【一五歳:氷の決意】 〜火傷の痕〜
地鳴りのような太鼓が遠くから響く。
大祭の始まりを告げる沸騰の産声。
私は縁側に座り込み、その音を聞いていた。
一睡も、していない。
目を閉じることすら、できなかった。
いや。
眠る、眠らぬ以前に。
この頭は、いまだ、昨夜の、あの一室から、戻ってきていない。
*
昨夜。
すべては、終わっているはずだった。
——指の……。
一本も、あれの芯には届かなかった。
届かぬどころか、私は逃げた。
……逃げた、のだ。
あの暗がりの中から悲鳴を漏らし。
本能に身を任せ、ササメの部屋の前を、素通りし。
後ろも見ずに、ただ、怯えて。
腰を抜かして、逃げ帰ってきた。
*
「……若様」
背後で、小夜の声が震えていた。
ゆっくりと、振り返る。
その顔もまた、死人のように蒼い。
喉まで、出かかる。
――二人で逃げる、と。
もう、あれには、勝てぬ、と。
練り上げた逃亡の算段は。
あの、得体の知れぬものの前で根こそぎ崩れさった。
幾重にも重ねた知も、もはや何の意味もなさぬ。
だが――
「小夜。……予定通り、決行する」
その予定は、潰えた。
どこにも在りはせぬ、亡霊のような計。
それでも、そう言う他、なかった。
崩れていないと、まだ道はあるのだと。
この娘に――そして、誰より己自身に。
そう言い聞かせるより、ほかに。
目線を、下げる。
昨夜、小夜に調合させた目潰しの粉。
そして懐に、一本の太い縫い針。
ササメに使うはずだった針の毒を塗り替えたもの。
曼荼羅華を、致死の量ぎりぎりまで煮詰めた、即効の毒が、その先に塗ってある。
もはや、これを策と呼ぶことすら烏滸がましい。
神輿からササメが降りた、その隙に。
粉を撒いて周囲の目を潰し、厳蔵に毒針を突き立て、奪い、裏山へ走る。
獣のように野蛮で無謀な、策。
以前の私が見れば、愚の骨頂と嘲笑うだろう。
知をかなぐり捨て、毒針一本と、目くらまし程度の粉だけで、数千が雪崩れ込む祭りの中心から奪い取るなど。
だが、これしか、ないのだ。
どれほど無様であろうと、ササメを、この村から運び出す。
「若様……あたしも、お供します」
「……ああ。私の傍を、一歩も、離れるな」
小夜の細い手首を強く握る。
本来なら、この娘だけは先に裏山へ行かせるべきだ。
それは分かっている。
だが、いまの私には。
この子を……小夜を、己の目の届かぬ場所へ置くことのほうが――恐ろしい。
一瞬、目を離した隙に。
この村の熱が、小夜を攫っていくのではないか。
そんな埒もないものが、胸を掴んで離さぬ。
(……狂っているのは、私のほうかもしれぬ)
だが、もう。
何も、失いたくは、なかった。
*
朝靄が、晴れる頃。
私と小夜は、屋敷の前庭。
村と竹中の家とを隔てる、門のあたりの人混みに紛れ、息を潜めた。
周りを埋める村人どもの顔は。
もう、人の、それではない。
高ぶった熱。
酒と汗と、泥の匂い。
そして、白繭への底の知れぬ帰依が。
その目から、人の光を奪い去っていた。
この群衆は――顔のない数千ではない。
名を持ち、顔を持つ、ことごとくが。
いま一斉に人であることを脱ぎ捨てている。
その事実が、なぜか喉の奥を凍りつかせた。
*
――やがて。
群衆が海のように割れていく。
村の男どもに担がれた巨大な神輿が、屋敷の前庭へと押し出されてくる。
神輿の脇には黒い装束の厳蔵。
そして――笑みを浮かべた篝火。
太鼓が、止む。
数千の村人が一斉に地へ平伏す。
息を呑む音が、張り詰めた糸のように引き絞られる。
そして――神輿の御簾が、ゆっくりと引き上げられ、ササメが姿を見せた。
純白の無垢に包まれたその姿に、怯える生贄の影はなく、白粉を刷いた顔は能面のごとく凪いでいる。
精巧な雛が、見えぬ糸で吊り下げられている。そんな無機質な美しさだけが、そこにあった。
その白粉の下で——
何を、見開いた目で見据えているのか。
何を、抱いたまま行こうとしているのか。
私には、わからぬ。
最後まで、わからぬまま、だった。
「おおお……。白繭様が、お喜びに、なられておる」
「奇跡じゃ。今年の御神事は、これまでにない、真の、奇跡じゃあ」
平伏した村人どもの間から嗚咽にも似た歓喜の声。
そして——爆発だった。
数千の喉から地を揺るがす叫びが、いちどきに噴き上がる。
その熱が圧となって、私の肌を打った。
(……今、しかない)
懐の毒針を、指の間に挟む。
鳥居の陰から飛び出そうと、前傾に、地を蹴る。
狙うは、厳蔵の首筋。
距離にして、わずか十歩。
走り寄り、粉を放ち、針を打ち込み、ササメの手を引く。
――だが。
踏み出した右足が。
