父の願い
小学生の頃から進学する高校は決めていた。朝7時半くらいの汽車で通学できるから。一人起きてお弁当も作っていくだろうから、早い汽車の通学は無理だと考えたからだ。しかしたいして仲が良かった訳でもない子から「同じ方向の高校じゃないの?寂しいよ。」なんて、社交辞令を真に受けた私は、土壇場で逆方向の高校を受ける事にした。
それにともない、その高校「K高校」についてリサーチしなければならなかった。
同じ高校を受ける子に志望理由を聞いてみた。
みんなは上に兄弟がいるからよく知っていた。
「そりゃ制服よぉ、K高校がこの辺りでは一番格好いいから!」
ちなみにその子は私が行こうとしていた高校の制服を「事務のおばさんみたい」と、言っていた。
いろんな志望理由がある。
続けてその子は言った。
「K高校はプールがないの、髪が濡れると、パーマをあてられないでしょ!」それにあっちの高校は水着の胸の部分に大きな名前のゼッケン張るの!格好悪い」と。彼女の口からは続々でてくる。
「体育ではブルマがないの」
「ブルマ?」
ブルマの事なんか考えもしなかった。
K高校はもともと男子高校だった。その当時の名称で言うと、機械科、土木科、農業科があり、そこへ商業科が合併した。ずっと男子ばかりの所へ女子が入りブルマ姿の女子に興奮するからと言う理由だと言う。
「うそでしょ。」笑っていい所なのか。
まぁブルマはさておき、この辺りで一番倍率の高い高校を受験する事になった。
そういえば、私のリップグロスを盗んだであろうCちゃんがその高校に通っていた。3つ上だから彼女が卒業、私が入学するタイミングだ。
私が受験する事を伝えると、
「もぉ、うちの高校、最高よぉ、ぶりぶりなんだからぁ」と。Cちゃんの口癖、ぶりぶりはIKKOさんのどんだけぇ の、のりだ。
めちゃくちゃ喜んだ、Cちゃんは
「私の制服あげる。オシャレな子はみんな制服を自分の好みに改造するの」制服はブレザー。ダボっとしているので、体のラインに合わせてしぼるのが流行りだった。ブルーのネクタイも細く絞めるのがオシャレらしい。マフラーの巻き方や、この制服に合うソックスとかいろいろレクチャーしてくれた。
そして受験勉強対策として沢山の参考書、問題集、英語の単語帳をもらった。私は受験勉強対策がわからなかったので、とても助かった。
しかし3年も違うと「ここが大事」と、言う問題が違っていた。
印象に残っていたのが、社会の問題で「十字軍」と、言う言葉だった。教科書でも太文字でもなかったし、先生からもスルーされているワードだったが
これが入試に出たのだ。私はCちゃんのくれた問題集のお陰でK高校に合格できた。
入学式には自分のブカブカの制服を着て行き、帰るとすぐ、近くの紳士服の仕立て屋にブレザーとベストをもって行った。その仕立て屋は飼っていたマルチーズの「タラ吉」の服も仕立ててもらっていた。
筒状の服で、胴体部分に横に「たらちん」と刺繍されていた。年配のおじさんは犬の服を仕立てたのは初めてと言っていた。
私はCちゃんが手直ししていた感じで簡単にここをしぼってくれたらいい、といったのだが、おじさんのプロ意識が高く、すべて裏地からほどいてコンパクトに仕上げ、ポケットも小さくすると言ったので私はおじさんに任せる事にした。
おじさんの腕は素晴らしく、とてもいい仕上がりでベストしてもボタンの下のブイの所まで縫い直したらしい。直し代は5000円。ベストまでなのに。私は満足した。お陰は生活指導の先生からは
「お前の制服はなんかおかしいけれど、改造している風でもない。」
と、なんとかごまかせた。
どこもそうだと、思うが生活指導の先生は面倒だ。
うちの高校の先生もヤクザみたいでウザかった。
本当かどうかわからないが、機械科の生徒が生活指導の先生の車のエンジンを外したせいで、先生はその日家に帰れなかったと言う噂を聞いた事がある。
私は、Cちゃんのレクチャーのお陰で制服をオシャレに着こなす事が出来た。
やはり学校生活に制服は大事だ。
しかしそれ以上に大事なのは友達だ。
幼なじみのSちゃんと中学で仲良くなったYちゃん。
この2人は同じ高校だった。私の高校の途中に2人の高校があったので通学は一緒だった。彼女達と別れたあと、まだまだ山の上に私の高校があり、私は一年の1学期で心が折れた。
