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【怪体新書】〜民俗学者、異世界で本物と出逢う  作者: 可和
第一章:竹中家の繭

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【零歳:望まれぬ出生】

 泣き(わめ)く声が――自分のものとは思えぬほど、遠くに、感じていた。

 

 鉛のように重い(まぶた)を、辛うじて、押し上げる。

 

 ――古びた、日本家屋の、天井板であった。

 

 だが――何かが、違う。

 

 木目は黒ずみ、おびただしい湿気を吸って、膨れ上がっている。

 

 肌の表には、絶えず、じっとりと、水気が滲んでいた。

 

 体は分厚い布に、幾重にも包まれ――手足が、まるで利かぬ。

 

 おのれが今、無力な赤子という器に収まっているのだと――肉が、悟る。

 

 (いまし)めにも似た産着の中で、身じろぎ一つできぬ無力さは。


 中身が大人であるがゆえに、かえって、焦りを煽り立てた。

 

 ふと、視界の端が、(かげ)る。

 

 薄暗い木目を遮るように――女が一人、覗き込んできた。

 

 先ほどの、声の主だろうか。


 綺麗な、女であった。


 歳の頃は、三十路の半ばだろうか。

 

 抜けるように白い肌に、墨を引いたような、細く長い眉。


 切れ長の目は、涼やかというよりは――冷たく、研ぎ澄まされていた。


 結い上げた黒髪に一筋の乱れもなく、まるで、絵師が筆で描いた美人画が、そのまま起き上がってきたかのよう。

 

 だが——その見下ろす眼差しに、我が子の誕生を慈しむ光は。なかった。

 

 ――なるほど。


 予備、か。

 

 冷ややかな諦めが、胸を、過ぎる。

 

 この、美しくも空ろな女の瞳を見た瞬間――私は、泣くことを、やめた。


 ぴたり、と、口を閉ざす。

 

 ここで、おのれの存在を迂闊に主張すれば。


 私を予備と断じたこの女に――『不要なもの』として、始末されかねぬ。

 

 代わりに、わずかに動く目だけを、必死に巡らせた。

 

 この場の、有り様を――探る。

 

 部屋の調度。


 行灯(あんどん)の、形。


 女の着物の、仕立て。

 

 ――いずれも、私の知る、江戸の世の終わり頃に、よく似ていた。

 

 少なくとも、この世は――科学の支配する世では、ないらしい。

 

 ――視線を、ずらす。

 

 部屋を仕切る、重い(ふすま)が、目に、入った。

 

 染め抜かれた、家紋。

 

 それを見た瞬間――私の目は、釘付けになった。

 

 六角の、雪の輪。


 その中に、笹の葉を、あしらった、意匠(いしょう)

 

 名を当てるならば――『雪輪に笹』と、呼ばれる、風流な家紋。

 

 雪の輪は、豊穣の兆し。


 笹は、冬の寒さにも耐える、生命の強さ。

 

 並の武家や商家であれば――縁起物として、好んで用いるだろう。

 

 だが――生涯の大半を、怪異の解明に費やしてきたこの目が。


 その飾りに潜む、欺瞞(ぎまん)を、告げる。

 

 違う。

 

 雪の輪、などではない。

 

 あの六角は――まことの雪の結晶にしては、線が、あまりに、ぬめり、粘りすぎている。

 

 あれは――網、か。

 

 その内に描かれた、笹の葉のような鋭い曲線も。

 

 おそらくは――葉の脈、ではない。

 

 獲物を捕らえ、その液を(すす)るために折り畳まれた――虫の、(あし)


 それを、簡略に写したものに見える。

 

 ――蜘蛛の、網の、意匠。

 

 古来、蜘蛛は『天の虫(かいこ)』を食い荒らす虫から守る、益虫として、扱われてきた。


 養蚕の地に特有の、自然の理を頼みとする、素朴な信心。

 

 ならば、この家紋は――蚕を守る、蜘蛛への畏敬か。

 

 ――いや。違う。

 

 もっと、貪欲で。


 もっと、理不尽な、何かへの。


 おおもとの――『恐れ』と、『服従』の、宣言にも感じる。

 

 この家は――蜘蛛そのものを、恐るべき神として祀っているのか。

 

 あるいは。


 その蜘蛛すらも、意のままに操る――より巨大な『何か』を、覆い隠すための、欺瞞か。

 

 ――ここは、どこだ。

 

 私は、息をすることすら忘れ。


 ただ、静かな戦慄とともに、その『家紋』を――睨み続けていた。

本日もお読みいただき、ありがとうございました。


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