とある市街の発展事情
トントントントン
ギーコギーコギーコ
コッコッコッコ
シュウッ シュウッ シュウッ シュウッ
金槌の音、鋸の音、蚤の音、鉋の音、辺りには木材を加工する様々な音が交じり合い、時折聞こえる掛け声と混じって、慌ただしくも活気のある建築現場の様相を呈している。
ここは、メセルブルグの街に建設中の、独身者用集合住宅の建築現場である。
主にメセルブルグの街に就職や出稼ぎ目的で来て、家を持たない若者向けに安価で貸し出す為の建物だ。
今、メセルブルグの街においては、事業の拡大に伴って人口が少しずつではあるが増えて来ている。その殆どが仕事を求めてやってきた若者達で、総数は百人に迫る規模である。
『町会』メンバーは、あの手この手で彼らの居場所を確保し、仕事の斡旋と住居の提供を行っていたが、到底間に合わなくなってきたので、俺が提案し集合住宅を建設することにしたのだ。
集合住宅は二階建てで、十畳ほどの広さの部屋が一棟で一二部屋あり、全部で十棟建築する予定で、今はその五棟目の建築中だった。
「ウートの旦那じゃねぇですか。施主自ら視察ですか、存分に見て行って下さい。なんなら案内させますぜ」
俺が建築中の建物を眺めていると、それに気が付いたメルケル一家の棟梁が声をかけてきた。先ほどまで若手に凄まじい怒鳴り声で指示を飛ばしていたのだが、俺に見せる顔は自分の仕事に自信と誇りを持つ、溌剌としたいい笑顔だ。
「棟梁、いや、それには及ばないよ。近くに来たから様子を見てみようと思っただけなんだ。建物の事に関しちゃど素人でね、進捗さえわかればそれでいい」
「進捗に関しちゃこの通り順調ですよ。新しい奴を入れたんで多少不安はあったが、仕事が増えたおかげで腕の方も上達が早い。これなら予定通り完成するでしょうよ」
棟梁は自信満々に答え、その間も部下たちの仕事ぶりに目を光らせている。
あんなに強く怒鳴って、パワハラで訴えられないのだろうかと心配になったりするのだが、そもそもパワハラの概念自体が無いのかもしれない。
俺が放り込まれたらすぐに逃げ出してしまいそうだが、この世界ではこれが普通なのだろう。それに、親方が新人を怒鳴ったすぐ後には、別の作業をしていた先輩らしき大工が作業を中断して飛んで来て、新人の目の前で手本を見せ、やり直させ、励ましてから自分の作業に戻って行った。励まされた新人も、必死に言われたことを再現しようと取り組んでいる。
親方の怒声は決して新人だけに向けられた物では無く、失敗をフォローしていない仲間達にも向けられたものなのだろう。それを素早く察知してフォローした先輩大工の態度は素晴らしく、これが彼らの伝統なのかもしれないが、見ていて清々しい気持ちになるのだった。
俺は棟梁に別れを告げて、街の北西地区に建築中の集合住宅が立ち並ぶ地域からさらに西側へと歩き始めた。
向かっているのは、二ヶ月前に完成したばかりの“工場”である。
“工場”はメセルブルグの特産品を作り出すため、様々な分野の職人達を集めて分野横断的な研究開発を行うために設置した施設である。
例えば、鍛冶屋のギリドやガラス工房のフォルケル、マルセロの木工ギルドのメンバー達と共同で、製品化を目指す取り組みをしている。
今日はある物の試作をする為に、営業の合間を縫って“工場”へと足を運んでいるのだ。
季節は九月の半ばを過ぎていたが、太陽が中天を過ぎたこの時間になると、まだまだ堪らないほどに暑く、額の汗を拭いながら歩く羽目になる。
それでも、この世界に来てから健康的な生活をするようになったからか、体力的には全く苦にならない。この世界に体重計は無いが、計ってみたら五キロ以上落ちているであろうし、体は若返ったように軽くなり、自分でも驚いているのだった。
額の汗を拭いつつ足早に歩いていると、やがて正面に目的の建物である“工場”が見えてくる。
“工場”は、金属やガラスを溶かすための本格的な炉を備え、広い作業場を併設した建物で、炉の部分以外は拡張性を考えた簡易的な作りとなっている。
俺が“工場”に辿り着いたとき、既に主要メンバーの殆どが勢揃いしていた。
「すいません。遅くなりました」
