ナザーユ雪山 その11
視界は一瞬のうちに闇に閉ざされた。
ひと飲みで私の全身を覆いつくした冷たい雪が、逆らいようのない力で私の体を押し流す。
抵抗するほど、伸ばした四肢が重たい雪の流れに囚われる。
暗闇の中で不規則に身体が転がり続けて、すぐに上も下もわからなくなった。
流動する雪が私の全身を隙間なくギュッと締め付けるように圧迫してくる。
空気を求めて喘ぐと、口の中に雪が入って来た。
苦しい――!
今更になって本で調べた知識を思い出す。
万が一雪崩に飲まれてしまった場合に最初にすべき事。
それは口元を両手で押さえて空間を作り、空気を確保する事――だったのに。
大量の雪に遮られて、伸び切った両腕はもう動かせない。
突然、右肩に衝撃と同時に激痛が走った。
「ふぐぅっ!?」
木? それとも岩? 硬い何かにぶつかったんだと理解したところで、押し寄せる圧倒的な物量と力を前に、無力な自分を思い知らされる以外の何もできない。
自然の脅威を甘くみたつもりはなかった。
だけど想像と違って、現実はこんなにも抗いようがないものなのか!
何度か体に衝撃と激痛を覚えながら、私はどうすることもできずに流され続けた。
ふいに全身を包む圧迫感が、上着を脱ぐように消え失せた。
頬に風を感じる、空気だ!
「ぷはぁっ! あぐッ!?」
息をついた瞬間、壁のようなものに激突した。
後ろに体を弾かれた後、浮遊感が襲ってくる。
これって……落ちてる!?
首の後ろから頬へ向かって風が吹き抜けた。
「ちッ、やっと出られたぜ!」
「はぁ……ッ、はぁ……ッ、タイ……ガ」
落ちていく私を追いかけて、暗闇の中をタイガの赤く光る目が、ジグザグを描くたびに加速しながら向かってくる。
猫の目を持つタイガには、この暗闇の中でも状況が見えてるんだ。
手を伸ばそうとしたら肩に激痛が走った。
腕が上がらない。
「動くんじゃねー! 俺に任せろ!」
また私は顔に出てたのかな。
タイガが焦ったように叫んだ。
「うん……」
私は肩の力を抜いた。
追いついたタイガが、防寒コートのフードに噛みついて壁に爪を立てる。
数mほどガリガリと滑り落ちたところで、やっと落下が収まった。
「ありがとう、タイガ。助かったよ。うぅッ」
寒い……体中が痛む。
見て確かめることは出来ないけれど、右肩が一番酷そうだ。
もしかしたら骨までいってしまったかもしれない。
私はここでようやく食料が入ったリュックも、私の肩掛け鞄も無くなっている事に気がついた。
失くしたのは雪崩に流されている時、かな……。
ともあれ今は荷物の心配をしている場合じゃない。
「少し身体を休めたいんだけど、どこか座れそうな足場はある?」
「あるのは絶壁だけだぜ。下へ降りるか?」
絶壁……やっぱり私はクレバスに落ちたんだね。
クレバスは数十mにも積もった雪が氷化した後、気温の変化によってひび割れて出来た狭くて深い亀裂だ。
その底には大抵の場合、細い道があるらしいけど……。
闇に包まれて何も見えない宙ぶらりんの私の足元からは、ゴオオオォォと重低音が響いている。
その不気味な音と、時折吹きあがってくる痛い程の強烈な冷気に、私はゾクリと身を震わせた。
おそらくこのクレバスの底は氷河だ。
下りたら今度こそ命がない。
「下は駄目。ふぅ……、できれば少し休みたかったけど、多少無理してでも上へあがるしかないね」
こんな干した洗濯物のような状況じゃ、あんまり休めないもの。
なによりもただでさえ氷の壁に挟まれて寒いのに、下からくる冷気に全身が晒されているせいで、急速に体温を奪われていっている。
「背中に乗れそうか?」
タイガは言った。
確かに壁とタイガの間に私がいたら邪魔で登れないよね。
私は両手をグーパーしてみる。
「つぅ……ッ」
拳を握った瞬間、右肩に激痛が走った。
左手も寒さであまり力が入らない。
「ちょっと難しいかも。魔力を貸して、タイガ。拘束魔法で体を固定する」
瞼を閉じているのか開いているのかもわからない闇の中で、タイガの青い魔力の光だけが観える。
その光に照らされて、一瞬タイガの顔が見えた。
少し、元気がなさそう?
