とある赤子の病気事情
俺の機嫌は朝から最悪を更新中だった。
理由は、ハンナからお小言を貰ってしまったからだ。曰く「もっとユーリエに優しくしなさい」と言われてしまったのだ・・・・・・。
しかし、理不尽極まりなくないですか? 優しくして欲しいのは俺の方のような気がするわけですが・・・・・・。
「少なくとも話をする時は相手の目を見て離しなさい。それが礼儀というもんだ」
そう言われては、返す言葉も無いわけだが、そうするとどうしても視線は上から見下ろしがちだし、その先にはたわわなあれが鎮座ましますわけで・・・・・・。
それこそ谷間なんて見えてしまった場合には、吸い寄せられそうな視線と、引き戻そうとする意思が、真っ向からせめぎ合って哀れな瞳は泳ぎっぱなしなわけです。全く一瞬たりとも気が抜けない・・・・・・。
明らかに挙動不審者だ。
それでもオーナー様の意向に逆らう訳にはいかないので、俺はユーリエにちゃんと謝った。
「態度が悪くて済まないな。気の利かないダメ親父なんて、許さなくていいから。俺に全然気を遣う必要は無いし、もうその辺の石ころとか、雑草だと思って自由にのびのびやってくれていいからさ」
俺としては誠心誠意、ユーリエが俺を気にしなくても良い事を伝えたかっただけだ。のびのびやってくれていい。なのに、そう伝えると、なぜか俺の前で泣き出しやがった!
これほど相手の事を気遣って、自分の存在すら無に近づけて譲歩しているのに何が不満なんだ! 俺に出て行って欲しいとでも言うのか? 流石にちょっとそれは酷すぎやしないだろうか・・・・・・。
おまけにハンナさんから追加のお小言を貰うわ、もう少し女心を考えろと言われたよ。女扱いしたら怯える相手の女心って何ですか? 流石の『片眼鏡』を使っても解析できそうに無い迷題だ。
(俺はさあ、別に人と争いたいわけじゃないんだよ。どちらかと言えば仲良くしたいと思ってる。でもさあ、訳の解らない態度と、訳の解らない理由と、訳の解らない理論でもって俺を責め立てるから、理解出来無いだけなんだよおおおおおお!!!)
仕込みに使う野菜に殺気だって当たり散らしながら、俺は対応策を必死になって考える。しかし大半は、理不尽な状況から来る怒りに邪魔されてうまくいかない。
(これはもう、本気で転職を考えた方が良さそうだ)
そう考えるほど、俺は追い詰められていた。
俺の脳内では、既に百通り以上の転職先がリストアップされているが、どれも現実味が薄い。何より身分保障の低さがネック過ぎる。
ハンナを敵に回すと、同時に『町会』も敵に回しかねない。そうなるとこの町では既にやって行けそうな宛てが無い。王都は論外だし、ゴードンとの仲まで切るつもりは無いので、なんとか繋ぎを付けねばならない。
(ルーデンブルグ辺りに一旦避難して、ゴードンを待ち構えて行き先を相談しつつ転居先を探すしかないか、もういっそ隠居して隠遁して隠者みたいに暮らすのも良いかもな。不便はあっても金はあるんだし、憧れのニート生活じゃ無いですか! ヤンの奴に嫌がらせで『このたびニートデビューしました』って手紙送りつけてやるぜぇ! ヒャッハー!!!)