「気にするな、お前が忙しいのは皆解っている」
俺が遅れたことを詫びると、マルセロが代表して理解を示してくれ、他のメンバーも気にしないと言う風に頷いてくれた。
「準備の方はどうです?」
「万端じゃ、いつでも始められるぞ」
俺は、これ以上時間を無駄にしない為に早速本題に入り準備状況を確認すると、既に整っているとギリドが教えてくれた。
俺が準備の整った作業台に歩いて行くと、全員がそれに合わせて作業台に移動し、その周囲を取り囲む。そこには、美しい透明度を誇るガラス板が置かれ、室内に漏れ入る光を浴びて鈍く光っている。
「素晴らしい出来映えだな。これほどの透明度と平坦性、さらに気泡も殆ど見えないガラス板を作り上げるなんて、驚きの一言だ」
俺はガラス板から視線を上げると、フォルケルとクロップの方を見ながら言った。
この三ヶ月で、彼らは俺の様々な要望に応え、ガラスのジョッキやコップの他、様々な製品を作り出している。
特に俺が拘っていた透明度の高いガラスや、板状のガラスを作るための研究に力を注いだ結果、この目の前にあるガラス板が完成したのだ。
俺は、当初これを窓ガラスにするつもりだったのだが、急に別の使い道を思いついたので、本日実験をすることになったのだった。
俺に賞賛されたフォルケルとクロップは、周りの視線を受けて誇らしそうに胸を張っている。このガラス板の出来映えを見ればそれは当然のことで有り、職人としての技術の全てがここに結実している。
「では、この素晴らしいガラス板を使用してある物を作ります。ギリド、例の物は準備出来たか?」
「ああ、もちろんだ」
ギリドは後ろに控えていたドワーフから、金色の金属で出来た香炉とポットを組み合わせたような道具を受け取る。
俺があることをギリドに相談したときに存在を知った、今回の実験における秘密兵器である。その名を『魔法滅金炉』と言うのだが、平たく言えば中に入れた金属を溶かして対象にメッキを施す魔法の道具である。
何の為にそんなものがあるのか不思議に思ったのだが、聞いてみるとしごく納得の理由である。それは、怪物の中には、銀器を苦手とする者が多く居て武器に銀滅金を施すのに比較的よく使うと言うのが第一の理由である。
それから、より希少な魔法銀を効率的に使うために、武器や防具に滅金すると言うのが第二の理由である。
この『魔法滅金炉』は、ドワーフ達にとっても貴重な魔法の道具であり、ギリドを通して交渉した結果、不死者の軍団事件のお礼として借り受ける事が出来るようになったのだった。
ちなみに、この魔法の道具を取り扱う――正確には守る――ため、ドワーフの精鋭が五人ほど派遣されており、常に傍に張り付いているほど厳重に管理されている。それぐらい貴重な、ドワーフ族の秘宝であった。
「始めて下さい」
俺がギリドに合図を出し、ギリドは銀のインゴットを『魔法滅金炉』の蓋を開け、その中に放り込んだ。蓋を閉めると同時に魔法の発動光が瞬いて、正常に作動したことが解る。
ギリドが、ポットからお湯をかけるように、ガラス板めがけて口の部分を傾けると、『魔法滅金炉』の中で溶かされた銀のインゴットが液体となってこぼれ落ち、瞬く間にガラス板の表面を覆っていく。そうして、みるみるうちに、ガラスの表面に極々薄い銀のメッキが完成する。
続いてギリドは、銅のインゴットを同じように『魔法滅金炉』に入れ、銀滅金の上から銅滅金を施した。
その後、木工ギルドの若者が壺を抱えて前に出て、刷毛を使って壺の中の真っ白な液体を銅滅金の上から塗っていく。この白い液体は天然の樹脂で、様々な候補の中から『片眼鏡』を使って選び出した物だ。
完全に滅金を覆い隠したのを確認してから、アイロン状の器具に火のついた木炭を詰めた道具で、樹脂の表面に熱を加えていく。そうすることですぐに硬質化し、滅金面の保護を行うことが出来る。完全に全体を硬化させれば完成だった。
完成した事を再度確認し、それからガラス板をゆっくりと持ち上げていく。それは想像以上の出来映えで、その場の全員から感嘆の声が上がった。
「これは凄い、ガラスの向こうに別の世界が広がっているようだ」
