とある女給の採用事情
『からくり箱』を購入してから一ヶ月が過ぎていた。
俺は、酒場の営業を行いながら、寝る前の楽しみとして難解なパズルを楽しんでいた。
娯楽の少ないこの世界では、贅沢なほどの遊びだろう。なんせ銀貨約六十四枚分(六十四万円)相当のおもちゃである。
構造は元の世界の『からくり箱』と類似している点もあるが、全く未知の仕掛けも施されており、解除は難航していると言えた。
しかしそれすら俺は楽しんでいて、いっそ解除できない方が、楽しみが尽きなくて良いとすら考えていた。
その他の出来事としては、料理のレパートリー数を増やし、生活環境の改善と業務効率の向上のために、様々な事業をあちこちと共同してやり始めたことだ。
まず、パン屋の主人達を集め、乾燥パスタの製造に関して打診を行う。パスタはパンほど複雑な工程を必要としないが、小麦粉に関する知識や材料入手には彼らの力が必要だったので、最初から巻き込む事にした。前回の轍を踏まぬように三者からそれぞれ人を集め、共同事業の形態を取る。まずは材料の選別から初め、製品化したあとは利益を折半する事になった。
その他にも、『町会』に紹介して貰った人たちを集め、マヨネーズ、ケチャップ、ソース、味噌、醤油等の製造を、開始する事にした。特に味噌と醤油は、秋に麦穂から摂取していた麹菌の培養に成功していたので、熟成期間を考えて、早めに準備に取りかかる必要があった。これに関しても余剰分は販売し、利益は関係者で折半する事になる。
また、農家と組んで、養蜂の準備をしたり、木工ギルドと組んでメープルシロップの生産にも乗り出す。勿論目的は蜂蜜の入手に砂糖の精製である。
これらの事業全てが軌道に乗れば、結構な収入になる見込みであるが、未だ準備や仕込みの段階で回収は当分先の事になりそうな情勢である。
それでも一歩ずつ前進している事には変わりが無く、俺としては楽しみが日々増えていく実感を持てるのであった。
そんなある日、ハンナが風邪を引いて数日寝込んだ。
ハンナは店を閉めても良いといったが、一人でグダグダになりながら営業した。半分は常連客である『町会』の人たちのサポートのおかげで乗り切れたと言える。
その事への礼もかねて、店でハンナの全快祝いを『町会』の人たちとやることになった。
「ハンナの病気回復を祝って、乾杯!」
「乾杯!」
マルセロの音頭に全員で唱和し、快気祝いが始まる。店は早めに閉めて、貸し切り状態にしてあった。
「もう歳なのかねぇ 、今回ばかりはそう思っちまったよ」
ハンナが溜息をつきながら、弱気な発言をする。今回の事がよほど答えたのか、表情にいつもの覇気が見られず、少々心配になる。
「馬鹿な事言うなよ、ハンナが歳ならメルケルさんなんかとっくに墓場行きじゃねえか」
「ちげぇねぇ」
最年長のメルケルをだしに使って、ハンナに発破を掛けると共に、メルケルのとぼけた返しに全員がドッと湧く。
「まあそうなんだけどさぁ」
「否定しねえのかよ」
ハンナのボケににメルケルが突っ込んで、また笑いが起こる。
「とにかくねぇ、こんなことがある度にウートやみんなに迷惑掛けちゃうのは、心苦しいし」
「迷惑なんてそんな、俺なら大丈夫ですよ? 『町会』の人たちこき使いますし」
「俺たちゃウートの下かよ」
俺の遠慮無い発言に、マルセロが突っ込んでヤジが飛ぶ。
「そりゃねぇ 、それがダメって訳でも無いんだけどさ、やっぱり人を雇おうと思うのよ」
俺と、『町会』のメンバーは顔を見合わせる。ハンナが本気らしいと気がついたからだ。
「なんていうか、最近めまぐるしくって、もう少し余裕が欲しいのさ。今のお店の状況に、私自身ついて行くので精一杯でねぇ」
ハンナは溜息を吐く。
「でもよぉ、ハンナ人を雇うの嫌だったんじゃねぇのか? ウートが来るまで誰も雇おうとしなかったじゃねぇか」
