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【怪体新書】〜民俗学者、異世界で本物と出逢う  作者: 可和
第一章:竹中家の繭

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予備

 ――無、ではなかった。

 

 意識が切れたと思った次の瞬間。

 

 奇妙な浮遊の中に私はいた。

 

 肉体は、ない。

 

 視覚も、ない。

 

 だが、私という核だけが。


 冷たく透き通った虚無の中を溶けもせず漂っている。

 

 脳が止まった後も在る、この核とは何だ。

 

 死してなお消えぬ意識の残滓か。


 それとも魂と呼ぶべき何かか。

 

 ならばここが、いわゆる霊界と呼ばれるものだろうか。 

 

 だが、宗教めいた飾りは一切なかった。

 

 三途の川も、お花畑もない。

 

 あるのは、途方もない量の何かが流れ渦巻く奔流(ほんりゅう)のみ。

 

 地鳴りのような音が四方八方から響き、光の粒が明滅(めいめつ)しながら川のように流れていく。

 

 誰かの、記憶。


 未練。


 歴史の、断片。


 柳田の常民概念(じょうみんがいねん)に通底するような『集合的無意識』の海。その概念に極めて近かった。 

 

 私は奔流に呑まれまいと、必死に自己の輪郭を保つ。

 

 この無機質な流れに溶けモノへと還元されるなど、あってはならぬ。

 

 ——私は、木崎数史郎だ。

 

 まだ何一つ満たされていない。

 

 そのとき、奇妙な匂いが漂う。

 

 在るはずのない鼻がひくつく。

 

 それは生前、いかなる採訪(さいほう)でも嗅げなかった匂い。

 

 濃い獣の臭気。

 

 鉄錆のような血の匂い。

 

 培(つちか)ってきた理(ことわり)を真っ向から拒む、知り得ぬものの香り。

 

 ――いるのか。

 

 魂が歓喜に震えた。

 

 探し求め、殺し尽くし、それでもなお出会えなかった『本物』が。

 

 ズズッ。

 

 不意に凄まじい引きの力を感じた。

 

 虚無の底の底から。


 何かが私を選び手繰り寄せている。

 

 底知れぬ何かが私の匂いを嗅ぎつけ、ねっとりと舌を這わせ、すくい上げようとするかのような。

 

 離せ――いや。


 離すな。

 

 私は矛盾した叫びを上げた。


 だが、抗う力など端から意味をなさなかった。

 

 引きずり込まれる。

 

 ぐるぐると回りながら堕ちていく。

 

 堕ちていく、その最中。


 一瞬だけ何かを見た。

 

 闇の奥に広がる歪な紋様を。

 

 六角。

 

 いや、あれは。網、か。

 

 世界の裏側に巨大な網が張り巡らされている。

 

 なんと——美しい。

 

 そう思った途端。


 意識の糸が途切れ、視界は白く塗り潰された。

 

 *


 熱い。

 

 狭い。

 

 生温かく粘りつく何かが全身に纏わりつく。

 

 肺が押し潰され息もできぬ。

 

 ここは、水の中か。

 

 いや、もっと粘りの強い生温かい液。

 

 全身の肌が分厚い膜のようなものに包まれている。

 

 ――胎の、中なのか。

 

 壁を通して伝わる鼓動が冷たく規則正しい。

  

 血の通った生き物の脈というよりは、時計の秒針のようである。


 その硬い針の刻みを掌に押し当てられていた。

 

 壁が激しく収縮する。

 

 ――産み月、か。

 

 私を外へ吐き出そうとしている。

 

 頭の骨が締めつけられ、固まらぬ関節が軋んだ。

 

 流されるままに狭い道を潜り抜けていく。

 

 そして、外の気が水に濡れた肌を叩いた。


 冷たい。

 

 息が、苦しい。

 

 重く淀んだ空気。

 

 湿った土と、古い黴(かび)と、むせ返るような白粉(おしろい)の匂いがする。

 

 「……また、男か」

 

 その声を聞いた瞬間。背筋を悪寒が駆け抜けた。

 

 ひどく冷ややかな女の声。

 

 母親、なのだろうか。

 

 「……まあ、いい。予備には、なるでしょう」

 

 予備。

 

 私は生まれ出た瞬間に、何かの部品として定められたのか。

 

 胸の内で声を立てて嗤った。

 

 面白い。

 

 あの老婆の呪詛が、今まさに形を持ったかのような歪みではないか。

 

 私は育ちきらぬ肺にありったけの空気を吸い込み。


 産声を上げた。

 

 その泣き声は反響し、誰かが気味悪く嗤う声にかき消されたような気がした。

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二周目読み始めました 二章ゆっくり待ってます(*ˊᗜˋ*)
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