「せっかく温泉で温まったのに、台無しになっちゃったね。えへへ」
私は震える左手で魔力図を描きながら、気分だけでも紛らわそうと軽口をついた。
いつもなら「ふん」ってタイガが鼻を鳴らすところなのに、無言のタイガからは苛立ちと後悔のような感情が流れてくる。
やっぱりいつものタイガらしくない。
「どうかしたの? タイガ」
「俺が……最初に迷わず飛び出していれば……」
視界を閉ざされているせいか、ボソリと呟いたタイガの声を私の耳はハッキリと拾い上げた。
「タイガ……?」
「ちっ、なんでもねーよ」
そっか。タイガは私が傷ついた事を自分のせいだと思ってるんだね。
「タイガは悪くないよ。私が考え事をして油断してたのが悪いんだもん」
ここから先はもっと寒くなるってイヴィも言ってたしね。
私がずっと寒がってたから、タイガは防寒コートのフードを切り裂く事を躊躇しちゃったんだ。
私はフードを目深に被ってたから、それで出るに出られなかったんだね。
要するに私のために迷ってしまったってことじゃない。
「よし、魔力図が描けたよ。背中に乗せてタイガ」
タイガがゆっくりと首を捻って私を背中に寄せてくれたので、私は魔法を発動させた。
魔力図から伸びた魔法のロープが、私の体をタイガの背中に縛り付ける。
私は黒虎サイズのタイガのやわらかい猫毛に頬を埋めると、ほっと一息ついた。
「いくぜ」
「うん」
タイガは壁を蹴って爪を外すと、跳躍を繰り返しながらクレバスを登り始めた。
頬伝いにタイガの力強い躍動が伝わってくる。
壁に着地する際に私の傷に響かないように、衝撃を最小限に押さえようとしてくれている事も伝わってきた。
もう何も心配ない。
タイガに任せておけばクレバスから出られる。
ここは世界で一番、私が安心できる場所だ。
「えっへへ。ありがとうね、タイガ」
「ふん。そのまま顔を伏せてろ」
タイガの魔力の光が辺りを青く照らし出すと、爆音と共に風が吹き抜けた。
天井を覆いつくしていた雪を消し飛ばして、明るい日の光の中へ躍り出る。
「無事だったのかい!」
浮遊魔法で浮いていたイヴィが、地上へ飛び出した私達の元へ飛んで来る。
「なんとかね、えへへ」
私は拘束魔法を解除するとタイガの背中から降りた。
「くぅっ」
地に足をついたら、鈍痛を感じていた膝に痺れるような痛みが走った。
体重をかけるほどに痛みが酷くなってくる。
「うぅ……ッ!」
「何がなんとかだい、強がるはおやめ! 足を折ったのかい!?」
崩れるようにへたり込んだ私にイヴィが駆け寄ってくる。
「う、ううん、膝はちょっと捻っただけだと思う。それより肩が……」
「見せてみな」
イヴィが触診と診断魔法で私の怪我の具合を診てくれる。
「細かい怪我も多いが、問題は左膝の靭帯と右肩の骨折だねぇ。幸い靭帯の方は伸びただけで断裂はしていないようだが……これはしばらく動けないよ」
「イヴィはすごいね。医学の知識ももってるんだ」
「この馬鹿たれ! 笑ってる場合じゃないだろう!」
「ごめんない」
怒られてしまった。
でもなんか頬が緩んでしまったんだもん。
死にかけたけど助かったから?
たぶんそれだけじゃない。
怒鳴りながらも私の身を本気で心配してくれるイヴィの瞳が、どことなくパルラ先生に似ていると感じたからだ。
だからつい、怪我の不安を忘れてしまったんだと思う。