「別に嫌なんじゃ無いさ。最初はそれに気がつかなくって、一人で店回すのに気を取られて大変だったんだよ。そして気がついたらお客が少なくなって、人を雇う必要もお金も無くなったのさぁ。あと、あたしゃお金の勘定が苦手なんだよ、今だって一杯一杯さね」
俺も、ハンナは人を雇いたくないんだろうと考えていたので、意外な理由に愕然としてしまう。
「そんな理由だったのか、聞いてみりゃあよかったな。まあそれなら話は早ぇ、ウート明日からお前が帳面つけろや」
マルセロが無責任に俺に振ってくる。
「ちょっと待って下さい。金勘定なら何とかなりますが、俺、字が書けないんで、帳面付けるのは無理です」
俺は、目下最大の欠点である文盲により、不可能な事を告げる。普段全く使わないので余計に身につかないのだ。
「は? おめえよく、けったいな記号みてえので、記録つけてるじゃねえかよ。自分が解ってりゃいいんだから、あれでいいんだよ」
「税務調査とかどうするんです?」
「税務調査? 徴税官に納める税金なら、定額なんだから帳簿なんか関係ねえ、金額確認すれば終わりだろ」
そう言われてみれば、そのとおりである。目から鱗な気分だ。
「そうですか、それなら何とかなると思います。・・・・・・ハンナ明日はお休みにして、引継ぎをしましょう。マルセロさんはすいませんが、立ち合いをお願いできますか?」
「おう、いいぜ」
マルセロが了承し、ハンナが頷くのを見て、明日の予定は決まった。
俺は頭の中で、決めておきたい事項をリストアップする。酒場の経営などしたことはないが、複雑な税理計算や人件費関係の処理がないので、何とかなる気がした。
ハンナは肩の荷が下りたような表情をし、明らかに明るくなったので場も盛り上がり、その夜は遅くまで飲み明かした。
次の日、酒場『ジルとハンナ』の二階にある事務室へマルセロと二人で赴く事になった。酒場『ジルとハンナ』の二階部分は、ハンナの住居スペースになっており、寝室やリビングなどの部屋がある。
その他にも、酒場の前主人であるジルが、生前に書斎兼事務室として利用していた部屋があり、今もハンナはそこで事務をしているとのことだった。
ハンナの案内でマルセロさんと事務室に足を踏み入れた俺は、その部屋の片隅を見て、思わず呆然と立ち尽くした。
その部屋の片隅には大きな蓋付きの木箱があり、その蓋は、今は大きく開け放たれている。
中には大小の銅貨が詰め込まれているのだが、収めきれずに周りにも溢れかえっている有様だ。また、そればかりでなく、大小様々な大きさの皮袋が周りに積まれており、どうやら中身は周辺に散らばる貨幣と同じのようである。
この様子を見ると、まともに管理されている気配は無い。そのため、総額が幾らになるか見当もつかない。
俺とマルセロはつい、ハンナをジトッとした目つきで見てしまう。
「慌ただしくしているうちにどんどん増えてねぇ、もうあたしの手には負えなかったんだよ。ウートが来る前は減る一方だったのに、気が付いたろどんどん貯まっていくし・・・・・・、税金分は別に確保してあるから、後で整理すれば良いかと思っていたんだけどねぇ・・・・・・」
ハンナは申し訳なさそうに俯いている。ここ数か月の激変には俺も関係しているし、ハンナだけを責めるのは筋違いだろう。これだけの事務量となれば、酒場の仕事をしながらこなすのはそれなりに大変だ。仕事が倍になった感覚だっただろう。ハンナの体調不良にはその辺も影響しているのかもしれない。
「こんなに儲かっていたんだな」
マルセロは信じられないように首を振る。
「それがねぇ、おかしいんだよ。入ってくるお金は増えてる気がするんだけど。出ていくお金は減ってる気がするんだ」
ハンナは首をかしげている。俺には何がおかしいのかわからない。経費を節減し、収入を増やすのは当たり前のことだし、その為に日々努力もしているつもりだ。具体的な収支は俺の担当ではないが、仕入れは収支率を計算しながら行っているし、経費節減を怠ったことはない。俺は、ハンナにその辺りの事情を掻い摘んで説明する。