そんな風に、完全やさぐれ不良親父に成り下がっていた。
しかしそんな馬鹿な事を考えながらも、料理の仕込みは順調に終わっていく。多少野菜の大きさが大きめなぐらいしか違いが無い。今日のメニューならそれも余り問題にならなかった。
ホットプレートにラードを落とし、豚肉の切り身と野菜を炒めていく。少し火が通ったところで、麺を投入し全体を十分に焼き上げていく。タイミングを見てソースを掛け、全体に絡んだところで皿に分け、紅ショウガをのせる。今日は新メニュー『焼きそば』のデビュー予定だった。
俺は、味見と昼飯をかねて自分で食べ始める。
出来と言えば、野菜の火の通りが若干足りず、芯が残っている感じだ。野菜を大きく切りすぎたせいもあるかもしれない。
俺は少しの失敗に溜息をつきつつ、慣れ親しんだ厨房を見渡す。この設備を手放すのはかなり惜しい。
「まあ、仕方ないな。ここでの経験があれば、何処でもやり直せるさ・・・・・・」
そっと一人呟き、俺はここを去る事を決意した。幾らそりが合わないからと言って、赤ん坊を抱えた女性を追い出すなんて事は、俺の良心が許容できない。ならば自分が去るしか無いだろう。このままここに居ても俺は耐えられるだろうが、ユーリエの方が精神的に無理なのが、なんとなく察せられた。この店は、ハンナが誰か雇って続ければ良い。
そんな決意を知るよしも無く、ハンナが裏口から入ってくる。なんだか顔が青いが、また小言を言うつもりだろうか? 去るなら早めに話しておくべきだろう、後任の事もある。
しかしハンナは、俺に予想外の事を告げた。
「ウート。今日の営業は中止にして店を閉めるよ。急いで薬師のバイエルを呼んできておくれ、ミリィちゃんが大変なんだ!」
ハンナの顔色を見て、俺は事態の深刻さを直感し、慌てて飛び出した。勿論、薬師のバイエルを連れてくるためだった。
『町会』メンバーの一人で、街で唯一の薬屋を経営するバイエル・ラールは今年六十五歳になる老人である。当然足腰が弱っている。
しかし俺は、そんな事にはお構い無く老人を急き立て、俺の隣の部屋に居るはずの母子の元へ急いだ。
バイエルはフラフラになりながらも、部屋にたどり着くなりミリィの様子を診察し始める。バイエルは、薬学の知識を元に医者の真似事をしており、この町では唯一病人に対処できる人材だ。
本来であれば、一定以上の大きさの街には教会から派遣された高位の神官がいて、法術での治療を行うのがこの世界では一般的であるが、現在この町の教会は閉鎖されているため対処してくれる神官がいなかった。
バイエルはそんな街の現状を憂えて、医者の真似事をしながら薬の調合で住民を助けているのだった。
俺が遠目に見てもミリィの顔は赤く、かなりの高熱であるらしい。バイエルが、ミリィの服を脱がし、異変の兆候を探ろうとしており、そしてそれはすぐに見つかった。
「こ、これは、黒斑病じゃ・・・・・・」
バイエルが絞り出すような声で告げる。ミリィの腹や胸の辺りには、確かに黒い斑点があちこちに出現していた。
「黒斑病? それってどんな病気なんです?」
俺はバイエルに説明を求めた。バイエルはミリィの服を元に戻しながら、額の汗を白衣の袖でグイッとぬぐった。チラッとショックを受けている様子のユーリエを見て、彼女がその病名を知っていた事を悟ったようだった。
「黒斑病は、赤子が極まれに発症する病気じゃ。伝染性は無いが、何らかの害があるものが体に入り込んで起こる病気だと考えられているんじゃ。黒い斑点が全身に現れ、それが全身に回ると死に至る」
バイエルの言葉に、ユーリエがビクッと肩をふるわせ、崩れ落ちるように泣き出した。しかし俺は肝心な事を聞いていなかった。
「治療法は?」
バイエルはまじまじと俺を見つめ、それから首を振った。無いと言う事か・・・・・・。
「どうしようも出来ないんですか?」
俺は食い下がる。
「大神官クラスの病魔退散が必要な病気じゃ、普通の薬では治す事は出来ないんじゃ。この進行具合いから見て、今からルーデンブルグの教会に行ったとしても、とてもじゃないが間に合わんじゃろう。残念じゃが・・・・・・」
バイエルは辛そうにうつむく。ユーリエにつられてハンナも泣き出しており、辺りを悲しみが包み込む。既に赤子の運命が決定され、助からない雰囲気に包まれている。
「『エリクシール』ならどうです?」
俺はその空気に流されないよう、冷静さを保つ。まだ全ての道が閉ざされたわけでは無い。
「何を言っておるんじゃお前さんは! 『エリクシール』じゃと? あんな高価な薬、庶民に手が出るわけが無いじゃろうが!」
バイエルは無駄に希望を煽るなとでも言うかのように、俺を叱りつける。だが俺が聞きたいのは、そんな話では無い。
「効くんですか、効かないんですか、どっちなんです?」
俺は多少怒気を込めつつ、バイエルに詰め寄る。バイエルは気圧されたように後ずさりながら、言った。
「そりゃあ、効く。効くに決まっておる。エリクシールは万能薬なんじゃぞ? しかし手に入れるのは至難じゃ、もの凄く高価な代物なんじゃ・・・・・・」
(効くのかよ! それをさっさと言って欲しかったぜ、まだ死んでない内から葬式ムードとか、必死に病気と闘って、まだ生きてる赤子にも失礼だろう!)
