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【怪体新書】〜民俗学者、異世界で本物と出逢う  作者: 可和
第一章:竹中家の繭

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【二歳:夜の帳】〜 観測〜

 その言葉の真意を(かい)そうとした――まさに、その時。

 

 ――ズルリ。

 

 雨戸の、向こう。

 

 先ほどまで覗き込もうとしていた、板一枚隔てた、すぐ側で。

 

 何か、巨大で、重いものが、板を擦りながら這っていく音がした。

 

 風では、ない。

 

 獣の足音でも、ない。

 

 濡れた雑巾の束を、泥の上で引きずり回すような――摩擦の音。

 

 ――ズルリ……、ズルリ。

 

 その『何か』は、ゆっくりと縁側に沿って、動いていく。

 

 そして――私が覗こうとしていた、あの節穴の真正面で。

 

 ぴたり、と、止まった。

 

 ヒュッ、と、ササメの喉から、息の漏れる音が鳴る。

 

 姉は私の頭を胸に抱え込み、亀のように、床へ蹲った。

 

 肋骨の軋むほどの鼓動が、私の背に直に響く。

 

 ――スゥー……、スゥー……。

 

 ――聞こえた。

 

 節穴の向こうから。

 

 空気を、吸い込む音。

 

 ただの、呼吸ではない。

 

 獲物を品定めするような――吸う音。

 

 私の鼻にも、その穴を通って、匂いが届いた。

 

 古井戸の底に淀んだ、腐れ水のような。


 そして――()せ返るほど甘い、線香の匂い。

 

 ――ガリッ。

 

 不意に、雨戸を鋭いもので引っ掻く音。

 

 心の臓が、跳ね上がる。

 

 板一枚、挟んで。

 

 ――得体の知れぬ、何かがいる。

 

 ポタッ、と、一滴。

 

 黒々とした鼻血が、私の口を塞ぐ、ササメの手の甲へ、落ちた。

 

 育ちきらぬ脳が、限界を訴えた――しるし。

 

 (姉上は……気づいて、いないな)

 

 永遠とも思える――息を止めた、数瞬。

 

 ――やがて。

 

 ――ズルリ……、ズルリ……。

 

 気配が、動いた。

 

 重い腹を引きずる音が、ゆっくりと、遠ざかっていく。

 

 ――静寂。

 

 だが、ササメは動かなかった。

 

 私の口を塞いだ両手は、血の気が失せて白くなるほど、押しつけられたまま。

 

 「……あえうえ」

 

 かすかにもがくと、姉は、慌てて力を緩めた。

 

 (せき)を切ったような、深い、深い息が、漏れる。

 

 「……行った……。もう、いない……」

 

 ササメはその場にへたり込み、震える手で顔を覆った。

 

 指の隙間から、こらえきれぬ嗚咽が漏れ出す。

 

 「怖かったぁ……。うぅ、怖かったよぉ……」

 

 私は、ゆっくりと起き上がる。

 

 呆然と、その横顔を見つめた。

 

 「……あねうえ」

 

 小さな手で、その袖を引くと。


 ササメは、涙と汗でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、私の両肩を、強く、掴んだ。

 

 「半兵衛。お願い。約束、して」

 

 「……?」

 

 「夜はね、おそとを、見ちゃだめ。どれだけ音がしても、目を、開けてもだめ。お耳を、すませても、だめ」

 

 細い爪が、私の肩に食い込む。

 

 「夜は、とっても、こわいの。起きてると、見てると……おそとにいる『よるの神様』が、怒って。『食べ』に、来ちゃうの。……見つかったら、お母様も、誰も、助けてくれないの」

 

 ――神様。

 

 その言葉に滲んでいたのは、敬虔(けいけん)な信心、などではない。

 

 抗いようのない災いを前にした――諦めと、畏れ。

 

 私は——今しがたの、あの正体について。


 一つの、見立てを組み立てていた。

 

 この板戸は、守りのために、あるのではない。

 

 姉の言う『よるの神様』と、目を合わせぬことで――辛うじて保たれる、互いに踏み込まぬための、薄い隔ての板。

 

 こちらが『観る』という行いこそが――相手の『かたちを定める』引き金。

 

 ならば。


 曖昧に揺れていた闇の気配は、観る者の目と交わった、その刹那。


 確かな質量を持つ『実体』となりて、この屋敷へ入り込む、許しを得る。


 そういうことでは、ないのか。

 

 もしあの時、私が、あの穴を覗いていたら。

 

 最悪の招きを、自ら、差し出していた。

 

 「……わあった。やくそく、する」

 

 その見立てを呑み込み、拙い言葉で頷くと。

 

 ササメは、ようやく、ほっとした顔になり、私の体を抱きしめた。

 

 「よかった……。半兵衛、本当に、よかった……」

 

 冷えきった体に、姉のぬくもりが、じわじわと伝わってくる。

 

 その小さな背に、私は、短い腕を精一杯に回した。

 

 ――この夜、おのれの心持ちは改められた。

 

 私はどこかで、高みから見物を決め込んでいたのだ。

 

 だが――それは、思い上がりであった。

 

 この身など、生き物の連なりの、一番下に放り込まれた――か弱い、肉の一片に過ぎぬと。

 

 震えるこの小さな姉と手を取り合い、この家の仕組みに従う振りをせねば――明日の朝日すら、拝めぬ。

 

 遠くで、朝を告げる一番鶏が鳴くまで。

 

 縁側の冷たい床の上で、互いの鼓動を確かめ合うように――ただ、じっと、抱き合っていた。

 

 その鼓動だけが。


 何よりも――生きているということを、私に、実感させてくれた。

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実態を見せない恐怖が、五感、音、間を通して描かれていて、じわじわと湿った恐怖を感じました。 異世界だと思っていたら、もしかして古代日本……? そんな想像も膨らみました! これからどんな物語が展開されて…
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