「なるほどねぇ、やっと納得いったよ」
「俺としては、店を立て直してるつもりだったんですけど、もうとっくに軌道に乗っちゃってる感じですね、気が付きませんでした。これなら人を雇っても大丈夫じゃないでしょうか」
俺の言葉に、ハンナは安心したようにうなずく。マルセロも思案顔になり、
「あんまり儲けすぎるのも感心しねぇな。これまでは目新しい料理に、値段の事を気にする余裕もなかったんだろうが、街の景気が落ち込んだりすれば、名指しで非難されかねんぞ」
「そうですね、全体を見て調整すれば、もう少し安い値段で提供したり出来るかもしれません。当然利益は出しますが、還元もしていきましょう」
俺の言葉に、ハンナも了解を示し、俺たちはまず現状の把握のため、保有する現金の額を数え始めた。
「くそ、終わらねぇな。あいつらにも手伝わせるんだったぜ」
硬貨を数える地道な作業に、マルセロが愚痴を言い始める。既に二時間以上が経過しているので無理も無い。
「そろそろ革袋が足りなくなりそうですね、一旦休憩して調達してきましょうか、どうせですからこのお金を使って」
俺が提案する。焦っても直ぐに終わるような量ではない。
「そうだな、一旦休憩して、昼飯にしよう。再開は一休みしてからだ。」
俺は頷きを返し、空いていた革袋に適当に銅貨を詰め、三人とも部屋を出る。ハンナは持っていた鍵を閉め、その鍵を俺に手渡した。
「面倒を押しつけて済まないが、これからはあんたが管理しておくれ」
「お預かりします」
ハンナから鍵を預かる。それはずっしりと重く感じる。酒場の運営という責任を同時に預かる気がするからだ。
これからは、やろうと思えば横領も私的流用も思いのままとなる。だが、そんな事を俺はやるつもりは当然無い。将来にわたる安定した収入と、周囲の人々の信頼を裏切って得る利益は、バレた時にかぶるリスクと等価ではあり得ない。そんな事を考えるのは、長期展望の出来ない馬鹿な小悪党だけだ。
そんな事を考えながら、二人と一緒に階段を降りる。
昼食を取るため厨房に入り、残っていた食材であり合わせの昼食を作った。
昼食が済んだ後、二人に休憩して貰うよう促して、その間に俺が市場へ革袋を調達に出た。
俺たち三人はとりあえず金額を確認するために、小銅貨と大銅貨をそれぞれ百枚ずつ革袋に纏める作業をしていて、手持ちの革袋は既に尽きかけている。しかし貨幣はまだまだ残っており、大量の革袋が必要になるだろう。問題はすぐにそれだけの数が揃うかどうかだった。
屋台で手広く革製品を扱っている店に行き、革袋の在庫を確認する。革袋は財布代わりにしたり、小物を入れたりする最も需要の高い製品である。作り方も結構簡単なので、そこそこの在庫がある事が解ったが、それでも足りそうに無かったので、工房の在庫も加えて全て買い切らせて貰った。
(これで足りなければ、余った木箱にでも詰め込むしか手が無いな)
俺はそう考えながら店に戻った。
店に戻ると『町会』メンバーが七人とも勢揃いしていた。どうやらマルセロが、自分たちだけでは埒が明かなくなって呼び出したらしい。俺としても正しい判断だと思う。
流石に人数が増えたので仕分けは比較的スムーズに進んだ。それでも二時間を要したので、人海戦術は正解だったと言える。
数えてみた結果、小銅貨二百五十三袋、大銅貨四十一袋、銀貨二袋と余り二十一枚あった。そのうち銀貨一袋は税金分として除いても、銅貨換算七万八千四百枚(七百八十四万円相当)の資金があった。
俺としては、まずまずの手応えがあったから、これくらいは当然の事と受け止めていたが、ハンナを初めとする『町会』メンバーが危惧する程の利益だったようだ。
「ちと、多すぎる気がするな」
「そうだねえ、今までだと最高でも税金引いたら銀貨百五十枚ぐらいだったはずだよ、その時でもジルは渋い顔をしていたからねぇ、その後で割引とか、肉の量とか、お酒の質で還元していたよ」