2学期目からは、駅からタクシー通学を2人に提案した。
初乗りが当初460円で3人でワリカン。
だから7時15分には教室に入っていた。
8時には1時限目が始まる。
日本一授業の早い高校。そんな都市伝説のある高校だった。
私の商業科は1クラス45人、2クラスあった。45人はぎゅうぎゅう詰めで、起立する時も机と椅子の間だを横にスライドして立っていた。ほとんどが女子で男子は7人ほどだった。他の学科は男子ばかり。全校生徒は800人、教師も80人いた。
科ごとの専門授業があり、それぞれ専門の授業棟があって、ちょっとした大学みたいに広かった。
しかしグランドの3分の2は、隣の小学校の土地でそれを知っている小学生が体育の授業を邪魔をするが先生もなにも言えないのだ。
クラスに仲良しグループは主に同じ部活の仲間で、出来ていたので、部活に入っていない私は常に1人だった。でも仲良しの子とクラスが別れたとかで私と友達になってといってきた、Tがいた。でも、ただのランチメイトだ。
唯一、高校で仲良くなったのが、目元がキリっとしてスタイルのいいKだった。
Kとはクラスが別だったが、向こうから声を掛けてくれた。
Kは気性が激しくイタズラ好き。いつも冗談をいっていた。お父さんを病気でなくし、お母さんが1人で姉と弟を育てていた。
Kの家は高校のすぐ近く、いつも授業を抜け出して家で一時間あそび、また学校に戻り授業を受けたり、誰もいない家庭科室で2人過ごしたり。
家庭科室の先生のカバンをのぞき、
「先生の弁当の中身見てやろうよ」
「やめなよ」と私。
結局1人お弁当を広げて
「ろくなもん、入ってない」と笑っていた。
時々親とケンカしていた私はKの家に泊まる事もあった。夜になるとKはイタズラ電話をしていた。
私の高校は当時、全校生徒の名簿が生徒1人、1人
配られていて、住所、電話番号、部活、最寄り駅、
今ならありえない物があり、それを見ては
「こいつ気に入らないからイタズラ電話してやる」
と言って、告白の電話をする。実在する生徒(これも気に入らない奴)になり、
「好きです。付き合って下さい。」と。甘えた声色を使い。断る者もいれば、オッケーする者もいた。
ある日は、私のランチメイトのTに電話すると、言い出した。
「あいつ、お姉ちゃんいるからな、大人の彼氏ばかり紹介されては、高校卒業したら結婚するんだ、といつも言っている。何回結婚すりゃいんだ。」と言って電話した。
「あのー、Tさんいらっしゃいますか?
あっ、そうですか、すいません」と、言って電話を切った。相手が女を場合、男に頼まれたの、設定だ。
「チッ!いないって。でもあいつ双子だからな、自分が出てもわからんからな」
へぇー双子なんだ。知らなかった。
私もTの事は好きではなかった。いつも彼氏の名前が変わっていて、振ってるのか、振られているのかだ。中身のなさそうな子だった。Tとは高校卒業後あっていなかったが、私が35才くらいの時知り合いのおばさんから私の高校の卒業アルバムを貸して欲しいと言われ貸してあげた。おばさんはアルバムを返す時
「実は息子にお見合いの話があって、相手があなたと同級生で同じ高校だから、どんな子か気になって。
「えー?誰?」
「あなたの隣で写ってたわ」
私の隣?誰だろうと、アルバムを見るとTだった。
(まだ、結婚してなかったんだ。)
「それで、どうだった?」と私。
「息子がダメだって。2人で食事に行って、息子がご馳走したんだけど、「ありがとう」がなかったって」
残念そうにそのおばさんは言った。そして続けて
「一回お礼を言わなかったくらいで、すぐに断るなんて」
おばさんは焦っていた。息子は私より年上だったからだ。
「息子さんの言う通りよ!お菓子でも貰うと3才児でもお礼を言うよ!やっぱり、人として大事なんじゃないかな」と、私は言った。
そういう事なのだ。Tが嫌われる所は。
そのおばさんの息子は数年後結婚できた。しかも恋愛結婚。子供にも恵まれて。
Kの方はと言うと、バイト先で客として来ていたひとつ上の男にナンパされて付き合っていた。
男は高校を辞め仕事もせずに車を乗り回し遊んでいた。
