予備
――無、では、なかった。
意識が切れたと思った、次の瞬間。
奇妙な、浮遊の中に――私は、いた。
肉体は、ない。
視覚も、ない。
だが――私という意識の核だけが。
冷たく透き通った虚無の中を、溶けもせず漂っている。
――脳が止まった後も、意識がある。
いわゆる――霊界、と呼ばれるものか。
だが、宗教めいた飾りは――一切、なかった。
三途の川も、お花畑も、ない。
あるのは――途方もない量の何かが、流れ、渦巻く、その奔流のみ。
地鳴りのような音が、四方八方から響き、光の粒が、明滅しながら、川のように、流れていく。
誰かの、記憶。
未練。
歴史の、断片。
柳田の常民概念に通底するような『集合的無意識』の海。
その概念に、極めて近かった。
私は、その奔流に呑まれまいと――必死に、おのれの輪郭を保つ。
この無機質な流れに溶け、ただのモノへと還元されるなど――あってはならぬ。
私は、木崎数史郎だ。
まだ――何一つ、満たされて、いない。
その時。
奇妙な、匂いが、漂う。
思わず、在るはずのない鼻が、ひくつく。
それは――生前、いかなる採訪でも、ついぞ嗅げなかった匂い。
濃い、獣の、臭気。
鉄錆のような、血の、匂い。
そして――もっと根の深い。
私が培ってきた論理を、真っ向から拒む――知り得ぬものの、香り。
――いるのか。
魂が、歓喜に震えた。
探し求め、殺し尽くし――それでもなお、出会えなかった『本物』が。
ズズッ。
不意に――凄まじい、引きの力を感じた。
虚無の、底の、底から。
何かが、私を選び――手繰り寄せている。
意図ある――選り分け。
まるで、底知れぬ巨大な何かが、私の匂いを嗅ぎつけ。
ねっとりと、舌を這わせ――すくい上げようとするかのような。
離せ……いや。
離す、な。
私は、矛盾した叫びを上げた。
引きずり込まれる。
ぐるぐると、回りながら――堕ちていく。
堕ちていく、その最中。
一瞬だけ――何かを、見た。
闇の奥に広がる、いびつな、紋様を。
六角。
いや――あれは。
網、か。
世界の裏側に張り巡らされた、巨大で、精緻で。
途方もなく、おぞましい――
そして――甘美な、捕食の構え。
なんと――美しい。
そう思った途端。
私の意識の糸が、ぷつり、と途切れ――視界は、白く、塗り潰された。
*
熱い。
狭い。
そして――とてつもなく不快なものが、全身に纏わりつく。
次に私が捉えたのは――肺を押し潰されるような、息苦しさ。
水の、中か。
いや。
もっと粘りの強い、生温かい、液。
全身の肌が、分厚い膜のようなものに、包まれている。
――ここは……胎の、中か。
壁を通して伝わる鼓動が――あまりに冷たく、規則正しい。
血の通った生き物の脈、というよりは。
巨大な、機械仕掛けの時計の、秒針のような。
壁が、激しく、収縮した。
――産み月、か。
私を、外へ――吐き出そうとしている。
頭の骨が、締めつけられる、激痛。
まだ固まらぬ関節の、軋む、嫌な音。
私は流されるまま――狭い道を、潜り抜ける。
そして。
外の気が、羊水に濡れた肌を、叩いた。
――冷たい。
――息が、苦しい。
重く、淀んだ空気。
そして――湿った土と、古い黴と、むせ返るような白粉の、匂い。
「……また、男か」
その声を聞いた瞬間――背筋を、悪寒が駆け抜けた。
――ひどく冷ややかな、女の、声。
――母親、なのだろうか。
「……まあ、いい。予備には、なるでしょう」
予備。
私は――生まれた、その瞬間に。
何かの、部品として――定められたのか。
胸の内で、声を立てて、嗤った。
面白い。
――ここは、地獄だ。
あの老婆の呪詛が、今まさに、形を持ったかのような――歪みではないか。
私は、まだ育ちきらぬ肺に、ありったけの空気を吸い込み――産声を、上げた。
その泣き声は――
反響し、誰かが、気味悪く嗤う声に。
かき消された、ような気がした。




