【二歳:夜の帳】〜 観測〜
その言葉の真意を解そうとした――まさに、その時。
――ズルリ。
雨戸の、向こう。
先ほどまで覗き込もうとしていた、板一枚隔てた、すぐ側で。
重いものが、板を擦りながら這っていく音がした。
風では、ない。
獣の足音でも、ない。
濡れた雑巾の束を引きずるような、摩擦の音。
ズルリ……、ズルリ。
その『何か』は、ゆっくりと縁側に沿って動いていく。
そして、私が覗こうとしていた節穴の真正面で。
ぴたり、と、止まった。
ヒュッ、と、ササメの喉から、息の漏れる音が鳴る。
姉は私の頭を胸に抱え込み、亀のように床へ蹲った。
肋骨が軋むほどの鼓動が、私の背に直に響く。
スゥー……、スゥー……。
――聞こえた。
節穴の向こうから、空気を吸い込む音。
ただの呼吸ではない。
獲物を品定めするような、吸う音。
私の鼻にも、その穴を通って匂いが届く。
古井戸の腐れ水のような。
そして、噎せ返るほど甘い、線香の匂い。
――ガリッ。
不意に、雨戸を鋭いもので引っ掻く音。
心の臓が跳ね上がる。
板一枚はさんで、得体の知れぬ何かがいる。
ポタッ、と、一滴。
黒々とした鼻血が、ササメの手の甲へ落ちた。
育ちきらぬ頭が、限界を訴えたのだろう。
(姉上は……気づいて、いない)
永遠とも思える。息を止めた数瞬。
――やがて。
ズルリ……、ズルリ……。
気配が、動いた。
重い腹を引きずる音が、少しずつ遠ざかっていく。
だが――間を置いて、ズルリ、と、また一度。
まるで、こちらの様子を窺うような。
あるいは、名残惜しそうに立ち去りかねているような。
息を止めたまま、幾つ数えただろう。
十を数え、二十を数え。
やがて、音は完全に途絶えた。
それでも、私の口を塞いだ両手は白くなるほどに押しつけられたまま。
「……あえうえ」
かすかにもがくと、姉は慌てて力を緩めた。
堰を切ったような、深い息が漏れる。
「……行った……。もう、いない……」
ササメはその場にへたり込み、震える手で顔を覆った。
指の隙間から、こらえきれぬ嗚咽が漏れ出す。
「怖かったぁ……。うぅ、怖かったよぉ……」
私は呆然と、その横顔を見つめた。
「……あねうえ」
小さな手で、その袖を引くと。
ササメは、涙と汗でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、私の両肩を強く掴んだ。
「半兵衛。お願い。約束して」
「……?」
「夜はね、おそとを、見ちゃだめ。どれだけ音がしても、目を、開けてもだめ。お耳を、すませても、だめ」
細い爪が、肩に食い込む。
「夜は、とっても、こわいの。起きてると、見てると……おそとにいる『よるの神様』が、怒って。『食べ』に、来ちゃうの。……見つかったら、お母様も、誰も、助けてくれないの」
――神様。
その言葉に滲んでいたのは、敬虔な信心などではない。
抗いようのない災いを前にした、諦めと畏れ。
私は、あれの正体について一つの見立てを組み立てていた。
この板戸は、守りの為にあるのではない。
姉の言う『よるの神様』と目を合わせぬことで保たれる、隔ての板。
こちらが『観る』という行いこそが、相手の『かたちを定める』引き金。
——ならば。
曖昧に揺れていた闇の気配は、観る者の目と交わった瞬間に『実体』となりて、この屋敷へ入り込む許しを得る。
もしあのとき穴を覗いていたなら、最悪の招きを自ら差し出していた。
そういうことでは、ないのか。
「……わあった。やくそく、する」
その見立てを呑み込み、拙い言葉で頷くと。
ササメは漸くほっとした顔になり、私の体を抱きしめた。
「よかった……。半兵衛、本当に、よかった……」
冷えきった体に、姉の温もりがじわじわと伝わってくる。
その小さな背に、短い腕を精一杯に回した。
*
この夜、おのれの心持ちは改められた。
私はどこかで、高みから見物を決め込んでいたのだ。
だがそれは、思い上がりであった。
この身など、生き物の連なりの一番下に放り込まれた、か弱い肉の一片に過ぎぬと。
震える小さな姉と手を取り合い、この家の仕組みに従う振りをせねば朝日すら拝めぬ。
遠くで、朝を告げる一番鶏が鳴くまで。
縁側の冷たい床で互いの鼓動を確かめ合うように、ただ、じっと抱き合っていた。
その鼓動だけが。
何よりも生きているということを、私に実感させてくれた。