自分が中卒なので彼女が高校に通うのを嫌がり、Kも徐々に学校に来なくなった。
しかし母親から高校を卒業したら 反対している彼氏を認めるからと言われ、休みながらもなんとか通っていた。
しかし3年は上がる前、彼氏について都会に出ると言い出した。
「後1年じゃん。」
私も説得した。Kは学校の先生に3年のクラス編成で私と同じクラスならあと1年がんばるからと、伝えた。おばさんも教科書を買って用意していた。
しかし、同じクラスにはならなかった。
2人は都会で暮らし始めた。私も泊まりに行った。
2人でバイトして稼いでいるからと、財布の中を見せて自慢していた。
猫が好きで高そうな猫を沢山飼っていた。
チンチラ、ヒマラヤン、アメリカンショートヘア。
しかし彼氏がトラブルをおこし、免許停止。2人ともバイトを辞め、彼氏の実家、私の近くに帰ってきて、
2人とも彼氏の家で何年も引きこもりの生活をした。
夜な夜な彼氏の自転車の後ろに座り、彼氏の男友達の所に遊びに行っていた。
1度バッタリあって、声をかけたが無視された。
その数年後2人は別れた。その後、男の母親が、トイレで首を吊って自殺した。
そしてそれぞれ違う人と結婚した。Kは子供を産んだあと、ガンになり、小さな子供と入院して治療していたが33才で亡くなったらしい。
と、はいえ私もよく学校を休んでいた。
2学期は9月の半ば過ぎまで休む。
課題は地元の同級生に頼んでもって行ってもらっていた。なぜか本人はいないのに課題だけは学校に行っていた。
勉強は真面目にやっていた。人生でもうやる事がないだろうからちょっと頑張ってみようと思った。
1年生の時は古典が好きで、特に漢文が好きだった。
古典の先生は、中国へ教授として行っていて、日本に帰ってきたばかりだった。中国人は見る物すべて欲しがり、ボールペンのはてまでとられたと言っていた
中国人は四角テーブルも丸く拭く掃除が下手だっ言っていた。物理で100点を取った事もあった。
先生がこのプリントを勉強したらいいと言っていたのでその通り勉強したら取れた。しかし100点は学年で14人いた。次の期末では、私は17点だった。学年でトップだった女の子は40点で「きゃー」と、叫んでいた。物理の先生は偏差値の低い高校から来たばかり私達への扱いがわからなかった。
以外と気が抜けなかったのが、保健体育。
2年に時の教科担任は、黒板に一切書かないのにノートの提出があった。テスト範囲は常に教科書全部。80点以下は追試。私は暗記が得意だったので20ページくらい丸暗記できたので追試はなかった。
追試者の名前に私の名前がなかったのでTが驚いていたと、Kが言っていた。私を見下していたみたいだ。
3年の時の保健体育教科担任は、生々しい性教育をしていた。高校3年生、これから親になる準備をするべき年齢だ。卒業試験ではいろいろな問いがある。
「五才の子供が聞きまし赤ちゃんはどこから来るの?」とか、思春期の女の子や男の子の悩みに答えたり。答えは授業中に先生が教えてくれている。
学校を休みがちの私にとってこういう問題は苦手だった。商業科だったのに普通教科も勉強させられた。
唯一仲良くなったKもいなくなり、3年間クラスでも話す相手は限られていて、せいぜい席が隣の子くらい
男子ともなると3年の時私の前の席の男の子A君くらいだった。
A君は野球部に入っていて、休み時間いつもバッティングのフオームの練習をしていた。
私が「おじゃまんが山田くんに出てくるおじゃま犬に似ていると、言うと、八の字眉毛をよりいっそうリアルな八の字になって「マジでぇ」と言って喜んでいた
毎週月曜日には3冊ほど週間ジャンプをスポーツバッグに入れて学校に来ていた。
「オレんち、本屋なんだ。売上協力!」
駅から遠い道のり数百円の為に、なんて気のいい奴」
私より遠い所から通っていたので、
「朝早いから、大変でしょう?」と言うと
「寝る時、下はパジャマだけど上は今ならトレーナーを着て寝てるから、朝起きたらすぐに学ラン着るだけだから楽勝!」と、自慢気に。
(おい!顔洗ってない日あるだろ!全然楽勝ではなさそうだ。
テストが返ると点を見せあった。
私が、「毎日学校来てるのに、なんで点数低いの?」
するとA君は