俺はそこまで聞くと、急いで自分の部屋に向かい『からくり箱』から『エリクシール』を一本取り出し、すぐさま隣の部屋に戻る。
「『エリクシール』です。俺には使い方が解らない、バイエルさんに任せます」
俺の言葉にバイエルは信じられないという風に目を見張り、恐る恐る瓶に手を伸ばす。俺は落とされてはたまらないので、しっかりと手の中に握らせる。
バイエルは、震える手で瓶の蓋を開くと、一滴だけ手のひらに落とした。
それは血よりも赤く、鮮やかな色をしていた。
「間違いなく『エリクシール』のようじゃ、儂も見るのは初めてじゃが文献にあるとおり血よりも赤い結晶化寸前の液体、お前さん一体どうして・・・・・・」
俺はそれ以上続けるつもりか? と言う目でバイエルを見る。今がどういう状況か解ってるのだろうか。
それに気がついたバイエルは、気まずそうにミリィに向き直り首の下に手を当てて上体を少し起こすと、瓶をミリィの唇にあて少しずつ飲ませ始めた。
病に苦しむミリィは、大半を飲み込む事が出来ない様子で、口の周りや首の周りに赤い液体がこぼれるが、バイエルは慎重に飲ませ続けた。
それを俺やハンナ、ユーリエは祈るような素振りで見つめる。全員の気持ちはミリィが助かる事を願い、一致していた。
やがて半分ほど中身が減った頃、バイエルは飲ませるのを止める。
「まだ残ってるぞ?」
俺は訝しげに尋ねるが、バイエルはしかめっ面をして、首を振った。
「これでも多めに飲ませた方じゃ、まだ体が小さいからのこれで効くはずじゃ」
バイエルは瓶の蓋を閉め、さりげなく自分の懐に入れようとしたが、俺はその行動を予測したかの如く取り上げた。
「後生じゃ、残りは儂にくれ、研究したいんじゃ!」
「これの事が広まったら困る。無尽蔵にあるわけじゃ無いんだ。町の人にバレて、頼られても答えられないんだぞ!」
「頼む、金なら有るだけ出す。この事は誰にも言わん、約束する!」
バイエルは、今にも床に頭をすりつけそうな勢いで、その執着は凄まじいものがある。俺は『エリクシール』を出してしまった事を後悔し始めていたが、どのみちミリィの命と天秤に掛けたら出さないわけには行かなかっただろう。
「取りあえず、ミリィが助かってからだ。それが解るまでは安心できない。あんたの執着を見てると特にな!」
「わかった、絶対じゃぞ! 助かったら儂のじゃぞ!」
(本当に大丈夫なのか、この爺さん)
俺は現状を顧みないバイエルの行動と執着に呆れつつ、ミリィの様子を見守る。苦しそうな様子はまだ変わっていない。
ユーリエは布を絞ると、額にあてて熱を冷まそうとしていたが、俺はそばに行きその布を取り上げると、ミリィの首の下から横に当たるように調節し、
「冷やすなら首回り、特に頸動脈の血液を冷ますようにするんだ。冷やしすぎると低体温になりかねないから、常に体温に気をつけて」
ユーリエは驚きに強張っていたが、頷いて言われた通りにし始めた。時折額に手を当てて熱を測っている。
全員でそのまま看病し、苦しそうなミリィの容態を見守る。
息苦しく、空気が固まり、時が止まったようにすら感じられるほど引き延ばされ、叫び出したいほどの焦燥感に駆られるのを、歯を食いしばって耐えた。
どれくらい経った頃だろうか、気が付けば徐々に呼吸が落ち着き初め、顔色も良くなってきたように見える。
バイエルが再びミリィの服を脱がし、容態の確認をする。そこには、先程まであった黒い斑点は跡形も見られなかった。どうやら、残らず消え去ったようだった。
『エリクシール』は効果を発現させたらしい、ユーリエは膝から崩れ落ち、ハンナはユーリエの肩を抱きしめている。場を支配していた緊張感から解き放たれ、一同に安堵が広がった。
