退屈な絶命
死とは、古い和紙を一枚、また一枚と剥がしてゆくのに似ていた。
視覚。聴覚。触覚。
世界と私とを繋いでいた感覚の膜が、音もなく剥がれ落ちてゆく。
*
平成十二年、晩夏。
岐阜県の、とある病院の一室。
シーツは汗でぬるく、首筋に張りついたまま剥がれない。
窓の外で、法師蝉が鳴いている。
あれが鳴き止めば、夏も終わるのだろう。
木崎数史郎、八八歳。
私は病床に横たわり、自身の肉体がただの物体へと還元されてゆく様を、他人事のように観察していた。
「……先生。先生、聞こえますか」
水底から響くような声が、鼓膜を揺らした。
最後の弟子の、高村だ。
四十を過ぎてなお抜けきらぬ学生じみた顔が、涙で無様に濡れている。
「……泣くな、高村。観察の邪魔になる」
喉から漏れたのは、枯れ木の擦れるような音であった。
高村は泣き笑いの顔で、骨と皮ばかりの私の手を強く握りしめた。
熱い手だ。
脈打つ血の流れ。生きた肉の熱。
その生の熱が、今の私には少しばかり疎ましく、そして、ひどく羨ましかった。
「先生、原稿……。『現代怪異総論』の最終章、校了しました。ご口述の通り、一字一句、違わずに」
「そうか」
「最高傑作です。これで、この世に満ちる怪の正体を、全て綴り終えました。先生は、何もかもを、ただの事実と歴史に書き換えられたのです。……もう、不思議は一つも残っておりません」
一つも残っていない、か。
高村の、涙混じりの宣告。
それが、胸の奥の空洞に、からん、と乾いた音を立てて落ちた。
目を、閉じる。
幼い頃、私は誰よりも妖怪が好きだった。
押入れの闇には何かがいると信じ、夜更けに練り歩く百鬼夜行へ、震えるほどの憧れと恐れを抱いていた。
だが――
私は、なぜ。
瞼の裏で、何かが、鳴き始める。
数十年前。
四国の、深い山奥。
犬神憑きの村があった。
むせ返る真夏の緑の匂いと、耳鳴りのする蝉時雨の中。
私は、憑き物筋として村八分にされ、生きながら葬られた人々の、血筋と暮らしを、徹底して洗い出していた。
求めていたのは、真実ではない。
理屈の通じぬ、本物の「呪い」の、存在証明であった。
人を狂わせ、血を吐かせ、村を恐怖の底に突き落とす――そんな「目に見えぬ犬の化け物」が、この日本の影に確かに潜んでいるのだと、この目で観測したかった。
だが、真相は、陳腐で、救いようのない、人の事情に過ぎなかった。
地下水脈から滲み出る、微量の重金属の毒。
近親婚を重ねた末に、血へと刻み込まれた、心の病。
そして何より、ひと握りの者が村の富を独占し、民の不満をそらすために仕立て上げた、差別の構図。
それらが絡み合い、犬神という、集団狂気の幻影を生み出していたに過ぎなかった。
集会所に村人を集め、分厚い調査報告書を叩きつけた。
お前たちの恐れる呪いなど、ただの鉱毒と、人の悪意に過ぎぬ――そう、白日の下に晒した日のことを、今も鮮明に覚えている。
『先生……っ、ありがとうございます……』
憑き物筋として石を投げられ続けた青年が、泥だらけの土間に這いつくばり、私の足にすがって号泣した。
『これで、俺たちは自由になれる……。妹も、ようやく嫁に行けます……。先生は、俺たちの恩人だ』
青年団の若者たちが次々と頭を垂れ、歓喜の涙を流していた。
社会のものさしで測れば、私は、村の因習を打ち破った英雄だったのだろう。
だが、若者の熱い涙に足袋を濡らされながら、胸を満たしていたのは、底のない失望だけであった。
嗚呼。
ここにも、化け物は、いなかった。
白日の下に晒したのは、正義などではない。
ただ、退屈な事実だけだ。
人助けなど、どうでもよかった。
狂喜する若者たちの輪から、ひとり外れた部屋の隅。
村人の恐れを煽り、長く供物を巻き上げてきた祈祷師の老婆が、濁った目で、私を睨んでいた。
その横を通り過ぎようとして、節くれだった手に、着物の袖を強く掴まれた。
線香の匂いの染みついた、老婆の口が動く。
『お前様は……神を殺したんじゃ』
老婆の歯の隙間から、呪詛が漏れた。
『綺麗な蝶の羽を、むしり取ってのう。ただの薄気味悪い虫けらに、変えてしもうたんじゃ。……この先、お前様の世界には、羽のないウジ虫しか、這うておらんよ』
その一言は、どんな呪いよりも深く、私の芯を、射抜いていた。
老婆の、言う通りであった。
羽のない、虫けら。
私がこの世に為したのは、つまるところ、それであった。
知ろうとすればするほど、ただ、其処に何もないことだけが、露わになる。
中身など――無かったのだ。
薄れゆく意識の中で、私は、静かに独りごちる。
心電図が、長く尾を引く音を立て始めた。
――それは、すべての謎を解き明かした勝利のファンファーレであり、同時に、生涯をかけてなお本物に出会えなかった、敗北の弔鐘であった。
「つまらない、人生であった」
私は、執着の筆を、静かに置いた。
本作のプロローグにあたる【晴親の苦悩】が、シリーズ作品として独立させています。
良ければ、そちらもお読み頂けると幸いです。
※どのタイミングで読まれてもお楽しみ頂けるかと思います。ではでは