「毎日学校来ていないのに、なんでそんなに点数いいの?」と、今オレ、いい返しした的な顔で。
世界史の課題を見た時
「ここ間違ってるから、直してあげるね」
「おっ!サンキュー」
あとでわかった、間違いは私の方で、A君には悪い事をした。でもきっとA君は笑ってくれる。
そんな事きにするタイプじゃない。
ある授業で大爆笑していた。話を聞いていなかった私は大爆笑しているA君に
「何、笑ってるの?」と、A君は笑いながら
「わからない。」と、言っていた。
3年の時は1年間席替えをしなかった。私の席は廊下側だったので、後ろの子とは少し会話していたが、
左隣の子とは話をした事がなかった。
彼女Oさんとは1年の時クラスが一緒だったような、
1年の時はかなりの巨漢だった。しかし2年になってからどんどん痩せていった。制服のスカートの左のホックが背中を回りおへその所までサイズタウンしたと
「太っていた頃はブタって、男子らに言われ、痩せたら、シャブ中て言われてんのよ、あの子」と、情報通のKが言っていた。
生理の時には、すぐにわかる。かなり強い臭いだった
(そりゃ、それだけ痩せたら身体もおかしくなるよ)
席の近い子から、ポッキーを2本もらった。私ももらいみんなでポキポキ。しかしOさんは学生カバンにそっとしまっていた。回りの子達も見て見ないふりをした。
授業中につぶやいていた
「ケーキくいてぇ」 絞り出した声で。
(食ったっていいじゃん)私は心の中でつぶやいた。
もちろん学校側も家庭訪問をしたりと、指導があったそうだが何も変わる事はなかった。
ある日1人の女子がクラスメイトに声を掛けていた。
なんか必死な感じで。
「ペンパルしない?」
私の所にも来た。 彼女は3か国外国人と文通していると言う。
「何必死になってるの?」
「新しい会員を紹介すると記念品がもらえるの。何がもらえるかわからないけど欲しいの。」
だが、ペンパルに入会するには、2000円が必要だった。よほど興味がない限り高校生が簡単に払いたくない金額だ。
私は高校生のわりには少しお金をもっていた。
もともと財布のひもがゆるかった父が、どうしても高校だけは卒業してもらいたいが為、私が何かいると言ったらホイホイお金を出して、その度に
「高校だけは卒業してくれよ」と、念を押していた。
私はその頃下着に凝っていて、ワコールの専門店、
しかもガラスケースの中のフランス製のレースを使った下着ばかり買っていた。一万円は軽く越える物を。
英語も好きだったし
「いいよ」と私は言った。
国籍や性別や年齢を自分で決められる。
私はひとつ上のアメリカ人の男の子に決まった。
始め2人共手書きの筆記体だった。私はペンパル用の参考書を買い、例文から文章を作っていた。だから送る手紙は比較的に簡単だったが、相手からの手紙を訳すのが難しかった。何故なら彼はとても字が汚なかった。ある単語を訳すのに、CL と書き出しがあるのだが、単語が見つからないのだ。2回目くらいに偶然気が付いた。CLではなく、小文字の dだったのだ。横に広がってて二つのアルファベットに見えたのだ。もしかしたら私が読みづらいと手紙に書いたのかもしれない。途中からワープロを使って送ってきた。
いろいろ交換した。
頭のいい人だったのかもしれない。びっしり字の詰まった辞書のような本を送ってきたり、お互いのおすすめのアーティストのテープを送りあった。
私は別にファンではなかったが、サザンオールスターズのテープを送った。相手からは全然知らないアーティストだった。私は当時土曜日の夜中に放送されていた、ベストヒットUSAというアメリカのヒットチャート番組を見ていた。マドンナ、シンディローパー
マイケルジャクソン、ワム。その辺りを送ってくるのかと思ったが、聴いた事もなかった。アメリカ人がみんなマドンナが好きじゃないんだと思った。
お菓子の交換もした。届いた荷物はガムテープでぐるぐる巻きにされていた。チョコマーブルやガムがバラバラになっていた。ショックだった。「何?」
その頃には、私は喫茶店をしていて、客の大学生にその話と、ガムを食べさせてあげた。
「検疫されたんだよ。中が何か調べられたんだよ。」と、いいながらガムをかみながらパッケージを見ていた大学生は、「これ、発ガン性ありって書いてるよ」