「もう大丈夫じゃろう、流石は『エリクシール』じゃ。消耗しておった体力もほとんど回復しておるはずじゃ」
バイエルはミリィの服を元に戻し、体に負担がかからない程度に毛布掛けると、急に豹変して老人には見えない勢いで振り向くと、俺に詰め寄ってくる。その豹変ぶりが極端すぎて、気味が悪くて仕方がない。何かに取り憑かれたような動きだ。
「約束じゃぞ、残りは儂にくれ! あの子ならもう平気じゃ、儂が保証する。」
その眼は爛々と輝き、絶対に諦め無いとその眼が語っている。何というか『狂信者』とかって、こんな目をしているんじゃないかと俺は感じた。
(これは渡さない訳にはいかないか・・・・・・。しかし、十分に釘を刺しておかないと危なすぎる。リスクの高い賭けだなあ・・・・・・)
俺は、躊躇いがちに『エリクシール』の残りをバイエルに手渡す。バイエルはひったくるように受け取ると、両手で抱きかかえるように持ち、がっちりとガードして二度と離さない風情だ。
「バイエルさん、代金は要りませんけど、その代り周りには絶対に秘密にしてくださいね。誰にも、ですよ! 漏れたら真っ先にあなたを疑いますからね」
俺の忠告にもどこまで耳を傾けているのか、上の空の様子に心配になるが、既に手遅れのような気がしてならない。
「わかった、わかった。よーくわかっとる。儂とて、こいつを誰にも取られたくないんじゃからの。――しかし、かつて夢にまで見た薬学の到達点をこの目で確認出来る日が来るとは、長生きはするものじゃ、早速帰って実験じゃ」
バイエルは、来た時とは別人のような若々しい足取りで、飛ぶように帰っていった。
「『町会』メンバーの中でも大人しい人だと思っていたのに、どうしてこうなった・・・・・・」
俺はあきれ顔でバイエルを見送った後、部屋に戻った。ユーリエは安堵で泣き出していて、ハンナも貰い泣きしている。先ほど迄とは打って変わって、安堵感溢れる穏やかな空気に満ちている。
俺の方は、今後への不安が多少残ってはいたが、ミリィを助けた事に関してだけは、特段後悔していなかった。
流石に小さな赤子の命と、自分の保身とを秤にかけられるほど非情な人間にはなりきれない。今後混乱が起こるとしても、その時対処すればいいことなのだ。
楽観的に思えるかもしれないが、人生には考えても仕方がないこともたくさんある。その時出来る判断で、その時出来ることをするしかないのだ。
俺はそのように考えて、自身を納得させた。
「・・・・・・ん、んにゃぁ、ふ、ふぎゃー!」
ミリィが目を覚まし、多少むずかる様子を見せてから、盛大に泣き出した。まだ体に異変があるのかと心配したのだが、そういうわけではないらしい。鳴き声は盛大で元気な声だった。
ユーリエはミリィを抱きかかえると、おしめやらなにやらを確認した後、思い至ったかのような表情になった。片手で器用にミリィをあやしつつ、残った手で服の前紐を緩め始める。ミリィは泣き続けているので、どうするのかと心配して見つめていたが、ユーリエは突如左肩を服から抜くようにして器用にはだけると、そのまま自然な流れで美しく形が整いそれでいてボリュームのある乳房まで無造作にはだけ、その先のつつましい先端をミリィの口元に押し付ける。
ミリィはすぐに泣き止むと、懸命に母乳を飲み始めた。
その光景は、母子の、ありふれた日常の、暖かなふれあいのワンシーンであり、見ていた俺でさえ、全くエロティシズムを感じることは無かったと断言したい!
しかし、気がつけばその光景をガン見していた事は事実である。そこにエロティシズムが介在していなかったとしても、それは許されることではないのではないか?
