【零歳:望まれぬ出生】
泣き喚く声が、自分のものとは思えぬほど遠くに響いていた。
鉛のように重い瞼を、辛うじて押し上げる。
――古風な、日本家屋の天井板であった。
だが、何かが違う。
木目が黒ずみ、異常なほどの湿気を吸って膨張していた。
皮膚の表面には絶えずじっとりとした水滴が結露している。
身体は分厚い布に幾重にも包まれ、手足の自由が全く利かない。
己が今、無力な赤子という器に収まっているのだと本能が理解する。
拘束衣にも似た産着の中で身じろぎ一つできぬ無力感は、精神が大人であるがゆえに、かえって焦燥を煽り立てた。
ふと、視界の端が翳る。
天井の薄暗い木目を遮るように、女が覗き込んできた。
先ほどの声の主だろうか。
その見下ろす眼差しに、我が子の誕生を慈しむような光は感じられなかった。
――なるほど。予備、か。
脳裏に、冷ややかな諦観が通り過ぎる。
この美しくも空虚な女の瞳を見た瞬間、私は産声を上げることを放棄し、ピタリと口を閉ざす。
ここで己の存在を不用意に主張すれば、私を予備と断じたこの女に「不要なもの」として処分されかねぬ。
代わりに、微かに動く眼球だけを必死に巡らせ、この場の情報収集に努めた。
部屋の調度品、行灯の形状、女の着物の様式は、江戸時代後期のそれに酷似していた。
文明は、少なくとも現代の科学が支配する世界ではないのだろう。
――視線を、ずらす。
部屋を仕切る重たい襖が視界に入った。
染め抜かれた、家紋。
それを見た瞬間、私の眼は釘付けとなった。
六角形の雪の結晶の中に、笹の葉があしらわれた意匠。
紋章学的に分類するならば、「雪輪に笹」と呼ばれる風流な家紋である。
雪の結晶は豊穣の兆しであり、笹は冬の寒さにも耐える生命力を表す。
一般的な武家や商家であれば、縁起物として好んで用いるだろう。
だが、人生の大半を怪異の解明に費やしてきた眼が、その装飾に潜む欺瞞を告発する。
違う。
雪輪などではない。
あの六角形は、自然界の雪の結晶にしては、線があまりにも有機的で、粘着質すぎる。
あれは――網、か。
そして、内側に描かれた笹の葉に見える鋭利な曲線。
恐らく植物の葉脈ではない。
獲物を捕らえ、体液を啜るために折り畳まれた「節足動物の肢」の簡略化に見える。
蜘蛛の網の意匠。
古来より、蜘蛛は「天の虫」を害虫から守る益虫としても扱われる。
養蚕地帯に特有の、自然の摂理を利用した素朴な民間信仰。
ならば、この家紋は益虫としての蜘蛛への畏敬か。
――いや、違う。
もっと貪欲で、理不尽なモノへの原始的な「恐怖」と「服従」の宣言にも感じる。
この家は、蜘蛛そのものを恐るべき神として祀っているのか。
あるいは、その蜘蛛すらも使役する、より巨大な「何か」を隠蔽するための欺瞞か。
――ここは、どこだ。
私は息をすることすら忘れ、ただ静かな戦慄とともにその「家紋」を睨みつけ続けていた。
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