マルセロが渋い顔で言えば、ハンナもそれに同意する。
「これから人を雇うわけですし、事業運営には資金の蓄えも必要です。それに、古くなった設備や建物の改修なんかもあるでしょうから、そういったことでお金を使いながら、出来るだけ資金を街に還元する方向で考えます」
俺は今後の経営方針の確認を込めて、その場に居る全員に宣言する。
「そうだな、なるべくお金を使ってくれると嬉しい。出来るだけ、街に還元する形で、だ」
マルセロは俺を睨みながら言う。どうやら、『からくり箱』の購入のような使い方は、街に還元されないと言いたいらしい。
「店のお金ですから、基本的に変な使い方はしませんよ」
アレは自分の貯金だからやれた事だ、店の金を浪費するような事はしないつもりなので誤解されないように伝えておく。マルセロは頷きを返しながら「そうしてくれ、他に決めとく事はあるか?」と聞いてきた。
「そうですね、これまではハンナがお金の管理をしていたので、ご自分の生活費もそこから出せば良かったと思うんですが、俺が管理するとなるとお互いやりにくくなるでしょうし、経営上必要な人件費の額を決めておきたいので、ハンナの給与も決めておきたいと思います。その上で半年毎に利益を算出して一定額をお店に残し、残りをハンナさんに支払います」
「そうしてくれるとありがたいねぇ、自分の使って良いお金が解る方がやりやすいよ」
俺の案にハンナが賛成してくれる。一番の問題点である金銭問題を解決出来れば、俺は安心して経営を行う事が出来る。
「これから雇うのは、給仕で良いですよね? 人数はとりあえず一名と言う事でよろしいですか?」
「そうさね、ウートは徒弟を取る気は無いのかい?」
「俺はまだ、人を使う段階にありませんね」
俺は自分の気持ちを正直に伝える。とりあえず、今のところ自分の腕を磨くのに必死で、他人に教える気にはならない。まだまだ試したい事が沢山有り、試作段階の失敗も多いから人を雇っても混乱するだけだろう。
「なら、一人だね」
「マルセロさん、この街の人件費の相場を教えて欲しいんですが?」
「そうさな、大ざっぱになるが、親方や経営者クラスで一日銀貨一枚、修行を積んで独立前の職人で大銅貨七枚、その下の全体の平均が大銅貨五枚、徒弟で大銅貨三枚ぐらいかな。ある程度のバラツキはあるぞ」
俺の言葉にマルセロさんは、大体の相場を教えてくれる。大体は俺の予想していたとおりの金額だ。
「ありがとうございました。では、ハンナさんの日額は銀貨一枚で、俺は大銅貨五枚で――」
「まちな、ウート」
俺がさらっと流そうとしたのを、ハンナさんは待ち構えたように制止した。
「あんたには帳簿も任せる事だし、新しく入ってくる新人を使って貰わなくちゃならない。あんたの給与が低かったら新人の給与も上げられないだろ? あんたと新人を同じ扱いにしちゃ、示しってもんが付かないからねぇ」
ハンナは諭すように言った。
「しかし、俺自身手広くやってまして、結構他にも収入があるんですよ、あんまり気にしなくても」
俺は一応遠慮してみる。なんだかこの流れを誘導したような気になったからだ。
「それこそあんたの才覚で稼いだ金で、酒場とは何の関係も無い金じゃないさ。それに、酒場の利益を還元するなら、まずはそれを稼いだ従業員に真っ先に還元すべきだろう。あんたの日給は大銅貨八枚にしな、これは命令だよ」
ハンナは強い口調で言った。ここまでの厚遇に自分が値しているか、少し自問してみるが、それは恩を返す形でしか証明できないので、俺はありがたく受ける事にした。
「わかりました。頑張ります。では新人の給与ですが、とりあえず大銅貨三枚で初めて、様子を見つつ一年を目処にハンナと話し合って上げていく形で、良いでしょうか?」
俺の言葉にハンナは頷く。
「募集はどうしましょうか? 誰か適任に心当たりは?」
だが、いつもはこういう時頼りになるはずの『町会』メンバーが渋い顔をしている。何かあるのだろうか?