それに気が付いた瞬間、俺はさっと首を回し、慌てて視線を外す。その勢いは、ガキッと音が響くほど激しい物で、俺は激痛に思わず首を押さえる。
その不自然な動作で、ハンナもその事に気が付いたらしい。
「ウートはちょっと外に出てな。ユーリエ! あんたも少しは状況を考えなさい」
俺はその言葉を背に聞きながら、部屋から慌てて逃げ出したのだった。
部屋を逃げ出した俺は、自分の部屋に籠るわけにもいかず、厨房に避難した。
厨房は急に中断した昼営業の開店準備のままで、特にホットプレートはソースが焦げてひどい有様だった。
温める程度の火を起こし、水をかけて表面を蒸しつつ掃除していく。ヘラを使い、焦げを全てこそぎ落としたところで表面をふき取り、仕上げに食用油で磨き上げ、やっと元の美しい鉄板に戻る。
この作業の完了まで1時間程度かかっており、きつい作業に全身は汗に塗れている。
仕上がりに満足を覚えた俺は、顔を洗い水を飲もうと井戸に向かうため、厨房の裏口に向かった。
出口を出ようとした途端に、前からミリィを抱えたユーリエが現れ、出合頭にぶつかりそうになる。俺は、咄嗟に出入り口の柱に手を掛け、なんとか止まることが出来て事なきを得る。
衝突を回避した俺は、今度はぶつからないよう気をつけながら、擦れ違うように井戸に向かおうとした。
「あの、ウートさん」
その時、ユーリエが珍しく俺を呼び止めた。どうやら俺に話があるらしい。しかし、今までの経験から言うと、この娘との相性は最悪だ。正直言って気乗りしない。
しかしその時、後ろの方でハンナさんが腰に手を当てて、俺に睨みを利かせているのに気が付いた。どうやら退路は断たれているらしい。
俺は仕方なく、話を聞くことにした。多分、さっきの事で文句でも言いに来たのだろう。俺の予想では「なに勝手に人の胸見てるんですか、嫌らしい。サイテーですよね、このセクハラおやじ。もう消えてください」辺りであろう。
まあ、見てしまったのは事実なのだから、そのくらいは仕方あるまいと、諦めもついた。
「ありがとうございました。この子を助けてくれて。本当に、なんてお礼を言っていいか・・・・・・」
ユーリエは、瞳を潤ませながら、しかし、何時ものようなオドオドした態度や怯えた態度は見せず、まっすぐに俺を見つめて言った。
その態度には、真摯な姿勢と純粋な感謝が含まれているのを感じ取ることが出来る。
そして、胸に抱かれたミリィは、母の腕の中で、赤ん坊だけがなしえる純粋無垢で透明な瞳を、俺に向けていた。
俺はユーリエから掛けられた予想外の言葉に、何て答えたらいいのか、全く分からなかった。
なんというか、俺がこう言えば相手はこう返すだろうという想定が全く通じない相手だと、途端に意思疎通は難しくなる。意思疎通には、相互理解が大前提なんだと、改めてぼんやり考えた。
(そう言えば、俺は彼女の事を何にも知らないな)
俺は、ただ立ち尽くして、全身で感謝を伝えてくる少女を相手に、気の利いた言葉の一つも返すことが出来なかった。
それでもユーリエは立ち去ろうとはぜず、潤んだ瞳で俺を見つめ、じっと返事を待っている。その瞳の色が、薄く鮮やかなグリーンであることさえ、俺はその時初めて気が付いたのだ。
何か言わなければ、と思えば思うほど言葉は出てこない。
俺は考えるのを止めることにした。どうせ役に立たない頭なら、使わない方がましだ。感情に任せて流れに身を任せることにする。
「触ってもいいか?」
俺はユーリエに許しを求めた。
彼女は、一瞬え? という顔を浮かべたが、その後なぜか覚悟を決めたような表情で頷いた。
何か誤解を生じさせたような気がしたし、それで俺の言葉が足りない事にも気が付いた。
「ミリィに触れてもいいかな?」
俺はもう一度言い直した。
ユーリエは明らかに動揺している気がしたが、すぐさま精神を立て直すと俺に一歩近づいて言った。
「どうぞ、触れて下さい。きっと喜びますから」
俺は「それはどうかな・・・・・・」と思ったが、許しを貰ったのでゆっくりと小指で、柔らかな赤ん坊の手に触れる。それは丁度握りやすかったのだろう。ミリィはしっかりと、赤ん坊らしい力強さで俺の小指を握った。
柔らかな手の感触を楽しんだ後、次は人差し指で柔らかな頬をつつく。しかしそれにはミリィが拒絶を示し、嫌がってむずかる様子を見せる。女の子の顔をたやすく触るのはやはりまずかったようだ。
俺はその後、ミリィの頭を数回撫でて、柔らかな髪の感触を堪能し、満足して手を下した。
「助かってよかったよ」
俺はそれだけ告げた。
「はい、ありがとうございました」
ユーリエは頭を下げた。
俺はそれ以上、どうしていいか解らなかったので改めて井戸に向かい、ユーリエとミリィはハンナと共に部屋に戻って行ったようだった。
俺はたまらない衝動に駆られて、頭から水をかぶると、誤魔化すように頭を洗い、寒さに震えて続けられなくなるまで何度も水をかぶった。
なんだか全身が、居たたまれないような、こそばゆさに覆われているような、そんな感じだった。
(出て行くのは、もう少し様子を見てからにするか・・・・・・)
俺はそう決めて、着替える為に自分の部屋に向かったのだった。




