【四歳:無能の証明】〜土蔵〜
「ササメ、下がりなさい。……半兵衛」
期待は、していない。
見る、値打ちもない。
そんな侮りが、篝火の視線に乗って圧となって突き刺さる。
私は、黙って祭壇の前へと進んだ。
異なる世の記憶を持ち、老いた心を抱えた私が、この御神体に触れた時に何が起こるのか。
恐怖よりも、抗いようのない興が勝っていた。
表面をじっくりと観察しながら、その柔らかそうな塊へ躊躇なく手を伸ばす。
指先が、触れた。
(……冷たい。いや――違う)
微かに、私は眉をひそめた。
表は、爬虫のように冷たい。
だが、薄い皮一枚隔てた内で、どろりと熱を帯びた何かが、指の押す力に反するように蠢いている。
腐った肉の中に無数の蛆を飼い慣らし、無理やり脈打たせているような『間違った生き物』の感触。
虫酸の走るような嫌悪だけが、指先から這い上がる。
やはり、入れ物などではない。
これは――肉だ。
……。
…………。
何も、起きなかった。
ササメの時のような淡い光もない。
ぺた、ぺたと、角度を変えて幾度か触れてみたが何の応えもない。
肌を酔わせる、あの甘い気もこない。
私の心が向こうの干渉を拒んでいるのか。
それとも――この私が、この生き物の選ぶ条件に適わぬのか。
「……ふ」
背後で、短く息を吐く音がした。
「やはり、空っぽ」
その言葉が、線香の立ち込める部屋の静けさに冷たく響く。
「霊力もなければ、白繭様を惹きつける、芳香もない」
(霊力……。在るのか、そのようなものが)
「母上。これは、生き物としての――」
「厳蔵」
「は」
奥に控えていた厳蔵が、音もなく姿を見せる。
「その抜け殻を連れて行きなさい。……当面は、生かしておきます」
「は。……よろしいので」
「血筋だけは、竹中ですからね。いずれ、血を絶やさぬための器には、なりましょう。早く連れて行きなさい。儀式が、濁ります」
厳蔵の丸太のような腕に肩を掴まれ、強引に立たされた。
去り際。祭壇の脇に座るササメと目が合う。
姉は、恍惚の余韻も醒めやらぬ顔のまま、ひどく悲しそうな目でこちらを見ていた。
桜色の唇が声もなく――ごめんね、と、動く。
――謝ることなど、どこにもない。
だが、私たち姉弟の間に決して越えられぬ壁が築かれたことは、確かであった。
神に選ばれし、聖女。
見向きもされぬ、無価値な弟。
私は一切抗わず、ずるずると部屋から引きずり出される。
廊下に出ると、厳蔵は私の腕を乱暴に放した。
「……若様。部屋に戻って、大人しくしておられることですな。これより先は――奥方様に余計な望みなど抱かれぬことです」
吐き捨てるように言い、厳蔵は、奥座敷の重い扉を閉ざす。
海老錠の落ちる音が、胸の奥で、何かの切れる音と重なった。
薄暗い廊下に、ひとり取り残される。
常の子供であれば、ここで絶望し母の愛を求めて泣き叫ぶのだろう。
だが私は、涙の一滴も流さなかった。
悲しみなどない。
……いや。
そう、おのれに言い聞かせている、だけか。
理で蓋をしても、この未熟な肉の奥底で。
生みの親に存在を否まれたという事実が、軋み、ひびを入れている。
――だが。
(……結構。大いに、結構)
私は、悟った。
閉ざされた奥座敷の扉を、薄く笑って睨みつける。
神に愛されぬということは、この屋敷の仕組みから外されるということ。
ならば。
愛されぬこと、それ自体が『自由』の証ではないか。
とはいえ。
無力のままでは篝火の言う通り、いずれ竹中の家のために使い潰されるだけの生涯。
力が――要る。
霊力では、ない。
神頼みでも、ない。
まして、あの気味の悪いものに酔いしれることでも、ない。
この狂った信心の仕組みを根こそぎ壊すために『知識』という名の、確かな力が。
私は、小さな拳を握りしめ踵を返した。
向かう先は、自室などではない。
この二年、夜ごとの彷徨いで密かに見当をつけていた場所。
屋敷の北外れ。
埃を被ったまま打ち捨てられている『土蔵』の方角。
わが武器となるものは、そこにしかない。
親に見捨てられ、もはや誰の目も向けられぬ今この時こそが。
何者にも邪魔されず知識の刃を研ぐとき。
口の端に、己でも気づかぬほどの笑みを刷いて。
私は、ゆっくりと、歩き出した。