またまた「えー!」である。
しかし訴訟大国アメリカ、書いて損はないから書いてるんだと言っていた。
初めて食べたアメリカのガムは味が薄く、ゴムの味がした。
写真も交換した。彼は中肉中背で普通の男の子だったが、妹2人、小学生と中学生はほぼ金髪ですごい美人だった。下の妹の誕生日のケーキは日本のケーキより高さがあり、フルーツ等はなくチョコマーブルがのっていた。妹はプレゼントのキックボートを乗っていた。
手紙は徐々に間隔がひらき、そのうち年に1~2回バカンス先からのハガキが届いた。
「ハイ!元気?今メキシコ!じゃあね!」
いつもこんな感じで。
ある手紙の文章の頭に「今日は」と、書かれていて、
訳しても文章が続かなく数日悩んだ。ふと気がついた、「きょうは」ではなく、「こんにちは」だとわかった。日本人のくせに漢字でこう書くとは知らなかった。3年ほど続いたが、自然消滅した。
彼の名前も覚えていない。何故か彼が飼っていた2匹のネコのうち1匹のネコ「スノーバル」の名前しか覚えていない。
地元の仲良し2人と、高校は別々だったが、週末などは、私の家で遊んだ。父に買ってもらった、昔の家用カラオケでよく歌った。松田聖子、中森明菜。
時には、料理好きの私がクッキーやケーキを振る舞ったり。みんなで料理を作って食べたり。
よく2人に泊まりに来てもらったりした。
中学くらいから、タバコを吸ったり、お酒を飲んで普段話にくい家の愚痴を言ったり、みんな複雑な家庭だった。
私の誕生日は夏休みなので、クリスマス以上にはじけてしまう。
ある誕生日の夜、私の提案で、飲み会のあと近くの中学校のプールに泳ぎに行く事にした。
私達3人は、柵を乗り越えプールに入った。
私はすぐに後悔した。(来なきゃ良かった)と思った
結構怖い。校舎の沢山の窓から誰か見てる。ような気がする。怖い。怖いけど怖いと言ったら、もっと怖い「ぎゃーっ」と言って走って柵越えて、足元も暗くて危ない。少しして「帰ろっか」
3人はきっと同じ考えだった。
しかしまた、私は1年後の誕生日また行く。
そしてまた後悔する。
プールから帰ると、今度は家にある原付きバイクを乗ろうと、私がいい出した。もちろん免許はない。
家の前でエンジンをかけると、父に聞こえる。
バイクを押して、少し歩いてエンジンを駆けた。
私が前にまたがり、後ろにYがまたがった。
左手でブレーキを握り、右手でアクセルを回した。
酒を飲んでいるので調子に乗った。
ブインブイン!とエンジンをふかした。
結構酔っ払っていて、ブレーキを握っていた左手がゆるんだ。その瞬間、2人がまたがっていた、バイクが股をすりぬき、夜空のウィリーした。私は夜空を飛んで行くバイクをみまもった。
結構酔っ払っていたので、落ちてくるバイクをよけたが、足のくるぶし辺り、傷は小さかったが深かかった。3人は一言も発せずバイクを押して帰った。
私の部屋に戻り、「さすが酒を飲んでるから、麻痺して痛くない」と、私が言うと、2人も少しずつしゃべりだした。
1年後の誕生日にはまだ傷痕が残っていた。
私は夏休みには、母の姉、叔母の所に長く泊まりに行っていた。カンカン帽子に竹でできた旅行バッグ。
これが私の旅行スタイル。
叔母の所は男三兄弟、優しい長男は私より、5才上
私の仕立てる服のサイズモデルをしていた次男は3歳
上、背が低くかったが、中々の悪。大人になって何度か入った事も。しかし叔母に言わせると、菓子折をもって頭を下げによく行ったのは、私より6歳下の三男だった。女の子が欲しかった叔母は次男を産んで9年空けてからの男の子だった。女の子みたいに色白で私はその子が可愛くて弟のようだった。遊びに行く度におでこの 肉 の文字をマジックで書いてやった。
次男は結構な不良で、高校も辞めしまい、建設会社に就職した。しかし、働きかけてすぐに後悔していた。
会社では、ことある事に中卒とバカにされ、字の読み書きに苦労した。しかし車の免許もとった。
「センチュリーのベンチシート、これが欲しかったのよ、中古だけどな」遊びに来た私をすぐに車に乗せた。叔母の所はいつも賑やかだった。
いとこのいとこや、友達が、いつも来ていた。
