【六歳:活字の海と羨望】〜約束 〜
ハッとして、床に描いた図を足で素早く擦り消す。
眩しい日差しが細い帯となって差し込み、宙を舞う無数の埃を貫いた。
逆光の中に立っていたのは、私より少しだけ背の高い、華奢な小さき影。
「……半兵衛」
聞き慣れた、鈴を転がすような声。
「姉、上……」
八つとなった姉は、村の者が一生かかっても買えぬほどの豪奢な絹を着せられていた。
だが、その裾は泥に汚れ、綺麗に結い上げられたはずの黒髪も、あちこち、ほつれている。
薄暗い蔵の奥、書物の山に埋もれるように座る私を見つけると――ふぅっ、と、安堵したように息を吐き、小走りに駆け寄る。
「やっと、見つけた。……こんなところに、いたのね」
「……なぜ、このようなところに。母上に見つかれば、また酷く、叱られましょう」
「いいの。お母様、今は、お客様と会ってらっしゃるから」
ササメは、埃まみれの床も気にせず、隣に、ぺたん、と座り込む。
その時。着物の袖が、ふわりと、捲れ上がった。
――無数の青あざ。
一度や二度、叩かれた程度ではない。
黄ばんで治りかけた古いものから、まだ赤く腫れ上がったものまでが重なった打ち身の痕。
「姉上……それは」
「あ……」
ササメは慌てて袖を引き、両手を背に隠す。
そして、顔を引きつらせながら下手な笑みを浮かべた。
「へ、平気よ。これ、お稽古で……私が、ちょっと、しくじっちゃっただけだから」
「稽古。……神事の作法を学ぶだけで、どうして、そのような傷がつきますか」
「うん。……白繭様に捧げる、特別な刺繍をね、縫わなきゃいけないの。でも私、不器用だから、何度も針で指を刺しちゃって。……糸の色を間違えたり、縫い目が少しでも曲がったりすると、お母様が、竹尺で……」
その声は――最後には消え入るように震えていた。
選ばれた、子。
あの奥座敷の儀式で、篝火は確かにそう言っていた。
笄年を迎え、当主に就く娘――
本来、笄年は十五で迎えるものだが、この竹中の家では十七とする奇妙な習わしがあった。
「……いいなぁ。半兵衛は」
ササメが膝を抱え、ぽつりと漏らす。
「ここなら、とっても、静かだもんね。お母様の足音に怯えなくていいし。怒られないし、痛いことも、されない。……私も半兵衛みたいに才なしだったら、よかったのにな」
才、なし。
その声の底に、奇妙に冷えた響きが混じっていた。
悪気のない言葉は、鋭い刃よりも深く胸の奥を、抉る。
私がのうのうと隠れて本を読み、生き残る術を練り、知識という力に酔いしれていられるのは一体なぜか。
無能の烙印を押されたからに、他ならぬ。
私も背負うはずだった、竹中の家の期待。重圧。
そして、暴力を。
この小さき姉がたった一人、堤となって引き受けているからだ。
私はただ、この娘の犠牲の上に胡座をかき、安んじて眺めているに過ぎぬ。
……。
「……もうしわけ、ありません」
口から、絞り出すような詫びが、漏れた。
ササメは驚いたように顔を上げ、激しく首を振る。
「ううんっ。違うの、半兵衛が悪いんじゃないのっ。ごめんね、私、ひどいこと、言っちゃった。変なこと言って、本当に、ごめんなさい」
埃と墨に汚れた私の小さな手を、傷だらけの両の手で、そっと、包み込む。
その手は、強く、熱を持っていた。
声を上げて泣くことすら許されぬこの娘が、必死に弟を慰めようとしている手。
「半兵衛は本当にすごいね。こんなに難しい漢字ばかりの本、一人で読めるんだもん。……私なんか、指が痛くて、針の穴に糸を通すのも、やっとだよ」
「……姉上」
「ねえ、読んで。……その本には、どんな、お話が書いてあるの」
その瞳が薄暗い蔵の中で、涙を堪えるように潤み光っていた。
私は一瞬ためらったが、無言で頷く。
手元の『西国風土記』の頁を、捲る。
そこに記されているのは、このじめついた因習の村から遠く離れた、異国の景色。
――どこまでも広がる、青い、海。
誰も見たことのないような、巨大な、獣たち。
結界に守られ、夜でも煌々と明かりの灯る、眠らない都の賑わい。
声に抑揚をつけて読み聞かせると、ササメは目を輝かせ夢中で聞き入った。
やがて、村の夕暮れを告げる鐘の音が響く。
「……い、行かなくちゃ」
その音とともに、顔から子供らしさが消え、暗い影が落ちた。
「ありがとう、半兵衛。とっても楽しかった」
ササメは立ち上がり、着物の泥を軽く払うと、重い扉の方へ歩き出す。
その背は、あまりにも小さく、か弱い。
「姉上」
気付けば私も立ち上がり、その背を呼び止めていた。
ササメが、驚いたように振り返る。
「……」
手にした風土記を両手で強く握りしめ、おのれに誓う。
「私に、霊力はなく。白繭様にも、愛されてはおりませぬ。……ですが、この頭の中にある知識で。姉上を、この因習から――解き放つと、約束します」
それは、老いた学者の口から出る言葉としては。
現の過酷さを半分も解さぬ、子供の大言壮語と同じであった。
(失笑ものだ。……だが、悪くはない)
ササメは少しだけ目を丸くした後、柔らかく微笑む。
「うん。……待ってるね、半兵衛」
重い扉が、再び錆びた音を立てて、閉ざされた。
蔵の中に、元の静けさと埃の匂いが戻る。
私は固く閉ざされた扉を見つめながら、胸の高鳴りに浸っていた。
老いた心が、幼い身に引き摺られているのだろうか。
……たとえ、そうであったとしても。
一文字でも、多く。
一冊でも、多く。
あの繊細で脆い姉が。
いつか、ただの娘として、穏やかに過ごせるように。
そして――狂気の季節は、静かに、巡る。