「こんなにハッキリと自分の顔を見たのは初めてです」
「こりゃあ驚いた、とんでもない代物だな」
人々が驚きと共に見つめる先にあるのは、たった今完成したばかりの『鏡』である。
この世界でも『鏡』は存在しているが、通常出まわっているのは錫等の金属を磨き上げた金属鏡で、ガラス板に銀滅金した物は出回っていない。
『鏡』は、俺自身も驚くほどの完成度に仕上がっていたが、全てはドワーフ達の秘宝のおかげだろう。薬品でも同様の現象を起こせるらしいが、色々と技術的なハードルが高く、ここまでの完成度に仕上げることは出来なかったであろう。
「ウート、こいつは確かにとんでもない物だが、こいつをどう使うつもりなんだ?」
マルセロが『鏡』から目線を外して俺に尋ねてくる。俺は自身の考えを公開することにした。
「この『鏡』を使って鏡台を作ろうと思う」
「鏡台? なんだそりゃ」
「女性用の家具で、上半身が映るような大きな鏡に、化粧品や身だしなみを調える道具なんかを並べておく台と引き出しが付いてる。解りますか?」
俺は“工場”の打ち合わせ用として、壁に設置されている黒板迄歩き、イメージ図を書き込んでいく。
「なるほど、化粧台に鏡が最初からついている物か、確かに御貴族様の令嬢なんかは金属鏡を乗せて使っていると聞くな」
俺の絵を見てイメージが出来たのだろう、マルセロが納得したように頷く。
「金属鏡は大型化するのが難しい上に、手入れも難しくて曇りやすい欠点があり、一度表面が傷ついて曇ってしまうと、本格的な手入れには職人の手が必要になるわけです。映り込みの質ではこちらの方が断然上だし、メンテナンス性でも勝っている。後は、木工ギルドで女性受けしそうなデザインに仕上げて貰って、王都で富裕層相手に売り出そうと思ってます。超高級家具としてね」
俺の狙いが伝わったのか、一同は納得したように頷いている。ガラス板をもっと高く売る方法を考えていて、色々と相談しているときにこの方法を思いついたのだが、メセルブルグの特産品である木工製品と組み合わせれば、さらに高い付加価値を付けて売り出すことが出来る事に思い至ったのだった。
「この大きさのガラス板で作る『鏡』から、三枚は姿見を切り出せるはずだ。残った切れ端も、小物に使えば無駄を減らせるだろう。鏡台は初物をなるべく王都で高く売って、後は少しずつ供給量を増やして販売しようと思ってる」
「幾らぐらいになると考えているんだ?」
自分が関わる物の価値を確認したかったのか、フォルケルが尋ねてきた。俺は、あくまで想定だと断りつつ自分の考えを述べた。
「そうだな、初物の値段の目標は金貨百枚かな?」
「ひゃ、百枚? 金貨百枚? そんな馬鹿な・・・・・・」
流石に大きく言い過ぎたのか、フォルケルが驚いて絶句している。
「貴族は面子に拘る方々だからな。他の誰も持っていない物を、いち早く手に入れられるとなれば、それぐらいの金額は出す貴族もいるんじゃ無いかと思ったんだが、そこは交渉人の腕次第だな」
俺は希望的観測に基づき、大見得を切る。初物を高く売り、しばらくは独占させて所有欲を満たさせた後、徐々に市場に製品を投入していく。
数量をコントロールし、消費者の飢餓感を煽り、価格を高値でコントロールしていくのは商売では使い古された常道だが、競合相手が現れるまで利益を独占することができる。
そしてこの鏡を制作するには、透明で平坦なガラス板の製造、『魔法滅金炉』による高度な滅金技術などが高い参入障壁となる為、容易に制作できるはずがなかった。
うまく行けば数年間は、鏡台の販売だけで莫大な富を築く事が出来るかもしれないとの目論見が俺にはある。そうなれば、メセルブルグの街はますます発展するだろう。
(単なる思い付きで始めた事だったが『鏡』の実験がうまくいって良かった。木工ギルドという、この街特有の強みを生かすこともできるし、ガラス工房の職人たちにとっても新たな収益性の高い製品となるはずだ。この工場初の、それぞれの強みを活かした製品だし、もしかして最初にして最高傑作になるかもしれないな。さすがは俺様、天才じゃないかな~はっはっはっは)
