【一五歳:氷の決意】 〜底の底〜
本作のプロローグにあたる【晴親の苦悩】
良ければ、そちらもお読み頂けると幸いです。
※半兵衛のその後が気になる方は是非!
どれほどの間、そうしていたのだろうか。
嗄れ潰れた喉が、ひゅう、ひゅうと鳴るのを、私は他人の音のように聞いていた。
りん、と。
澄んだ鈴の音が、その息の音を貫く。
音に引かれるように、私の首だけが、ゆるりと巡る。
ササメが、拝殿の暗がりへと吸い込まれてゆく最中であった。
鈴の音とともに、白無垢の白さだけが、闇の中に細く、長く、尾を引いている。
止めろ、と思う。
だが足は動かず、声は出ず、手は指の一本すら持ち上がりはしなかった。
簪の銀が、最後にひとつ光り。
それも、消えた。
扉が軋みを上げながら、左右から闇を塞いでいく。
ごとり、と扉の嵌まる音が、足の裏から這い上がり、腹の底まで重く響いて抜ける。
その瞬間、総身を押さえつけていた見えぬ圧が、ふ、と緩む。
私は、地へ崩れ落ちた。
*
そこから先は、覚えが切れ切れになる。
群衆に揉まれたこと。
踏みつけられたこと。
誰かに殴り倒されたはずだが、それが誰の腕だったのかも定かではない。
ただ、人波を掻き分け、境内を這いずり回っていたことだけが、焼き付いて残っていた。
*
気付けば日が傾いていた。
私は地に伏したまま、何かを考えることを、とうにやめていた。
土の冷たさが心地よく、できることなら、このまま永遠に倒れていたいとも思う。
だが、その思いに逆らうように、指の先が、ひくりと動いた。
動かそうと思ったわけではない。
ただ、動いた。
そのまま指は地を掴み、震える腕に重みを預けながら、勝手に体を押し上げていく。
錆びついたように動かぬ膝へ力を入れ、私は、立ち上がっていた。
なぜ立ち上がったのか、分からない。
ただ、幽鬼のように足を引きずりながら、この体は屋敷の方向へと、歩き出していた。
*
私の足が止まった先は、勝手場の前だった。
煮炊きの匂いが、まだ残っている。
竈の上には、今朝、小夜が火にかけた鍋がそのままに蓋の下で冷えていた。
板間の隅に、目が行く。
草履が、揃えて脱いであった。
鼻緒の擦り切れた、小さな藁草履である。
昔、あの娘に頼まれて、私が鼻緒を挿げ直してやったものだった。
「……小夜」
その呼びかけに応えたのは、竈の燠が爆ぜる音。
私はしゃがみ込み、草履に手を伸ばす。
冷えている。
人の温みなど、初めから知らぬような冷たさだった。
膝に手を置きながら、ゆっくりと立ち上がる。
そして、おぼつかぬ足取りで、勝手場から、ゆらゆらと退いた。
どこへ向かうともなく。足の赴くままに歩く。
土蔵の戸を引いた。
裏庭を回った。
納屋を覗いた。
いない。どこにも、いない。
「…………ああ」
そうか。
私は、あの娘を探していたのか。
掠れた笑いが、ひとりでに口から漏れた。
*
小夜の部屋の前で、足が止まる。
襖を引くと、微かに土と日向の匂いがした。
三畳ばかりの薄暗い板間。
今朝、出たままの形なのだろう。
夜具は畳まれぬまま敷かれ、その上には夜着がめくれて皺を寄せていた。
壁際には小さな行李と、縫いかけの布がひとつ。
針が刺さったまま、縫い目は半分で止まっていた。
私はその布へ手を伸ばしかけて――
触れれば、おのれの内に巣食う何かが壊れる。
そんな、理屈に適わぬ感覚が過ぎり。
伸ばしかけた手を引き、部屋を後にした。
あの娘はもういない。
頭のどこかでは、とうに知っていた。
それでも手は次の戸を引き、口はその名を呼ぶ。
私は壊れたからくり人形のように、同じ動きだけを繰り返し続けた。
*
どれほど彷徨ったのか、最後に行き着いたのは、一枚の引き戸の前だった。
篝火の部屋。
障子の向こうから、盃の触れ合う音と低い笑い声が漏れている。
戸に手をかけようとした。
だが、その腕を持ち上げる気力すら、もう残ってはいなかった。
よろめいた体が前へと傾ぐ。
支えを求めて戸へもたれかかると、戸は音を立てて内へ倒れ、私もろとも畳の上へと崩れ落ちた。
頬を畳につけたまま、視界の隅に、盃を傾ける篝火の裾が見えた。
「……行儀の、悪いこと」
振り向きもせずに。
盃に目を落としたままの、波ひとつ立たぬ声。
その静かさが、畳に伏した私を、いっそう小さくした。
「小夜を……どこへ、やった」
「あの娘の、右腕にはな。私の、焼印がある。あれは……私の、所有物だ。母上といえど――」
言いかけて、舌が止まった。
所有物。
あの娘を守るための詭弁だったはずの言葉が、いま、この女の前で、この家の言葉として私の口から出ている。
買い、使い、費えれば燃す。
その帳面の言葉で小夜を語ってしまったという事実が、おのれの胃の腑をせり上がらせた。