「マルセロさん誰か知りませんか?」
とりあえず、リーダー格のマルセロに話を振ってみる。
「いねえよ、正確にはいなくなった。だがな」
「は? それはどういうことです?」
俺の反問に、マルセロは溜息をつきつつ、
「なんでもねえよ、とりあえず色々当たっては見てやるが、しばらくかかるかもしれん」
マルセロの言葉に、なぜか『町会』メンバー全員が頷いている。
「はあ・・・・・・、じゃあ、お願いします」
俺は釈然としないまま、町会メンバーに頼み込むしか無かった。
しかし、結局のところ『町会』に依頼した新人募集は無駄に終わる事になる。
それが運命というものなのか、神の配剤と言うべきか、とにかくそれは訪れたのだ。
ハンナから営業を引き継いだ翌日の昼営業が終わり、夜営業まで三時間ほどの休憩に入る時間となった。
ハンナが外の立て札を準備中に変えてから店内に戻って来て、俺はテーブルの上を片付けつつ、最後食器を洗い場に持ち込もうとしているところだった。
準備中の立て札を立てているにもかかわらずドアが開き、誰かが入ってくる気配がした。
「準備中だよ」
ハンナが反射的に叫ぶが、その人影は躊躇いがちに店内に入ってきた。
一目で旅装とわかるフードの付いた茶色のローブをかぶり、左肩から右の腰にかけて、布製の大きな鞄を背負っている。
身長は小柄で、百五十センチくらいだろう。体格も全体的に華奢に見え、動作に躍動感が感じられず、自身なさげな足取りが、何処かオドオドした印象を与える。
何より驚いた事に、ローブの内側に抱え込むように、生後間もないと思われる赤ん坊を抱いていた。
正直言って、この世界の旅は過酷である。
生後間もない赤ん坊を抱いて旅行するなどと言うのは、通常ではあり得ない。つまり一見して訳ありと解る旅行者であった。
準備中の時間であったが、赤ん坊を抱いているとあれば、余り無碍にもしたくなかったのであろう。ハンナは笑顔で近づき、赤ん坊をのぞき込んだ。それを見た俺は、事情の聴取はハンナに任せて、洗い物を片付けるべく、洗い場に向かった。
手動ポンプを駆使して、三十分ほどで洗い物を片付ける。これが無かった頃に比べれば半分ほどの時間で済み、ハンナも俺もこれには大助かりしている。
ハンナが特に注文等を伝えてこなかったので、先ほどの客はもう帰ったものと思っていた俺は、店内に戻って二人が入り口近くのテーブルに座り、深刻そうに話しているのに気がついた。
なにやら厄介毎の気配が濃厚なのだが、ハンナを一人にするわけにも行かず、昼営業の残りであるシチューとハムと野菜のサンドイッチ、果実水を盆にのせ、二人に近づいていった。
俺がそばに近づいた時、母親でもある旅人は僅かに体をこわばらせたが、俺は気づかぬふりをした。俺はむさい親父なのだ、女性にとっては特にそうなんだろうし、一々このくらいの事を気にしていては、ガラスのハートは直ぐに砕け散ってしまう。
スルースキルは磨かれているつもりだ。今回はちょっとひびが入った程度で済んだようだ・・・・・・。
俺は料理を静かにテーブルに並べると、ハンナにアイコンタクトを送る。任せた方が良いのか、手助けがいるのか確認するためだ。
ハンナは、頬に手を当てて深刻そうに考え込んでいたが、俺のアイコンタクトに気がつき、料理の存在にも気がつくと、母親に食べるよう促した。
「食事は済んだかい? 良かったら食べて、残り物だからお代はいらないよ。少し席を外すからねぇ」
そう言って立ち上がると、俺のエプロンの裾を掴んで厨房に引っ張り込んだ。
ハンナは厨房の奥まで進み、十分な距離を取る。どうやら聞かれたくない話、と言う事だろう。
「ウート、あの娘がね、ここで働かせてくれって言うのさ」
ハンナはこめかみと、髪の境目辺りを神経質に指で掻きながら、俺を見上げていった。
「それはまた・・・・・・、偶然ですね、人を雇う事にしたばかりなのに、しかし、平気なんですか? なんか、訳ありっぽい雰囲気ですよね彼女」
俺はなるべく感情がこもらないよう配慮しつつ、事実のみを取り上げ、反対意見と取られないように苦労するが、言ってる事はどうしてもそれに近い気がしてしまう。
「だろうねぇ・・・・・・。でもねぇ、断ったらどうなると思う?」
ハンナの言いたい事は俺にも解った。
「そうですね、世を儚んで川に飛び込むとか、赤ん坊を置いて何処かに去るとか、どちらにせよ、良い想像は全く浮かびません・・・・・・」
二人で溜息をつく。