俺は自分の思い付きが上手く行った事に、内心で自画自賛が止まらない状態だった。所謂一つの脳内フィーバー状態という奴かもしれない。
そんな感じで実験の結果に満足した俺は、後の事は職人たちに任せて酒場に戻る事にする。何せこれ以降は俺の出る幕がないのだ。俺に求められているのは、アイデアと知識の提供が主で、それを商品としての形にする技術力は持っていないからだ。だがそれを任せられる職人たちがここには大勢いて、それぞれが意見をぶつけ合いながら質の高い製品を完成させてくれるだろう。
「それじゃ、後は頼みます。俺は店に戻りますので」
「おう、忙しいのにすまなかったな」
俺は、マルセロを筆頭とした職人たちに挨拶をしてから“工場”を後にする。急げば夜営業には余裕で間に合う時間だ。
(今日の予定はこれで終了だったかな。まあ、夜営業が残っているけど。明日はザムエル達から売り上げ報告があるんだったっけ? それからもうすぐ味噌と醤油の仕込みが終わるから、そっちの方も確認が必要だなあ。正直言って指示するだけではあるんだが、あちこちに手を出し過ぎて手が回らなくなって来たな。ワーカホリックでもあるまいに、もっとスローライフを送りたい。こんなことを考える俺は、正直に言って経営者には向かないタイプなんだろうなあ)
そんなことを考えながら、俺は酒場に向かって歩く。
俺の頭の中では、休みたい気持ちも確かにあるが、それ以外にもこれから取り掛かろうと思っている事業や、酒場で出す明日のメニューの事、酒場のみんなの将来の事、卑猥なことなどが、色々と鬩ぎ合ってごちゃ混ぜになっている感じだ。
休みたい気持ちはそのうちの二割ぐらいだろうか、何が一番の大きさを閉めているかはプライベートの極秘情報なので伏せておくことにする。
考え込んでいるうちに街のメインストリートを南下し、ラインアバウトになっている街の中心部を通過して左折する。酒場まではあと少しの距離だ。
目を上げれば酒場を目視することは可能で、そこには樽を大量に積んだ馬車が停車しているのが見える。どうやらゴードンの馬車のようだが、いつもより大量に樽を載せているのが気になった。普通ならこの街が終点で、馬車の荷は手前の街であるルーデンブルグでほとんどが下されることになるからだ。
俺は心持足を速めると、酒場への到着を急ぐのだった。
俺が酒場に辿り着いた時、馬車の荷台や周囲には誰もいない様子だった。
だが、馬が馬車に繋がれたままになっており、不機嫌そうに蹄で地面を搔いている。
(こりゃ何かあったな)
あのゴードンが、馬の世話を放り出すほどの一大事が起こったのか心配になり、俺は慌てて店内に入った。
「ゴードン、なにかあっ――」
声をかけながら店内を見渡すとゴードンの姿は無く、代わりにクロードが机に突っ伏し、傍にはユーリエが心配そうに立っている。
俺が戻って来た事に気が付いた彼女が、傍に近づいてきて俺にそっと耳打ちした。
「なんだか様子がおかしいんです。青い顔をして入ってきて、水を飲んだ後はあの調子で話しかけても応えてくれないんです。病気か何かだと思うと心配で」
「わかった、俺が話してみるよ。それから、ハルに表の馬の面倒を見るように頼んでおいてくれ」
俺はユーリエを下がらせ、クロードの傍に椅子を引いて座った。
「クロード、何があった? 話してみろ」
俺は、出来るだけ平坦な声でクロードに話しかける。クロードに余計なプレッシャーを掛けないようにするための配慮だ。
俺の呼びかけにクロードは顔を上げた。ユーリエが言ったとおり、顔は真っ青で目は充血している。尋常な様子では無い。
「とんでもない失敗をしてしまったんです。義兄になんと詫びればいいのか・・・・・・」
クロードの声は、後悔にうち拉がれて低く途切れがちだ。
「失敗? どんな失敗だ」
俺は、うち拉がれた様子のクロードには構わず、淡々と先を促す。
「今回、忙しい義兄の代わりに酒の配達を任されたんです。何回か義兄に連れられて仕事も覚えたつもりで安請け合いして、契約している酒蔵に葡萄酒とエールを受け取りに行ったんです。義兄から、葡萄酒は直接樽から呑ませて貰って品質を確認しろと言われていたのに、受け取りに行ったら樽の上に準備してあって、慌ただしそうにしていたのもあって、それで確認してしまったんです」