篝火の唇が歪む。
煤でも払うような、軽い歪みだった。
「小夜なら。暇を、出しましたよ」
「……暇」
「ええ。遠縁が引き取ると。先ほど、村を出ました。お別れも言えず、残念でしたね」
「……見え透いたことを」
声が、震えた。
「私は、この目で見たのだ。厳蔵が……最後のお供えだと裏へ引きずっていくのを……なにをした。あの娘に」
「なにも。ただ、あれにとっても名誉なこと。役に、立てたのですから」
篝火の目が、部屋の隅へと流れる。
つられて、私もその先を見た。
着物が、あった。
つぎはぎだらけの粗末な着物が、きちんと畳まれて置かれている。
「……あ」
私は畳を這い、その布へ手を伸ばした。
温もりは、なかった。
争った跡を探す。
ほつれでも、裂け目でも、何でもよかった。
「探しても無駄ですよ。あれはもう。いないのですから」
――いない。
「……殺して、やる」
その言葉が、音として鳴ることはなく。
唇だけが、その形に動いた。
「声も、だせぬ子が。……厳蔵」
暗がりから現れた厳蔵に腕を掴まれ、着物を抱いたまま、ずるずると廊下へ引きずられる。
暗い廊下の中程で放り出されると、厳蔵は無言のまま去っていった。
暗い廊下に、一人。
着物だけを、胸に掻き抱く。
その着物からは、土と石鹸の匂いがした。
*
翌朝。
昨日の喧噪が嘘のように、澄んだ朝の光が境内を照らしていた。
私は群衆に混じって、その光の中に突っ立っていた。
奪われたこの場所に、もう一度、立っていた。
姉の身の上を、この目で見届けねばならぬ。
そう思ったような気もするし、まことのところは、体がまた勝手にここへ戻ってきただけなのかもしれなかった。
昨日、私を圧し潰したあの見えぬ壁は、今朝は指一本、触れてこなかった。
もう何も、阻もうとしていないからだろう。
ただ、拝殿の閉ざされた扉だけを、私は縋るように見ていた。
*
暫くして、扉が、重い音を立てた。
内側から押し開かれていく。
その内側の闇に、ひとすじ、朝日が差し込む。
光は見る間に広がり、その奥にいる、白いものを照らし出した。
「……皆様。見守ってくださり、ありがとうございます」
朝露のように澄んだ声であった。
村人たちが、一斉に平伏す。
その中でひとり、私だけが、立ったままだった。
ササメは、優雅な足取りで階を降りる。
一歩足を運ぶたび、光の粉が舞う。
私はその様を、ぼんやりと眺める。
気付くと、ササメは、私の前にいた。
「半兵衛」
そこにあったのは、よく知る姉の顔だった。
優しくて、少し甘えるような、あの顔。
「見て、半兵衛。私、立派に務められたかしら」
肚の内で、乾いた笑いが溢れた。
「……ええ。とても綺麗ですよ、姉上」
私は差し出された手を、両の手で押し頂く。
赤子のように滑らかで、歪みひとつない手。
その指へ額が触れるほど、深く、頭を垂れた。
ふと、その真新しい肌から、匂いが立つ。
土と、陽だまりの匂い。
知っている。
この匂いを、私は知っている。
――見当たらぬ、わけだ。
頬を、痛みを覚えるほどの冷たい汗が、ひと筋伝った。
おのれの手が、ひとりでに、姉の細い首へと、伸びかける。
だが、指が届くより早く、その熱は冷めた。
消えたのではない。
まだ、今ではないと。肚の奥深くに、籠もったのだ。
伸ばしかけた手は宙を彷徨い、力の入らぬまま、だらんと下りる。
「…………」
「半兵衛?」
「……今、この時より、私は京へ発ちます」
姉の顔を見ず、その綺麗な手だけを見つめて、告げた。
「そして、陰陽府の頂に立ち、必ず、この地に、姉上の、もとに……帰参致します」
「うん。待ってるわ。半兵衛。そのときを、楽しみに」
踵を返す。
二度と、振り返らなかった。
*
不思議なほど、心は凪いでいた。
いまはもう、何も求めていない。
取り戻せるとも、思っていない。
誰かが助けてくれるとも、この苦しみを誰かが分かってくれるとも、何ひとつ思っていない。
小夜は、戻らず。世は、何ひとつとして変わらない。
私はそれを、知ったのだ。
ふいに、遠い昔に聞いた老婆の声が、頭に響く。
今になって、まことの意味を伴ったか。
顔を上げると、空が高く、青く、澄み渡っていた。
その青の下で、私は、二度目の産声を上げた。
【第一章 竹中家の繭・完】
第一章、最後までお読みいただきありがとうございました。
第二章の準備のため、本編は長く見積もって約2ヶ月ほどお休みをいただき、8月頃からの再開を予定しております。
休載期間中の大きな励みになりますので、もしよろしければページ下の【☆☆☆☆☆】から、本作への評価やブックマークお願いいたします。
さらに深く怪異と謎に迫る第二章で、またお会いしましょう。引き続きよろしくお願いいたします。




