【六歳:活字の海と羨望】〜梯子〜
おのれを宥めるように、目を閉じる。
焦っては、ならぬ。
考えよ。
前提に戻るのだ。
そもそも、怪異とは何だったか。
人の恐れという『鋳型』に、この世の力が注がれ形を成したもの。
では、その『鋳型』を作っているのは何か。
人の、考え。その、組み立て。
そして、そこから湧き出す根源的な情動そのもの。
目を、開ける。
(……ならば、話は早い)
ぽっかりと空いた、『穴』の形を描く。
それは、器であり鋳型でもあった。
闇を恐れる心。
死を忌む心。
解せぬものを前にした時の、畏怖。
人の心の作りが同じであるならば、そこから生じる恐れの『鋳型』もまた、どこへ行こうと同じ形を取るのではないか。
前世では、その鋳型に『言葉』だけが注がれ。
神話や言い伝えとして、語り継がれていくのみであった。
だが、この世は違う。
その鋳型が、確たる重みを持つ。
ただ、それだけの違い。
外枠の出来が違うだけで、元となる図は同じ。
同じ、なのだ。
つまり、私の知識は、怪異という現象の根源へ直に手を届かせられる。
ゾクリ、と。
背の芯を貫くような震えが走った。
これは、鍵だ。
恐れという鋳型そのものを開け閉めする、おおもとの鍵。
土蔵の天窓から、一筋の、日が差し込む。
昂りに震える手を、きつく握りしめる。
しかし、まだ、引っかかりが残っていた。
言葉で解けるのなら、知識さえあれば、私でなくとも可能なのではないか。
即座に、首を振る。
この世の者は、生まれながらに『怪異は在る』という、当たり前の檻の内にいる。
仮に、村人が私の知識を読み、化け物に向かって『お前の正体は、ただの壊れた番傘だ』と叫んだとしよう。
だが、その声は必ず震える。
目の前の化け物を見上げ、その心の臓は恐れに早鐘を打つ。
その時点で、終わるのだ。
観測する者の魂に巣食う恐れと畏敬が、怪異の存在を確固たるものとし、理の言葉など呆気なく塗り潰す。
果ては、無残に喰われる。
言葉によって、怪異を在らぬものへと消し去るには。
観測する側の心が、夾雑物のない、曇り無き鏡でなければならぬ。
恐ろしい化け物が眼前で吼えようとも。
おのれの死が迫ろうとも。
恐れを抱かず、なお、己を突き放して見据えられる心。
果たしてそのような人間が、この世にいるだろうか。
――いる。
たった一人、いるのだ。
骨の髄まで神も霊も信じぬ。
この屋敷の外からすべてを眺める、ただ一人の観測者。
産みの親に存在を否まれ、神にすら愛されなかった男——竹中、半兵衛。
喉の奥で、笑った。
笑いは、次第に、止まらなくなる。
埃まみれの冷たい床の上で。
私は一冊の書を胸に固く抱きしめながら、歓喜と狂気の入り混じった声を漏らし、悪寒に震えた。
…………。
――だが、待て。
喉の奥で震える笑いを、噛み殺す。
(落ち着け。……落ち着く、のだ)
額に浮いた汗を、手の甲で乱暴に拭う。
戒めねば、ならぬ。
今しがた組み上げたこの理屈は、どれほど美しく見えようと所詮は書物だけを材として組んだ、机上の空論。
一度も、検証をしていない。
指先に、先ほどの歓喜とは別の冷たさが広がる。
怪異とは、人の恐れが鋳型へ流れ込んだもの。
――本当に、そうか。
それは、私が風土記と怪異考と陰陽寮秘録。この三冊を照らし合わせ、最も筋が通ると判じたからに過ぎぬ。
鋳型の中身が万物に通じる普遍の理に基づく。
――本当に、そうか。
それは、民俗学がそう教えたに過ぎぬ。
床に描いた鋳型の図を、じっと見下ろす。
まことの学問とは、見立てを立てた時点では半分も成ってはいない。
残り半分。
いや、九分九厘は。
現の世に当ててみて、正しいと立つか、それとも、粉々に砕けるか。
その験しによって初めて成る。
眼前の怪異に、この理屈を突きつけ。
それが自壊していく一部始終を見届けるまでは、ただの紙細工と同じ。
いずれ、その機会が訪れたとして。
この見立てのどこかに穴があれば、私は呆気なく喰われる。
冷たい汗が、頬を伝う。
抱きしめた書の背に、ごつり、と、額を押し当てた。
(……それでも、だ)
今このとき、差し出された縄梯子は、この一本の見立てを措いて他にない。
ならば、掴むしかあるまい。
掴んで、登り。
途中で縄が千切れたなら、落ちればよい。
それまでは、刃に非ず。
ゆっくりと、顔を上げる。
暗闇の中に、一本の細い道がうっすらと見えた気がした。
――篝火。
――白繭様、とやら。
見ているがよい。
今はまだ、一片の証も持たぬ、ただの見立てに過ぎずとも……。
その時。
――ギィィ……。
静けさを破り、蔵の扉が軋みながら、遠慮がちに開いていく。