「それで?」
「次の村でそのワインを卸そうとしたら品質が劣化しているのがわかって、慌てて戻って抗議したんですけど、こちらの不手際じゃ無いかと言われたんです。言いがかりを付けるなら契約を打ち切るとまで言われてしまっては、俺じゃ判断出来なくて・・・・・・」
「なるほどな」
どうやら若いクロードは、足下を見られたと言うことらしい。ゴードンなら引っかかるような事は無かったのだろうが、代わりに現れたクロードを見て罠を仕掛けたのだろう。
信義に悖る行為ではあるが、クロードに非が無いかというとそうでもない。葡萄酒のように品質が変化することもある商品を受け取る場合、受け取りの段階での品質チェックは必須事項なのだ。
「おまけに、今回はいつもの倍近い注文が入っていて、二十樽分もの損失です」
(葡萄酒二十樽、およそ銀貨六十枚の損失か、青くもなるなそりゃ)
俺は、ガックリと肩を落とすクロードに同情を禁じ得ない。かといって、安易に手を貸す事もクロードの為には良くないのかも知れなし、補填などしたらゴードンが俺に怒るだろう。ゴードンにとっても痛手だろうが、カバーしきれないほどの金額でも無いのだ。
(待てよ? もしかしたらあの実験用に、丁度いいのか?)
俺は以前から漠然と考えていたアイデアの一つに、この件が使えるかも知れないと思い至った。
「クロード、すまないが葡萄酒の品質を確認させて貰っていいか?」
「構いませんが・・・・・・」
俺の言葉に、クロードは期待と困惑が入り交じったような表情を見せる。もしかしたら、俺が解決策を提示してくれるかも知れないという期待と、そんなことは不可能だとの思いが交錯しているのだろう。俺は棚からガラスのコップを一つ取り出すと、クロードを促して店の外に出た。
馬車の傍では、俺の言いつけたとおりハルが馬を索具からはずし、手入れをしている。馬に水を飲ませ、今は台の上に乗って布で体を拭いてやっていた。
それを見たクロードがハッとした顔になるが、俺はクロードを促して荷台に回った。
クロードにコップを渡し、適当な樽から葡萄酒を入れさせる。それを受け取ってから先ずは香りを嗅いでみた。
(特段腐ったような香りはしないな、いつもの葡萄酒の臭いに近い気がする。取り敢えず、味見してみるか)
俺は慎重に、葡萄酒を舌先に載せるようにして口に含んだ。
(う! 酸っぱい、まるで酢みたいな味だ。こりゃ、酸化防止にでも失敗しんだろうか。これじゃあとても呑むには適さないな。ただ、発酵自体は進んでいるのかアルコールは含まれて居るみたいだ、これなら実験に使う分には問題無いだろう)
俺はそう判断すると、クロードに向き直った。
「クロード、これ全部俺が買ってやろう」
俺の言葉にクロードは驚いて目を見張り、それから首を振った。
「そんなこと出来ません。義兄に叱られます。いえ、もう信用して貰えなくなります」
「まあ、聞け。これをある実験に使いたいんだが、流石にいつもの値段では引き取れない。卸値そのままの額でいいなら引き取ってやるがどうだ?」
俺の提案に、クロードは未だに逡巡している。俺はさらに説得を重ねることにした。
「どうせこのままだと使い道は無いだろう? 捨てるぐらいなら俺が貰ってやってもいいんだが、ただで貰った物で儲けたら後ろめたいからな。輸送費分は損して貰うしかないが、問題無いだろう?」
「これを使って儲けられるんですか? 一体どうやって・・・・・・」
「おっと、それは流石に企業秘密って奴だ。教えてしまうと、値段を釣り上げられてしまうからな」
俺はニヤリと笑って、クロードからの追求を躱した。クロードは悔しそうな顔をしたが、やがて諦めたように笑った。
「買い取っていただけるなら、こんなにありがたい事はありません。義兄にも合わせる顔が立ちます」
「よし、じゃあこいつを“工場”に運び込んでおいてくれ、場所はハルに案内させる」
俺はクロード共にハルの元へと歩き、“工場”への案内を頼んだ。
ハルは快く引き受けてくれ、俺は二人が出発するのを見送ったのだった。




