【二歳:夜の帳】〜節穴〜
その戦慄を、胸の奥深くに秘めたまま――私は、二年の歳月を、生きた。
観れども、声には出さず。
思えども、面には出さず。
乳を含み、湯に浸かり、襁褓を替えられながら――私はただ、この「家」の輪郭を、ゆっくりと、描き上げていった。
そして――。
この体も、ようやく、二本の足で立つことを、覚えつつあった。
私に与えられた名は、「半兵衛」という。
竹中 半兵衛。
初めてその名の音と、文字の連なりとを解した時――揺り籠の中で、戦慄と苦い笑いを、抑えられなかった。
ただの、偶然か。
よりにもよって、この竹中という歪んだ家で。
生き延びるための計略を、巡らせねばならぬ私が――その名を、与えられるとは。
あまりに、皮肉な巡り合わせであった。
だが、今は――おのれの名のことよりも、考えねばならぬことが、あった。
私を取り巻く、この家の、人の有り様について。
ある日のことだ。
私が廊下で転び、膝から血を流した。
通りかかった奉公人の厳蔵は、うつろな目で私を一瞥し、無言で、通り過ぎた。
次いで現れた母・篝火は――私の流す血よりも、床板に落ちた血の染みを、不快そうに見下ろし。
『すぐに、拭き清めなさい。神聖な屋敷が、穢れます』
二才児の私に向かって、そう言い残し、去っていった。
ただ一人――篝火の目を盗み、小走りに駆け寄って。
私の傷口に、自分の小さな袖を押し当ててくれたのは。
四つになる姉、ササメであった。
――竹中ササメ。
この娘だけが、狂ったこの家で、唯一、人らしい揺らぎを残しているように見えた。
しかし――その揺らぎすら、ひどく、歪んでいた。
昼の姉は、四つの童とは到底思えぬほど、おのれを律し――まるで、篝火の写しのように、振る舞う。
なのに、私が覚つかぬ足取りで、暗い廊下を行くと。
ササメはいつも、小走りに寄ってきて、こう言うのだ。
『半兵衛、あぶないよ。こっち』
私が転ばぬよう、その手を、柔らかく握る。
小さな掌から伝わる、その温みだけが――この屋敷で、人がまだ人である、ただ一つの確かな印であった。
*
深夜。
私は、重い木綿の布団を跳ね除け、目を覚ました。
竹中の屋敷は、夜になると、その貌を変える。
昼のあいだは、奉公人たちの暮らしの物音に、巧みに覆い隠されている。
だが、日が落ちて静けさが訪れると――この家が隠し持つ本性が、壁の裏から、じわりと、滲み出してくる。
ぴちゃ……、と。
どこかで、ねばついた何かの、滴る音。
古い柱が、まるで肺のようにゆっくりと軋み、息をしている。
そんな、心地がした。
畳の藺草の匂いに混じって――甘く、腐れたような。
鼻の奥にこびりつく、獣脂の匂い。
ここは、人の住処では、ない。
穏やかな日々の、すぐ裏側に口を開けた――逃げ場のない圧が、そこにあった。
(……確かめねば、なるまい)
私は、よろめく足取りで、立ち上がる。
篝火も、厳蔵も。
日の落ちることを、異様なまでに、恐れていた。
陽が沈むや、戸という戸、窓という窓を、分厚い雨戸で塞ぎ。
決して、外を覗こうとはしない。
彼らは、『何』から逃げているのか。
いや――『何』を、招き入れまいとしているのか。
学者としての性が、幼な子の肉の発する怯えを上回っていた。
壁の向こうの、その『未知』を、この目で見届ける。
知らねば――いずれ、殺される。
ここは恐らく、そういう世界だ。
ぺた、ぺた。
素足の裏に、底冷えのする畳が張りつく。
幸い、私の寝間は母屋から離れている。
夜の見張りの目は、ここまでは届かぬ。
今なら――縁側の雨戸の節穴から、外を覗けるはず。
寝間と縁側とを隔てる障子に、手をかけた。
鼓動が、早鐘を打つ。
息が、浅い。
私の心が起こした、おびえではない。
まだ育ちきらぬ、この体が鳴らす――抗いようのない警鐘。
これ以上、進むな、と。
肉そのものが、叫びを上げている。
(……黙れ。知らねば、生き残る手立ても、打てぬ)
肉の反乱を、理で抑え込み――私は、縁側へと這い出した。
冷気が、薄い寝間着越しに肌を刺す。
縁側の、突き当たり。
そこに、外とこの屋敷とを隔てる分厚い雨戸が、一枚。
その雨戸に張りつくようにして――小さな『節穴』を探す。
――あった。
大人の腰ほどの高さに、豆粒ほどの、いびつな穴。
今のこの背丈では、爪先立ってようやく右の目が届く。
雨戸の枠に、両手をかける。
だが――妙、だった。
板が、ひどく、湿っている。
冬の、乾いた夜気の露ではない。
ねばついた湿りが、板の向こうから、木目を伝って――じっとりと染み出している。
震えるふくらはぎに力を込め、その穴へ、右の目を近づけようと――背伸びをした。
その、時――。
「……っ、だめ」
背後から、声を押し殺した鋭い悲鳴。
同時に、私の体は強い力で後ろへ引き倒された。
ドサリ。
無様に尻餅をつき、驚いて振り返ると――そこに、少女が立っていた。
白い、寝間着姿。
髪は乱れ、肩で、激しく息をしている。
――ササメ、だった。
姉は、蒼白な顔で私を見下ろしていた。
見開かれた両の目は、黒目が、おそろしいほど大きく広がり――華奢な全身が小刻みに震えている。
「あ、ね、あねうえ……」
呼びかけても、答えない。
ササメは、覆いかぶさるように抱きついてくると――私の口を、小さな両手で痛いほどに塞いだ。
その掌から、冷たい汗の匂い。
「しっ……静かに……半兵衛、静かに……」
耳元で、囁く。
「見ちゃ、だめ……。外を、ぜったいに、見ちゃ、だめ……」
「……?」
「目が、合うの……。のぞいたら――目が、合っちゃうの……」




