【六歳:活字の海と羨望】〜仮説〜
土蔵。
そこは、歴代の当主が集め――やがて、時の移ろいとともに値打ちを忘れ捨てられた、古文書の墓場であった。
この世界の文字は、私の知るそれとは、わずかに違う。
江戸の崩し字に近い変体仮名。
漢文の文法が、独自にねじれて育った、奇妙な漢字の用い方。
それを一つ一つ繙いていくのは、育ちきらぬ目と脳を酷使する――暗号解きにも似た、苦行であった。
文字を追うだけで、頭が痛む。
だが――幼い肉が持つ、水を吸う綿のような呑み込みの早さと、学者としての執念とが。
この二年で、私に言葉を覚えさせていった。
朝、奉公人の目を盗んでは蔵に入り、行灯の油が尽きて文字が闇に溶けるまで、読み耽る。
食い物は、台所の余りをこっそり掠めるか――時折、私と同い年の下女が、冷たい握り飯を、そっと差し入れてくれた。
篝火も、厳蔵も、私には、見事なほど無関心であった。
だが――それで、いい。
いや。
それこそが、望ましかった。
孤独は、学ぶ者にとって、何よりの城である。
この薄暗い文字の海の底にこそ――求める『答え』が、眠っているのだから。
*
黒漆喰の扉に、全身を預け、軋ませながら、押し開く。
古い黴と、紙を食い荒らす紙魚の死骸、そして和紙を綴じる糊の――独特の、酸っぱい匂いが、鼻を突く。
激しく、咳き込む。
この蔵には、古文書のほかにも、さまざまな書が仕舞われていた。
絹糸の取引の控え。
出納の帳面。
諸国の地誌。
医術の書――竹中の家が、数百年かけて溜め込んだ書物が、所狭しと積み上がっている。
その膨大な蔵書の中から、私が抜き出した三冊。
――『本朝怪異考』。
――『西国風土記』。
――『陰陽寮秘録(写)』。
冷たい床に広げた、数多の古文書。
数月をかけて、それらを照らし合わせていた――その時。
文字を追う煤けた指先が、不意に、止まった。
「……ん」
『西国風土記』の、頁。
異国の風景を綴った一節に、ふと、こうある。
――『陰陽府の、結界に守られ』。
府。
次に、傍らに広げたままの、この蔵で最も古いであろう和綴じ本――『陰陽寮秘録(写)』へと、目を、滑らせる。
三百年前に写されたという、その表紙。
そこに、記された名は。
寮。
陰陽の道とは、朝廷の管轄たる『寮』に属するもの。
幕府の直轄を意味する、『府』では、ない。
なぜ――新しい書物ほど、揃って、『府』へと、すり替わっているのか。
(ただの……書き損じでは、あるまい)
かつて朝廷が握っていた何かが、いつの世にか――武家の手によって、奪い取られた、痕。
おそらくは、そうした生臭い権の改竄が、平然と、歴史の表を書き換えてきた。
その、片鱗。
(……面白い。……だが、それよりも)
パタン、と、書を閉じ、深く、息を吐く。
行灯の火が、ちろちろと、頼りなく揺れていた。
――怪異とは、何か。
指先が、知らず、埃の積もった床板を、滑る。
埃を払い、いびつな化け物の輪郭を、描いていく。
角の生えた、頭。
長すぎる、手足。
だらりと垂れた、舌。
絵に描いたような――人の恐れが生んだ形。
描きながら、見立てを、練る。
あの夜の神のような、この世界に、現に在る怪異。
その正体は――定まらぬ何かの力が、人の『恐れ』という器へ流れ込み、形を得たもの。
いわば――形のない、水。
描いた化け物の、内側を、黒く塗り潰す。
外の輪郭だけが残り、内は――空ろと、なった。
そう。つまりは、鋳型なのだ。
流し込まれる、水の側ではない。
水を象る、器の側にこそ――本質が、ある。
背筋が、疼いた。
ならば、次に問うべきは――。
陰陽師とは、何者か。
描いた化け物の真上に、太い丸を、重ねて描く。
化け物を、上から強引に押さえ込む、円。
陰陽師の術とは――おのれの霊力を介して、怪異の存在を、上から押さえ込み、塗り替える業。
(霊力……か)
描きかけの指を止め、埃まみれの、両の手を見下ろす。
――小さく、か弱い。
この中には、不思議な力など、一欠片も宿ってはいない。
篝火が判じた通りの――『空っぽ』の手。
陰陽師の道は、閉ざされている。
描いたばかりの、いびつな円を――もう一度、黒く、塗り潰した。
(そういえば……絵心も、無かったのだったな)
闇の中で、誰にも聞かれぬ、自嘲が漏れる。
だが。
このまま終わらせる気など――毛頭なかった。
ならば、どうする。
床の埃を掌で平らにならし、新しい図を描く。
一本の、糸。
それが、幾重にも絡まった、固い結び目。
怪異という有り様を、仮に――一本の糸が絡まってできた、結び目だと、しよう。
陰陽師は、この結び目を、霊力という名の刃で、断ち切る。
では――霊力を持たぬ、私はどうする。
指先が、描いた結び目の端を、つ、と、辿った。
この糸の、端を見つけ出し。
正しい順で、引き解いて――結び目そのものを、ほどいてしまえばよい。
解く。
その一語が――私の中で、異様な重みを持って据わった。
『名は、縛りなり』。
『形は、檻なり』。
相手を上回る力で、殴りつけるのではない。
怪異が『なぜ、そのような姿と、性質を持って、現れたのか』――その起源を暴き、その存在の拠って立つ矛盾を、正面から、突きつける。
因果のもろい継ぎ目を突き。
理という名の論理を編み上げて、怪異に、おのれの矛盾を悟らせ――自壊させる。
これならば。
霊力なき私にも、戦う術がある。
――と、そこまで考えて。
私は、次の壁に、ぶつかった。
(……待て)
指先から、すうっと、熱が引く。
なぜ、前世で培ったこの知識が――この世の怪異の起源を暴くことに、繋がるのか。
私は、こことは、まるで異なる流れの中で、民俗学を学んだ人間だ。
あちらの化け物と、こちらの化け物とが、同じ図で組み上がっているという保証など――どこにもない。
もし、両者が別物であるならば――この知識など、何の役にも立たぬ。
手がかりとなる辞書も持たず、見も知らぬ異国の古字を、読もうとするに等しい。
見出したはずの道筋が、根本から崩れる。
冷えた指先を、私は、ゆっくりと、握り込んだ。




