【零歳:望まれぬ出生】
泣き喚く声が自分のものとは思えぬほど遠くに響いていた。
手足の自由が全く利かない。
おのれが今、無力な赤子という器に収まっているのだと本能が理解する。
身じろぎ一つできぬ無力感は、精神が大人であるがゆえにかえって焦燥を煽り立てた。
鉛のように重い瞼を、辛うじて押し上げる。
霞む視界に映ったのは――古風な、日本家屋の天井板であった。
だが何かが違う。
木目が黒ずみ、異常なほどの湿気を吸って膨張していた。
ふと、視界の端が翳る。
薄暗い木目を遮るように、女が覗き込んできた。
綺麗な女であった。
歳の頃は、三十路の半ばだろうか。
抜けるように白い肌に、墨を引いたような細く長い眉。
結い上げた黒髪には一筋の乱れもなく、切れ長の目は涼やかというよりも冷たく研ぎ澄まされている。
その私を見下ろす眼差しには、慈しむような光は無かった。
――なるほど。予備、か。
脳裏に冷ややかな諦観が通り過ぎる。
この美しくも空虚な女の瞳を見た瞬間、私は産声を上げることを放棄し口を閉ざした。
ここで存在を不用意に主張すれば、私を予備と断じたこの女に「不要なもの」として処分されかねぬ。
代わりに微かに動く眼球だけを必死に巡らせ、この場の情報収集に努めた。
部屋の調度品、行灯の形状、女の着物の様式は江戸時代後期のそれに酷似していた。
文明は、少なくとも科学が支配する世ではないのだろう。
――視線を、ずらす。
部屋を仕切る重たい襖が視界に入った。
染め抜かれた家紋。
それを見た瞬間。私の眼は家紋に釘付けとなった。
六角形の雪の結晶の中に笹の葉があしらわれた意匠。
紋章学的に分類するならば「雪輪に笹」と呼ばれる風流な家紋である。
雪の結晶は豊穣の兆しであり、笹は冬の寒さにも耐える生命力を表す。
一般的な武家や商家であれば縁起物として好んで用いるだろう。
だが、人生の大半を怪異の解明に費やしてきた眼が、装飾に潜む欺瞞を告発する。
違う。
雪輪などではない。
あの六角形は、自然界の雪の結晶にしては線があまりにも有機的で粘着質すぎる。
あれは――網、か。
そして、内側に描かれた笹の葉に見える鋭利な曲線。
恐らく植物の葉脈ではない。
獲物を捕らえ、体液を啜るために折り畳まれた「節足動物の肢」の簡略化に見える。
蜘蛛の網の意匠。
古来より、蜘蛛は「天の虫」を害虫から守る益虫としても扱われる。
養蚕地帯に特有の、自然の摂理を利用した素朴な民間信仰。
ならば、この家紋は益虫としての蜘蛛への畏敬か。
いや、違う。
もっと貪欲で理不尽なモノへの原始的な「恐怖」と「服従」の宣言にも感じる。
この家は蜘蛛そのものを恐るべき神として祀っているのか。
あるいは、その蜘蛛すらも使役するような「何か」を隠蔽するための欺瞞か。
――ここは、どこだ。
私は息をすることすら忘れ、静かな戦慄とともにその「家紋」を睨みつけ続けていた。
本日もお読みいただき、ありがとうございました。
実は、皆様からのブックマークや下部からの★評価が、執筆を続ける最大のモチベーションになっています。少しでも面白いと思っていただけましたら、評価していただけると大変励みになります