一時はいとこが、遊んでいたアマチュア無線にも、私もはまった。
歳の一番近い次男とよく遊んだ。
ある夜、ちょっと出かけるからついて来い、といわれた、10時は過ぎていた。
ついて行くと、喫茶店だった。
みんなテーブルゲームをしていた。
私の子供頃、インベーダーゲームが、流行り私もめちゃくちゃした。
いとこも私の向かいに座り、ゲームをしだした。
すると、すぐに店員を呼んで一万円を渡した。
男の店員は、ズボンの後ろポケットから分厚い財布を取り出し、千円と交換した。
店員はあちこちの客に呼ばれては、両替をしていた。
いとこはポーカーをしていた。
テーブルを変えると言って、席を立った。
私1人、テーブルでジュースを飲んだ。
「これって、ヤバいやつじゃん、よくニュースで見るやつじゃん」
喫茶店に入った時から、どの客も下を向いていて、くつろぎに来た雰囲気はなかった。
「これって、退学だよな。いや、少年院だよな」
えらい所連れて来やがったな、アイツ。
店の店員の男が、話かけて来た。
「こんなこと来ていいの?」
「いや、勝手に連れて来られた。」
彼は大学生のバイトだった。
「俺も、捕まったらヤバいんだよね、オヤジ警察官だから」
「ダメだよ。お父さんクビだよ」
「いんだよ。オヤジ嫌いだから」
いやいや、うちは父即死。母気がふれる。母の場合賭け事に免疫があるぶん即死は免れそうだ。
お互い暇だった。店員はただ両替に居るだけで、飲み物など注文する者もいない。
結局、帰ったのは朝の4時だった。いとこは叔母に私を連れ回すんじゃないと、叱られていたが、私も賭場喫茶店のことは黙っていた。
ある日、夜暇だったので母の店に遊びに行った。
うちの近所だと言うおじさんとあった。おじさんは私よりひとつ下の男の子を連れて店に来ていて、お盆休みで東京から家族で帰省していた。
おじさんは歌手を目指して東京に出たのだと。
私の父と東京に出たくて、かなり説得したが、駄目だったと。おじさんは今は、マネキンを扱う会社を経営していた。
私はおじさんの息子とも気があって、次の日も遊ぶ事にした。
「バイクのる?」
「いいの?オレ免許ないよ」
「大丈夫、大丈夫」
「田舎はいいね、こんな事できて。」
「よくないよ。見つかれば、捕まるよ」と笑い飛ばす私。
私は1度も捕まらなかったが、幼なじみのSちゃんは捕まった。私よりずっと真面目なのに。
家裁に行ったら、地元の子達ばかりだったと、笑っていた。お兄ちゃんにすごく叱られたから、2度としないと言っていた。お父さんがいないSちゃんにとって2人の兄は父親以上だった。
私の父方のいとこのお兄ちゃんは、勉強もスポーツもできる真面目な人だった。ひとつ上の姉が大学に行きおじさんが、家を建てたので自分の大学は、あきらめて自衛隊に入に入隊した。
大人になって聞いた。自分は戦車部隊にあこがれて
戦車部隊に入隊が決まっていたのだが、高校卒業する前の日、魔が差した。今まで興味のなかったのに、家にあった原付きバイクを乗ってしまい、捕まってしまった。本来なら、自衛隊も入れないのだが、真面目だったとの事でなんとかクビにはならなかったのだがあこがれの戦車部隊には、入隊できなかった。
しかし、一生懸命勉強して幹部まで登り、最後は陸上の花形パラシュート部隊で退役した。
私は高校3年間、運動会も欠席。常に休んでもいいように、出場する予定は綱引き。始業式、終業式も、欠席。修学旅行は東京ディズニーランド。そして毎週月曜日に放送されていた「歌のトップテン」当時流行った。修学旅行生達が会場見学する事が。私の高校も行った。私はテレビの前ではしゃいでいる同級生を見ていた。
なんだかんだと高校生活は終わった。校歌は入学式と卒業式に聞いただけ。
私の制服の争奪戦があったが、誰にもやらなかった。あまり着てないので、入学仕立てのままのようだった。
学校から帰ろうとしたら、くつがなく、はてさてどうしたら、と考えていたら、私の名前を呼ぶ生活指導の先生。職員室に行ってみれば
「オレの下駄箱に入っていたぞ」と、私の違反ぐつ
時には、「あなたの事が、好きだと思う。」哲学的な手紙。私の知らない所で、私の知らない世界が、動いていたかもしれない、そんな高校生活だった。




