるくらい、明らかにサイズダウンしている。


 はっとした私は慌てて両目を拭った。


 鮮明になった視界で見ると、いつの間にかタイガは馬サイズになっていた。


 逃げ回りながら苦しそうに応戦する様子から、それがタイガの作戦なんかじゃないことはすぐにわかった。


 きっともう、タイガはブラッドベアーサイズを維持できないんだ。


「タイガ……っ!」


 私は、ぐっと涙を堪えるともう一度両目を拭った。


 つらいけど、後悔も尽きないけど、いまは立ち止まってる場合じゃない。


 氷牙狼はまるで狩りでも楽しむかのように、わざととどめを刺さずにタイガをいたぶっている。


「急がなくちゃ……」


 私は凍り付いたイヴィの血を剥すと、彼女の亡骸をやさしく床に寝かしつけた。


 また溢れそうになった涙を、慌てて拭う。


 一歩一歩、ふらつきながらも急いで歩く。


 金色の光が近づくにつれて、やり場のない怒りがふつふつと湧いてきた。


 肖像画の前に立った私は、金色の魔力図にその怒りをぶつけるように、思い切り引き千切った。


 その瞬間、冷たさを感じる澄んだ音が、広間中に鳴り響いた――。

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