「見捨てたら、寝覚めが悪いなんてもんじゃ無いよ。どのみち人を雇うつもりではあったんだ、これはもう神の思し召しさね」
ハンナは諦めとも取れる口調でそう言った。
「でも彼女、旅行者と言う事は、この町の人じゃ無いんですよね? 何処に住まわせる気ですか?」
俺は嫌な予感を覚えてハンナに確認をいれる。
「そりゃあ、あんたの隣の部屋しか無いだろう?」
「本気ですか? さっきの感じだと、男に警戒感むき出しでしたよ? 俺限定かもしれませんけど・・・・・・。どちらにせよ、嫌がるんじゃ無いでしょうか?」
俺は最大の懸念を伝える、もしかして追い出されるのは俺の方になるのかもしれない。
「そこは仕方が無いさ、我慢して貰うしか無いね。我が儘言える立場でも無いだろう? それともあんたが嫌なのかい?」
「俺ですか? 彼女が了承するなら別にかまいませんけど、俺こそ贅沢言える立場じゃありませんし。そうなったときは、怖がらせないよう、なるべく顔を合わせない努力をするしかありませんね」
俺はトラブルの予感に気が進まないながらも、非積極的賛成と言う曖昧な態度を取る。
「そこまであんたが譲歩する事無いだろうに。まあ、しばらく様子見て、移りたかったら新しい家でも探してあげるよ。とりあえず、何時までいるかすら解らないんだ。このまま雇って様子をみるしかないだろうねぇ」
俺は了解の意味を込めて頷いた。
俺とハンナが店内に戻ると、母親である旅人の女性は同じ場所でじっとしており、その全身からは悲壮感が漂っている。ハッキリ言って、重くて、暗い。飲食店の店員が勤まるのだろうかという不安も頭をもたげるが、すでにハンナが雇うと決めた以上、俺に否やは無い。
それに、この店はその程度では潰れたりしないと言う確信もある。
テーブルを見ると、用意した食事は無くなっており、親父恐怖症――勝手に命名――は料理には及ばないらしいと確認できて、少し安心する。
ハンナは、母親である旅人の女性の目の前に座り、真っ直ぐに顔を覗き込む。
「ユーリエだったね」
「はい」
俺はその時初めてその声を聞いた。張りが無く、細々とした声だが、想像より若く聞こえた。俺は母親である旅人の女性を二十五歳から二十八歳ぐらいのイメージで捉えていたが、この声を聞いて二十歳から二十四歳に改めた。
「そう、ユーリエ、こっちはウートだよ。二人で話し合った結果、あんたを雇うことにするよ」
ハンナがそう伝えると、ユーリエと名乗った女性は一瞬間を置いた後、かすれそうな声で言った。
「ほんとう、ですか・・・・・・?」
俺は、ユーリエを怯えさせないように、少し離れたカウンター席から二人を見守っていたし、彼女はフードを未だに深くかぶっていたので表情は解らなかった。しかし、大きく驚いている気配は伝わってきた。
「ああ、丁度、人を雇う話をしていたところでね、人を探しているところだったのさ。条件は、日給大銅貨三枚、働きしだいで昇給有りだよ。それからあんた、住むところはあるのかい?」
ハンナの問いに、ユーリエは首を振る。まあ、予想通りの答えである。
「一応、酒場の裏に寝泊まりできる場所はあるんだけど、あそこにいるウートと同じって事になる。勿論部屋は別々だけどね、どうする嫌かい?」
ハンナが俺と一緒、と言った時に、ユーリエは一瞬で体を最大に硬直させる。そして消え入りそうな、今までで一番か細い声で言った。
「わかり、ました、それでかまいません・・・・・・」
それは、神の生け贄に決まった哀れな小羊が、己の運命を知り、覚悟を決め、全てを受け入れる。そんな悲壮感が全身から漂う返答だった。
俺は盛大に溜息をつきたくなる。正直言って、そこまで嫌がられている相手に、手を出す気なんて全くない。
(これは早晩、俺の精神が耐えきれなくなるか、相手がそうなるかだな。早めに住まいを見つけた方が良いかもしれないな・・・・・・)
俺のガラスのハートは既にひび割れて、砕け散り、敵前逃亡寸前の憂き目にある。
ハンサムかイケメンしか男と認めないという女性の態度には、すでに怒りも悲しみも浮かばず、ただ隙間風が吹くのみであるが、こっちも別になにも期待してないから、わざわざ態度に出して示さないで欲しいものだ。
俺は諦めにも似た感情に支配されながら、後はハンナに任せると決め、夜営業のための準備に取りかかる事にして、厨房へと入っていった。
これが、俺と、ユーリエ・ハーフェンの出会いであり、彼女が採用された理由だ。
正直言って、俺の彼女への第一印象は最悪であった事を述べておく。