二歩目の地を蹴ることは、なかった。
「……が、ぅ……」
目に見えぬ分厚い鉛の壁が、四方八方から全身に激突する。
万力が体を締め上げ、骨という骨が軋みを上げて撓う。
膝が、地にめり込む。
泥の冷たさが袴を透して膝頭を刺した。
(……馬鹿な。足が、一寸も前に出ぬっ)
歩け。
歩かねば、ならぬ。
体じゅうの筋という筋に命じるが微動だにしない。
まるで見えぬ手のひらが幾百、幾千と空から伸びて。
私一人を地面へ押さえつけているような。
いや……手のひら、ではない。
――観測の、暴力。
数千にも及ぶ村人の神を神と信じる心。儀式を儀式と疑わぬ心。
それがいま巨きな意志となり、この場の理を塗り固めている。
その中で、たった一人。
神を信じず儀式を阻まんとする私は。
ただの、染み。
塗りたての壁に紛れ込んだ、一匹の羽虫。
数千の意志が。その染みを、その羽虫を、許さぬ。
この場から拭い去ろうと――四方から私を圧し潰しに、かかっている。
*
歩け。歩け。
顔だけを辛うじて上げる。
神輿の脇に立つ篝火と、目があった。
あの女が。こちらを見て――笑って、いる。
穏やかな、慈母のような笑み。
……なぜ、いま、笑う。
*
ドォン、と。
太鼓が轟いた、その刹那。
耳元で地を這うような声がした。
「……おい」
ぞわり、と。背筋を、氷の指が撫で上げる。
振り向くと。
人混みの隙間から、厳蔵が、ぬらりと顔を覗かせていた。
「げ、厳蔵……」
とっさに、袖の毒針へ手をやる――だが、指が強張って動かぬ。
「小夜。奥方様が、お呼びだ」
抑揚の、ひとつも、ない声。
「えっ……」
私の背に、しがみついていた小夜が声を漏らす。
「儀式の、最後の『お供え』を運ぶ。手が足りん。裏へ、来い」
お供え、だと。
なぜ、いま、小夜を。
儀式の供物に奉公人が駆り出されるなど。
そんな手順は、いかなる書にもない。
あの篝火の笑み――
「……待て、厳蔵」
奥歯を、噛む。
砕けそうな自我を、理で縛りつける。
まだだ。言葉で抗い、綻びを突け。
「その娘は……私の、所有物だ。右腕に、焼印も、ある。母上といえど、許しなく、私物を供物に転用する、権は――」
「若様の許しは、求めておりません。……当主代行の、命です」
厳蔵の太い腕は、私の理屈など羽音ほどにも介さなかった。
分厚い手が、小夜の華奢な肩を鷲掴みにする。
「っ……」
小夜の顔が歪む。
まだだ、まだ――言葉を探せ。交渉しろ。
だが、それより早く。
小夜が、自ら、私から離れた。
「若様。……すぐ、戻りますからっ」
ひどく上ずった声。
その目には、恐怖を宿している。
なのに、必死に笑おうとしていた。
「まて……小夜っ」
*
人波が動く。
白い法被の群衆が巨きな肉の壁となり。
小夜と私の間へ、なだれ込む。
――その時。
引きずられていく小夜の視線が。
群衆の、ある一点で、ぴたりと止まるのを私は見た。
(あれは……)
庄助の、老農夫。
その庄助が、いま。
他の村人と同じ濁った目で小夜を見ていた。
小夜の顔から——ふつり、と、何かが抜け落ちた。
*
遠ざかる、小夜の背中。
頭が、追いつかぬ。
算段も。知も。何もかもが足の下から崩れていく。
白い波に飲まれる、その寸前。
小夜が、振り向いた。
何かを伝えようと、している。
私は、目を見開く。
その唇の動きだけを、ゆっくりと追った。
い・き・て・く・だ・さ・い
そして。
最後に、笑った。
私を、案じて。精一杯の、笑顔を。
*
小夜が背を、向ける。
その、翻った袖口から。
ひきつれた、火傷の痕が――覗いて、消えた。
*
――爛れた、痕。
あの痕をつけたのは、私だ。
お前は私のものだと。あの娘を、縛った。
詭弁と知りながら。
傍に、置いた。
手放せなくて。
先に逃がすべきだと分かっていたのに。
この祭りに連れてきたのは。
この、人混みの、ただ中へ。
――私だ。
*
なのに。
あの娘は、笑った。
私を、恨みもせず。
ただ、私の生を、願って。
*
なにかが。
音を立てて。
「――アアァァァァァァアアアッ」
声では、ない。
言葉でも、ない。
胸を、裂いて。腹を、裂いて。
私という器の、底を、突き破って。
外へ噴き出る、何か。
吐いても、吐いても、追いつかぬ。
この、身の裡に渦巻く、すべてを。
吐き尽くす。
「――アアアアアアアアァァァァッ」
*
声が、嗄れ、潰れ、それでも。
息だけが、ひゅう、ひゅうと、喉を、鳴らしていた。
本作のプロローグにあたる【晴親の苦悩】が、シリーズ作品として独立させています。
良ければ、そちらもお読み頂けると幸いです。
※半兵衛のその後や、、あの娘が気になる方は是非!




