【四歳:無能の証明】〜白繭様〜
あの幼い姉に守られた夜から、刻は、経った。
四つになる、晩春。
夢見月。
私は――竹中の家にとって、『人』として扱われるか、それともただの『道具』として使い潰されるか。
それを定める、選り分けの場へ、立たされようとしていた。
儀式が行われるのは、『奥座敷』。
屋敷の中心に座し、重厚な海老錠で閉ざされた、部屋である。
*
冷たい板の廊下を、篝火の背を追って、進む。
母屋の回廊を、中心へ、中心へと、辿る。
光は次第に絶え――四方を壁に囲まれた袋小路に、その座敷はあった。
逃げ場のない――屋敷の、心の臓。
扉には、呪符の束が板にびっしりと、こびりついている。
闇に溶けるように控えていた厳蔵が、ぬっと姿を現し、外扉の海老錠に、太い指をかけた。
ガチャリ、と、重い金音が、ひとつ。
錠が、落ちる。
厳蔵が、両手で扉を押し開けた。
軋みながら開いた扉の奥は――四畳ほどの、狭い、座敷。
窓ひとつなく、調度ひとつなく――ただ、奥の壁に、もう一枚。
固く閉ざされた、襖があった。
その襖には、外扉のような呪符はない。
代わりに、四方の縁にぐるりと、注連縄が回され、いくつもの紙垂が、力なく、垂れ下がっている。
錠も、閂もない。
ただ、襖一枚。
――それが、かえって、悍ましかった。
屋敷の一番外には、あれほど厳重な錠と呪符を掛けながら。
その一番奥、神の座のすぐ手前には――手で引けば開く、薄い襖、一枚きり。
まるで、外から入る者を阻むためではなく――内にあるものが、自ら出ぬよう、形ばかりに宥めているかのような。
篝火が、前室へ足を踏み入れる。
私も、続いた。
厳蔵は外扉の脇に控えたまま、敷居を跨ごうとはしなかった。
前室に満ちていた練香の匂いが――この狭い箱の中で、濃く、重くなる。
伽羅と、沈香。
その底に、何か、ひどく甘ったるい――腐れかけた果実のような、別の匂いが混じっていた。
そして。
襖の、向こうから。
――どろり。
――どろり。
聞こえる。
何か、粘り気のあるものが、ゆっくりと、巡る音。
拍を打って、規則正しく――まるで、巨大な何かが、襖一枚を隔てて息をしているかのような。
その音に合わせて、襖の紙垂が、ゆら、ゆらと、揺れている。
風など、どこにもないのに。
心の臓が、ひくついた。
育ちきらぬ脳ではなく――学者としての理性が。
この襖の向こうにあるものは、決して、ただの御神体ではないと、告げていた。
「……開けなさい、厳蔵」
篝火の、声。
外扉の脇から、厳蔵が目を伏せたまま――腕だけを、襖へ伸ばす。
決して、奥を見ぬよう、顔を、背けて。
その指先が、襖の縁に、かかった。
――す、と。
襖が、滑る。
甘く重い匂いが、堰を切って、どっと押し寄せた。
青白い光が、前室の闇を舐める。
ただ一つの灯りは、奥に灯された、二本の和蝋燭のみ。
ちろちろと不規則に揺らめく炎が――その部屋の中央に祀られた『それ』を、不気味に照らし出していた。
白木の、箱。
その中に――干からびかけた、巨大な繭のようなものが、鎮座していた。
*
大人の頭ほどもある、繭に似た塊。
それは、ただの虫の死骸でも、木彫りの御神体でも、なかった。
――微かに、脈打っていたのだ。
白く、ぶよぶよとした半透明の皮の下で、何かの液が巡り、どろり、どろりと、蠢いているのが、透けて見える。
(……なんだ……あれは)
以前、襖の家紋を見た折――あの六角の意匠から、私は、蜘蛛の網を思い浮かべた。
だが、いま目の前にあるものは、どう見ても、網を張る側の捕食者ではない。
丸く、無防備に、不気味なほど肥え太った――繭。
あるいは、蛹のかたち。
胸の内で、一つの、見立てを組む。
蚕は――『天の虫』と、書く。
古来、絹の糸を吐くこの虫は、お白様の信心にも見られるように、神聖なものとして崇められてきた。
ならば、あれは。
この家の異様な気のもとで、常を外れて肥え太り、尋常ならざる長い命を得た――蚕の、成れの果てか。
あるいは、人の知らぬ、何か別のものと蚕とが、絡まり合うて生まれた、化け物か。
――竹中の家は。
この巨大な蚕の神を祀り、それがもたらす『特異な恵み』を、独り占めすることで――その権勢を、保ってきた一族なのかもしれぬ。
そう思えば。
家紋のあの六角も、蜘蛛の網ではなく――より強固な、繭の編み目を図案に写したものと、解せた。
「……前へ」
篝火の、冷ややかな声が響く。
母は、祭壇の脇に、座していた。
常の着物ではなく、真白な斎服を纏い、得体の知れぬ威を放っている。
能面のように、何の色もない顔が、私たちを見下ろした。
「では――魂の、形を」
(……魂の、かたちだと)
「ササメ。お行きなさい」
「は、はい……」
ササメは、膝を震わせながら立ち上がり、祭壇の前へと歩み出る。
――整っている。
幼いながら、その横顔には、ゆくゆく人を狂わせるであろう、妖艶な美の兆しが、覗いていた。
姉は、火に飛び込む蛾のように、恐る恐る――その白木の箱へ、手を、伸ばす。
「心を無にして、繭に、触れなさい」
篝火に促され、白く脈打つ塊に、姉が、震える指先で、触れた。
その、瞬間。
母の胎の鼓動にも似た震えが、座敷全体を、揺るがした。
蝋燭の炎が一斉に青白く染まり――白繭様なるものが、淡い、真珠のような光を放つ。
ぶよぶよとした皮の毛穴から、極細の、銀の糸が、生き物のように、伸びた。
それが――ササメの指へ、手首へ、絡みついていく。
「あっ……」
小さく、甲高い声が漏れる。
その光景は――おぞましいはずなのに。
むしろ、神聖で、艶めいたものにすら、見えた。
神々しい。
神など信じぬ私が――そう、錯覚させられそうになるほどに。
――だが。
すぐに、頭が冷える。
ササメに絡みつく銀の糸は、白い肌を、内から照らすかのように輝かせている。
恐怖に引きつっていたその顔から――すっと、強張りが、抜け落ちた。
代わりに浮かんだのは、恍惚と、見紛うばかりの、面持ち。
(これは……ただの光では、ないな。あの糸に触れた途端、姉上の息が深くなり、目の色が変わった。――肌から、何かを染み込ませ、心を、甘く酔わせている。あの恍惚の、もと。あれは――糸か)
「素晴らしい」
篝火が、初めて、情を見せた。
薄い唇の端が吊り上がり、歪んだ笑みを浮かべている。
「白繭様が――お前の清らかな体を、欲しがっておられる」
篝火は立ち上がり、ササメの肩を抱いた。
「お前が笄年を迎え、当主となる、その日まで……」
その手つきは――我が子を慈しむ、ものではない。
会心の出来栄えの器を愛でる――狂った数寄者の、手つきであった。




